第3話:イヤホンの片方
夏休みに入ってすぐ、テニス部の合宿があった。
集合場所は、いつもの校門ではなく、駅から少し離れた市民体育館の前だった。
朝の坂道を、大きな荷物を抱えてひとり上がっていくと、
すでにバスの前には、部員たちの声がにぎやかに響いていた。
私は、バスの後方。
彼の斜めうしろの席を、そっと選んで座った。
少しでも、近くにいたくて。
でも、それがあからさまに見えないように――
窓の外を見たり、荷物のチャックを開けたり、
そんなことばかり気にしていた。
車内では、彼と仲のいい男子たちが、イヤホンのコードをくるくると指に巻きながら、音楽の話をしていた。
「これ、聴いた?」
「あー、それ、最近ハマってるやつ」
誰かが片耳を外して、コードの先を次に渡していく。
イヤホンが、手から手へ、輪のようにつながっていた。
「……聴く?」
隣の子から、小さく差し出されたひとつのイヤホン。
私はほんの少しだけためらってから、それをそっと耳にあてた。
「それ、俺のお気に入りなんだ」
不意に、彼の声が届いた。
その瞬間、鼓膜の奥がふっと熱を帯びた。
イヤホンのコードが髪に触れて、彼とどこかでつながっているような気がした。
何の曲だったかは、もう思い出せない。
けれど、彼の“好きなもの”が自分の中に流れ込んでくる――
その感覚だけは、今でも胸の奥に残っている。
夜、合宿所の談話室には、部員たちが集まっていた。
畳の匂いが、どこか懐かしくて、落ち着かない。
神経衰弱が始まって、男子の部屋のざわめきに、私はそわそわしていた。
彼もいた。
けれど目が合っても、私たちは言葉を交わさなかった。
ただ、カードの絵柄を見つめるふりをしていた。
私が手を伸ばしたとき――
指先が、彼の手の甲にふれた。
ほんの一瞬。
でもその短い時間が、永遠のように長く感じられた。
どちらも、すぐに手を引っ込めた。
何も言わず、笑いもしなかった。
けれどきっと、どちらの胸の奥でも、
音を立てて鳴っていたものが、あった。