7限目
「……な、んだコレ?」
目の前に突如として現れた炎に、火登はただ立ち尽くすばかりだった。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ……!』
しかし、そんな火登の動揺をあざ笑うかのように、灰殻は咆哮を上げた。そして、その巨大な体躯を炎の中に投げ込み、猛烈な勢いで突進してくる。炎は灰殻の全身を包み込む。
「ッ!」
火登は迫りくる熱に、息をのむ。
思わず目を瞑った火登の耳に、ぽつりと静かな声が届いた。
「……だから嫌なんだ」
凛冽の低い声が零れると、空気が急激に冷え、凍てつく気配が肌を刺した。
火登は目を開けた。
――紅い奔流が消えている。
気づけば炎は消え、突如として巨大な氷壁がせり上がっていた。それが灰殻とぶつかる。
バリンッと音が響いたその瞬間――爆風が起き、火登は目を開けていられず、腕で顔をかばった。風が唸り、衣服を揺らす。風に耐え切れなくなった火登は尻餅をつき、やがて静寂が訪れる。
「痛み思い出しただろ」
呆れたような、それでいてどこか安堵に似た笑みが、凛冽の声に滲んでいた。
「さっき、お前は体が熱くなったって言ってたけど――俺は、心がおかしくなったとき身体が冷たく感じたよ」
火登の視界の端に光が見える。氷晶の欠片が雪のように降り注ぎ、世界は一瞬、静かな凍てつきに満たされた。透明な欠片が、世界の温度を静かに変えていく。
「それからなーんにも感じなくなった。意味がないって、慣れたんだ」
何度助けてくれと思っても、救いの手は凛冽には届かなかった。絶望を繰り返すと、人は“期待すること”すら忘れてしまう。無力であることに慣れてしまった人間は、戦う力を「持たない」のではなく「持てなくなる」
「学習性無力感って言うらしいよ。何をしても無駄だって思い込み続けると……ほんとに、何もできなくなってくるんだってさ」
雪のように降り注ぐ小さな氷の欠片がきらきらと光る。凛冽はそれを暫く見つめてから口を開いた。
「心が麻痺してんの。ブラック企業にしがみついて、抜け出せない人と同じ。……俺、まだ学生なのにな」
冗談めいた口ぶりとは裏腹に、彼の目は笑っていなかった。ふざけることで、自分の痛みを“茶化す”ことで、凛冽は自分を守っているように見えた。
「逃げること自体は悪じゃない。自衛の手段だ。お前にはなんでも出来るようになってほしくない。そう思った。だから許すんだよ」
その言葉に、火登の中に張り詰めていた何かが崩れた。こらえていた涙が堰を切ったようにあふれ、嗚咽が胸の奥からこみあげる。
「……ごめん……っ、ごめん、ごめんっ!」
震える声で謝る火登を、凛冽はじっと見つめた。
「謝れるだけマシだ。あんたは化け物じゃない。……だって、“化け物”がそう言ってるんだぜ?」
そのひと言で、心の蓋が外れた。火登はしゃくりあげながら、繰り返し、繰り返し、謝った。ただ傍観していた自分を、そして何より、最後に凛冽を傷つけてしまったことを――心の底から悔いていた。
「うああああああああーーー!! ごめんんんんん!!!」
凛冽はその咆哮のような叫びにも無表情のまま耳をふさぐ。
「うわ、うるさ。さっきより泣いてるじゃん」
「だって……!」
「泣くほどのことじゃないだろ」
淡々とした口調。それが逆に、火登の涙を止められなくさせた。必死に涙を止めようとする火登に凛冽は「でも」と眉を下げる。
「……そうやって泣けるあんたが、ちょっと羨ましい」
やっぱり俺、化け物なんだろうな、なんて自嘲したその瞬間――火登の目から、涙がダバッと噴水のようにあふれた。
「ギミ゛バ、バゲモ゛ノ゛ジャ゛ナ゛イ゛カ゛ラ゛ァ゛!!」
泣きじゃくりながら叫ぶ火登の前で、凛冽はすっとしゃがみ、目線を合わせて首をかしげる。
「……泣きながら叫ぶと、言葉って全部濁点に聞こえるんだな。初めて知った」
凛冽はぽつりと呟いた。その声音はどこまでも平坦で冷たく聞こえる。けれど、そこにはどこか人間らしい“あたたかさ”もあると火登には感じられた。
「あんま見ないでほ゛しいがも゛!」
「なんで? 辛いって泣けるのは立派なストレス処理だろ」
凛冽の淡々とした観察に、鼻声で火登は問いかけた。
「……そういうの詳しいよね」
「調べたからな」
「……そっか」
凛冽が視線を少しそらすのを火登はそっと見上げた。彼はずっと変わらず感情の起伏が乏しい。最初からそういう性格だったのかを火登は知らない。だからこそ知りたいと思う。本当の彼がどこにいるのか。
火登は零れる涙を袖で乱暴に拭った。
「それにしても……よくそんなに出るな。涙腺の構造、俺と違うんじゃないか?」
「君も僕も人間でしょうが」
「ふーん。ほんとにそう思ってる?」
「ほんとだってばぁ!!」
自己否定をする凛冽に火登が声を張ると、凛冽は一拍置いて目を閉じた。
「……『感情的な言葉は本音の断片』って本に書いてあったな」
ふいに呟いた凛冽の一言に、火登は首をかしげる。
「どうしたの?」
「……いや」
凛冽はゆっくり首を振って目を開ける。
「ま、あんたもこれから“化け物”を飼っていくことになる。あんま考えすぎんな。またいつ爆発するか分かんねぇし」
「え、化け物?」
「灰殻が生まれた人間は、簡単には元に戻れない」
火登の喉が、ごくりと鳴る。
「……また、あんなのが生まれるかもしれないってこと?」
「そ。流石に心に絆創膏は貼れねぇだろ。垂れ流しながら自然治癒だよ」
火登は息を呑むようにして、目を伏せた。
「そ、そんな……」
「だから俺たちは向き合う戦い方を知らないといけない」
「向き合う、戦い方」
凛冽が頷く。
「飲み込まれるなよ。飼いならせ。……それが、俺たちが人として生きられる道だ」
凛冽が立ち上がり、座り込んだままの火登を見下ろす。太陽が沈んだあとの空は、月が闇を照らす道しるべとなってそれぞれを照らしている。
「……不安なら、俺を呼べ」
凛冽が手を差し伸べる。雲間が影と光を揺らす。それはまるで心の内のように、凛冽の手を震わせていた。
「俺も、ひとりは怖いんだ」
月が雲に隠れ、凛冽の表情が闇に溶けた。その瞬間、火登の胸に何かが灯る。
「……呼ぶよ」
静かに、けれど聞こえるようにはっきりと、闇の中に向かって火登は告げた。
「何度でも。今度はちゃんと手を掴むから、だから……」
火登は凛冽の手をしっかりと握った。もう冷たさには驚かなかった。ただ、その冷たさの奥に、確かに熱があることを知った。凛冽の手を借りて、火登は体を起こし足を地につけた。
「本物の化け物に言ってやるんだ」
彼が差し出した手は、確かに火登を支えてくれた。だから今度は自分もそうありたいと強く思った。握ったままの手に力を込めた。逃げ出したくなるような過去に、それでも向き合う覚悟を込めて。
「――どういう神経してんの、ってさ」
絶望に沈んだ夜の中、火登のまなざしには、希望が宿っていた。
「だからまた明日、学校で会おうね!」