6限目
月明かりに照らされた屋上にソレ――灰殻は現れた。
全身から黒煙を撒き散らし、目のような場所から涙の様に滴を落として地面を黒く染めている。化け物としか言いようのない、膨れ上がった肉塊のような異形。それが、屋上の入口で蠢いていた。
「あぁなると見境なく人を攻撃してくる」
灰殻はキョロキョロと何かを探すような動きをしている。扉を吹き飛ばした苛烈さとは裏腹に、酷く緩やかな動きをする灰殻を一瞥してから、凛冽は火登に視線を寄越した。
「そういうことだから、俺があいつを相手にしてる間にお前は帰れ」
「帰れ!? あんなの見て帰れると思う!?」
「思う。帰れ」
「む、無理無理! それに帰るにしてもあいつがいる所通らないと帰れないよ!」
「……確かに。じゃあちょっと待ってろ」
腕を回して灰殻に向かっていく凛冽に、火登が咄嗟に背中の服をぐっと引いた。
「ッ待って!」
「ゥグッ…………何?」
服で気道が締まり、凛冽は苦しそうな声を出す。凛冽は肩越しに火登を見た。
「君ひとりでどうにかする気なの!?」
声がひきつる。火登は灰殼を指しながら、必死で声を絞り出した。
「そうだけど。何か問題あんの?」
当たり前のように一人で背負おうとする凛冽の背中は、火登にはどこまでも強く、そして痛ましいほど脆く映った。その姿に胸が締めつけられ、火登は気づけば掴んだ手に力がこもっていた。
「あれってさぁ、謂わばお前の心が具現化してんの。で、俺はそういうのと向き合う術を学んでる。……でもお前は?」
そこにあったのは、無知ゆえの侮蔑ではない。ただ純粋な、疑問の眼差しだった。
「で、でも、せめて誰かに助けを……!」
「化け物がいるから助けてくれって? それこそ無理だろ。言っても一緒」
凛冽は首を振る。
「助けてって言っても、誰も来てくれねぇよ」
「ぁ…、」
「……俺に期待を思い出させるな」
火登の喉がひくりと動く。言葉が喉の奥で詰まった。
苦しかった。けれどそれは、灰殻のせいじゃない。凛冽の言葉が、自分の奥に沈めていた何かを暴いたからだ。
そうやって自分を誤魔化して、ずっと一人で戦っていた。火登は凛冽が、どれほどの痛みを抱えていたのかが、今ようやく分かった気がした。
灰殻がやっと標的を見つけたようにゆっくりと火登たちの元へ近づいてくる。濃い黒煙をまといながら、じりじりと迫ってくるその圧に火登は恐怖で一歩引き下がった。
凛冽はそんな火登の様子を一瞥し、どこか安堵したように小さく息を抜いて灰殻へと向き直った。
「誰も助けてくれない。だったら最初から一人でいい。……その方が、楽だから」
その向けられた背中に、火登は境界線を感じた。
強がりでもなければ、ただの虚勢でもない。痛みに慣れた者だけが語れる、諦めにも似た静けさだった。
火登は気づいた。凛冽は、自分のことを化け物だと思っている。あの異形のように、自分も人ではないと。そう信じ込まなければ、生きてこれなかったのだ。
……それを、信じ込ませたのは誰だ?
火登の胸に、鋭い痛みが走った。
そうでもしないと、彼は壊れてしまっていた。そうやって自分に言い聞かせないといけない程、思い知ったのだろう。
そうさせてしまったのは――弱虫で化け物を内に秘めた僕たちだ。
火登は手を強く握った。
「お前ならこの意味分かるだろ」
「……」
火登は何も言えなかった。
見て見ぬふりをしていた。傷つきたくなくて、巻き込まれたくなくて、知らないフリをした。被害者の顔をしながら、実際には何もしてこなかった。
(僕は……自分を守るために、彼を“傷つけてもいい人”にしてたんだ)
逃げれば日常は守れる。でも、それは「何も変えられない自分」として生きていくということだった。
彼を“化け物”にしたままで、自分は“普通”のままで。
被害者だけが傷ついたと主張できる権利があるのに、巻き込まれている僕らも被害者だといつの間にか権利を主張していたのだろうか。
「今日の事は忘れな。そんでいつも通りの明日でも迎えろ。それがお前の逃げ道だ」
その優しさは、酷だった。
凛冽の問いは、感情のない声だった。だがその冷静さの奥に、かすかな希望があるようにも思えた。火登が何かを選び取ることを、ほんの少しだけ願っているような。
火登は、震える手で胸を押さえる。早鐘のような鼓動が指先に伝わってくる。
――まだ生きている。
見なかったことにすれば、きっと何事もなかったように日常は戻る。でもその日常は、“何も変えられなかった自分”のままだ。
いつも思っていた――『誰か、彼を助けてあげて』と。声に出す勇気はなかったけれど、心の中では誰かの手を待ち続けていた。彼も、きっとそうだったのだ。
『誰かに助けを求めて無視されて傷つくくらいなら、最初から一人でいた方がマシ凛冽の言葉は、そんな生き方を選んできた重みだった。そうでなければ傷つくことに一人が楽だなんて知っているわけがない。
向かい合うふたり。火登の視線が、凛冽の背後にある灰殻を捉える。
逃げたい。怖い。目を背けたい。
だけど、それはもう――、
灰殻が突風の様に襲いかかってくるのが見えた瞬間、火登の身体が熱を帯びた。
「嫌だッ!」
叫ぶと同時に、火登は凛冽に飛びついた。火登の腕の中で、凛冽は小さく息を呑んだ。その身体は、氷のように冷たかった。火登は、それが悲しくて、せめて少しでも自分の熱を分けたくて強く抱きしめた。
ふたりの体が地面に転がるように崩れ落ち、攻撃を避けられた灰殻がフェンスにぶつかり激しい衝突音がした。
「もう……自分を守るために誰かを見捨てるのは、嫌なんだ!」
声は震えていたが、思いはもう揺らがなかった。
その叫びは、取り戻せない。けれどもう、それで良かった。小さな切っ掛けで良かった。だってあとは勢いだけでいい。
ジェットコースターみたいに、乗るまでが怖いだけ。あとはただ、終わりが来るまで、しがみついていればいい。思い出として語れる人になりたいから。
人を傷つけたことが苦しいだけじゃない。助けたいと思っていたのに、結果としてその想いすら裏切ってしまった――そのことが、いちばん辛かった。
足が震える。けれど、ぐっと拳を握って立ち上がる。そして凛冽を守るように一歩、前に進んだ。
「は」
背後から凛冽の呆然とした声が聞こえた。
黒煙がゆらりゆらりと揺れてフェンスから離れる。火登は手を広げた。
「君が助けてって言えなくてもいい。だったら僕が――君を、見捨てない!」
火登が声を張り上げた。その瞬間、灰殻が明確に火登へと向きを変える。まるで「呼ばれた」と言わんばかりに。
――もう弱さに負けたくない。
その一心で、火登は灰殻と対峙した。
火登の胸の奥で、熱が再び膨れ上がる。
さっきのような苦しさではない――内側から、静かに燃え上がる意志のような熱だった。
「君を……一人で戦わせない!」
ごう、と空気がねじれる音とともに、真紅の炎が二人を守るように壁となって現れた。
ただの熱ではない、感情そのものが燃え上がるような感覚。
火登の胸の奥に宿ったその熱が、世界の色さえ変えていく。