表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

5限目

「“加害者”って言ってくれって思ってんだろ」

「……っ」


 火登は息を飲んだ。今まで彼の声を聞いた中で、一番冷めた響きだった。


「そうすれば、お前の中の罪悪感が罰を受けたことになって、ちょっとだけ楽になる……そう思ってる?」

「ち、違……っ」


 火登は咄嗟に立ち上がったが、否定の言葉は最後まで出ず、かすれて消えた。


「……まぁそう言うわな」


 凛冽はため息混じりに言った。


「そうやって自分の痛みを意味あるものにしようとするのも、ストレス反応の一つだもんな」


 凛冽の冷たさは少し和らいで見えた。ただ静かに、火登の中にあるものを見抜いているような目だった。


「知ってるか? ストレスってさぁ大きく分けて3つに分類されんの」


 一拍、間を空けてから、凛冽は指を折って数えた。


「たとえば不安とか、怒り、罪悪感みたいな心理的反応。動悸、異常な発熱、悪寒による震えの身体的反応。で、最後が、イライラして人に当たったり、ストレス場面からの回避といった行動的反応」


 凛冽の口調は淡々としていたが、火登には、その奥に彼が知っている遠い苦みがにじんでいるように聞こえた。


「これ全部、ストレスの現れ。で――お前にも、それが出てた」


 火登は顔を伏せた。思い当たる節が、あまりに多すぎた。


「教室で見てた時も思ったよ。『あぁ、苦しそう』って。人間、楽していきたいもんな」


 火登はぐっと唇を噛んだ。その言葉が胸に突き刺さる。


「別にいいよ。“加害者”ってラベルを貼って楽になれるのなら、勝手にそうすればいい」


 まさに凛冽の言う通りだった。見えないフリをして、知らないフリをしていたくせに、あの教室で彼らが視界に入った瞬間から、凛冽に対する過去の言動を思い出しては苦しんでいたのだ。

 自分を責めてほしかった。そうすれば、他人のふりをしていた過去の自分が許される気がした。

 そんなわけがないと分かっていても、火登はそう思わずにはいられなかった。


「おい、その顔やめろ。俺がいじめてるみたいだろ」

「ぁ、…………ごめん」

「はぁ。こういうタイプって、なりやすいんだよなぁ」


 凛冽がふっと空に視線を向ける。まるで、何かを思い出すように。


「……?」


 火登もつられて空を見上げた。

 気づけば、空はオレンジを呑み込み、紫に染まりつつあった。もう間もなく、夜がすべてを覆うだろう。


「お前さ、さっき体がおかしいと思わなかったか?」


 空から視線を戻した凛冽の言葉に火登は逡巡の末、ふと感じていた違和感をぽつりと呟いた。


「熱が出たみたいだった」


 教室に足を踏み入れたとたん、心臓がドクドクとうるさく鳴り出し、体に異変が生じた。顔が熱を帯び、汗が噴き出し、頭の中はぐるぐると同じ考えを繰り返す。ずっとまともに物事を整理できずに痛みを繰り返していた。

 それまでは、なんともなかったはずなのに――。


「お前のそれはストレスで自律神経がぶっ壊れたんだ」


 火登の背中に、じわりと冷たい汗が滲む。


「自律神経ってよく聞くアレ?」

「そ。呼吸や心臓の鼓動、消化、体温――そういうのを“勝手に”調整してくれる神経だよ」


 火登は無意識に自分の胸元へ手をやった。そこには、先ほどまで暴れていた鼓動の名残がまだ感じられる。

 言葉は知っていても深く考えたことがなかった火登は、まさか自分が対象になっていたとは思わず驚いた。


「24時間、365日。自律神経ってのは、生きている限り、勝手に働き続けてる」


 凛冽の言葉を、火登は必死に追った。

 呼吸、鼓動、消化――そういった体のすべてを、無意識のうちに調整している神経。意識しなくても、ちゃんと命を守ってくれている、その存在。

 なんとなく覚えていたものが、当事者になって初めて知識として腑に落ちていく。


「だから“自律”神経って言うんだ。生きてる証みたいなもんだよ。だけど――」


 凛冽の声が低く、重みを帯びた。

 夜を告げる深い色が、世界の輪郭をゆっくりと溶かしていく。その中で、凛冽に影が落ちていった。


「ストレス、睡眠不足、ホルモンバランスの乱れとか色々。そういうのが積み重なると、自律神経はズレていく」


 地面に落ちた影は静かに重なり合い、まるで人と人との境界すら溶かしていくようだった。その中で、凛冽だけが一人、変わらずそこに佇んでいる。


「それが、自律神経失調症ってやつ」


 その言葉が夜風に乗って静かに火登の耳に届いた。

 火登は夜の訪れが怖く感じた。言葉では言い表せない漠然とした不安が、じわじわと体の内側から広がっていく。


「で。それが日常生活に支障を来し、悪循環に陥ってしまうと、人は耐えられなくなり――灰殻(ストレッサー)。すなわちストレスの塊が生まれる」


 凛冽の声が消え、しんとした屋上に夜の気配だけが漂った。

 そして次の瞬間――ガアアアアアンッ!


 凛冽の言葉と同時に、屋上の分厚い鉄製の扉が凄まじい音を立てて吹き飛ぶ。

 金属が悲鳴を上げ、コンクリートが砕け散るような轟音。

 扉は二人の間を通過し、フェンスをグシャァ! と捻じ曲げて止まった。

 その強烈な衝撃が突風となって、二人の制服をはためかせる。


「で、あれがそう」


 凛冽が親指で指す先――そこにいたのは、教室で見た“黒い塊”だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ