5限目
「“加害者”って言ってくれって思ってんだろ」
「……っ」
火登は息を飲んだ。今まで彼の声を聞いた中で、一番冷めた響きだった。
「そうすれば、お前の中の罪悪感が罰を受けたことになって、ちょっとだけ楽になる……そう思ってる?」
「ち、違……っ」
火登は咄嗟に立ち上がったが、否定の言葉は最後まで出ず、かすれて消えた。
「……まぁそう言うわな」
凛冽はため息混じりに言った。
「そうやって自分の痛みを意味あるものにしようとするのも、ストレス反応の一つだもんな」
凛冽の冷たさは少し和らいで見えた。ただ静かに、火登の中にあるものを見抜いているような目だった。
「知ってるか? ストレスってさぁ大きく分けて3つに分類されんの」
一拍、間を空けてから、凛冽は指を折って数えた。
「たとえば不安とか、怒り、罪悪感みたいな心理的反応。動悸、異常な発熱、悪寒による震えの身体的反応。で、最後が、イライラして人に当たったり、ストレス場面からの回避といった行動的反応」
凛冽の口調は淡々としていたが、火登には、その奥に彼が知っている遠い苦みがにじんでいるように聞こえた。
「これ全部、ストレスの現れ。で――お前にも、それが出てた」
火登は顔を伏せた。思い当たる節が、あまりに多すぎた。
「教室で見てた時も思ったよ。『あぁ、苦しそう』って。人間、楽していきたいもんな」
火登はぐっと唇を噛んだ。その言葉が胸に突き刺さる。
「別にいいよ。“加害者”ってラベルを貼って楽になれるのなら、勝手にそうすればいい」
まさに凛冽の言う通りだった。見えないフリをして、知らないフリをしていたくせに、あの教室で彼らが視界に入った瞬間から、凛冽に対する過去の言動を思い出しては苦しんでいたのだ。
自分を責めてほしかった。そうすれば、他人のふりをしていた過去の自分が許される気がした。
そんなわけがないと分かっていても、火登はそう思わずにはいられなかった。
「おい、その顔やめろ。俺がいじめてるみたいだろ」
「ぁ、…………ごめん」
「はぁ。こういうタイプって、なりやすいんだよなぁ」
凛冽がふっと空に視線を向ける。まるで、何かを思い出すように。
「……?」
火登もつられて空を見上げた。
気づけば、空はオレンジを呑み込み、紫に染まりつつあった。もう間もなく、夜がすべてを覆うだろう。
「お前さ、さっき体がおかしいと思わなかったか?」
空から視線を戻した凛冽の言葉に火登は逡巡の末、ふと感じていた違和感をぽつりと呟いた。
「熱が出たみたいだった」
教室に足を踏み入れたとたん、心臓がドクドクとうるさく鳴り出し、体に異変が生じた。顔が熱を帯び、汗が噴き出し、頭の中はぐるぐると同じ考えを繰り返す。ずっとまともに物事を整理できずに痛みを繰り返していた。
それまでは、なんともなかったはずなのに――。
「お前のそれはストレスで自律神経がぶっ壊れたんだ」
火登の背中に、じわりと冷たい汗が滲む。
「自律神経ってよく聞くアレ?」
「そ。呼吸や心臓の鼓動、消化、体温――そういうのを“勝手に”調整してくれる神経だよ」
火登は無意識に自分の胸元へ手をやった。そこには、先ほどまで暴れていた鼓動の名残がまだ感じられる。
言葉は知っていても深く考えたことがなかった火登は、まさか自分が対象になっていたとは思わず驚いた。
「24時間、365日。自律神経ってのは、生きている限り、勝手に働き続けてる」
凛冽の言葉を、火登は必死に追った。
呼吸、鼓動、消化――そういった体のすべてを、無意識のうちに調整している神経。意識しなくても、ちゃんと命を守ってくれている、その存在。
なんとなく覚えていたものが、当事者になって初めて知識として腑に落ちていく。
「だから“自律”神経って言うんだ。生きてる証みたいなもんだよ。だけど――」
凛冽の声が低く、重みを帯びた。
夜を告げる深い色が、世界の輪郭をゆっくりと溶かしていく。その中で、凛冽に影が落ちていった。
「ストレス、睡眠不足、ホルモンバランスの乱れとか色々。そういうのが積み重なると、自律神経はズレていく」
地面に落ちた影は静かに重なり合い、まるで人と人との境界すら溶かしていくようだった。その中で、凛冽だけが一人、変わらずそこに佇んでいる。
「それが、自律神経失調症ってやつ」
その言葉が夜風に乗って静かに火登の耳に届いた。
火登は夜の訪れが怖く感じた。言葉では言い表せない漠然とした不安が、じわじわと体の内側から広がっていく。
「で。それが日常生活に支障を来し、悪循環に陥ってしまうと、人は耐えられなくなり――灰殻。すなわちストレスの塊が生まれる」
凛冽の声が消え、しんとした屋上に夜の気配だけが漂った。
そして次の瞬間――ガアアアアアンッ!
凛冽の言葉と同時に、屋上の分厚い鉄製の扉が凄まじい音を立てて吹き飛ぶ。
金属が悲鳴を上げ、コンクリートが砕け散るような轟音。
扉は二人の間を通過し、フェンスをグシャァ! と捻じ曲げて止まった。
その強烈な衝撃が突風となって、二人の制服をはためかせる。
「で、あれがそう」
凛冽が親指で指す先――そこにいたのは、教室で見た“黒い塊”だった。