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 扉を開けた瞬間、茜色の空が視界いっぱいに広がった。長い年月を経て色褪せたコンクリートの床が夕焼けに染まり、やわらかなオレンジを帯びていく。

 凛冽に腕を引かれるまま、火登は黙って屋上へと足を踏み出した。斜めに差し込む夕陽がふたりの影を細く長く引き伸ばしていく。影はまるで先を知っているかのように静かにふたりを導いていた。


 背後でギィと扉が軋む音を立てて閉じた。その音とほぼ同時に、凛冽の足が中央付近で止まった。


「……とりあえず、ここまで来ればいいか」


 凛冽がぽつりとこぼしたその声に張り詰めていた空気がわずかに緩む。火登の腕を握っていた手が静かに離れていった。


「ゼェッ、ハァッ……っ」


 火登は膝に手をつき、前かがみになって必死に息を吐いた。

 走った距離はたかが知れているはずなのに、胸の奥まで引きずり込まれるような、妙な疲労感が全身を包み込んでいた。

 だがそれよりも疑問が残り、火登は凛冽の肩を掴んで詰め寄る。


「きょ、教室……っ、あれ、どういう……っ」

「ちっか」

「あの黒いのって、一体何!?」


 言葉と共に火登の距離がどんどん凛冽に近づいていく。


「あれは灰殻(ストレッサー)。てか落ち着けって。この距離おかしいんだって」

「……す、とれ? じゃあ、あの氷は!?」


 昂った感情はそう簡単に収まらない。火登はずっと無表情で苦言を呈する凛冽の肩を掴んだまま、ぐいと腕を伸ばして少し距離をとった。


「そうそう。そのきょ――」


 言いかけた凛冽の言葉が途切れる。火登がそのまま肩を揺さぶり出したのだ。


 凛冽は火登に肩を揺さぶられながら「あああああ」と声を漏らす。その声を前に、火登はあの時閉じ込められていたように見えた氷を思い浮かべていた。もし黒い「あれ」がストレッサーだとしたら、なぜ氷の中にいたのか――。あの教室の惨状が一体何を意味するのか。疑問が胸の中でぐるぐると渦巻き、火登は首を傾げずにいられなかった。

 火登の頭はぐちゃぐちゃで、呼吸も乱れたまま思考だけが空回りする。「ぜぇ、はぁ」といくら息をしても一向に整わず、むしろ荒くなる一方だった。


 ――そのとき、急に、胸の奥がざわついた。


「あ、……れ? はっ……っぁ……!」


 息が、吸えない。吸っているのに、肺の奥まで空気が届かないような感覚に襲われる。火登は胸を押さえて地面に崩れ落ちた。


「っ……は、はあ……いきが、吸えない……っ」


吸えば吸うほど、息苦しさが増していく。頭がぼうっとして視界がぐらつき、全身から血の気が引いていくのが分かった。先ほどの恐怖や困惑は、すべて“息ができない”というパニックに塗りつぶされていく――。


 凛冽はそんな火登の様子をじっと見つめて、一つため息をこぼした。


「だから落ち着けって言ったのに」


 凛冽が火登の隣に膝をつく。


「俺の呼吸を真似してみろ。吸って……吐いて……」


 凛冽がわざと大げさに、ゆっくりと深呼吸をしてみせた。火登は必死でそれを真似ようとする。けれど、うまくいかない。胸の奥がきしんで、息を整えようとするたび、焦りだけが積もる。


「ダメだ、無理……っ、死ぬ……っ、かも……!」


 凛冽の手のひらが、火登の背にそっと触れた。


「死なねぇよ。だから余計なこと考えんな。俺だけに意識向けてろ」


 その手のひらから伝わる凛冽の温度に驚き、火登は反射的に顔を上げた。そこにあったのは、有無を言わさぬ冷たい静かな目だった。


「鼻から吸って……口から吐いて。吸って……吐いて……」


 その声に従い、火登は意識を一点に集中させる。ゆっくりと、凛冽の呼吸に自分のペースを合わせようとした。背中に添えられた手が火登の呼吸を少しずつ、少しずつ整えていく。


「……どうだ?」


 火登はようやく、こくりと頷いた。あれほど窮屈だった胸の圧迫感が和らぎ、息が通る感覚が戻ってきた。


「あ、りがとう。なんか急に息が吸えなくなって」


 あれだけ息ができないとたくさん吸っていた酸素を、こんなゆっくりとした呼吸で落ち着けられるなんて、火登は不思議に感じた。


「たぶん過換気症候群ってやつだろ」

「過換気?」

「俗に言う“過呼吸”ってやつ」


 凛冽はそう言って立ち上がると、服の裾を軽く払って汚れを落とした。


「ストレスや不安で呼吸が浅く早くなりすぎて、二酸化炭素が体から抜けすぎる。結果、息苦しくなる。吸えてないんじゃなくて、吐きすぎてるんだよ」


 火登は愕然とした。あれだけ苦しかったのに、原因は“吸いすぎ”ではなく“吐きすぎ”? 


「な、なにそれ……」

「色々と体に負荷がかかったせいだろうな。まあ、倒れることはあっても、過呼吸で死ぬことはないらしい。安心しろよ」


 凛冽は一瞬視線をそらし、遠くの夕焼けを見つめた。茜色に染まる屋上のフェンス越しに、夜の闇が静かに迫っているのが見えた。やがて視線を戻し、火登に手を差し伸べた。


「無理に走らせて悪かったな」


 凛冽は、まるで自分のせいだとでも言うように謝った。火登はツキリと胸が痛み、その手を掴めなかった。


「……んで」

「何?」

「……なんでっ」


 責めも怒りもしないその静かな態度が、かえって火登の罪悪感をあぶり出していく。


(謝るべきは僕のほうなのに。どうしてそんなに――優しくできるんだ。僕は、あんなひどいことを言ったのに……)


 声が震え、怒りとも後悔ともつかない感情が噴き出した。


「なんで謝れるんだよ。僕は、僕は……君に化け物って言った人間だぞ!」


 感情が溢れて、声が大きくなる。

 凛冽は小さくため息をついて、首を傾げた。


「別にいいんじゃね?」

「よくないだろ!」


 火登は叫ぶ。喉がひりつき、顔が熱い。息苦しさとは違う、別の痛みがそこにあった。自分のしたことの醜さに、どこへ吐き出せばいいか分からなくて、ただ声だけが空を裂いた。


「僕は……あいつらと同じことをした! 怖くて、逃げたくて、だから……!」


 声が上手く出せずつっかえる。


「君を傷つけたんだ! ひどいこと言ったんだよ……!」


 凛冽はほんの少しだけまばたきをした。そして手を引っ込めて、静かに口を開いた。


「あーなるほど。お前、誰かに責めてほしいんだ?」

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