3限目
――熱い。
じわり、じわりと体の芯から煮え立つような熱が広がり、火登の正常な感覚を遠ざけていく。耳の中で心臓の音がドクドクと跳ね回り、肺は呼吸を留めておけない。短い間隔で漏れ出る熱い吐息が火登の熱の度合いを物語っていた。
目を閉じたまま、火登は床に横たわっていた。
(……なんで、寝てるんだっけ)
夢の中にいるようなぼんやりとした意識のなか、火登は少しでも体を冷やしたくて――横向きだった体を、ごろんと手を広げながら寝返りを打ち、仰向けになった
(確か……忘れ物をとりに教室に戻ったような……)
火登はうっすらと目を開けた。熱に浮かされたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
視界の隅で、きらきらと小さな光が漂っていた。
(……ミラーボールなんて、あったっけ?)
誰かが冗談で取り付けたのかと思うほど、天井に反射する光が波間のように揺れている。
火登は夢を見ているような気分で、その光をただ見つめていた。
(いや、そんなわけないか……じゃあ、埃?)
最初はミラーボールのように光が天井を回っているように見えた。けれど、よく見るとそれは空中を漂いながら、少しずつ火登の方へ落ちてくる。
音もなく降り注ぐそれを目で追いかける。
(顔にかかるのはちょっと嫌だな)
早く起きて避けたほうがいいと分かっているのに、体を動かすのが億劫で、ただ仰向けのまま光を見つめ続けていた。
やがて、その一粒が火登の頬に触れ――ジュッと小さな音を立て、涙のように頬を伝いながら蒸発していった。
(……冷たくて、気持ちいい)
光が肌に触れる度にひんやりとした感触が一瞬だけ感じられる。すぐに熱は戻って来るが、熱さをなくしたい火登の体には、それが心地よくて思わず目が緩んだ。安堵にも似た微睡みに火登はそっと目を閉じて闇へと落ちようとした――その瞬間。
「弱。ストレス発散にもなりゃしない」
低く呟かれたその声が、火登の夢と現実の境界を突き破った。
裂け目から冷気が流れ込み、火登の熱を吸い取るように体内に染み渡る。
熱を奪われる冷たさが、朦朧とした意識を強制的に現実へと呼び戻す。
(……弱い?)
意識の底で、ぐらりと何かが揺れた。
たった一言。それが火登の心の奥深く、澱んでいた“自覚”を容赦なく抉り出した。
これまで必死に目を背けてきた、どうしようもない自分の弱さの核心が痛々しく剥き出しにされる。
あの男たちの声が脳裏に反響する。
そしてあの時、凛冽に向けて吐き捨てた言葉。
――化け物。
自分の口から出た恐怖に塗れたあの罵倒の一言が、火登の中に黒々と焼き付き、まるで烙印のように決して消えてくれない。
胸が締め付けられ、体が震える。どうしてこんなに熱いのに、悪寒が止まらないのだろう。
やがて悪寒は戦慄へと変わり、火登の意識の奥底を揺らす。
全身の熱が暴走するように膨れ上がる。熱が疼く心に刻まれた傷口に触れるたび、鋭い痛みが走った。
本当は自分でも気づいている。
何もできなかったこと。声すら上げなかったこと。見て見ぬふりをしていたこと。
当事者でもないのにどうしてこんなに辛いんだろうと、自分のことじゃないなら気にしなければいいのになんて誤魔化しながら、ずっと嘘をついて過ごしていた。
だけど本当は、自分の都合で誰かを傷つける人が許せなかったんだ。
――い、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
刃物で心を切り裂かれるような鋭く容赦のない痛みが、深淵に沈みかけていた火登を鋭く揺さぶり目覚めさせた。
「化け物なんかになりたくないッ!」
火登は悪夢から目覚めたように跳ね起きた。荒い呼吸のまま床に手をついて体を支える。
その瞬間、彼の体から噴き出した奔流の熱が教室の空気を震わせる。陽炎のように空間が揺らぎ、白い蒸気が天井へと立ち上る。教室全体が、“何か”に呑み込まれていく。
息が荒い。苦しい。胸を掴んでも、内側から湧き上がる焼けるような熱は収まらない。
「は?」
静かな声が教室に響いた。
火登がハッと顔を向けると、凛冽が心底不可解そうにこちらを見つめていた。驚きや呆れではない。ただ純粋に「奇妙な現象を目撃した」とでも言いたげな視線。
「……ッ!」
その視線が、先ほどの出来事を鮮明に呼び起こす。
火登は思わず目を逸らした。そして逃げるように向けた視線の先で、彼は愕然とした。
「ッはぁ、はぁ、……なんだ、これ」
唖然としたまま、辺りを見渡す。教室の空気は異常な冷気に包まれ、机や椅子は霜で覆われている。まるで時間そのものが凍りついたかのような異様な静けさだった。なのに自分の周りだけが溶けている。
霜が濃くなる方向へと視線を辿り、やがてその中心に、火登の目が釘付けになった。
教室の中央、床を突き破るように巨大な氷塊がせり上がっていた。その中に黒い“何か”が閉じ込められている。ただそこに「いる」としか言えない存在。闇そのものが形を持ったような、先も終わりも見えない底なしの黒い塊だった。
黒い塊は、まるで誰かの感情に呼応するかのように、氷の中で炎のようにゆらゆらと揺らめき、歪んだ人影の輪郭をときおり浮かべた。
火登はそれを見た瞬間、全身に嫌悪と拒絶が走った。
――何かが、いる。
得体の知れない恐怖が、背筋を這い上がってくる。
火登の目がその存在を認識した瞬間、血の気が引き、心臓が激しく脈打った。
理屈ではなく生理的に拒絶するべき“異物”。火登の焦りが強まると、それに呼応するように室内の温度が上がっていく。まるで彼の内に渦巻く熱が教室の空間にまで溢れ出し、周囲の空気を歪めているようだった。
――ピキ……ッ。
氷の奥から鋭い音が響いた。
「ひっ……」
氷が内側から表面に向かって細かなひびが広がり、そのひびを追うように黒い塊も浸透していく。
「な、んだこれ……」
肌が粟立ち、引き攣った声が思わず出る。
表面からゆっくりと溶けた水が汗のように氷を伝い、床に滴る。そして外に辿り着いたひびから順に床に落ちては、黒い斑点が小さな影のように広がっていく。
火登は呼吸が浅くなり、頭がクラクラした。なぜか、ただそこに“在る”だけで耐えがたいほどの嫌悪感が込み上げてくる。
見てはいけないものを、無理やり見せられている――そんな感覚だった。
「く、るしッ……」
火登の呼吸はさらに乱れ、額から汗が滝のように流れ落ちる。
ポタ、ポタ……氷の雫が火登の額から落ちる汗と混じり合い、不快なリズムを奏でていた。
「あー……ストレス反応か。さっき凍らせたのパァかよ」
ため息を漏らしながら、凛冽のぼやきが火登の耳に届く。
(こお……らせた……?)
火登は戸惑いを隠せず、眉間にしわを寄せて凛冽を見つめた。体を支えるために床についた手に力が入り、無意識に指先が床に跡を残す。
「いいか、よく聞け」
体全体で息をする火登の元へ、凛冽がゆっくりと歩み寄る。
「お前のそれは、交感神経が過剰に働いて心拍数が上がってるせいだ。だから呼吸も浅くなって、息苦しさや体の熱さも出るんだよ」
蒸気がさらに濃くなり、視界が霞む。教室の輪郭がぼやける中、凛冽の平坦な声だけが、火登の意識を現実に繋ぎとめていた。
「だから治めたいなら――」
その時、氷の中からガタッ、と低く不気味な音が響いた。
「って、説明してる暇ねぇな」
凛冽の手が火登の腕に伸びる。だが、触れる寸前でわずかに震え、ためらうように止まった。
それでもすぐに決意を固め、強く掴む。
「……こいっ!」
火登はその細かな動きに気づかない。思考が追いつかぬまま、凛冽に引っ張られ、反射的に教室の外へ飛び出した。
「うわッ!」
直後、背後で――バキィィィィンッ! 空間そのものが裂けたような破砕音が轟いた。
火登の熱を帯びた腕に触れた凛冽の冷たい手から、「ジュッ」と焼けるような音が走る。熱と冷気がぶつかり合う音が、氷が崩れ落ちる轟音にかき消された。
白い煙に包まれた教室の中で、黒い影が蜃気楼のようにかすかに揺れ動いた気がした。