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「うっわ、本当に言ったよコイツ」


 肩を掴んでいた男が、気持ち悪いものでも見たかのように火登からパッと距離をとる。涙が出るほど強かった締め付けが、あっさりと離れていった。


「ぁ」


 声が遠くで響いているように聞こえるのに、言葉は自分の中で破裂したような感覚に火登は陥った。


「ダッサ。まじで弱虫じゃん」

「あー。なんか冷めちまったな」


 凛冽のそばにいた二人がダルそうに立ち上がり、火登に向かってくる。


「邪魔」


 一人が扉の前までくると、通路を塞いでいた火登の肩を無造作に押しのけた。

 体は簡単によろめき、後から来たもう一人の男の肩が火登の横を通り過ぎる際に勢いよくぶつかった。


 ――ドン。


 火登は床に四つん這いに崩れ落ちた。


「なーんかつまんねぇよなァ」

「どっか寄ってくか?」

「俺、腹減った〜」


 廊下から聞こえる喋り声と軽薄な足音が、だんだん遠ざかっていく。

 教室に残されたのは、濁った空気と痛み。そして火登と凛冽の二人だけ。

 火登はしばらく動けなかった。

 彼らは何かを失ったように、あるいは飽きた玩具を放り投げるように、あっけなく去っていく。

 あれだけ絡んでおきながら、男たちにとっては記憶にも残らない出来事が、火登の心に深く禍根を残した。


 火登にとって、数瞬が何時間にも思えるような時間が過ぎた。やがて教室に静寂が戻ると、やっとの思いで顔を上げ、恐る恐る凛冽に視線を送った。


「っ……」


 凛冽はさっきと同じ姿勢で、ただこちらを見ていた。

 何も言わずただ見ている。そこには怒りも蔑みも慰めもない。その目に映る火登は、いったい何者に見えているのだろうか。

 胸が痛む。さっきの痛みとは違う。もっと深く、もっと苦しいもの。

 彼に何かを言われたわけでも、何かをされたわけでもない。ただ見つめられるだけで――心の奥底が、ギチギチと音を立てるような痛みに締め付けられ、瞳が揺れ出した。


(僕は……僕は――)


 心がぐしゃぐしゃだった。何かを言って何かをしたのは自分なのに。

 さっき自分の中で何かが破裂したあの感覚を、塞ぐことができない。零れ落ちる感情がどんどん大きくなり、全身に広がっていく。

 体からは汗が出るほど熱く感じるのに、心が冷え切っていく。


「ぁ、ぁあ」


 そうだ。言った。言ってしまった。「化け物」って言ってしまった。

 恐怖から逃れるために、誰かを傷つけた。それが頭に焼きつき、脳が悲鳴を上げる。

 「化け物」と呼んだ自分の口が許せない。

 何より、あいつらと同じことをしてしまったことが――。

 言い訳なんてきかない。自分の中の正しさと恐怖。矛盾した感情がぶつかり合って、自分が自分でなくなるような感覚に襲われた。

 そのとき、火登の中で――何かが壊れた。


「あ、ぁぁぁああああ゛あ゛あ゛ッ!」


 熱い。

 体の中が煮えたぎって、吐き出せない何かが暴れている。

 火登は頭を抱え、天井を仰いで絶叫した。息を吸うたびに、喉が焼けるようで呼吸が苦しい。視界がぼやけていく。

 教室に響いた叫び声。

 それは後悔の涙でも、赦されない自分への罰でもない。

 ただ、あまりにも人間くさい――破裂の音だった。


 ――ゴポ、ゴポッ。


 黒い液体が滴り落ち、次第に不気味な形を成し、火登の影のように蠢きだした。

 だが、火登はその異変に気づかず、意識は真っ白に塗りつぶされていた。


「あーあ。ストレスなんてためるから」


 ずっと黙って成り行きを見ていた凛冽が机に頬杖をついて淡々としゃべりだす。

 不可解なことが起きているはずなのに、それが日常の一幕とでも言うように落ち着いた声が誰もいない教室に響く。


「瞳孔の開き、発汗、呼吸の浅さ……典型的な交感神経の暴走だろうな」


 凛冽は椅子をゆっくり引き、立ち上がる。

 ガガッと椅子の擦れる音も気にせず、伸びをする彼の視線は“それ”に向いた。


「人間って行動と言葉にズレがあると、“不快”を解消するために態度を正当化したり、記憶を書き換えようとするんだよね」


 体に悪いとわかっていてもタバコを吸う。ダイエット中に甘いものを食べる。

 『明日からやめればいい』『今日だけなら大丈夫』、そんなふうに矛盾した気持ちをごまかす人間の心理。

 凛冽は黒い“それ”をじっと見つめ、言葉を続けた。


「そういうの、“認知的不協和”って言うんだってさ」


 凛冽が歩き出すと、教室の空気が冷たく凍りつくように変わった。


「まぁでも、ストレスから自分を守るために行う防衛機制は人である証拠なんだろうけど」


 まるで彼を中心に、世界の温度が変化していくようだった。


「気持ちだけでどうにかなるなら、精神を病む人なんていないわけで」


 ところどころに霜がつき、氷の粒が舞う。


「あーあ。人間ってだっる」


 凛冽の瞳に温度をまるで感じられない。それはこの中で彼が一番、冷めていた証かもしれない。

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