1限目「心体測定」
授業が終わり、校舎はすっかり静まり返っていた。人の気配が消えた廊下を――火登 燎が小走りで駆け抜けていく。
スマホを教室に忘れたことに気づいたのは、校門を出た直後だった。戻るのは面倒だったが、あれがないとどうにも落ち着かない。ため息をつき、火登は重い足取りで校舎へと引き返した。
(途中で気づけただけ、まだマシか……)
夕暮れの校舎は想像以上に静かで、自分の足音だけがやけに響く。いつも通っているはずの道がひどく不気味で、どこか怖さすら感じさせた。
自分の教室が見えてくると、火登は徐々に歩みを緩めた。扉の前で立ち止まり、一つ息をこぼして乱れた呼吸を整える。そして――勢いよく扉を開けた。
「……ぁ」
思わず喉が引き攣るような、か細い声が口の奥から漏れた。
足を踏み入れた瞬間、無警戒だった自分を激しく後悔する。誰もいないと思っていた教室には、明らかに異様な空気が漂っていた。
火登は目の前に広がった光景を“見てしまった”と思った。
「なぁなぁ、なんか言えよ」
「化け物だから喋れないんじゃね?」
「ぎゃははっ、かっわいそ〜」
教室の奥。椅子に座る男子生徒――凛冽 柊岐を、三人の男たちが囲んでいた。
一人は凛冽の背後の机に浅く腰をかけ、一人は前の席の背もたれを抱えるように座り、最後のもう一人は凛冽の隣に立ち、片手を凛冽が座っている机へ、もう片方はポケットに手を入れ見下ろしていた。
彼らは、この学校では少し遠巻きにされる雰囲気を持っていた。例えるのなら“校則を守っていない”というより、“最初から守る気などない”とでも言うような威圧感が彼らには備わっていた。
「……」
そんな彼らに囲まれている凛冽は、まるで授業中のように表情一つ変えず、ただ前を見ていた。怒りも悲しみも見えないその静けさは、彼らの粗暴さとはまったく違う種類の近寄りがたさがあった。
――この光景は、日常だった。
いつからかは分からないが、彼が絡まれるのは“当たり前”になっていた。その理由も定かではない。ただ、それが“日常”になっていたのだ。そうなるくらい誰もが彼らのことを視界にいれないようにしていた。
「巻き込まれたくない」「次は自分かもしれない」といった恐怖が、誰もを黙らせていた。
きっとこの学校での出来事なんて、ほんの数年にすぎないかもしれない。でもそんなリスクを背負える人間はここにはいなかった。勇気が足りず、足がすくむ者ばかりだった。
学校という狭い世界で、恐怖が皆を沈黙へと追い込んでいた。
正しさは狭い学校の中では武器にならない。むしろ、自分を危険に晒す刃となる。
見ない。知らない。気づかない。それがいつの間にか身につけてしまった防衛術だった。
凛冽は、黙っている。
罵声にも無関心にも、何一つ反応しない。何かを感じていないわけはないのに、その心は表に出てこない。
――そう。だから、彼が「化け物」と呼ばれていることを、たぶん誰も知らない。
安心だった。見なければ、存在しなかったことにできる。……でも、今は違う。
この光景を見た瞬間、心が強く反応してしまった。現実を突きつけられて、何も感じないふりなどできなかった。
もう誤魔化せなかった。
「あれはおかしい。人を化け物と呼ぶ奴らのほうが、よっぽど化け物だ」と、そう感じているのに見ていることしかできない自分。
感情を切り離すことでしか、自分を守れなかった。
そんなふうに、見て見ぬふりをしていた自分の中にも――静かに息づく“化け物”が、いるのかもしれないとそう思った。
「おっ。いいとこに来んじゃ~ん。お前も言ってやれよ」
教室のドアを開けた瞬間、声が飛んできた。声の主は、火登にニヤッと笑いかける。
「……え?」
彼らの意識がこちらに向いた。自分も標的に含まれたのだと悟る。
凛冽を囲んでいた連中が、今度は火登に向き直る。その中の一人がためらいもなく歩み寄ってきて、突然、肩に腕を回してきた。
距離が近くて、息がかかりそうだった。
「だからこいつに言ってやれってんの」
男の手が、ぽんぽんと火登の肩を軽く叩く。その動作に火登の身体は思わず強張った。
「な、なにを?」
逃げればよかった。そう思った。けれど、足は地面に縫いつけられたように動かない。
「嫌だ」と言うことさえできず、男の腕を拒めなかった。
「とぼけんなよ〜。お前、いつも見てんじゃん」
「“化け物”って言うだけだって。簡単だろ?」
「おいおい、それ言わせんのは可哀想だって〜。見てるだけで何もできねぇんだからさ!」
男たちの笑い声が弾ける。ケタケタとあからさまに馬鹿にした態度の男たちが、火登と凛冽の二人を置いてけぼりにした。
軽くてふざけているのに言葉は重い。断れば何をされるか分からない。だがそれを言ってしまえば、後悔するとも火登は理解していた。
言葉が出ない。喉が渇いて、声が塞がれる。
男たちの言葉よりも、ドクドクと忙しなく鳴る自分の心臓の音が妙に耳に残る。
「えぇ〜マジかよ! 見るくせに言えないの? ただの弱虫じゃん!」
「おいおい言ってやるなって!」
“可哀想”だろと笑う男たちの声が重なる。嘲笑、軽蔑、興味本位が混ざった下品な音。
火登は視線の置き場を失う。どこを見ればいい? どうすればこの場から逃げられる?
視線をうろうろさせたそのとき、顔だけをこちらに向けた凛冽と目が合った。
「……」
いつから見ていたのだろう。怒っているようには見えない。笑っているわけでもない。
ただ、じっと――まっすぐ見つめてくる。
火登の奥底を見透かすような、その瞳から目を逸らせなかった。逃げ場を塞がれるような視線に心の奥で何かが軋む。
「ぁ……」
「助けて」――その声が言葉にならず、胸の中で渦巻く。
じんわりと体が熱くなり、汗が滲む。薄く開いた口から容赦なく潤いを奪っていき、カラカラになった喉が張り付いた。
そしてずっと見つめ合う凛冽と火登に男たちも気づく。
「こいつもお前の言葉、待ってるぜ?」
一人が凛冽の頭を乱暴に揺らす。
「まぁ弱虫にはムリか~?」
背もたれを前にして座っている男が茶化してくる。
「なぁ~言えって~」
肩を組んでいた男が火登の顔を覗き込む。
「ほら早くさァ~」
男の手が、徐々に火登の肩に食い込んでいく。ぎちぎちと骨が軋んでいるのかと錯覚するほどの締めつけ。
痛みで歪む火登の顔を、男はにこにこと覗き込む。
「ぁ、い゛……」
肩が痛い。呼吸もできない。涙が滲む。
「なぁ? ――言えよ」
男の顔から笑みが消え、真顔に変わる。
もう限界だった。
火登は強く目を閉じ、ついに――
「……っば、化け物」
喉の奥から絞り出すように火登は言ってしまった。