プロローグ「入学説明会」
闇に包まれた空を、血のように紅い炎が切り裂いた。その向こうで三日月が笑っている。
高層ビルの屋上は灼熱の坩堝と化し、アスファルトは粘つく泥のように溶け、剥き出しになった鉄骨は飴細工のように歪んでねじれている。その業火の中心に立つ少年は、炎を纏った剣を握りしめていた。吐く息は熱を帯び、彼の周囲の空気さえも陽炎のように歪ませる。
対峙するのは漆黒の異形──人の形を模してはいるものの、それは粘つく肉の塊としか言いようがない。いくつもの目が無秩序に瞬き、口らしき裂け目からは絶えず粘液が滴り落ちる。それは、見る者の精神を直接蝕むかのようなどす黒い悪意を、周囲の空気ごと撒き散らしていた。その場にいるだけで、肌を粟立たせるような不快感が全身を這い上がる。
少年は肩で息をする。額に滲むのは汗──否、それは黒い汗だった。まるで墨を流したかのように漆黒の液体が、ぽたり、ぽたりと足元に滴り落ち、熱いアスファルトに水溜まりを作っていく。
少年は剣を構えたまま動けない。
(まずい……!)
その汗が何を意味するのか、少年自身が一番よくわかっていた。それは能力者にとって忌まわしい兆候だ。
それを自覚した瞬間、少年の呼吸は激しく乱れ、視界が歪み、異形の姿さえもぼやけて見え始める。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……ッ!』
異形が耳をつんざくような咆哮を上げた。その声と共に、全身から迸る黒い瘴気が爆発的に広がった。
(の、みこまれる……!)
少年の頭の中でリフレインする嫌な記憶。
『自分だけがどうして?』
『なんでわかってくれないの?』
『同じ思いをすればいいのに』
屋上の床はみるみるうちに腐食し、ひび割れ、深淵へと誘うかのような亀裂が走る。
少年は奥歯を噛み締め、剣に炎を凝縮させる。燃え盛る炎が剣の切っ先から迸り、熱気を帯びた声を絞り出す。刀身に走る炎は、もはや揺らぎではなかった。焼き尽くすことしか知らぬ意思そのものが、刃に形を与えていた。
足元の空間が歪み、熱で空気が震える。
呼吸を整え、少年は静かに声を絞り出す。
「ッ赫炎!」
記憶を断ち切るように炎を纏った刀で一閃すると、その刃が熱波となって異形の腕に深々と突き刺さる──だが、焼かれた部位はすぐに再生し、傷跡一つ残らない。焦りからきた無謀な一撃の直後、焦げ付くような強烈な匂いが風に乗って鼻腔を激しく刺激し、少年は地面に膝をつく。
(ダメだ……このままじゃ、また……!)
心の奥底で、再び“何か”が禍々しい形を得ようとしている。
「――おい」
焦りで熱くなった体に氷のように冷たい声が響いた。
「熱くなるな。見境なく暴れるのは、向こうだけで十分だろ」
ビルの縁に、もう一人の少年が立っていた。彼は静かに腕を振りかざす。
その瞬間、凍てつく冷気が奔流となって屋上全体を覆い尽くした。
業火が巻き起こす灼熱の熱風は、音もなく白い霜へと変わり、パチパチと音を立てていた炎の猛威はあっという間に消え失せる。その激しい熱を、冷気が根こそぎ容赦なく奪っていった。
黒い塊の動きが鈍る。
氷塊が異形の体を突き刺し、パキパキと音を立てながら凍らせていく。
わずかな隙が生まれた。
少年は呼吸を整え、心の奥に渦巻く熱を──今度こそ、制御する。
(焦るな。僕は、大丈夫だ)
熱のように魘され、ぼやけていた思考がクリアになる。黒い汗が止まった。
炎の少年は乱れていた呼吸をゆっくりと整え、心の奥に渦巻く制御不能になりかけていた熱を──完全に理性で掌握した。
その刃に、少年の決意が宿る。
「赫炎ッ!」
その瞬間、重く沈んだ空気を裂いて、炎が闇を貫いた。剣先から迸った劫火が、異形の身をごと氷の檻を焼き砕く。砕けた氷は細かな結晶となって宙を漂い、星屑のように夜空に散った。
その煌めきの中で、ひときわ強く瞬いたひとつが――まるで闇に差し込む道しるべのように、少年たちが今どこにいるのかを教えてくれているようだった。
炎の少年は、熱とともに胸の奥にこびりついていた焦燥を吐き出すように「ふぅ……」と息をつく。そして顔を上げ、ビルの縁に佇むもう一人の少年と視線を交わした。
「ありがとう。助かったよ」
「気をつけろ」
「ごめん。ちょっと、取り乱した」
「そういうのが一番危ないんだからな」
静かに告げられたその声には、叱責でも怒気でもない。ただ乾いた、しかし深い理解だけが滲んでいた。
彼らは知っている。
この世界のどこかで、日々のストレスに押し潰され、心の均衡を失った“誰か”が、いまも心の奥で呻いていることを。その絶望が、形を持ち、現実を侵しはじめていることを。
灰殻──それは、誰かの“心が壊れた証”。
だが、それと対峙する者たちもまた、自らの闇を背負い、その力で死に抗っている。