引退と「がらくた箱」
その村には、珍しいものなど何一つなかった。
だからこそ、ライル・アーデンはそこを選んだ。
王都の喧騒を離れ、魔法アイテム鑑定士としての肩書も捨て、今は森の外れにある古びた一軒家に住んでいる。薪の匂い、鳥のさえずり、時折吹き込む風が、くたびれた心に優しかった。
「さて……今日は、こっちの棚から手をつけるか」
ローブの裾をまくりながら、倉庫の扉を開ける。そこはかつて道具屋だったらしく、棚という棚に得体の知れないものが詰まっていた。
ホコリまみれの箱、ひび割れた瓶、軸の曲がった杖、明らかに危なそうな石……。
「どう見てもガラクタだな。……でも、悪くない」
ライルの頬が、少しだけほころぶ。
古い道具には、語りかけてくる気配がある。王都の職場では、それを「妄想癖だ」と笑われた。だが彼には、確かにそれが聞こえるのだ。
道具の声が。物語が。
「さて、どの子から話を聞こうか」
手を伸ばしたそのとき。
「わっ!」
突然、背後から叫び声。
振り返ると、赤茶色のポニーテールを揺らした少女が、棚の影から転がり出てきた。
「お前は……雑貨屋の娘、だったか」
「エリナ・ベイルです!えへへ、見学いいですか!?」
「勝手に入るのは感心しないな」
「でも気になって……この家、村で一番変なものが集まってるって噂なんですよ!それって最高じゃないですか!」
目を輝かせる少女に、ライルは頭を抱えた。元々、子どもとの会話は得意ではない。しかし、この子には妙に押しが強い。
「いいけど……壊すなよ。どれも、見た目以上に繊細なものばかりだから」
「わーい!ちゃんと手を洗ってきます!」
元気よく飛び出していくエリナを見送りつつ、ライルはそっとつぶやいた。
「繊細というのはな、物の内側の話なんだが……まあいいか」
ひとまず倉庫に戻り、埃を払いながら箱をひとつ開ける。中にあったのは、金属と木材が融合した、用途不明の機械装置だった。
小さなレンズがついており、横には触れると冷たい感触の黒い宝石。おそらく、何らかの記録媒体か補助装置……だが。
「この構造は……見たことがない。いや、似たようなものなら……王都の第四工房で使われていた試作機器に……」
無意識に口が動く。癖だ。道具と対話するように、考えを言葉にする。それを聞いてくれる人はいない。だが、それでも語る。道具の記憶を引き出すには、そのくらいの情熱が要るのだ。
「師匠、これ、なんですか?」
エリナが戻ってきて、さっそく横から覗き込んできた。
師匠という呼称に、ライルは軽く眉をひそめる。
「私は君の師匠になった覚えはないんだが」
「じゃあ、目標です!」
「勝手に目標にされるのも困るな……」
「でも、こんなに道具に話しかける大人、ほかにいませんし!」
「……褒められているのか、怪しまれているのか……」
呆れつつも、ライルは少女に装置を見せた。
「おそらく、これは視覚記録型の魔導具だ。だが、動力が抜かれていて、稼働はしない。中に何が残っているかは……分からないな」
「じゃあ、修理すればいいんですね?」
「口で言うのは簡単だが、これの内部構造は……」
「やります!」
またこれだ。目を輝かせて、一直線。あまりに素直すぎて、こちらが不安になるほどだ。
そのとき、箱の奥で何かが転がった。
ごろん……と不自然な音。
そちらを見ると、灰色の布にくるまれた球状の物体が、ころんと転がり出ていた。
「……これは?」
布を解くと、古びた陶器製の壺だった。
模様はかすれているが、風をかたどったような装飾がうっすらと残っている。
「封印壺……か?」
指を添えた瞬間。
――ひゅるるんっ!
「え?」
壺の口から、風が噴き出す。いや、それはただの風ではなかった。まるで生き物のように渦を巻き、ひとしきり舞い上がったかと思うと、空中にぽわんと小さな光が浮かんだ。
「……ん~……あ、やっと出れた~!」
それは――小さな、透明な体をした存在だった。
羽のような髪、きらめく瞳、そしていたずらっぽい笑顔。
「な、なに……? これ、精霊……!?」
「うわー!ちっちゃい!かわいいー!!」
「かわいくないぞー!オレはすごいんだぞー!」
精霊らしき存在は、エリナの頭の上にぴょこんと乗っかり、両手を広げて名乗った。
「オレ、フィーリ!風の精霊!なんか……長いこと眠ってた気がするけど、今すっごく気分いい!」
「……風の……精霊?」
ライルは唖然とした。
精霊は物語の中の存在だ。魔法理論の中では、半実体化する魔素の集合体として論じられることはあるが、目の前で話しかけてくる存在とは思っていなかった。
しかも、封印を解いたのは……彼自身だ。
「これは……ただのガラクタじゃなかった、ということか」
壺の表面には、見逃していた小さな刻印があった。古代語で、「語る風、目覚める時を待つ」とある。
ライルは立ち上がり、壺を抱えて部屋の奥へと運ぶ。そして、埃を払いながら作業机に並べた。
道具ではない。これは遺物だ。
語りかけてくるような気配は、やはり確かにあった。
「師匠……また、見つけちゃいましたね」
「……誰が師匠だ」
「じゃあ、先生?」
「それも違う」
「……じゃあ、ライル!」
「……好きに呼べ」
諦めたように肩をすくめるライルに、エリナは笑った。
その日の夕方、村の空に少し強めの風が吹いた。
不思議な音色が、森の奥から流れてきたという人もいた。
だが、それが「風の精霊の目覚め」だと知っているのは、まだこの家の住人だけだった。
そしてライルは、棚の前でそっとつぶやく。
「これは……始まりだな」
ガラクタの山の中から、語りかけてくる声が、またひとつ聞こえた気がした。