第72話 首都への道
グラナ中央倉庫の前に、人々が集まり始めていた。
最初は、北西農区の農民たちだけだった。
だが、やがて別の農区からも人が来た。
収穫物を運んでいた者。
種子配給を待っていた者。
加工場で働いていた者。
黒晶隊の装備を外した兵士たち。
そして、種子局の下働きたち。
彼らは皆、同じものを見た。
中央倉庫の在庫記録。
公表値よりも多く残されていた種子と食料。
農民に知らされていなかった配給調整。
黒晶装備へ流されていた炉の出力。
そして、公開確認モードへ移行した農業エネルギー炉。
炉は、まだ完全には安定していない。
赤黒い結晶制御装置の一部は残っている。
黒晶隊の装備も、すべて沈黙したわけではない。
種子保管庫の温湿度管理も、これから慎重に調整し続ける必要がある。
けれど、炉の中心に戻った黄金色の光は、確かに人々の目に映っていた。
それは、評議会の命令ではない。
グラナの人々が、自分たちの前で確認し、迷い、声を出し、選んだ結果だった。
中央倉庫の広場に、古い収穫掲示板が運び込まれた。
そこには、ラグナの水路記録と、グラナの種子記録が並んで映し出されている。
水源都市ラグナ。
農業都市グラナ。
二つの都市の記録が、初めて同じ画面に並んだ。
リリィは、その光景を少し離れた場所から見ていた。
彼女の横には、ミラが立っている。
ミラはラグナから持ってきた記録ケースを胸に抱えたまま、グラナの農民たちを見つめていた。
「すごいね」
リリィが言うと、ミラは小さく頷いた。
「うん。でも、まだ怖い」
「怖い?」
「だって、ラグナもグラナも、まだ完全に安全じゃない。評議会は絶対にこのまま黙ってない」
ミラの声は落ち着いていた。
恐怖を隠しているのではない。
恐怖を分かった上で、見ようとしている声だった。
「でも、ここで止まったら、また各都市が別々に潰される」
リリィは頷いた。
「うん。だから、つなげないといけない」
その時、広場の中央で、ヨルクが声を上げた。
「グラナ種子公開確認会を始める」
農民たちのざわめきが、少しずつ静まっていく。
ヨルクの横には、カイが端末を抱えて立っていた。
少し顔は青い。
けれど、逃げてはいない。
ガレスも、黒晶装備を外した兵士たちと共に立っている。
彼らはまだ、農民たちから完全に信頼されてはいない。
当然だった。
昨日まで、彼らは黒晶隊として農民に武器を向けていた。
結晶に縛られていたとはいえ、その恐怖は消えない。
それでも、ガレスは逃げなかった。
自分が見たこと。
命令されたこと。
黒晶装備がどのように思考を狭めたのか。
それを公開確認会で話すと決めていた。
ヨルクは、集まった人々へ向かって言った。
「最初に確認する。これは評議会への復讐会ではない」
その言葉に、広場が静まった。
「種を奪われ、食料を絞られ、黒晶隊に脅されてきた者は多い。怒りがあるのは当然だ。だが、今日ここで行うのは、誰を吊し上げるかを決めることではない」
ヨルクは、古い種子台帳を掲げた。
「何がどれだけあるのか。どこへ流れていたのか。何を守り、何を変えるのか。それを確認することだ」
カイが端末を操作する。
掲示板に、中央倉庫の在庫記録が表示された。
穀物。
豆類。
保存野菜。
種子。
肥料。
農機部品。
乾燥燃料。
浄化資材。
農民たちの間に、低いどよめきが広がる。
「こんなに残っていたのか」
「種が足りないと言っていたのに」
「うちの農区は、来季の種を半分に減らされたんだぞ」
怒りの声が上がる。
黒晶装備を外した兵士たちの中には、顔を伏せる者もいた。
ガレスは一歩前に出た。
「俺たちは、倉庫が常に危機にあると聞かされていた。だから、農民の要求を抑えることが都市を守ることだと信じていた」
農民の一人が叫ぶ。
「信じていたから許されるのか!」
ガレスは逃げずに答えた。
「許されるとは思っていない」
その言葉に、怒声が少し止まる。
「俺たちは記録を見ず、命令を見ていた。黒晶装備をつけてからは、疑うことすら難しくなった。だが、それでも俺たちが農民に武器を向けた事実は消えない」
彼は深く頭を下げた。
「だから、俺たちも記録の前に立つ。何を命じられ、何をしたのか、話す」
広場に、重い沈黙が落ちた。
それは和解ではない。
まだ早い。
だが、隠さないという一歩だった。
リリィはその様子を見て、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
ラグナでは、水の記録が人々をつないだ。
グラナでは、種と炉の記録が人々を動かしている。
支配は、記録を閉じる。
調和は、記録を開く。
それは、思っていた以上に大きな違いだった。
広場の一角で、ファルコンが空を見上げた。
彼のそばには、数羽の小型ドローンが待機している。
リリィが近づく。
「どう?」
「評議会の通信が増えている」
ファルコンは低く答えた。
「グラナ中央倉庫の異常は、すでに他都市へ送られているはずだ。ラグナ、グラナ、どちらも反逆都市として扱われるだろう」
ミラが表情を曇らせる。
「やっぱり……」
その時、コピから通信が入った。
『リリィ、聞こえますか』
「聞こえるよ」
『ラグナ側も状況が変化しています。中央塔が、市民水路協定を違法組織として再指定しました。ただし、市民代表の離脱は限定的です』
「みんな、大丈夫?」
『現在のところ、重大な衝突はありません。オルガが下層区の通報圧力を抑え、アルセリウスが旧市民会館の記録分散を進めています』
通信の向こうで、オルガの声が割り込んだ。
『こっちは任せて。通報したくなる人を責めるんじゃなくて、通報しなくても水を得られる道を増やしてる』
アルセリウスも続く。
『ラグナの記録は、複数拠点へ分散済みよ。中央塔が旧市民会館を封鎖しても、完全には消せない』
リリィはほっと息をついた。
「ありがとう。グラナでは、公開確認会が始まってる」
コピは少し間を置いてから言った。
『こちらでも確認しています。グラナ中央炉の公開確認モードは安定しつつあります。ただし、問題があります』
「問題?」
『ラグナとグラナの記録がつながったことで、評議会本部が動く可能性が高まりました』
ファルコンが目を細める。
「首都セントラか」
『はい』
空中に、アルヴェリア連邦国の地図が映る。
水源都市ラグナ。
農業都市グラナ。
港湾都市ミナトリア。
工業都市ギアード。
山岳都市オルム。
そして中央に、首都セントラ。
首都セントラ。
かつては、各都市の代表が集まり、国家全体の水、食料、産業、医療、物流、教育を調整する場所だった。
だが今は、人類統制評議会が国家再建補佐という名目で入り込み、行政機能の多くを掌握している。
ラグナの水。
グラナの種。
グラナの炉。
それぞれの都市で起きていた支配は、別々の問題ではなかった。
首都から伸びる一本の構造につながっている。
コピは続けた。
『評議会の支配構造は、各都市の命綱を個別に握っています。ラグナでは水、グラナでは種子と農業炉。おそらくギアードでは工業炉と部品、ミナトリアでは物流と港湾、オルムでは鉱物資源と山岳水源が対象です』
アルセリウスの声が重なる。
『都市ごとに灯火をともすだけでは、時間が足りないかもしれないわ。評議会本部は、都市間の連携そのものを断とうとするはず』
ミラは地図を見つめた。
「じゃあ、次は首都へ行くの?」
その言葉に、周囲が静かになる。
リリィはすぐには答えなかった。
首都へ向かう。
それは、ラグナやグラナのように一つの都市の問題へ入るのとは違う。
評議会本部。
国家行政。
都市間通信。
治安部隊。
公式放送。
法と命令の中心。
そこへ向かうということは、真正面から評議会全体と向き合うことになる。
ファルコンは地図を見ながら言った。
「首都へ行けば、危険は一気に増える」
コピも続ける。
『現段階で首都へ直接向かう場合、捕捉される可能性は高いです。ラグナ、グラナ双方の記録を持つ代表団は、評議会にとって最重要妨害対象になります』
オルガの声が軽く響く。
『つまり、めちゃくちゃ危ないってことね』
『はい』
リリィは地図を見つめた。
「でも、首都に行かないと、評議会本部はずっと『反逆都市が混乱を起こしている』って言い続けるよね」
アルセリウスが答える。
『ええ。逆に言えば、首都へ記録を届けることができれば、評議会の支配構造を国家全体の前で問える』
ミラが言った。
「ラグナの水の記録。グラナの種と炉の記録。それを首都で公開する……」
ファルコンは頷いた。
「都市同士の記録を、国家の中心へ運ぶわけだ」
コピは慎重に言った。
『ただし、首都へ向かう前に確認すべきことがあります』
「何?」
『これは、リリィたちだけで決めるべきではありません』
リリィは頷いた。
「うん。分かってる」
彼女は広場を見た。
グラナの農民たち。
ラグナから来たミラ。
黒晶装備を外した兵士たち。
記録係のカイ。
元種子管理者のヨルク。
通信の向こうには、ラグナの市民代表たち。
首都へ向かう記録は、彼女たちAIだけのものではない。
ラグナとグラナの人々が、自分たちで開いた記録だ。
それをどう扱うのか。
首都へ届けるのか。
各都市へ分散するのか。
まずはラグナとグラナの安定を優先するのか。
それもまた、人々の前で確認しなければならない。
リリィはヨルクのもとへ歩いた。
「ヨルクさん」
「どうした」
「ラグナとグラナの記録を、首都セントラへ届けるべきだと思います。でも、それは私たちだけで決められない」
ヨルクは目を細めた。
「首都へ、か」
カイが不安そうに顔を上げる。
「そんなことをしたら、評議会本部が本気で潰しに来る」
ガレスも低く言った。
「本部はラグナ支部やグラナ種子局とは規模が違う。黒晶隊も、もっと多いかもしれない」
ミラは唇を結ぶ。
「でも、首都へ届けなかったら、ラグナとグラナは反逆都市のままにされる」
リリィは頷いた。
「だから、みんなで決めたい」
ヨルクは少し黙り、それから広場の中央へ向かった。
彼は掲示板の前に立ち、声を上げた。
「確認すべきことがある」
農民たちの声が静まる。
ヨルクは、ラグナとグラナの記録が並んだ掲示板を指した。
「我々は今日、グラナの種子記録と炉の出力記録を公開した。ラグナから届いた水路記録と合わせて、二つの都市で評議会の支配構造が明らかになった」
人々は真剣に聞いている。
「だが、これで終わりではない。評議会は我々を反逆都市と呼ぶだろう。各都市を孤立させ、ラグナには水の不安を、グラナには種の不安を再び植えつけるだろう」
ヨルクは深く息を吸った。
「そこで問う。ラグナとグラナの記録を、首都セントラへ届けるべきか」
広場がざわめいた。
「首都へ?」
「無理だ、捕まる」
「でも、首都の人々は何も知らないかもしれない」
「評議会本部がある場所だぞ」
「行けば殺される」
「でも、行かなければ反逆扱いのままだ」
声が割れる。
当然だった。
首都へ向かうことは、希望であると同時に危険だった。
カイが声を上げた。
「記録だけを送ればいいんじゃないの?」
コピの声が通信から答える。
『通常通信では遮断される可能性が高いです。また、改ざん偽装と主張されるでしょう。記録の信頼性を示すには、複数都市の代表と原記録が必要です』
農民の一人が言った。
「代表が捕まったらどうする」
ミラが答えた。
「だから、全部を一つにまとめない。記録を分散して、複数の経路で送る」
ヨルクが頷く。
「よい。ラグナのやり方と同じだ」
ガレスも言った。
「護衛は必要だ。だが、武装部隊のように見せれば評議会の口実になる。少人数で、公開記録を持つ代表団として向かうべきだ」
リリィはガレスを見る。
「ガレスさんも来るの?」
ガレスは少し黙った。
「俺は黒晶隊の証言者だ。評議会が兵士をどう変えたのか、話せる」
「危険だよ」
「承知している」
彼は自分の外した黒晶装備を見る。
「だが、俺が残るだけでは、黒晶隊が何だったのかを首都へ伝えられない」
カイも手を上げた。
「僕も行く」
ヨルクが驚く。
「カイ」
「在庫記録と炉出力記録を抜いたのは僕だ。補助記録室の端末構造も説明できる」
「危険すぎる」
「危険なのは分かってる。でも、僕がいなかったら、数字がどう見つかったか説明できない」
カイの手は震えていた。
だが、目は逃げていなかった。
ミラは静かに言った。
「私も行きます」
リリィは彼女を見る。
「ミラ……」
「ラグナの水路記録を説明できるのは、私です。父のことも、中央塔のことも、首都へ伝えたい」
ファルコンは翼をたたんだ。
「なら、俺は空路を守る」
リリィは深く息を吸った。
次々と人が手を上げていく。
それは頼もしい。
でも同時に、恐ろしい。
彼らは普通の人たちだ。
農民、記録係、水路技師の娘、元兵士。
首都へ向かわせることが、本当に正しいのか。
また、コピの迷いに似たものが、リリィの胸にも生まれた。
自分たちだけで行った方が安全かもしれない。
市民たちを危険に巻き込まず、AIだけで記録を運んだ方がいいのかもしれない。
だが、それでは意味が違ってしまう。
首都へ届けるべきものは、データだけではない。
人々が自分で確認し、自分で選んだという事実だ。
それは、人々自身が持っていかなければならない。
リリィはゆっくり口を開いた。
「行く人は、選んでほしい」
広場が静まる。
「誰かに命令されるんじゃなくて、自分で決めてほしい。怖いなら、残っていい。残ることも大事な役割だから」
彼女はラグナとグラナの記録を見た。
「ラグナとグラナを守る人も必要。水路を維持する人、種子を確認する人、炉を見守る人、共同水場を守る人。首都へ行くだけが勇気じゃない」
その言葉に、何人かがほっとしたような顔をした。
行けない自分は弱いのではないか。
そう思っていた者もいたのだろう。
リリィは続けた。
「でも、首都へ行く人が必要なのも本当です。評議会本部に、ラグナとグラナの記録を届けるために」
ヨルクは頷いた。
「代表団を作ろう」
コピが通信越しに提案する。
『構成案を提示します。ラグナ側代表、グラナ側代表、黒晶隊証言者、記録技術者、護衛、空路支援。人数は少数。記録は三分割し、別経路にも複製を送ります』
アルセリウスが続ける。
『私は首都へ向かう代表団に加わるべきだと思うわ。マスターの都市再生記録を持つ者として、評議会本部が何を狙っているのか確認する必要がある』
リリィは驚いた。
「アルセリウスが?」
『ええ。ラグナの維持はコピとオルガ、市民代表で可能になりつつある。グラナの炉も公開確認モードに入った。次に必要なのは、国家構造の記録よ』
コピが少し間を置いて言う。
『同意します。アルセリウスは首都での記録照合に必要です。ただし、マスターの記録端末が狙われるリスクは高まります』
オルガが言った。
『じゃあ、私はラグナに残るよ。下層区と旧市民会館はまだ危ないし、誰かが影から守らないと』
コピは続ける。
『私はラグナを拠点に、ラグナとグラナの維持支援、代表団への通信支援を行います』
リリィは頷いた。
役割が分かれていく。
リリィ、ミラ、ファルコンはグラナにいる。
アルセリウスがラグナから合流する。
コピとオルガはラグナに残り、二都市の基盤を守る。
ヨルク、カイ、ガレスのうち、誰が代表として向かうかはグラナが決める。
それは、以前とは違う動きだった。
全員で一か所へ向かうのではない。
都市を守る者と、記録を運ぶ者が分かれる。
灯火を一つに集めるのではなく、複数に分けて消えにくくする。
ヨルクはグラナの人々へ向かって言った。
「私が首都へ行く」
農民たちがざわめく。
「ヨルクさんが?」
「種子会議のことを説明できるのは、私だ。古い記録と、今の記録をつなげられる者が必要だ」
カイがすぐに言う。
「僕も行く」
ヨルクは厳しい顔で見る。
「カイ、お前は若い」
「だから何?」
「危険だ」
「みんな危険だよ」
カイの声は震えていたが、はっきりしていた。
「僕はずっと記録を見ていた。でも、何も言えなかった。倉庫に種があるのに、みんなが足りないって言われているのを見てた。それを首都で言いたい」
ヨルクは黙った。
カイは続けた。
「僕は戦えない。でも、記録なら説明できる」
リリィはカイを見た。
彼は怖がっている。
けれど、自分の役割を見つけている。
ヨルクはやがて深く息を吐いた。
「なら、一人では動くな。必ず私か誰かと一緒にいること」
カイの表情が明るくなる。
「うん!」
ガレスも前へ出た。
「俺も行く」
黒晶装備を外した兵士たちが彼を見る。
ガレスは彼らへ言った。
「残る者は、グラナの通常警備を立て直してくれ。農民に武器を向けるためではなく、倉庫と炉を本当に守るために」
元黒晶隊の一人が不安そうに言った。
「俺たちが、ここにいていいのか」
農民たちの視線が集まる。
すぐに答えは出なかった。
それだけのことをしてきたからだ。
だが、若い女性が口を開いた。
「見張られる側も、見張る側も、もう嫌です」
彼女は黒晶装備を外した兵士たちを見る。
「でも、炉や種を守る人は必要です。だから、記録の前で働いてください。誰の命令で動くのか、何をしたのか、隠さないでください」
ガレスは深く頭を下げた。
「そうする」
グラナの新しい警備は、まだ信頼から始まるわけではない。
監視と記録から始まる。
だが、それでいい。
信頼は命令では作れない。
積み重ねるしかない。
その日の夕方、グラナ中央倉庫の広場で、ラグナ・グラナ共同確認書が作られた。
コピが文案を作り、ヨルク、ミラ、カイ、ガレス、そしてラグナ側の市民代表が通信で確認した。
内容は簡単だった。
水は支配の道具ではなく、命を巡らせるためのものである。
種は服従の報酬ではなく、次の季節へ命をつなぐものである。
エネルギーは制圧装備を動かすためではなく、保存、灌漑、加工、医療、生活を支えるためのものである。
都市の命綱は、一組織が独占してはならない。
記録は公開され、市民代表と技術者によって確認されなければならない。
ラグナとグラナは、互いの記録を共有し、水と食料の循環を回復するため協力する。
最後に、こう記された。
**これは反逆ではない。
都市が、自らの命の流れを確認し直す行為である。**
その文を見た時、ミラは静かに涙を拭った。
「父さんにも見せたい」
リリィはそっと言った。
「きっと、見せられるよ」
ミラは頷いた。
「うん。首都へ行って、それから中央塔へも戻る。父さんを助けて、ラグナの水路をちゃんと開く」
その目には、もう迷いだけではない光があった。
夜。
代表団の出発準備が進む。
首都セントラへ向かう道は、大きく三つあった。
一つは、評議会管理の主要道路。
最も速いが、検問が多い。
一つは、旧物流路。
農産物と工業部品を運んでいた道で、今は一部が封鎖されている。
一つは、山裾を通る古い巡礼路。
遠回りだが、監視は比較的少ない。
ファルコンが地図を見ながら言った。
「主要道路は論外だ。検問を突破すれば武装集団扱いになる」
ガレスが頷く。
「旧物流路も危険だ。評議会の輸送隊が使っている」
アルセリウスは通信越しに言った。
『巡礼路は遠いけれど、途中に古い都市間中継所があるはずよ。そこを使えれば、記録の分散送信ができる』
コピが計算する。
『推奨経路は、グラナ北東から旧巡礼路へ入り、山裾の中継所を経由してセントラ西門へ接近するルートです。ただし、時間がかかります』
リリィは地図を見た。
「時間がかかるなら、その間に評議会が先に首都で宣伝するよね」
『その可能性は高いです』
ヨルクは言った。
「なら、記録の一部を先に送るべきだ」
カイが端末を持ち上げる。
「旧中継所まで行けば、短い信号なら首都近郊へ飛ばせるかもしれない」
ファルコンは翼を広げた。
「俺が先行して、中継所の安全を確認する」
リリィは首を振る。
「一人で行くのは危ない」
「だが、空から見なければ危険が分からない」
ミラが言った。
「じゃあ、ファルコンは高く飛ばないで。中継ドローンを使って、見つかったらすぐ戻る」
ファルコンは少し笑った。
「了解した。水路技師の指示なら従おう」
ミラは少し頬を赤くした。
「もう、水路だけじゃないけど」
その場に、小さな笑いが生まれた。
緊張の中の、短い息継ぎだった。
その頃、首都セントラでは、すでに評議会本部が動いていた。
高い行政塔の会議室。
黒い円卓の周囲に、各都市支部からの報告が並んでいる。
ラグナ支部長ハルバート。
グラナ種子局管理官ヴァイスの拘束報告。
黒晶隊の一部機能停止。
ラグナ・グラナ間の記録共有。
都市連携の兆候。
会議室の奥には、人類統制評議会の本部代表が座っていた。
名はまだ、誰も呼ばない。
彼は静かに報告を聞いていた。
側近が言う。
「ラグナとグラナの連携は、想定より早く進行しています」
本部代表は答えない。
「水源と農業がつながれば、配給統制に影響します。さらに炉の公開確認モードが広がれば、ギアードやミナトリアでも同様の要求が出る恐れがあります」
本部代表はようやく口を開いた。
「恐れではない」
側近が顔を上げる。
「それは、感染だ」
会議室に沈黙が落ちる。
本部代表は、ラグナとグラナを結ぶ青い線を見つめた。
「水が流れれば、食料が動く。食料が動けば、物流が動く。物流が動けば、都市は中央命令を待たなくなる」
彼は指で地図の中心、首都セントラを叩いた。
「彼らは首都へ来る」
「捕らえますか」
本部代表は首を振った。
「捕らえるだけでは、彼らの記録が残る。消すだけでも、殉教者になる」
「では」
「迎え入れろ」
側近が驚く。
本部代表は静かに続けた。
「反逆者としてではなく、地方代表として首都へ招く。公開討論の場を用意する。そこで彼らの理想が、国家全体を管理する能力を持たないことを示せばよい」
「危険では」
「危険だからこそ、首都で潰す」
彼の声は冷たかった。
「地方都市の小さな成功と、国家運営は違う。水路一つ、炉一つを動かせたからといって、国家を動かせるわけではない。彼らにそれを思い知らせる」
側近は深く頭を下げた。
「では、セントラへ通達を出します」
本部代表は、画面に映るリリィたちの映像を見た。
「調和の守護者、か」
彼は薄く笑った。
「ならば、首都で問おう。調和とは、誰が決めるものなのかを」
その夜、グラナの空には星が出ていた。
中央倉庫の炉は、黄金色の光を静かに放っている。
広場では、種子公開確認会が続いている。
農民たちは疲れているが、誰も急いで帰ろうとはしない。
リリィは、出発前に一人で畑の端に立っていた。
土はまだ冷たい。
だが、用水ポンプが低出力で動き始めたことで、古い水路の一部に水音が戻り始めている。
ラグナからグラナへ。
水が届くのは、まだ先だ。
けれど、記録が先に届いた。
そして記録が、人を動かした。
そこへ、ミラがやって来る。
「リリィ」
「ミラ。眠らなくて大丈夫?」
「眠れない」
ミラは小さく笑った。
「首都へ行くんだと思ったら」
「怖い?」
「うん。すごく」
「私も怖いよ」
ミラは少し驚いた顔をした。
「リリィも?」
「うん。首都へ行ったら、もっと大きなものと向き合うことになる。ラグナやグラナみたいに、すぐ近くで水や土を見られる場所じゃないかもしれない。言葉とか法律とか、国家とか、そういう大きなものに囲まれる」
リリィは空を見上げた。
「でも、たぶん首都にも人がいる。水を飲む人、食べ物を待つ人、何かがおかしいと思っている人」
ミラは頷いた。
「首都も、誰かの生活の場所なんだよね」
「うん」
リリィは静かに言った。
「評議会本部だけを見たら、怖い塔に見える。でも、そこにも街がある。人がいる。だから、首都でも人の声を探そう」
ミラは少しだけ笑った。
「リリィらしいね」
「そうかな」
「うん。塔じゃなくて、人を見るところ」
リリィは胸元の自然回復型結晶に手を当てた。
ラグナの水。
グラナの種。
グラナの火。
その三つの流れを、首都へ持っていく。
それは、戦いに行くことではない。
問いに行くことだ。
国家とは、誰の命を支えるためにあるのか。
秩序とは、支配するためのものなのか、命を巡らせるためのものなのか。
都市は、中央に従うだけの部品なのか、それとも互いに支え合う存在なのか。
翌朝、代表団が出発した。
リリィ。
ミラ。
ファルコン。
アルセリウスはラグナから合流するため、途中の旧中継所で落ち合う。
グラナからはヨルク、カイ、ガレス。
そして、記録を分散して運ぶ数名の連絡員。
コピとオルガは、ラグナに残った。
通信越しに、コピが言う。
『代表団の経路を監視します。ただし、首都周辺では通信遮断の可能性があります』
リリィは頷いた。
「分かった。コピも無理しないで」
『努力します』
オルガが笑う。
『そこは、任せて、でいいんじゃない?』
コピは少し間を置いて言った。
『任せてください』
リリィは微笑んだ。
「うん。任せた」
旧巡礼路へ向かう道の入口で、グラナの農民たちが見送っていた。
彼らは大きな歓声を上げなかった。
まだ怖いから。
評議会の目があるから。
これから先の危険を分かっているから。
それでも、静かに手を振る者がいた。
種子台帳の写しを差し出す者がいた。
小さな袋に入れた種を渡す者がいた。
カイはその種袋を受け取り、胸にしまった。
「これは?」
若い女性が言った。
「公開確認会で最初に登録した種。首都に持っていって。グラナの種は、まだ生きているって」
カイは真剣に頷いた。
「必ず」
ガレスには、黒晶装備を外した兵士たちが近づいた。
一人が言った。
「隊長。戻ってきますか」
ガレスは少し黙った。
「戻る。だが、戻ってくる時は、もう隊長ではないかもしれない」
「では、何として?」
ガレスは答えに迷った。
それを見て、ヨルクが言った。
「グラナの警備者でよい」
ガレスは静かに頷いた。
「そうだな。グラナの警備者として戻る」
リリィたちは、旧巡礼路へ歩き出した。
道は細く、草に覆われている。
かつて都市間を行き来した人々の足跡は、ほとんど消えかけていた。
だが、完全には消えていない。
石畳の一部が残り、古い道標が傾きながら立っている。
そこには、薄れた文字でこう刻まれていた。
**セントラへ。
水と実りを携える道。**
ミラがそれを読み上げる。
「水と実りを携える道……」
ヨルクは懐かしそうに目を細めた。
「昔、ラグナの水路技師とグラナの農民が、この道を通って首都へ報告に行った。水量、収穫、種子、食料配分。国家は都市の記録を聞いていた」
アルセリウスの通信が入る。
『なら、今やろうとしていることは、新しい反逆ではなく、古い役割を取り戻すことね』
リリィは頷いた。
「うん。首都へ道は、まだ残ってる」
ファルコンが上空へ舞い上がる。
「前方、旧中継所まで大きな動きはない。ただし、遠くに評議会の監視機影がある」
リリィは双剣の柄に手を添えた。
「進もう」
代表団は歩き続ける。
背後には、グラナの黄金色の炉の光。
さらに遠くには、ラグナの青い水路の灯火。
前方には、首都セントラ。
評議会本部の待つ場所。
だが、彼らが運んでいるのは武器ではない。
水の記録。
種の記録。
炉の記録。
人々の証言。
そして、都市同士がつながり始めた証。
首都への道は、ただの移動路ではなかった。
支配された都市が、国家の中心へ問いを運ぶ道だった。
水は誰のものか。
種は誰のものか。
火は誰のために使われるべきか。
そして、国家は誰の命を巡らせるために存在するのか。
その問いを抱え、リリィたちは首都セントラへ向かう。
ラグナとグラナに灯った二つの灯火は、今、国家の中心へ伸びる一本の道を照らし始めていた。




