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魚の傘下

 廃墟は周辺に自生するツル植物や雑草の成長を固くせき止めて建っていた。かつて白塗りだった壁から苔の粒が生え、伸びてからみついたツタが、自重に耐えかねて走った亀裂の影になっている。二階部分へ首を傾けると、ガラスの貼られていない窓が奥へ連続し鉛色の空を見通している。雨が降っていた。建物にあいた大小様々の穴が当時ここで鳴っていた轟音をさらけ出すようだった。しかし僕はこの地域の歴史についてはまるで知らなかった。国の名前も知らない。今の僕にはこの差している傘と、ポケットの財布と使えるかも分からない現金、圏外表示のスマホだけであり、帰れる見込みもなくただ歩き続けていた。疲れていた。

 傘を畳み、崩れたおかげでできていた屋根の下の壁に立てかけておいた。

 中はところどころ壁が崩れて外の明かりが入り、光の届いていない部分はなおさら暗くみえていた。家具は割と原型を残しているものもあったし、破片だけが重なって残っているものもあった。中でもキッチンスペースは状態が良好であり、そのトレードオフとしてほとんど光が届いておらず、プラスチックの白色とその輪郭だけがぼんやりと形を浮かべていた。冷蔵庫を開けたが製氷機の中が水浸しである以外はきれいに空っぽだった。キッチンの外で、雨の音が勢いを衰えていくのが聞こえていた。続けて薬棚の方に視線を回した。

 立てかけていた傘を持ちあげ、雨は休んでいるうちに上がっていた。厚い雲は晴れずに継続して空を覆っている。僕はこの廃墟から離れることにした。手に入れた物はなかった。

 そういえばああいった廃墟を見つけたのは、歩き始めてから初めてのことだった。これまでは建物があったとしてもそれは留守の空き家であるだけで、その認識が僕の空き巣行為を引き留めていたのだった。しかし廃墟だからと忍び込んでも、こうも収穫がないのなら歩くあいだに建物と出くわすことが一体なんだというのだろう。地面から伸び空中に広がりをみせる植物の葉やツタには距離を歩くたびに鬱蒼とさせられた。僕は明らかに深い場所へと進みつつある。それが分かっていても、進行方向を変えるためにはかなりの労力が要った。僕は疲れていた。このまま同じ方を向いて、足を一定の速度で動かし続けるのが一番楽だったし、他の方向があることなど忘れたように足を止めなかった。時間の流れに身を任せ、自然に解決することをひたすら待っていた。

 視界が開けると森に囲われた小高い丘がみえ、そこに丸太で組まれた一軒の小屋が建っていた。その小屋は僕の視線と重なった上だった。疲れからむしろ歩行のペースは早まるのがわかった。密閉された靴の中は、真昼の砂漠に足を滑らせていた。


 小屋の扉を開け、先客が座っているのに少しぎょっとしたが、声は喉に引っかかって出ずに済んだ。床に胡坐をかく肌の薄く赤い男。防水加工の艶めいたジャージを上下ともに通し、耳が半分まで覆われるよう灰色のニット帽を深く被っている。そのひざ元には一際目立つ、人魚の死骸が横たわっている。濡れた死骸だ。しずくは張力と重力のはざまで安定し、垂れることなく体に付着しているのがイボのようだった。だがその水滴の付き方はさっき海から揚げてきたばかりというよりは、作業のために一度水を流したという具合であり、上半身の人肌には腐敗による黒ずみが目立っていた。男はその人魚の下半身に粗いスポンジを当て、磨き込むように鱗を洗っていた。飛び散って落ちる人魚の鱗は、僕から男まで数mの距離から見てもはっきりとした青い色を輪郭のうちに沈ませている。鱗の視認性のよさはその発色の濃さ、ブナの葉ほどあるサイズのおかげだった。そして本体である人魚の全長は、見立てでは男よりも少し大きい。男は鱗を洗うことに集中するあまりか、まったくこちらに気づく様子をみせなかった。

 だが気づいていた。

「誰かな。勝手に入ってきたのは。」

 男は人魚から顔を上げずに言い、その声は思いのほか若かった。下げっぱなしの顔をあげてくればまた印象が変わるかもしれない。警戒が解けない僕は答えるのがワンテンポ遅れ、その間に男の方が再び口を開いていた。

「別に誰でもいいさ。答えなくていい。出ていくのもここに居るのも構わない。」

 男の言葉は中途半端に途切れ、そのまま会話ごと途切れてしまった。僕と男は、両者とも会話が得意ではないように思えた。ある程度会話ができる人ならば、自分の話すことの最後には必ず、キリがよく聞こえるように着地点を探すはずが、この男にはその気すら毛頭なかったように聞こえる。こうして僕が相手の会話術を批評するあいだ、男の方は何を考えているのか分からない。その手は一心不乱に鱗を削ぎ続け、僕から見える甲の部分が鱗にまみれていた。僕が観察することもとくに気にしていない様子であり、長いあいだ固定されたままの男の胡坐を思うと、自分の太ももやくるぶしにまでその痺れが伝わってくるようだ。僕は男との距離を保ったまま、膝を抱えて座り背後の扉にもたれかかった。

 二人とも会話が得意でないという推測をしたが、二人ともかなり沈黙に対し強かった。僕は沈黙を気にしながらも、まあいいかの呪文で打ち消し、男の方はずっと首をうずめたまま鱗を洗い落としている。人魚の死骸の、瞼が開かないことが段々奇妙に思えてくるほどに、力の抜けた体が男の腕力に揺らされ、男のスポンジを握る方の手はすでに鱗で青く染まっていた。一匹の美しい魚のようになっていた。いつまでも鱗は取りきれる気配すら、減っているのかも僕の目には分からなかった。小屋には独特のにおいが、籠った湿気によって停滞していた。人魚の死骸は案外、安いビニル製品と似たにおいを放っていた。僕も男も換気をするつもりはなく、二人とも沈黙という時間に馴染みすぎていた。僕は目の前の作業を見るでもなく視界に入れている。男が磨いて人魚の体を揺すり、それに手足が遅れて揺れる共振という現象が、ここで唯一起こっている物音だった。雨の止んだ外は静かだった。風も吹いていない。僕らは勝手に鳴る音によって正気を保っているのだろうと思った。木の版を規則正しく敷き詰めてある床に揺れた人魚の背中や尻が擦れ、僕は膝を抱える腕を組み直すと耳の裏に汗がにじんでいた。さっきから鱗はやはり減っていない。かといって玉ネギみたいに剥きすぎて小さくなっているわけでもない。つまり男の鱗取りは進捗がゼロだった。まったくそんな動きは見られないが、単純に考えれば、人魚の尾の内部からは新しい鱗が古い鱗を押し出して膨らんできているのだろうか。だがもしそうだとすると、今この人魚は気を失っているだけであって、生命活動を続けているということになる。生きている可能性がある。仮にそれが真実だったとして、今さらになって人魚が目を覚ましても、ここは海の中ではなく小高い丘の上の小屋だった。加えて偏執的な男につかまってしまっている。いくらこの場の誰よりも体格で勝っているからといって、もう死んでいるも同然だろう。男のひざ元に人魚が死んで、僕の頭の中で状況的に死んだ。途端に上半身の人肌がオレンジに燃え始めたのは、窓から雲間の夕焼けが差しているせいだった。その夕焼けは男のことも巻き込んでいたが、男は鋭い日差しを受けてなお一切目を細めることなくスポンジを擦り続けていた。それは極まった男の集中のせいなのか、または目が見えていないだけなのか、僕にはどうでもよくて会話の種をすりつぶした。すりつぶすためにどうでもいいと思い込んだ。日も落ちて人魚の発色がワントーン落ちて青白く、男の周りを埋めるほど落ちた鱗がどれも怪しい光を放っていた。男の手に貼り付いた鱗は脂汗にまみれ、表面に黄色い膜のような光が照り返している。人魚は死んでだらしなく横たわり、その上を行き来する男の手に揺らされていた。男の手から替えのないスポンジが破けて、屑玉がひとつふたつと飛び跳ねる。反対に疲弊する様子もない男は、今までずっと人魚の鱗に没頭していた。人魚の尾は来たときのまま、臍の下から尾ヒレが二股に割れる箇所までびっしりと青い鱗が生えそろっていた。この小屋を訪れてから、窓にみえる天候と時間帯だけが移り変わり、暗闇の中、落ちた鱗はまるで湖に浮かんでみえる。反射光に囲まれる男はいつまでも人魚に夢中だった。一辺倒でありながら力強い動作を止めることなく、夜目に映る二人は一つのシルエットだった。窓へ目をやると昼の雨雲はすっかり晴れそこには空が埋まるほどの星が散らばっている。小屋の外はその中よりもずっと広くて明るい。天井に突き動かされ、僕の背後には扉が閉じていた。

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