あなたのすべてをみたいから
もうすぐだ。
王子に与えられた控室は、密談をするにピッタリの場所であった。そこにはもう一人、王子の婚約者であるスミレの、腹違いの弟がいた。
姉を婚約破棄に追いやるにあたって、一番の功労者と言っても過言ではない。
「知っての通り、今から始まるパーティーで、私はスミレに婚約破棄を宣言する」
「存じております」
「お前の働きは、なかなかのものだった。姉を追い落とそうとするその執念は、理解できんがな」
王子の皮肉も、直立不動で受け入れる。
王子はグラスを2つ用意して、シャンパンを手ずから注いだ。
その無機質な仮面がなぜだか癪に障って、思わず尋ねていた。
「どうしてお前は、姉を追放するのにそこまで協力的だったのだ?」
すう、と彼は大きく深呼吸して、震える手でグラスを口に運ぶ。
と、流石に良心の呵責を感じないでもなかったか、グラスを床に落としてしまう。慌てて彼は、その破片を掻き集めた。
公爵令嬢の弟、カイ。
王子は最後の最後まで、彼の腹の中が読めなかった。
「恨みか?家を継ぐにあって、邪魔だったのか?」
有り得そうな可能性を列挙する。カイは、ただ静かに首をふる。
どうしても言うつもりがないのだろう。王子は諦めて、最後の身だしなみの確認と、鏡台の方に向き直った。
そこへ、音もなくカイが近づいて、手を一閃させた。
婚約破棄の宣言がここで行われる。それが予想できぬほど、公爵令嬢のスミレは理解できないわけではなかった。
ひそひそと、あるいは直接的な嘲笑の中で、壁に背中を預けて佇んでいる。その顔に、悲壮なまでの決意が滲んでいる。
「姉さん」
そこに、声がかけられた。振り返る。弟のカイが、グラスを片手に立っていた。
「あら、殿下のお傍にいなくていいの?」
声に怨嗟や、僻みの類が乗らないように気をつける。弟は、殿下は一人になりたいと仰って、と姉の言葉を躱す。
スミレにとって、カイという弟はよくわからない存在だった。ある日突然現れた、父の子供だという少年。どんな半生を送ってきたのか、決して笑わない。
自分は少しでも姉らしい事ができただろうか。自問自答の答えはすぐに出た。
もしそれができていたら、王子と組んで自分を追い落とすような真似はしなかっただろう、と。
「あなたには、なんら、姉らしいことはできなかったわね」
この状況になって、否、この状況だからこそ、スミレは淡々と語った。
「私は……きっとあなたにとっては、最低の姉だったのでしょうね。だからこうして、その責めを今向けられている。それは、仕方のないことだと思うわ」
そう言って、スミレは背筋を正し、深々と弟に頭を下げた。
「貴方さえいれば、きっとお家は上手くいく。後はすべて、お願いしていいかしら。どうか、私のいなくなった後、あの家を、守ってくださいな」
姉が頭を下げる姿に、周囲の視線が突き刺さる。ややあって、カイはゆっくりと口を開いた。
「……姉さん」
「……なに?」
彼は、驚くべき行動に出た。騎士のように片膝をつき、姉に、傅いたのだ。
「初めて会ったとき、私は、僕は、あなたに一目惚れしました。世の中にはこんなきれいな人がいるだなんて、思わなかった」
ポツポツと、彼は語る。
「あの母親からの嫌がらせからも庇ってくれて、僕を分け隔てなくきょうだいとして大切に扱ってくれて……姉さんには、返しきれない恩があります」
「……でも、それじゃ」
そう、その言葉は、今回の彼の動きとは真逆のもので。
もしかして、最後にこんな自分を慰めようとしているのだろうか。
答えはすぐに出た。
「姉さんが好きです。姉ではなく、一人の女性として。すべてを、僕のものにしたい。笑っている顔も、喜んでいる顔も、泣き顔も……貴族の誇りとして、理不尽に耐えようとする顔も。すべて」
「それ、は」
何を言っているのか、わからない。顔を上げたカイの目はともすれば吸い込まれそうなほど黒く、底が見えなかった。
「姉さんのすべてが見たい。僕のものにしたい。だから、だから僕は、あの殿下に協力しました。姉さんの、悲しむ顔も見たかった。同時に、こんなに魅力的な姉さんを、本当に殿下が見捨てるのか、見極めたかった。貴方に比べれば、新たに選ばれた令嬢なんて、比べ物にならない」
「なにを……」
「でも殿下は貴方を選ばなかった。それは僕にとって喜びであり、殿下に対する軽蔑に変わりました。だから、すべてを終わらせました」
呆気に取られるスミレに素早く近づき、カイがその唇を奪う。呆然とする姉を残し、自分を恨んでいたはずの弟は、人混みの中に消えていった。
殿下が控室で死んでいるのが発見されたのは、その直後だった。
厳重な警備の中で、鋭利な刃物で喉を引き裂かれて死んでいた王子。聞けば誰かと密談をしていたようだが、その相手はわからずじまい。
スミレはそれがカイの仕業と確信していた。しかし、彼は既に消息を絶っていた。婚約破棄も有耶無耶になり、スミレの立場は宙ぶらりんだった。
スミレには、カイの行動原理が理解できなかった。ただ、あのようや歪な愛がこの世に存在すると知ることができただけ。
事あるごとにスミレはカイのあの目を思い出した。そしてその度に背筋がゾクゾクとするのを感じて、自分とカイが、きょうだいであると悟らずにはいられなかった。