3 言葉が通じるのはなぜ?
【現代】
煤だらけの白衣を翻して矢内原が怒鳴る。
「ここは危険だ! 逃げるぞ!」
ヒカルの肩を抱いて医師の矢内原が処置室から出る。
来道は、立ち尽くす拓実の腕を掴んで「行こう!」と、促す。
「う、うん」と、拓実がヨロヨロと歩き出す。
来道は襲撃者の遺体を眺めて立ち止まる。
「……拓実君、先に行ってて。すぐ、追いかけるから」
処置室を出た拓実が慌てて矢内原を追う。
「うわあ、待ってくださいよう!」
矢内原と看護士がヒカルを両脇から支えて小走りに廊下を進む。
2回ほど角を曲がり、右手に進むと重そうな扉があった。
先を行く矢内原はカードを翳してドアを開け、ヒカルを連れて中に入った。
そして看護師に指示を出す。
「君は医局に戻って手伝いをしてくれ。ケガ人が多く出ているかもしれない」
看護士はそれを受けて「はい」と頷くと、廊下を直進して、どこかに向かった。
拓実は扉の中に入る。
そこは太いパイプが縦横無尽にはしる機械室のような部屋だった。
狭い通路を進む。
突き当りで矢内原はカードキーを使って、重厚な扉を開く。
その先はさらに秘密通路のようになっている。
矢内原はズンズン進んだ。途中で2回、階段を下りた。
拓実がそれに続き、途中で来道が追い付いてきた。
ヒカルを連れた3人は、しばらく速足で歩き続けて、ようやくまともな部屋に入った。
窓のない白っぽい部屋。
病院内だが、部屋の造りがそれらしくない。
来道が尋ねる。
「ここは応接室? リビングか?」
矢内原が答える。
「秘密基地。地下の隠し施設だ。超VIP用の」
来道が嫌味っぽく言う。
「どおりで豪勢なわけだ。有名人がお忍びで治療を受ける用か……」
矢内原が言う。
「ここなら安全だ。ここで九条ヒカル……いや、『藤原道長』を保護する」
拓実が、どもりながら主張する。
「お、お、おかしいですよ! あ、あり得ない。光はふざけているだけなんです! タイムリープなんて、あ、あり得ない!」
来道はヒカルの様子を観察しながら言う。
「でも、本人は藤原道長だって言ってるけど?」
矢内原が、お手上げだといった風に肩を竦める。
「検査結果は異状なし。それに、これがタイムリープや入れ替わりじゃないというなら、幽霊に乗っ取られたとでも言うのか?」
拓実は矢内原に顔を向けて否定する。
「違います! 仮に霊だとしても1000年も前の霊にですか? あり得ません!」
矢内原が呆れる。
「どうして断言できる?」
拓実には考えがある様子だ。彼は自信たっぷりに答える。
「言葉ですよ!」
矢内原が「言葉?」と、怪訝そうな顔をみせる。
「ええ。古典の授業で習ったんです。もし、光に乗り移ったのが本当に藤原道長だとしたら、言葉が通じるはずが無いんです」
矢内原が「というと?」と、続きを促す。
拓実は胸を張って解説する。
「平安時代の話し言葉は今とは全然違うんです。まるで外国語、というか方言みたいなものなんですよ。平安言葉を再現した動画を見ましたけど全然、理解できませんでした」
言葉の違い。それは想定していなかった。
確かに千年も前の言葉は、現代のものと大きく異なっているはずだ。
来道が呻く。
「うぅん。言葉の壁か。確かにそれは……」
「だから、光は、ふざけているだけなんですよ」
拓実は自信満々でそう断言する
そこで矢内原が、やれやれと首を振る。
「違うな。脳の構造だよ」
拓実が「へ?」と、意味が分からないといった風に、きょとんとする。
矢内原が人差し指を立てて拓実に質問する。
「例えば、『犬』という言葉を聞いた時。君は何をイメージする?」
拓実が「ああ……犬は犬ですけど」と、素直に答える。
「ちゃんとイメージできたようだな。では『サバーカ』と聞いたら?」
「サ、バァカ?」
拓実が分かるかい? といった風に来道を見る。
だが、来道も首を振る。
二人の反応を見て矢内原が言う。
「つまり、そういうことだよ」
しばしの沈黙。
拓実が「ちょ、それじゃ分かりませんよ」と、不満を漏らす。
そこで矢内原が腕組みしながら解説する。
「君の脳は日本語に慣らされている。言い換えれば日本語でフォーマットされているんだ。日本語をベースに概念が形成されているといった方が分かりやすいかな?」
拓実が口を尖らせる。
「そりゃそうでしょうよ。日本で生まれ育ったんだから」
矢内原がニヤリと笑う。
「だろうね。つまり、日本語の言葉と対象物がリンクされているんだよ。勿論、それはディープ・ラーニング、つまり学習したデータの積み重ねに限定されるがね」
難しい話に拓実の理解が追い付かない。
そんな彼に向けて矢内原が尋ねる。
「では『ジラフ』では何を思い浮かべる?」
「え? グラフ? 円グラフとか棒グラフ……」と、戸惑う拓実。
来道がその脇腹を突きながら「キリンだってば」と、突っ込む。
拓実が女の子のように恥じらう。
「あ、ああ、そうだっけ」
矢内原が頷く。
「そういうことだ。君の脳内では『ジラフ』という単語がキリンの画像や情報と繋がっていない。その概念が存在しないというわけだ」
しばし考え込んでいた来道が口を開く。
「ということは、藤原道長の意識は、姉ちゃんの脳に居候しているから、現代の言葉を聞いても理解ができると?」
矢内原は満足そうに頷く。
「そうだ。君は物分かりが良いようだ。そういう人間は嫌いじゃないよ」
「そりゃどうも」
一方、拓実は困惑している。
「いやいやいや……まるで話についていけないんですけど!?」
そこで来道が解説する。
「だから仮に今、拓実君の意識だけが、ポルトガル人の誰かに移ったとするよね。そしたら、そのポルトガル人の脳にストックされたポルトガル語の概念を通して言葉が理解できるってことだよ」
矢内原が補足説明する。
「むろん、考えたことを口に出すときも自動的に翻訳される」
「はええ! それは凄いですね!
ようやく拓実も理解したようだ。
矢内原が当たり前だといった風に言う。
「受動意識……意識の大半は観測者にすぎず、ほんのわずかの衝動に振り回される」
来道の視線に気づいた矢内原が咳払いする。
「ゴホン。受動意識仮説……だ」
【平安】
九条光の意識が目を開けると、見慣れぬ天井があった。
広い和室だ。宴会場みたいに広い。
「旅館? ここ……どこ?」
布団から起き上がると着物姿の女性が傍に居た。
彼女が涙を浮かべる。
「道長さま! 良かった!」
「え? 誰? てか、どういう状況?」
光は考える。
そして、これはドラマか映画の撮影なのだと推測した。
そういうものに出られるようになったという喜びはある。
だが、緊張しすぎて意識が飛んでしまったのだろう。
この場面に至る経過は記憶から完全に抜け落ちているが、失敗するわけにはいかない。
アイドルとして次のステップに進むための試練だ。
パニックを抑え込みながら大きな声で謝る。
「ごめんなさーい! 台詞とか全然、覚えてなくって!」
だが、反応は無い。
というかカメラどころかスタッフの姿もない。
居るのは髪を後ろに束ねた着物姿の女中のような人だけ……。
ふと、手の甲が目に入った。
「あれ?」
しげしげと自らの手の甲を眺める。
そして、ハッとしたように自分の顔を撫でまわす。
「え? え? 髭?」
「ちょ、鏡! 鏡ってあります?」
女中がいったん引っ込んで、恐る恐る金属鏡を出してきた。
普通の鏡ではなく、あまり映りが良くなさそうな金属製のものだ。
そこに顔を映して光が絶叫する。
「なにこれぇええええ!?」
そこに見慣れた自分の顔は無かった。
あるのはチョビ髭の男の顔。
今の自分の顔を確認して光の混乱は頂点に達した。
「誰、だれ、誰、だれれれえぇ!?」