不吉な予言
その日、私は学生時代からの友人と共に旅行するべく、早朝のJR新大阪駅にいた。結婚を目前に控えた私の為に、結婚祝い兼独身最後の思い出作りと称して、彼が企画してくれたのだ。
新幹線乗り場のベンチにかけ、始発の乗車時刻を待つ。ホーム内の線路では、新大阪発のぞみ二〇〇号が、白く滑らかな車体を横たわらせていた。
大学の文芸サークルで知り合った友人は、今は京都に住んでおり、次のJR京都駅で合流したのち、東京で東北新幹線へと乗り換え、目的地である青森を目指す予定だ。大阪、青森間の長距離を新幹線の座席にもたれ移動するなど、学生の時分には考えられなかった贅沢である。俺たちも大人になったんだなと、妙な感慨深さを覚えた。
まだ六時前だと言うのに、恋人から見送りのメッセージが届いていた。くれぐれも羽目を外しすぎないようにと言う注意と、お土産は太宰に縁のある物がいいとのことだった。彼女も友人同様文芸サークルの同期であり、今回の旅先の生んだ文豪、太宰治のファンだった。
了解の旨を返信し、スマートフォンをボディバッグにしまったところで、不意に嗄れた声が降って来る。
「……新幹線、乗らん方がええ」
「え?」驚いた私は顔を上げ、その発生源を探した。
それはすぐ近くにあった。私の腰下ろしたベンチの端っこに、いつの間にか一人の老女が座っていたのだ。先ほどの言葉は、彼女が発した物なのだろう。老女はほっかむりをしており、植物の根のような白髪を顔の前に垂らしていた。酷く腰が曲がっている為、私の方から見ると、「く」の字を反転させたような按配だ。草臥れた野良着姿や、山登りで使うような鈴の付いた杖、年季の入ったナップサックなども相俟って、私は横溝正史の『悪魔の手毬唄』に登場するおりん婆さんを連想する。
片田舎の道端ならいざ知らず、都会の駅の新幹線乗り場でこんなお婆さんに声をかけられるなど、思ってもみなかった。それだけでも十分に不気味な体験であるのに、先ほど彼女は何と言ったか。
「どう言う意味ですか?」
私は返事をしてよいものか少し迷ったのち、そう尋ねた。
「……よくないことが起こるけん、始発には乗らん方がええチうとるんや」
耳慣れた大阪の方言とは違う、老女の言葉には独特の訛りがあった。
尋ね返してみたはいいものの、やはり言っている意味がわからない。よくないこととは、漠然とし過ぎていやしないか? 始発が事故を起こすとでも言うのか? そして、そんなことがこの老女には予見できるとでも?──私は苦笑するしかなかった。
「よくないことって、いったい何の話です? 急にそんな風に言われても、ちょっと」
「信じられんチうなら、それでもええ……。わしは忠告したけんが、あとはあんたの好きにしなされ」
「はぁ」おかしなことを言う婆さんだ。「お婆さん、もしかして占い師とか?」
思わず不躾な尋ね方をしてしまった。
はたして、彼女の答えは、
「……そんな大袈裟なもんやない。ただ、人の『不幸』がわかるだけやが。……あんたの場合、あと三十分もせんと、死んでまうわ」
腕時計を見てみると、時刻は午前五時五十六分。老女の予言が本当であれば、始発は名古屋に到着することなく事故を起こすことになる。
「どう言う理屈なんです? 何か、神様からお告げを受けたんですか? それとも、そう言うヴィジョンが頭に浮かぶとか?」
私は呆れたり不快に感じるのを通り越し、この奇妙な出逢いを面白がっていた。車中での話のネタになりそうだ、と。
しかし、彼女は私の問いには取り合わず、相変わらず目線を足元へと這わせたまま、
「……可哀想にねぇ……本当に、可哀想……」
そう来たか。
強いて言えば、朝っぱらからこんな惚けた老人に絡まれていることが「可哀想」なのではないか? そう言ってやりたかったが、もちろん堪える。
話にならないな。そう思い、私は彼女との会話を切り上げようとした。
──の、だが。
そこでおりん婆さん風の婆さんは、聞き捨てならないことを口にした。
「……結婚前やのに、こんなところで死んでまうなんてねぇ……」
「えっ?」私は短く声を上げていた。「どうしてそれを……」
しかし、またしても予言者は応じない。
聞き間違えだったのかと、自分の耳を疑ったのも束の間、
「……その娘も悲しんどるねェ……大学の頃から連れ添ったっチうのに、あんた一人先に逝ってまうんやから……」
「ち、ちょっと待ってくださいよ。もしかして、僕のことを調べたんですか?」
そうとしか思えなかった。
そして、その方が予知能力などよりもよっぽど恐ろしい。えてしてオカルトやファンタジーよりも、リアルな人間の悪意の方が、何倍も怖いものだ。
「……あんたのことなんて、調べたって何にもならんじゃろが」
「いや、でも──じゃあなんで」
「わかるんや。わしには、なァーんでもお見通しやがな……」
そんな風に言われて、到底納得できるはずもなかった。しかし同時に、単なる痴呆症のお年寄りではなさそうだ、と言う予感を抱き始める。
「……あんたが小学生の頃、遠足の前日に校庭の遊具から落ちて、頭を切ったことも……中学の修学旅行当日の朝に、盲腸が発覚って入院したことも……高校三年の時の文化祭に、お祖父さんが亡くなって参加できんかったことも……大学の卒業式の日の朝、バイクで転んで病院に運ばれたことがあるのも……ちゃァーんとわかっとる……」
私は愕然とした。老女の語った不幸な履歴は、悉く私の体験と一致していたのだ。
私は俄かに──いや、急速に、恐怖を覚え始めた。もしかしたら、この老女は本当に超常的な予知能力を有しており、乗り込んだ始発が事故に合い私が死ぬと言う不吉な予言も、的中してしまうのではないか、と。
──そんな非現実的なことあり得るはずがないじゃないか。そう思っても、一度抱いてしまった不安を完全に打ち消すのは難しい。
私は何と言ってよいものかわからず、しばし予言者の姿を凝視していた。すると不意に、乗車可能を告げるアナウンスが早朝の静けさを打ち破る。私は思わず体を慄わせた。
「……どうしなさった? 乗らんでええんか? ……それとも、わしの言葉を信じる気になったんかい?」
すぐには答えられなかった。
しかし、迷っている間にも、刻一刻と発車時間は近付いて来る。今回の旅の為に友人が予約してくれた座席を、こんな得体の知れない老女の為に無駄にしてよいものだろうか? 当然、そんなものに、自分の命と同じ天秤に乗せるほどの価値はないだろう──が、そもそも彼女の予言したことが本当に起こる、と言う保証もない。いや、そんな馬鹿なこと、起こりっこないではないか。
私は、「失礼します」とだけ言って腰を浮かせ、旅行鞄を肩にかけた。
老女の方は振り返らずに、棺桶じみた四角い口を開け、私を待つ電車へと向かう。
「…………」
意外にも、彼女は無言で私を見送った。
指定席のある車両のドアから車内へ入ったものの、私はすぐに座席の方へ移動できなかった。後ろ髪を引かれる思いで、デッキから駅のホームを眺める。
発車の時刻が迫る。
時折何度か、他の乗客が訝しげに──あるいは迷惑そうに、私に一瞥をくれながら横を通り過ぎて行った。
その間も、老女は石かヤモリかのように、まんじりたりとも動かない。
ただ、とうとうタイムリミットを告げるアナウンスが流れた、その時。
「……くわばら……くわばら」
長く垂れた白髪髪の間に覗く、皺くちゃの口が、そう動くのが見えた。
※
新大阪発のぞみ二〇〇号は、定刻どおりに発車した。その長い車体は何の障害もなく加速し、泳ぐようにホームから滑り出す。プリニウスの『博物誌』に登場するアンフィスバエナのように、尾の先に生えたもう一つの顔が──そこに灯った二つの赤い瞳が──、都市の中を走る線路の先へ、どんどん遠ざかって行く──
その様子を、私は白線の内側に立って見送った。
馬鹿なことをしたものだ、とせいぜい自嘲した。意気地のない私は、結局老女の占いを信じ、駆け込み乗車ならぬ「駆け出し下車」をしてしまったのだ。
しかも、ホームに戻り、乗るはずだった電車を見送っているうちに、予言者の姿はいずこともなく消えてしまっていた。杖を突いた老人が、この短時間で視界に映らなくなる距離まで移動できるとは、到底思えない。まさか、寝ぼけて夢でも見ていたのだろうか?
何にせよ、乗り過ごしてしまったものは仕方ない。
今から青森までの乗車券を買うとなると、かなりの出費だ。どうしたものか迷った末、ひとまず友人にこのことを報告することにした。
彼の連絡先を呼び出し、電話をかける。友人にはすぐに繋がった。
おかしな老人の口車に乗せられたことは省略し、今の状況を伝える。当然ながら、彼は驚いた様子で、「本当に乗らなかったのか?」と尋ねて来る。
「ああ。悪かったよ。少し──トラブルがあって」
私が言い終えるのを待たずして、通話は一方的に終了された。
そしてその間際、ハッキリと聞こえたのだ。
「……ちっ」