御前授業
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
―――王妃陛下、御不例
その報せは王妃に随行していた警護の女性儀仗兵によって静かに……且つ迅速に東校舎の海軍科教室にて授業の観覧中であった国王へと伝達された。但し、伝令の儀仗兵が国王の居場所が判らずに西校舎(陸軍科二回生教室)、北校舎(陸軍科三回生教室)の順に探し回ってしまった為に、国王が「王妃倒れる」の一報を受けるまでに同じ構内で20分近い時間を要してしまった。
しかも王妃随行の者達は、本校舎2階西端の教頭室へ通報するという事を失念していた為に……教頭がこの騒動を午前の授業が終わる頃まで知る事は無かった。……と言うよりも彼自身にしてみれば「それどころじゃない」という心持ちだったかもしれない。
「1月25日に開廷される『イゴル・ナラ中佐の服務規定違反』に関する軍法会議に於ける弁護側証人として、貴官への出廷を求める」
という通知が、よりにもよってこの観覧式の当日に軍務省から届いたのだ。ハイネル・アガサ教頭は、これによって初めて「イゴル・ナラが憲兵に拘束を受けた」という事実を知るに至った。
そしてこの軍法会議には検察側からも証人としての出廷要請が別の人物に宛てて出されていた。人事局教育部長のモンテ・デヴォン少将である。
そのデヴォン教育部長は、そのような要請通知が自らの下に届いている事を現時点では知らないままに、観覧式における国王陛下の随員の一人として、その列尾に付いていたところに「王妃陛下、御不例」の報せが届いた事になる。
「何があったのだ?何か事故でも起きたのか」
落ち着いた態度で御下問される国王陛下に、今回の随員責任者であるエリオ・シュテーデル近衛大佐が耳打ちするような小声で
「報告によりますれば……事件や事故では無い由にございます。現在王妃陛下は一先ず救護室へ御移りになられているそうでございます」
と報告した。
「そうか。それでは授業の邪魔をせずこのまま静かに教室を出ようか。あまり騒ぎにしたくない」
国王陛下は落ち着いた態度で大佐に言葉を返すと、了解した近衛大佐が随員の一人となっている学校長へ
「移動致します。授業の妨げにならぬよう静粛に……との御言葉でございます」
当然ながら現役の海軍大将である学校長に対して丁寧に説明し、一行はそのまま静かに廊下へと移動した。参観中であった海軍科2年1組の教室の中は極度に張り詰めていた緊張が解けたかのように、引き攣った表情で授業を続けていた天測術担当のフォデル教官までが大きく溜息をついた。彼のような海軍出身教官からしてみれば、ロデール・エイチ学校長だけですら緊張するのに、本日はよりによって国王を先頭に本省の教育部長までが自分の授業を参観しているのだ。「緊張するな」と言う方がどうかしている。
一方で廊下に出て来た国王陛下一行は、伝令の女性儀仗兵からの事態のあらましを聞いた近衛大佐から、把握している事情の説明を受けていた。事の次第を初めて聞いた学校長と教育部長は驚いたが……当の国王陛下が落ち着き払っているので彼等もまた、声を上げる事無く何とか自重したのである。
「ふむ……。では既に救護室へ搬送されているのだな?」
ロムロス王は落ち着いたままの態度で近衛大佐に再度尋ね直すと彼も声を抑えつつ返答をした。
「はっ。御賢察の通りでございます」
「ならば我らも救護室へと向かおう。最近どうも……マレーナは体調が優れない様子ではあった。あれは元々……それ程体が丈夫では無い故な……」
「畏まりました。それでは救護室へご案内申し上げます」
在位24年。毎年のように観覧式へと来臨している国王だが、構内の地理に関しては士官学校出身者であるシュテーデル近衛大佐の方が当然詳しい。一行は近衛大佐の先導で救護室に向かって移動を始めた。
この時点で王妃が倒れてから既に30分弱が経過しており、救護室に搬送されてからも20分以上が経過していた。
一行はそれでも周囲を騒がせないようにと言う国王直々の配慮によって粛然と移動し……救護室に到着したのだが、この時点でマルクスが王妃への応急処置を終えて、タルク教官と共に退出してから5分程経過していた。
一行が救護室へと入った直後に1限目が終わったようで……廊下は授業を終えて教室から出て来た生徒や教官達によって騒がしくなり始めた。
救護室に詰めていた者達が畏まって片膝を着く中、国王陛下は王妃の眠る寝台に歩み寄り
「して……容態はどうなのだ?」
これまた眠っている王妃に配慮したのか、落ち着き払った態度で声を抑えて下問した。これに応えたのは軍医のカミル・ムント少佐だ。
「は、はっ……よっ、容態は安定しております……。どうやら貧血ではないかと……」
そう言上した後にムント少佐は緊張が極限に達したのか、両手を床に着きながら
「もっ、申し訳ございません……!しょ、小官にはそこまで診立てが叶わず……」
と、やや声を高めて突然国王に謝罪した。
「落ち着け。どういう事だ?其の方は今、妃の不例の原因は貧血だと申したではないか。診立ては出来ておるのだろう?何故そのような態度を採るのだ?」
国王陛下の言い様はあくまでも柔らかい。ロムロス・レイドスという男は、普段このように万事が万事穏やかな物腰を崩さない「理知的な名君」として宮廷内外に名高い人物である。
このような最高権力者が「お怒りになる」という事に、あの軍務卿閣下が極度に恐れているのも頷ける……と、この場に居合わせたタレンもエイチ校長も思わず心中で納得してしまった。
「小官の診立てでは……妃陛下の症状が見抜けず……こ、こちらのマーズ少佐殿がお連れになられた当校の生徒が……」
「うぬ……生徒……?この学校の学生が如何したのだ?」
「は、はっ……そっ、その……しょ、詳細はその……マーズ少佐殿に……」
緊張が極限まで達してしまっていたムント少佐はそこまで言うのが精一杯で、事の詳細な説明をタレンに押し付けてしまった事にまで考えが及ばなくなっていた。
いきなり軍医から話を振られてしまったタレンは狼狽し、片膝を着いた状態から顔を上げる事が出来ず……救護室は微妙な沈黙に包まれた。
「マーズ少佐と申すか。其の方も医師なのか?」
沈黙を破ったのは国王陛下であった。タレンはどう返答して良いものか暫くの間黙り込んでしまったが、やがて顔を上げ……務めて冷静に目の前の国王に対して言上した。
「恐れながら……小官は医師に非ず、当校にて主任教官を拝命しております。王妃陛下におかれましては、御不例につき……この部屋に御移り頂いたとの報告が、陛下が御参観されていらした教室の教官よりございまして……小官も取り急ぎこちらに駆け付けて来た次第にございます」
タレンが物怖じせずに自らの立場を説明すると、何かに気付いた近衛大佐が声を落としつつ
「タレン・マーズ少佐殿はヴァルフェリウス公爵閣下のご次男で在らせられます」
これを聞いた国王は驚いた顔で記憶を掘り起こすように目を細めながら
「何……?では其の方がジヨームの次子……確か、北方で国境を守護していた……?」
タレンはそれを聞いて内心仰天し、自身の首から上の血流が一気に引いた次の瞬間再び一気に上がってくるような感覚となり、眩暈を覚えながら
「こっ……これは……。陛下に在らせられましては、よもややつがれの如き凡夫の名を存じ上げて頂いておりますとは……恐縮の極みにございます」
再び目線を床に伏せながら辛うじて返答した。
「何を言うか。其の方の雷名は宮廷にも及んでおるぞ。確か……北部軍の……」
「『北部軍の鬼公子』でございます。陛下」
シュテーデル近衛大佐が再び低い声で言い添える。
「そうだ!北部軍の鬼公子!うむ……あのジヨームが其方の事を全く余に話さなんだからな……よもや公爵家の子息が北方の国境で生命を賭して我が国を守護しているとは最近まで知らぬ事であった」
参観中に倒れた王妃が横の寝台で眠っている事を忘れたかのように、国王陛下は御満悦と言った様子で声を高めた。小声で話す近衛大佐の気遣いが台無しである。
「エイチ提督……いや校長。陸海軍の枠を超えて、海軍提督の其の方が彼のような『陸の豪傑』を部下に出来るとは……実に以って幸運ではないか」
国王陛下は上機嫌で側に控えていた学校長に笑いかけた。最早、不例となっている我が妻の事など失念してしまっているかのようだ。
「はっ……小官如き老骨には望外に勿体無き程の人材でございます」
学校長はやはり王妃に気を遣ってか、声を低めて……それでも愉快そうな気持ちを覗かせて返答した。この様子を見て顔色を変えたのは、もう一人の随員である……デヴォン教育部長である。
(こっ……この男が……タレン・ヴァルフェリウス……いや、マーズか……。よもや陛下の認知を受けているとは……たっ、確かに彼の驍勇は本省にも伝わって来てはいたが……)
そして、このような光景を目の当たりにして教育部長は「ある疑問」が浮かび上がった。
(そういえば……そもそも何故……「北部軍の鬼公子」と呼ばれる男が……いくら公爵閣下のご次男とは言え、北部方面軍から王都……それも軍士官学校に転属となったのか……?おかしいではないか……。これだけの知名度と実績を持った指揮官をわざわざ北部から今更「引き剥がす」のも北部方面軍にとって良い話では無いだろうし……王都への転属とは言え……士官学校の主任教官だと……?「公爵家への忖度」が存在するならば、何故もっと早く……そもそもが戦闘発生地域の部隊に配属などしたのだ……?)
教育部長がこの場においてあまり関係の無さそうな内容の思索に耽っているその横では、シュテーデル近衛大佐がタレンに対して
「この場で申し上げる事ではございませんが……小官はマーズ殿のご尊父が嘗て近衛大隊長としてお務めになられていた頃、ご尊父の下で小隊長に任官致しまして……公爵閣下には一片ならぬご厚情を賜りました」
そのように説明した。タレンはそれを聞いて「なんと……」と驚きの余り言葉を失った。
ジヨーム・ヴァルフェリウスが当代国王の即位と同時に近衛大隊長に任命されたのは今から24年前……ジヨームが34歳の頃であった。当時タレンは、折り合いの悪かった兄デントを避け、領都オーデルでは無くこの王都にある屋敷に住んでいた。ジヨームは僅か3年で職を辞して領都に戻ってしまったが、その3年の間……タレンは父と王都の屋敷で同居していたのである。
ちなみに……ジヨームが僅かな期間で職を辞したのは、やはり自領と東側を接する大北東地方の情勢が不安定であり、国境地帯の治安が悪化の一途を辿ったからである。それでも最後の1年では成人した長男に領地の治安維持を任せてみたのだが、彼が全くその期待に応えられなかったので、仕方無く近衛大隊長の職を辞して再び領政に専念する事となったのだ。
領主として領都に戻ったジヨームは、領政の引き締めを目的として家督相続直後から実施していた「領内巡回」を再開する事になり、それから4年目の「領内西部地方」の巡回の際に南西の港町ダイレムで美しい娘……下町の薬店の一人娘を見初める事となる。
「公爵閣下は……誠に穏やかなご気性、物腰も柔らかいお方でした……。当時この士官学校を卒業したばかりの若造であった小官は公爵閣下の下で、貴族家の惣領としての振舞いと心得を学ばせて頂いたのです」
今は男爵家の当主でもあるシュテーデル近衛大佐は笑顔で当時の思い出を語った。
「そうであったな……。ジヨームはほんの短い間しか近衛に属しておらなんだが……あの頃から余の友人として仕えてくれておる」
国王陛下の懐旧を聞いてタレンは驚いた。タレンにとって、父ジヨームはまさに「灰色の人」とも言うべき存在であった。公爵家の当主としての能力は別として、息子から見た父の姿は常に「無気力」とも言えるもので、同じ屋根の下で暮らす自分に対して、また屋敷に詰める家臣や屋敷で働く者達に対しても殆ど感情の変化を見せる事も無い。褒めるわけでも無し、怒る事も無い。兄弟で反目し合う息子を叱責するでも無く、その声にもあまり抑揚は無く、会話も常に淡々としたものであった。
「その場に居ても居なくても気にならない人」
それが息子であるタレン少年が抱いていた父の実像であったのだ。よもやそのような評価を下していたあの父が、国王陛下や嘗ての部下からこのような高評価を得ているとは……。
タレンが恐縮の態で床を見つめたままでいると、国王陛下は不意に
「それにしても……其の方は父とは顔立ちが全く似ておらんな。余はシュテーデルに言われるまで、其の方がジヨームの息である事に気付かなんだわ」
「は……はっ。よっ、よく人に言われます……」
目を伏せたままタレンが答えると、「この場の事」を忘れたかのように国王は笑い出した。そしてその笑い声によるものなのか……寝台で眠っていた王妃が目を覚ました。
王妃の覚醒に気付いたムント軍医が
「おっ、王妃陛下がお目覚めになられましたっ!」
慌てた口ぶりでそれを告げると、その場に居た者達の目が一斉に彼女に注がれた。本来であれば王族……それも王妃の寝台にこれだけの男性が詰めているのは以ての外である。精々、この場で唯一の医師であるムント軍医と、夫である国王くらいは許されても……警備の者ですら部屋の外で待機すべきであり、随員の学校長以下……タレンも含めた者達ですら室内に留まっているのは儀礼上も含めて、この時代の宮廷作法を逸脱している。
尤も……宮廷作法以前に、女性の寝室に家族でも無い男性が詰めかけている事自体が異常とも言えた。
しかしここは士官学校の救護室であり……本来であれば傷病者を男女分け隔て無く収容する性格を持つ施設であるし、「観覧式中の王妃不例」という事実を広めたく無い国王一行としては、廊下に随員一同を待たせて他の教職員や学生の目を引くような状況は好ましくないと判断される事であった。せめて王妃側の随員に女官の1人でも加えるべきだったのだろうが、王妃の気性からして「女官をだらだらと連れて歩く」という事を好まない人物であったので、例年この観覧式には宮廷女官の随行が外されていた。
但し、王妃に付き従う警備の者は近衛師団の女性士官が選ばれており、今も寝台の周囲には2名の女性儀仗兵と女性士官が警備に当たっていた。しかし結局のところ……国王に随伴していた儀仗兵はこの救護室の外の廊下で警備に当たっているので、1時限目を終えて廊下に出て来た生徒や教職員の目を引く破目になっていたのである。
マレーナ王妃は目を開け、周囲を見回し……自分がどうやら寝台に寝かされている事に気付いたのか不思議そうな表情となってやや掠れた声を発した。
「ここは……私はどうして……」
「ふむ……。そなたはどうやら授業の参観中に倒れたようだ。最近体調が優れなかったのではないか……?今年は無理をせずに殿中に留まっておれば良かったのに……」
「も、申し訳ございません陛下……私はそれでも、この『年に一度の行事』を楽しみとしておりました故……」
王妃は柔らかく笑った。左腕にはまだマルクスが施した点滴針が入っている状態で、梁に吊るされた点滴瓶の中にはまだ彼が調合した薬液が3分の1程残っている。それを見た国王が先程の御下問を思い出したようで
「ところで先程の……生徒か?其の方は確かに生徒がどうとか申しておったの」
国王陛下の再度の御下問は軍医に向けてのもののように聞こえるが、国王が実際に目を向けているのはタレンの方だ。明らかにタレンに対して説明を求めている様子である。
タレンはそのような空気を読みながら再び落ち着いた素振りで
「申し訳ございません。返答が遅れてしまいました……。仰せの通りにございます。王妃陛下のご様子を拝見し、咄嗟にある生徒の事を思い出し、彼をこちらに連れて参りました。その生徒とは……この救護室にも程近い、1年1組の生徒でございます」
「何……?1年……一回生なのか?その生徒……学生を連れて来て何をさせたのだ?」
「はっ……今となっては汗顔の至りでございますが……かの生徒の医療知識は目を瞠るものでございまして……その者に依頼し、王妃陛下の御容態を御改めさせて頂いたのです」
この話を聞いた学校長が思わず小さな声で「なるほど……彼か……」と呟いた。それを耳聡く聞き留めた国王が
「ほぅ……提督も何やら『其の者』の事を存じておるようだな。余にも話して貰えないだろうか」
どう言うわけか国王陛下の目が興味津々の御様子である。王妃陛下は自らの左腕に固定されている点滴に気付き、それに触れようとしたが……脈を確認していた軍医に「そのまま、そのまま……今暫くの御辛抱を……」と止められている。
「当校に今年度入学……それも首席にて入学した者の事でございます。何しろ不思議な若者でございまして……、あらゆる分野において全方向に優れた資質を示しております。小官もまだ当職を拝命の後、1年余りではございますが……小官が当校で学んでいた頃の事を思いましても……恐らくは『百年に一人の逸材』かと……」
剛毅剛直でそれと知られていた前第四艦隊司令官による「手放しの賞賛」である。国王陛下は益々以って興味をそそられる表情となったが、学校長の後ろに控える教育部長にはまたぞろ心当たりにぶつかったようで……
(一回生の生徒だと……?もしや……先日来、この学校長の話や情報部の者が持って来た話に出ていた首席生徒……名前は……うーむ……)
首席生徒の名前が思い出せず、難しい顔をしている教育部長を余所に、国王陛下が何やら学校長に声を掛けようとしたその時
「お、お待たせし申した……!王妃陛下御不例との報せを受け、急ぎ罷り越しましたっ!」
救護室の戸口に暗めの緑色のローブを着た老人が軽く肩を上下させて息つきながら自らの来訪を告げた。現在の王宮にて筆頭侍医を務めるラウシル・バナザー博士である。
「おお。ラウシルか。大儀だ。妃は先程まで眠っておったのだがな。今は見ての通りだ」
「しっ、失礼致しまする……」
バナザー博士は、老体に鞭打って王宮から走ってきたのだろうか。かなりフラフラした足取りで王妃の横たわる寝台に歩み寄り
「皆様は席をお外し下され……」
と寝台のカーテンを引こうとし……その梁に掛かっている点滴瓶に気が付いた。瓶から出た管が王妃の左腕に刺入されているのを見て驚き
「なっ……!こっ、これは……王妃陛下へ何を……誰がこの様な真似を!?」
と、殊更大袈裟な仕草で点滴箇所を指差しながら振り向いた。
「それは……マーズ卿。其の方が先程申していた生徒の仕業であるな?」
国王陛下の問いに対し、タレンは恐縮の態で
「はっ。先程申し上げました生徒が王妃陛下を御診立て致しましたところ……何でも……鉄が足りない……」
「鉄欠乏性貧血症でございます」
タレンが言い淀んだ部分をムント軍医が補足した。タレンは「これは軍医殿。恐れ入ります」と礼を述べる。
「鉄欠乏性……貧血……ふむふむ……」
軍医から病名を伝えられた博士は
「それで……?この点滴は?」
「はい……。御診立てした者が応急処置にと。点滴開始から30分程で陛下は意識を取り戻されておりますので効果はあったかと……」
「なるほど……しかし今……この御診立てを行ったのは『生徒』、であると申されていたような?」
これにはタレンが
「はい。当校に籍を置きます生徒で、医学の知識に優れたる者が居りまして……陛下の御容態に緊急性を感じた為、私の責任においてその生徒に依頼し、御診立てをさせて頂きまして、かような処置を施させて頂きました。何かお間違いがございますれば、私の一身にて責任を負わせて頂きます」
タレンは顔を上げて毅然と言った。彼にしてみれば旧知のベルガ・オーガスやエイデル・フレッチャーのような「名医も匙を投げた」ような傷病者をあっさりと快癒させたマルクス・ヘンリッシュという若者の「治療師」としての腕前には最早絶大な信頼を寄せており、先程の王妃を診察して点滴を処方した際にも、いつもの……何も気負うような様子も見せずあっさりと手を下していた事に全く不安は感じていなかった。
「いやいや……私は決してこの処置を咎めておるのではありませぬ。王妃陛下が慢性的な貧血気味であった事は私も常々感じておったところなのです。それをこうも短時間に診立てて処置を行う……その生徒は当然……まだお若いですわな?」
タレンの予想に反し、この王宮の侍医を務めるという老医師はマルクスの施した診察と処置に対して感心している様子が見て取れる。むしろこれだけの短時間に王妃の持つ「持病」を見抜いた事実に関心を持っていると言って良いくらいだ。
国王だけでなく、駆け付けて来た侍医までもが……最早「王妃御不例」よりも「それをあっさり鎮静化させた」士官学校生徒に興味を向けているようでタレンは内心、おかしくて笑い出しそうになりながらも、表面的には困惑した表情で
「はい……その生徒は今年度に入学したばかりの一回生でございまして……学校長閣下も先程申されましたように、小官から見てもこれまで見た事も無い優れた才能に恵まれた若者でございます」
今や宮廷にもその驍名が届いている「北部軍の鬼公子」までもが賞賛する新入生……国王陛下の興味は俄然その一回生首席生徒に移った。寝台に横たわる王妃の容態も極めて安定……むしろ今朝王宮を出た時よりも優れているようにさえ見える。
「ラウシル。このまま妃に付き添い様子を見ていて貰えるだろうか。余は先程来、話しに出ているその『学生』とやらを見てみたい。勿論、其の者が授業を受けている様子もな」
「侍医殿。件の生徒は王妃陛下へ2時間程度の安静を求めておられました」
軍医が首席生徒からの指示を伝えると
「確かにそうじゃの。点滴はこのまま続けた上で王妃陛下には午前中一杯こちらでご静養頂こうかの」
「分かりました。バナザー殿に従いましょう」
王妃の顔色はすっかり良くなっているが、既に自身が国王の観覧を中断させてしまっている事を鑑みて体力の回復に務める事にした。
「ではこの場はラウシルに任せるとして……マーズ卿。その生徒の教室はどこか?」
国王陛下からの改めての御下問に対しタレンは
「ははっ。件のその生徒……マルクス・ヘンリッシュが所属する1年1組は恐らく現在、戦技場にて白兵戦技の授業を受けていると思われます」
「なるほど。剣技台か。ではそちらに移動するとしよう。確か……少し離れておったな?」
「はっ。御足労で無ければ……戦技場は構内北西端にございますれば……」
このやり取りを聞いたデヴォン教育部長は焦りを感じた。ここに来て更に自らが不遜な態度で握り潰してしまった「白兵戦技授業改革」の事が頭を過ったのである。
(いかん……このまま剣技台での授業でこの連中……学校長と主任教官、それにあの生徒……3人を遭わせていいのだろうか……それに何と言っても国王陛下……これは何か良からぬ方向に進んでいやしないか……?)
明らかな警戒心を抱く教育部長だが、この場で彼が「剣技台へ行くのは宜しくありません」とは言えない……言ったところで、「握り潰された側」である学校長や主任教官から国王陛下へ何事か吹き込まれる可能性すらある。その流れで国王陛下に不審感を持たれるのは非常に拙い。
そもそもこの観覧式に教育部長が随行員として参加しているのは、別に彼等がこの行事に必要なわけでは無く、単に軍部の教育分野における専権を持つ部署として「慣習的」に随行に加わっているだけ……という事情からなのだ。例年、観覧式において歴代の教育部長は全く存在感を示す事無く、ただ粛々と参観の最後尾に付いて回っているだけなのである。
このように心中でハラハラしている教育部長の思惑とは関係無く、国王陛下は1年1組……と言うよりも「マルクス・ヘンリッシュ」の姿を見るだけの目的で剣技台へと白兵戦技授業の参観に向かうつもりで椅子から立ち上がった。
「では向かおう。マーズ卿。案内を頼む」
国王陛下からの御下命に対して
「はっ。それでは謹んで戦技場まで御案内仕ります」
タレンも恭しく立ち上がり、廊下への出入口へと移動する。
「白兵戦技の授業は陛下も御承知置き頂いていると思われますが、2時限単位で構成されておりまして……既に今は2限目に入っておりますれば、今からですと剣技台の観覧席へと入場する際に、どうしても我ら一行の姿が生徒達の目に留まってしまい、授業を中断させてしまう可能性がございます。予め御了承頂ければ幸いにございます」
タレンの後に続く国王の更に後ろからエイチ学校長が注意点を述べる。つまりこれまでの授業参観とは違い、「教室の後ろの出入口からそっと入って観覧し、そっと出て来る」……勿論教室内の教官を始めとして生徒達一人一人に至るまで「国王陛下が御臨席賜る」という事実は当然知れ渡るが、「授業を中断させたくない」という国王夫妻の「心遣い」により膝を付かせるような「儀礼行為は一切不要」という「建前」になっているのは言うまでもない。
しかし剣技台にて実施される白兵戦技授業の場合、どうしても一段も二段も高い観覧席への入場が伴うので……これまでの学校長観覧の時のようにあからさまに教官や生徒の視界に入ってしまう可能性が高い。
「その御姿を認めている」にも関わらず敬礼動作すらしないのは明らかに不自然な欠礼となる……軍人としてそのように考える教官は恐らく授業を中断して儀礼動作を執らざるを得ないだろう……学校長はそのような意味で国王に説明を加えたのである。
「構わん。余も何度かあの場所を訪れた事があり、そのような『成り行き』になってしまうのは毎度の事だ。こうなったら逆に言葉の一つでも掛けてやるさ」
国王陛下が笑い出したので学校長も一緒になって笑い出した。剛直剛毅のエイチ提督だからこその反応である。
魔物が跋扈するアデン海においていくつもの「武功」を挙げて来た最強の第四艦隊を率いて来た老提督に対する国王陛下の信頼は絶大であった。だからこそ……ロデール・エイチは定年での退役を許されず、国王自らの権限において勅任官である王国士官学校長に任じられたのである。
一行は無人となっている1年1組の教室の前を通り、本校舎1階廊下西端の扉から外に出て西校舎沿いに戦技場へと移動する。
戦技場に至る為に横切る中庭部分には様々な区画があり、隊礼行進の演習路や陸軍騎兵科が使用する角馬場もこの中庭に設置されている。また、二、三回生の陸軍科によって実施される夜間演習も主にこの中庭にて実施される事が多く、その総面積92000平方メートルにも及ぶ広大な中庭では常にどこかの学級が何かしらの授業を実施しており、国王一行は彼等「校庭利用者」達の目にも留まり、所々で最敬礼を受ける事になった。
剣技台のある戦技場に到着すると、一行は南側の入口から観覧席に入った。国王一行が中庭部分を西校舎に沿ってゆるゆると移動してきた為に、2時限目は既に開始から40分近くが経過しており、剣技台の上ではヨーグ教官の授業では定番のルーティンとなっている準備体操からの……5人で4組の集団を作った上で各組が剣技台の四隅に散り、経験者を中心とした基本動作の復習が行われていた。
しかし何故かマルクスだけは四隅の輪から外れており……剣技台の東側の縁の中央辺りにポツンと立っており、その右手にはいつもながらの木剣が握られていたが、ダラリと下がったままであった。
教練を担当しているヨーグ教官も、最早この首席生徒に対して声を掛けるでも無く、4つの組を順に廻りながらそれぞれ、構えを直したり持ち手の位置についての説明を加えたりしていた。
国王の一行が南側の観覧席に現れると、例によってそれを目敏く発見したのは、インダ・ホリバオを中心としたグループで木剣を振るっていたニルダ・マオであった。
「ちょ、ちょっとっ!こっ、こ、こ、こ……」
突然何か発作でも起こしたかのように震え始めたニルダの様子を見たハリマ・オイゲルが
「おいどうした。頭に木剣を当てちまったか?」
と、からかうように尋ねるのへ
「ばっ、ば、バカっ!か、観覧席……」
辛うじて単語を捻り出せたニルダの言葉を聞いて、グループの者達が一斉に南北の周囲の観覧席をキョロキョロ見回すと、南側の観覧席の中程の段に学校長を始めとして、マーズ主任教官、それと真っ赤な近衛将校の制服を着た、いかにも階級が高そうな軍人、濃紺に金色のラインの入った儀仗兵、そしてその者達に囲まれるかのように段席に腰を下ろしている明るい青色の上衣に紫色の毛皮付き外套を着用した、どう考えても身分の高そうな威厳を持つ初老の男性の姿を認め、彼らは本能的に背筋を伸ばし、姿を改めて最敬礼を実施した。
他のグループの者達もニルダ達のグループの異変に気付き、彼等が送っている視線の先の光景に驚いて同じように敬礼動作を行う。当然ながらこの様子にヨーグ教官も気付いて「うっ!?」と声を上げつつもすぐさま立ち直り、「一同っ!鍛錬やめっ!」と号令を下した上で「観覧席に御臨席の陛下に向かって敬礼っ!」と、鋭い声を発した。普段の「ざっくばらん」とも、暑苦しい態度も鳴りを潜め……ヨーグ教官は一人の陸軍士官、指揮官としてレインズ軍人として完璧とも言える所作で観覧席の一団に対して最敬礼を実施した。
しかしそんなヨーグ教官の完璧とも思えた最敬礼も、剣技台の東端で同様に最敬礼を実施している首席生徒の立ち姿には及ばないという印象を観客席の一団に与えた。その所作は洗練され尽くしており、普段より儀礼における訓練に明け暮れている儀仗兵の者達すら、その美しい姿に瞠目せざるを得なかったのである。
ケーナは観覧席に現れた一団をボーッと眺めていた。中心に座る美しい空色を思わせる上衣と肩に掛かる紫色の外套の人物……恐らく今上陛下であろう……を取り囲むように、前方向かって右側には真っ赤な近衛師団の軍服姿の軍人、それと対になるように左前側に立つ黒い陸軍制服を着た主任教官、そしてその後ろの段には真っ白い海軍提督の略礼服を着用して姿勢良く佇む学校長、更には陛下の左右後方を護るかのように紺色の制服を着た儀仗兵。色とりどりの衣装を召した一団の中で……陛下の右側、真っ赤な近衛師団の軍人の後ろの段に立つ陸軍軍人だけが……何やら階級は相当に高そうだが、太った醜い身体つきで違和感を感じる。
(あの御方が……私達の国王陛下……)
ケーナはその一団を見て何か心打たれてしまい……自然と涙が溢れて来て驚いた。それ程にこの一団の佇まいは平民出身者である彼女に「強烈な感動」を与えるのであった。
王都で生まれ育ったケーナにとって、国王陛下を直接目にする事は滅多に無いが……それでも「全く無い」わけではない。
毎年7月12日……国王陛下の生誕日には市内でパレードが行われる。この際、国王夫妻は晴れていれば天蓋の無い馬車に乗り、パレードに加わる。ケーナの実家の花屋は南7層目で営まれているが、王都のメインストリートであるアリストス通り沿いに面した場所に立地しており、毎年この日には店の目の前を国王夫妻を乗せた無蓋馬車が通るので、運が良ければ沿道の見物客の隙間から、夫妻の様子を窺う事が出来る。
なぜ国王夫妻の姿を目にするのに「運」が必要なのかと言うと、その日……普段であれば6の日なので定休となるケーナの実家の花屋は、その日に限って店頭でこの国王夫妻の「馬車の通り道」に撒く為の花びらの入った籠を売るのである。
花びらを夫妻に向かって直接投げ撒くのはご法度だが、馬車の通る道に予め撒く事は認められている……というか、市民は挙ってそれを行う。花びらが撒かれたメインストリートを馬車が通ると、花びらが舞い上げられるのだ。
この為、ケーナは当日は実家の店頭で「籠売り」の売り子をやらされるので、通りの両端を埋め尽くす「見物人の隙間」からしか国王夫妻の姿を窺う事が出来ず……またアリストス通りは道幅50メートルを誇る為に、見物人の人垣が十重二十重と作られ……大抵は沿道の店頭から「その御姿」を拝する事は不可能に近い。
なのでケーナがこれほどハッキリと、「国王陛下の御姿」を目にするのは王都育ちの彼女ですら生涯初とも言えた。それも陛下は自分達1年1組だけしか居ない「この戦技場」へとわざわざ足を運んで頂いたのだ。「色とりどりのお供達」を連れて……。
「授業を中断して済まないが、諸君らの鍛錬を見学させて欲しい。余には気にせず続けてくれ」
落ち着き払った低く聞き取り易い声……国王陛下の「御言葉」を賜った1組一同は何か雷にでも撃たれたかのように改めて姿勢を正すと、ヨーグ教官が「では再開せよっ!」という号令を掛けたので、何か魔法が解けたかのように我に返ってぎこちない動きで型取り訓練を始めた。
「あれか……?あの……1人だけ縁に立っている……あの金髪の生徒。あれがマーズ卿やエイチ提督が申していた者であろう?」
国王陛下の問いに対し、タレンが振り向いて苦笑を浮かべ
「御賢察の通りでございます。あの者が先程申し上げましたマルクス・ヘンリッシュ。本年度の首席入学者にして、現在においても一回生における首席生徒でございます」
「ほう……首席なのか。なるほどな。確かに只者では無さそうだ。周囲の者……あの教官と比べても何か……感じるものが違う」
この国王陛下の受けた印象は、皮肉な事に本日初めて「あの生徒」を目にするデヴォン教育部長にも同様に与えたようで、彼は内心
(や、やはり……あれが「あの一件」で情報部がマークしていた学生か。なるほど……他の生徒達とは明らかに何かが違う……)
そのように思いつつ、その視線は首席生徒に魅入られたかのように釘付けとなっていた。そのようにボンヤリと教育部長が首席生徒へ見惚れているうちに……彼のすぐ横では事態が変わりつつあった。
「しかし何故……あの生徒だけは他の者に混じって鍛錬に参加していないのだ?あの者だけは剣を持ってただあの場所に立っているだけではないか」
国王陛下が口にした懸念とも思える言葉に応えたのは教育部長とは国王陛下を挟んだ反対側に立つ学校長であった。
「彼の生徒は、ああ見えて武術の腕前も凄まじく……今実施している授業の内容はその……言葉は悪いのですが『眼中に非ず』……なのです。彼はこの授業の内容自体を『本来の白兵戦技授業』と認めていないのです」
「ほぅ……?本来の授業……では無い?どういう事だ?」
「はい……それはその……この場におきましては……そちらに居られます教育部長殿の手前……小官には申し上げ難く……。何しろこれは軍務省の定めた授業内容に対する批判と取られかねない事案となりますので……」
「何だと……?構わぬ。申してみよ。余が許す」
この話の流れに全く「付いて行っていなかった」デヴォン教育部長は、隣で交わされている主従の会話の中に自分の名前が出て来たような気がして、我に返った。
気が付くと彼等「教育族」にとって……まさに重大な出来事が展開されようとしていた。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。
面倒な事が嫌いで、不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。
タレン・マーズ
35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。
ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。
主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。
ロデール・エイチ
61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。
剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。
ロムロス・レイドス
47歳。第132代レインズ国王。(在位3025~)
名君の誉高い現国王。近代王室では珍しく王立官僚学校を卒業しているせいか、軍部に対して疎遠であると言われている。
マレーナ・アガステロス・レイドス
47歳。レインズ王妃。国王が側妃を迎えていないので唯一の国王配偶者。実家は王都に本拠を構える中堅商会で、平民出身者。生まれつき体が弱く、また偏食気味のせいか最近はやや体調を崩しがち。