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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
97/129

観覧式

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

「イゴル・ナラ中佐。弁護官が面会にいらしております。念の為に申し上げますが、貴官にはこれを拒否する権利があります。如何されますか?」


 留置室の扉に設けられた格子越しに拘置施設の担当士官が部屋の中にいる拘留中の情報課長へと声を掛けてきた。尉官以上の階級を持つ「士官」が拘留を受けている場合は、その移送に憲兵側も士官の立ち合いが必要となる。一般の憲兵だけでは、拘留対象である士官から威圧を受ける可能性があるからだ。


しかも今回の場合、拘留者は本省において中佐階級にあり……これは憲兵本部においてはナンバー3である憲兵課長と同階級……慣習に従うならば本省勤務の階級は憲兵よりも1階級上に「相当する」とされているので憲兵課長よりも職位では上位という事になる。


それでも今回の移送を担当するタネン少尉は士官学校を卒業してから憲兵副長として着任して3年であるが、既に「憲兵士官としての振舞い」を身に付けており、例え相手が4階級も上の本省勤務の佐官であろうと、まさに犯罪者を見る「冷たい眼差し」でこの情報課長を見据え、感情を押し殺して扉越しに声を掛けた。


「弁護官だと……?で、では俺は……き、起訴されるのか?軍法会議に……召喚されるのか……?」


既に1月以上も拘留を受け、上司同僚はおろか家族との接見も禁止されているイゴル・ナラは憔悴し切った顔を上げて、扉の上部に設けられた格子窓に向かって呻くように声を上げた。あの日……情報部長の部屋において同期生の法務官……ジェック・アラムの命令で身柄を拘束されてから、もう何日経ったのかさえ感覚が麻痺して判らなくなってしまっていたが……自分でもこの拘留がかなりの期間に及んでいる事は理解している。


そしてこれだけの日数、拘置されているのならば間違いなく起訴はされると覚悟してはいたが……いざ「弁護官が付けられた」という事実を知らされると、改めて「軍法会議で裁かれる」という恐怖が己の背に圧し掛かって来たような気分となった。

自分自身で「起訴されれば確実に有罪になる」と解っているだけに……入省以来30余年に渡って漸く辿り着いた今の職を喪う……ナラは今になってその「現実」が自らに押し寄せて来ている事を実感していた。


「起訴云々につきましては本職の職分において関知されない事柄となりますのでお答えは致しかねます。弁護官にお会いになりますか?」


 相変わらず声は若いが感情の入っていない物言いで扉の向こう側から尋ねて来る憲兵士官に対してナラは力無く答えた。今この不安で一杯の精神状態のまま長期間過ごしているこの心情を……とにかく誰でもいいから聞いて欲しかったのだ。


「わ、分かった……弁護官殿とお会いしたい……」


ナラの返事を聞いた相手は「了解しました」と短く応えて脇に控える憲兵に「鍵を開けろ」と、これまた短く指示を出した。


****


「貴官の弁護を担当するゼダス・ロウ、階級は大佐だ。宜しくな」


 ロウ法務官は手短に目の前の死んだ魚のような目をした情報課長に自己紹介をした。目の前の弁護官が自分よりも階級が上である事を、その自己紹介と階級章で悟ったナラはそれでも居住まいを改めて


「ぐっ……軍務省情報局情報部にて……ほ、奉職しておりますイゴル・ナラ中佐で、で、あります……」


ここ数旬の間……憲兵に対して「はい」か「いいえ」としか言葉を発していなかった為か、やや舌が回らないような状態で応答しながら頭を下げた。


「さて。単刀直入に言うが……検察側は貴官に対して死刑を求刑してくる可能性が高い」


ロウ法務官は厳しい目つきでナラを睨み据えながら、初っ端から聞き捨てならない情報を投げ込んで来た。ナラは鈍くなっている脳味噌を、それでも回転させながらこの「宣告」を聞き、しばらくそれを咀嚼してから驚愕の表情となり


「しっ、しっ……し、死……刑ですって!?わっ……私が……死刑……そっ、そんな……!」


声を高めて……いや、叫びながら椅子から立ち上った。面会室……以前にマルクスがネル姉弟と相対した真ん中を壁で仕切られ、その壁に70センチ四方の格子付きの窓と、そこに作り付けられた机がある部屋……その拘留者側の部屋の隅でこの様子を監視していた憲兵も思わず身構えたが、ナラは特にそこから暴れ出すような素振りも見せなかったので、憲兵もそれ以上彼を捕り抑えるような真似もしなかった。


 やがて驚きから来る昂奮が冷めたのか、ノロノロとした動作で椅子に座り直したナラは


「死刑とは……小官はそのような刑に処される程の軍規違反を犯したとは……とても思えないのですが……」


視点が定まらないような眼差しで、相変わらず厳しい表情の法務官へ応答してきた。それを聞いた法務官は厳しさから一転して僅かに呆れた表情を浮かべて


「貴官は……自分が何を仕出かしたのか理解していないのかね?」


と、表情とは裏腹にまたしても厳しい含みで声を掛けた。


「貴官は現職へと昇格する際に、『捜査権の行使』について前任者との引継ぎの際や更には貴官の管理者……情報部長殿だと思うが……彼らから聞かされていなかったのか?」


「も、勿論聞き及んでおります……。課長職である小官には捜査員への『指揮権』が付託されますが、実際の動員にはその……情報部長閣下のご承認を必要とすると……」


「では何故、それを知りながら独断で捜査員を動かしたのだ?しかも貴官には『部外者』から捜査依頼を受けた疑いも掛けられている。これについてはどうなのか?」


 法務官は矢継ぎ早に質問を浴びせた。「情報課長による捜査指揮権の濫用」については、記録が残っているものだけでも二千年以上前から何度も発生しており、中には上級幹部や政府高官の「秘密」を握った当時の情報課長によって、その手に得られた情報を(ネタ)に幹部を恫喝・脅迫すると言うような事案が何度も発生している。


同様の事案が発生するたびに、少なからず省内が混乱して……場合によっては最高司令官(国王陛下)からの叱責沙汰にまで発展する事もあった。過去には1例だけであるが、時の軍務卿が責任を問われて辞職に追い込まれた事例すらある。


繰り返される虞犯に対して……軍務省の内規を改訂して情報課長の権限に制限を掛けたり……しかし制限を掛け過ぎると捜査活動の機動性が落ちて軍務省自体の情報収集能力の失墜に繋がるような弊害が起きたりした為に、「軍務省の情報捜査権限問題」はそれなりに長い年月を掛けて省内の懸案であり続けている。


 その弊害の頂点に至ったのは王国歴2340年代に起こった一連の情報課による不祥事で、この時は思い上がった当時の情報課長が、無謀にも「黒い公爵さま」の「一人娘」の身辺を独断で探った結果……当然ながら公爵にその行動を即座に看破され、卑劣な捜査手法で娘の「名誉」を汚されそうになったレアン・ヴァルフェリウス公爵の大いなる怒りを買った軍務省そのものが公爵の報復対象にされかけた。


そもそも「賢者の知」を持つレアン公は、元より軍部に対してはあまり接点を持たなかった人物であったが……この件によって軍務省は「黒い公爵さま」の逆鱗に触れた形となった。


怒れるレアン公は当初、軍務省の上から下まで……軍務卿から末端の伝令職員まで実に数万人規模を本気で抹殺するつもりであったと言う。


事件の発覚によって当時の軍務卿……ダン・アズヴェル侯爵は慌てて王宮に参内し、当時の国王であったヴェテル王に泣き付いた事で……公爵が動き出す寸前に陛下の執り成しによって軍務卿以下の上級幹部が血祭りに上げられる事態は回避出来たが……主犯である情報課長ブント・ラウル中佐とその一族、更には彼の増長による余慶に与っていた縁戚縁者併せて58人が一夜にして「消し炭」となり、事情を知らずにヴェテル王に強硬な抗議を入れたブントの母の親類であった前王都防衛軍司令官も、その屋敷ごと王都から消滅した。レアンの怒りは相当なものであったようで、当然ながらその記憶はマルクスも受け継いでいる。


レアンの一人娘……美貌において王都でも有名であった、後に「72代の女公爵」となるレラは、この前年に官僚学校を首席で卒業していたのだが、どこの省庁にも入らず……オーデルに帰ってしまったので、これを「公爵家による婿取りの準備」と勘違いしたラウル情報課長の親戚の一人が伝手を辿ってラウルにレラの身辺調査を依頼したのが事件の発端であった。


これによってレラの在学中の動向、交友関係、更にはオーデルの屋敷までもが官僚学校とは無縁であるはずの軍務省情報課職員によって徹底的に調べられ、レラの学友であった者の中には脅迫紛いの強要まで受けたと言う。


 この一件の記憶があるせいか、マルクス……ルゥテウスは建国以来、何度も再発防止の為の手が入っても同じような違反を繰り返すこの連中を「蛮族と同じ」として完全に見下していた。


「貴官に予め聞いておく。貴官に今回の件を依頼したのは士官学校教頭のアガサ大佐なのかね?」


 ロウ法務官はあの日……ナラが拘束を受けた情報部長の部屋でアラム法務官が「確認の為に」繰り返した質問を改めて行った。あの時、繰り返されたこの質問に対してナラは否認するような態度をとった。


「そ、それは……」


またしてもナラはあの日と同様に口籠った。


「貴官がこの件について明確に事実を話して貰えないと、いよいよ私は貴官への弁護が難しくなる。何しろ貴官が問われている罪状は2つの服務規定違反……つまり『情報部長の承認を得る事無く捜査員を動かした罪』と『情報部の外部からの依頼によって捜査員を動かした罪』であり、前者は罪状認否について最早覆す事が出来ずとも、後者は状況によっては情状の酌量を求める事が出来るからだ。ちなみに言っておくが検察側は既に貴官が部外者から依頼を受けたと言う『状況証拠』を集め終わっていると思うぞ」


 ロウ法務官にすれば、この目の前にある鉄格子越しに憔悴した表情で座っている男は、彼自身が憎悪する「教育族」に繋がっている。本来であれば彼自身が告発側に回って制裁を加えたい人物であるのだが……法務官として勅任を受けている身としては、自身の感情よりも法理を追及しなくてはならない。それが「(くじ)引き」の結果とは言え、弁護官として今回の軍法会議に臨む「公人」としての立場を優先するしかないのだ。


「もう一度聞く。これが最後だ。貴官は今回……独断で捜査員を動かした件において、部外者からの依頼……具体的には士官学校教頭職にあるハイネル・アガサ大佐の依頼を受けて動いていたのではないのか?」


「あ、あの……しょ、小官がその……死刑というのは……」


「貴官の罪状に対する求刑の事かね?」


「は、はい……その……死刑というのはあまりに……」


「なるほど。先程からどうも貴官は自分の仕出かした事について全く理解していないようだな。では聞くが……貴官は過去にこの軍務省において貴官同様の行いをした者達がどのような処分を受けているのか知っているのか?」


「たっ……たかが捜査員を使って……べっ、別にその……特定の人物に対して危害を加えたわけでも無いですし……」


この抗弁を聞いたロウ法務官は怒鳴り散らしたい衝動を辛うじて抑え込んだが、それでも怒りに震えが収まらない様子で


「そうか……貴官はその程度の認識で情報課長という要職を務めていたのか……。貴官を現職に推したのは前職のアガサ大佐であると聞いたが……その一事だけでも『あの男』は罪深いな……」


 ロウ法務官はこの場へ足を運ぶ前に、ヘダレス情報部長からアラム法務官を経由して、嘗て教育族による「圧力」によってハイネル・アガサが情報課長の職席に就いた経緯を聞いている。当時の前任者であるヴェライス・デルドが当初、係長級の最先任であったアガサに対する推薦を拒否したのは、彼の自分への態度が気に食わないという「私情」も確かに存在したが、それ以上に彼の能力に疑問を持ったからであった。

しかしそのデルドの「熟慮」を踏み潰すかのように本来なら有り得ない当時の人事副局長からの干渉を受けて、結局はその「無能」が自身の後任へと収まった。


そしてその無能な前任者によって、今目の前に居る「更なる無能」が二千年以上前から職位と権限のバランスが問題視されている要職(情報課長)に推されるという「負の連鎖」が起こった結果……実に700年前に起こった「黒い公爵さま」による粛清から数えて4人目の「捜査指揮権の濫用者」が生み出されてしまった。

この件について当然……ロウ法務官には何の責任も無いが、軍部における「法の番人」として……この情報課長職に就く者を縛るはずの「法による仕組み」が全く機能していない事が悔やまれてならないのだ。


「いいだろう。本来であれば弁護官である私が被告人である貴官にこのような話を聞かせるのは職務を逸しているとも言えるが……仕方ない。教えてやろう。今回貴官が犯した『捜査権の濫用』に対する服務規定違反者は、私が知る限り……今の規定に改訂されてからの700年で3名存在する。彼ら情報課長職に就いていた者が服務規定を無視して独断で捜査員を動かしたわけだが、3名共……死刑に処されている。

更にその中の1名は本人のみならず、違反行為に関係・加担した者まで含めて十数名が同じく死刑判決を受けている。

……今のところ、貴官は()()4人目になる予定だな」


本来であれば法廷で被告人の正当な利益を代弁する弁護官の職分を逸脱しているが、ロウ法務官は法曹人として持っている知識と経験から、ナラ課長へ「今後の見通し」を口にした。


ロウ法務官の言葉を聞いたナラは明らかに顔色が変わり、泣きそうな顔になりながら口をパクパクさせて首を振っている。彼にしてみれば「たかが捜査員を勝手に動かしただけではないか」というような考え方なのだろう。よもやその「捜査員を勝手に動かした」事で過去千年単位で軍務省……ひいては王国政府をも巻き込んで大混乱に陥った事件が何度も発生しているという「歴史」を知らなかった。


この国の「意識の低い」官僚特有の……歴史を軽視し、過去の教訓に全く学ばない愚か者の姿が……ロウ法務官の目の前にあった。


 紙のような顔色になって小刻みに震えている情報課長……有罪が確定しない限りは現職を解かれる事にはならない……が全く言葉を発せなくなっている様子を眺めながら、ロウ法務官は再度言葉を掛ける。


「で……?どうなのだ?私の質問に答える気は無いのかね?最期くらいは潔く全て話してくれてもいいかと思ったが……」


呆れつつ首を振りながら立ち上がろうとしたロウ法務官に対して、突然ナラ課長が叫ぶように喋り出した。


「そうですっ!私にっ!私に今回の事を頼んで来たのはアガサ大佐ですっ!もう……いつだったか忘れましたが……私の部屋まで来てっ!頼んで来たのですっ!」


突然堰を切ったかのように、そして興奮気味に話し始めたナラ課長の様子を見たロウ法務官は内心驚きつつも再び椅子に腰を下ろした。


「で……?その内容は?」


「士官学校内で、何やら『怪しからん計画』が進行中であると……。マーズ主任教官……ヴァルフェリウス公爵家の御曹司が、学校内での立場も弁えずに海軍大将である学校長を担ぎ出して授業内容に批判を加えていると。この2人と……確か……名前は忘れたが……新入生の生徒1名の学校外における動静を調べるように頼まれました……。特にこの者達が校外の()()()に集まっているのではないかと……。アガサ大佐に頼まれたのです……」


 先程の興奮状態から一転して落ち着きを取り戻したような態度でナラ課長は話し始めた。その口ぶりからして、「新入生の生徒」の正体を彼は知らないようだ。


「ほぅ……彼らが学校の外で会っていると……アガサ大佐は見ていたのだな?」


「そのように聞きました。そしてこの件は教育部への批判だけでは無く……エルダイス次官閣下にも関わりがあると……次官閣下のお名前が出て来たので私もこのお話をお引き受けしたのです……」


「その新入生の生徒……については何も聞いて無かったのか?」


「何やら得体の知れない者だから十分に注意しろとは言われましたが……」


「わっ、私はっ!この話を大佐からお聞きした時に……『怪しからん者達』を監視する……教育部の方針に逆らう者達だが……海軍大将閣下が加担されていると聞いて、それを穏便に『片付ける』という事だからと……このお話を……」


急にペラペラと話し始めたと思ったら、どうやら彼は「自分は死刑になる公算が強い」と聞いて、慌てて保身に走るような物言いになっているようだ。ロウ法務官は心中で苦笑しながら


「ナラ中佐。私の立場でこのような事を言うのは些かおかしな事かもしれんが……貴官はどう言い繕ったところで、『捜査官を独断で動かした』という事実は消えないのだ。その現実をしっかりと見据えてから話をして欲しい。貴官の法廷での振舞いによって、万が一ではあるが判例が覆る可能性だってある。……まぁ、あまり希望を持たれても何だがな」


 最後はしっかりと釘を刺しつつ、ロウ法務官はナラ課長に改悛を求めた。この男に対して今更同情の余地は全く無いが、教育族側に対して揺さぶりを掛ける為にも……可能であればアガサ教頭にも責任を取らせたい……今回の法廷では被告人側の弁護官になってしまった彼だが……先日、自分が目にしたあの「本来の白兵戦技授業」を潰そうとしている無能な軍官僚出身の教頭への怒りが法務官の中に沸き立っていた。


****


 いよいよ明日は士官学校へ国王夫妻が来臨し、1日を掛けて……実際どれだけの御滞在になるのかは夫妻のみが知っている……という観覧式が執り行われる。


既に本校舎4階の観覧室も念入りに清掃され、当然ながら構内全域においても全校生徒及び教職員によって隅々まで掃き清められ、「軍隊の規律」をご覧頂ける準備は整っている。


「あの……陛下は以前……この食堂にもおいでになられて昼食も御口にされたみたいですね……」


昼食時の第一食堂……いつも1年1組の生徒達が固まって食事をしている警衛本部側の一画にて首席生徒の向かい側に座るケーナ・イクルは不安そうに明日の観覧式について話をしている。


「シーガ主任教官殿が仰られていたじゃない。教官殿が現役学生の頃だったって……。だからもう10年以上前の話だわ」


隣に座るリイナ・ロイツェルが応じる。3日前にこの場所に特盛の軍隊飯を盆に載せてやってきたイメル・シーガ一回生主任教官は自身の学生時代における観覧式の思い出として「今上陛下が何とこの食堂においでになられて学生と同じ献立を召し上がられた」と語り、首席生徒を除く1組の生徒達を驚愕させたのだ。


「流石にこの食事を……再びお召し上がりにいらっしゃる事はないんじゃない?」


リイナを挟んでケーナと反対側に座っているナラン・セリルが小さく千切った固パンをスープ皿に次々と放り込む特殊な食べ方をしながら自分の意見を述べる。


「あああっ!なんだかもおっ!ドキドキしてきたわっ!」


ナランの向こう側に座るアン・ポーラが声を上げる。無理も無い……彼女は元々は王国西部の田舎町で生まれ育った何の変哲もない平民出身者なのだ。それが明日……もしかすると今上陛下の御姿を間近に……見れるかもしれないのだ。


「俺も……この大きな国を治める陛下を近くで見れるかもしれないと思うと、やっぱり特別な思いがあるよ」


南方の大陸では大国であり、国家の歴史でも有数の古さをもつアコン王国の高官の家に生まれたインダ・ホリバオも、世界の超大国たるレインズ王国の頂点に君臨し、今年で在位24年目を迎えた名君の誉高いロムロス王に対して素直に畏敬の念を述べる。


 他の生徒達もこの話題になってから口々に隣や向かいの者同士で盛り上がっていたが、一番窓側の隅に座る首席生徒だけは無言で固いパンを咀嚼していた。そんな彼に声を掛けたのはやはり向かいに座るケーナである。


「ヘンリッシュ君もやはり陛下がいらっしゃるという事に対しては緊張しているのではないですか?」


この眼鏡をかけた金髪の男子生徒は、自ら積極的に同級生に話し掛けるというタイプでは無い。一見して非常に愛想の良くない印象を受けるが、実際は話し掛けてみると意外にもちゃんと答えてくれる。

むしろどのような些細な問いにも、誰であろうが分け隔て無く誠実に言葉を返してくれるという事を、ここ数ヵ月の体験で同級生達は知っているのだ。


「うーん……実際明日になってみないと判らんが……今のところは特に何も思うところは無いな。俺は所詮、公爵領の外れで育った田舎者だからな。国王陛下を御覧になってもピンと来ないかもしれないな」


小さく笑いながら意外な答えを口にした。元々、これまでの行動や言動において……権威や権力に(おもね)るような素振りを見せないこの首席生徒にはやはり国王陛下と言えど「1人の人間」としか捉えていないのだろうか。


「そ、そんな……田舎者だなんて……。ヘンリッシュ君は王都育ちの私が見たって……凄く洗練された感じがしますよ……」


ケーナが顔を赤らめながら応える。彼女だけではない。その周りにいる級友達も男女問わず同じようなイメージをこの首席生徒に対して抱いている。王都市民にも人気のある士官学校の制服を完璧に着こなし、その美貌と物静かな振舞い……それでいて実際は誰もが瞠目する運動神経を宿している。

やや細めだが均整の採れた長身の佇まいは、このまま貴族の夜会に訪れれば貴族の娘達もその姿に色めき立つだろう。


「そう言って貰えると悪い気はしないがな……それでも俺はダイレム育ちの田舎者であるし、この学校を出た後は故郷に戻って職を探す予定だ」


 マルクスの浮かべていた小さな笑いは苦笑いに変わった。彼自身……この学校を卒業した後はダイレムに戻って祖父の営んでいた「藍滴堂」を復興させる予定ではあるが、この士官学校における彼の生い立ちは「レストランの息子」である。「薬屋を経営する予定である」事は彼らに打ち明けるつもりは無い。


そして当初の計画通りであるならば、彼ら同級生や学校関係者の知る「マルクス・ヘンリッシュ」という人物はヴァルフェリウス公爵夫人エルダの名義で取得されている不動産を利用して王国各地に点在している「公爵夫人が保護しているエスター大陸から漂着した戦時難民が経営する」薬局や菓子店の不動産名義を引き継いだ上に、アデン海を隔てた東側の大陸中西部に新興した超先進国家「トーンズ」が保有する莫大な王国貨幣を運用する理財活動の名義人ともなる予定である。


士官学校を卒業して大半がレインズ王国軍へと任官する彼らとは接点が薄くなるが、官僚学校を卒業して王国政府機関……特に財務官僚となる者達にとってはこの「マルクス・ヘンリッシュ」という人物の名は大きな意味を持つ事になるはずだ。


 しかし……そのような将来の青写真を描く本人の目論見とは裏腹に、この「マルクス・ヘンリッシュ」という士官学校生徒の名は本来であれば意図していない「軍務省」において、その存在感を徐々に増しつつある。特に軍務卿の耳に入り、その目に留まった事は非常に大きいと言える。


そんな彼が「軍人に興味は無く、卒業後に任官する気も無い」と言う考えを明確に宣言している事実は、彼の同級生にも、そして教職員達にとっても理解しかねる話であった。


マルクスの言葉に対して呆気にとられている級友を置き去りにして、彼は空になった食器を纏めて返却口へと運んで食堂を後にする。本日午後の授業はいつもの剣技台とは逆の位置にある北校舎前の東校舎寄り……その二棟を繋ぐ渡り廊下に隣接している弓技場にて実施される弓技である。三回生進級時に、軍務科を志望している者に人気の高い科目である。


残った1組の生徒達も我に返り、慌てて軍隊飯を胃袋に詰める作業に戻った。弓技の授業は弓技場へと向かう前に中庭を挟んだ西校舎の更衣室を経由する必要があるのだ。


****


 翌1月20日。観覧式当日であるこの日は、登校時間こそ通常と変わり無いのだが8時30分からの朝礼は全校生徒が集まり、中庭にて実施される。雨天の場合は本校舎と東校舎の間に建つ講堂で行われるのだが、この季節の王都周辺の地方は3月の雨季を前にして、例年は晴天になる事が圧倒的に多い。元々この北サラドス大陸南部に位置する王都周辺は雨季が存在するが年間雨量はそれ程多くない。


これは北部に位置する公爵領の領都オーデル周辺も同様であり、この季節にむしろ降水量が多いのはマグダラ山脈東側に位置する王国西部の大都市サイデルや、そのまま大陸を北東に向かって走る山脈に沿って、更にはその北東端の先に位置する大陸中央部のドレフェス地方に降水や積雪をもたらす。


春の訪れと共にこれらの雪融けした水が南部を流れるイリア川や北東方向に河道を辿るレレア川の水源となるのだ。また山脈の反対側へもソニ川やリズ川を通して水資源を提供し、古代からバルク海へと注ぐその河口部に人々は町を作り、それがやがて大きな港町へと発展してきた。


国王を筆頭に王都周辺で生まれ育った者達は、そうした北サラドス大陸の気候分布のせいか……「雨季」と呼ばれる「年間を通して、雨がやや多くなる時期」の存在は自覚していても、雨に対する生活感覚は概ね薄い。なので王都では雨具がそれほど発達する事無く……例え貴族であっても雨の日に傘をさす者は居ない。傘は寧ろ彼らにとって「直射日光を避ける手段」に用いられる道具である。


 この日も雲一つない快晴の下……士官学校生徒達は構内中庭に集まり、各学級ごとに整列している。ちなみに海軍科三回生の生徒達はこの場には居ない。嘗ては海軍科三回生であっても、この観覧式に応じて年初から観覧式が終わるまではチュークスの分校では無く、本校で過ごしていた時代もあったが……少なくとも当代の国王の時代になってからは観覧式にわざわざ海軍科三回生をチュークスから呼び寄せるという事はしていない。

彼ら海軍科三回生はチュークスの分校で授業を受けてこそ、その能力の育成に対して最大限に資する事を当代国王は理解しているからである。


4階の観覧席へと上られた国王夫妻は、その大きなガラス窓越しに中庭に整列した生徒達を見下ろしている。一方、生徒達は観覧席を見上げる事は許されておらず、唯一……タレン・マーズ三回生主任教官の「国王陛下、王妃陛下に敬礼っ!」という号令を受け、隊礼に沿って一斉に顔を45度上げながら挙手礼を行う。


(お顔は殆ど見えないわねぇ……)


と、ケーナは敬礼をしながらも目を凝らすように観覧席を凝視したのだが……国王夫妻の姿は何となく認められたが、その表情までを窺う事は出来なかった。


 中庭から教室に引き上げる際、カタリヌ・シケルが小声で聞いてきた。


「ケーナ、見えた?」


「え……?陛下の御尊顔?」


「うん……。私は見えなかったわ……。結構頑張って目を凝らしたんだけどさ……」


「私にも見えなかったよ……」


「私の位置からだとさ……丁度ガラスに太陽の光が反射してたんだよね」


カタリヌの前に居たアンが振り向いて話し掛けてきた。この三人は席次の関係で朝礼での立ち位置も近かったのだ。


「私の所も王妃陛下がいらした辺りに光が差し込んでたわ……」


 失望したような響きがある3人の会話を背に聞きながらリイナは苦笑している。彼女は多少だが他の生徒よりも視力が優れているせいか、国王の面影だけは辛うじて見えていたようだ。


しかし彼女の頭上から……前を歩いていた首席生徒の呟きが聞こえて来た。


「王妃陛下の御顔の色が優れない御様子だったな」


身長差が30センチある目の前の首席生徒の声を聞いたリイナは、思わず小声で


「え……?あなた……王妃陛下の御顔の色って……そんなところまで見えたの?」


「まぁ、そうだな。俺の杞憂であればいいのだがな……」


本来であれば視力に難があるであろう、眼鏡を掛けている首席生徒の返事を聞いたリイナは怪訝な表情を浮かべながら尚も


「あ、あなたの……その……思い違いじゃない……?だって、御二方の周囲には警護の方々も控えているでしょうから……そのような陛下の御変容を見逃すとは思えないわ」


「お前の言う通りだ。恐らくは俺の見間違いなんだろうな」


リイナに向けたその横顔に苦笑いが浮かぶのを見て、それでも彼女は一抹の不安を感じた。貴族家出身の彼女は、やはり他の平民階級の生徒よりも王室に対する崇敬が強い。余程その家が王室に対して隔意を抱いている場合は別として、そうで無ければ貴族家の教育として、その子女達は幼少時から王室に対する敬意と忠誠を徹底的に叩き込まれる。


増してや……ロイツェル男爵家は叩き上げとは言え、それなりに貴族階級として歴史を持つ家であるので、その辺りの「教育」もしっかりしている。リイナはその「王室の藩屏の一員」として、純粋に王妃陛下の身上について不安を感じた。これが別に他の者が言った事であれば気にもならないが、よりによって自分がこれまで見た事のないような「完璧超人」であり、自分自身と同様に普段余計な事を口にしないマルクスが「思わず呟いた」ような話なのだ。


 1年1組の本日の授業割は、午前の1限目に理科、そして2限3限で担任のヨーグによる白兵戦技……剣術の授業となっている。昼食を挟んで午後の4限目に数学、最後の5限目は軍学となっていた。


1限目の理科は、学年平均を見ても苦手としている生徒が多く、特に王都出身の生徒にその傾向が強かった。逆に地方の村落で育った者には「薬草採取」というのは子供の頃の「小遣い稼ぎ」としてはお馴染みのもので、この薬草集めと罠を使った狩猟が、体の小さな子供でも無理する事無く家計の助けになる定番であった。


なので地方出身……更に僻地で暮らしていた者程、薬草に関する知識を自然と身に付けていたのだ。しかしその「田舎の子供達」にしても薬草集めに対する知識はあれど、その薬材を使った実用的な薬品調合についての知識まで備えている者は極少数であり、増してやマルクスのように高度な薬効抽出技術知識を持っている者など、本職の薬剤師でも無い限り、士官学校生徒のレベルではこれまで存在しなかった。


 理科を担当するアティム・タルク教官は軍人ではなく民間出身の採用教官であり、前職は王都市中の大手製薬工房で主任技師として働いていたらしく、以前にもマルクスが言及していたように薬草などの薬材そのものよりも、それを利用した応急薬や、その効果を高める方法に知識が偏っていたようだが、教官採用が決まった後になって薬材納入商会から書籍を借りたりして薬材知識を猛勉強した人物である。


その彼から見たマルクス・ヘンリッシュの薬材や薬効への知識は尚圧倒的で、その薬材の入手法にまで及ぶものであった。薬品の運用法にも精通しており、実際に戦場における衛生兵の経験でもあったかのような錯覚を与える程であった。


 今日の授業もタルク教官の本気ともつかぬ薬品知識の問いを、この首席生徒が答える内容を他の生徒達がノートに記すというようなものとなったが、授業が始まって30分程経った頃……教室に職員が急き込んだ様子で現れ、小声で何やら伝令を受けたタルク教官が


「済まんが、私は席を外す。残りの時間は自習にしてくれ」


そう言い残してこれも取り急いだ様子で教室から立ち去って行った。扉が開け放たれた廊下の方から何やら声が聞こえる。残された1組の生徒達は俄かにザワつき始めた。


 廊下側最前列の出入り口に最も近い席に座るアマリエル・ロイドが廊下の様子を覗くように開いたままの扉から顔を出し……暫くしてから首を引っ込め


「救護室の前辺りが大騒ぎになっているみたいね。儀仗兵も居たわ」


「儀仗兵って……陛下の御身辺を御護りする方々じゃないの?」


アマリエルの後ろの席に座るサーシャ・オデイルが不安そうな表情で尋ねている。


「そうだな……両陛下に随行されて来た方々だろうな」


サーシャの隣に座るジュシュ・ロネールは実家が准男爵家で、父親は近衛師団で中隊長を務める人物である。宮中警備に選抜される儀仗兵はこの近衛師団から人員が供給される為、その役目柄ジュシュは儀仗兵についても多少の知識は持ち合わせている……と言うよりも世襲貴族家出身である彼は卒業後の任官先の希望を近衛師団としている為、少年時代から王都市中の槍術道場に通っていた程である。


 ジュシュの言葉を聞いて、教室内のザワつきは益々大きくなり始めた。やがて今度は廊下を急いでこちらに向かって走って来る足音がした後に開いたままの扉からマーズ三回生主任教官が駆け込んで来た。


「ヘンリッシュ!一緒に来てくれっ!緊急事態だ!」


級友の視線は真ん中の列の最後尾の席に座る首席生徒に集まった。


「どうかされましたか?」


理由(わけ)は後で話すっ!急いでくれっ!頼むっ!」


この普段から温厚、それでいて肚も据わっている主任教官が珍しく血相を変えた顔をしている。余程の出来事が発生したのだろう。マルクスは無言で立ち上がると、いつも見せる「ゆっくりでいて、とんでもない速度」の歩様で教室の出入口に向かうと、それを待っていた主任教官と共に廊下へ出て歩き去って行った。級友一同はそれを呆然と見送る他無かった。


****


「王妃陛下がお倒れになられた」


並んで歩くタレンが言葉短く説明すると


「やはり……朝礼の際に御尊顔を拝見させて頂いたところ、御顔の色が優れないと看たのですが……」


「何だと!?ではその原因に君はもう見当を付けているのか?」


「いやいや……あの距離でしたからそこまでは……」


「ま、まぁそうだろうな……あんなに離れていたしな……」


「ところで……主任教官殿は何故私を呼び出されたのですか?」


「君なら……陛下の御容態について判るのではないかと思ったのだ。実は軍医殿も原因が解らないと仰っている。今……随行してきている儀仗兵を王城に走らせて侍医殿を呼びに行って貰っているが、時間が掛かりそうなのでな……」


「左様でしたか」


この事態を打ち明けられても、首席生徒は特に動揺する事も無く主任教官と廊下を歩き続けている。その落ち着きようを見てタレンは内心驚いていた。


 2人が救護室に着くと、備え付けの寝台の周囲には警護の女性儀仗兵が2人立っていたが、タレンは彼女らに場所を空けるように命じてマルクスを部屋の中に入れた。寝台に寝かされた初老……とまではいかないが、身なりが立派な中年の女性の脈を診ている今旬の当番軍医であるムント少佐にタレンが


「軍医殿……誠に恐縮ですが、この生徒に陛下の御容態を診させては貰えませんでしょうか……」


そのように要請すると、40歳を少し超えたくらいのムント少佐はタレンへと目を移した後にマルクスの方にも視線を移し


「は……?この生徒……見たところ一回生のようですが……?彼に陛下を診させろとは……?」


一応は同じ階級(少佐)だが、相手はあのヴァルフェリウス公爵家の次男であると知っているムント少佐は、遠慮がちに疑問を呈するところへ


「申し訳ございません。事は一刻を争います。ヘンリッシュ、どうだ……?何か判るか?」


「ここからでは何とも……触診させて頂ければ」


「よし。責任は私が持つ。頼んだぞ」


タレンはあっさりと許可を……というよりも独断でマルクスが王妃に対して触診を行う事について請け負った。


「ちょ、ちょっと……!マーズ殿!」


それを聞いてムント少佐は慌てる様子を見せたが


「軍医殿……文句は後でいくらでも聞く。今は緊急事態なのだ。彼に任せてくれないか?」


 タレンはここ最近の体験で……10年もの間、壊れた右膝を抱えていた元部下のベルガ・オーガスや、元上官で大病を患った予後が振るわずに寝たきりになっていたエイデル・フレッチャーを僅かな時間で全快根治させたマルクスの不思議な医療技術に対して、何時の間にか不思議な信頼を寄せるようになっていた。


朝礼が終わってから二回生の授業を参観していた王妃陛下が「突然お倒れになられた」という報告を受けて真っ先に思い浮かんだのは、自身の嘗ての上官や部下をあっさりと快癒させたこの首席生徒の顔であった。


 触診を許可されたマルクスは、王妃の……ムント教官が持っている方とは逆の腕を取って脈を暫く診てから、王妃の閉じられた右目側の瞼をめくってみたり、脈を診た手の先……食指の爪先を押さえたりして何か観察している。やがて顔を上げた彼はあっさりとした口調で


「貧血ですな。それも慢性の鉄欠乏症のようです。まぁ、簡単に申し上げると栄養が偏っているようです。鉄分不足であると思われます。点滴が有効ですが……ちょっと薬品棚を拝見します」


そう言って、寝台を離れて薬品棚がある区画に移動すると、棚の前には先程授業を中座したタルク教官が立っていた。そこに現れたマルクスを見て


「今の君の話は聞いた。貧血だな?ならばこれならどうだろうか?」


と、棚の中から茶色の小瓶を出して来た。


「なるほど。エノクルですか。これなら葉酸を多く含んでいるので有効でしょう。流石はタルク教官殿」


マルクスはニヤニヤしながら、瓶を受け取った。


「ははは……じつはこの製品……私が昔居た工房製なんだよ。私はこれの経口薬を研究していた事もあってな」


タルク教官は苦笑いを浮かべた。


「ほほぅ……昔の経験が活きたわけですな。では……このネントレルも併用しましょう。鉄分とビタミンを多く含んでいます。陛下は私の診立てでは鉄欠乏性貧血と思われますので、応急処置としてはこれらの点滴で十分ではないかと思います」


「そうか。ならば……おぉ。あったあった」


そう言うと、教官は棚の中から点滴瓶と点滴チューブや針を見つけ出した。マルクスは渡された瓶に薬液を注入して攪拌すると、チューブを取り付けて寝台のある区画に戻った。呆気にとられている軍医に向かって


「そこの梁が丁度良さそうです。そこに吊るしましょう」


そう言って点滴瓶の固定環を寝台の真上に渡されている梁に引っかけてから、特に苦労する事なく王妃の左腕の血管を探って点滴針を刺入した。手慣れた手付きで点滴量を調整すると


「ひとまずこの容量を応急的に入れれば意識は回復すると思われます。但しこれはあくまでも応急処置でありますので、本復をお望みであるならば食事の改善が必要ではないでしょうかね……。私も上流階級の皆様……特に女性の方々の食生活については存じ上げませんが、鉄分の不足はよく耳にしますので。ほらこのように」


説明を続けながら、先程何やら押し挟んでいた点滴を入れていない方の手の爪先……食指をもう一度押さえて見せて


「ご覧下さい……爪先をこのように抑えると色が白くなったまま、なかなか戻りません。更によく見てみると、爪が少し反った形をしておりますね。瞼の裏側の色も同様です。血色が足りておりません。典型的な鉄欠乏性貧血症であると思われます」


「き、君は……これだけの診察でそこまで判るのかね……」


ムント軍医が驚いている。彼は軍医という職位にあるが、実際の軍医と言うのは外傷に対しての治療には豊富な知識を持ち合わせているが、内科的な知識に関しては実はそれ程高くない。

ましてや男女問わず食事と栄養摂取を管理されている軍人には殆ど見られない「高貴な女性」に多いとされる貧血症に対しての見識が甘いのは致し方ない事であった。


それ故に、患者への僅かな触診で症状を特定したこの一回生の制服を来た男子生徒を見て、一層の驚きを受けた。


「御回復には多少の時間が掛かるでしょう。2時間程はここから動かさずにお休みになられる事をお奨めします」


「そ、そうか。分かった。では私が軍医殿と付き添っていよう。間も無く宮廷から侍医殿もいらっしゃるかと思うんでな」


 タレンが請け負うと


「左様でございますか。では私は教室に戻らせて頂きます。タルク教官殿。いかがされますか?」


「あ、あぁ……。私も戻ろう……と言っても、もう1限目は終わりそうだがな。色々と置き忘れて来ている」


「では戻りましょう」


と、マルクスが言った直後に職員が鳴らす授業終了5分前の予鈴がチリンチリンと廊下で鳴り始めた。それを聞いてマルクスとタルク教官は救護室を出て、同じ廊下の西側の端にある1組の教室に向かった。


「いやはや……やはり君の薬学知識には私も恐れ入る他無いよ。あそこまで適切な診察と処置が出来るとはな……。士官学生にしておくのは勿体ない。医師として身を立てようとは思わないのかい?」


「医師などとんでもない……私は田舎出身でレストランの息子です。この学校で海軍関連の事を学んで将来は故郷の港町で港湾関係の仕事に就けたらなと思っております」


マルクスがニヤニヤしながら応えると


「そうか……いやぁ、実に勿体ない話だ……」


と、タルク教官は感心半分惜念半分と言った面持ちで溜息をついた。


そして救護室に残されたタレンに対してムント軍医が


「あの生徒は……一体何者なのですか?とても学生……それも一回生とは思えない医療知識です……」


本人が立ち去った後も呆気にとられていた。


「さぁ……彼は一体何者なのでしょうかね。実は私もよく分からんのですよ」


タレンも苦笑する。寝台の上には、先程よりもやや血色の良くなった王妃陛下が大分落ち着いた様子で眠り続けている。


(いやはや……本当に彼は何者なのかな……。私も咄嗟に彼に頼ってしまったがなぁ……)


 タレンは自分自身に呆れたようにその顔には尚も苦笑が浮かび続けていた。やがて1限目の授業が終わり、教室の外に出て来る生徒達で廊下が賑やかになり始めた。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

変名である「マルクス・ヘンリッシュ」としての王国民国籍の取得を目指して王立士官学校に入学するが、

不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。1年1組に所属し、成績は学年で首席。


リイナ・ロイツェル

15歳。女性。王立士官学校1年1組の級長で主人公の同級生。一回生席次3位。

《賢者の黒》程ではないが黒髪を持つ女性。身長はやや低め。瞳の色は紫。

実家は王都在住の年金男爵家で四人兄妹の末娘。兄が三人居る。数学が苦手。


ケーナ・イクル

15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次10位。

王都出身。濃い茶色の短い髪にクリっとした目が特徴だが、ちょっと目立たない女子生徒。

主人公とは士官学校の入学考査の頃から何かと縁があり、クラスの中で最初に主人公に話し掛けた。


タレン・マーズ

35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。

ヴァルフェリウス公爵家の次男。母はエルダ。

士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。

北部方面軍からの抜擢を受けて士官学校面接試験管となり、紆余曲折を経て三回生主任教官となる。

主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。


アティム・タルク

40歳。軍属。王立士官学校教官。担当は理科。民間人。独身。

軍務省に籍は置いているが武官としてでは無く、王都の薬材工房からの嘱託で薬学を教える。

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