省内諜報戦
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
3049年が明けて1旬が経ち、2旬目の初日。士官学校も始業となって各クラスでは級友同士が久々に顔を合わせた。
普段は精々、毎旬末の休日くらいしか休みにならない士官学校。席次考査がある旬に限っては旬末の休みが2日間になるが……この年末年始は12月31日の「閏日」も含めて14日間もあった為、久々の再会となる。
「また厳しい学校生活が始めるのか」とウンザリする者も居れば、「離れていた級友と久々に会える」とワクワクする者、「今年はもっと席次を上げるぞ」と張り切っている者……様々である。
1年1組の教室では、新年も変わらず8時丁度に校門をくぐった首席生徒がいつも通り8時4分に現れ、寮生である3人の級友から挨拶を受けながら自席に座って目を閉じた。彼特有の「瞑想するかのような」姿勢である。
次々と登校して来る他の生徒達は、おかしな事に……席が離れている者達もこの首席生徒の席までやって来て新年の挨拶をして行く。一見して近寄りがたい雰囲気を持つこの美貌の男子生徒は、話し掛ければ意外と気さくに言葉を返して来るのだ。
「おはようございます。ヘンリッシュ様。今年もひとつ宜しくお願い申し上げます」
マルクスの右隣に座るニルダ・マオはすっかり彼を「様付け」で呼んでいる。観察すればする程に隙が見当たらず、「この世の者とは思えない完璧超人」……それが彼女から見たマルクス・ヘンリッシュなのだ。
その外見すら美しい顔立ちなのだが、彼女にとってこの完璧超人は最早「恋愛対象にならない程」に不思議な魅力を持った人物なのである。
「ああ、おはよう。今年も宜しくな」
ニルダの挨拶にも短く応えたマルクスだが、彼女はそれでもう十分らしい。アッサリと気持ちを切り替えて前の席に座るテルナ・ゴーシュとの雑談を始めてしまった。微妙な「乙女心」である。
8時29分になって教室に現れた担任のドライト・ヨーグ教官が新年早々
「おはようっ!今年も宜しくなっ!今年はこのまま誰も落第しないように進級しようなっ!」
と、暑苦しい挨拶を吐き出す。級長のリイナ・ロイツェルの号令で一同が着席すると担任教官は変わらぬ大きな声で
「さて!皆には年末に伝えていたが、今月の20日……毎年恒例となる《観覧式》が催される!知っての通り……年に一度、今上陛下と王妃陛下がこの学校の授業を御観覧になられるわけだっ!
我がクラスはその日……偶然にも俺が担当する剣技の授業となる!皆の授業内容を陛下が御覧になられる可能性もあるからなっ!君達も入学して4ヵ月が経とうとしている。剣に不慣れな者は基本からもう一度『おさらい』をしておくようにな。俺からの連絡は以上だっ!」
そう言い残して担任教官は教室を後にして行った。途端に教室内がザワつき始める。
国王陛下による「士官学校観覧式」は記録に残っているだけで2000年以上続いている……とされる伝統行事の一つである。但し、その時代の国情や国王の気質によって「やったりやらなかったり」を繰り返しているようだ。
当代の132代ロムロス王は士官学校では無く、官僚学校を卒業しているのだが……士官学校を「軍の機関」としてでは無く、「教育機関」と捉えているようで即位以来……毎年欠かさず実施し、王妃と来臨している。
代々の国王によっては「観覧式」の名の通り、全校生徒による隊礼行進を国王が4階の観覧室から文字通り「観覧するだけ」という時代もあったらしいが、ここ十数代……200年程の間は「観覧式」と言うよりも「授業視察」という性格が強い。
観覧当日は、2点鍾の直後には国王が来臨して特に順路は決められないまま、国王の「気分次第」で構内を見分される。つまり「いつどこに国王が参観に訪れるのか分からない」という……教職員一同にとってもスリリングな行事である。
更に加えて、今上陛下と王妃陛下は構内で別々に視察行動を採る為、「国王陛下が別の場所に移られた直後に王妃陛下がいらっしゃる」と言った事態も起こり得る。学校関係者は上から下まで全く油断出来ない1日となるのだ。
観覧に要する時間も特に決められておらず、全ては国王夫妻の「気分次第」である。この日に限って、夫妻は他の公的行事や予定を一切入れずに訪れる為、2点鍾直後に来臨し……恐ろしい事に大食堂で「軍隊飯」を一回生に混じって召された上で午後も参観を続けて、4点鍾の後に還御された年もあった。
昼食時も話題は観覧式の事ばかりで……どうやら「今上陛下や王妃陛下を間近で見れる」とか「授業中の教室にいらしたらどうしようか」など……期待半分、畏れ半分と言ったところであろうか。
「ウチのクラスにはヘンリッシュ君が居るから……陛下がお越しになられる可能性が高いのではないでしょうか……?」
年が明けても変わらず首席生徒の向かい側に座るケーナ・イクルが何やら恐々とした様子で「その可能性」を口にすると、隣に座るリイナの向こう側で中身を繰り抜いた固パンにスープの具である肉団子を詰め込むと言う特殊な食べ方を試そうとしているナラン・セリルが
「それは……有り得るわね……特に戦技の授業なんか可能性高そうじゃない?」
昨年末、最後の戦技授業の様子を思い出して予想を口にした。それを聞いた他の級友たちも一様に頷く。
当の首席生徒は、黙々と固いパンを咀嚼しながら鶏肉と「ロッツェ」と呼ばれる、この季節に大陸南部で収穫される葉物冬野菜の炒め物を口にしている。ロッツェは茎が太く、独特の苦味があるがマルクスが言うところの「栄養学」によれば鉄分を多く含み、産後の肥立ちが悪い女性が食べると貧血予防になる事が知られている。
そんな首席生徒に対してケーナが尋ねる。
「ヘンリッシュ君は、もし1年1組の授業に陛下が御観覧にいらしたらやっぱり気になります?」
尋ねられた方はそのまま無言で暫くの間、固いパンを咀嚼してからゆっくりと飲み下して
「別に気にならんな」
と、短く答えた。そして再び肉団子が入ったスープを口にする。
「え……?でも、国王陛下ですよ?私だったら緊張で何か失敗しちゃうかも……」
「それは授業に集中していないからだろう。集中していれば周囲など気にならなくなるはずだ」
「そ、そういうものですかね……?」
「俺はいつも、そう心掛けた上で授業を受けているがな」
「な、なるほど……」
2人の会話を聞いていた周囲の級友達も沈黙する。彼等は一様にこの首席生徒が校長閣下が観覧に来た時も、それに全く見向きもせずに授業実習に取り組んでいた事を思い出したのだ。
(この人は確かに……国王陛下の御前でもいつも通り振舞いそうだ……)
マルクスの並び……インダ・ホリバオを挟んで座っていたニルダ・マオは一人頷きながら納得していた。
****
「おぉ。済まんな。ヴェラ。忙しいだろうに呼び出してしまって」
「ははは。構いませんよ。どうせ暇を持て余していると思われていたのでしょう?」
「いやいや。そんな事は無いさ。ナラが居ない代わりに捜査を仕切って貰っているからな」
マグダル・ヘダレス情報部長は、午後に入ってから情報部次長であるヴェライス・デルド大佐を自室に呼び出した。次長は現在、ヘダレスの言葉にもあったように……「先日の騒動」によって憲兵本部の地下で拘留が続いているイゴル・ナラ情報課長に代わって捜査1、2係の職員を指揮している。
その指揮指令内容は「法務部次長ジェック・アラム大佐の軍務省内における行動を監視せよ」というもので、他にも個別に彼を除く6名の法務官の行動を探る事も併せて指示している。
捜査員達は、これら法務官を監視する「詳しい目的」を例によって知らされていない。今回は流石に先日の件もあるので情報課に属する2人の係長……捜査1係長ユースフ・ニタル少佐と2係長テッド・ブロサム少佐には、ある程度の事情は話しているが、2人にも「捜査員には余計な情報を与えるな」と厳命してある。
捜査員を信用していないのでは無く、一連の問題が省内においても情報統制の対象となっているからである。つまり……「余計な出口を増やすな」という事なのだろう。
「実はな……先旬4日に……アラム次長に直接接触してきたんだ」
情報部長の言葉を聞いて……デルド次長はやや面喰った顔になり
「え……?法務官にですか?部長が?」
「うむ……お前になら話せると思ってな……」
「それはまた……私如き不良官僚に対して随分と信を置いて頂けるのですな」
デルド次長は小さく笑った。
「まぁ……お前の能力は私が一番認めているつもりだ。それにこれは……お前を嫌っていた『あいつ』が絡んでいるみたいだからな」
「あいつ……?まさか……アガサさんの事ですか?」
「そうだ。アガサ『大佐殿』がな。『今回の話』に噛んでるのはお前も知っての通りだ」
「ナラに対して部外から依頼をして勝手な事をさせていた……その事ですよね?」
「まぁ、先日の騒動はな。で、そもそも何でアガサがナラを嗾けたのかというのが漸く分かったんだ」
「ん……?つまり先程部長が仰っていたアラム次長との接触によって……ですか?」
「そうだ。漸く今回の話の全貌が見えた。ヴェラ……これはとんでもない事になってるぞ……」
それから暫く、ヘダレス部長はデルド次長に……先日アラム法務官から聞かされた「士官学校の件」についての事情を聞かせた。話を聞いたデルド次長は、滅多な事では動じない「図太い神経」の持ち主であったが、それでもやはりこの話の内容に驚き
「それはまた……厄介な話ですな……。軍務卿閣下に次官閣下……それに今上陛下まで……。軍部のお偉いさんが一通り揃っているではないですか」
「まあな……そして困ったことに、私達は現状……局長殿を通して『次官派』、つまりは『教育族』の片棒を担いでいる事にされている。これはどう考えても悪い話だろう?」
「そうですな……今お聞かせ頂いたお話の内容を鑑みるに……教育族の連中は『どう転んでも』失脚する未来しか無いわけですよね?私はそんな未来は御免蒙りたいですよ」
「私だってそうだし……そもそも私はあの教育族の『やりよう』を以前から好ましく思っていない。勿論、お前だってそうだろう?」
「まぁ、そうですね。あの連中が大した功績も無くトントン拍子で昇進して『上』で詰まっているのは気に食わないと思っていますよ」
デルド次長の口調はとても上司の前とは思えない程にアケスケである。しかしその部下の気性を何年も付き合って知り尽くしているヘダレス部長は苦笑するだけだ。情報部長はやがて笑いながら
「お前……学生時代は自治会長だったのだろう?今では見る影も無いが……くくく」
「なっ!?」
目を剥く次長の反応を見て更に笑い声を発てて
「いやぁ。アラム法務官に聞いたよ。学生時代はクソ真面目で使命感に溢れた会長様だったとな!」
「アラム……アラム……同窓だった記憶にはございませんが……」
知られたくない過去を暴かれたように歯噛みする次長に対して
「彼はお前の2期後輩……彼が新入生の時にお前が会長様だったそうだぞ」
「2期下でしたか……それでは私から見て気付かない道理だ」
尚笑い続ける上司へ恨めしそうな視線を送る次長は呟いた。
「いやぁ、すまんすまん……。ところで……お前はどうするんだ?」
「どうとは?このまま教育族の連中の下で動いているという事に対してですか?」
「まぁ……私も直接的な表現は避けたいところだがな」
「そのお話ぶりでは……部長は『鞍替え』を決意されているように思えますが?」
「『鞍替え』とは心外だな。私は知らず識らずの間に『教育族側』に付かされかけていたのだ。別に今から乗り換えるわけじゃない。事情を知ったからこそ『自分の判断で選択した』と言う事だ」
「フン……なるほど……。モノは言い様ですな。まぁ、私も全く同感ですがね。何も知らぬまま刈り取られるところだったわけですから」
「よし。ではお前も局長殿の指揮下から離れるわけだな。ならば捜査員達からの報告についてはそのまま俺に上げてくれ。私がそれを局長殿にお伝えしよう……但し、その内容に多少の『誤差』は出るかもしれんがな」
小さく笑う情報部長は続けて
「それと忙しいところを済まんが、更に引き受けて欲しい事がある」
「何でしょう?」
「アガサ教頭殿への対応だ。奴はまだナラが憲兵に拘束された事を知らないだろう。さっきも言ったが、今回の件……元を辿れば、今は部外者でしかない『奴』がナラに士官学校側の『白兵授業改革派』の監視を依頼した事から始まったわけだ」
「まぁ、そうですな」
「そしてナラが拘束されてからもう1月以上経つ。どうやらナラはアガサへ定期的にその『監視結果』を報告していたようだ。それがもう1月途切れているわけだ。いい加減、教頭殿も不安になっている頃だろう?」
「それはそうでしょうな。あの人はどうも小心者のように見受けられましたから」
デルド次長は苦笑する。彼は元々……今の地位に就く前はアガサ大佐の前任者……情報課長の地位にあった。更にその課長職へと昇進する前は……情報捜査1係長という職位に居た。そしてその時に同じ係長職……情報分析2係長だったのが彼に対して先任であったハイネル・アガサ少佐である。
しかし結果的に、先に情報課長への昇進を果たしたのは年少のデルドであった。これは課長職で定年を迎えた前任者による「強い」推薦があったらしく、その能力においてデルドは情報課内で「追い越し人事」の対象になったのだ。
本来であれば「同じ部署内での追い越し人事」は対象となった「抜く者抜かれる者」との人間関係に支障を来す恐れがある為、滅多に実施される事はないはずなのだが……当時の人事局は定年退職者の後任候補が追い越し人事対象となる状況に際して、転任昇格させる部外役職を用意する事が出来なかったのだ。
士官学校で言うならば2期下のデルドに課内人事で追い越された格好になったアガサは当然ながら、この人事に不満があったようで、以後は上司・部下になった両者の間に「感情的なしこり」が生じた。
元よりこの先任の同僚を「無能」と見下していたデルド「課長」は「年上の部下」となったアガサからの嫉視を無視する形で接していたが、アガサの方は事あるごとにデルド課長の頭越しに当時はまだ情報部次長の職にあったエルダイス大佐に媚諂うようになり、それによってデルドのアガサに対する感情も悪化して行った。
しかし幸か不幸か……その後すぐにエルダイス次長が教育部長へと栄転してしまい、その後任となったのはよりにもよってアガサとは士官学校同期であったヘダレスで、ここで両者は同期で2階級の差が生じるというアガサにとっては「後輩に追い越されるよりも屈辱的な」状況になってしまった。
以降、アガサ係長の課長の頭越しによる次長への「阿り」は無くなり、三者は微妙な距離感……尤も、その雰囲気を作っていたのは主にアガサ係長なのだが……を以って月日が流れた。
その後……ヘダレスが部長に昇進する際にはデルドを後任として推薦して順送りにしたが、デルドは後任に係長職で最先任であったアガサを推薦する事を一度は拒絶した。しかし既に人事副局長の地位に上っていたエルダイス中将からの「圧力のようなもの」があって、結果的にハイネル・アガサが課長に昇進する運びとなった。
この件があってから、ヴェライス・デルド大佐は上層部……特にポール・エルダイス氏に対して「負の感情」を持つようなり、「昼行燈」と呼ばれるような態度を取るようになった。
「職位と階級は、それに相応しい能力を持つ者が就くのが当然」
という考えで官僚生活を送っていたデルド大佐にとって、軍務省の上層部に巣食っている「教育族」の存在は面白く無いものであり、その派閥に属する事で能力の多寡では無い人事査定が行われている事に対して「ヤル気」」が無くなり……エルダイスの後ろ盾があると思い込んで部下にあるまじき態度を取る「年上だが無能な部下」であったハイネル・アガサ課長に対して苦々しく思っていたのである。
「アガサにはそろそろ情報を与えないと……またぞろこの情報部へ状況を確認する為に自ら足を運んで来る可能性がある。まぁ、その際に本人へ直接叱責を加えてもいいんだが……奴は可能な限り我々でコントロールしておきたい」
「ほぅ……理由をお聞きしても?」
「奴はまだナラ……いや情報部の捜査員が士官学校の関係者……確か、校長と主任教官、そして……一回生の首席生徒だったな。彼等を監視下に置いていると思っているはずだ。問題は奴と教育部長が直接繋がっている可能性を否定出来ないところなんだが……ナラが服務規程違反、つまりアガサ自身の依頼によって憲兵隊から拘束を受けていると知った場合、奴は士官学校内で余計な動きを見せる恐れがある」
「まぁ、それは考えられますな」
「これは……アラム大佐から聞いた話なのだが、アガサが監視対象としている士官学校関係者の中で、どうやら一番危険なのはお前にもさっき話した『士官学生』らしいのだ」
「あぁ……色々と情報を握っているんでしたっけ?」
「そうだ。どうやらその士官学生を無暗に刺激するのは非常に危険であると思われる。さっきも言ったが……その学生が持っている『資料』を侍従長に持って行かれては拙い」
「なるほど。アガサさん自身に動き回られるのが面倒だと……?」
デルド次長は苦笑いを浮かべる。
「そういうことだ。なので奴が危険を感じて『迂闊な真似』をしないように、奴には『安心出来る情報』を渡す事で教頭室で大人しくして居て貰う必要があるわけだ」
「しかし、私が直接彼に情報を流すのは不自然に思われるでしょう。向こうだって私の事を嫌っているでしょうしね」
「ふふ……そうだな。奴は漸く階級で再びお前と並んだとは言え……教頭職の任期を終えて再び昇進異動するまではお前の事を敵視しているだろうな」
「まぁ、そうでしょうな。なので私から情報を流すような流れは思わぬ疑念を抱かれかねません」
「よし。それなら教育部経由で情報を流すか。デヴォン部長に情報を入れてやれ。私はカンタス閣下に『厳選した報告』を上げるつもりだが、それと同じ内容でお前が教育部長に情報を流してやれば、向こうで勝手にアガサとの情報共有を図るだろうよ。ただ、そこのところはお前が……『上手い事』誘導する必要があるかもな」
笑う部長に対してデルド次長は
「仕方ありませんな……では私は教育部長のルートで情報を流します。但し、我々がその学校関係者について探るのも拙いわけですね?」
「勿論だ。それをやったらナラの『二の舞』になるぞ。どうやらその士官学生の感知能力は恐ろしい程に高いらしい。それに……他の『対象者』も前第四艦隊司令官と『公爵家の御曹司』だ」
「御曹司……『北部軍の鬼公子』ですか。どうもその……厄介な方々が集まりましたな」
「ああ。だからもう士官学校の関係者には手を触れてはいかん。これ以上……『藪蛇』を掴まされるのは御免だ」
「了解です。それでは教育部長に対してはお任せ下さい。しかしどうします……?ユースフとテッドにはこの話を伝えなくてもいいのですか?」
デルド次長は捜査員の指揮官である2人の捜査係長の名を挙げた。
「そうだな……ニタルは先日、この部屋で起きた『騒ぎ』を直接目にしているからな。情報部がそもそもアラム大佐の身辺を探っている事に対して不審に思っている可能性がある」
「そりゃそうでしょう。ユースフからしてみれば『アラム大佐を探る』という事は、彼の背後に見える『軍務卿閣下を探る』と同じ事だと疑っていてもおかしくありません」
デルド次長自身は先日の「その場」に居合わせていないが、その「修羅場の情景」については目の前に居る上司やニタル少佐から聞いている。本来、その流れであれば彼らからすれば「部長閣下は懲りずにアラム大佐を見張ってどうするんだ?」という疑念が湧くのは当然だろうと思わざるを得ない。
「よし。2人には私が話す。こうなったら情報部としてはこれ以上処分者を出したく無い。局長殿は止むを得ないとしても、私の部下を『あちら側』として巻き込ますのは可哀想だ」
ヘダレス部長はアッサリと決心がついたようだ。「情報部」を「情報局」から切り離す……。彼は彼なりに今回の騒動が行きつく先において自分と自分の部下達を護る算段を始めた。
「了解しました。部長がそのおつもりであるならば……私もそれに最大限協力しましょう」
こうして……情報部は独自の動きを採る体勢に入った。
****
デルド情報部次長は、上司との話を終えたその足で庁舎1階の教育部の部屋に向かった。階級が上である教育部長の部屋を訪れるには通常、情報部の職員を先触れに出して「ご都合を伺う」というのが官僚社会では常識なのだが、彼はそのような事にはお構い無しに教育部長の部屋の扉をノックした。教育部の部屋に寄って取次を頼む事すらしなかったのである。
「はい」
部屋の中から返事が聞こえたので、デルド次長は扉を押し開けそのまま
「失礼致します。情報部次長のデルド大佐であります。部長殿、少々お時間を頂いて宜しいでしょうか?」
自らの身分を告げ、直接の面談を申し込んだ。先日、手続きに則って面談を求めて4日も待たされた士官学校長の「やり方」とは対照的である。
「何だ……?情報部の次長だと?何か用かね?」
デルド次長は部屋の中に入り込んで扉を閉め、自分の椅子に座って不審そうな視線を送るモンテ・デヴォン教育部長へと向き直って挙手礼をしながら
「改めまして。小官は情報部次長のデルド大佐です。不躾ながら閣下へご報告に伺わせて頂きました」
「うん?報告だと……?何の報告かね?」
「はい。先日、士官学校の教頭であるアガサ大佐から我が部下であるナラ課長に対して依頼があった士官学校関係者の動向であります」
「何だと……?何故それを君が……?それに……確かナラ中佐は……」
「はい。ナラ課長は服務規定違反に問われまして、現在は憲兵本部の地下にて拘留中でございます。小官も事情を全く認識しておりませんでしたが、カンタス情報局長閣下より改めて命令を受けまして……情報部長からの指令を以って我が配下の捜査員による士官学校関係者及び……アラム法務部次長の監視を実施しております」
「なっ!?そっ、そう言えば……アラム大佐が何かと動いているという話は聞いておる。そうか……では君は『上』からの命令で私に報告に来たのだな?」
「はっ。状況が状況だけに……先触れも立てず突然お邪魔させて頂き、恐縮にございます。小官がこの場にお伺いさせて頂く事はご内密に願いたいのです」
突然自室に押し掛けられて不審に思っていたデヴォン教育部長は、このデルド次長の説明で合点がいったらしく、表情に出ていた緊張が解れたようだ。デルド次長は繰り返すように
「実は、この任務を……ご承知であるとは思いますがナラ課長は独断で動いておりましたので……彼がどのような手段と手順で部長閣下やアガサ教頭に報告を実施していたのか当方においては聞き当てる事が出来ませんので……このような不躾な方法で……。小官も『内密に動くように』との命令を受けておりまして……」
「うむ。そうか。問題無い。ナラ中佐も直接この部屋を訪れていた。但し……教頭にはどのような手段を採って居たのかは解らんがな」
「左様でございましたか。実際、我ら情報部の者が士官学校内部に居る教頭に連絡を取るのは案外難しいものでして……。何分今回の件、公式な手続きを踏むのは些か難しい状況にあります」
「どうやらそうらしいな……。私も詳しくは聞いておらんが……どうも軍務卿閣下が出てこられているらしいな?」
デヴォン部長は先日……エルダイス次官に叱責を受けた事を思い出して苦い顔になった。
「はい。小官もその件については殆ど聞き及んでおりませんので……『上』からの指示通り、捜査員から上がって来た報告内容だけをお伝え致します。但し……一つお願いしたき儀がございます」
「うん?私にか?何だね?」
「はい……。先程も申し上げましたが、ナラ課長がどのような手段を使っていたのかは存じませんが、我ら情報部としては現在のところ、『非公式な方法』でアガサ教頭と連絡を取る事が出来ず……従って彼に『これまで通り』の報告が渡せない状況にあります」
「まぁ……そうだろうな。基本的にあの施設は関係者以外立ち入り禁止だからな……」
「そこでお願い致したいのは、教頭への情報伝達は教育部にて実施頂けませんでしょうか?教育部からであれば構内への立ち入りは容易であると思われますが……」
デルド次長は敢えて「気まずそうな」表情で上目がちに教育部長に願いを申し述べた。言うまでも無く「演技」である。
「情報部の判断としては不必要にこの件に関して『表立った行動は控えるべき』として動いております。可能であれば記録に残ってしまうような行動を採るのは極力控えさせて頂きたいのです。教育部からどなたかを派遣して頂き、かの教頭への連絡を実施して頂けませんでしょうか……?」
デルド次長の申し出を聞いてデヴォン部長は少しだけ考え込むような素振りを見せたが
「ふむ。なるほどな。君の言う事にも一理ある。分かった。アガサ教頭への連絡は教育部が引き受けよう」
「お聞き届け頂きまして感謝致します。それと……部長殿もご存知の『ナラ課長が拘束されている』件については教頭には伝わらないようにして頂きたいのです。自分の行動が原因でナラ課長が拘束されたと知った教頭が思わぬ行動に出る恐れもあります故……」
「む……そうだな。教頭に下手に動かれると好ましくない事態に発展する可能性も捨て切れんな……」
デヴォン部長はエルダイス次官からの叱責を思い出し、同時にあの姿勢の良い学校長の顔も脳裏に浮かんだ。
これは後になって判明するのだが、どうやらナラ課長はアガサ教頭と学校外にて会っていたらしく、その場所はアガサ教頭の自宅がある北5層目、その近所にある公園のベンチだった。
彼らは「奇数旬の5の日」の17時30分……つまりはアガサ教頭の帰宅途中に待ち合わせて学校長、三回生主任教官、そして一回生首席生徒の行動監視結果を受け取っていたようだ。
ナラ課長は先日の情報部室における騒動があった11月25日の2日前……23日に教頭へ監視報告書を渡しており、騒動当日はこの教育部長の部屋を訪れて教頭に渡したものと同じ内容の報告書を改めて提出し……そこから情報部室に戻った際にアラム大佐手配による憲兵の拘束を受けた事になる。
そのような手段を採っていた事をナラ課長は教育部長にも打ち明けておらず、その方法は結局……後の取り調べでナラ課長本人からの自供によって知らされる事になった。
本来であれば、デルド次長も士官学校構内への立ち入りが難しいのであれば……ナラ課長のように校外でアガサ教頭と接触する手筈を整えればいいのでは……?という指摘も考えられるが、前述したそもそもの話としてお互いに「嫌い合っている」両者の関係を考えると、デルド次長がそのような手段を採ってまで教頭と自身が接触するのを明らかに避けたかったというのが本音だろう。
体良く「面倒な教頭への接触」を教育部へと押し付ける事に成功したデルド次長は「監視対象は校外においても接触の動きが見受けられず」という適当な情報をデヴォン教育部長に報告し、教育部長室を後にした。
これで教育部から士官学校教頭ルートへの情報封鎖工作はあっけなく完了した。
問題はヘダレス部長がカンタス情報局長に対して上げる報告内容がエルダイス次官を通して、どの程度伝わるのかという事が殆ど読めない状況にあり、ヘダレスとデルドの両者として今後、「局長ルート」の情報をコントロールする事へ注力するようになった。
情報部長から説明を改めて受けた2人の捜査係長も事情を聴いてかなり憤慨したようで、部長から打ち明けられた「局長からの離反」について二つ返事で承諾したので、情報部は上から下まで官僚士官が団結して独自行動を始めた。
****
「観覧式の当日、1組は午前に剣技の授業が組まれておりますわね」
イメル・シーガ一回生主任教官が答えると
「ならば……いっその事、ヘンリッシュに『本来の白兵戦技授業』を陛下の前で実演して貰いたいな」
タレン・マーズ三回生主任教官が提案した。
「そうじゃな。儂は当日、陛下の御側に付き添う予定にはなっている。少なくとも昨年はそうじゃった。なのである程度は陛下の御参観先を……誘導する事は可能かもしれん」
「しかし閣下。陛下の御側には同じく教育部長殿も随行されるのでは?」
マルクスの指摘に対して
「うむ……そうじゃったかな……?おぉ……確かに陛下御一行の最後尾におったな。あの『太っちょ』が」
小さな笑いを含んでロデール・エイチ校長が昨年の観覧式の様子を思い出すと、周囲の者達も笑い出した。
ここは元第一師団長エイデル・フレッチャー退役中将の邸宅である。士官学校の「白兵戦技授業改革派」の面々は年が開けて最初の会合に臨んでいた。
「私が昔……騎兵戦技教官として赴任していた頃の記憶では……観覧式における両陛下の御様子を存じ上げる事は叶いませんでした。私の授業は中庭の馬場内で実施しておりましたので……恐らく御参観頂く事もあったかと思いますが、4階の観覧席にいらしたのでは……」
「おぉ、なるほど。野外の隊礼授業も4階から御覧頂く形になっていた。昨年は午前中に1時間程度4階に御滞在されていらしたな」
この場に集まっている士官学校関係者は、学校長、三回生主任教官、一回生主任教官と……学校内ではそれなりに地位の高い職位にある者なのだが、その中でも観覧式における国王、王妃の動向についての経験を持っているのは、昨年の観覧式で着任後初めて国王に「案内役」として随行した学校長閣下だけであった。
「私は補助戦技の教官職を6年勤めましたが……私の授業を御参観頂けたのは今上陛下が2回程……それもそれぞれ20分程度だったかと思います。王妃陛下がいらしたという記憶はございません。両陛下共に……白兵戦技への御興味が薄いのかもしれませんわね……」
士官学校への着任期間が一番長いシーガ主任が困惑した表情で話す。
「なるほどのぅ……そう言われてみれば昨年も陛下は観覧席に上られただけで他の実技授業は御覧頂いておらなんだな。やはり官僚学校御出身であられるだけに……軍隊実技には左程御興味をお持ちで無いのかもしれん」
「今思い出したが……私の学生時代……あれは何だったかな……。机上戦術の授業だったかと思うが……騎兵科の教室に陛下……御先代様が突然いらしたので、教官以下慌てて片膝を着く礼式を採った記憶があるな……うん。あの時は本当に驚いた……私の記憶では授業中に陛下がいらしたのはあれ一度きりだったか……」
フレッチャー将軍が何やら当時を思い出すかのように目を細めている。2997年に首席で卒業している彼にとっても観覧式にて国王が授業を参観するという思い出は今でも残っているようだ。
先代の131代サルファス王は王太子時代に士官学校を陸軍歩兵科3位、総合席次5位で卒業しており、現国王であるロムロスとは逆に観覧式の際には午前中最初の時間に全校生徒による隊礼行進を本校舎4階の観覧席から文字通り「観覧」され、その後は戦技を含む実技授業を中心に授業を参観して正午前には王城へ還御していたようだ。
時の王妃……今も健在であるエリエル太王妃は辺境伯家出身であったが、高等教育機関を卒業していたわけでは無く、この観覧式にも来臨していなかった。
ちなみにこの前王妃の出身はエッセル辺境伯家……つまり、元北部方面軍司令官マイネル・エッセル卿の「本家」に当たる家柄であり、彼の長男であるニクル・エッセル子爵が若年時より宮内省の侍従局長を拝命しているのは、この太王妃の実家との「繋がり」によるものである。
この先代国王の頃は、毎年1月20日に実施される観覧式の為にチュークスの分校に拠点を移していた三回生の海軍科生徒も年明けから本校に呼び戻されて隊礼行進の練習にも参加していた。
首席で卒業したフレッチャー自身はその後、北部方面軍へ騎兵指揮官として任官し、数々の栄典に浴した経歴を持っている為に、叙勲等で先代国王……そして今の国王の御前にも謁見の栄誉に与っている。第四艦隊が「アデン海最強」と言われているように……北方の国境警備を任とする第一師団は「陸軍最精鋭」と謳われており、その指揮官であったエイデル・フレッチャー元中将は現代の国軍史に名を残す名将であった。
「ヘンリッシュはどう思う?」
タレンから水を向けられたマルクスは
「どう……と言われましたも……。私自身は学生として観覧式に初めて臨む身分ですしね……」
「いや、君ならその……今上陛下についても何かしらの『見識』を持っているのではないかと思ったのでね」
この情報力が一頭突き抜けた印象を持つ首席生徒に対して、タレンはいつもながらの質問を当ててみたのだ。
「いやいや。流石に西部の田舎町の出身に過ぎない私如きが今上陛下について持ち合わせている知識は殆どございませんよ」
と、この首席生徒は笑いながらも
「国王、王妃両陛下共に……教育においては御熱心な印象をお受けします。士官学校や官僚学校等の高等教育だけでは無く、国内各地の中等教育の普及においても御力を尽くされているとか。その辺りのバランス感覚は非常に高い方であるとお見受けしますね」
「どう思う?陛下御自身は戦技授業に対して御興味が薄いのだろうか?」
普通に考えれば、一士官学生に対して行うような質問では無い事に「この場の大人達」は気付いていない。
「どうでしょうかね。戦技そのものに対しては『興味をお持ちでない』と言うよりも、軍士官を養成する機関としての『王立士官学校』に御信頼を置かれるあまり、『余計な口を出さない』という叡慮をお持ちなのでは」
マルクス……ルゥテウス自身の記憶を共有している「ご先祖様」の中に士官学校や官僚学校の運営に関わった者は皆無である。その記憶共有に該当する5人の身内……父親や息子、娘に対しても同様で、彼自身が持つ士官学校に対する知識や認識はその「制度」と関連する法令だけで、その他はあくまでも「外から見たもの」でしかない。
しかし、記憶の中で唯一人……当時の国王に随行して士官学校の観覧式に臨んだ「黒い公爵さま」は存在した。
ヴェサリオの後から数えて4人目の発現者……59代オルテモ・ヴァルフェリウスである。
王国歴1887年、「賢者の知」を持って生まれたこの魔導師は、少年期に起こった72代国王……「隠された王」であるメッヘル王の王子2人が起こした「士官学校内における決闘事件」によって大混乱を起こした校内を慰撫する目的で、メッヘルの次に即位したばかりのオリゲル王から懇請を受けて、公子の身分で1901年の観覧式に随行した。
ルゥテウスが王宮図書室や王立図書館でも禁書扱いとなっている「隠された王」の記録について詳細な事情を知っていたのは、この家督相続前とは言え……既に「真っ黒な両瞳」を持ち、公子として王都に居住していたオルテモ「少年」の時代に起きた事件だったからである。
「伝説に聞く黒い公爵さま」……実際は家督相続前の公子という身分であったが、その威を恐れた士官学校側は、校内に尚残っていた非合法団体であった「黒套団」に所属していた生徒を全て放校処分としたが、「黒い公子さま」は家督相続前だったという事もあり、翌年の観覧式には終始無言で新王に随行していた。
ルゥテウス……マルクスが構内の主な施設配置を把握していたのは、このオルテモ少年が観覧式に随行した時の記憶が基になっているのだ。
このオルテモが公爵家当主であった時期には後に現代にも残る士官学校の象徴たる「大講堂」の建て替えが本校舎と西校舎の間部分で実施された。新講堂は高さ18メートル、幅45メートル、奥行き70メートルという威容を誇り、他の校舎と比べても上等な石材が使われている。マルクスが欠席した入学式もここで挙行されており、当然ながら毎年5月に挙行される卒業式の会場にも使われる、築1000年を超えた……現在の構内で最も古い建築物である。
「ふむ……。そうなると陛下が1組の白兵戦技授業を御参観される可能性はそれ程高く無さそうだな……。儂が『それとなく』陛下を誘導するのも難しいかもしれん」
「そうですな。陛下の随員に教育部長殿が加わっているのであれば……閣下ご自身が陛下に働き掛けられるのはお控え頂いた方が無難でしょう。何しろ教育部長は『我々の計画』を知っております。観覧式の後にどのような圧力を掛けてくるか分かりません」
タレンが懸念を口にしたが
「まぁ……その教育部長殿がそんな真似をする暇がありますかねぇ。何しろ彼は遅くとも来月の中旬にはその陛下の御勅勘に触れて軍務省から逐われるわけですが……」
マルクスは苦笑しながら彼等「教育族」の明るくない未来について言及した。
「教育という分野に対して余程の事……御力を入れられていらっしゃる陛下が『その卒業生が僅か一年以内に少なからぬ数で殉職している』とお耳にすれば……どう思われるでしょうか」
この首席生徒の指摘を受けた大人達は一様にその「ご様子」を想像して身震いした。彼等にしてみれば「怒れる今上陛下」の矛先が「どれくらいの範囲」に及ぶのか予想が難しいのだ。
目の前で特に畏れる事も無くこれを語る首席生徒は、その範囲を「歴代の軍務省の教育部関係者」を最小とし、最大でも「軍務卿以下、軍務省の官僚たち」としているようだが、自分達はその教育現場である士官学校の関係者である。本来であれば「その矛先」が向けられてもおかしくない位置に居るのだ。
しかし彼らの強味はその「新士官殉職者を量産している」戦技授業の内容に異を唱えて本省に具申したが「突っ撥ねられた」という事実である。
「現場としてはこれまで続いてきた役に立たない授業内容の是正を提案したが当局に拒まれた」
という事実は、既に軍務卿にも知られており……彼らが教育族に加担してこれを隠蔽でもしない限り、士官学校側の責任を問われる事は無いはずである。
「それにしても……だ。陛下に対して観覧の順路を直言するのはやはり難しいか……」
難しい顔をしたままの校長が溜息混じりに呟いた。他の者達も「この好機」を有効に利用する方策が立たずに顔を顰めていた。
しかし……結果的にこの1月20日に実施された観覧式が、士官学校戦技授業改革に対してのターニングポイントになる事を彼らは予想も出来なかった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。
面倒な事が嫌いで、不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。
タレン・マーズ
35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。
ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。
主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。
ロデール・エイチ
61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。
剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。
イメル・シーガ
31歳。陸軍大尉。王立士官学校一回生主任教官。担当科目は白兵戦技で専門は短剣術と格闘技。既婚。
猛獣のような目と短く刈り込まれた黒髪が特徴の、厳つい体格を持つ女性教官。
タレンが三回生主任教官へ昇格したのに伴い、後任の一回生主任教官に就任。
夫は財務省主計局司計部に勤務する財務官僚。
エイデル・フレッチャー
69歳。元王国陸軍第一師団長。退役陸軍中将。勲爵士。
リック・ブレアの前任師団長で、タレンが新任官した際には既に同職にいた。
定年引退後に大病を患い、生命を落としかけたが教会の治療に加えて主人公の投薬によって完治し、白兵戦技授業改革派に加わる。
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マグダル・ヘダレス
55歳。軍務省情報局情報部部長。陸軍少将。勲爵士。
軍務省の地下1階にある情報部を統括している。部下のナラが承認許可無く捜査員を動員した為に身に覚えのない管理責任を問われる。本来は非常に温厚で精神的にも安定した軍務官僚。
上司である情報局長や教育族の存在に官僚としての正義を見出せず、軍務卿側への加担を決意する。
ヴェライス・デルド
53歳。軍務省情報局情報部次長。陸軍大佐。
士官学校を好成績で卒業し、将来を嘱望されていたが何らかの事情により「不良官僚」となってしまう。上司や部下からは陰で「昼行燈」と呼ばれる。
上司のヘダレスに従って教育族を出し抜く行動を採り始める。
モンテ・デヴォン
54歳。軍務省人事局教育部部長。陸軍少将。男爵。
王立士官学校を管轄する部署の責任者である軍務官僚。エイチ学校長からの戦技授業改革具申を独断で握り潰した。