軍務次官の驚愕
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
話は前年11月の終わりに遡る。
マルクス・ヘンリッシュが軍務省を訪れて、ジェック・アラム法務部次長に恫喝を交えた和解破棄を申し入れ、これに慌てたアラム法務官が軍務卿……ヨハン・シエルグ侯に泣き付いた翌日の事。
一般的に「勤務開始」とされる二点鍾が鳴り出す前の8時40分。軍務省庁舎の地下1階、情報部室とは区画を別にして設けられている情報局長室へマグダル・ヘダレス情報部長が訪れた。いわゆる「朝一で」という感覚だろうか。
「入りたまえ」
部屋の主であるヘルン・カンタス情報局長が自室の扉をノックする音を聞き、それに応じると……長身の情報部長が俯き加減で入室してきた。
「失礼致します。ヘダレスでございます。このような時間ですが閣下に取り急ぎご報告がございます……」
「ヘダレス部長か。おはよう。どうかしたのか?顔色が優れないようだが……」
カンタス情報局長は軍務省の高級幹部の中でも「人当たりの良さ」では評判の人物で、これは「軍務省の良心」とか「法務部の良心」等と呼ばれるジェック・アラム法務官とはまた違った安定した人格的印象を相手に与える。明らかに睡眠不足の顔つきで朝から憔悴したような様子の部下を見て局長は懸念を口にした。
「も、申し訳ございません。実は……昨晩の事になりますが……、情報部において重大な事案が発生致しまして……」
「ん?何かあったのかね……?昨夜とは?私が退庁した後の話かね?」
「は……はい。恐らく閣下がお帰りになられた直後の事かと思われます。左様……17時30分頃でしょうか……」
「なるほど。私はもう庁舎を出た後だな。それで?何があったのかね?貴官の様子からして尋常な事案では無さそうだが……」
局長の声が明らかに低いものに変わる。「懸念」が「不安」に変わったのだろう。
「はい……昨晩、今も申し上げましたが……17時30分……いや、小官が一度退勤の為に部屋を出たのが20分頃だったでしょうか。法務局のアラム大佐……法務官に部屋の外の廊下で呼び止められまして……」
ヘダレス部長は昨晩のあらましを最初から思い出すように報告を続けた。
「法務官?法務官が貴官を……?わざわざこの地下にまで降りて来てかね?」
「はい……閣下。法務官は軍務卿閣下の『特命』を帯びて情報部を訪れたのです。そして折良く管理職である小官が退勤するところを捕まえた……そのような次第でした」
「何……?軍務卿閣下の……特命だと……!?法務官が?」
局長は驚いて座っていた椅子から身を乗り出した。小柄な彼が局長席の巨大な机に身を乗り出す様は少し滑稽な姿であったが、ヘダレス部長からしてみれば笑っている場合では無かった。
「有り態に申し上げます。小官の管理下にある情報課長のナラ中佐が……小官に無断で情報捜査員を動かしておりました……」
「うん……?情報課長が……つまり独断でという事かね?」
「はい。仰る通りです。そして……その捜査員の動員が結果的に軍務卿閣下の逆鱗に触れてしまいまして……」
「なっ……どっ、どういう事かね!?」
「はい。これよりその詳細をご報告させて頂きますが……その前に閣下。閣下は最近我が省内外で大規模な『人事変動』が起きていた事にお気付きでございましたか……?」
「人事変動……?どういう事だ?」
「つまり本省の内部を含め、軍中央並びに地方部隊……主に西部方面軍にて大量に免職者が出ていた件でございます」
「何だとっ!?大量?……して、その規模は具体的にはどれくらいなのだ!?」
いわゆる「ネル家騒動」における和解条件に附された「粛清リスト」に記載された軍部関係者は73人。他に内務省……護民局にも対象者が1人居るが、これを除外しても軍部内から一度に73人もの免職者を出す事になっている件について、情報局は上から下まで完全に「蚊帳の外」であった。
そしてその後の情報統制もほぼ完璧に機能していたので、本来であれば情報収集の専門集団であるはずの情報局は「まんまと」出し抜かれた形になる。
現時点で既に免職執行が41名にも及んでおり、そこまで「目に見える」ような状況であったにも関わらず情報局は何一つ情報を掴めていなかった事になる。
この進行中の粛清劇の内容を聞いたカンタス局長は衝撃のあまり乗り出していた我が身の足から力が抜け……後方へ倒れ込むように椅子へと嵌り込む恰好となった。言葉も満足に口に出来ない程である。
「な……73人……な、なぜ……なぜそのような……」
辛うじて言葉を吐き出すように部長の言を反駁するしかない局長はまだ二点鍾の音も聞かないこの時間、突如突き付けられた「知られざる事実」に呆然としている。
「はい……どうやらこれは先々月に士官学校にて発生した、『殺人未遂事件』に端を発していたようでございまして……」
「ん……?士官学校で?そのような事があったのかね?」
「はい。事件の概要としては……」
9月11日に士官学校内正門付近にて三回生首席生徒とその弟が新入生……それも首席入学生徒を襲撃した殺人未遂事件については情報部も一応その内容を把握しており、その場で拘束された姉弟の父親が西部方面軍所属の第四師団長を拝命したばかりの現役陸軍少将であった事も情報として認識していたので、ヘダレス部長はそのあらましを局長に説明した。
事件の内容を簡潔に説明したところで9時を知らせる二点鍾が大聖堂から聞こえて来たので、2人は図らずもこの鐘の音を聞き終わるまで無言で過ごす形となった。
「で……その事件とその……70……何人だったか?もうそうなると『粛清』だな。それが何の関係があるのだ?」
鐘が鳴り終わるのを待っていたかのように「殺人未遂事件」の内容を理解した局長が、更に突っ込んで尋ねた。
「はい……その事件が、閣下が仰る『粛清』に発展した経緯ですが……」
ヘダレス部長自身も昨晩初めてアラム法務官から聞かされた「ネル家の軍閥騒動」について、彼自身が聞き及んで記憶している内容をどうにか捻り出して局長に説明した。
「つまり……その第四師団長が『手懐けていた』者達が今回その……粛清の対象になったと?」
「どうやらそのようです。そしてこの一件は軍務卿閣下のご意向によって厳重な緘口令が布かれたようでして……」
「その緘口令……まぁ、情報の統制だな。情報部はその『統制の外』に置かれていたと?」
「左様にございます。昨晩の時点で改めて部内に所属する者全員に確認してみましたが、情報部員でこの件を把握していた者は皆無でした」
「何たることだ……。情報部を除け者にしたのか……」
局長は忸怩たる思いで小柄な身体を震わせている。彼はこの時、一つだけ勘違いをしてしまった。
(次官殿が……私を除け者にするとは……)
彼はこの時点で、この「ネル家騒動」に対して軍務省上層部が執った情報統制は「軍務卿の指示を受けた次官の主導の下に」実施されたと思ったのだ。
ヘルン・カンタス情報局長は、元々……エルダイス次官がその昔、教育部長へ転出する前の「情報部次長」であった当時に、彼の直下で情報課長を勤めていた人物であり、エルダイス次長が転出する際に後任として推薦を貰って順送りに昇進した過去がある。
その後も情報部の中で順当に出世をしてエルダイス「人事局長」の時代に現在の情報局長の地位に上っており、言わば彼は「エルダイス次官恩顧の」軍務省幹部と呼ばれてもおかしくない……はずであった。
それ程に関係の深い次官から「情報共有を外された」と感じて大きな衝撃を受けたのだ。
「閣下……よ、宜しいでしょうか……報告を続けさせて頂きたいのですが……」
「無念の情」に打ち震えている局長に対して、ヘダレス部長は恐る恐る……と言った感じで問いかける。
「む……す、すまん……。続けてくれ給え」
「で、では……この大量の免職者を出している件とは別に、どうやらこの事件の切っ掛けと言いますか……事件の中心となった『被害者の学生』と、ネル家側の和解につきまして……」
ヘダレス部長は、昨夜の「軍務卿閣下からのご叱責」の原因となったネル家と被害者学生との間に成立した「和解」とその「条件」について説明をした。しかし、この件についても昨晩の法務官からの説明の中で記憶している部分だけをたどたどしく語るのが精一杯で、報告書等も無い現状……やはり情報統制から外された情報部が把握している情報が絶対的に不足していると言わざるを得なかった。
そして軍務卿閣下の逆鱗に触れたとされている情報部が犯した「和解約定違反」についても、当事者であるイゴル・ナラ情報課長がアラム法務官によって憲兵本部に拘留され、その法務官の権限によって接見が一切禁止されている現状、彼からも事情が聞けない状況なのである。
ヘダレス部長から説明を受けた局長は首を傾げながら
「うーむ……つまりあれか……?その……被害者……士官学生との『約束を破った』という事が軍務卿閣下の怒りを買ったという事かね?閣下の意を受けた法務官殿が血相を変えて止めに来たと?そもそも……ナラ課長は何故その士官学生の周囲を嗅ぎ回ったのかね?」
矢継ぎ早に疑問を呈する。何しろ部長の話を聞いても要を得ないのだ。色々と情報が散りばめられ過ぎている。軍務省側が何故その士官学生風情との和解に関する約定に固執するのか?その違約行為に対して軍務卿が激怒するのか?そして……何故ナラ課長はその「被害者や他の学校関係者」を情報部長から承認を得る事無く独断で捜査員を動かして調べたのか?
情報不足にも程がある。しかし現実問題として昨晩……軍務卿閣下の意を受けた法務局の法務官から情報課長の行動を糾弾され、当人は憲兵に拘束された挙句、最後は軍務卿本人がわざわざこの地下までやって来て、直接激しい叱責を浴びせたと言う……。カンタス局長としては何から「理解の取っ掛かり」を持てばいいのか解らないのも当然であった。
ともかく……情報部の行動が軍務省全体を危地に陥れる重大な事案を引き起こした……というのは確実のようだ。
「申し訳ございません……何しろその……我が情報部に今回の件についての情報が全く上がって来ていないのです……。先程も申し上げましたが、意図した情報統制があり……我らはその外側に置かれておりましたので……。ただ、どうやら今回の件……、人事局の教育部が絡んでいるようです。他には現在士官学校の教頭職に就いている前情報課長、ハイネル・アガサも何やら関わっているとの事です。事の発端はどうやらアガサがナラに件の士官学生を始めとする学校関係者の行動調査を依頼したようでして……」
「どういう事だ?学校関係者の調査って……アガサ自身もその関係者の一人だろう?うぬ……これでは埒が明かないな……私が直接、軍務卿閣下の下に出頭してお詫び申し上げつつ……状況を把握してくる」
局長は立ち上がった。
「か、閣下が自ら……ですか!?」
「仕方あるまい……叱責を直接受けた貴官が再び軍務卿閣下を訪れても恐らくは閣下の怒りを再度買うだけだ。私がお伺いを立てて、とにかく今回の件について状況だけでも掴まないと、情報部も動き様が無かろう?」
「は……そっ、それはそうですが……申し訳ございません。このような騒憂を招いてしまい……閣下には多大なるご迷惑をお掛け致します結果に……謹んでお詫び申し上げます」
情報部長は青い顔をしながら深々と頭を下げた。恐らく彼は昨晩一睡もせず状況把握と情報整理に時を費やしていたのだろう……。
カンタス局長が知るこのヘダレス部長という人物は、本来であれば非常に優秀な軍務官僚であり、一世代下の者達の中で局長自身がそれなりに目を掛けていた男である。その彼がここまで憔悴した「打つ手無し」の様子で叱責を辞さず朝一番でこのように報告を入れて来るのは、余程の事である。
「もうよい。貴官はとりあえず部内の掌握に専念したまえ。この件は今でも情報統制中なのだろう?であるならば……情報部の末端職員から外部に漏洩など起こしたら、最早どう足掻いても我ら幹部に対する責任追及は避けられなくなるぞ」
局長の指摘を受けて、情報部長はハッと顔を上げた。昨晩の一件で……特に軍務卿閣下の口から居合わせた部内の職員達に一部の事情が知れ渡っている。昨晩の時点で情報部室内で緘口令は布いたつもりだが、それでもどこから情報が漏れるか知れたものではない。
何しろ、あの軍務卿閣下が情報部室で怒鳴り散らしたものの……現時点では未だネル家騒動に関連した「粛清人事」は軍務省……いや王国政府内に至るまで重要機密であるはずだ。軽い気持ちで部室外で口にして良い話題ではない。
ヘダレス部長はその事に思い至り
「りょ、了解致しました。それでは小官は改めて部内における機密保持に努めます。誠にお手数を掛けて恐縮でございますが……閣下にお任せ致します」
「うむ。とにかく詳細が判明したら改めて貴官に伝える事とする。貴官も自らの職責を果たせ」
「はっ!」
情報部長は踵を揃えて挙手礼を施し、回れ右をして局長室から退出して行った。
(むぅ……これは朝からとんでもない事になったな……)
カンタス局長は見上げる程に巨きな体躯の軍務卿閣下の姿を思い出しながら大きな溜息をついた。
****
(これは……大変な事になったな……)
アラム法務部次長の部屋で、法務官と話を終えた情報局長は自室のある地下への階段に向かいつつ思案顔で歩いていた。先程、3階にある軍務卿の部屋へ向かう際にも似たような心持ちだったが、今度はまた違った「難題」が湧き上がっていた。
ネル家騒動における和解破棄の問題に関しては昨晩の時点で情報部長の命令によって捜査員を引き上げた事で粗方解決していた。
この件について話の骨子が解らないながらもカンタス局長は平身低頭で軍務卿に平謝りに徹して寛恕を乞う形にはなったが、一晩……「ほとぼりが冷めた」せいか、情報部長からの話に聞いていた程には軍務卿の態度も厳しいものではなく、むしろ彼に対して「教育族」の放逐について協力を要請してきたので驚愕を隠せなかった。
(教育族……か……)
「教育族」と呼ばれるグループが軍務省の上層部において一定勢力として存在している事は彼も当然認識している。教育族などと呼ばれてはいるが、実際には「ポール・エルダイス次官とその息の掛かった幹部官僚達」と言い換えてもいいくらいだろう。エルダイス次官がそのキャリアにおいて直接配下に置き、彼と共に地位を引き上げられて来た……現在の軍務省の上層部を占めているのはそういう者達なのだ。
そして、かく言うヘルン・カンタス自身も見ようによっては……その「者達」に含まれていると目されてもおかしくない立場にいる。
今から12年前。そう……たった12年前まで、カンタス氏はポール・エルダイス……当時は情報部次長の下で情報課長として彼とは「直接の上司と部下」という関係だった。
当時のエルダイス氏も50歳という若さで既に情報部の次長という地位に就いていたのだが、彼はその歳で更に上から認められて教育部長への栄転を果たしたのだ。
そしてその後任として当時まだ46歳であったカンタス情報課長を推薦して彼は教育部へと転出して行った。46歳という若さで思いもよらない次長昇進となったカンタス氏はその後も順調に昇進を重ねて昨年、数え58歳で情報局長にまで上り詰めた。
12年前……教育部に転出して行った「前任者」のおかげで少壮だった自分は次長職へと抜擢され、最終的に今の地位を得る事が出来た。言ってみればこれは「現次官閣下のおかげ」と言っても過言ではない。彼はその後、教育部長から人事副局長、人事局長とトントン拍子に出世を重ねて行くに伴って自分をも「子飼いの元部下」として一緒に地位を引き上げてくれた。
そのような「足を向けて寝る事も出来ない」恩人に対して軍務卿閣下はその「一派」を丸ごと更迭させる事を考えていると言う。どうやらその原因は「数百年に渡って放置されている士官学校の白兵戦技授業の内容」が端緒となっているようで、軍務卿閣下はこの話に及んだ際……あの巨体が何倍にも膨らんだような印象を受け、怒気を発しているように見えた。彼の向かいに座りながら、情報局長は自身の体が圧し潰されるかと錯覚した程である。
その後に詳細な話を聞こうと立ち寄った法務部で、待たされた末に面会出来たアラム法務官からは軍務卿とは対照的に、随分と淡泊な説明に終始された。その表情を見ると何やら困惑しているような気配すら感じた。
(うーむ……どういう経緯であの法務官が今回の件に係わるようになったのかは知らんが……彼はどうも軍務卿からの命令を受けて立ち往生しているのではなかろうか……?)
彼との話の中でも話題に上ったが、自分も含め……軍務省の幹部はそもそも、「教育族」への人事裁量について軍務卿閣下は「ご理解をお示しになられている」と認識していたのだ。
あのような厳つい外見はしているが、前任の王都防衛軍時代から「調整型」の指揮官であったという噂は聞かされていたし、これまでのエルダイス氏が「人事局長」、そしてその後の「次官」となってからもその人事案に一切口出しを行うわけでも無く承認を繰り返していた。自分が知る限り、上層幹部の人事案が軍務卿閣下から「差し戻された」という話は一度たりとも聞いていない。
そういった経緯もあり……自分は、あの軍務卿閣下は「教育族」とは協調関係にあると思っていた。恐らく先程話を聞いた法務官も同様だろう。それだけに今回の「密命」を受けて彼も困惑しているのではないか……カンタス情報局長はそのように受け取っていた。
(まぁ……とにかくこの件はこのまま捨て置く事は出来んな。次官殿のお耳に入れておかずばなるまいて)
たった今……このような話を聞いたその足で、そのまま次官室に注進に行くのはあまりにも芸が浅すぎると判断した情報局長は、自室に戻ってから「内々にお伝えする件あり」と書面に認めて、秘書官に「目立たぬように」と釘を刺した上で軍務卿執務室とは同じ3階にはあるが建物の反対側にある軍務省次官室に届けるように命じた。
「次官殿ご本人がご在室である場合にのみご本人へ直接書面を渡すようにし、必ずご本人から返答を頂いて来い」
と命じられた秘書官は首尾良く目立たぬように地下の情報局長室から最上階にある次官室へと移動して、次官本人との面会を果たし……返書を受け取って戻って来た。
「本日20時、《双頭の鷲》にて」
返書にはそれだけが記されていた。「双頭の鷲」とは言うまでも無いが、王都南地区5層目にある……王都では「名店」と呼ばれている高級レストランである。
ルゥテウスは嘗て親戚が勤めていたこの店を酷評していたが、その名声は当然ながら未だ健在であり……会員制となっている2階部分には「秘密の会談」を行う事が可能な個室も幾つか備えている為、王城を挟んだ反対側にある軍務省の高級官僚達が「聞かれたく無い話」をするには最適な場所であった。
旬末である5の日の夜ともなると席の予約を取る事さえ困難となる「双頭の鷲」も平日であればそれ程客席が一杯に埋まっているわけでもない。増してや会員制である2階部分は休日の前日においても会員であればそれ程席の確保が難しいわけでも無いので、局長からの「連絡」を受けた次官が当日の予約を入れて間に合うのだろう。
「双頭の鷲」の会員になる事はそれなりに条件が厳しく、その資格を得るにはある程度の社会的地位の他に正会員3名からの紹介が必要だと言う。エルダイス次官が、かの店の会員となれたのは次官就任後である昨年の年初の事であった。政府機関である軍務省の次官という地位に就いた事で漸く……平民出身である彼にもその機会が訪れたのだろう。
カンタス局長がエルダイス次官からの返答を受けて一息ついた頃、丁度昼の鐘が聞こえてきた。彼はやれやれ……と立ち上がって部屋から出ると、情報部室に立ち寄り……ヘダレス部長を呼び出して、共に庁舎1階にある幹部食堂へと向かった。幹部食堂と言っても、一般食堂とは壁一枚隔てた隣の部屋であり、多少室内の装飾が高級になっているだけである。
「ひとまず軍務卿閣下にはお詫び申し上げておいた。昨晩の件について閣下もこれ以上追及はしないとの御言葉を頂いたよ」
士官学校で出されているような「軍隊飯」とはまるで違う……幹部官僚にのみ供される高価な食材を使用したと思われる、通常の食堂に比べて幾分高級な昼食を口に運びながら情報局長が話題を切り出すと、ナイフとフォークを持つ手を止めた情報部長が緊張した表情から多少力の抜けたような様子となり
「さ、左様でございますか……閣下には大変なお手数をお掛け致しました……改めましてお詫び申し上げます」
と応じた。
「うむ。しかし『別件』でな……新たに問題が生じたようでな……」
「なっ……?別件でございますか?」
「ほら……。例の……その……士官学校の話だよ。君も少しは聞いただろう?」
「あ……はい。確か……士官学校教頭のアガサ大佐が、ナラ課長に『内偵』を依頼していた件……でしょうか?」
「そうだ。今回の『和解破棄』の原因となった情報課長の独断行動だ。あれはどうやら……士官学校内の授業……白兵戦技の授業に対して何やら校内で対立が起きているようでな」
カンタス局長から話を聞いたヘダレス部長は「士官学校の白兵戦技」という言葉から、昨晩自分の胸倉を掴み上げた挙句に床に叩き付けた……あの巨体の軍務卿閣下の姿を思い出した。
何しろ、このマグダル・ヘダレスも士官学生だった頃……二回生時にヨハン・シエルグ「教官」から槍技の授業を受けていたのだ。成長期であったヘダレス自身も当時からクラスの中でもそこそこ長身の部類に属していたが、シエルグ教官の体躯の巨きさは彼から見ても圧倒的であった。そして体の中の……骨にまで響くようなその声。
三回生時には軍務科に進んで弓術を選択したので、殆どその関わりは絶えたが……昨晩顔を付き合わされて胸倉を掴みあげられた時、もう40年近く前になる当時の恐怖が……今この場においても思い出され、ヘダレス部長は小さく身震いした。
「白兵戦技の授業……が何か……?」
この時間、周囲のテーブルにはまだそれ程食堂利用者の姿は見られないが、情報部長は顔色を変えながら小さな声で局長に問い返した。
「ふーむ……。実は詳細はそれ程聞き出せなかったのだが……どうも軍務卿閣下は、その白兵戦技の授業内容に疑義が生じられていらっしゃるようでな」
「疑義……?軍務卿閣下御自身がという事でしょうか?」
「どうもそうらしい。そして……その授業内容の不備かな……?その責任は教育部にあると」
「教育部……。ん……?そう言えばナラは独断で進めていた捜査内容を教育部長……デヴォン少将でしたか。彼にも報告していたと……昨晩聞かされました」
「うむ。恐らくはその関連だろうな。私もまだ全ての事情を把握しているわけでは無い。軍務卿閣下からも、アラム大佐からも詳しい話を聞けなかったからな。しかし、どうやら軍務卿閣下の狙いは……」
ここで周囲を見回すような目配りをしたカンタス局長が顔を近付け、小声となって
「どうやら軍務卿閣下は、この授業内容に対する疑義によってエルダイス次官閣下を始めとする『教育族』と呼ばれる面々を省内から一掃しようとしているようだ……」
この局長からの言葉を聞いたヘダレス部長は、一旦それを飲み込んでから少し考える素振りを見せたが、やがてその内容の意味を悟って驚愕の表情となり
「きょ、教育族……あ、あの……教育部ご出身の皆様……人事局長殿や副局長殿……ですか?」
「そうだ。今も言ったがその筆頭はエルダイス次官殿だ。それに貴官の口から出た教育部長も恐らくは含まれている」
「そ、そんな……れ、例の……73人に対する『粛清』とは別に……という事でしょうか?」
「うむ。どうやらそのようだ。これは第四師団長の件とは別だからな」
「なんと……し、士官学校の中でそのような重大な事態が起きていたとは……も、申し訳ございません。情報部長という職責を頂きながら私は全く把握しておりませんでした……」
「まぁ、仕方あるまい。ナラ課長が君には全く報告を上げていなかったのだろう?ならば向かいの建物とは言え……勝手に立ち入る事も儘ならない士官学校の内部にまで目が届かないのは君の責任では無かろう」
恐縮しきりの情報部長に対して、意外にも情報局長は慰めにも似た言葉を掛けた。
「とにかく……だ。このままでは省内が二つに割れてしまう恐れがある。私は軍務卿閣下から直々にこの件に関してアラム大佐に協力して『教育族』更迭への協力を仰せつかったが、これを素直に受ける事は出来ない」
「えっ!?か、閣下は軍務卿閣下からのご命令に服すつもりはないと?」
「今も言っただろう。この件は最悪の場合、我が省を二分してしまう恐れがあると。そのような事態は何としても避けねばならん。既にその73名だったか?それだけの近年に無かった規模の粛清が行われているのだ。これ以上省内から……しかも上層部において免職者を出すのは宜しくない。我が省はこの王国の国防を担っているのだからな……」
「な……なるほど。仰る通りでございます」
「今のところ、軍務卿閣下からの命を受けたのは私と、アラム大佐だけかと思われる。よって君は今度こそ配下の者達を動員してアラム大佐の身辺を見張れ。彼もまさか独りで次官殿方に立ち向かうとは思えんし、そもそも彼自身も本心から軍務卿閣下の命令に従うとは限るまい。もし彼が『協力者』を募ると言うなら、その者を特定する必要もあるだろう」
「りょ、了解致しました。それではこれより至急手配致します。失礼致します」
そう言い残してヘダレス部長は席を立って食堂から退出して行った。殆ど手を付けられないまま放置された彼の食事を通り掛かった給仕係が困惑の表情で残された局長に尋ねてきた。
「こちらのお食事は……お下げして宜しいのでしょうか……?」
局長は小さく溜息を吐きながら
「ああ、いいよ。彼は急用が生じた故な。勿体無いが下げても構わんよ」
―――自分もこれから忙しくなる。
そうぼんやりと考えながら……少しずつ人が増え始めた幹部食堂の片隅で、局長は半分冷めた昼食を口に運び始めた。
****
「アラム大佐は軍務卿閣下のお部屋にて時間的には不明ですが閣下と会談されたようです」
情報部情報課に所属する捜査1係の捜査員から直接報告を受けたヘダレス部長は
「それで……?その後の大佐は何処か別の部署や人物の部屋に立ち寄ったりしていたか?」
「はっ……いえ……その後はご自身のお部屋に……。お戻りになられる際に廊下にて人事局のロウ大佐に声を掛けられまして……そのままロウ大佐をご自身のお部屋に招じておられました」
「ん……?人事局のロウ大佐……?」
「はっ。人事部次長のロウ大佐……法務官殿でございます」
「何……?法務官?あのロウが……?」
「はい。ロウ大佐はアラム大佐同様に法務官であります」
「ふむ……そのロウ大佐はどれ程の時間、アラム大佐の部屋に滞在していたのだ?」
「恐らく20分程かと思われます。ロウ大佐が退出されてから、アラム大佐は昼食を摂られに食堂へと向かわれました。しかし、幹部食堂ですので……何分にも小官は立ち入る事が出来ませんので……」
捜査員は恐縮の態で報告を終えた。彼自身も昼食を摂ろうとしていたところに、同僚数名と共に突然捜査1係長に呼び出され……情報部長からの指示に従えと言われ、部長からの命令でアラム法務官と軍務卿の周辺を探っていたのだ。
局長からの示唆を受けた情報部長の迅速な指令によって、軍務卿執務室から退出してくるアラム法務官の姿を捉え、そのまま本省庁舎内にて尾行を行おうとしたが2階の西階段にて、その行動をロウ大佐に見咎められて一時退散している。ロウ大佐が「君を見張っている者が居る」とアラム法務官へ伝えたのは「彼」の事であった。
「なるほど……20分では……それ程『深い話』は出来そうもないな。大方……来旬の軍法会議に関する打合せでもしたか……?」
情報部長はそう呟いたが、彼の前で報告を行った捜査員には聞こえなかったようだ。
「よし分かった。今後も引き続きアラム大佐の監視と軍務卿閣下の執務室周辺を見張ってくれ。特にアラム大佐が接触する人物を詳しくな」
情報部長の指示に対し、捜査員はやや困惑した表情で
「はっ……捜査に対しては最大限の努力を致しますが、何分本庁舎内……特に3階は我々一般職員では張り込むのも難しいわけでして……」
今回の「指令」に対しての困難な状況を訴えた。前回の「士官学校の校門を見張る」という指令に対しては、「情報部の捜査」という形で門衛を担当する憲兵本部に話を通せたが、今回の監視対象は同じ軍務省内の職員……しかも相手は高級官僚である法務部次長である。更には「密命」に近い状態で、相手に「それと知られる事無く見張る」というのは非常な困難を伴う。
現にこの捜査員は、その行動をロウ大佐に見咎められており……ロウ大佐はそれを「アラム法務官に対する監視」と看破している。この時点で早くも監視対象に警戒感を与えてしまったのだ。
「ふむ……そうだな。貴官の言う事も一理ある。とりあえず人員を増やして特定の捜査員が長時間その場に留まらせないように交代を密にしろ。係長を呼んでくれ。私から改めて指令を出す」
「はっ。お聞き届け頂きありがとうございますっ!」
捜査員は姿勢を改めて挙手礼を行い、情報部長室から退出して行った。暫くすると、伝言を受けた捜査1係長のニタル少佐が入室してきた。
「少佐。昨日の今日で疲れているだろうが……先程の話、捜査員を増員してくれないか?先程も説明したが、対象が次長職という高級幹部でもあるが、軍務卿執務室を見張るのも大変だろう。なるべく同じ捜査員が同じ場所で長い時間留まるのを避けたい。人員を増やして間隔を短くした方が無難ではないかな?」
ニタル少佐も昨晩から殆ど睡眠を摂っていない状況で、頭が少し回らないながらも部長からの言葉を咀嚼した上で
「はっ。閣下の仰る通りかと思われます。それでは2係の者も動員致しますか?」
「そうだな。今回はキチンと私の口から君達に話を通しておく必要があるな。ブロサム少佐を呼んでくれ。3人で話そう」
「了解です。暫時お待ちを」
ニタル少佐は挙手礼の後に部長室から一旦出て行った。捜査2係のテッド・ブロサム少佐を呼びに行ったのだろう。
(しかし……あの軍務卿閣下をも見張るというのは……大丈夫なのだろうか……)
ヘダレス部長自身は、「教育族」という軍務省上層部を固めている者達に対して別段恩情を抱いていない。彼はエルダイス次官とは直接の上司・部下の関係にはなった事も無く、カンタス局長から多少は「目を掛けて貰っている」という意識はあっても、それ程何かしらの「シガラミ」に縛られているわけでもない。
だからこそだが、今回の件においてはカンタス局長よりも客観的に状況を眺める事が出来ている。彼自身にまで、まだ全ての情報が集まっていないので詳細な事情を把握しているわけでは無いのだが……彼からすれば「どちらかと言うと……教育族には与したくない」というのが本音である。
更には、彼個人の感情によって部下の情報課長が自分に無断で捜査員を動かし……それも嘗てこれも自身の部下であり今では部外者であるはずの……士官学校の同期生であったハイネル・アガサからの依頼という形で動かれ、その結果として「あの恐ろしい」軍務卿閣下から直接、「強い叱責」を受けたという理不尽に対する憤りもあった。
士官学生の頃に教官として接点を持ったあの「偉丈夫たる軍務卿閣下」を敵に回してもいいのだろうか……彼は早くも今回の件で頭の中で葛藤を抱え始めた。
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カンタス局長は19時20分になって軍務省庁舎を後にした。いつもは終業時刻となる17時になると帰宅の途に就く彼ではあるが、本日は20時から王都南東に続く「八大通り」の一つであるアシリス通り沿い……環状四号道路と五号道路の丁度中間辺りにある王都の名店、「双頭の鷲」にて軍務省次官……ポール・エルダイス大将と「非公式」の会談を行う予定になっている。
軍務省庁舎から「双頭の鷲」までは馬車で15分、徒歩だと40分程かかる。カンタス局長は上級幹部として軍務省との通勤に公用馬車を使用しているが、本日はアシリス通りと四号道路の交差点辺りまで馬車に乗り、そこで馬車を帰してから徒歩で店に向かった。本日の「会談」はなるべく人目に付きたくないという考えもあり、軍務省の紋章の入った「公用馬車」で乗り付ける事が躊躇われたのである。
夜のアシリス通りは平日でも当然人の往来が多く、特に四号道路から五号道路の間は「双頭の鷲」を始めとして飲食店……それも高級なレストランが多く、カンタス局長のように仕事上の会食なども頻繁に行われている。
それらの人混みに紛れ込むように……カンタス局長は外套の襟を立ててアシリス通りを進み、「双頭の鷲」の大きな店構えの正面に辿り着いた。
元々、その大きな店構えを誇る「双頭の鷲」には馬車を乗り付ける車寄せが玄関に備え付けられており、今も局長の横を馬車が通り過ぎて、玄関に横付けされ……中から貴族のような身なりをした男女が下りて来てドアマンに迎えられ、彼らに開けられた扉の中に吸い込まれて行った。
陸軍の高級士官の恰好をしたカンタス局長が出入口に歩み寄ると、彼に気付いたドアマンが微笑みながら「いらっしゃいませ」と声を掛けてきた。
この店は軍人も多く利用するのか、ドアマンは軍人の身に付けている軍帽や制服徽章などでその階級が判るらしく、外套によって軍服は見えないが、カンタス局長の軍帽に入った金色の三本線で彼が「陸軍大将」であると気付き、態度が一気に緊張したものに改まった。
この王都においては、貴族階級の者に対しても相応の尊敬を払われるが、「無役の貴族」よりも王国政府の高官に対しては更に畏敬の念を抱かれる傾向にある。現役武官で最高階級である「大将」に対しては、そこら辺の年金貴族よりも相当に手厚い接遇を受けるのだ。
ドアマンは王城の向こう側にある軍関連施設から、馬車にも乗らず徒歩でやって来たのかと訝しみながらも、この陸軍大将と思わしき人物に対して深々と頭を下げた後に巨大な入口扉を引き開けて、店内へとカンタス局長を誘った。
この夏のある日に、ルゥテウスがノンを連れて訪れた際は昼間という事もあって、エントランスの向こう側に見えていた1階の客席部分には殆ど客が座っていなかったが、平日とは言え夜の時間ともなるとそれなりに予約によって席はかなり埋まっていた。時刻も間もなく20時である。この時間帯がこのレストランにとって客足のピークなのだろうか。
かの日にルゥテウスに対して応対した初老の男性が、あの日と同じようにカンタス局長に歩み寄って来て……
「いらっしゃいませ。お名前をお伺い出来ますでしょうか?」
と、あの日と同じような言葉を掛けて来た。
「あぁ……エルダイス氏の席に呼ばれて来たカンタスという者だ」
カンタス局長が次官の名を告げると、記憶力がいいのか……男性はすぐに
「エルダイス様からお承りしております。こちらへどうぞ」
彼の後ろには他にも2人の若手の男性が待機していたのだが、どうやら彼自ら案内役になるようだ。やはり軍務省次官ともなると、このような名店と呼ばれる場所でも疎かな扱いにはならないようだ。
ちなみに、彼等王都市民にとって「軍務省次官」よりも更に知名度は高いであろう「元王都防衛司令官にして現軍務卿」であるヨハン・シエルグ侯爵は、未だにこの店を訪れた事は無い。シエルグ卿は嘗てのルゥテウスのように、やはりこの店の持つ雰囲気が「鼻につく」のか、彼の高官在任中に数あった軍関係の会合やレセプションでも、この店を使う事は無かった。
案内の男性に続いてカンタス局長は店内奥にある左右に分かれる両階段を右側に上り、その先の回廊に並ぶ一番奥……表通り側の扉をノックしてから大き過ぎず小さ過ぎずの声で
「失礼致します。お待ちのお客様をお連れ致しました」
と、告げると中から「入り給え」と返事があったので静かに扉を引き開けて、局長を通すような恰好になり
「こちらにこざいます。只今すぐにお飲み物をお持ち致しますのでお掛けになられてお待ち下さいませ」
「うむ。ありがとう」と、室内に入った局長の後ろで静かに扉を閉めて立ち去った。
個室の中は幅5メートル、奥行きが3メートル程もあって意外に広く、奥側の壁には表通りに面したバルコニーに出入り可能な大窓が嵌め込まれていた。
部屋の中央には4人が掛けられる重厚そうなテーブルと椅子が配されており、この部屋を予約した人物は既に窓側の椅子に座って来客を見据えていた。
「こ、これは次官殿……。お待たせしてしまいましたか……」
約束の時刻である20時にはまだ10分程あったが、ポール・エルダイス次官は既に席に着いており、テーブルの上には何やら軽食らしきものとワインの入ったグラスまで置かれているので、彼はそれなりに早い時間からこの部屋に入っていたと思われる。
「いやいや。私もちょっと小腹が空いたんでな。君には悪いが先に始めさせて貰っていたよ」
今年62歳になるポール・エルダイス氏。中肉中背の体格に銀縁の眼鏡、頭髪はすっかり白くなってはいるが薄くなっているわけではなく、オールバックに整えられた細面の端正な顔つきをしている。目元はそれなりに鋭く、目尻がやや切れ上がった印象があり、この男に怜悧な印象を与えている。薄い唇は皮肉めいたように口角が右側に曲げ下げられており、本人はどうやら軽く冗談めいたつもりのようだ。
「左様でございますか。それでは失礼致します」
カンタス局長は空いている手前側の椅子……2脚あるうちの右側、次官の向かい側に座った。外套と軍帽は既に入口でドアマンに頼んでクロークに預けてある。
「料理はすぐに来ると思う。主菜は肉にしてしまったが良かったかな?」
「はっ、はい。構いません。ありがとうございます」
王都レイダスは周辺道路がしっかりと整備され、大港湾都市チュークスとも幅300メートルにも及ぶ大運河で結ばれてはいるが、大陸東岸から内陸に約450キロ、南サラドス大陸との間に横たわる南方のメタダ海峡側からも600キロ程の距離にあるので海洋資源が生鮮状態で供されるという事はまず無い。運搬には流れの穏やかな大運河を遡上利用しても海軍の誇る急行連絡艦で3日、通常の貨物船だと5日程度掛かってしまう。
帆船技術が発達した現代においても、450キロという大運河の遡上にそれだけの日数が掛かってしまう為、「新鮮な魚介類」を王都で食す事は非常に難しい。
人生の大半を魔物の潜むアデン海側とは言え、港湾都市であるドンで過ごして来たロデール・エイチ士官学校長が王都に移り住んで一番困惑したのは、この「新鮮な海の幸」が食卓に並ばない事であったと言う。
よって、王都における水産食品……とりわけ海産物においては「乾燥品」が主な物となり、新鮮な魚介類を求めるのであれば、それは王都のすぐ南側を流れるイリア川から揚がる淡水魚や貝類を指す事になる。これは同様に内陸に位置し、レレア川の淡水魚を食す公爵領の領都オーデルと事情は全く一緒であった。
この点で言うならば、ルゥテウスや菓子売りのご婦人方によって毎日のように主に西海岸側の都市から海産物を「特殊な移動方法」で仕入れる恰好になっているキャンプの食堂や配給所の方が余程恵まれている事になる。
局長が席に着いてからものの2分もしないうちに、給仕係が盆に食前酒だろうか……赤ワインの入ったグラスを載せて持って来た。テーブルに置かれたグラスを局長が手に取ると、次官も自分のグラスを持ち上げて、顔の前に掲げた。局長も同じような所作の後にグラスに口を付ける。
「何か話があるようだな。食事が来たら食べながら聞こうか」
「はっ……」
そう話しているうちに、料理が次々に運ばれて来た。この世界……王都のレストランでは所謂「コース料理」のように前菜、スープ、主菜……などと時間を置いて別々に供されるのでは無く、テーブルの空いている場所にどんどんと皿が置かれて行く。本来であればこのような高級飲食店においては給仕係が専用にテーブルに着いて料理の取り分けや皿の交換などを行うのだが、このような個室利用の場合は客同士による「他には聞かれたくない話」をする場合が多いので、「給仕は自分でやる」と断ってしまうことが多い。
今回の次官と局長の場合も、やはり前述のように密談めいた会食となるので次官から予め言い含められていたのだろう。給仕係は料理を全てテーブルの空いたスペースに並べ終えると、一礼して静かに部屋から出て行った。
「さて。食べながら話そうか」
局長の来訪を待つ間に摘まんでいた軽食の皿を下げさせた次官がナイフとフォークを持って、料理を口に運び始めた。局長は実際あまり食欲が湧いていなかったが、それでもフォークを使ってサラダを食べながら
「はい。お話と言うのは……実は昨日、我が情報局……いや、情報部で『騒動』がありまして……」
局長はそのように切り出して……昨晩、情報部室で起きた事をヘダレス情報部長の報告を元にして次官閣下に説明を始めた。
「何と……軍務卿閣下がかね?」
情報部室に軍務卿閣下が「怒鳴り込んで来た」という内容を聞きエルダイス次官は驚きはしたが、それでもその様子は右側の眉がピクリと動いた程度であった。見ようによってはあまり感情が動いていないようにも見える程である。
「はい……私は当時既に帰宅した後でしたので、本日の始業前に情報部長からその報告を受けまして」
「ふむ。その……情報課長か。彼はまだ憲兵本部に拘留されていると?」
「はい。そのようでございます。情報部長の報告によりますと先程も話に出てきました法務官のアラム法務部次長の権限によって接見禁止状態になっているとか」
「『法務官の権限』……か。すると私でもその男から詳細な事情を聴くのは難しいな……」
エルダイス次官はナイフとフォークを持つ手を止めて考え込む表情となった。
「私は情報部長からの報告を受けて、すぐに軍務卿閣下のお部屋へお伺い致しまして……」
「あぁ、君自身が詫びを入れに行ったのかね?」
「はい……。それと部長からの説明でも要を得られない部分がございましたので、謝罪を行いがてら事情を窺ってみようと思いましてな」
「くくく……流石は情報局長。『ただでは転ばない』という事だな?」
次官は僅かに笑い声を漏らした。
「は、はい……。こういう場合はまず事態の把握が基本ですから……」
笑う次官に対して局長は恐縮したような素振りではにかんだ。
「で……?事情は知れたのかね?」
「それでございます。本日はその件で次官殿にお尋ねしたい事と、お伝えしたい事が同時に発生致しまして」
「私に尋ねたい事?」
「はい。次官殿は現在我が省にて進行中の『大粛清』とも言える人事変動についてご存知なのですか?」
「大粛清……?人事変動……?どう言う事かね?」
「大粛清」というキーワードは先程よりも次官を驚かせたようだ。それまで余裕ありげに小さく笑っていたエルダイス次官の表情が俄かに改まるのを局長は目にして、多少怯みながらも
「ご存知ではありませんでしたか……?実は……」
と、自身も本日初めて耳にした軍務省内で一部の者達が情報統制下において粛々と進めていた「下級中級士官の大量免職」について説明を行った。詳細な数字は報告を上げて来た情報部長も失念していたようだが、肝心の部分である「本省内の6名を含む……総数にして70余名」という内容だけは覚えており、その数字を次官に示したのである。
「なっ……何だと……!」
やはりこの数字は、普段は冷静沈着……「氷のような男」と上級幹部から評されているポール・エルダイス次官をして絶句させる程に驚愕させたようだ。
当然だろう。彼は軍務省を動かしている軍官僚の「最高位」に位置している者である。彼の意識では「あの図体ばかり大きい」軍務卿閣下は「お飾り」に過ぎず、自分こそが軍務省……いや、この王国の軍部を動かす実質的な最高実力者であると自負していた部分もあった。
制度上の「最高司令官」である国王陛下でさえ、「士官学校を出ていない軍の実情を知らぬ者」として心底では見下していた程である。
その最高実力者であるはずの自分が把握していない所で本省内の中級以下であるとは言え、軍官僚が軍籍を剥奪されていたと言うのだ。そして本省の外まで含めればその総数は70名を超えると言う……。
「私はそのような話は全く聞いておらんな。人事局長も同様だろう。つまり……課長以下の人事権を持っている人事部長の一存で実施されたという事だな。我々に何の報告も無く……だ」
「や、やはり……左様でございましたか。この話……当然ながら我が情報局にも一切、詳細が知らされる事無く進行していたのです。申し訳ございません。私はてっきり……次官殿がこの件について私を情報統制の外に置かれたものだと……当初はそのように疑っておりました……誠に……誠に申し訳ございません」
情報局長は次官に対して僅かに残っていた誤解が解け、それに安心したかのように自らの中に蟠っていた不信感に対して謝罪した。
「ふっ……気にするな。君の気持も解る。そのような「大事」が私の関与無く起きているなどと思わんだろうしな。いやはや……私自身ですら信じられないくらいだ」
次官の口元が今まで以上に皮肉さを込めて歪んだ。彼なりに苦笑いしている……と言ったところなのか。
「して……その粛清を進めているのが、軍務卿自身とその……法務部の次長……いや、黒幕は人事部長か?」
「確たる事は解りかねますが……人事部長よりもむしろその……法務官……アラム法務部次長が主だっているのかもしれません」
「なるほど……本省内の該当者は既に軍籍から外されているのだな?」
「はい。どうやら、本省内の6名を含め……全体では既に40名程度が軍から除籍済みになっているようです」
「もうそんなに進められているのか……ふむ……全く気付かなかった。我ながら迂闊だな」
「いえ、それを申されるならば私も同様でございます。試みに情報局内の状況を精査致しましたが、情報局内にはその粛清による該当者は存在しておりませんでした」
「ほう……。つまり他の6……いや、参謀本部と憲兵本部は除外して4つの局で免職者が出ていると見ていいのか」
次官も局長も話に夢中になっていて食事には全く手を付けなくなっていた。それ程に局長の持って来た「話」は普段冷静沈着な次官を心底まで動揺させているのだろう。
実際、軍務省には上記の次官が挙げた情報局を含む7つの局の他に、次官直属の「総務部」という部署が存在する。ここには主に各部局の幹部室の室長……つまり秘書官が所属しており、本来であればその秘書官を通して次官は各部局の幹部の動向を把握しているはずであった。と……言っても省内で秘書官が置かれているのは各局の副局長以上の地位にある者だけであり、今回のように法務局法務部次長であるアラム大佐を首班とした「執行委員会」の動きは法務局の局長及び副局長の秘書官にも知られる事は無かったようである。
もちろんこの委員会の存在をアラム大佐の上司である法務局長と法務副局長は知っていたが、あくまでも情報統制はその両名「個人」に及んでいたので、彼らの秘書官にすらそれを知らせる事は無かったのである。
更には軍務卿には3人の秘書官が配属されているが、彼らはまた総務部とは別に軍務卿直属の「官房」という内部部局に属している者達であるので、基本的には次官の指揮下には入っていない。このような事情が重なることによって、今回の件で布かれた情報統制は次官すらもその外に置く事が出来たのだろう。
すっかりと食事に手を付ける事も忘れて考え込む表情となったエルダイス次官に対して、カンタス情報局長は
「閣下。最早その件に関しては我らの知らぬ所で進んでしまっている事であります。先程も申し上げましたように、どうやら陛下からの『お声』も掛かっているようでございますので、今更ながらにそれを阻止する事も叶わないと思われます。それよりも……その後の件が重大な事でございまして……」
局長の声を聞いた次官が自らの思惟から我に帰り、「ん?」という感じで顔を上げたところで
「先程も申し上げました。今朝方この報告を情報部長から受けた後に私は軍務卿閣下のお部屋にお詫びに上がったのでございます」
「う、うむ……。先程の話だな?」
「はい……私が先程申し上げました……次官殿にお尋ねしたかった事は今の『大粛清』についての事でございました。次官殿はご存知無かったというお話を承り……私としては今回の情報統制の外に次官殿のご意志によって置かれていたわけでは無かったと得心致しましたが……」
「まぁ……そうだな。そもそも私自身がその『情報統制』の外に居たわけだしな」
次官は再び……彼独特の「口を歪める」ような表情で苦笑した。
「ここからは私から次官殿へお伝えする事……それも重大なお話となります」
局長はその「人懐こい」表情と姿勢を改めて真顔になって次官に語り掛けた。
「うむ……どうやらわざわざ君が私にこうして会談を申し入れて来たのは『こっち』が主題だな?」
「はっ……はい……」
カンタス局長は言葉を選びながらも、軍務卿から命じられた「教育部の放逐」について……その首魁であるエルダイス次官に内容を話し始めた。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ヘルン・カンタス
59歳。軍務省情報局長。陸軍大将。勲爵士。
定年間近の小柄な老人。髪も既に脱け切っている。主人公との和解約定を破る不始末を起こした情報部を監督する者として、その穴埋めの為にアラム法務官への協力を申し出るが、実は次官恩顧の上級幹部として次官に通じている。
ポール・エルダイス
62歳。軍務省次官。陸軍大将。勲爵士。
軍務官僚のトップ。強大な政治力を発揮して現職まで上り詰め、同時に子飼いの部下をも高位に引き上げて軍務省上層部に「教育族」と呼ばれる派閥を形成している。
マグダル・ヘダレス
55歳。軍務省情報局情報部部長。陸軍少将。勲爵士。
軍務省の地下1階にある情報部を統括している。部下のナラが承認許可無く捜査員を動員した為に身に覚えのない管理責任を問われる。
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。
主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。
タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技授業」の責任を教育族に取らす決意を固める。