空に溶け込む色
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ノンが《溶着》の導符を予想外のペースで作り出す事が出来る事が判明し、サナが徐々に慣れて来ている同効果を持つ術符作成と併せて、外気嚢骨格への外板貼付作業のペースが維持される事となり、ソンマは一安心と言った心持ちになった。
何しろ彼は連日の作業でジュラルミン合金製の骨格及び外板にアルミ板の圧着を行い、更に外板の成形作業までを独りでこなしていたのである。いくら自身は物質転換系の錬成を得意とする特級錬金術師とは言え、今回の作業対象は規模も作業数も桁違いである。先月の中頃からこの大工場にずっと詰めたままで、藍玉堂本店の業務は同時進行で燃料のアルコールを生産していた妻に任せきりであった。
その妻が今日の午前中で漸く目標量の燃料生産を終えて、こちらの作業に合流してくれた。そこで彼にとっても負担の掛かっていた溶着術符の生産を肩代わりして貰っていたのである。
実際、ここ数日は試行錯誤の結果として貼付作業を8班、各班4人組で実施する事で方針を固め、作業に慣熟してきた彼らの作業ペースを落とさせない為に導符を作成する事で手一杯の状況になりつつあった。
「いやぁ……ノンさんには別の件で来て貰ったはずなのに、却って助かりましたよ……」
漸くこの突貫作業にも「終わり」が見えて来たと安堵するソンマが苦笑している。
「俺も詳しくは聞いていないが、そんなに奴らは急かしているのか?」
店主の問いに
「そうですね……。彼らも口には出しませんが、多少焦りはあるようです。どうやらここ一月余りで情勢が急速に変わって来ているらしいですね……」
口元から笑いを引っ込めて、ソンマは真剣な表情となった。
「面倒臭ぇ奴らだな……。いや、ロダルやイバンの事じゃなくて南の奴らがな」
ルゥテウスが言う「南の奴ら」とは、トーンズ国の南方……サクロからだと南西方向に低木森林地帯を隔てて勢力を張っている「テラキア」という大国の事を指している。
テラキア「王国」は今から11年前に現在のトーンズ、それも今ルゥテウス達が居る藍玉堂の工場群が建っている辺りの南方に在った「モロヤ」という蛮族国家を滅ぼし、その版図を併合してから一気に強勢となり……それから僅か10年程で自国の更に南側の地域にあった幾つかの小国を呑み込んで「大国」どころか「超大国」と言うべき規模にまで国土を拡げている……そういう報告が、かの国の内部に潜入させている《青の子》の諜報員から上がって来ていた。
「超大国」と言っても、それはこのエスター大陸の中での話であり、世界的に見れば北サラドスのレインズ王国やロッカ大陸中西部にあるダハン王国などに比べられるものではないが、3000年に渡る小国同士の戦乱によって興亡が繰り返されているこの大陸において、テラキアの国土は数百年単位で出現久しかった程にまで肥大しているのだと言う。
これまでのエスター大陸における「国々」としては、各々が全方位で対外戦争に明け暮れているわけだが……実際は正面切って会戦を行えるような軍事組織を持てるような国力など持ち合わせておらず、それこそ「だらだら」と国境線付近で小競り合いを延々と繰り返すような争いを続けているような状況であった。
国境沿いの町や村を襲い、略奪を繰り広げる……そのような「軍事行動」によってお互いを消耗させ合い、時折優秀な人材の出現によって戦局が動き出す気配があっても、その人材を暗殺等の手段で排除する事で、膠着状態に引き戻す……《赤の民》はそのような歴史の「闇」の中で暗躍してきたとも言える。
しかしテラキアはそのような膠着した「小国同士の小競り合い」の時代を変える程に拡大しつつある。そんな彼等が唯一その勢力を拡げられないのが「北」の方角なのだ。
10年近く前に突如北東方向……中央山地の西側に出現した「サクロ」という町は、その後一気に発展して数年後には「トーンズ」という国が立てられた。
モロヤの内部崩壊に乗じてそれを併合した事で国力上昇に勢いが付いたテラキアは、まずは彼等がそれまで辿って来た「理知的」な手段で、この新興国家へと接触を試みたが……取り付く島が無い程に外交的接触を拒絶された。テラキア側の外交使節はトーンズの勢力下に寸土たりとも立ち入れないのである。
彼らが手をこまねいている間にトーンズはあろうことか西に向かって領土を急速に拡張し始め、結果的にテラキア側からしてみれば「縄張り」の北側に「重い蓋」をされたような状況となり、北への領土拡張はそこで止まってしまった。
こうなってくると、彼らの言う「理知的な」接触を諦めざるを得ないと判断したのか、今度は諜報員を送り込んで来るようになった。しかしその者達もどういうわけか1人として帰還する事が無く……結局この北側の新興国家の様子は全く窺い知る事が出来無いテラキア王国の上層部に不安だけを募らせるようになってきた。
そして近年になって彼らに看過出来ない情報が舞い込んで来た。
「旧モロヤ地域や本国内からもトーンズに『逃亡』している下層民が続出している」
と言うのだ。
どうやら旧モロヤの北東側の外れに位置し、今はトーンズの勢力下にある「テト」という村を介して自国民が集団で何者かによる「手引き」によって逃げ込んでおり、その数はここ数年で何と2万人を超えていると言う。それも手引きを受けているのは下層民……特に「新しい主」であるテラキアから旧モロヤ程では無いにしろ搾取を受けている者達で、そればかりでは無くテラキア本国の中で暮らしている最下層民……奴隷などに身を堕とされた者達までが、何者かに誘われるがままに「持ち主」の下から逃亡しているとの事なのだ。
言うまでも無く、そのような「誘引工作」を実施しているのはトーンズ国の諜報部隊である《青の子》の諜報員で、「理知的な統治」とは言え……彼等から見て圧政に苦しんでいる弱い民衆の中に地下組織を作り上げて少しずつ……しかし確実にトーンズへの脱出を助けているのである。
現在のところ、脱出者の逃亡ルートとして開かれているのはテトだけで、両国の勢力境界である森林地帯を直接抜けての亡命をトーンズ側は許していない。
森を抜けて自国に入ろうとするテラキア国民はその境界で《青の子》によって悉く阻止され、厳しい取り調べを受ける。彼等はトーンズ側にとって「予定に無い者」であり、その中にはテラキア側の諜報員が混在しているとも限らず、一律に「追い返す対象」でしか無い。
取り調べによってそれが本当に困窮している者だとしても、国境警備の者達は最低限の食料などを与えて、南東側にあるテトを目指すように案内する。こうして……国境方面からのテラキア民流入をトーンズ側は封じ続けているのだ。
しかし、ここ数カ月はその「国境越え」を試みる者の数が目立って多くなってきており、青の子の国境警備体制にも限界が訪れようとしている。考えられる原因としては南方に向かって国勢伸長を図るテラキア政府によって軍需物資……特に食料の徴発が増えてきており、その皺寄せが下級国民に押し寄せて来ているものと思われる。
更にはテラキア潜伏の諜報員からの報告で、テラキア王国内では一昨年、昨年と続けて農産品が不作だったらしく、それにも関わらず南方諸国への出兵を繰り返す王国政府は、旧モロヤ併合で「大きくなり過ぎた」事によってそれまでの周辺諸国との国力バランスが崩れてしまったのだろう。
「イバンさんの話では、そろそろ本格的に『南』からの侵攻が有り得るとの事でしたよ」
「ふぅん……。懲りねぇ奴らだな。これまで何度かテトで痛い目に遭ってるだろうに」
ソンマからの話を聞いてルゥテウスは呆れた表情になる。実際、ここ何年かの間に両国は小規模とは言え直接干戈を交えていた。前述のテトへの難民・亡命民流入に業を煮やしたテラキア側が「ちっぽけな村」と見ていたテトに数百人規模の「討伐軍」を送り込んで来るのだ。
嘗ては旧サクロ村と同様に小さな「自治の村」であったテトも、住民の総意によってトーンズ国への編入を果たしてからは、トーンズにおける「南の玄関口」の役割を担うべく、その周囲は要塞化されて南方と西方からの出入りが厳しくなった。
相変わらず昔馴染みの「巡回隊商」は受け入れていたが、村……現在は既に人口2000人程度の「町」になっているその南西側の区画から奥へは立ち入る事が許されず、古馴染みの隊商の者達でさえ……実際のトーンズ国内部を見る事も儘ならぬままに南西区画の中で物々交換による交易が許されているような状態である。
しかし、その物々交換で隊商側がテトから得られる交易品は以前のものとは隔絶した品質であり、逆に彼等が対価として差し出す……昔の住人ならば有難がっていた干し肉や塩などは、それ程喜ばれるという様子では無く……むしろ南方や西方の情勢を情報として提供する事でその「交換格差」を補填すると言った事態になっていた。
テトにはトーンズ国軍が300人程度駐留しており、この数字はテラキア軍側の侵攻軍の半数程度でしか無かったが、統制と訓練が行き届き、最新鋭の装備で固められたトーンズ国軍の駐留兵は押し寄せるテラキア軍を木っ端微塵に撃ち砕いた。
ロダル将軍によって「蛮族兵は可能な限り追撃して帰還を許すな」と訓示されている駐留兵は、半数の兵で20キロ近くに渡って徹底的に追撃を行い、討ち取られたテラキア兵達は装備を剝がされ、留守部隊の掘った穴に放り込まれて焼却される。トーンズ兵は末端の兵士に至るまで「疫病の発生を防止する」という主な理由によって容赦無く敵兵の死体を焼却するように教えられている。
実際……かなり残虐な行為に思えるのだが、難民出身者で構成されている彼等は略奪を受けた自分達の故郷で、殺された家族や友の死体から疫病が蔓延し、更なる被害を生き残った者達にもたらすという悲劇を何度も経験しているだけに、疫病の恐ろしさを身に染みて知っている。
また、宗教観に囚われる事の無い者が多い難民出身者は、「死体を燃やす」という行為に対して特別な「畏れ」など持ち合わせていないのである。
「はい。私もそのように聞いてますが、どうやら近々に大規模な侵攻が行われるのではないかと……なので偵察を密にしたいのだとか」
「なるほどな。侵攻経路が判れば、それ程多くの動員を必要とせずに済むからな。それにクロスボウによる遠距離攻撃を主体とするこの国の軍にとっては待ち伏せによる斉射戦術が最も効果的ではあるしな」
「そうなのですね。であれば……やはり今月中には仕上げませんと……」
「まぁ、この調子なら大丈夫じゃねぇか?気嚢部分に2旬、ゴンドラ組立で1旬、艤装に1旬としても試験飛行込みで初飛行はこの1月の5旬目くらいには間に合うだろう」
「なるほど。そのペースでなら現状、作業予定に無理が生じる事も無いでしょう」
2人は工場の奥……ノンとサナが作業を続けている錬金部屋の東側に確保されているゴンドラ製作スペースに向かった。今回の試作機の外気嚢部組立も、この超巨大工場の全てを占有しているわけでは無く、奥のスペースには幅8メートル、長さ40メートル程のゴンドラの骨組みが、こちらは本物の船舶を製作するような造船台に載せられたた状態で製作が進められており、気嚢部と違って大型外洋船のように竜骨に肋材を接ぎ合わせた姿を見せていた。
今回のゴンドラ部も、前回の試作品の成功に伴って空気抵抗を可能な限り排する方向で「大気を切り裂く」というイメージからか、二層甲板船の吃水部分をそのまま切り取って来たような流線形状となっており、気嚢部分が全長100メートル、最大幅50メートル、高さ30メートルという「上下から圧し潰されたような」、巨大な楕円体形状の底部に密着させる方式となり、ゴンドラ部の全長40メートルにおいては先端から5メートルを前部艦橋、その後方15メートルを主な乗員スペースとし、その後方10メートルを物資倉庫、そして最後部を機関室及び後部艦橋とした。当然ながら各区画は通路で自由に行き来が可能とはなっているが、一応は隔壁によって仕切りを設けるという構造にしている。
このゴンドラの大きさは、レインズ王国海軍では「三等艦」と呼ばれる、いわゆる「フリゲート艦」に匹敵する規模であり、海軍ではこの規模の艦船に将兵併せて150人前後が乗り込むことになるが、こちらのゴンドラは最大定員を50名、実際の運用最低人数を15人として、乗員の居住スペースを確保するなど……長期間飛行を意識した設計となっている。
ゴンドラ製作スペースの片隅には、前回の試作機から降ろしたキッタ製作の推進用内燃機関が4機と内気嚢へのヘリウム供給制御用の液化装置が内臓された同型の内燃機関が1機、そして今回の最終試作機を製作するに当たってキッタが新たに新造した4機の同型内燃機関が置かれていた。
前回の木製骨組と、パラノア補強による紙張りの「浮遊実証機」では、前後進の為にゴンドラ尾部に推進プロペラを回す機関を2機、左右機動用に外気嚢部の側端に機関を各1機、合計で4機の推進機関を設置していたのだが、今回は機体が大きくなるのと……実際に操縦を担当したキッタの意見によって外気嚢部側面に更に左右各1機と、気嚢頭頂部及びゴンドラ底面部に推進機関に対して垂直方向にプロペラを設置する事で、側方推力を発生出来るようにした。この機構によって側面への平行移動が可能になると共に、強風や急旋回等によって発生し得る「空中転覆」を防止する狙いもあった。
「こっちもかなり仕上がってきたな」
ルゥテウスが船台を見上げてその作業風景を眺めながら感想を口にした。
「はい。キッタさんが過去の試作品を流用して新しい内燃機関を仕上げてくれたので予想よりも早く数を確保出来ました」
「あいつは製作する数をこなす事で漸くこの機関の仕組みを理解しつつあるな。今日は発電機の動作も確認出来たから、こちらに設置する分も近日中に出来上がるだろう」
「キッタさんには、《青の子》の人達に操縦法も教えて貰いませんと……」
「まずは蒸気機関車の操縦術を教える方が先だな。こっちの方がお前が教えてやればいいじゃないか。お前だって操縦出来るのだろう?」
「ええ……まぁ……。あれから私も何度か操縦を担当してみましたが……私はどうもその……体を動かす方は左程得意ではありませんので……」
ソンマは苦笑した。
「しかし、それでは工場長は休む暇が無くなるぞ。建国準備をしていた時もそうだったが、あいつは頼まれたら断るという事が出来ない性格だ。いい加減、こちらが気を遣ってやらないといつか倒れちまうぞ?」
「そ、そうですね……。ではこちらの操縦法伝授は私が引き受けましょう……」
「うむ。俺も初飛行には付き合うが、やはり船外で一緒に飛んで飛行中の点検を担当する事になるからな」
「は、はい。それはもう……店主様にしかお願い出来ない事ですから……」
そのような事を話しながら歩いていると、作業スペースの壁際に大きなガラス板が何枚も立て掛けられている場所へと到着した。
「全部で何枚の窓を付けるんだっけか?」
店主からの質問に、ソンマはローブの隠しから図面を取り出して
「えっと……側窓が……左右各大型4枚、小型6枚ですね。前部艦橋は前方に……これです。大型のやつを2枚、後部艦橋にも同様に2枚と、各艦橋には床面にも2枚の窓を嵌めますので……全部で28枚ですね」
「随分と数が多いな。それで剛性は維持出来るのか?」
「はい。それは問題ありません。床面窓も含め、全ての窓を硬質ガラスに仕上げました。これだけの数の窓ガラスを透過性を確保したまま強化するのに苦労しましたが……」
「あぁ、錬金術を使ったのか?」
「はい。工業的な改良は……ちょっと無理でした。工房の職人さん達は今後の研究課題にするとは言ってましたが」
「まぁ、そうだろうな。恐らくこれだけ面積の大きなものになると今の工業技術では均質に硬度を上げるのは難しいと思う。薄いガラス同士の間に透明な樹脂でも挟んで重ねる方法なら何とかなるだろうが……」
「あっ!そういう方法があるんですね!なるほど……」
「いや、その場合でも肝心の『透過率の高い樹脂』がまだ作れないだろう。それこそお前が昔からやってる『石油の分離』によって合成樹脂を精製するくらいか」
「なるほど。石油の成分に含まれているのですね?」
「そうだな。他だと……天然樹脂からの精製方法もあるのだが……」
そこまで口にして、ルゥテウスは言い淀んだ。天然樹脂からの精製は最終的に火薬の原料に繋がる可能性を秘めており、これを工業的に実現させてしまうと将来的に合成火薬の大量生産への道が拓ける恐れがある。
彼としては、この世界に火薬作成の技術を復活させるのは時期尚早と見ており、これ以上の説明を控える事にした。
「まぁ、工業的にこれを高品質で実現するにはまだまだ難しいだろう。暫くは錬金術による製造でいいのではないか?」
「そ、そうですか……」
ソンマはルゥテウスの説明の中に、何か歯切れの悪さを感じたが……それでも敢えてこれ以上この件について突っ込むのを店主が好まないという雰囲気を読んで口を噤んだ。
「で、そもそも今日の本題はこのガラスに《明視》の付与をするという事なのだろう?」
「はい。私も監督さんに双眼鏡を見せて貰ったのですが……驚きました。あのレンズを通してだけ視界が明るくなるというのは……今まで想像もしておりませんでした」
「まぁ……お前も気付いているだろうが、あれは魔導だからな。それも『空間制御術』だ。魔導師の中でも使える者がどれだけ居るのか分からん」
「なるほど……やはり相当に高度な魔導なのですか。そうなると、あの双眼鏡に付与をしたノンさんと、店主様だけが……現状で使えるわけですね」
「他の4人の魔導師が実際どのような分野を得意としているかによるがな。実用性は問題無いぞ。先程ここに来る前に機関車の運転室の前面窓に付与してみたら上手く作用していた。工場長は驚いていたがな」
ルゥテウスはキッタの仰天した顔を思い出して笑った。
「先日の……店主様のご説明によれば、その《明視》ですか。その魔導の付与によって……こちら側からだけ視界が明るく見えるわけですよね?」
「その通りだ。あくまでも『明るく見える』のは、その窓越しに向こう側を見た者だけだ。窓の向こう側が明るくなるわけじゃないんだ。それを見た者の視界だけが明るくなるんだ」
「うーん。いまいち状況が想像し難いですね……。監督さんの双眼鏡を覗かせて貰って一応はその現象を確認してはいるのですが……」
「まぁ、こればかりは実際にそれを目にしてもらわんと理解出来ないだろうな。俺もこうして口で説明はしているが、それだけ聞いて理解までして貰えるとは思っておらん」
苦笑する店主の様子にソンマも益々思案を巡らせるが、どうしてもその情景を思い浮かべる事が出来ない。
「まぁいい。ひとまずノンが溶着の導符を作り終えたら本格的にこっちもやって貰うが……見本を一つ作っておいた方がいいな」
ルゥテウスは、懐の隠しから紙片……白紙の術札を取り出して目を閉じ、導符を1枚作り出した。相変わらずの早業にソンマが目を瞠るのも構わず、今度はその導符を右手に握り込んで念じる素振りを見せる。
すると……彼の目の前に立て掛けてあった艦橋部の床面に使われると思われる縦横100センチ、厚さ5センチ程あるガラス板がほのかに青い光を放った後、すぐに消えた。
「よし。これで付与は入った。試しに外に持ち出してみるか」
そう言うと、店主は目の前の付与が施されたと言うガラス板をひょいと持ち上げた。ソンマはそれを見て更に驚愕する。そのガラス板は今回使われるものの中でも小さな部類に入る大きさであったが、それでも推定100キロを超えるような重量があり、実際この場所へ搬入する際にも車を使って、3人掛かりで運んだのだ。
ガラス板を持ち上げたまま、店主は北東側にある工場の「裏口」に向かい、エレベーターの脇にある裏口扉の前で、後ろから慌てて付いて来たソンマに声を掛けた。
「ドアを開けてくれ。外の暗い場所で効果を確認しよう」
「あっ、はい。お待ちください」
ソンマは急いで店主の前に回り込んで裏口の扉を開けた。店主がガラス板を持って工場の外に出た後に自分も一緒に外に出て、扉を閉める。扉の外は結界の外になるので、年の変わり目の季節……この赤道に近いエスター大陸中西部も真夜中ともなると多少冷え込んだ空気となる。店主は周囲が暗くなった工場の外に出てすぐの地面にガラス板を立て置いて、それを支えながら
「どうだ。見てみろ。そっちから見るとガラスの向こうだけ明るく見えるだろう?」
店主に促され、扉を閉めてから振り向いたソンマは目の前の不思議な光景に思わず息を飲んだ。
「なっ……こっ、これは……」
店主が倒れないように支えている100センチ四方の板ガラス……があると思われる場所だけが工場から漏れる照明が僅かにあるとは言え、窓の無い裏口側の外部……暗闇の壁から切り取られたかのように「真昼の」エスター大陸の大地が広がっていた。
そしてこの奇異に思える光景に拍車を掛けているのが、朔日の月も出ていない闇夜の静寂から切り取られたかのような真昼の光景から、こちら側に光が全く漏れ出て来ていないのである。
ガラス板が置かれた地面がその光に照らされているわけでも無く、それを支えている店主の姿すら見えない。
「空間制御術だからな。この付与が掛かった面越しに見ている者の視界に対して作用しているんだ。だから本来であればガラスの向こう側も当然ながら『夜の暗闇』だから、ガラス越しに光が入って来るわけじゃないんだ」
「これは何とも……不思議な光景ですね」
ソンマはそう呟きながら、真昼のように明るくなったエスター大陸の大地が続く光景に見入っている。
「反対側に回ってみろ。それで何となく俺の言っている意味が解るはずだ」
店主に言われて、ソンマはガラスの反対側に回ってみた。なるほど、先程とは打って変わってその向こう側には暗闇の中に薄っすらと輪郭だけが見える裏口扉が、何となく見える。ガラスの裏側から見えた真昼の光は扉を照らしているはずもなく、真っ暗な情景だけが目に入って来る。
「ふむ……実に不思議な事象ですが……なるほど。覗いた者の視界にのみ作用する……。空間制御術だと言われてみれば確かに頷けますな」
これまでこの《明視》という魔導の効果を体験した者の中で、流石にソンマだけはその効果を実感的にはともかく、理論的には理解したようだ。
「まぁ、そういう事だ。これなら片面だけに付与を施せば夜空に浮遊したところで反対側……外側から内部の様子は窺い知れまい」
「そうですね。これなら艦内で照明を使わない限り……その光で地上から視認される可能性も低いでしょう」
「しかし……だ。その『内部で照明が使えない』というのは任務遂行上においても不便だろう?」
再びガラス板を元あった場所に戻す為に、軽々と持ち上げて歩き出した店主は夜間飛行中の問題点を一つ挙げた。
「ま、まぁ……確かにそうですが……」
ソンマも再び店主の前に回り込んで裏口扉を開ける。ガラス板を持って工場の中に戻ったルゥテウスは、ガラス板を元あった場所に立て掛けてから話を続けた。
「最終的に外装全体にも何らかの細工というか……加工が必要だな」
「加工……ですか?」
「ふむ。いくら今夜のように月の出ていない夜にしたって、雲でも掛かっていない限り星明かりに飛行船の影が映ってしまう。ましてや月明かりのある晩にいくら黒い塗装を施したところで、これだけの巨大な飛行物体が浮遊していれば地上からでも左程苦労する事無く発見されてしまうだろう」
「なるほど……この場合、この飛行船の巨大な船体が問題になるわけですね?」
「そういう事だ。なので『ただ黒く塗る』以上の何かしらの加工が必要となる。もっと言えば昼間の空に浮かんでいても視認性を低くする必要だってあるだろう。この船は昼夜連続飛行をも視野に入れているのだろう?」
「ええ。監督さんはそのような運用を目指しているらしいですが……」
「ならばもう、《擬態》による視認性低下を目指すしかあるまい」
「擬態ですか……?私は実際にそれを見た事が無く、文献での知識しかありませんが……確か一部の魔物が持つ能力ですよね?」
「そうだな。元々はそいつらの祖先である動物が持っていた能力のようだな。一部のトカゲや魚類……昆虫なんかが代表的なもののようだ」
「ほうほう……」
「その中でも……今回俺が目を付けているのが水棲……つまり海中に生息する『ガンモンダコ』というタコから進化した魔物だ」
「ガンモンダコ……私には初耳ですね」
「ガンモンダコから進化した……まぁ、魔物化したタコだが学術的にも記録には残っていないかもしれんな。何しろ生息地がトル海峡とサンダナ海峡の接続部近辺でしか見られない」
「トル海峡……『死の海』ですか……」
ソンマの顔色が変わった。前大戦と、その後に漆黒の魔女が行った「月撃ち」による大気攪拌によって形作られたエスター、ロッカの両大陸を隔てる「魔物発祥の地」である3つの海峡にて構成される「死の海」は魔術師ですら単独で訪れる事は非常に危険であるとされ、彼等よりも力の強いとされる魔導師ですら滅多に近寄らない地域である。
「俺自身は実物を見ていないが、ガンモンダコが魔物化した状態で両海峡の境界部に生息しているようだ。タコという生物は元々が周囲の地形に対して擬態する能力を持つ者が多いのだが、このガンモンダコはそれらの中でも多彩な色数の色素細胞を持つのが特徴だ。俺の先祖の中の一人が、このタコの擬態能力を研究していた事があってな」
「え……。ご先祖様がですか……?」
「まぁ、研究していたのは大戦前……それも第一紀の17000年頃なんだがな」
「その研究をされていた……ご、ご先祖様も魔導師様でいらっしゃったのですか……?」
「ああ。そうだな。その先祖……女性だったのだが、多少変わり者だったようだ」
「変わり者?」
「うむ。まぁ、魔導の研究の一環で色々な生物の生態を調べていたようだ。当時の社会は既に科学技術が成熟していたからな。『擬態』に関しては光学的な迷彩技術が軍事利用されていた時代だったのだが、彼女は生体的機能による擬態を研究した結果、それを魔導に取り込む事に成功したのだ」
「え……?しかし……これは私の個人的見解ですが、魔導……もしくは魔術によって擬態を実現するならば、《隠形》の魔法で叶うのでは?」
ソンマは自身の持つ魔法世界の知識において疑問を口にした。《隠形》は魔術師達にとってもそれほど難易度の高くない魔法で、空間制御術の初歩とも言える術である。
「《隠形》は対象の周囲のごく狭い空間を歪めて姿を消す魔法だな。それに比べて《擬態》は対象の表面色素に変更を加える事で周囲の風景に『溶け込ます』という手法を採る。両者の持つ効果は似ているようで全く違うものだな」
ソンマはルゥテウスの説明を受け、この《隠形》と《擬態》の違いについて考え込む顔を見せる。
「店主様がこの問題に対して《隠形》では無く《擬態》を採用されるお考えについて何か理由が?」
「隠形は確かにそれ程難度は高くない。術符や導符の作成にもそれ程手間はかからないだろう。しかし今回は施術の対象がこれだけ大きな構造体になる。どうだ?『隠形符』でここまで巨大な対象をカバー出来るか?」
「あ……なるほど……。そうですね。隠形は通常……術符1枚で対象1人の姿を消すという想定で使われますね……。これ程大きな物体を『隠す』というのは……可能なのでしょうか?」
「そうだな。まぁ、俺なら多分やれるだろう。しかしそれにしても実際に隠形符を運用する者に同じマネが出来るかと言えば難しいだろうな」
「そ、そうですね……店主様ぐらいの力をお持ちでなければ、例え店主様が作成された魔導符を使っても……この飛行船を運用する《青の子》の者達が同じ結果を出せるかは……」
「そういう事だ。つまり《隠形》でこの飛行船を『隠す』というのは現実的じゃないわけだ」
「しかし《擬態》ならばそれが可能と?」
「まぁ、一応は実現は可能だ」
「導符にして使用するのですか?」
ソンマはいまいち納得出来ていないようだ。何しろ対象が全長100メートルを超える飛行船なのだ。そう考えてしまうと、隠形だろうが擬態だろうが得られる結果は同じではないかと思ってしまうのだろう。
「いや、恐らくだが塗料とする薬材に《擬態》を付与出来る……と思う。実際にやった事が無いから確たる事は言えんがな」
ルゥテウスが苦笑交じりに提案するとソンマは驚いて尋ね返した。
「と、塗料に!?そのような事が可能なのですか?」
「俺の先祖がガンモンダコの生態を基に《擬態》という魔導を『作り出した』のは何しろ戦前だからな。その頃はまだ錬金術など存在しない時代だ。だから当然ながら『塗料に魔導を付与する』などと言う発想自体も存在しない」
「あっ……なるほど……。『物体に対して魔導や魔術を付与する』という技術は……ショテル様以降の話でしたっけ……?」
「そうだな。前文明時代までの魔導師……まぁ、これには俺の先祖も含まれるが……『投影・即・投射』という考えが普通だったからな。何らかの物体に『投影を留まらせる』と言う事象など思いも寄らなかっただろうし、現代においても俺以外の魔導師にはその発想は出来ても実行は難しい……あ、ノンは別だがな。くくく……」
笑い出した店主に釣られてソンマも思わず一緒になって笑い出す。つい最近になって出現した「錬金導師」という存在の出現は「有史」以来、33000年にして初めて起きた大事件とも言える……が、それがあの「ノン」であるというせいで事件性は大分薄まっている印象をもたらしているのが二人には可笑しくて仕方が無いのだ。
「《擬態》の魔導……確か触媒が未発見だから魔術や錬金術では不可能だと思うが、誕生のヒントになったガンモンダコを始めとする生物が持つ能力とは別に『全方向に効果を発揮する』という点においては前者よりも優れた技術だと言える」
「全方向?」
「うむ。通常の生物……魔物も含めてだが、奴らの持つ擬態能力では『効果を発揮する方向』に限りがあるんだ。例えば……そうだな……。この飛行船が通常の生物的擬態能力しか持たない場合、地上から見て『空には溶け込める』かもしれないが、その裏側……つまり更なる上空方向から見て『地上には溶け込めない』という事になる。あくまでも一方からの視点に対しての擬態であり、その他の視点からは姿を隠せない」
「あぁ、なるほど……『宙に浮いている状態』というのは本来の擬態行動にとっては不利なわけですね?」
「まぁ、そうだな。空中だけでなくガンモンダコのように水中の場合も同様だ。水中に漂っていては完全な擬態とはならない……というか、なれないんだ。海底の岩や砂地でもいいが……擬態の対象物に自身を固定する必要がある。しかし塗料として外装パネル一枚一枚に『擬態付与の塗料』を塗布してしまえば、パネル毎に擬態効果が発生するから、そのような問題はある程度解消されるはずだ」
「そして《擬態》の付与は塗布した時点でその効果は『受動的』に発揮されるので魔法的な探知を受ける事も無い」
「なるほど。魔法ギルドの監視からも逃れられると?」
「そういう事だな。但し……《擬態》にも弱点はある」
「え……?そうなのですか?」
「うむ。あくまでも《擬態》は『擬態対象』から情報を受け取ってからその効能が発揮され始める。俺の予想だと……これだけ大きな船体の場合、船体の裏側の『景色』を擬態対象とした場合、その反映にはどうしても『情報の遅延』が発生する事になる……と思う」
「遅延……?つまり完全には《擬態》という状態にはなれないと?」
「いや、擬態にはなるが……擬態は本来『動かない』事を前提に行うものだから、多少の遅延が生じても本来はそれほど問題では無いんだ」
「あ……なるほど。船体の移動中だと効果を損なうと?」
「実際に試していないが、恐らくはお前の言う通りだと思う。しかし、これも至近距離で見られなければ……誤魔化せるとは思うんだよな。何しろ『作戦行動中』は上空1000メートル近辺での活動になるだろうし」
「そうですね。『遠景』で違和感を感じなければ店主様の仰る『擬態』は有効ではないかと思います」
ソンマも店主の話を聞いて、《擬態》について肯定的に捉え始めた。彼自身には触媒の関係で扱えない魔法だが、「受動的」な状態で視認効果を下げられるというのは、他にも色々と応用が利きそうだ。
「よし。夜が明けたら試してみるか。日照下の明るい場所で効果が見られれば夜間でも有効だろう」
「承知しました。塗料はどうしましょう」
「そうだな……アルクラッド材に対して更なる腐食防止効果を期待して外面もパラノアを塗布するか。その際にパラノア液に対して《擬態》の付与を試みてみよう。こればっかりはノンにイメージさせるのが難しいから、俺がやる」
「左様ですか。お手数をお掛けします」
ルゥテウスはノンが《溶着導符》の製造を続けている錬金部屋に向かい、作業台でサナと向かい合って導符を量産しているノンに
「あとどれくらいで終わりそうだ?」
と尋ねた。ノンは傍らに置いていた紙片に書かれたメモを見て
「はい……あと200枚くらいでしょうか……」
そう答えると、彼女の向かい側で術符を1枚作り終えたサナが集中を解き、付け加えるように報告する。
「あ、私の方で80枚程造り終えてます」
「そうか。すると残りは120枚くらいか?ならば俺も手伝おう。ちょっと次の作業を頼みたいんでな」
そう言うと、ルゥテウスも作業机の上に積み置かれた無地の術札を手にして次々と《溶着導符》を造り始めた。その速度はノンすら上回り、1枚作るのに1秒もかからない程の速さだ。
「すっ、凄い……」
サナもノンも店主の姿を見て絶句する。ソンマもその光景に息を飲みながらも、自ら術札を手にして《溶着》の付与の為にブツブツと詠唱を始める。サナもノンもそれを見て作業を再開した。
こうして……4人での錬成作業によって残り予備も含めて150枚程の《溶着符》があっさりと作り出され、ソンマがそれを纏め上げて、荷揚げを担当している作業員の下に持って行く為に部屋から出て行った。
ルゥテウスは、作業を終えて一息ついているノンに
「次はゴンドラの窓にこの前の……ほら。双眼鏡に付与した《明視》をな。あれをやって欲しいんだ。窓の大きさは色々あるんだが合計で……8枚か。さっき俺が試しに小さいやつに1枚付与したから残り7枚だな」
「え……?窓ですか?」
「うむ。この前の双眼鏡の小さいレンズと比べていきなり大きくなるんだが……まぁ、俺が試しに作ったやつを見てくれ」
そう言うと、店主はノンに付いてくるように促して錬金部屋を後にした。《溶着符》を造り終えて手が空いたサナも興味本位でそれに続く。三人は工場の北壁沿いに反対側で作業が進んでいるゴンドラの組立場所に赴き、壁に立て掛けられている大小様々の大きさの窓が並ぶ場所へとやって来た。
「これが窓だ。今夜お前をここに連れて来た本来の目的は、この作業を頼むつもりだったんだ」
ノンは舷側に嵌められる予定の一番大きな窓……高さ250センチ、幅300センチはあろうかという巨大なガラスの一枚板を呆然と見つめながら
「ず、随分と大きいですね……」
と、不安な表情で感想を口にした。
「あぁ、それは真ん中の船室部分に使うやつだから付与対象ではない。付与するのはこれと……これ……」
店主はそれでも艦橋部に嵌める高さ200センチ、幅250センチ程でゴンドラ先端部の形状に併せて多少流線形に湾曲させたガラス板と、床に嵌める先程自分自身で付与を施した100センチ四方のガラス板を指し示した。
「俺がさっき試しに付与したのがこれだ。どういう効果が得られているか見せてやろう」
そう言うと、ノンとサナが見ても明らかに重たそうな床ガラスを先程同様にひょいと持ち上げて、それを抱えながら再び北東側の扉に向かって歩き始めた。女性2人はそれを驚きの目で見ながら慌てて後に続く。
まだ夜明けには時間がある暗い工場の外に再び床ガラスを持ち出し、《明視》の効果を見せると……ノンもサナも既に先日の望遠鏡でその効果を知っているにも関わらず驚愕の声を上げた。2人とも昼の明るさに見える明視の効果面を見た後に裏側に回って更に声を上げる。店主はその様子を見て笑いながら
「どうだ?この前のレンズ越しに見た時よりもこの付与の効果を実感出来るだろう?」
そう聞かれたノンは息を飲みながらも
「そ……そうですね……。これは……ルゥテウス様に直接《明視》の魔法を掛けて貰った時よりも……不思議な感覚ですね……」
目を見開きながら応える。
「どうだ?お前自身は《明視》の付与を前回実際に経験している。この窓に同じように直接付与するのは難しいかもしれんが、導符にするならやれるんじゃないか?」
「な……なるほど。そうですね。導符なら出来そうです」
3人は工場内に戻り、床ガラスを元の位置に戻して錬金部屋に戻った。ノンはとりあえず今見て来た床ガラスの状態をイメージしつつ、先日作成した望遠鏡と双眼鏡に付与した時の感覚を思い出して、意外にもあっさりと《明視導符》を作り出した。
ノンから出来上がった導符を渡されたルゥテウスは先刻の溶着導符の時と同じように目の前にそれをかざして目を閉じ
「うん。いいぞ。《明視》の効果は込められている。これなら艦橋の大窓にも効果を損ねる事無く付与出来そうだな」
導符の出来に満足した様子で
「よし。とりあえずあと10枚くらい作ってみろ」
と、追加の製作を指示した。ノンは戸惑いながらも主の命に従い、同じ効果を込めた導符を次々と作り出した。
サナはこの光景を見て驚きを禁じ得ない。何しろこの錬金導師様は今夜この工場に来てから既に《溶着》の導符を一人で500枚以上作成しているのだ。自分は先程の「ピンクの色水」に見える回復薬を飲んで疲労を回復させてから、精一杯力を尽くして80枚程の術符を作り、再び疲労を感じているのだ。それに比べて目の前の彼女は500枚以上の……恐らくは自分が作った「術符」と比べて更に効果の大きい「導符」を作り出しているにも関わらず、特に疲弊している様子が見られないのだ。
(て……店主様はともかくノン様も……導師様はやはり凄い……)
10年の修養を経て、彼女自身は気付いていないがその実力は上級錬金術師……灰色の塔においても恐らくは序列20位には入るであろうサナから見ても、つい最近この「能力」に目覚めたというノンの力は瞠目すべき存在であった。
「ふむ。良い出来だ。早速付与をやってみよう」
そう言うと、店主は錬金部屋を出てガラス窓の並ぶ場所に向かって歩き出した。自分の作った導符を褒められて嬉しそうな様子のノンが後に続く。それを見たサナは可笑しくて仕方なかった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。15歳。《黒き賢者の血脈》を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
ノン
25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。
主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。
肉眼で魔素が目視できる事が判明した為、「錬金導師」として修行を始める。
ソンマ・リジ
35歳。サクロの《藍玉堂本店》の店長で上級錬金術師。
「物質変換」や「形質変化」の錬金術を得意としており、最近はもっぱら軽量元素についての研究を重ねている。
主人公から古の話を聞いて飛行船製造を思い付き、数年前から取り組み始める。
サナ・リジ
25歳。ソンマの弟子で妻でもある。上級錬金術師。錬金術の修養と絡めてエネルギー工学を研究している。
最近はノンに薬学を学びながら、高貴薬作成を得意としているが最近はもっぱら夫であるソンマの手伝いをしている事が多い。