地下二階の理由
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ルゥテウスは列車の後点検をキッタに任せて一旦キャンプに帰った。時刻はサクロ時間で20時40分。キャンプに帰ると15時40分。北サラドス大陸は当然ながらまだ日が沈む時間帯ではない。
藍玉堂の2階に瞬間移動で帰って来たルゥテウスが1階に下りて行くと、新年初日にもかかわらずノンが三人娘を相手に処方薬の調合について何やら講義している。
ここ数か月で彼女達もすっかり製薬の基礎から脱しつつある様子だ。最年長で他の2人よりも半年早く弟子入りしているパテルは、ノンの最終検査を受けるという条件付きだが既に処方薬の一部製薬を師に代わって行っている。
ルゥテウスに気付いたノンや三人娘、それにノンを挟むように座って文字の読み書きを勉強していた赤の民の双子から遅まきながらの「新年の挨拶」を受けた店主はノンへ鉄道工事の進捗を語った。
「サクロの鉄道はもう大丈夫だろう。後は転車台の部品が出来上がって組立、その後に機回し試験が終われば下り線だけを使って開業に漕ぎ付けられると思う」
「もう……そのようなところまで進んでいるのですか?」
「ああ。お前が提供した水薬もかなり貢献しているんじゃないのか?一番時間を要すると思われていたレール敷設が駅舎建設よりも早く終わりそうだからな。今頃イモールとラロカが話し合って2つの駅名を考えているところだろう」
笑いながら説明する店主に対して
「そ、そうですか……お役に立てて良かったです」
ノンはやや照れた様子で応えた。
「まぁ、サクロと鉱山の間で鉄道が開業した後は大通りの下を潜らせて、西側にある工業地域方面へと延伸が決定している。最終的には更にその西側にあるソン村にも路線を延ばす予定だし、北のルシや南のテトとも鉄道で結ぶ予定だそうだ。暫くは工事も続くと思うが、お前の負担にならない程度で水薬作りを続けてくれ」
「わかりました」
「よし。俺はちょっと地下に行っているからな。用があったら念話で頼む。まぁ、すぐに戻るがな」
そう断りを入れてルゥテウスは地下への階段を下りて行った。錬金部屋で何かするつもりなのか。ノンは多少気になったが、主のこうした行動は昔から珍しくないので、そのうちそれをすっかり忘れてしまったかのように製薬の講義を続ける事にした。
****
ルゥテウスは地下に下りてから錬金部屋に入り、嘗て前店長のソンマが寝起きする居室としていた部分……今では壁も取り払って錬金部屋と繋げてしまっているが、そのスペースの隅に屈み込んで壁際と床の隙間にある小さな穴に指を掛けて床板を取り除いた。
床板の下は穴のようになっており、1メートル四方程度の割と大きなサイズで口を開けている。彼はその穴の中に入ると、そのまま「穴の底」まで空中浮遊を駆使して降りて行き、底まで達したところで壁面にあるスイッチに手を伸ばした。
スイッチによって照明に灯が入ると、そこは丁度この藍玉堂の敷地と同じ広さの空間が広がっている。ここはルゥテウスが藍玉堂の建設時に設けた「地下2階」部分であり、先程錬金部屋の隅で取り払った床板部分にだけ、これまで錬金部屋に掛かっていたものとは別の結界が展開されており、これまでこの「外れる床板」の存在を知っていたのはこの小さな結界を張ったルゥテウスだけであった。
ノンやソンマは「藍玉堂には地下2階が存在する」という話を店主から聞いてはいたが、この別に展開されている結界の影響で……その存在を全く感じる事無く10年の時を過ごし、ソンマに至っては床板の存在を知らぬまま、サクロの新店舗へ移ってしまった。建物竣工の際に店主から聞いていた話によって、彼等はせいぜい「地下2階にはこの建物の設備を支えている《特殊な動力源》が設置されている」という程度の認識しか無かったのである。
地下2階部分は天井までの高さが5メートル程あり、言うまでも無く上階の3フロアと比べても相当な高さがある。見る人によっては「地下3階が作れたのでは?」と思うかもしれない。
(まぁ、これだけの広さと高さがあれば一応は使えるかな)
部屋の隅には、店主を除いたこの藍玉堂の新旧の住民が「特殊な機器」と呼んでいる割に「誰も見た事が無い」という箱状の物体が設置されている……が、装置はそれ専用の壁に囲まれたスペースに置かれているので今は直接それを目にする事は出来ないようになっている。
ルゥテウスが今になってこの地下2階に下りて来たのはそろそろ双子の姉……チラの魔術鍛錬を始めようと思ったからだ。まだ彼女が魔術師として、どの「系統」の魔術を得意とするのかが分からないのだが……彼女の為にある程度の修養スペースを設けておこうというのが目的である。
ひとまず壁際に手摺りが無く急角度ではあるが階段を設けて、それを地下1階の床穴と繋ぎ、彼女が上り下り出来るようにしてから東側壁面の真ん中辺りの『あの動力源』が置かれている「出っ張り」を挟む形で東側壁部分の並び一面に「面合わせ」で触媒を収納出来る作り付けの棚を設置した。
ちなみに、『あの動力源』の設置位置の真上……地下1階には浴室があり、1階は製薬作業場の壁際に並ぶコンロ、2階においては嘗て毎日のようにアイサが菓子を作っていた台所という配置となっている。更に言うと、この装置の右隣に動力を利用したポンプが設置されており、藍玉堂の内部に汲み上げた地下水を供給している。この自動ポンプによって、藍玉堂は他のキャンプ施設と違って手動ハンドル操作で地下水を汲み上げる必要が無いのだ。
(後は……魔法ギルドに対する隠蔽か。結界で固めると色々と修養に制限が掛かるな……)
ルゥテウスはたった今設けた急な階段を上って地下1階……錬金部屋に戻り、術府や導符を作る際に使う白紙の術札を何枚か取り出して再び地下2階に下り……少し考えてから「魔力遮断」と「音響遮断」及び「衝撃遮断」を同時に導符に込めて、部屋を囲む四方の壁と天井、床に導符を使って《障壁》を付与した。
効果を同時に3つも持たせた《障壁》は魔術において相当に高等な施術となり、熟練した上級魔術師でも展開までに数十秒の詠唱動作が必要になるとされる。
ルゥテウスが魔導によって直接《障壁陣》を展開せずに導符による「付与」とした理由は……導符によって「付与」という形にしてしまえば、その維持に対して彼自身が意識を掛ける必要が無くなるからである。
キャンプやサクロの藍玉堂地下の錬金部屋に展開されている結界もやはり彼自身で一度導符を作成してから彼自身が使用するという手順を踏んでいる。
彼が「設置型」の魔導を使用して自身の直接管理下に置いているのは、現在のところダイレムにある藍滴堂の3階にある祖父の研究室の扉に掛けた封印だけだ。
理由として、「あの場所」はルゥテウスだけの場所であり、他の者が侵入を試みた際に、それを彼自身が感知出来るからである。
(まぁ、これで術使用がギルドに感知される事は無かろう)
ルゥテウスはひとまず地下2階に設けた「魔術修行部屋」の出来に満足して錬金部屋に戻り、改めて床穴……つまり階段と繋いだ部分も含めた部屋全体に結界を張り直した。これで階段の下り口も錬金部屋利用者に認識されるので出入りは自由になるはずだ。
地下での「施工」を終えて1階に戻ったルゥテウスはノンへ
「地下2階を使えるようにしてきた。鉄道と飛行船の事が片付いたらチラの魔術の基礎鍛錬を始めるつもりだ。アトにも『炭造り』をやらせる事にする」
と告げた。主から突然それを聞いたノンは驚いて
「えっ……?地下2階……ですか?そう言えばこの前……結界では無い壁……?で囲うと仰ってましたね」
「うむ。既に魔力障壁を張り巡らせておいた。あれなら結界に依存する事無く魔法ギルドの目を晦ませる事が出来よう」
「ではもう地下2階に下りられるのですか?」
「ああ。もう階段も設置済……と言うか、今までお前達には感知出来なかった別の結界を取っ払ったから錬金部屋に入って左奥の壁際に下り口が見えるはずだ」
「あら……。私は今までその『下り口』が見えなかったのですね」
「まぁ、そういう事だ。別の結界を張っていたので、お前達……特に店長は自分が寝起きしていた部屋の隅に10年前から存在していたその『穴』が見えなかっただけなんだがな」
笑う主の様子を見てノンも苦笑する。
「別に地下2階に出入りするのは、錬金部屋に入れる者なら自由だが……今後はそこでチラが魔術の修行を行うから安全は保証出来んぞ。何かぶっ放しているタイミングで下りて来たら、それこそ『事故』になりかねん」
「な、なるほど……。し、しかし……そんなに危ない事をして、上の階は大丈夫なのですか……?その階段の入口から火の玉が飛び出して来るとか……」
やや顔色を変えつつノンが尋ねるのへ、主は笑いながら答える。
「それは問題無い。さっきも言ったが、地下2階は周囲の壁面や床と天井に障壁を展開してある。それに錬金部屋側にも俺が結界を張っているから、チラの魔術が俺の力を上回らない限り、双方の『壁』を突き抜ける事は無いと思う」
「そ、そうですか……それならば安心ですね」
「主の力を超えない限り」と聞いてノンはホッとした。これまでの長い付き合いの中で目の前の美しい主を超えるような力を持った者の存在など想像だにした事が無かったからだ。
ノンには夜の配給の時間まで講義を続けさせる事にして、ルゥテウスはアトとチラを目の前に座らせ
「お前達には、そうだな……次の次の旬くらいから魔術と錬金術の修行を始めてもらうぞ」
と、軽い感じで言い渡した。双子は言われた事の意味が呑み込めず「ん?」という顔をしている。
「しゅぎょう……?」
チラが首を傾げながら尋ね返してきた。
「そうだ。お前達はそれを修行する為に『山』から来たのだろう?」
「あっ!あの……火をつけたりするやつ!?」
「そうだ。火を点けたり、あとはそうだな……空も飛べちゃうかもなぁ」
「ほっ、ホントに!?」
目を丸くして驚くチラに向かって店主はニヤニヤしながら
「修行を頑張ればな。空くらいは飛べるんじゃねぇかな」
「すっ、すごいっ!」
チラはもう大興奮だ。
「あ、あの……ぼ、ぼくは……?」
アトも戸惑い気味に尋ねてくる。高所が嫌いな彼としては「空が飛べるようになる」事は別段羨ましくも無い。むしろ「空を飛べる事を覚えた姉」が調子に乗り、自分を抱えて空を飛び回る「恐怖の未来」を思い浮かべて顔が引き攣ったくらいだ。
「お前は錬金術……サナ先生に教わって色んな薬を作ったり、術符を作ったりするんだろうが……まずは『炭作り』だろうな」
「サナせんせいが下のへやでやっていることですか?」
「そうだな。最初は簡単な炭作りから始めて……錬金術を少しずつ勉強して行く事になるだろう。お前にも錬金分野の適正があるだろうからな。つまり『何が得意なのか』がまだ判らんのだ」
「そうなのですか……」
「この前も言ったが……俺ではお前の修行において力になれんのだ。サナ先生は今のお前のように錬金術を全く知らない状態から10年であそこまで凄い術師になっている。お前も彼女に付いて一生懸命学べ」
「はい。わかりました」
「今はまだ俺もサナも色々と忙しいんでな。今やってる事が一段落したらお前達の修行を始める。だからそれまでもう一度、マナの動かし方をおさらいしておけ。それと字も読めるようにな。これから修行して行く上で文字の読み書きは重要だ」
「うん」
「はい」
双子はそれぞれ応えて読み書きの勉強に戻った……とは言え、今彼等が使っているサナが持ってきたトーンズ国の初等学校で使用されている「読み書きテキスト」については既に一通り読破しているようだ。修行が始まれば平行して今度は中等教育で使われているテキストを再びサナが持って来るのだろう。
トーンズ国は、「元教師」であったイモール・セデス首相の考えにより、国民全てに初等教育を施す方針を打ち出している。これまで最底辺の生活を送って来た為に、読み書きが出来ない成人も多く、そういった者達に対しても無償で初等教育を受ける事を勧奨しており、政策としては既に法律によって5歳から10歳までの児童に対して3年間の初等教育を受ける事を義務化している。
更に希望者に対しては中等教育も無償で行っており、こちらに関しても建国10周年を目標に15歳までの少年少女に対して3年の授業を義務化するとしている。つまり最終的にはヤル気のある子供においては5歳から初等3年、中等3年の計6年の義務教育が実施され、ストレートにそれを修了すれば12歳から「次の進路」を自身で選択できるようになるわけだ。
この教育政策方針にはもう一つ狙いがあり……国民児童を余す所なく教育機関で把握する事で「魔法の素養を持った子供」が早期に発見出来る可能性が高まる……ルゥテウスはイモールにそう説明していた。
そして元々……難民時代から彼等の中では「12歳で成人扱い」という《赤の民》譲りの考えが定着しており、この年齢に達するまでに「基本教育を施しておこう」という思いもある。
「教育最先進国家」を自認しているレインズ王国ですら「中等教育の義務化」は果たされておらず、初等教育ですら満足に施されない国が多いこの世界において、トーンズ国の教育政策は驚異的なものであるのだ。
後に王国の士官学校を卒業したルゥテウスによって高等教育の道筋も開かれ、大学や教員を養成する機関までもが設立される事になるが、それはまだ先の話だ。
その後のルゥテウスは飛行船工場の様子を一旦見に行ったが、ノンは弟子達に講義を続けながら「夜の配給」までの時間を過ごした。
ちなみに本日は新年最初の日である為にレインズ王国の社会通念に従って「1の日」ではあるが王国各都市の「偽装店舗」は休業としている。よって、店員のご婦人方もサクロの自宅で家族と新年最初の日を過ごしている。中には家族と連れ立って本日行われた列車の試走を見物に来ていたかもしれない。
ご婦人方への回復薬配布も無いので本日はその製薬もせず、夜の鐘を聞いた三人娘は隣の役場食堂へ行く為に地下通路へ下りて行った。飛行船工場から戻って来ていたルゥテウスは、ノンと双子を連れて集会所まで配給を貰いに行く。
今日の配給は新年を祝う為なのか、いつもより豪勢なものが出された。菓子も添えられている。双子は嬉しそうな顔でカップケーキに手を伸ばしたが、ノンに「お菓子はご飯を食べてからにしなさい」と言われて不承不承と言った態でケーキを盆に戻した。
ルゥテウスはそれを見て笑いながら、ノンへこの後の予定を口にする。
「飯を食ったら飛行船工場に行くぞ。さっき様子を覗いて来たが、どうやらあそこも最終試作品の完成を目指して追い込みを始めたようだ。三交代制で外気嚢のパネルを貼っていたぞ」
「あ……えっと……この前作った軽い鉄……アル……何でしたっけ……?」
「アルクラッドだ。ジュラルミンの表面にアルミを圧着させた素材だな。ジュラルミン自体が元々はアルミを主材とした合金なんだが、耐食性を高める為……更にアルミを再び貼らないといけないわけだ」
「何だか……大変ですね」
「そうだな。そもそもアルミ自体が現時点で錬金術でしか精製出来ない。鉄と違って本来ならば鉱石に対して薬品処理などが必要で、更に電気分解が必要だから工業的な生産に全く目途が立っていないんだ。まぁ……お前にこれを説明しても難しいか。お前の場合は錬成する方が早いしな……」
苦笑する主の言葉にノンも
「ええ……何だかとても難しいお話ですね……。でも錬金術で作れるのならば店長さんとサナちゃんが居ますから何とかなりそうですね」
「まぁ……実際に店長が錬金術で精錬するアルミニウムは古代の文明時代のものより質が高いようだ」
「えっ……!あの……戦争前の頃よりもですか?」
「うむ。まぁ、これは店長が錬金術師として卓越しているからなんだが……」
「なるほど……。店長さんだから出来る事なんですね」
「多分、お前も出来るんじゃないかな。向こうに行ったら練習してみるか」
「え……?私がですか?」
「ああ。お前の場合は触媒も必要無いし、一旦実物を見るなり店長か俺の錬成する様子を見れば、そこからイメージでいけるんじゃないかな」
「そ、そうですかね……」
「アルミの精製」という想像もつかない話を突然店主から言い渡されて真剣な表情で悩むノンを余所に、店主は双子に対して
「じゃ、お前達はさっきも言ったが地下の部屋で今までの『おさらい』をやっていろ。部屋の中に下に下りる階段が出来ているが、下りてみても構わん。但し階段に手摺りが付いてないから落ちないように気を付けろよ」
「ちかにかいだん?ちかのちかに下りれるの?」
「そうだ。地下のそのまた地下にお前が魔術の練習をする部屋を作ったんだ。階段が急だし高さもあるからな。注意しろよ」
「うん」
4人は食器を戻して集会所を出た。街灯は相変わらず明るく道を照らし、現在はすっかり住民の数は減ってしまったが……今日はやはり新年最初の日とあってキャンプの中も賑わいを感じる。恐らく《青の子》の訓練生が休暇を貰っているのだろう。比較的若い者達が連れ立って歩いている。
青の子という組織は《赤の民》であった頃と比べ訓練は相変わらず厳しいが、あの頃のようにお互いを通名で呼び合うような事はしていない。更には訓練生に対する統制も往時程に厳しくも無く、そもそもロダルが少年時代だった頃のように訓練生を12歳になった少年少女から半ば強制的に選抜しているわけでもない。入隊を希望する12歳から15歳までの子供に対して選抜試験を行い、特に人数を定める事無く「適性有り」と判断された子供を訓練生として新たに迎え入れている。
それでもトーンズ国の特殊諜報部隊である《青の子》の人気は国民の間では非常に高い。これは「決して略奪をしない国の守護神」であるトーンズ軍も同様である。要は《青の子》に憧れる子供が沢山居るのだ。
なので……訓練生は「志願者」として自主的に自らを律して訓練を「受けて」いるのでは無く、「自らを率先して鍛錬して」いるのだ。訓練期間中に「やはり無理だ」と判断されれば即座に訓練生からは外されてしまう。そうならないように彼等は必死になって日々の訓練に明け暮れているのだ。
どうやら「この方針」に切り替えてから訓練生の士気も質も向上していると、責任者のドロスは苦笑混じりに話していた。
道ですれ違う訓練生は皆、ルゥテウスやノンを見るとしっかりとした挨拶をして来る。彼らの中には訓練中に受けた大怪我や病気を藍玉堂の美人店長の薬で救われたりしている者も多いので彼女には頭が上がらないのだ。
普段ならば薬屋の裏にある病院の医師でさえ動揺するような……再起不能になったり、訓練を何カ月にも渡って休まなくてはいけないような病気や怪我も、この処方箋を渡された美人店長の薬はアッサリと癒す。
そして……あの「鬼より怖い」監督ですら改まった態度で接する藍玉堂の若き美貌の店主は彼らにとっては畏怖の対象でしかなかった。
店に戻り、表の鎧戸を戸締りしてから、ルゥテウスはノンと双子に錬金部屋に作られた「新たな下り階段」を見せ、改めて転落に対して注意するよう警告した。
そのまま双子にはマナ制御の鍛錬を課して部屋に残しノンだけを連れ、転送陣を使って飛行船工場に飛んだ。
双子には「眠くなったら勝手に寝ろ」と言い残し、ノンが更に「風呂に入る事」と「歯をちゃんと磨いてから寝るように」と言い加えていた。
****
ノンにとっては前回の飛行船試作機を建造した際に……内側の気嚢を製作する為に何度か通った超巨大工場だが、本日はもう「こちらの時間」で日付けが変わりそうなのにもかかわらず、大勢の作業員が巨大な足場を組んだ中で吊り下げられた巨大な飛行船の外気嚢部骨格に先程も話に出ていた店主がアルクラッド材と呼ぶ……ジュラルミン合金板に限りなく薄いアルミ板を貼り合わせた外板を数人がかりで貼り付ける作業を行っているのが見て取れる。
(どうやって板を貼っているのだろう……この前みたいに木の骨格に紙を糊で貼っているのとは違うと思うけれど……)
彼らの作業に興味が湧いたノンが足場の中の様子を目を凝らして見てみると……どうやら彼らは術符を使用しているように見える。驚いたノンが
「る、ルゥテウス様……!あの人達……術符を使っていますよ!」
と、その辺に積まれている外板を手に取って何やら観察している主に報告すると、手にした外板から視線を足場の方に移した主が
「うん……?ああ。あの連中は店長とサナが作った術符を使ってこの板を骨組に接着しているんだ。見て判らんか?この工場全体に俺が結界を貼っているんだがな。術符を使っている本人は気付いていないだろうが」
「え……?」
笑う主の説明を聞いてノンは辺りを見回した。彼女には「その気配」は感じられない。やはりそこは導師としての力の差なのか、ノンには主が導符を使って展開している彼の結界を感じる事は出来なかった。
「まぁ、そういうわけだ。あいつらも術符の正体をよく知らぬままに使っているのだろうが、この工場内で使う分には、その痕跡が外部に漏れる事も無いし魔法ギルドに感知される事も無い。それに、この工場を結界で隔離する事で、俺や店長が『結界使用登録』を行っていない部外者は立ち入るどころか、この工場の存在すら感じる事が出来ないからな。機密の管理が容易になるんだ」
「そ……そうなのですか……なるほど……」
「まぁ、今回も最終とは言え『試作』だからな。今後はもっと違う作業方法を考えながらやって行くんじゃないかな」
ノンは尚も足場を中心とした作業を観察している。店主がそんなノンに構う事無く手にした外板を持ったまま工場の内部へと歩き始めた。それに気付いたノンが慌てて後に続く。前回の試作時と同じように工場中程の壁際に作業机が並ぶ辺りで、ソンマが作業員に何か指示している様子が見えた。
「店長、この板の構造な。さっき話した後にキャンプに帰ってからちょっと考えてみたのだが……」
ルゥテウスが忙しそうなソンマに話し掛けると、ソンマは振り向いて「お帰りなさいませ」と挨拶で返し、その横に居たノンよりも少し年上と思われる男性作業員も同様に「お疲れ様です」と店主に頭を下げた。
ソンマはノンにも気付いて笑顔を浮かべて挨拶してきた。
「あ、ノンさんいらっしゃい。早速で申し訳ないんだけど……サナがあっちの部屋で作業をしているから、ちょっと手伝ってやってくれないかな?」
「え……?」
「ほら。あそこの……隅なんだけど臨時であそこに錬金部屋を店主様に作って貰ったんだ。詳しい事は中に居るサナに聞いてもらえますか?」
「は……はい」
何の事かよく判らないという表情でノンはソンマの要請を受けて、大工場の北西の隅に以前には無かった部屋に向かって歩いて行き……その扉を開けると、中でサナが難しい顔をして机の上の白っぽい石盤に置かれた白紙の術札に向かって何やら呟いている。
どうやら呪文を唱えているらしい。サナが錬金術を使っている時特有の動作である。
ちなみに、この部屋自体が大工場内の結界とは切り離されて別個に結界が展開されており、扉の外側の結界とは違って、この部屋に展開されているのはルゥテウスがいつも展開している薄緑の光溢れる「領域」であった。恐らく工場作業員達からもこの部屋だけは切り離しているのだろう。
やがて、術札の表面にノンには読めない何やら紋様が浮かび上がり……サナは小さく息を吐き出すと、部屋の入口にノンが立っている事に気付いた。
「あ……ノン様。いらっしゃいませ」
「あの……店長さんが、サナちゃんを手伝って欲しいと……」
「えっ!?本当ですか!?ノン様がお手伝い頂けると?」
やや疲れた顔をしていたサナが急に元気を取り戻したかのように表情を輝かせた。
「え……いや……あの……何をすれば……?」
困惑するノンに対し、サナが術符の束を見せて
「これです!」
「え……?」
「あの飛行船の気嚢の板を骨組に貼り付ける為の術符です」
「あ……!さっき外の足場で作業員の皆さんが使っていた……?」
「あ、そうです。ご覧になりましたか?」
「ええ。皆さん術符を使っていらっしゃるので驚きました。あれはサナちゃんが作っているの?」
「いえ……昨日までは先生が作られていたのですがね。私は燃料作りが終わったので今夜からこちらにお手伝いに来たのですが、これの製作を頼まれてしまいまして……今、外の作業で使っているのは先生が作り置きしていたものですね」
サナは苦笑いしながら
「私はやっと今……20枚くらい作ったのですが……まだちょっと慣れていないので大変です」
「20枚……そんなに……?」
ノンは驚きながら聞き返す。
「はい。どうやら先程見せてもらった全体図面では貼り付ける外板の数は全部で1070枚。つまり術符も1070枚必要らしくて、ここまでの作業で既に210枚を貼り終えたとの事です」
「せ、1070枚って……それで……えっと……まだ860枚残っていると……?」
単純計算した数字をノンが示すとサナは改めて自分が作った術符を数え直して
「そういう計算になりますね。私がここに来た時点の話ですが、先生が作り置いているものがまだ140枚くらい……それから私が今22枚作りましたので残りは700枚くらいですね」
「ま……まだそんなに……?」
さらっと……とんでもない数字を口にするサナに、目を白黒させながらノンは狼狽した。見たところ、目の前の彼女はその22枚を作り出して、既にかなりの疲弊ぶりを見せている。それをあと700枚も作ると言うのだ。
実際、このような術符の量は世界中の町で開業している独立錬金術師にとっても、途方もない数字で……錬成作業量で換算すると、一般的な「町の錬金術師さん」が受注する20年分の仕事に相当しそうな量である。
そもそもが、こういった術符を1枚作り出すのにルゥテウスと出会う前のソンマですら半日近く掛かっていたのだ。彼はその後ルゥテウスと出会う事によって藍玉堂の店長として勤めながら、これまでとは一線を画すような鍛錬を続けた結果として錬金術師として破格の能力を持つ事になり……その弟子であり妻でもあるサナも、彼女自身の念話付与品となっているチョーカーに嵌っている《魔石》の力を借りてはいるが、キャンプやトーンズを支える膨大な燃料作りを何年も繰り返す事で規格外のマナ制御能力を身に付けた。
「そ、そもそも……私にはこの術符の効果がよく分からないのだけれど……」
「あ、これはですね……」
術符の効果を説明しようするサナの顔色を見たノンは
「待って。サナちゃん、かなり消耗しているわ。先に……薬を作ってあげる」
「え?」
そう言ってノンは部屋の中を見回して、部屋の隅にあるコンロの上に小鍋が置かれているのを見つけて
「これでいいわ」
と、鍋を机の上に置いて目を閉じた。すると鍋の中が水で満たされたのでサナは仰天した。
「え!?水……?」
「ちょっと待ってね」
ノンは更に鍋に満たされた水に対して再び目を閉じて念じると……鍋の中の水が突然ピンク色に変わったのでサナは更に驚く。
「こっ、これは……どういう……」
「コップある?」
「え……?あ、はい。ビーカーなら……」
「うん。それでいいわ」
ノンは渡されたビーカーに鍋の中の「色水」を注いでサナに差し出した。
「はい。これを飲んで。多分効果はあるはずだから」
「こ、これは……薬……ですか?」
サナは「色水」の匂いを嗅いで、全く無臭であることに首を傾げたが……ノンの言葉に従ってそれを飲み干した。匂いどころか味も感じない不思議な感覚に驚きつつも
「え!?何で!?こっ、これ……」
右手で持っている空になったビーカーを見つめ、次にまだノンが持っている小鍋の中に残っている「色水」を眺めて
「あ、あの……これって……」
ノンはその様子を見て笑いながら
「うん。薬なんだけどね。回復薬。最近作り方を覚えたの」
「覚えたって……これは魔導ですよね……?いつもの製薬じゃないですよね?」
「そうね。ルゥテウス様に作り方を教わったの。お水だけで作れるみたいなの」
「え……?水だけ……あっ!そうか!触媒が必要無いのですね?」
「あ、やっぱりサナちゃんには解るの?」
「ええ……可能性として考えるとそれしか思い浮かびませんからね……」
サナは苦笑しながら自分の推測が間違って無かった事と、その仕組みを理解すると同時に……いくら触媒を必要としない「錬金導師」とは言え……このような真似が出来るとは考えもしなかったようで、更にこの「色水」の効能の素晴らしさに驚きっぱなしだ。
「あ、あの……ちょ、ちょっとその鍋……お借りできます?」
「ん……?あ、うん……」
サナはノンからまだ色水が半分以上残っている小鍋を受け取ると、それを今自分が使ったビーカーに注ぎ込み、部屋を出て店主と話し込んでいる夫の下に向かった。
「せ、先生っ!先生!」
錬金部屋から驚いた顔をしながら速足で何かを持って歩いて来る妻の方に振り向いたソンマは
「どうした?何を慌てているんだい?」
と……何事かと不思議に思う表情をして応じる。その横に居たルゥテウスは、サナがピンク色の液体の入ったビーカーを持っている事である程度の事情を悟って笑い出す。
「こっ、これ!これ……飲んでみて下さい!」
妻からビーカーを差し出され、それを受け取ったソンマが中に入っているピンク色の液体を見て怪訝そうな表情になり、その匂いを嗅ぎながら疑問を口にする。
「何だい?これは……。色水?」
眉間に皺を作って液体を観察し続ける夫に対してサナが早口で説明する。
「今……今、ノン様が作って下さった回復薬です。何も無いところから……」
「うん……?薬?これが?」
ビーカーを持ち上げて照明にそれを透かしながら夫はそれを信じられないと言った表情になっている。そしてその横で店主が笑い出したので
「店主様。これは……?ご存じですか?」
「ああ。ノンが最近毎日作っている魔導で作った水薬だ。あいつは毎日これを製薬の大鍋で18杯作っている」
「え……?大鍋に?随分な量ですね」
「そりゃそうだ。サクロで鉄道を敷いている作業員2000人近い分をあいつだけで作っているんだからな」
「そ、そんなに……?そ、それでその効能は?」
「まぁ、とりあえず飲んでみろ。お前も今日は朝からここに詰めっぱなしだろう?」
「え、ええ……それでは……」
そう言うとソンマは、ビーカーに入った「色水」を一気に呷った。錬金術師とは思えない慎重さも何もない飲みっぷりだ。
飲み終えてから、その色水が無味である事にちょっとした戸惑いを見せながらソンマはその効能を確かめようと沈黙していたが、やがて突然驚愕の表情を浮かべて
「なっ!?味も匂いもしなかったのに……あんな色をしている液体が……こっ、これは……!」
どうやら「色水」の効果が即時に発揮されて、朝から作業を続けて彼の身体に溜まっていた疲労が吹っ飛んだようだ。
ソンマは手にしているビーカーを眺め回しながら、尚も驚愕の表情を崩さず
「これは……やはり魔導によって作られたと……?」
先程まで店主と話し合っていた事など頭の中から吹っ飛んだかのように店主に尋ねると
「そうだな。あいつが自ら開発した回復薬で得られた効能をそのままイメージとして水に投影したもののようだ。だからあんな……おかしな色になっているんだが……」
笑いっぱなしの店主の説明を聞いて漸くソンマは「な……なるほど……」と納得出来たようだ。
ソンマ夫妻がその場で店主からの説明を受けて得心していると、その「当人」がサナに遅れてやって来た。
「あの……それで……あの術符はどういう風に作れば……」
夫妻を驚愕させた「色水」を作り出したノンは逆に困惑した表情を見せて店主に尋ねる。
「ああ……この板をな、あの骨格に接着……と言うか実際には『溶着』させる形になるな。ちょっと作業を近くで見てみるか?そうすれば、いつもの『イメージ』がやりやすくなるだろ?」
「え……あ、はい。でも……あの方々の邪魔になりませんか?」
「お前がそんな事を気にする事は無いさ。よし、あそこから足場の上に登るぞ」
この高さ50メートルにも及ぶ大工場には内壁に沿って地上から15メートル、25メートル、40メートル、48メートルの高さにそれぞれ作業通路が設けられている。本来は安置される飛行船の船体を点検したり、気嚢部分に設けられた固定環を建物側の係留索のフックに引っ掛ける作業の為であったり、更にはこの工場の天井に仕込まれた開閉装置の点検の為にと、色々な目的で設置されているのだが、今回は飛行船製造の空中足場への往来に利用されている。
この4段の壁面通路へは大工場の北東と南西の隅にあるエレベーターで昇降出来るようになっており、ルゥテウスはノンを連れて南西側、すなわち工場の出入口のすぐ近くにあるエレベーターに向かった。エレベーターの籠は2メートル四方の広さがあり、人間が10人程度は乗れる大きさだが籠は格子状の柵で覆われているだけの文字通りの「籠構造」なので、上昇を始めると離れて行く地面が丸見えとなり……アトのような高所恐怖症の者にとっては、とても耐えられそうに無い。
ここで働いている作業員達も、その採用に当たっては「高所作業が平気な者」という前提条件の下に選抜が実施されていた。やがて運用が始まるであろう飛行船発着施設の職員や、飛行船の保守要員も同様の条件での採用になると思われる。
ちなみに、ソン村に住む「新国民」達の中でヤル気はあるが高所が苦手な者達にも、鉄道運行関連や蒸気機関や内燃機関の製造工場で働くという選択肢は用意されており、この珍しい世界最先端技術を擁した職場への就職希望者は非常に多く、これまでソン村から出る切っ掛けを探していた新国民達にも良い刺激になったようだ。
飛行船の周囲に本体と同じように天井から吊り下げられる形で組まれている空中足場へは25メートルと40メートルの壁面作業通路に手摺り付きの渡し板で接続されており、2人は飛行船上部の外板の貼り付け作業を行っている40メートルの作業通路から足場に入った。ノンは昔から気の小さいところを見せていたが、事この高所に関しては不思議と臆するような態度を見せる事は無く、魔法ギルド本部の陸屋根上や先日の飛行船試験の際も怯えるアトを余所に本人はまるで平気な顔をしていた。
足場の上には昼夜三交代で外板を4人1組で貼り付ける作業班が全部で8班入っており、それを監督する者2人を含めて総勢34人が時折揺れる足元をモノともせずに何やら声を掛け合って作業を続けていた。
足場には巻取器が2カ所設置されており、地上から外板を渡す者達が傷を付けたり変形させないように注意しながら慎重にロープで固定された外板を監督者の指示で作業班総出で受け取り、貼り付け場所まで運んでいる。作業班を4人1組としているのは、貼り付け作業そのものよりも、この貼り付け場所までの運搬の為であるようだ。監督者も「作業を監督」すると言うよりも、引き上げられた外板の運搬時に構造体や足場に外板をぶつけたりしないように位置を指示するという役割が強い。
「すまんが、ちょっと裏側から見学させてもらうぞ」
ルゥテウスがノンを連れて、今まさに貼り付け作業を始めようとしている作業班の場所に辿り着き、班のリーダーらしき人物に声を掛ける。監督者は外板が施工位置まで到達したので再び別の班を指示をする為にウインチがある場所に戻っている。
「あ、店主様。お疲れ様です」
リーダーがルゥテウスに気付いて挨拶をすると、他の作業員達も口々に「お疲れ様です!」とか「お疲れっす!」などと元気に声を掛けて来る。店主がいきなり美しい女性を従えて作業現場にやって来たので皆一様に驚いた顔をしている。
ノンはトーンズ国民……特にキャンプに居住経験のある者達にとっては極めて知名度の高い人物だが、ここで作業をしている者達は難民として保護されてからソン村に直接送られて、トーンズ国民になる準備期間を過ごしていた者達ばかりなので、キャンプの藍玉堂店長であるノンの顔を知らないのだ。突然現れた美貌のノンを見て全員目を白黒させている。
「ノン、こっちだ。足元に注意して外板の裏側に回れ」
「は、はい……」
ルゥテウスとノンの2人は足場から気嚢骨格部分に移って、今から外板が貼られる……その裏側の位置に立った。ノンがその骨格内部で周囲の様子を眺めてみると、骨組の中にも足場が組まれており……所々で既に貼り付けられた外板の裏側に何やら液体を塗布する作業を行っている者も居る。近くで見てみると……その作業をしている者の手に持つ刷毛を使い、彼女が以前に調合して配合表を作ったパラノア樹液の混合液を補強材代わりに内側から塗布しているようだ。
「よし。そのまま作業を始めてくれ。ちょっとお前達の作業を裏側からこいつに見せてやりたいんだ」
と、店主は足場側に居る作業員達に声を掛けた。
「あ、はい。分かりました」
作業リーダーは店主の指示を理解したようで、班員の3人に「そんじゃやるぞぉ」と声を掛け、3人も「ういっす!」などと返事をしている。何やらカチャカチャと音が聞こえるが、これはどうやら作業中の転落防止の為に作業員がそれぞれ足場に安全帯を掛けているようだ。
「作業はこの外板を決められた位置に合わせて、3人がそれを押さえ付けるように固定する事から始まる」
ルゥテウスがノンに骨組側から説明する。ノンの目には縦80センチ、横120センチ程の僅かに曲面が付けられた外板を何か足場側から見える目印でもあるのだろうか、慎重に細かい動きで位置を調整するような動きが見て取れる。リーダーが細かく位置の指示をしており、「もうちょい右、もうちょい……」とか「そのまま上……1センチ上……」などとかなり神経質そうに位置決めをしている。
やがて「よし、いいぞ。そのまま固定!」というリーダーの声がした。ノンが見ると、隣に貼り付け済みの板と寸分違わぬように上下が揃い、隙間も全く無い状態で……何やら熟練の技を感じる。
「よし。ここからだ。いいか?骨組と板の接着面をよく見ていろ。今はまだくっ付いていない。向こう側から押さえているだけだからな。ここから『あれ』を使って接着をするんだ」
「え……は、はい」
作業員達が外板の位置決めに見せた熟練の技に感心していたノンは慌てて、店主に言われた「板と肋材の接地面」に目を向けた。恐らくこの大きさの外板を押さえる為に3人の作業員を使っているのは、板と骨組を満遍無く……その隙間を開ける事無くする為だとノンは直感した。ノンの位置からは見えないが、板の反対側では、3人の作業員達が板の全面に覆い被さるようにして外板を押さえつけているのだろうと想像出来た。
「やるぞぉ!よしっ!そのまま!」
リーダーは外板の押さえ付けを確認した上で接着作業の開始を宣言し、下から外板を受け取った際に添付されていた術符を右手で握り込む。外板の位置とその表面の全体を目に焼き付けながら目を閉じて念じる。
その時、板の裏側……肋材との接地面を観察していたノンは、その「接ぎ目」がそれこそ「スッ」という表現で一体化したように見えた。リーダーの術符使用によって、外板と骨組は最初から「一つになって繋がっていた」というようにしか見えない状態に変わったのだ。
「えっ!?」
驚くノンを余所に、板の裏側……足場側ではリーダーが「よし。離れていいぞぉ」という指示が出て、板を押さえていた3人が板から身を離したようで、その板を点検するかのようにリーダーがあちこちをコンコンと叩いている。
するとルゥテウスが
「よし。いいぞ。裏も大丈夫だ。しっかりと付いているぞ」
と、リーダーに告げると
「あ、ありがとうございます。では次のを取って来ますんで……失礼します!」
リーダーもそれに応じ、他の3人も「失礼しやっす!」などという挨拶の後に、彼らが立ち去るスタスタという足音だけが聞こえて来た。
「見たか?つまりあの術符は、板と骨組を『溶着』するように機能したんだ」
「ようちゃく……?」
「そうだ。前文明時代には、金属と金属を高熱によって「点や線で」溶かし着ける『溶接』という技術があったのだが、錬金術……と言うか、魔法を使えばこのように『初めから一つだった』かのように金属同士をくっ着けてしまう事が出来る。本来の魔術でもちょっと高度な技術なんだが、あの夫婦はそれを術符に込める事が出来るようだな」
「そ、そうなのですか……確かに……これは凄いですね。くっ着いた痕が全く判りません……」
「よし。板と骨組……まぁ、金属と金属がくっ着いた様子は見たな?その様子をイメージして、導符を作ってみようか」
ルゥテウスは白紙の術札を取り出してノンに渡した。
「え……?こ、ここでやるのですか?」
術札を受け取ったノンは困惑気味に答えたが、店主はニヤニヤしながら
「忘れないうちにやった方がいいだろ?お前はどうやら、今の『溶着』の原理をまだ理解出来ていないようだからな。だがお前なら、今の様子を直接見る事でそのイメージから現象を再現出来るんじゃないのか?」
「ど、どうでしょう……?」
「まぁ、いつも通りにやれ……イメージしろ……金属……鉄と鉄でもいい……金属が「そこだけ」お互い溶け合って……まるで最初から……痕も残らず……それを思い浮かべろ……」
術札を両手で持って目を閉じているノンに、店主は「いつもの」暗示のように声を掛ける。ノンは真剣な表情で自分がイメージした「板と骨組がピッタリと跡形も無く……くっ着く」という現象を両手で持つ紙片に込めるように念じている。
ルゥテウスが見守っていると、30秒くらい経っただろうか。目を閉じているノンがその前に掲げるようにして両手で端を摘まんでいる術札が、いつものピンク色に変じた。店主はそれを見て笑いを堪えながら
「おい。出来たみたいだぞ」
と、ノンに声を掛けた。彼女はゆっくりと目を開けて
「ど、どうでしょうか……鉄がくっ着く……というのがちょっと想像しにくくて……」
錬金魔導を成功させた直後の彼女はいつも、その「出来映え」について不安を口にするのだが
「まぁ、実際にやってみよう。ちょっと待ってろ」
ルゥテウスが足場に出て右手を振ると、彼の構えた両手に収まるかのように外板が現れた。どうやら下の資材置き場からこの位置の形状に合う外板を取り寄せたらしい。
「じゃ、俺が外からこれの位置を合わせて合図したら、その導符を使ってみろ。いいか?ちゃんとこの板の大きさをしっかりイメージして範囲を決めてからやるんだぞ?」
ノンも足場に出てきて、店主が外板をさっさと目印に寸分違わず合わせる光景を見ながら
「は、はい……板を貼り付ける範囲を、ちゃんとイメージするのですね?」
「そうだ。一度の施術で1枚の板の溶着を確実にやる為にな。さっきの連中の中で術符を使っていた奴も、そういう『範囲把握』をしっかりとやれる人間にやらせているんだ」
「なるほど……」
「よし。いいぞ。押さえ付けもしっかりやっている。範囲を指定して導符を使ってみろ」
「はっ、はい!」
ノンは目を閉じて自分がたった今作った導符を右手の中に握り込んだ。「範囲指定」は彼女にとっては既に慣れたものであるらしく、特に時間を掛けた様子は見られない。
「よし。定着したみたいだぞ」
主が板から手を離しても、外板は落ちる事無くその場にくっ着いている。どうやら接着そのものは成功しているようだ。
「裏から接ぎ目を見てみよう」
そう言って主は再び骨組側……板の裏側に入った。ノンも慌ててそれに続く。主は板と骨格の接合部分を丹念に眺め回し
「うむ。ちゃんと溶着しているな。かなり強固に着いている。隙間も全く見受けられない。成功だな」
小さく笑う店主に促されて、ノン自身も接ぎ目を確認する。先程見た熟練の作業班が行った隣の板の接ぎ目と全く変わらぬ仕上がり具合だ。
「つ、着いてますね……不思議ですが……」
いつものように小さくボケるノンに対してルゥテウスは思わず吹き出しながら
「お前……自分で作った導符だろうが……。もうちょっと自信を持てよ……」
と、それでも呆れ顔になっている。
「す、すみません……何しろ……どういう経過を辿ってこのようにピッタリしているのか解らないものですから……」
「そうか……まぁ、いい。お前はそういう難しい事は考える必要が無いからな。『そういう風になる』というのがお前の不思議な力だ。俺ももう細かい事を考察するのを止める事にしている」
「え……そ、そんな……」
困惑するノンに
「さて。下に戻るぞ。今のを踏まえてサナの手伝いをしてやれ。あいつもまだ《溶着》という施術について不慣れのようだからな。慣れればそれなりに触媒の消耗も抑えられるのだろうが、その間はお前がフォローしてやれ」
「わかりました」
そのように話している間に、先程の作業班が新しい外板を慎重に、声を掛け合いながら運んできた。
「25、26、27、28……あれ……?」
自分達が運んで来た外板の裏側に書かれている番号と外装図面を交互に見ながら首を傾げているリーダーに、地上に戻ろうとしていた店主が笑いながら
「すまんすまん。28番の位置の外板は俺達が貼ってしまった。俺達が貼ったのは……29番か。丁度隣の板を取り寄せてしまったようだな」
「え……?お二人で貼ったのですか?」
「うむ。こいつに貼り付けの仕組みを説明したくてな……」
「そ、そうですか……」
「26番から33番まで曲面率は同一だから28と29がひっくり返っても問題無かろう。済まなかったな。作業を続けてくれ」
「済みません。ご苦労様です」
と、ノンもペコっと頭を下げて壁面通路に戻る店主の後に続いた。2人が立ち去った後に、リーダーが改めて裏側に回って接着部分を調べてみたが完璧に溶着しているので更に驚き、自分達の作業体験を思い返して
「二人で……どうやって貼ったんだろう……なぁ?」
他の作業員に聞いてみるも、彼らも一様に「どうやったんだろうね……」と首を傾げていた。何しろ……手ぶらでこの場所にやってきた、しかも女だけを一人だけ連れて来た「店主様」と呼ばれる線の細い若者が、自分達が新たな外板を引き上げに行っている間に、完璧な作業でどこから持って来たのか外板を1枚貼って行ったのである。
「どうやったんだろう……」
尚も理解に苦しむ作業員達であった。
****
足場から降りて来た2人はソンマの居る作業机の場所に戻った。ルゥテウスはノンへ
「じゃ、ノンはそのままサナを手伝ってくれ」
と言い付け、ノンも
「はい。頑張ります」
そう言って工場の隅にある錬金部屋へと戻って行った。部屋の中では、ノンに薬を飲ませて貰いすっかり回復したサナが術符錬成を再開しており、本人も少し慣れてきたのか1分程度の詠唱で新しい術符を作り出していた。
「あ、おかえりなさい。どうでしたか?」
サナの問いに
「うん。どういう感じのものかは分かりました。ちょっとやってみるね」
と、ノンは作業机に置かれていた白紙の術札を手に取って数秒念じると、既に足場で1枚作ったせいか、ピンク色の導符があっさりと出来上がった。これを見たサナは驚きながら
「えっ!?それが《溶着》の導符ですか?」
と、ノンから出来上がったピンク色の導符を受け取って灯りに透かしてみたりしている。
「うん……多分大丈夫だとは思うけど……さっき見た板と骨組がくっ着くイメージは出来ていたし……」
自信無さげにノンは答えたが、普通の錬成品とは違って彼女の作る導符は基本的にピンク色をしており、その中を何やら意味不明な模様が薄っすらと描かれているので一見してこれが「何の導符」なのか区別が付かない。どうやらこれも彼女だけが持つ「錬金導師」の欠点の一つであると言えよう。
ノンはもうコツを掴んだのか、その効果に自信が持てないままに導符を続々と量産し始め、あっと言う間にその数は50枚に達した。
そもそもが、その錬成において触媒を使用しているわけでも無く……この導符が「失敗作」だったとしても失うものは多少高品質に仕上げた術札だけであったので、サナはあまり気にしていなかったが、ノンは机の上に大量に並べられた、自分が作り出したピンクの紙片を見て流石に不安になったのか
「ちょ、ちょっとこれ……ちゃんと出来ているか確認してくるね……」
と、机上の導符を搔き集めて部屋を出た。
外の作業場……先程の机がある場所で、外装の着色についてルゥテウスとソンマが相談していた所に、困惑した表情でノンが導符を持って来た。
「あ、あの……これ……。ちゃんと使えるのでしょうか……?」
僅か10分も経たないうちに大量のピンク色をした紙片の束を持って来たノンを見てソンマは仰天し
「えっ……!?そっ、それ……ひょっとして全部《溶着》のじゅ……い、いや、導符ですか……?」
そう尋ねてくるのへ
「はい……。先程ルゥテウス様と板を貼ってみた時に作ったものと同じだと思うのですが……」
「お前、随分とハイペースで作ったな。ちょっと見せてみろ」
店主が笑いながらノンからピンクの紙片を1枚受け取って、目の前にかざして目を閉じる。
「ああ。大丈夫だ。問題無い。さっきと同じものだ。これでいいからどんどん作れ。店長。ちょっと外見は変なものになっちまったが、効果は同じだと作業員に説明しろ」
尚も笑う店主から言われて、ノンから「導符」の束を受け取ったソンマは
「そ、そうですか……しかしもうこんなに作りましたか……」
やや混乱気味に応えて、足場の下で外板の荷揚げを担当している作業員の所に歩いて行った。
「ルゥテウス様は、あれがちゃんとした導符であると判るのですか?」
その様子を眺めていたノンが恐る恐る尋ねるのへ
「ん……?ああ。さっき足場の上で試しに作ったのと魔素の投影反応が同じだったからな」
主は事も無げに答える。
「そ、そんな事が……見ただけで?」
「いや、目視では無く《鑑定》という魔導だな。付与の内容を解読する事が出来るんだ。まぁ、魔術でも同じ事が出来るようだがな」
「なるほど。そういう魔法がちゃんとあるのですね」
自分の錬成品にあまり自信の無かったノンだが、主からそれなりに根拠のある言葉を聞いて安心したのか、困惑した表情が和らいだ。
それを可笑しそうに眺めながらルゥテウスは
「お前を連れてきて正解だったな。とりあえずあと何枚必要なのかは知らんが、作れるだけ作ってしまえ。その後にまた別の仕事がある。頼んだぞ」
「わかりました。がんばります」
ノンは張り切った様子で錬金作業部屋に戻って行った。その足取りは心なしか軽くなったように見える。それを見たルゥテウスは、また可笑しくなって笑い出すのであった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。15歳。《黒き賢者の血脈》を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
ノン
25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。
主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。
肉眼で魔素が目視できる事が判明した為、「錬金導師」として修行を始める。
チラ
9歳。《赤の民》の子でアトとは一卵性双生児で彼女が姉とされる。
不思議な力を感じた最長老の相談を受けた後、サクロに連れて来られて魔術の素養を見い出されたので、弟と共に《藍玉堂》で修行を始める事となる。
高い場所から景色を眺めるのを好む。
アト
9歳。《赤の民》の子でチラとは一卵性双生児。彼は弟として育つ。
姉同様に術師の素養を持ち、主人公から錬金術の素養を見い出されたので姉と共にキャンプに通って来るサナの下で修行を始める。
姉よりも慎重な性格だが高い場所が苦手。
ソンマ・リジ
35歳。サクロの《藍玉堂本店》の店長で上級錬金術師。
「物質変換」や「形質変化」の錬金術を得意としており、最近はもっぱら軽量元素についての研究を重ねている。
主人公から古の話を聞いて飛行船製造を思い付き、数年前から取り組み始める。
サナ・リジ
25歳。ソンマの弟子で妻でもある。上級錬金術師。錬金術の修養と絡めてエネルギー工学を研究している。
最近はノンに薬学を学びながら、高貴薬作成を得意としているが最近はもっぱら夫であるソンマの手伝いをしている事が多い。