本物の白兵戦技
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
久しぶりの「戦技授業改革派」一同が集まる事が出来た会合の翌日。12月17日は所謂「試験休み」であり、翌日の休日と合わせて士官学校は2連休となる。尤も……連休となるのは生徒だけで、教員を始めとする職員は答案整理と採点に追われる事となる。
前述したように、三回生に限っては翌旬半ばにはチュークスにある分校で実施された三回生海軍科の答案が大イリア運河によって運ばれて来る為に、陸軍科の採点を今のうちに終わらせなければ更に仕事量が追加されてしまうので、主任教官であるタレンも何かと忙しくなる。
そして常駐憲兵士官であるベルガは「5の日」である今日は憲兵本部へ旬例報告を実施せねばならない。昨日の会合にて上司から依頼された「申し入れ」が不首尾に終わった事に気を重くしながら、彼は憲兵課長の下に赴いた。
相変わらずの激務でいつものように机上の書類に目線を落としたまま……憲兵課長は彼を迎えた。
「お疲れさん。今旬は何かあったかね?」
「業務上は特に何もございませんでしたが……ご承知のように今旬は席次考査が実施されまして」
「あぁ、そうだったな。という事は……」
「はい。ご賢察の通りです。ヘンリッシュ殿と接触する事が出来ました」
「おぉ。そうか。マーズ少佐……いや、主任教官殿だったな。彼とも?」
「はい。マーズ主任殿には既に課長殿よりご依頼を受けた翌旬明けに要件を伝えてありましたので」
「あぁ、そうかそうか。そのような報告を聞いてたな。それで?返答は貰えたかね?」
「ええ……。ご両人から返答は頂けましたが……」
ベルガは少々表情を曇らせた。
「残念ですが、お二方共……軍務卿閣下とのご面談については、ご辞退申し上げると……」
「何!?拒否されたのかね?」
「はい……どうもその……」
ベルガは頭を掻きながら、口籠るような物言いになり
「何だ?何か言いにくそうだな。どうかしたのか?」
「ええ……誠に恐縮なのですが……この話はここだけの事にして頂けますでしょうか」
「うん……?どうしたんだ?」
「はい……。実は……お二方共に、軍務卿閣下に対してあまり良い印象を抱いていらっしゃらないようでして……」
「え……?そっ、それはどういう事なんだ?つまり……いや、やはりそれは……『拒絶された』というニュアンスなのか?」
既に机上から視線を上げていたエラ課長は驚いて目を剥くような表情になった。よもや軍務卿閣下直々の「面談依頼」が拒絶されるとは思っていなかったようだ。
「ええ……。私は所詮下っ端ですから……本省の上層部の『ご事情』というものには疎いのですが……」
ベルガは更に言葉を選ぶように
「率直にお伺いしますが、課長殿は軍務卿閣下に対してはどのような印象をお持ちでしょうか?」
「はぁ?私か……?」
いきなりこのような質問を受けた憲兵課長も言葉を濁らせるように
「いや……そりゃまぁ……見た目で言えばその……大層……巨きいと言うか……」
「いえ、そういう意味では無くですね……その……私如き立場の者が申し上げるのも恐れ多いのですが、軍務卿閣下が今日に至るまでに成された業績などについてです」
「うっ……そうか……。もしかするとマーズ殿やヘンリッシュ殿は……軍務卿閣下の『業歴』に対して……」
「はい。恐らくは課長殿のお考え通りかと。つまりお二方は軍務卿閣下が過去に為されて来た行動……特に人事面での実績から、閣下は『自分達とは対立する側の人物』と見做していらっしゃるご様子です」
「やはりそうか……実際のところ……閣下が過去に実施された人事承認を見ればそう言う印象を与えてしまうわな……」
「そうですね。お二方とも、私に対してはかなり突っ込んだ所までお話頂けましたが……明らかに面談が実施された場合……その席上で軍務卿閣下からお二方が目指しておられる行動に掣肘が加えられる事を警戒されております」
「む……まさかそのような印象を抱かれているとは……では君としては今回の軍務卿閣下があの二人に面談を望まれた『事情』を知っているのだな?」
「いや……そこまで詳細には存じ上げませんが、お二方から何とはなしに……」
「で?君はどう思っているのかね」
「は……?どう……とは?」
「彼らはどうやらあの学校の中で戦技授業に対する改革に取り組もうとしているのだろう?」
「あぁ……はい……そのようにお聞きしております」
「君はどう思っているんだ?その改革に対しては……」
「あぁ……そういう意味でしたら……私も現在の戦技授業では戦場において全く役に立たないと愚考します」
やはり実戦経験者だけあって、そこだけはキッチリと答えるベルガに
「君から見てもやはりそうなのか……」
憲兵課長は渋い表情で言葉を漏らす。もちろん課長は、この目の前に居る部下が北部方面軍出身で、しかも「北部軍の鬼公子」の部下であった事を知っている。「実戦経験者」としての彼の言葉には耳を傾けざるを得ない。
「まぁ……このような事を君に聞かせてもアレだが、私も先日知った事だがね……。軍務卿閣下もお若い頃に士官学校で教官職を経験されているそうだ」
流石にこのいきなり投下された情報は初耳だっただけにベルガは
「えっ……!?」
と言ったきり、絶句している。暫く驚いた後に彼が口にしたのは
「きょ、教官職を歴任されているとは……戦技教官としてでしょうか……?」
「そうらしいな。私は士官学校の出身では無いから、かの学校の授業には左程詳しく無いが……なんでも、軍務卿閣下は槍術を得意とされていたそうだぞ」
「槍術ですか……」
一概に槍術と言っても、歩兵槍術と馬上槍術では内容が異なって来る。馬上槍術は三回生でのみ実施される授業で、当たり前だが陸軍騎兵科だけが選択出来る科目である。
以前にタレンも言っていたが、ベルガの知るヨハン・シエルグ氏の体格では、それに耐え得る軍馬も少ないだろうから、恐らく彼は歩兵科の担当であると思われる。必然的にその槍術も騎乗では無い歩兵槍術であろう。
ベルガ自身は陸軍騎兵科を卒業しており、任官先は北部方面軍第一師団第二騎兵大隊であった。そして幼少時から槍術に取り組んでいたのでは無く、入学後から槍の扱いを覚えた彼は騎乗術にセンスを見せて、槍の腕前は凡庸ながらも陸軍騎兵科に進む事が出来た。そんな彼が戦闘中の乗馬事故で右足を潰されてしまったのは皮肉な話である。
「閣下は自らも槍術を教えていらした経歴をお持ちで、その視点からマーズ殿やヘンリッシュ殿が目指している戦技授業改革にご興味を示されているのではないだろうか。ヘンリッシュ殿の『業』をご覧になりたいと仰られているのも、そう言ったお考えからだと思うが……」
「あぁ……なるほど。そう言えば……そのヘンリッシュ殿の授業観覧については特に反対されませんでした」
そう言って、ベルガは制服の内ポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。
「こちらがヘンリッシュ殿が所属する1年1組の授業時間割です。マーズ主任から教えて頂きました」
「おぉ。そうか。授業の観覧は拒否されなかったか。私の聞いたところでは観覧は非公式に……つまり先日も話したが、それと分からないように『お忍び』でご覧になられる事になるだろうから、日程は閣下の側で適当に決められると思う。面談は叶わないのかもしれないが、授業観覧だけは行われるかもしれないとマーズ殿にお伝えしてくれ」
「了解しました。それでは非公式に実施される方向であることをマーズ主任殿にお伝え致します」
「うむ。宜しくな」
このような会話が交わされて、ベルガの旬例報告は終了した。
****
エラ課長より、その同日中に報告を受けた法務部次長のアラム法務官は
(やはり……軍務卿閣下の教育族への人事承認は多方面に悪印象を与えていたか……)
と、渋い顔で思案に耽っていた。
また、エラ課長は同時に
「ヘンリッシュ殿はご自身の要求が実現されてから面談に応じる』と仰っていたようです」
と……ベルガからの伝言も同時に報告してきた。
「そうですか……」
アラム法務官は、そのヘンリッシュから直接……恫喝まがいの要求を突き付けられた身であるだけに
(この『仰りよう』を無視して強引に軍務卿閣下を彼と会わすのは得策では無い……。彼は例え相手が軍務卿閣下であろうとご自身の考えを遠慮する事無く直言するだろう)
そのように考え
「この結果は、そのまま正直に閣下へお伝えすべきでしょうね……」
心配顔の憲兵課長を余所に「余計な小細工無し」の姿勢を決意した。
翌旬明けの12月19日、先触れとして法務部職員を軍務卿執務室に遣わしてシエルグ卿の都合を聞き、軍務卿は在室しており面会許可も出たので、アラム法務官は午後一番というタイミングで単身……軍務卿の執務室を訪れた。前室に入ると首席秘書官であるウェイン中佐が奥の部屋に「お伺い」を立て、すぐに法務官を招じ入れてくれた。
本来であればこの旬明けの「1の日」は軍務省庁舎内では軍法会議の開廷が集中する日である。しかも時期は年末であり、色々と溜まった訴訟を年内にある程度は結審させる為に、その量も他の時期と比べて雑多である。
これらの訴訟に対応する為に、法務官としてアラム大佐は忙殺されるところなのだが、先日の会合にて上司のホレス法務部長がアラム次長の取り扱いをある程度肩代わりしてくれると申し出てくれたので、彼もこうして軍務卿の執務室を訪れる余裕が出来ていたのである。
「閣下。お時間を頂きまして恐縮でございます」
法務官は挙手礼を実施し、軍務卿の勧めに従ってソファーに腰を下ろした。今日の軍務卿はいつものように自身の執務机で応じるような事はせずにその巨躯を法務官が座るソファーの向かい側に移して腰を下ろした。
「貴官が自分自身でここを訪れたと言う事は……『例の件』だな?」
その圧倒的な体躯からこれまた迫力のある声で軍務卿は尋ねてきた。
「はっ、はい……ご賢察の通りでございます。先旬、漸く士官学校の席次考査が終了致しまして……我らの『使者』が件の二人……タレン・マーズ主任教官殿と士官学校生、マルクス・ヘンリッシュ殿に接触が叶いまして……」
「そうか。まぁ、『奴ら』にはその接触については知られていないのだな?」
「はい。そこのところは抜かりが無いかと思われます。我らの協力者である憲兵課長の下に、北部方面軍出身で嘗てのマーズ殿の部下であった者が居りまして……」
「ほほぅ……そのような者が憲兵に居るのか」
「はい。しかもその者……折良く現在は士官学校で常駐憲兵士官を拝命しております」
「なるほど。そういう事か。して……首尾はどうであったのか?」
ここで法務官の表情が冴えない事に気付いた軍務卿は重ねて尋ねた。
「何か……問題でもあったのかね?」
「は、はい……。実は……残念ながら……」
「何……?不首尾に終わったと言うのか!?」
「はい……両名共に閣下との面談を辞退したそうです」
「何と……辞退……アラム大佐。率直に言い給え。辞退では無く……拒否されたのだな?」
軍務卿は何となくではあるが……アラム法務官の表情から「何かしらの事情」を察したようだ。
「このような事を申し上げるのは誠に……その……」
「構わん。遠慮無く言い給え」
「はい……それでは……」
アラム法務官は顔を上げて思い切った様子で目の前の巨躯の老人に申し述べ始めた。
「マーズ殿、ヘンリッシュ殿。お二方共に閣下の『過去のなさりよう』を気にされているようです」
「何……?私の過去……?」
「はい。閣下ご自身はどのようにお考えになられていらっしゃるのかは、私如き弱輩には窺い知る事は出来ませんが……例の『教育族』の方々への人事承認を実施されているのは閣下ご自身でございます故……」
「むっ……そうだな……。確かに私が一昨年に承認したものが昨年の冬の除目で実現しているな……」
「お二方は恐らくですが……その件を以って閣下が『教育族』に与されていると思われている節がございます」
「なっ……!つまり彼らは私と教育族の連中の事を棒組であると見ているのか?」
「はい……誠に遺憾ながら……。そのように思われます」
「馬鹿な……た、確かに……従前の人事決裁を『素通し』にしていた事は認めるが……」
シエルグ卿は渋面を湛えて腕組みをしたまま嘆息した。事ここに至って漸く過去に下から上がってきた人事案を「右から左に」流していた事が原因で省内に重大な齟齬を発生させている事に気付いたようだ。
アラム法務官も、今回敢えてこのような「事情」を伝えたのは偏に教育族以外の上級幹部の中に燻り続ける「不満」を暗に指摘した上で軍務卿に猛省を促す為であった。
実際のところ、つい先日……この騒動に遭遇するまでアラム法務官自身も軍務卿は「教育族に与している」と誤解していたのだ。
今回このようにシエルグ卿へ接触を持ったのは、「あの士官学校生」から要求を受けた時に「軍務卿へ相談してみろ」と「助言」された事が大きい。
そもそも……先日の「ネル家騒動」に係わる前まで、アラム法務官個人はシエルグ卿と省内における接点が殆ど無かった。彼の目から、ヨハン・シエルグという人物の為人が殆ど見えていなかったのである。
法務官にとっての軍務卿閣下は……前職が王都防衛軍司令官であったこと。そして噂に違わぬ巨躯の持ち主であり、その体格に相応しい迫力と声の持ち主である事……この程度の「外的印象」だけの認識であったのだ。
他の部署の者達……例えば情報部やそれこそ人事局のトップ、そして軍務省次官であれば今少しその認識情報は増えて……王都防衛軍司令官時代には軍会議で特に論陣の対立など起きる事無く円滑な会議進行が茶飯事であったことで「あの見た目で意外にも『調整型』の人物なのか」とか……最高司令官たる今上陛下への忠義が殊の外篤く、その叱責や軍部の汚点が外部に漏れる事を極端に恐れるなど……別の角度からの見識が加えられていた程度だ。
そのような「不確定の情報」だけが「軍務卿閣下の印象」として流布された原因は、この巨漢の老人が「軍官僚嫌い」であり……平素から軍務省内にある執務室に引き籠っていたからである。
ネル家騒動によって、彼は初めてこの気難しいと評判の軍務卿閣下と直接会話を交わす機会を得る事が出来、それによって漸くこの老人の為人を詳細に把握したのだが、その「正体」は……別段のところ教育族の連中を意識して同調庇護をしているわけでも無く、単に「官僚人事に無関心故の怠慢」であった事に気付いたのだ。
どうやら彼自身は「軍務卿」という地位を最初から特に欲していたわけでも無く、「たまたま」司令官職が定年に達した際にその地位への順送りが発生した事……そして王都防衛軍司令官という職責において今上陛下からの知己を得ていたという理由で否応無しにその職に就任したのだという……そのような事情までアラム法務官は察してしまったのだろう。
「閣下。ヘンリッシュ殿からは『今回の要求が達成された後ならば面談に応じる』という伝言を預かっております」
「何だと……!おのれ……」
軍務卿はカッとなりかけたが、やがて大きく溜息を吐いて
「そうか……私の『怠慢から来る行動』が彼らに不信感を与えておったのだな……」
呟くように言葉を発した軍務卿に対して法務官は沈黙したままである。
「そうか……彼等とは言葉を交わす事が叶わんか……」
ガックリとした様子を見せる目の前の老人に対して法務官は漸く口を開いた。
「閣下。面談に関しては辞退されましたが……ヘンリッシュ殿の授業観覧に関しては可能なようです」
法務官は、先日エラ憲兵課長から受け取った「1年1組の時間割表」を広げて机の上に置いた。
「ヘンリッシュ殿の学級のものだそうです。マーズ主任からご提供頂けたようで、彼らは特に授業を観覧される件については気にされていないようです。これは年末までのものですが……白兵戦技の授業に印を付けておきました。観覧を実施されるのであれば日程をお選び下さい」
腕を組みながら放心した様子だった軍務卿は、法務官からの言葉を聞いて落胆状態から我に帰り
「ほぅ……ではヘンリッシュの業はこの目で確かめられるのだな?」
「はい。但し……先日も申し上げましたが、閣下のご観覧はあくまでも『非公式』という線で実施される事になります。具体的には、施設局のトカラ部長の協力で『防衛施設の点検』という名目で士官学校の構内に入って頂きます」
「なるほど……つまり私はその点検作業員に扮するわけだな?」
「左様です。日程をお決め頂ければ王都防衛施設部より士官学校側に点検の通告を実施する予定です」
軍務卿は法務官から受け取った時間割表に暫く見入っていたが、やがて
「ではこの……年末休み前の最終日の午後に組まれている槍技実習を見させてもらおうか」
時間割表を机の上に置いて、表組の一番最後尾……この3048年最後の授業コマを指で差し示した。
「なるほど。本年最終日であれば『点検』を名目とした施設課の訪問も不自然には見えませんな」
法務官は軍務卿の希望に賛成したところで
「あの……もし可能であれば私……それと我が同僚法務官である人事部のロウ次長殿も同行させて頂けませんでしょうか」
と、「観覧の随行」を求めてきた。
「何だ……貴官もヘンリッシュの『本物の白兵戦技』とやらに興味があるのか?」
軍務卿が意外そうな顔で尋ねるのへ法務官は苦笑しつつ
「正直に申し上げますと……私は閣下のように武術そのものに興味があるわけでは無く……ヘンリッシュ殿やマーズ主任教官、それに学校長をも賛同させたと言うその『本物の白兵戦技』を見分させて頂きたいと思った次第です。
そして人事部のロウ次長……法務官殿は閣下が士官学校で教官を勤められていらした頃に閣下の授業で槍術を学んでいらしたそうです」
「ほぅ……そうだったか。軍務省に勤める者達は皆……軍務科出身で弓術を選択するのが普通かと思っていたが……」
「まぁ……私も閣下の仰る通りの選択を致しましたが、ロウ次長殿は軍務科に進んだ後も槍技を選択されたそうです。そして……やはり同年代のトカラ部長殿は一回生時に閣下が担任された学級に所属されていたそうです」
「何と……そうか。私が教官職を勤めていた頃の者がまだ現役で居るのだな……」
「はい。本来であればロウ次長もトカラ部長も年齢や実績等でもう少し上の職位を勤めていてもおかしくないのですが……」
「なるほどな……それはつまり……例の『教育族』によって人事が停滞しているのだな……」
重ね重ね……過去の自分が犯した「無関心故の怠慢」という行動が、これ程までに様々な弊害を起こしていた事を痛感しているシエルグ卿は、その思いと同時に……そのような自分の姿勢に付け込むような形でこれだけ無茶苦茶な人事案を上げて来たエルダイス次官に対して怒りが湧き上がって来たのである。
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軍務卿が希望した「非公式の学校訪問日」は直ちに施設局の施設整備部に伝達され、それを基にしてトカラ部長直々に近年では異例となる「年末施設点検計画」が士官学校に通知された。
王立士官学校の年末年始は12月24日から1月6日までが休暇となる。通年は13日間となるこの休暇も、本年は閏年である為に12月が31日となるので、14日間となる。
それでも14日「しか無い」ので、出身地によってはこの休暇の時でさえ帰省が叶わない者達もいる。かく言うマルクス・ヘンリッシュも、名目上は「ダイレム出身」であり片道で2旬以上を要する距離にある為、「帰省せず」という申請を実施する必要がある。
何故そのような申請が必要なのかというと……士官学生は一応は王国軍の軍属扱いである為に、この期間に「有事」が発生した場合は「非常招集」の対象となるからだ。
しかし12月23日の「点検実施」に対して通知の実施はその3日前の12月20日の午後という急なスケジュールとなったのだが……この通知の宛先となったハイネル・アガサ教頭は校務とは関係の無い「王城防御施設の点検」に対してはあまり関心を示す事は無かった。
タレンにも同じ通知が届いたので、彼は取り急ぎメモを校長室の扉の下から差し入れた。
《23日午後に『視察』アリ》
(そうか……軍務卿は年内に来るつもりか……)
これを見たエイチ学校長は「ある決心」をするのであった。
****
12月23日。今年最後の授業日であると同時に先日実施された席次考査の結果が本校舎2階の総合職員室に掲示され……1年1組の生徒達は今回も各々が好結果を出していた。
もちろん……一回生首席の座は動く事無く、そして2位と3位も変動は起きなかった。リイナは今回も数学に集中した結果として自らの順位を守ったのである。
他には7位にアン・ポーラ、カタリヌ・シケルはアンに逆転されたが9位を守った。そしてケーナは遂に10位に入った。今回は1組の者達と一緒に試験勉強に取り組んだ4組の女子2人もそれぞれ席次を大幅に上げたようだ。
1年1組生徒達の「躍進」は明らかにここ数十年でも異常であると言える。そして恐らく……その躍進の原動力になったのは、記録に残っている範囲で前例の無い「席次考査で満点」を二期連続で続けた首席生徒の影響が大きいのは教職員一同が等しく感じた印象であった。
その1組の教室の中では朝からやはりこの考査結果の事でザワついていたが……その主役たる首席生徒はいつもように考査結果の掲示すら確認する事無く、自席に座って瞑想するかの如く目を閉じていた。
同級生一同は入学以来3ヵ月半が過ぎ、最早この首席生徒が「創立以来の逸材なのではないか」という評価が校内でも動かぬものとなって来た事を感じており……そしてその本人が「自分は軍人になるつもりは無い」と明言してしまっている事に、益々疑問を持つのであった。
今年最後の昼食時、本校舎1階大食堂の「いつもの場所」に座って黙々と軍隊飯を食べているその首席生徒へ、向かいに座ったケーナが尋ねた。
「ヘンリッシュ君は帰省しないのですよね?年末年始は王都でどう過ごすのですか?」
尋ねられた相手は無表情で固いパンを咀嚼していたが
「多分、王都には居ないと思う」
と、短く答えた。
「え!?どこか行くのですか?」
「そうだな。遠隔地は難しいが王都周辺の町や村を訪れたりして見聞を広げるつもりだ」
そう答えたが、もちろん適当なデマカセである。マルクス……ルゥテウス本人は休暇中はトーンズ国で進められている鉄道敷設工事や飛行船の最終試作品の制作を手伝うつもりでいる。
「へぇ……休み中でも研鑽は怠らないのですね」
「お前は王都出身だろう?それ程何か生活に変化があるわけでも無いだろう?」
「私は実家がお店をしているので、その手伝いでしょうかね……」
無表情だったマルクスが、ケーナの実家の「商売」の話に興味が湧いたらしく
「ほぅ……家で商売をしているのか。何の店をやっているのだ?」
「え……?あ、あの……花屋なんですが……」
「ん……?花屋?」
マルクスは相手の口から意外な「商売」を聞いて一瞬考え込んだ後、怪訝そうな表情になり
「お前は……花屋の娘なのに『理科』が苦手なのか……?」
と、尋ねると……周囲の者達も同感だったようで、隣に座っていたリイナも疑問を口にした。
「ケーナさん……お花屋さんなのに薬草の知識は身に付かなかったのですか……?」
向かい側と隣から一斉に疑問が呈されたケーナは「ぐっ……」と言葉を詰まらせたが、やがて
「ウチで売っているお花は王都郊外で栽培農家をやっている親戚から仕入れているので……別に自分で摘みに行っているわけではありませんから……」
「でも、確かに言われてみればケーナさんはお花には詳しいですよね。ノートにも押し花があしらわれてましたし」
「ええ……子供の頃からお花に囲まれて暮らしてきてますが……薬草はまた別ですから……」
「まぁ、確かにお前の言う事にも一理ある。しかし俺はお前の実家の店が取り扱っている花の種類は知らんが、鑑賞用の花の中にも加工を経て薬材になるものもあるからな」
「え!?そうなのですか?」
「休暇中は、そういう方向で勉強してみてはどうだ」
小さく笑いながら首席生徒はいつものように手早く軍隊飯を腹に詰め込み、食器を重ねて立ち上がった。
午後の授業……今年最後の授業は槍技の授業で、担当はいつものホルプ教官では無く騎兵槍術を得意とするハウル・ショーツ教官である。
ショーツ教官は王都方面軍所属の騎兵隊から赴任してきている人物であり、同じ騎兵出身で驍将の呼び声高く、そして自身が所属していた王都方面軍司令官の次男でもあるマーズ主任教官を尊敬しており、彼が提唱し始めた「本来の白兵戦技授業」についてもかなり早い段階から理解を示していた人物である。
本来は二回生の担当である為に、一回生の授業……特に1年1組の授業を担当するのは今日で3回目であったが、前回……10月に担当した際には、まだマルクスの「業」を見る事は出来なかった。しかし剣技の授業を見学した際に彼の動きを見て仰天し、マーズ主任教官の言い分が正しい事を確信したようで、以来……自分の担当する授業に「新しい(本来の)授業方法」を取り入れている。
実技授業に伴う着替えが必要な為に急いで昼食を済ませた1組の生徒が戦技場に集まり、時間通りにショーツ教官も現れて午後の……年内最後の授業が始まった。
ショーツ教官は、寒い季節に屋外で授業を受ける生徒一同の体を解す為か、入念に準備運動を指示した上で、槍の基礎動作を一通り行わせた。担当回数が少ない学級の履修進捗状況が判りにくいので、こうして生徒達の槍扱いの習熟を確認したのだ。
それらの内容に30分程度を費やして、いよいよ本格的に「新たな形式」による授業を開始しようかという時になって北側の観覧席に「一風変わった恰好」をした一団が現れた。
彼らは工兵の作業着に近い服装をしているが、学校の用務員とは明らかに違う様子で……更にその中で目を引いたのが作業帽を深々と被った身長が2メートルに迫ろうかという巨体の持ち主で、彼を含めて一団の総数は5名のようである。
しかし、本日は生徒達には詳細は知らされていないが朝から「構内の防御施設の点検」が実施されるという事だけ朝礼で通知されていたので、「作業着姿の者達」に対して槍術教官と生徒達には別段不審を覚える事は無かった。ただ、一人だけ「身体が大きい作業員」が含まれていただけの事である。
「身体が巨きい人間」についても、彼らはそれほど驚きは無い。何しろそのような体格だけの話であれば自治会長の弟も王都の街中でならば目を引くような大きさなのである。校内でダンドー・ネルの姿を何度も見ている教職員や生徒達には、多少身体が大きくとも「そういう人が居る」という意識下において許容出来得る存在なのである。
その一団とは言うまでも無く「お忍びの授業観覧」にやって来た軍務卿の一行であった。軍務卿であるヨハン・シエルグ侯爵を筆頭に、彼に随行してきたアミ・トカラ施設整備部長、ジェック・アラム法務部次長、ゼダス・ロウ人事部次長、そしてその姪で軍務卿秘書官のシェビー・ロウ中尉で構成されており、彼等の観覧を実現する為に……ある種の「欺瞞工作」とも言える、トカラ法務官の手配によって今朝から実に47年ぶりの「防衛施設点検」が構内各所で実施されていた。
王城防御施設でもある士官学校校舎の点検そのものは「なぜ50年近くも行われなかったのか」と思われる程に重要な作業行事であり、これはある意味で「施設局の怠慢」とも言えたが、これを士官学校の年内最終日に実施を指示したトカラ部長の行動には何ら不審を抱かれる事無く、むしろ「トカラ少将はよくぞ思い出して指令してくれたものだ」と施設局長も感心していた程であった。
授業は「包囲する側」と「包囲される側」に分かれて剣技台で模擬訓練に入った。今回の授業では長さのある槍術訓練となるので自然と両者の間合いが開く事から、他の「新しい戦技授業」を実施している教科の場合と異なり、剣技台の上では一組だけしか実施する事が出来なかったが、「包囲される側」の者を槍術経験者がそれぞれ務めながら、それを3人の「槍術未経験の」生徒が包囲して実際に模造槍を振るってみるという形になっていた。
包囲される側になっている槍術経験者の生徒も、今まで「包囲される事」を想定した修練を行ってきた者がおらず、正面の敵役である「素人の槍」は防げても、背後や脇を別の生徒に突かれたりして困惑している様子が観覧席からもありありと見えた。
帽子を深々と被った軍務卿が「うーむ……」と小さく唸る。
(うーむ……囲んでいる者達は槍の扱いが素人なのは分かる……しかしその者達相手でも囲まれるとああなってしまうのか……)
これまでの人生で培ってきた自身の「槍術経験」においても殆ど省みる事の無かった「包囲された際の動き」をこれだけ文字通り「客観的」に眺める事の出来る場所から見せ付けられて彼は困惑していた。
(考えてみれば……実際に戦場に出ればあの程度の状況は普通に有り得るはずなのだ。「あの程度」の相手に囲まれただけでこうまで進退がままならなくなるのか……)
隣で一緒に観覧していたロウ大佐も
「なるほど……これでは……」
と、やはり自身の経験に基いて言葉を失っているようだ。
一同が目から鱗が落ちるような思いで授業を観覧してると、やがて北側の観覧席の入口から姿勢の良い恰好の老人が現れ、そのまま軍務卿一行が座っている段席の真後ろの段に腰を下した。
軍務卿に随行して来た一同が振り向いて警戒の色を露わにすると、その老人の口から
「失礼ですが……軍務卿閣下でいらっしゃいますでしょうか」
と小声で尋ねられ、シエルグ卿もついに振り向いた。その怪訝そうな表情を見て老人は口元を綻ばせながら
「ご無礼をお許しあれ。私は当校の学校長を拝命しております、ロデール・エイチです」
前第四艦隊司令官の名前を聞いて軍務卿以外の者達が慌てて立ち上がろうとするのを手で制して
「あまり大袈裟な挨拶は無しにしましょう。只でさえあなた方は目立ちます。まぁ、私もそうですがね……」
学校長は笑いながら、それでも声を低くして
「閣下が本日こちらにいらっしゃる事はマーズ主任教官から聞かされておりました。閣下に対して誰もご挨拶にお伺いしないのは失礼かと思い、こうして私だけでも参上した次第です」
元王都防衛軍司令官と前第四艦隊司令官としてであれば、両者の階級と職位はほぼ同格である。しかし今は軍務卿となった相手に対して、学校長はどこまでもそれを立てる態度で接してきた。
「提督……。こちらこそ本日は不躾ながらもこのような恰好で人目を憚るような真似をしている無礼をお許しあれ」
軍務卿も丁寧な口調で返礼をした。元々、同じ王国軍とは言え……陸軍と海軍はお互いに「別組織」という意識が強い。そして軍務省の管轄下にあるとは言え、「王立士官学校長」という職位は人事局を通さない国王陛下の勅任官である為、軍務卿も徒や疎かには出来ない態度になった。
これがもし……エイチ校長が陸軍出身者であれば、軍務卿も多少は態度が違っていたかもしれないが……相手は前艦隊司令官……それも「近年最強」と王都においても噂されていたアデン海を管轄する第四艦隊を率いていた提督である。軍務卿はともかく、随行してきた者達は衰えぬその剛毅な雰囲気にすっかりと呑まれてしまっていた。
「その……マーズ殿はこちらにいらっしゃれぬのか?」
「たかが主任教官」に対して軍務卿の口調は不自然なまでに丁寧である。
「ええ……まぁ……。彼も主任教官ですから、本年最後の業務で多忙であると思います」
「そうですか……。彼とは直接会って話を聞いてみたかったのですが……」
そう言いながら軍務卿は剣技台の方に目を向けた。そしてその周りで模造槍の石突部分を地に突き立てながら、それに寄り掛かる訳でも無く……無表情で他の生徒の練習を見ている首席生徒の様子を見つめた。
距離にして30メートルは離れているのにも関わらず、その様子からは何とも言えない雰囲気が感じ取られ、一見しただけですぐにそれが「彼」であろうという事が判る程であった。
「それと……あれがヘンリッシュ君ですな……。なるほど……只者では無さそうですな。それと……今やっているのが例の……『本来の白兵戦技授業』とやらですかな?」
「まぁ……あれでも「実際のもの」とは程遠い内容だと思われます。囲まれる側も囲う側も全く慣れていない様子です。そして無論ですが……それを指導すべき教官も……まだ「それ」をしっかりと理解していないのでしょう」
「囲まれる側もどうやら『経験者』のように見えますがな……。私は海軍出身者ですので槍術に関しては門外漢ですが……この授業は本来、『囲んでいる側』にも目的がありましてな」
「ほぅ……今はどうやら槍を持ち慣れていない生徒……恐らくは未経験者がやっているようですが……?」
「はい。囲まれている者は当然ですが、囲んでいる側もお互いの連携を意識しつつ確実に包囲した敵を討ち取るという意識を持たなければ『本来の戦技授業』とは言えない……のだそうですよ」
「なるほど……それは……マーズ主任殿のお考えで?」
「いえ、あそこに居る……ヘンリッシュ君の意見です」
そう言われた軍務省一行は再び剣技台側に振り向き、台下の通路に佇んでいる長身の首席生徒に目を移した。彼は相変わらず槍を地に突き立てたままの姿勢で身じろぎせずに台上の授業を見守っている。
授業を行っている囲まれる者1人と囲む者3人、計4人はどうやら教室の座席配置的に列ごとで班分けをしているようで、マルクスの列……教室で5列ある座席配置の真ん中の列の4人の順番が回って来た。
この列には剣術経験者であるインダ・ホリバオの他に、7年の槍術経験者であるセイン・マグビットが含まれているので、本来であれば経験者であるセインが「囲まれる役」を勤めるはずであった。
「あぁ……囲まれる役はヘンリッシュ……君が勤めてくれないかな?」
ショーツ教官の指示に対して
「私は槍術……とやらは未経験ですが?」
と、マルクスは答えた。
「しかし、君ならばその槍も難なく扱えるだろう?マグビットも良い動きをしているがな……どうだ?マグビット。このような『やり方』の経験はあるか?」
「い、いえ……道場の中で何度かこのような配置で稽古をした経験はありますが……あの時は壁を背に出来たものですから……」
「そうだろう?で……あるならば、やはりヘンリッシュにやってもらった方がいいだろう。そう思わんか?」
「ええ……。自分もヘンリッシュ君の動きを参考にしたいです」
槍術の経験者ではあるが……以前に他の武術経験者や担任教官と共にアッサリと捻られた体験を持つセインは苦笑しながら「囲まれる役」をマルクスに譲った。
ちなみに彼は9日前……考査2日目の槍技試験でも二人抜きしたところでこの首席生徒と当たってしまい……開始10秒程で何をされたか判らないうちに得物を叩き落されて敗退している。
「では……まぁ……お引き受けしますが……予め申し上げておきますと、私は槍術に関しては殆ど識らず……入学後の授業でしか習っておりませんのでご了承下さい」
嘗て、「初めての戦技授業」であった剣技の時と同じような「断り」を入れてからマルクスは剣技台の中心に立った。いつも通り、全く「構える」という事をせずに先程から通路で眺めていたのと同じ姿勢で佇んでいるだけだ。
彼の正面には経験者であるセインが立ち、マルクスの左後方にはインダが、右後方には教室の席順では真ん中の列の一番前(教卓の目の前)に座る「歴史大好きっ娘」でお馴染みのアミナ・エリエが槍を構えて立った。
一段低い通路でこれを観る他の生徒も、一斉にこの包囲網へ注目する。もちろん観覧席に居る一同もこれを見守っている。エイチ校長ですらホルプ教官の「退屈な授業」を観ただけの前回とは違い、初めて「ヘンリッシュの業」を観るのだ。これまで何度かフレッチャー邸で顔を合わせて会話を交わしていたあの若者が、いよいよその「片鱗」を見せようとしているのである。
「よしっ!始めっ!」
ショーツ教官の開始の声と同時に、裂帛の気合と共にセインは渾身の二段突きを放った。彼の「流派」の二段突きは自らと同じく槍を得物とする相手に対して、初撃で相手の先手に向かって牽制の突きを放ち、相手がそれを捌く動きの中に隙を求めて素早く槍を引き……次の「本命」の一撃を放つというものである。
しかし、今回の相手であるマルクスが開始の声が掛かっても槍を構えようとしなかったので……一先ず彼の視線を散らそうと槍を持っている側……つまり右肩辺りに「囮の初撃」をそれでも全力で繰り出し、そして素早く穂先を引こうとした時……その引き腕に併せるかのように相手が突っ込んで来た。
マルクスはセインの欺瞞の一撃をアッサリと見切り、その引手に乗じて間合いを一気に詰めて来たのである。
「うわっ!」
慌てたセインが次の突きを繰り出したが、既にその左側に回り込んでいたマルクスは自らの槍の穂先と反対側……石突側を跳ね上げてセインの槍を跳ね飛ばした。
槍術経験者は道場で基礎を学ぶ際に突きの威力を増す為の「し(す)ごき」と呼ばれる動作を叩き込まれる。この「突きながら捻る」際に相手に近い側の「先手」の握りを弱め、逆に自身に近い方の「持ち手」で捻りを加えながら押し出す。極端に言えば、先手側の握りは突きの軌道がブレない為に「支えている程度」になるのだ。
マルクスはこの「しごき突き」の一瞬を狙ってその柄を下から跳ね上げた。そして跳ね上げた槍の穂先側をそのまま右手後ろ側で背中を追うように突きを出していたアミナに向けて繰り出す。
「きゃあっ!」
マルクスの背中を突こうとしたところで、相手が突然正面の「敵側」に突進した為に「空突き」となってしまったところへ、突然今度はカウンター気味に相手の穂先が飛んで来たのだ。アミナは仰天して声を上げ、後ろ側にひっくり返った。
左後ろ側から、やはりマルクスの背に向かって突きを入れていたインダも、セインに向かって前に出たマルクスを捉えられずに、つんのめってしまい……アミナを転ばせた槍の柄を両足の間に差し入れられて、やはり転倒させられた。
マルクスはそのまま素早く穂先を、自身の槍を飛ばされて呆然としてるセインの前に突き付けた。この間僅か数秒の出来事である。
「ま、ま……参った……参りました」
セインが両手を上げると、「いたたた……」と言いながらインダが起き上がった。マルクスはセインの前に突き付けていた槍の穂先を引っ込め、振り向いてまだ床に転がっているアミナを助け起こした。アミナは真っ赤になりながら「す、すみません……」とモジモジしながら呟く。
「そっ、それまで……!」
想像した以上の展開が一瞬とも言える数秒で繰り広げられた事に半ばショックを隠しきれないショーツ教官が、辛うじて「決着」を宣告する。
これまで何度か、別の戦技授業や考査でその「業前」を見ていた級友一同も、流石に呆然としている。最早その光景には槍術の経験者も例外では無かった。
これは言うまでも無く観覧席に座っていた一同……学校長も含めて6人の「大人たち」も同様であった。幼少時から60年近くに渡って槍術の修行を続けて来た軍務卿は思わず
「なっ……何だ……何が起こったのだ……」
と、やはり呆然としている。学校長もその後ろで辛うじて声に出す事はしなかったが
(まっ……まさか……!こ、これ程の「腕前」とは……)
声を出さないと言うよりも「言葉が出ない」という表現の方が適切な程に驚いていた。
「すっ……凄い……あの一瞬で……私には何が起きたのか……」
ロウ大佐も小さく震えている。武術に対しては全く造詣が薄いアラム大佐ですら
(な……何で後ろの2人は倒れたのか……?)
恐らくシエルグ卿以外の学校長を含めた5人には「マルクスが何をしたのか」という事すら理解出来ていないのだろう。
しかしこれはシエルグ卿ですらマルクスの動きを半分程度にしか捉えられなかったし、この出来事を至近距離で見ていたショーツ教官も、却って目で追えなかったようだ。開始の声を掛けた次の瞬間に「彼」の正面に居た生徒の得物が跳ね飛ばされ、後ろに居た2人の生徒が転倒させられたのだ。
戦技場は不気味な程に静まり返った。それは勿論、この場に居る者……1人を除いた全員が……彼に敗北した者達も含めて「今、目の前で何が起きたのか」を脳味噌をフル回転させて考えているからである。
そこには槍術の経験の有無など、最早関係無かった。この場に居る者の中で恐らくは最も「槍の遣い手」であろう軍務卿閣下ですら例外では無かった。
アミナを助け起こしたマルクスは、何事も無かったかのようにその場に佇んで教官からの指示を待っている。その視線に気付いて我に返ったショーツ教官が
「あ……う、うん……で、では通路に降りて休め……次の『班』は台上に上がれ……」
何とも気の抜けたような声で指示を出したので、漸くその場に居た生徒達も我に帰ると共に、たった今目の前で起こった出来事について近くの者達と話し合い出し、剣技台の回りはザワザワとし始めた。
台下の生徒達と同様に漸くにして我に帰ったエイチ学校長が
「どうやら……これが……『本当の戦技』と言うものらしいですな……」
と、辛うじて声を絞り出すと……シエルグ卿もやはり衝撃を隠しきれない様子で
「こっ……こんな……こんな武術が……こんな武術があってたまるか……」
これも喉の奥から振り絞るような声で呟いた。
アラム法務官は左隣に座るロウ大佐同様に、右隣に座る軍務卿閣下も小さく震えている事に気付くのであった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。自らが与り知らぬところで起きる騒動に対して頭を痛めている。身長190センチを超える長身。
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。
主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。
ゼダス・ロウ
54歳。軍務省人事局人事部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する法務官のうちの一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には判事の一人を担当する予定であった。
ロデール・エイチ
61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。
剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。
ベルガ・オーガス
30歳。軍務省憲兵本部所属の王都第三憲兵隊長。陸軍中尉。独身。
タレンの元部下で北部方面軍第一師団第二騎兵大隊第一中隊第三小隊長を務めていたが戦闘中の事故で右足に重傷を負い憲兵隊に転属。主人公による治療で右足が完治した後は士官学校常駐士官に就任。
嘗ての戦場経験者として白兵戦技授業改革派に加入する。
サムス・エラ
45歳。軍務省憲兵本部憲兵課長。陸軍中佐。元内務省警保局警務部所属。
王都において実質的に憲兵の実働を采配する軍務官僚でベルガの直接の上司に当たる。何かと小役人気質を見せるが職務に忠実。
リイナ・ロイツェル
15歳。女性。王立士官学校1年1組の級長で主人公の同級生。一回生席次3位。
《賢者の黒》程ではないが黒髪を持つ品の良い美少女。身長はやや低め。瞳の色は紫。
実家は王都在住の年金男爵家。四人兄妹の末娘で兄が三人居る。数学が苦手。
ケーナ・イクル
15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次10位。
王都出身。濃い茶色の短い髪にクリっとした目が特徴だが、ちょっと目立たない女子生徒。
主人公とは士官学校の入学考査の頃から何かと縁があり、クラスの中で最初に主人公に話し掛けた。
インダ・ホリバオ
15歳。男性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次25位。
南サラドス大陸の大国、アコン王国からの留学生。士官学校構内の学生寮を利用している。実家はアコン王国の名家で、剣闘士風の剣術と狩猟で培った弓術を嗜む。
セイン・マグビット
15歳。男性。王立士官学校一年一組の生徒で主人公の同級生。一回生席次52位。
主人公のすぐ前に座っている生徒。槍術経験7年。同門のホルプ教官を「槍術の達人」と評する。
アミナ・エリエ
15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次16位。
自らを「歴史マニア」と称する。
ハウル・ショーツ
30歳。王立士官学校教官。陸軍中尉。担当科目は白兵戦技(槍技)。二回生陸軍科2組担任。
通常の槍術よりも、むしろ騎兵槍術を得意とする戦技教官。本来の一回生槍技担当のホルプ教官の代わりに1年1組の最初の槍技授業を行った。騎兵出身のマーズ主任教官を尊敬している。