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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
81/129

経験が大事

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 トーンズ国首脳が揃って飛行船による初飛行を体験した翌日の朝……。


早朝の薬材採取に出発する三人娘を送り出したノンは、直後に上の階から降りて来た双子の洗顔を手伝い、更にいつもの時間に現われた店主と共に隣の役場へ朝食を摂りに向かった。


 いつも座る席に着き、士官学校の食堂で供されるような堅い物では無く、「ふわふわ」とした柔らかいパンを千切りながらノンは、主に恐る恐ると言った感じで尋ねた。


「あの……実は昨日、監督さんから頼まれた事がございまして」


「うん……?あぁ、そう言えば何か話し込んでいたな」


「はい。監督さんから『遠くが見えるようになる薬』や『暗い場所でも見えるようになる薬』が作れないかと頼まれたのです」


「薬……?つまり高貴薬か?」


「はい。高貴薬……?ですか?錬金術で作る薬には強い副作用が出ると……サナちゃんが言ってました」


「あぁ。そういう事か。サナの言う通りだな。高貴薬は副作用との戦いになる」


「あの……錬金術の薬はそんなに危ないのですか?」


「うーん。まぁ、副作用については考え方が色々あるからな……」


「色々?」


「お前や俺が作る一般的な医薬品にも副作用を起こす物は存在するよな?」


「え、ええ……」


「大抵の場合はその副作用よりも薬品自体が持つ薬効が大きい為に、副作用には目を瞑って使う事になる」


「そ、そうですね……。後はその副作用を抑える為の別の薬を混ぜたり併用させたりしますが……」


「そうだな。その考え方は高貴薬にも言える。副作用が出てしまうが、それを承知の上で使わざるを得ない程に大きな効果を、高貴薬には期待出来るからだ」


「私にはよく分からないのですが……やはり高貴薬というのは効果が大きいのでしょうか……?」


「まぁ……そうだな。確かに高貴薬の効果は大きいと言えるな。作成者の腕前にもよるがな……」


「え……?」


「つまり、一般の医薬品について言えば……同じ薬材を、同じ分量を使って同じ手順で製薬を行う場合、その工程と処理における作業熟練度の差は若干ながら影響するだろうが、結果として得られるその薬品自体の効能は、お前が作ろうがモニが作ろうが同じだけのものが得られるよな?」


「えぇ……まぁ、そうですね。条件が全く同じであればそうなるでしょうね」


「錬金術においては、それが異なってくるんだ。つまり術師……その高貴薬を作る錬金術師の力の差が、出来上がった高貴薬の効能に対して大きく影響を与える」


「え……?そうなのですか?それは、やはりあの……と……投射力でしたっけ?それが影響するのですか?」


「投射力も多少は影響するだろうな。高貴薬を錬成する際に錬金術はマナを『効能』という形に変質させるわけだが、それで得られた効果を目の前の薬材に対してどこまで『投影』できるのか……最終的にはそこに投射力も影響してしまう」


「投射力が中途半端にある錬金術師の場合、自身で投影まで成功させている効能が……ある割合で投射によって霧散してしまうから、投影前に想定していた薬効の半分しか反映されなかったりする……ようだな」


「で、ではサナちゃんとソンマ店長が同じ高……貴薬を作るとやはり効果に差が出来ると……?」


「普通に考えればな。しかしあの夫婦の場合は錬金術師としての素養では店長の方が上だが、薬学の知識に関しては今ではもうサナの方が上だろうから、素養の差を薬学知識が埋める事で、案外それ程遜色の無い高貴薬が作れるんじゃないか?」


「あ……そういう……薬の知識も影響するのですね?」


「俺の見たところ、むしろそちらの方が影響が大きいと思う。薬学の知識を持つ錬金術師の場合、薬効成分に対する理解や副作用に対する具体的な経験を持っている。

つまり店長夫婦の場合、高貴薬の効果と副作用のバランスを突き詰めると、最終的にはサナの作る高貴薬の方が評価は高くなるだろうな」


「まぁ!サナちゃんの作る薬はそれ程凄いものなのですね?道理で監督さんやイバンさんがサナちゃんに色々と聞いていたわけですね……」


 驚くノンに対してルゥテウスは笑いながら


「お前……そのサナから更に相談を受けているんだろう……?サナはお前の持つ力と知識の方が自分を上回っていると解っているからお前を頼ってきているんだぞ?」


「えっ……?でも私はそういう高貴薬なんて……作ったことすらありませんよ……?」


「お前が厄介なのは『錬金導師』という俺の記憶の中ですら前例の無い存在である割に、その能力を発揮する為に必要な知的好奇心と経験が絶対的に不足している事なんだ。

しかも……そんなポンコツなくせに薬学知識だけは今や俺に匹敵するようなレベルにある。お前はちょっと『知識の一部が尖り過ぎ』なんだ」


「そっ、そんな……」


 ノンは主から呆れ半分の評価を浴びて肩を落としてシュンとしてしまった。このやり取りの一部始終を同じ机で一緒に朝食を食べながら見ていた赤の民の双子が珍しく


「の、ノン先生はりっぱな人ですっ!」

「先生はすごい人だよっ!何でも簡単にお薬を作っちゃうんだからねっ!」


と、目を吊り上げて学問の師を擁護した。店主は珍しく慌て気味に弁解する。


「いやいやいや……。俺は別にノンを(けな)しているわけじゃないだろう……む、むしろ褒めているくらいだ……ぞ?」


 この時間……まだ役場の常駐職員達は朝食を食べに来ておらず、大抵はこの藍玉堂の店主と女店長、そして最近は肌の赤い双子の子供だけが配膳台の目の前にある机で朝食を摂っているのだが、今日はどういうわけか店主が双子から批難を受けてタジタジになっている様子を見て、厨房の中に居る者達も笑っている。


「わ、分かった。今日は帰って来たらお前の高貴薬作成を見てやるから……ひとまず店に戻ろう……」


バツの悪くなった店主は慌てるように立ち上がって食器を返却口に下げた。厨房の者達は相変わらずニヤニヤしており、店主はそれすらも察して余計に困惑した様子を見せた。


 まだションボリしているノンと、元気よく「ごちそうさまでしたっ!」と挨拶をして食器を返した双子もその後に続き、一行は地下へ続く階段へと消えて行った。


「珍しく店主様が困っていたな。ははは」


「そうだねぇ」


厨房の者達も、毎朝ほのぼのとした雰囲気の彼等を見るのが楽しみなのだ。


****


 士官学校では翌旬から開始される今年最後の席次考査の対象科目が発表され、座学に関してはやはりマルクスが予想していた通りの内容で、実習科目は槍技、剣技、弓技となった。


従って1年1組の科目割は12月13日が「地理」と「剣技」、翌14日が「槍技」と「諸法」、15日が「数学」と「絵画」、そして最終日の16日に「弓技」と「理科」が実施される事になった。


この科目割を担任のヨーグ教官から発表された1組の生徒は前回程では無いが興奮した面持ちになっている。4組の女子2人も、この科目発表を受けてお互い隣同士の席で顔を見合って驚いている。


 先旬の初めに彼等へと再び与えられた「あの御方のノート」は既に4組の女子2人を含む全員が筆写済となっており、今回はそのノートを使って今旬中は多くなるであろう自習時間に加えて放課後の大食堂でも考査試験対策が実施されるはずだ。


前回の考査では「ほぼ全員」順位を上げた1組が今回はどうなるのか……職員室の教官の間でも密かな話題となっている。


「どうやら1組の生徒は放課後に大食堂で18時まで全員一丸となって勉強会を開いているようですな……」


「ええ。私も見ました。他の勉強会の者達もぼちぼち集まっているようですが……1組は全員で取り組んでいるようですね」


「いや……『あの』ヘンリッシュは参加していませんぞ」


「あぁ……そう言えば……彼は見当たりませんでしたね……」


「前回の時もそうでしたが、彼はどうも協調性に欠けるのではないでしょうか?」


様々な感想が述べられる中、またしても「首席生徒」の評判が悪い。これは前回もそうなのだが、彼自身は成績は勿論、その授業態度にも本来は申し分が無いはずである。


 しかし、やはり常に無感情を前面に出した表情で、教官達も声を掛けにくい。こうしたところが……つまり「親しみが湧きにくい」という何とも理不尽な理由によって、このような場では謂れも無い「陰口」を叩かれる破目になるのだ。


勿論、そのような一回生を担当する教官達を眺めながら「彼を良く知る」シーガ主任教官は


(全く……この連中は選抜されて士官学校の教官として赴任しているのよねぇ……よくもこのような者達が抜擢されて来るものだわぁ……)


と……心の中で呆れている。それは離れた場所に座っている3回生主任教官であるタレンも同様であり、最近は特に士官学校の教育史そのものに若干の疑念が生じている彼は「教官の資質」についても考えるようになっている。


 昼食時間となり、大食堂の「いつもの場所辺り」に陣取る1年1組の生徒達は放課後の勉強会の事を話している。彼らが教室では無く、この大食堂を勉強会に使用するのは……各々の机が離れた置かれ方をしている教室と違い、この大食堂は長机と長椅子によってお互いが近い距離で自由に集まれるからである。


今回の対象科目については、絵画という「短期間の付け焼刃」ではどうしようもない教科が入っているので、座学としては実質的に4科目での勝負となる。そうなると、自然と各々で重点的に取り組みたい教科も違うので、その日によって大食堂内の机と椅子を利用して4科目に対して4つのグループが出来る事になる。


「絵画って……どんな感じの試験になるのかな……」


ナランが疑問を口にする。


「うーん……いつもの授業中みたいに……隣や前後の相手を描くのかな……?」


ケーナが応える。これまで何度かあった絵画の授業では、前後左右の級友の他に教室の外に出て構内の風景を描く事もしている。他の科目と違って不正行為の心配がほぼ皆無であるこの科目は、教室の外で実施する可能性も考えられるので最も内容に関しての想像が難しい科目でもあるのだ。


「絵は本当に苦手だよ……。俺は多分、再考査になる……そして再考査でもまともな絵は描けないかもしれない……」


 絵画の話題になり、自分の絵心の無さを自覚しているインダが不安を口にすると、珍しく隣に座る首席生徒が声を掛けて来た。


「その心配は不要だ。絵画の試験に関しては余程おかしな物を描かない限り再考査にはならない。つまり出題された対象物が描いてあれば基本的には大丈夫なはずだ」


「えっ!?そうなの?」


「うむ。出題される内容は毎回異なるがな。メイオス教官は従軍絵師として長い経歴をお持ちの方だが、所属が王都方面軍であった為に戦場画は殆ど描かれていない。恐らくは人物画を得意とされているようなので、試験の対象も人物画……それも普段の授業で多く実施している人相画になると思う」


「多分……俺の予想では1人の人物を全員で描く……モデルはそうだな……。教官殿ご自身か。自分自身を描かせる事で採点も楽になるからな」


マルクスは小さく笑い出した。


「えっ?教官殿の顔をみんなで描くって事?」


「多分、それが一番……教官殿にとっては採点しやすいのではないかな」


「そうなの?」


「各学級毎にモデルを別人にしてしまったら……難易度に公平性が無くなるのではないか?」


「あっ……なるほど」


「それに全員が自分の顔だけを描いているならば、自分の顔だけで採点が出来るだろう?採点の際にモデルになった者を全員集めていちいち見比べるのか?」


 マルクスの話を聞いて、向かい側に座る女子達も笑い出した。


「そうね……あはは。ヘンリッシュ君の言ってる事は間違っていなさそうだわ。それが一番簡単そうだものね」


「但し、気を付けなければならないのは……あくまでもこの絵画の試験も軍隊における描画能力を測られている事を忘れるなよ。とにかく写実的に……だ。そのように努力する方向で描かないと減点される可能性が高い。頑張って『似せるように』描くのだ。いいな?」


「ヘンリッシュ君は絵を描くのも凄く巧いですよね。何かコツでもあるのですか?」


 ケーナが真面目な顔になって尋ねて来た。彼女もどちらかと言えば絵を描くのが苦手であると自覚しているようだ。


「コツか……よく分からないな。子供の頃からよく草花の絵を描いていた事はあったな。それと『絵が上手い』と思う人の描いた絵をよく眺める。ここはどうやって表現しているのかとか……そういう先達の模倣も効果はあるのではないかな」


 マルクス……ルゥテウスの母であるアリシアは薬材や製薬機材の描写画を、ノートに多く遺していた。彼は封印が解ける前からその写実的に描かれた絵を眺め続けた事で、母の描画能力を引き継いだと言える。そして勿論……その能力の向上には彼独特の卓越した観察眼も作用しているのだろう。


この一見して全く隙の無さそうな美貌の首席生徒が、幼少時から絵を多く描いていたというイメージがどうしても浮かばず、一同は困惑したが……やがてそれを想像すると可笑しくなったのか、あちこちで笑いが起き始めた。


「とにかく俺は……出来る限り頑張って絵を描いてみますよ。真剣に描けば再考査にはならずに済むのなら、いくらでも描きます」


「まぁ、今は苦手かもしれないが3年も授業を受ければ少しは描けるようになるのではないか?

そもそも絵画の授業が士官学校で採用されているのは、描画力を上げる他に、『観察眼を養う』という目的があるからな。特徴だけでも掴めていれば何かしらの評価は貰えると思うぞ」


「そっ……そうなんですか?」


「とにかく、メイオス教官殿も仰られていただろう?試験時間は2時間あるんだ。時間を目一杯使うくらいで自分なりに丁寧に仕上げてみろ」


「うん。そうしますよ。何だか希望が湧いて来ました」


インダが笑うと周りの同級生達も一緒になって笑い出した。絵画の科目は意外にも他の者達ですら苦戦を予想していたようだ。


「重要なのは写実的に……そして『似せる努力』だ」


 そう言うとマルクスは食べ終わった食器を持って席を立ち、食器を返しに行くとそのまま廊下に消えた。


「あの御方は……あれで絵まで上手いって……何か欠点はあるのかな……?」


教室の座席位置の関係で、恐らくはこれまでの絵画の授業で彼に一番似顔絵を描かれているニルダが呟くと、他の者達も唸るだけであった。


 次の旬……考査3日目の午後に実施された絵画の試験では彼の予言通り、絵画担当であるナテル・メイオス教官を取り囲むように机を並べ直した上で……彼の人相画を描く事になり、この展開を見事に読み切った首席生徒に対して同級生一同は改めて彼への畏怖を新たにした。


****


「おかえりなさいませ」


 今朝の一件があったのか、ノンの表情が冴えない。


「うむ。ノン。これから出掛けるぞ」


店主が一方的に言い渡すと、彼女は流石に機嫌を損ねている場合では無いのか驚いて


「えっ!?」


「『暗い場所でも見える薬』を作るんだろう?お前は『暗い場所でも良く見える体験』をした事があるのか?」


「暗い場所……ならば真っ暗でしょうから……」


「まぁ、普通はそうだな。お前は『暗い場所で良く見える』という体験をした事が無いだろう?」


「ええ……はい。暗い場所では見えないでしょう……?」


何やら無限に続く問答になりかけたのでルゥテウスは笑いながら


「いや、だからその暗い場所でも良く見えるようになる高貴薬を監督に頼まれたのだろう?」


「あっ、はい。そうでした。暗い所でも見えるとは……どういう事なのでしょう」


「うむ。お前はそれを体験する必要がある。だからこれから『暗い場所』に出かける」


「暗い場所?」


「隣の大陸はもう夜だからな。サクロは街灯で明るいが、照明の無い場所は暗いはずだ。今日は7日だから……月は半分くらい出ているが十分に暗くはなっているだろう」


「な……なるほど」


 ルゥテウスは今一度作業場に戻り、今日も三人娘と共に回復薬を作っているサナに


「俺はこれからノンを連れて隣の大陸に行ってくる。夜飯の時間までには戻るから店番を頼むぞ」


「え?ノン様だけお連れになるのですか?」


「あぁ。お前と監督がノンに暗視薬の製造を頼んだのだろう?」


「あっ!はい。そうです。ノン様なら副作用の少ない暗視系の目薬を錬成できるのではないかと思ったのです」


「その考えは悪くないが、こいつの場合は『暗い場所でも良く見える』という状況が理解出来ていないのだ。こいつは自分が理解出来無いものは錬成出来無い。

お前達と違って『それを可能にする触媒があるから』という手掛かりなどが全く無い。自分自身でその事象を認識するなり……場合によっては理解しないと力を行使出来ないのだ」


「そっ……そうなのですか……?」


「だからまずは暗い場所に連れて行って、暗視体験と遠視体験をさせるしかない」


「なるほど……分かりました。こちらの事はお任せ下さい」


「済まんな。それでは頼む。よしノン。行くぞ!」


「えっ?」


 ノンはまだ心の準備が出来ていなかったが、ルゥテウスが彼女の右手を掴んだ瞬間に作業場に居た一同の目の前から姿を消した。店主が突然目の前から姿を消すのはこれまで何度もあったが、ノンまで一緒に消えたので三人娘や双子も驚いた。


「さぁ、瓶詰めを終わらせてしまいましょう」


最近はチラやアトも手伝うようになった回復薬製造の最終作業を皆に指示しながら


(お二人だけでごゆっくりどうぞ……ふふふ……)


サナは笑いがこみ上げて来るのであった。


****


 2人が飛んだ先は既に夜になっている場所であり、本来であれば前述の通り12月7日で夜空には半分に欠けた月が浮かんでいるはずなのだが、「今夜」の天候は「曇り」のようで、降雨は無いが分厚そうな雲が夜空に掛かっているようであった。


月や星の明かりも無く「闇夜」である事にノンは不安になり、無意識に……彼女の右手を離した店主の腕にしがみついた。


「こっ……ここは……ど、どこでしょう?」


「ここか?ここは隣の大陸……場所はそうだな……昨日の飛行船で飛び立った工場から西に50キロくらいかな……。一応ここはまだトーンズ国の勢力地域内だ」


「なっ、なるほど……く、暗いですね……何も……何も見えません」


「そうだな。俺も殆ど見えないな。どうやら天気が悪いんだろう」


「こっ、これからどうするのですか……」


「ふむ。ここにお前を連れて来たのはな……。『暗視』という状態がどういうものかを、お前に経験させる為だ。さっきもサナに説明しただろう?」


「は、はい。あの……この何も見えないくらい暗いのに、見えるようになるのですか?」


「そうだな。とりあえず明るく見えるようにするぞ?」


そう言うと、ルゥテウスはノンがしがみついている反対側の腕……右手を振った。


「ええっ!?」


ノンが悲鳴に近い声を上げた。どうやら魔導が掛かり、周囲の光景……エスター大陸ではよく見られるひび割れた地面と、多少の岩石が転がる「荒野」の光景が、まるで「昼間のように」見えたのだ。


「これが『明視』……と呼ばれる()()だ。お前にも多分、昼間のように周囲が見えているはずだ」


「……は……はい……」


 ノンはまだ驚きのあまり声が上手く出せない。彼女は当初、これは「明視」では無く……主が何か特殊な方法で、「夜を昼に変えた」のかと思ったのだ。それくらいにルゥテウスの使った「明視」魔導は効果が高いものだったのである。


「あ、あの……いっ……今はまだ……夜……なんですよね?」


「そうだな。別に移動もしてないからな。今も夜のままだぞ?」


「でっ、でも……まるでお昼のような明るさです……」


「そうだな。もう一度言うが、これは『明視』という魔導だ。魔術にはこのような昼間のように明るく見えるようにする事は出来無い。触媒が無いんだ」


「えっ!?つまり……魔術師の人はこの『魔法』を使えないのですか?」


「そう言う事になるな。これは『暗視』では無いからな」


「どっ、どう言う事なのです?あ、暗視とは違うのですか?」


「うむ。説明してやろう。お前が監督に……まぁ、厳密には監督が相談したサナの提案で頼まれた『暗視薬』の『暗視』というのはな……具体的には視神経の機能を増幅する事で普通ならば感じ取れないような『見えない光』を見えるようにするという事を指す」


「え……?み、見えない光……?」


「うーん。説明が難しいか。では実際に今度は『暗視』をかけてやる」


そう言うと、ルゥテウスは右手を振った。すると今度は昼間のような光景が消えて、暗くなった視界に何か薄ぼんやりとしたものが映り込んで来た。暫くするとどうやら目が慣れたのか、全体的に緑掛かった視野の状態に変わった。


「これは……ちょっと見えにくくなりました」


「そうだな。これが『暗視』と呼ばれる状態だ。この場所は本来は夜で、しかも今夜は空が曇っているから月明りや星明りすら無い闇夜であるはずだな」


「はい……。最初にここへ来た時は真っ暗で何も見えませんでした」


「お前の言う『真っ暗で何も見えない』という状態は人間の視覚……つまり視神経では感知出来る光源が無い為に『何も感じない』という状態だったんだ。分かるか?」


「い、いえ……その……あまり……」


「では、これでどうだ」


 ルゥテウスは右手を振って小さな笛のような金属の管を取り出した。そしてその管に口を咥えて息を吹き込む……ように見えているがノンには全く音が聞こえない。本来であれば口から吹き込んでいる反対側から何かしら空気の洩れる音くらいは聞こえても良さそうなのだが……聞こえないのだ。


「何か聞こえたか?」


「え……?いえ、何も聞こえませんでした」


「そうだろうな」


 主はニヤニヤしながら再度、同じ管に先程と同じように息を吹き込んだ。但し今度は管の反対側の一部を軽く指で塞いでいる。


―――ヒョォォォ


今度は空気が漏れるような音がした。笛のような明確なものでは無く、ノンも上手く出来ない口笛を「吹き損なったような」締まりの無い音だが、確かに聞こえる。


「今のは聞こえたな?」


「はい……えぇ。空気が漏れたような音が……」


「実は最初の聞こえなかった時も『音』は出ていたんだ」


「えっ?そ、そうなのですか?」


「そうだ。但しそれは人間では聞き取れない程に『高い』音だったんだ。人間の聴覚では感じ取る事が出来ない……が、確かに音は出ていて他の動物には聞こえているかもしれない。これは動物によってまちまちだ。

例えば……そうだな。犬や猫、馬であれば今の最初の音がギリギリ聞こえるだろうな」


「人間は高い音を聴くのが苦手なのです?」


「うむ……人間は今言った動物とは逆に『低い音』が聞き取れる範囲がやや広い。その辺りは種族によって一長一短ある。そしてそれは『視覚』でも同じ事が言える」


「視覚……目で見えるものが……という事ですか?」


「そういう理解でいいだろう。お前が暗くて見えないと思っているこの暗闇の世界にも、様々な『波長』が通っている。その中でも人間の視神経で感じられる……『見える』波長を『光』と呼んでいる。

つまり『暗視』と言う魔法は……この『光』として見えない波長を、『視神経を増幅強化』する事で強制的に感じさせる……見えるようにする魔法だ。

まぁ、どうしても理解出来無ければ……『人間には見えない暗さも見えるようになる』という風に考えてもいいぞ」


最後は苦笑しながら店主が説明すると、ノンも曖昧に頷いた。


「話を先に進めると、魔術師が使えるのはこの『暗視』だ。そしてそれの効能を高貴薬……通常ならば点眼薬状にしたものが『暗視薬』となる」


「なるほど……目の神経を強化するのですね?」


「そうだな。視神経の機能を改変して『人には感じられない波長』を感じられるようにする。それが『暗視』の仕組みだ」


「今のように全体的に緑色になるのですね?」


「いや、この暗視にも術者の加減によって『見え方』が変わって来る。俺が今この暗視による視界を『緑掛かったもの』にしているのは、緑という色が人間にとって『見やすい』色だからなんだ」


「え?『緑にした』と仰いましたが……他の色にも出来るのですか?」


「勿論だ。ほら」


 ルゥテウスが右手を振ると、緑色を基調としていた視野像が白と黒のものに変わった。ノンは驚いて思わず「ああっ!」と声を上げてしまった。店主はその様子を見て笑いながら


「白黒だと目が疲れやすいんだ」


「なるほど……確かに疲れやすそうですね……」


再びルゥテウスが右手を振ると視野が再び緑を基調とした色合いに戻った。


「あっ……本当ですね。緑の方が見やすいのですね」


「暗視はこのように暗い場所でも周囲が見れるようになる。確かに便利ではあるが……いいか、ちょっと気を付けろ」


 ルゥテウスは目の前に小さな火を作り出した。


「ああっ!?なっ、何ですかこれは!」


「これが暗視の弱点だ。暗い場所を見るには適しているのだが、『普通に見える発光体』に対して強化された視神経が過剰に反応してしまうから……このように白く色飛びしてしまうんだ」


「なっ、何も見えません!」


ルゥテウスが火を消してもノンの視界は暫くの間、回復せずに白一色に包まれていた。数分すると漸く元の暗視状態に戻ったようだ。


「色々と難しいのですね……」


 瞼をパチパチと(しばたた)かせてノンが感想を述べると、主は


「回復するにも時間が掛かる。暗視という魔法が使いにくい理由はこれなんだ。感光レベルを下げる事で今のような視界が白く飛んでしまう状態をある程度は緩和する事が出来るが……根本的な解決にはならない。これが暗視の弱点……薬で言うならば『副作用』だな」


「あ……なるほど。副作用とはこういうものを言うのですね?」


「仮に今のように魔法による暗視力付与であるならば、その魔法効果を術者が取り消せば一応は暗闇に戻るが……対処は出来る。しかし高貴薬の場合……その薬効が切れるまでは暗視状態が続くから、いざと言う時の対応が難しくなる」


「えっ……では『暗視薬』を作る利点は……作る意味が無いのでは?」


「いや、これは高貴薬全般に言える事だが……同様の効果を持つ魔術とはまた違うメリットはある」


「まずは簡単な事だ。魔法が使える者が居なくても、その効果を受ける事が出来る。錬金術師が作る『錬成品』は基本的にこの事一点において存在意義があるんだ」


「……あぁ!そ、そうですね……暗視の魔法が使えない人でも暗視効果が得られる……そうか……当たり前の事でしたね。済みません……すっかりそれを忘れていました」


ノンにしては珍しく苦笑した。そもそも彼女はルゥテウスという強大な魔導師がいつもそばに居るので魔法がもたらす様々な超常的恩恵に対して免疫が付き過ぎているのだ。


 本来であれば北サラドス大陸では最底辺の扱いを受けていた難民達にとって、ソンマという錬金術師が1人誕生しただけでも大きな事変であり、彼がキャンプの中で暮らし始めただけでも、長期的に見れば難民達の生活に大きな変革を起こせただろう。


しかしそれだけに留まらず、彼ら難民は「黒き賢者」という史上最強の魔導師を得た事で、錬金術以上の「恩恵」が身近なものになってしまった。

ノンはその中でも最たる者で、魔法という存在自体に対してすっかり感覚が麻痺してしまっていた。


「ふむ。他にも利点は多く存在する。使用者は錬成品を使用する際に詠唱などを必要とする事無くその効果を瞬時に得る事が出来る。

例えば今使っていた暗視の場合、恐らく魔法ギルドの魔術師が使おうと思ったら、それなりにマナの制御が必要となるからチラやアトがやっているように詠唱や魔道具による誘導などが不可欠だろうな」


「俺とお前は力を使うのに『無詠唱』でやってしまうから気付きにくいが、普通の魔術師や……まぁ魔導師も含め、魔法の効果を得る為にそれなりの時間を要するのだ。

錬金術にしてもそうだ。錬成品を使う時は即座にその効果を得られるが……それを製作する際には彼ら錬金術師もマナの制御の為にそれなりの時間を費やしているんだ」


「なるほど……」


「そしてこれは特に我々に限定した話になるが……高貴薬を使用する場合、マナや魔素の痕跡を残さない。つまり高貴薬を飲んだり塗ったりする分には魔法ギルドの奴等にそれを感付かれる事が無い」


「あっ……そ、そうなのですね……?」


「術符の使用は使用した瞬間に投射が起きるから、その際にマナを動かしてしまう。だから魔法ギルドに感付かれる危険があるが……高貴薬についてはその心配が無い。恐らくこれが一番のメリットだな」


ルゥテウス自身……高貴薬が持つこの特性によって、恐らくではあるがナトス・シアロンが一服盛られていた「魅了薬」の存在を見破る事が出来なかった事は記憶に新しい。


「えっと……つまり高貴薬というのは、投射が起きないのですね。それはつまり……効果が得られるのは使った人だけだからという事ですか?」


「まぁ、そう考えてもいいな。あくまでも使用者自身にしか作用しない。これも高貴薬の特徴だ」


「あの……それで高貴薬というのは具体的にどういう材料が必要なのですか?」


「俺の知っている限り、錬金術師の連中は既存の医薬品に対して効能を上乗せするような作り方をしているようだぞ。恐らくは副作用を抑えるという意味でやっているんだと思う」


「ルゥテウス様はどうされているのですか?」


「俺か?俺は特に……何も……いや、水くらいかな?」


店主は笑っているが、ノンにとっては衝撃的な話だ。


「みっ、水……?水って……あの……地下から汲み上げている、お水ですか!?」


「そうだな。ウチの薬屋だと蛇口を捻ると出て来る……『あの』水だな」


「ほっ、本当に……お水だけで造れるのですか……?」


「ん?そうだな。俺はこれまで何度か高貴薬……まぁ、魔導によって錬成した薬品には特別な材料は使っていないぞ。使用者が『飲用』する事を考えて、水を基にして魔導を込めているだけだな」


「そっ……そんな……」


「俺が作る薬には薬効に対する副作用は起きないからな。そもそも錬金術師が作っている『高貴薬』とも異なるものかもしれない」


「そ、そうなのですか……」


「確信は無いが、多分……お前も俺と同じ物が作れると思うぞ」


「え!?」


「そりゃそうだろう。これまでの事を思い出してみろ。お前は『錬金魔導』をイメージの投影で行使しているじゃねぇか」


「そ、そうなのでしょうか……」


 頭の中が混乱してきたノンが相当に困惑した表情を見せ始めたので


「まぁ、今はそれ以上考えるな。後で実際に作る時に悩め。とにかく『暗視』については理解したな?要は視神経を強化して、本来見えない波長をも光として感応できるようにする。それが『暗視』の仕組みだ」


「はい……。えっと……但し感度が強くなり過ぎて?……明るい光を出す物があると先程のように白くなってしまって……全く見えなくなるんですよね?」


「そうだ。だから実際はそれほど使い勝手が良い……というわけでは無い。特に高貴薬の場合だと効果の『入り切り』がコントロール出来無いからな。一般的には魔術師が使う事が多い。魔術であれば『取り消し』が出来るからな。修練次第だが」


「な、なるほど……」


「そして最初に使った触媒の関係で魔導にしか存在しない『明視』だが……」


ルゥテウスは右手を振った。再び「明視」が掛けられてノンの視界は昼間と変わらない明るさを感じるようになり驚いたが、「理系女子」の本能なのか……主に疑問をぶつけてみる。


「あ、あのこれは……この、めいし……?はどういう仕組みでこのように見えるのですか?明らかに暗視とは違いますよね?」


「そうだな。この明視については暗視と違って『身体強化術』では無い。これは瞬間移動や転送術と同様に『空間制御術』に属する。つまり、対象の者の視神経にでは無く、その者が『見ている空間』に対して干渉を起こしているんだ」


 またもや主の難解な説明に突き当たってノンは眉間に皺を寄せて考え込んだ。


「暗視はお前がさっきから理解し掛けているように、『見えない波長』を見えるようにしているのだが、明視の場合はお前が見えている今の視野空間に対して『無理矢理明るく』していると思っていい」


「え……?」


「そうだな。もっと簡単に言えば、お前が今見えている景色から『暗さ』を取っ払っている。『明るく見える』から『明視』だ。そう理解しろ」


「あ……明るく見える……。た、確かに……明るく見えてますね……お昼のようです」


「繰り返すがこれは空間に対して『無理矢理明るく』しているだけなんだ。まぁ、その『だけ』ってのが難しいんだけどな」


「難しいのですね?」


「そうだな。元々は空間制御系の魔法は数ある魔法の中でも特に難易度が高い部類に入る。店長も言ってただろ?瞬間移動や転送術は魔術師や錬金術師では難しいと」


「あ、はい……そのように仰ってましたね。確か……魔法ギルドの魔導師様でも大変なのですよね?」


「そうらしいな。俺の記憶にある……いつの時代の魔導師や魔術師も、そうそう簡単に使っていた奴は居ないな」


毎度息をするかのような気軽さで瞬間移動を多用する店主は苦笑しながら言った。


「あの……それではこの明視?もやはり魔法ギルドの魔導師様でも……」


「どうだろうな。俺には『これ』の難易度が正直分からない。俺自身はそれほど難しいとは思っていないがな」


「そ、そうなのですか……」


「しかし、お前なら……出来るかもしれないな。俺自身、試した事は無いが……この明視を薬品にする事は可能だと……思う」


「え!?そうなのですか?」


 散々この明視魔導についての敷居の高さを説明された挙句に「お前にも出来そうだ」と言われてノンは驚いた。


「もうこの明視を体験したお前ならば、いつもの『イメージの転写』によって同じ効能を付与出来るのではないかと思う……んだよな」


確信するまでには至っていないが、これまでの経験からの推測としてルゥテウスはノンの錬金魔導が、術者である彼女の『経験』が鍵になるのではないかと思っている。


 彼女の場合、初めのイメージに時間を要するのだが……1度成功してしまえばルゥテウスまでとは行かないが、数秒もあれば結界も領域すらも展開させたり導符作成まで行えてしまう。


ルゥテウスは彼女を口では「ポンコツ」と言っていたが、実は術師としての資質はかなり高いのではないかと思っているのだ。


「いいか?この……『昼間のように見える』という感覚。この暗闇でも関係無く明るく見える感覚を忘れるなよ」


「はっ……はい」


「よし。では、ついでに『遠くを見る体験』もしておくか。俺に掴まれ」


「えっ?」


 ルゥテウスはノンの返事を待たずに左腕で彼女の腰の辺りを抱き寄せ、そのまま宙に浮き始めた。


「えっ!?あっ!あのっ!」


「しっかり掴まっていないと落ちるぞ」


主から脅かされたノンは慌てて両腕で主の首にしがみ付いた。突然の事でドキドキと胸の鼓動が高鳴り始めた。


 視界に明視が効いたままの状態でルゥテウスはノンを抱えたまま300メートル程の高さまで飛び上がった。


「まぁ……この辺りは一面の荒野だからな……。この高さまで上がっても何の変哲も無い景色だな」


主は殺風景な景色にボヤいているが、ノンはそれどころでは無く……主の首筋にしがみ付いたまま


「あのっ!ちょっ!」


軽いパニックを起こしている。


「落ち着け。暴れると落ちるぞ」


「はっ……はい……」


「大丈夫だ。暴れなければどうと言う事は無い。せっかく明視も掛かっているんだ。景色を……まぁ、こんな景色だが楽しむがいい」


 主にこれ程密着しながら、これだけの高さ……足下には何の接地感も無いので景色を楽しむどころでは無いのだが……ノンはひとまず自身に落ち着くように言い聞かせながら周囲を見回した。


方角など全く判らないのだが、どうも目を向けた方向の地平線近くに……森のようなものが見える。


「あっ、あの……あちらに森のような……」


「あっちは南だな。ちょっと行ってみるか」


 そう言うと、ルゥテウスは高度を300メートル程度に保ったまま……南の森林部に向かって移動を始めた。


ノンは昨日の昼間に飛行船に乗り込んで、生まれて初めて「空を飛ぶ」という体験をしたのだが……主に抱えられての飛行速度はそれを大きく凌駕しており、眼下に広がる荒野の景色が目に止まらない程の速さで後ろに流れて行く。


15分程経っただろうか……。先程まで地平線の辺りに見えていた森林がまるで緑色の絨毯のように広がる光景を見て、ノンは息を飲んだ。


「ここは……多分トーンズと南方のテラキア……だったかな?ちょっと大きな国との境界辺りだと思う。この森林地帯が両国を隔てる緩衝地帯になっているはずだ」


「やはり……戦争ばかりしている国なのでしょうか……?」


 難民出身であるノンだが、彼女は自分が何世代目の難民なのか分からない。どうやら両親も北サラドス生まれらしかったので、当時としては稀な3世代目だったのかもしれない。

キャンプが作られる前のエスター大陸からの戦時難民は、それ程までに苦しい境遇下に置かれていたのだ。


いずれにしても、彼女の先祖もやはりこの大陸の戦乱に巻き込まれ、敵対国家からの……時には自国の兵士からも略奪を受けながら、西のアデン海へ命からがら漕ぎ出した事を思い、もの悲しくなるのだ。


「この国は珍しく、それほど好戦的では無いらしいのだが……蛮族である事には変わりないようだ。南方からも難民は途切れる事無く国境を越えて来るようだからな」


「そうなのですか……」


 南側の国境地帯であると言う森林上空を更に南に進みながら、南方の大国について説明するルゥテウスは、不意に進行を止めてその場に「領域」を展開した。


周囲が明視による昼間のような明るさから、主の領域特有の薄緑色の明るさに変わった事で驚いたノンが


「ど、どうされました?」


と尋ねると……主は進行していた方角を見つめながら


「魔物が居る。飛行種だ……。どうやら夜行性らしいな。夜行性猛禽類かと思ったが……あの大きさと形状は間違い無く魔物だろう」


「ええっ!?」


「クソっ。どうやら低く飛び過ぎたな。これくらいの高さだと奴等の棲息高度と重なるのか」


「よし。視界を戻してやろう」


そう言うと、ルゥテウスは右手を振った。すると彼の領域特有の薄緑色の明るい光から、先程まで見ていた普通の晴れた昼間の空のような視界に戻った。どうやら領域を解除して、通常の結界を張り直した上で再び明視魔導を掛けてくれたようだ。


 ルゥテウスが見付けた魔物は、まだ数キロ先を飛行しているようで……ノンの目にはまだ何も見当たらない。


「どっ、どこに居るのですか?」


「よし。では『遠視』を重ね掛けしてやる』


 主が再び右手を振る。するとノンが見ていた足下に広がる森林の木々が、葉の一枚一枚まではっきりと見えるようになり……彼女は驚きの余り、今まで主にしがみ付いていた両腕を離してしまって、あわや転落しそうになった。


しかし実際はルゥテウスが彼女の腰をしっかりと左腕で抱き抱えていたので転落する事は無く、慌てて主と自身の顔がくっ付く事にも構う事無く彼女は再びルゥテウスの首筋にしがみ付いた。


「気を付けろよ。お前はまだ空を飛んでいるのだからな」


頬がくっ付いている事を気にするような様子も見せずに、主が注意するのへ


「すっ、す、済みません……と、突然……木が近くに……」


申し開きをしながら、顔同士が触れ合っている事に気付いたノンが慌てて顔だけを離すと


「いいか?今お前の視力を5倍に引き上げた。これが所謂(いわゆる)『遠視』という魔法だ。これは特に難しいものでは無く、錬金術師も高貴薬として『遠視薬』とか『千里眼薬』等と言う名称で作成する事がある」


「こ、これが……遠視ですか……」


「ほら。こっちの方向だ。分かるか?」


 ルゥテウスが空いている右手で、ノンの頬を軽く掴んで南南東の方角に向けると……突然ノンの視界に何か「黒い物」が入った。思わず「きゃあっ!」と悲鳴を上げたノンに対して


「見えるか?あれが魔物だ。距離は約8キロと言ったところか。こっちは結界を張っているので、奴からは俺達の存在には気付いていないはずだ」


「あっ……あれが……魔物……」


 ノンは生まれて初めて「魔物」と呼ばれる存在を目にした。その姿は……初めて見る彼女でさえ「異形」に思えた。見た目は蛇だろうか。蛇のように手足が無く縄のように細長い……具体的な大きさは不明だが、その蛇のような胴体に、これまた不格好な翼が一対生えていた。


翼は胴体の丁度中程辺りから生えており、敢えて言うならばその翼が「それ」の腕に見えない事も無かった。何しろ、その翼の先端には鉤状の爪が一定の間隔でそれぞれ3本ずつ生えているように見えた。


「どっ、ど、どうするのですか……?」


「遠視」の魔導効果によって、見たくも無い飛行種の魔物を……まるで目の前で見ているかのように目にしているノンは怯えた様子を見せながらも、その姿から目を離す事が出来ずに震える声で主に尋ねた。


「どうするって……このままやり過ごすさ」


「えっ!?このまま何もしないのですか?」


「そうだな。奴を倒すのは簡単だが、この位置からでは魔法による攻撃しか選択の余地が無い。そうすると魔導を使用した瞬間に他の魔導師……特に魔法ギルドの2人に気付かれちまうな」


「あっ……なるほど……」


「そうさせない方法もある。例えば『あれ』に接近した上でその身体ごと結界の中に引っ張り込んで、その中で殺すとかな」


「ち、近付くのですか?」


「そうだな。ここから遠視で見ている分には気付かないかもしれんが、実際に奴の体長は10メートルを超えているはずだ」


「ええっ!?そっ、そんなに大きいのですか!」


 ノンは魔物に対する恐怖よりも、主から聞いたその「(おお)きさ」に驚いた。ここから……遠視で見ている分にはせいぜい……2メートル程度だと思っていたのだ。


「蛇のような胴体の長さが10メートル強、あの鉤爪の生えている皮膜状の翼が差し渡し8メートルくらいか。鉤爪の大きさだけで長さ40センチはあるぞ」


「そ、そんな……」


「但し、ああ見えて体重は100キロあるか……空を飛ぶ為に進化した結果として骨格も肉付きもスッカラカンになったようだな」


「るっ、ルゥテウス様は……あの魔物の、その……骨や肉を見た事が?」


「ああ。あの魔物は一応『トビシマカガシ』という名称で呼ばれているんだ。奴の肺……片肺は退化しているんだが、残っている方が身体強化術の触媒として使われる」


「そ、そうなのですか?」


「水中呼吸術だったかな。高貴薬作成時の触媒にもなるから、一応それなりに魔法世界ではお馴染みの魔物だ」


「まぁ、水中呼吸という魔術自体がそれほど使用機会も無いからな。沈没船や海上遭難者の捜索だの海棲魔物退治だの……海軍ではそれなりに需要があるのかな」


「な、なるほど」


「さて。『遠視』の効果は分かったか?」


「あ、はい……。これもその……熟練する程に遠くの物がもっと良く見えるとか……?」


「そうだな。修練次第では何百キロ先の物まで見えるようになる」


「そっ、そんなにですか!?」


「但し、この星は丸いからな。通常の人間の身長……その目線の高さでは精々地平線よりも手前……7、8キロ先までしか見えない。今のように高度を上げて使わないと、それ程劇的な効果は得られないな」


ノンはこの時代の一般的な人々と同様に「星が丸い」という感覚を持ち合わせていない。なので「地平線まで精々7、8キロ」と説明されても、まずそれが理解出来無いらしく……主の説明に対して曖昧に頷くしか無かった。


「よし。では一旦帰ろう」


ルゥテウスはそう宣言すると、右手を振った。2人はそのまま夕暮れの藍玉堂2階に瞬間移動した。


 いつもの「自宅」に戻って来たノンは、主の首筋にしがみ付いたままであった事に気付き、慌てて身を離しながら顔を真っ赤にした。


「すっ、すみません。そっ、その……ありがとうございました……」


俯いたままでシドロモドロに礼を述べるノンの様子にルゥテウスは苦笑しながら


「礼を言うのはまだ早いだろうが。今体験して来た事を活かして薬を作るのだろう?」


「あ、はい……そうですね……」


「とりあえずお前は「暗視」と「明視」、そして「遠視」を体験したわけだ。それぞれの特性は掴んだな?」


「はい。暗視は見えない……は、波長?でしたっけ?を目の神経で感じるように出来る……と言う事で大丈夫ですか?」


「まぁ……その理解でいいだろう。細かく仕組みを説明しても解らないだろう?お前の場合は『そういうものか』という程度で十分だと思う」


店主は苦笑する。その様子にやや不安を感じながらもノンは


「明視は……確か……目に見える、本当は暗い空間……?を明るくしているのですよね……?」


「そうだ。難しい事は考えるな。無理矢理明るくしている……という風に理解しろ。暗い場所を無理やり明るくしている。そういうイメージだ」


「えっと……魔導師様しか使えないのですよね?触媒が無いそうで……」


「うむ。まぁ、お前にとってはあまり関係の無い話だがな。しかし本来、錬金術のように物品に変質させた魔素やマナを投影する事が難しい魔導師だけが使えるものであるだけに、これまでの歴史上……この明視の効果を体験している者は、魔導師本人以外には殆ど居ないだろうな」


「あっ……そう言う事になるのですね。『明視薬』という物は無かったのですね?」


「そうだな。俺の記憶では俺も含めて先祖も作っていないな」


「作るのが難しいのですか?」


「いや、単純に自分で使うだけなら魔導を使えばいいだけだからな。明視の力を他人に体験させたのは……恐らくお前が初めてだと思う」


「えっ!?」


「有史以来……つまり大導師が魔導を『発見』してから、これまで出現した魔導師は何千人くらいにはなるだろうが……全員が全員この明視という魔導を使えたわけじゃ無かったんだ。

お前にはいつも言っているが、ショテルが発明してから学術という側面を持っていた魔術や錬金術と違って、魔導師には『導き手』が存在しない事が多い。

いつの世も……多くの魔導師は自分自身でその可能性を探らないといけない運命にある。『事の善悪』など考えているような場合じゃ無い奴が大半なんだ」


 店主の表情には苦笑とも哀愁の笑みとも言えない……何か寂しそうな感情が浮かんでいた。「師が居ない」という状況下で……大半の魔導師は孤独に自分の領域内に引き籠って、手探りで知識の探求だけの生涯を送る。


時折その不安に押し潰された者が社会秩序に挑戦するかのように暴走し、討伐の対象にすらなってしまう。同時代の誰からも理解される事無く……彼らはそれでも「自らの可能性」を追求する事を止めないのである。


そのような歴史の中で、賢者の血脈……それも「変質させた魔素やマナを物質に留める」という現象を発見したショテル以降の「賢者の知」の持ち主だけが可能としていた「魔導の錬成」を実行出来る者が出現した。


 ノンには幸いな事に、その力を与えてくれたのが……史上最強の賢者であり、賢者の頭脳には33000年分の知識の蓄積があるのだ。


自分の代でその血脈を断絶させるつもりであるルゥテウスは、図らずもその力の一端を分け与えてしまった彼女に……「賢者の居ない未来の可能性」を見ていた。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。

王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。


ノン

25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。

肉眼で魔素が目視できる事が判明した為、「錬金導師」として修行を始める。


サナ・リジ

25歳。ソンマの弟子で妻でもある。上級錬金術師。錬金術の修養と絡めてエネルギー工学を研究している。

最近はノンに薬学を学びながら、高貴薬作成を得意としているが最近はもっぱら夫であるソンマの手伝いをしている事が多い。


****


リイナ・ロイツェル

15歳。女性。王立士官学校1年1組の級長で主人公の同級生。一回生席次3位。

《賢者の黒》程ではないが黒髪を持つ品の良い美少女。身長はやや低め。瞳の色は紫。実家は王都在住の年金男爵家。四人兄妹の末娘で兄が三人居る。

数学が苦手で、それを克服する為に「一回生数学勉強会」に加入する。


ケーナ・イクル

15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次13位。

王都出身。濃い茶色の短い髪にクリっとした目が特徴だが、ちょっと目立たない女子生徒。

主人公とは士官学校の入学考査の頃から何かと縁があり、クラスの中で最初に主人公に話し掛けた。


ナラン・セリル

15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次37位。

ドレフェス出身。学生寮に入っている女子生徒。教室で席が近いリイナやケーナと仲が良い。給食の食べ方が特殊。


インダ・ホリバオ

15歳。男性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次28位。

南サラドス大陸の大国、アコン王国からの留学生。士官学校構内の学生寮を利用している。実家はアコン王国の名家で、剣闘士風の剣術と狩猟で培った弓術を嗜む。

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