軍務卿の憂鬱
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
「ぐ……軍務卿閣下……」
戸口に立つ身長190センチを超える長身の老人を見て、ジェック・アラム法務部次官とマグダル・ヘダレス情報部長は息を飲んだ。
若い頃は士官学校で白兵戦技教官に抜擢された経験を持つこの槍の遣い手は、王都防衛軍司令官を退役して今尚、朝晩の槍術の稽古を欠かさない。
故に文民諸卿となった今でもその巨体は鍛錬によって筋骨隆々に引き締まり、生半可な軍官僚等は一睨みで震え上がる程の剛毅な人物……と言うのが今年で就任6年目を迎えるこの377代目の軍務卿に対する省内の評判である。
現役時代は「調整型の人」などと言われていたが、その実態はこの長身の軍司令官が会議の席で目を据えて座っているだけで、幕僚達の対立や争論すら起こらなかっただけなのだ。
元から軍官僚が大嫌いであったのだが、司令官職の定年に伴い……たまたま順送りで次期軍務卿の席が王都防衛軍司令官の番であったのと、現役時代から王都防衛の責任者として現国王より信頼を受けていた事もあって、本人の希望とは関係無くこの軍官僚を「上から抑え付ける」職を拝命する事になった。
就任から5年。軍務官僚達はそれほど彼を悩ませる事も無く粛々と軍部の統治運営を続けていた為に、それ程大きなトラブルを抱える事も無く、シエルグ卿は自室で官僚達が持って来る各種書類に目を通し、要請されれば署名をし、会議に出た時も司令官時代同様に席を囲む面々に無言で厳しい視線を浴びせ続ける日々を送って来た。
65歳という定年を迎え、それを口実にこの「つまらない仕事」から引退しようかと思っていたが……今上陛下からの評価は思いの外悪く無く、今年2月に行われた冬の除目の際に「定年後もこのまま留任せよ」と言う勅命が降りた為に、本意では無いがこの地位に留まる事になった。
ちなみにレインズ王国の除目は2月に行われる冬季除目と8月に行われる夏季除目があり、冬の除書に記載されるのは比較的地位の高い職位で、諸卿に関する任命は通常この冬の除目で行われる。
また、爵位の叙任もこの時期に実施される事が多い。アーガス・ネル少将のように前任者の急死等の事情が無い限り、将官が務める親補職は冬の除目で行われるのが一般的だ。
このまま何事も無く、あと5年程務めて引退すれば男爵として再叙任され、世襲貴族の仲間入り……これがつい2ヶ月程前までヨハン・シエルグ氏が描いていた老後の姿であった。
しかし勅使によって定年延長を言い渡され、就任6年目に入った矢先に次々と軍務省内で騒動が起こり始めた。そして畏れ多くも今上陛下より勅諭まで賜る事になり、その騒動も一度は収まったかと思われたのだが……。
シエルグ卿は無言でヘダレス情報部長の前まで歩み寄り、長身の部類に入る180センチ近い彼を更に見下ろすかのように、会議の席で見せる「不機嫌そうな目付き」で見据えた。部長の横に居たアラム法務官はその威に押されるかのように3歩程後ろに退く。
「で……どうなっているのかね?」
軍務卿は見下ろしたまま尋ねた。その問いは目の前の情報部長へのものなのか、それとも特命を受けてここに派遣された自分に対してのものなのか……アラム法務官には判断がつきかねた。
「あ……し、しょ、小官は……」
見下ろされたヘダレス部長は、その余りの迫力に圧倒され……身体をやや反らし気味になりながら応えようとしたが、舌が縺れて上手く回らなかった。
「か、閣下。どうやら『件の行動』は情報課長の独断であったようです。現状既に課長当人の身柄の確保は実施済でございまして、動員されている捜査員にも指令中止を伝達すると共にこちらへ帰還、集合する命を発令済みでございます」
最早言葉を発する事が出来なくなっている情報部長に代わって、アラム法務官が慌てて現況を報告した。
「その……まさか閣下はお帰りになられたかと思いましたが……」
恐縮の態で発言を続ける法務官の言葉を無視するかのように軍務卿は目の前の情報部長に問い掛けた。
「課長の独断だと……?それで貴様はそ奴の行動を放置していたと?この一旬の間……その行動を許していたと……?」
「あっ、はっ、は、はい……もっ、申し訳……ございません……。そ、その……小官はナラ中佐の動きを、ま、全く把握しておりませんでした……」
「貴様は……情報部の責任者として、部下の行動を把握していないのか?それだけでは無い。ここ数旬に渡ってこの省内……のみならず軍部……陸軍の中で職を免ぜられる者が大量に出ているのを……『情報を司る部署の長』として気付いていなかったのか?」
「あっ……えっ……い、いや……その……」
軍務卿は相変わらず情報部長を見下ろしながら睨み付けた状態で、その視線を動かす事無く、恐らくはその横で緊張のまま立ち尽くしている法務官に、先程の報告を確認するように尋ねた。
「処分実施は本日時点で何名になっているのだ?」
「はっ!……よ、41名であります。閣下」
法務官は辛うじて記憶の中にある数字を引っ張り出して回答した。
「41名……『軍中央』に居る者はそのうち何名だ?」
「は、はい……。14名……であります。本省内では既に該当者6名の処分を完了しております」
「そうか。14名……そしてその内、本省の中で6名……。貴様はこれだけの人数の士官がここ数旬で王都とその周辺から一斉に消えている事を把握出来ていなかったのか?情報部の責任者として」
「いやっ……あ、あの……そ、そのような報告は受けておら……」
「バカ者ぉっ!貴様はそれでも情報部の責任者かぁっ!」
軍務卿は突然、情報部長の襟を掴み上げた。まるで先程の情報部長が情報課長を掴み上げたのと同様に……今度はヘダレス情報部長当人が掴み上げられたのだ。軍務卿は情報部長を掴み上げ、更に前後に揺さぶりながら
「貴様はぁっ!情報部っ!この省内でっ!情報を取り扱う身でっ!その省内の動静を探り取れていなかったのかぁっ!そのような事情も弁えずっ!バカな真似をしている部下の動きすら把握していなかったのかっ!貴様はっ!それでもっ!それでも情報部を束ねる者なのかぁっ!」
長身巨躯の軍務卿は両手で吊り上げていた情報部長を、そのまま床に叩き付けた。この老将による突然の激昂ぶりに法務官も圧倒されてしまい……目を白黒させるだけで、床に這い蹲っている情報部長を救け起こす事も出来なくなっている。
軍務卿は床で伸びている情報部長には目もくれず、そのまま振り返って扉が開け放たれたままの戸口に戻り、今度は情報部室内に向かって怒声を放った。
「貴様らの中で最近の省内での人事的変動について疑念を抱いていた者は居なかったのかっ!それを上司に報告するなり上申する者すら居なかったというのかっ!」
軍務卿の怒鳴り声を聞いて部内は静まり返った。この怒れる巨体の軍務卿閣下に応える者は誰も居なかった。
「情報部とは一体何の為に存在しているのだっ!貴様らのような役立たずをこの国の血税を使って……おのれっ……」
怒りが収まらない軍務卿は尚も怒鳴り散らすように
「では情報課長の行動についてはどうだっ!貴様らはこれだけの人数で奴の行動を全く不審に思わなかったのかっ!?」
「か……閣下……」
軍務卿や法務官が居る情報部長室側から見て奥側……部室の反対側にある情報課長室の手前辺りの席でこの怒声を聞いていた男性職員が発言の許可を求めるように右手を挙げた。
「何だっ!」
「あっ、あの……じゅ、11月18日……だったと思います……。あの……あ、アガサ前課長殿が……課長室を訪れまして……」
「アガサだと?」
「閣下。ハイネル・アガサ大佐……現在は士官学校の教頭で、前情報課長でございます」
背後からアラム法務官が説明を付け加えた。
「何?前情報課長だと?そのような奴がまた何をしに前の職場までやって来たのだ」
「実はその件について、明日ご説明に上がろうかと思っておりました……」
軍務卿は漸く怒りの温度が下がったらしく、声を荒げる事無く法務官に尋ねる。
「先程、私の部屋で申していた事か?」
「左様でございます。例の……士官学校生の件でございます……」
ここで法務官は先程アガサ大佐の来訪を告白した職員に向かって
「アガサ大佐は18日に課長……ナラ課長の部屋を訪れたのだな?」
職員は気を利かせて部長室の前まで近付いて来ていた。
「はっ!アガサ前課長殿がいらっしゃったのは退勤時間の少し前だったと思います」
「貴官は来訪の目的を聞いたのか?」
「あ、いえ……そこまでは……」
「恐れ入ります。小官は前課長殿がお帰りになられた後にナラ課長殿に部屋に呼ばれまして……」
ここでニタル少佐……捜査1係長が話に割り込んで来た。彼は先程、テッド・ブロサム捜査2係長を探しに行ったのだが、既に退勤していたと聞いてすぐに呼び戻すように手配して戻って来たのだ。
「アガサ大佐が退出してすぐだと?で、何か指示を受けたのか?」
「はい……。『特命』によって1係の捜査員を7名選抜せよと……」
「特命の内容は聞かなかったのか?貴官は先程、私の質問に捜査員の行動について聞き及んでいなかったと言っていたが?」
「はっ。『特命につき詳細は明かせない』とのお言葉でしたので……」
「その前情報課長……今は士官学校教頭か。今では部外者だろう?そのような者が訪れた後に『特命』などと言われて貴様は不審に思わなかったのか?」
再び法務官の後ろで話を聞いていた軍務卿が不機嫌な顔で尋ねて来た。ニタル係長は目を伏せながら応える。
「も、申し訳ございません……」
「貴様はその『特命』が部外者である前情報課長によってもたらされたと思わなかったのか?」
「い、いや……その……課長殿からは詳細をご説明頂けませんでしたので……」
「貴様ら捜査係の者達は普段から部外者の命令で捜査員を動かすような真似をしていたのかっ?」
軍務卿の声と表情がまた険しくなってきた。
「い、いえ……け、決してそのような……」
「では、そのような規定違反の疑いがあるにもかかわらず、次長や部長に確認することすらせずに捜査員を動員させたのかっ?」
またしても怒鳴り散らす手前まで軍務卿の怒りが昂じて来たところで法務官が
「閣下。最早この者達を責めても仕方ありません。今回の件を乗り越えた後に再度調査の上で然るべき処分を下すべきでしょう」
「くっ……」
法務官の諫言を受けて巨体の軍務卿は情報部室の出入口に向かって歩き始めた。出入口周辺に居た情報部員達が慌てて道を開ける。
「係長。先程の命令……全ての……いや、ガレノ捜査員以外の者達が確実に帰還するまでここに残り、帰還次第私の部屋……法務部次長室まで報告に来たまえ。いいか?」
「は、ははっ!」
ニタル少佐が挙手礼をすると、周囲の者達も一斉に敬礼を実施する。それに応礼する事はせずにアラム法務官は廊下に出て行った軍務卿の後を追って行った。
残された情報部の者達は呆然としながらその後ろ姿を見送るしかなかった。やがて頭を振りながら情報部長が自室の中で立ち上がり……
「何なのだ……どうしてこうなったのだ……」
と、呟きながらニタル少佐の姿を認めると声を荒げた。
「テッドはどうしたのだっ!まだ戻って来ないのかっ!」
「はっ!ブロサム少佐は現在呼び戻しておりますっ!」
「おのれ……デルドはっ!デルドはどうしているっ!」
ヘダレス部長はこの騒動の場に終始現れなかったもう一人の管理者……情報部次長の名を呼んだ。
「次長殿はすでに退勤されたそうです」
別の職員が応えるのへ
「だっ、大至急呼び戻せっ!デルドだけでは無いっ!全員だっ!情報部の者は全員この場に呼び集めろっ!」
「はっ!」
「はいっ!」
「了解しましたっ!」
既に19時になろうとしている情報部室内は俄かに慌ただしい雰囲気となり、退勤せずに残っていた職員は一斉に退勤した他の職員を呼び戻しに各部署の長の指示を受けながら動き始めた。
ヘダレス部長が軍務卿によって揺さぶられた首と頭の辺りを左手で押えながらフラフラした足取りで廊下への出口に向かうのへ
「部長……どちらに?」
と、声を掛けた受付職員に対して
「局長殿の部屋だ。まだいらっしゃるとは思えんが……」
足早に廊下へと出て行った。
****
「閣下っ!」
アラム法務官は大股でズンズンと廊下を歩いて昇降階段を上ろうとしている軍務卿の後を小走りに追い駆けながら呼び止めた。
「明日まで待つ事は無い!先程の話……すぐに説明せよ。最早貴様らに任せてはおけん。全く無能どもがっ!」
軍務卿は振り向く事もせずに階段を上がって行く。法務官も慌てて後を追うが、地下1階から自室のある3階までをとても65歳とは思えないような足取りでズンズン上がって行く巨体の老人に追い付く事が出来ない。
「はっ、はっ、はい……」
法務官は息を切らせながら応えるのがやっとであった。彼は途中の2階で偶然に顔見知りの法務部職員が退勤して行くのを見かけて
「はぁ、はぁ……帰ろうとしているところを済まんが……残って居る者に私の部屋に情報部の者が報告に訪れたら……そのまま軍務卿の部屋まで来るように伝えて貰えないか……?はぁ、はぁ……」
急いで階段を駆け上って来た様子の次長の様子に、その職員も
「りょ、了解です!」
と、踵を返して法務部の部室に戻って行った。その様子を見届けて、法務官は再び軍務卿を追って昇降階段を駆け上がって行った。
軍務卿は自室に入るなり、前室で控えていた3人の秘書官へ
「私には構わず君達はもう帰っていい。私はまだここに残る」
と、退勤を命じて奥の扉から執務室へと入って行った。大股で地下から4階層を階段で上がって来たにもかかわらず、この老人は殆ど息を乱していない。
暫くすると退勤して行く秘書官達に対して労いの言葉を掛けつつ、息を切らしながら法務官がノックの後に入室して来た。それを見た軍務卿はいつもの不機嫌な顔で「そこへ座れ」とソファーを勧めた。
「きょ、恐縮です……ふぅ……ふぅ……」
「あれしきの階段で全く……まぁ、良い。息を整えてから話せ」
「は……はい……。ありがとうご、ございます……」
暫く深呼吸などをして漸く息を整えた様子の法務官へ
「で……そもそもあの情報部の奴立たず共は何の目的でその……士官学生か。その者の身辺を探っていたのだ?」
「はい……。実は彼等情報部……いや、情報課長の主目的は士官学校生徒よりも……同じく捜査目標としていた士官学校長と主任教官の方かと思います」
「うん……?どういう事だ?奴等が探っていたのはその学生だけでは無かったのか?」
「はい。情報課長は先程も名前が出ておりました前課長で、現士官学校教頭を務めておりますハイネル・アガサ大佐からの依頼で、彼の上司に当たる士官学校長のロデール・エイチ海軍大将……及び三回生主任教官のタレン・マーズ少佐、そして件の士官学校生徒であるマルクス・ヘンリッシュの3名を探っていたようであります」
「ロデール・エイチ……?おぉ。確か一昨年まで第四艦隊を率いていたな」
「はい。仰られます通り、エイチ提督は前第四艦隊司令官でございます」
「そうか。そう言えば先日の一件……あの第四師団長の娘と息子の事件の時にも名前が出ておったな」
「左様でございます」
「それと……マーズ……?この者の名前もどこかで……」
「はい。タレン・マーズ少佐は王都方面軍のヴァルフェリウス司令官……公爵閣下のご次男です」
「あっ……タレン……タレン・ヴァルフェリウスかっ!北部方面軍のっ!」
「や、やはり……軍務卿閣下におかれましても、彼の名は御存知でしたか……。かの御仁も先日の事件におきましては少々関わっておりまして……」
「なっ……そういえば……そうか。あの件の裁判長は公爵閣下であったな」
どうやらシエルグ卿は元軍人としてタレンの事を、その驍名において憶えていたようだ。……無理も無い。「敵軍に向かって自ら先頭で突き進む公爵家の御曹司」の噂は途中の士官学校教官赴任期間を除き、延べ十数年間に渡って北部方面軍で轟いていたのだ。
「そうか……そうだったな……彼もあの事件に……」
「はい。結局は彼をも巻き込んでしまいました」
「そうか……いや貴官には恐らく伝わっておらんだろうな……」
「は……?な、何か……?」
タレン・マーズ……いやヴァルフェリウスの名を聞いた軍務卿が先程までの不機嫌そうな表情から、ともすれば僅かに笑みすら浮かべたので法務官は驚いて尋ね返した。
「マーズ……そうか。そういえば彼はマーズ家に婿入りしたという話だったな。だから私も先日の件で思い出せなんだか……」
「マーズ少佐に何か……?」
「北部方面軍のタレン・マーズ殿をこの王都に……士官学校の『試験官』として呼び寄せたのは……今上陛下の「御叡慮」なのだ。そうか……その後そのまま教官にな……そういう事であったのか」
軍務卿から「驚くべき話」を聞いたアラム法務官は、一瞬その言葉の意味を飲み込めず……そしてその意味を悟って驚愕した。
「なっ……へ……陛下の……ですか?」
「うむ。公爵閣下の御曹司がな……北部の僻地で自ら武器を揮って凶賊共相手に生命を張っているという『噂』が王宮にまで達していたのだ……。侍従長殿のご尊父が北部方面軍の司令官であったからな。侍従長殿からその『話』を御耳にされた陛下は大層驚いたそうでな……」
「あっ!じ、侍従長殿……た、確かに……侍従長殿のお父上……なるほど……そのような繋がりがあったのですか……」
「何だ……?侍従長殿のご尊父がどうかしたのかね?」
「あ……いえ、申し訳ございません。話の腰を折ってしまいました……」
法務官は慌てて謝罪した。
「ふむ。そうか……。今上陛下はこれまで公爵閣下との長い付き合いがあるにも関わらず……そのような御曹司を危険な境遇に置いておられる事を公爵閣下が全く申し上げる事無く、『軍人としての分』を優先させていた事に対して御心を痛められたそうでな。
『王室の守護神たる公子を戦場で喪ってはならぬ』と思し召され……私に『彼』を王都に『それとなく』呼び戻すように宰相閣下を経由されて勅令を下されたのだ」
「なっ……マーズ殿の士官学校への異動は……勅令によるものだったのですか!?」
法務官は仰天した。こうなると……この後の「話」をした際に、この目の前に居る軍務卿がどのような反応を示すか……不安になって来た。
「私は勅令を受け、人事局長を呼び出してこの『御叡慮』を伝えたのだ。何分にも陛下の思し召しである……内々に不自然な形にならないようにせよと」
「なっ、なるほど……」
「どうやら婿入り先の義父君が亡くなられたと聞いたのでな。それを機に『臨時職』であった士官学校の面接試験官に抜擢という形で王都に呼び戻すことにしたのだよ」
「試験官にですか……。それならば地方部隊からの転任とは言え、自然な形には出来ますな……なるほど……よくぞお考えになれましたな」
法務官は心底感心したように軽く笑った。
「ふむ。我ながらな……。その後は人事局長が上手く繕ってくれたのだろうな。そのまま士官学校の教官として採用させたわけか。そこまでは私も知らなかったが……」
(そうか……今のオランド人事局長も教育部出身だったな……。その筋から彼を主任教官へと捻じ込んだのか……)
タレン・マーズへの「人事的からくり」について解を得ることが出来た法務官は思い切って話し出した。
「閣下……どうやら今のお話……今回の件と多少繋がりがあるようです」
タレンの「身の落ち着き先」について多少ご満悦になっていた軍務卿閣下は驚いて
「何だと?そう言えば、先程の情報課長か。奴は教頭の依頼でマーズ殿を探っていたと言っておったな」
「はい……実はそのマーズ殿が……」
ここでアラム法務官は数時間前にマルクスから説明された「戦技授業改革」の顛末を軍務卿に説明した。タレン・マーズ主任教官がロデール・エイチ学校長に「本来の戦技授業の復活」を具申した事。
それを受け入れた学校長が軍務省の教育部長に同件を具申した事。どうやら教育部長がそれを「教育部の施策への批判」と受け取って教頭に圧力を掛けた事。
その圧力に同調した教頭が嘗ての部下であった情報課長に「施策批判者達」の監視を依頼した事。そしてその監視結果を教育部長と共有することで「職権濫用」の追求を躱す事。
この話の一部始終を聞いた軍務卿は……
「今の……戦技授業が役立たずだと……?タレン・マーズ殿がそう言っているのか……?」
と、ショックを隠し切れない様子であった。何しろ自らも嘗ては士官学校で槍技を教えていたのである。そしてその槍術の鍛錬を日課としているのである。その槍術を……白兵戦技を「北部軍の鬼公子」は否定していると言うのである。
「そんな……」
言葉を失っている軍務卿の様子を気に掛けながらも法務官は話を続けて
「そのマーズ殿のお考えに……件の士官学校生徒であるマルクス・ヘンリッシュ殿も賛同しているようなのです。その為に教頭から睨まれてしまい……彼も監視対象とされてしまったわけです。結果……彼の自宅を『捜索』した捜査員が1名……捕り押えられて護民庁の支署に送られて拘禁中となっております」
「なっ……そういえばそんな事も言っておったな。つまり……護民庁、いや内務省にはもう知られてしまっているのか?」
「はい。スピニオ・ガレノ兵長につきましては、その目的はともかく……軍籍と本名が既に記録されてしまっております。また本人は情報課長の指令によって『令状無しの捜索』を実施した旨を供述しております」
「何と……家宅捜索として主張出来無いのかね?」
「難しいと思われます。何しろ令状がございません。そして被害者……つまりマルクス・ヘンリッシュ自らの手による現行犯逮捕です。どうやら近隣住民の証言もしっかりと揃っており……彼は最早『不法侵入』と『窃盗未遂』の現行犯として送検を待つだけであると思われます」
専門分野となる法務官としての見解を述べたアラム法務官は首を軽く左右に振って諦めの表情となった。
「話は先程……夕刻の事に戻ります。今回このように士官学校生マルクス・ヘンリッシュとの『和解条件に対する約定違反』によって和解の破棄を宣告されております。既にご説明申し上げました通り、このままですと彼からの『制裁』として先日の『ネル家騒動』に対する詳細な情報を監査庁にそのまま提出し、並びに拘留中のガレノ捜査員の身柄も監査庁に引き渡す……と通告されました」
「くっ……」
法務官の説明に対して軍務卿は歯を食いしばるような顔をする。
「先日の……ネル家の一件が監査庁に通報されてしまうのは、正直申し上げて非常に具合が悪いと思います。軍部内に20年を超える年月を掛けて軍閥が形成されつつあった事に加え、本省までが侵食されていたという事実。そしてそもそもが、その不祥事が外部に漏れるのを阻止する為に……検察側が被害者に和解を周旋するような真似……こ、これは私自身の事になりますが……そこまでしております故……」
法務官は怒りで小刻みに震える軍務卿の顔をまともに見る事が出来ず、俯いたままの姿勢で話す。
「しっ、しかし……かの若者は猶予の条件として『本日中に捜査員の活動を全て停止させる』という内容を提示して参りました。幸いにして閣下のご命令によりその条件は達成しつつあります。ひとまずは先程の話は回避されたと見て問題無いでしょう」
何時の間にか額に浮いている汗を手巾で拭いながら法務官が安堵の顔付きで話すが、軍務卿の表情は尚も顰められたままだ。
「しかし貴官は先程申したではないか。『これはまだほんの入口』だと。どういう事なのだ?それに先程の話……士官学校の戦技授業が『役立たず』だと?いくらマーズ殿とは言え、その申し様は正しいとは思えん。私も嘗ては士官学校で槍技を教えていた身だ」
「えっ!?」
ヨハン・シエルグ「中尉」が士官学校で槍技を担当していたのは王国歴3007年度から3012年度の6年間で、実は3013年度に士官学校へ入学しているアラム法務官とは、シエルグ教官が王都防衛軍所属の第8師団へと進級・転出となった3013年夏の除目の直後で「入れ違い」だったのだ。
更に言えば先程、この軍務卿閣下に襟首を吊り上げられた挙句に床へ叩きつけられたヘダレス情報部長やアガサ教頭は3009年度入学の同期生であり、当時三回生の白兵戦技を担当していたシエルグ教官の任期と重なっていて、二回生進級時に弓技を選択した両者とは授業で会う事は無かったが……現軍務卿が自分達の学生時代に士官学校教官職に在った事を勿論知っているはずである。
ちなみに……軍務科で席次が2位であったアガサを抑えて首席であったのはヘダレスであり、総合席次も3位の彼は任官後の出世競争においても同期のアガサを圧倒し、一昨年の段階で同期卒業、同期任官……しかも同じ「情報部」という部署において「部長で少将」のヘダレスに対して「課長で中佐」というアガサが2階級も後塵を拝していた事になる。
「私も士官学校で白兵戦技を教えていたのだ。その私にはマーズ殿が主張する『今の白兵戦技が奴立たず』とは到底思えない。彼には悪いが、何の根拠があってそのような戯言を主張するのか。そしてその主張に学校長が賛同している……?更にはその学生……ヘンリッシュだったか。その者まで『一派』に加担しているのであろう?」
「かっ、閣下も士官学校教官職を歴任されていたとは……これは大変失礼致しました。私の見識不足でございました。し、しかし……」
「何だ?貴官は私の言う事を受け入れられない様子だな」
軍務卿は表情にまたぞろ不機嫌さを露わにして法務官を睨み付ける。
「じっ……実を申しますと……今回の件……和解破棄の件を別として閣下にこのようなお時間を頂いた上でご相談にお伺いしたのは……ここから先の話についてなのです」
「何だと?貴官が先程から話しているマーズ殿が主張する白兵戦技への批判とは違う話なのか?」
「いえ、申し訳ございません。説明が少々不足しておりました。今回の件は閣下の仰る通り、情報課長……いや教頭が監視対象とした3人が主張している白兵戦技についてなのですが……実は『彼等』がそのように主張するには『根拠』がございまして」
「何!?私も嘗て教えていた白兵戦技が『役立たず』であるという根拠があると申すか!」
「はい……実はその根拠を示す『資料』は私の部屋に保管しておりまして……閣下には明日ご説明に上がるつもりでございましたから……」
「何だと……?そうか……そう言えばそうだったな。では待っておるからその『資料』とやらを今持ってくるがいい」
「さ、左様でございますか……?では恐縮ではございますが暫くお待ち下さい……」
そう言い残すと、アラム法務官は立ち上がって軍務卿執務室の出口に向かって歩き出した。扉を開けて前室に入り、更に廊下に出たところで……既に照明の数が落とされている執務室前の廊下に、先程地下に居た情報部のニタル少佐……捜査1係長が辺りをキョロキョロと見回しながら立っており、廊下に出て来た法務官を見かけてホッした表情で近付いて来た。
「ん……?貴官は……」
「よかったです……先程から何度かノックをさせて頂いていたのですがお返事がありませんでしたから……法務官殿のお部屋にお伺いしたところ、法務部の方が軍務卿閣下のお部屋にと連絡されたようでしたので……」
「おお。そうだったか。済まなかったな。ここは閣下のお部屋の手前に秘書官が控える前室があってな。既に秘書官は退勤しているので『もぬけの殻』だったわけさ」
法務官は苦笑した。
「そうでしたか……なるほど。ところで……ご命令通り、捜査1係6名、捜査2係6名、計12名が本省に帰還しております。仰られておりましたガレノ兵長を除く全ての捜査員の撤収が終了致しました」
「そうか。ご苦労。今回の件についてはこちらとしても……まだ決着を見ていない。情報部への処分は今日のところはまだ決めるわけにもいかないので解散しても宜しい。
既に本件の首班であったナラ情報課長の身柄は確保してある故、本日は解散しても構わないと情報部長へお伝えしてくれ」
「はっ!了解致しましたっ!」
ニタル少佐は姿を改めて敬礼を行い、そのまま早足で昇降階段を地下に向かって降りて行った。彼等……情報部長を始めとして、アガサ教頭とナラ課長の早まった行動で完全に巻き込まれた形になったが……官僚世界の理不尽さ故か、この騒動が収まっても「イゴル・ナラ情報課長」を部下とし、上司としていた「事実」はこれからの彼らの軍官僚としての経歴にとって僅かながらも「疵」として残るだろう。
法務官はニタル少佐の後ろ姿に同情的な視線を投げ掛け、思い出したかのように自分の部屋へと向かう為に彼の後を追うように昇降階段を降りた。
****
「先程、私の部屋に戻る際に情報部より護民庁に拘留中の者を除く全捜査員の撤収を確認したとの報告を受けました」
自室からマルクスに渡された「資料」を持参し直し、それを机の上に置きながらアラム法務官が報告を行うと
「そうか……それではひとまず本日のところは危地を脱したわけだな?」
「はい。そしてこれが先程申し上げました『根拠となる資料』となります。ご覧下さい。これは先刻……例の士官学校生から提示されたものです」
資料の数字に目を通す軍務卿に、マルクスから受けた説明をそのまま今度は法務官が行い、その数値に裏付けられた「根拠」を述べると、剛毅な軍務卿の手が小刻みに震え出してその顔色が変わり出すのがありありと見て取れた。
「何だと……こっ、この数字は……ほっ、本当なのか!?」
幼少の頃より習い始めた槍術の鍛錬を欠かす事無く60年近く……その業が現代の戦場では役に立たないどころか……却って若い新士官の命を奪っていると聞かされてヨハン・シエルグの声もショックで完全に落ち着きを失くしている。
「恐らくは本当でしょう。『あの粛清名簿』を提示してきたマルクス・ヘンリッシュが新たに出して来た資料です。士官学校の図書室や国立図書館に残る資料から算出されていると思われます。
まだ確認はしておりませんが、我が省の保管庫に残された戦死傷病者資料と突き合わせる事で明らかになる事でしょうし……彼が出鱈目な数字を並べるとは思えません」
「そっ……それで……これを私に見せて……貴官は……どうするつもりなのだ……」
紙のような顔色になった軍務卿が弱々しい声で尋ねる。彼は「武人」として自らの軍歴に誇りを抱いていたが……嘗ての自分の「教え子」の中からも北方や……もしやすると西方でも「役に立たない戦技」によって若い命を散らしていたかもしれないと思うと、遣る瀬無い気持ちになるのは当然であった。
自らは学生時代の戦技実習に最低限の努力しか注ぎ込んで来なかったアラム法務官だが、それでも目の前の老人の気持ちを斟酌しながらも
「マルクス・ヘンリッシュは、今ご覧になられている資料を……閣下が先程お話になられた侍従長殿のご父君……どうやら元北部方面軍司令官であらせられたマイネル・エッセル子爵も彼等の協力者でいらっしゃるそうでして……エッセル卿を通して侍従長殿から陛下に……お渡しすると……軍務省がこれまで数百年に渡り、戦技授業を捻じ曲げ続けて無駄に新士官の命を散らし続けた旨を報告すると……」
「な、なっ、何だと!?ばっ、バカな!そんな事をされたら……こっ、この数字……ひゃ、100年でこの数字だぞっ!?貴官が今申した内容では450年前から授業の変質が始まっているとされているではないかっ!」
軍務卿にとって更に具合が悪いのは……この100年における凄まじい数の新士官の死傷者の数も然ることながら、同時期に更なる戦闘回数をこなしているはずである海軍のそれと明らかに差があることだ。
こうなると、もうこの資料から読み取れるのは「陸軍……軍務省による人災」である。これだけ明らかな数字としてハッキリと示されては言い逃れは出来ない。
「なっ、何故……何故だっ!そのヘンリッシュとやらは……そのような……そのような真似をするのだ?軍務省に何か恨みでもあるのかっ!」
「そうではございません閣下……先程も申し上げました。エイチ学校長はこの件を踏まえた上で教育部の……デヴォン部長に意見具申をされたのです。しかしデヴォン部長はこれを……これは私が言うのも何ですが……『本省の教育施策への批判』という実に『官僚的な捉え方』をされ……具申を揉み潰しただけで無く……この具申を行った学校長を始めとするマーズ主任やヘンリッシュ殿本人さえも監視下に置こうとされたのです。
このような対応をされれば……彼らとしてはもう本省に対して見切りを付けられるのは当然でして……」
「そっ、それで……それで本省の頭越しに侍従長を介して陛下に直接『これ』を見せると言うのかね……?」
軍務卿は天を仰ぐ姿勢となり、大きな溜息をついた。確かに自分は「武術経験者」として嘗ては士官学校で学生にその「役に立たない戦技」を教えていたかもしれない。
しかし彼はそれでも「官僚」では無く「武人」なのだ。そのような官僚的な対応をされれば……シエルグ卿自身にはエイチ学校長やマーズ主任教官の気持ちが痛い程解るのである。
「こっ、このような……『もの』を陛下が御覧になられたら……あのような軍部に対して多少なりとも隔意をお持ちの陛下が……そうなると最早我ら軍務省は……デヴォン……教育部長か……何という短絡的な真似を……情報部の愚か者といい……この軍務省には馬鹿者しかおらんのかっ!」
「私もそのような『馬鹿者』の一人であります故……返す言葉もございませんが……実はこのような挙を思い止まって頂く為に……ヘンリッシュ殿はある『条件』を提示されました。私が本日閣下にこのような一大事を言上しにお伺いしたのは、この『条件』についてなのです。この条件さえ我らが呑めば『資料』の提出は思い止まって頂けると……」
法務官は天を仰いだまま放心している軍務卿に対して漸く「本題」を切り出した。
「何だと!?条件?そのヘンリッシュとやらは……またもや条件を提示しているのかっ!」
先日のネル家騒動の和解に続いてまたしても「条件」が出された事に対して軍務卿は一瞬カッとなったが、すぐに思い直して法務官の方へ目を向けた。
「いや……その条件を聞こう。それを私に伝えに来たと言う事は……私でないと『呑めない』話なのだろう?」
「ご賢察の通りでございます。私は『彼』からこの条件を提示されたのですが、とても私だけでは対応が不可能でありますので……誠に恐縮ながら、このような『歴代の軍務省の不手際』をお聞きになられた上で、閣下のお力に縋りたいと思い至った事が……本日こちらへお伺いさせて頂いた本当の理由でございます」
「言ってみろ。私に出来る事であれば……力になってやろう」
「あっ、ありがとうございます……!」
ひとまず「軍務卿の力を借りれそうだ」という見当が付き、法務官はホッと肩を撫で下ろした。しかしこの軍務省においては強大な権限を持っているはずの剛毅な老人の力を以ってしても今回の条件を達成出来るのか……?それでも見通しは明るいわけでは無かった。
一度立ち上がって軍務卿に対して深々と頭を下げた法務官は再びソファーに腰を下ろし
「単刀直入に申し上げます。ヘンリッシュ殿から示された『条件』とは我が省の上層部に巣食っている……この『役立たずの戦技授業』を、これまで放置してきた『教育族の一掃』でございます」
法務官からそれを聞いた軍務卿は、俄かにその内容を理解しかねて
「何……?教育族……?何だそれは?」
と尋ね返した。
「閣下は御存知ではありませんか……?現在、本省の上層部を占めているのは……その殆どが教育部出身の者達なのです。ヘンリッシュ殿は、今回の学校長の上申を握り潰した件も含め、これまで多くの新任仕官の『無駄死に』を結果的に惹起し続けている、現役幹部で『教育部出身者』の一斉処分を求めているのです」
「それがその……教育族という連中なのかね?」
本来であれば勅任官である本省の部長級以上の「高級幹部」の最終的な人事承認権を握っているのは軍務卿である。
各省庁……所謂「官僚社会」においては「ある親補職位」が空席になった場合、その席を埋める人事決定は主に前任者や上司からの推薦を基にして人事部長がいくつかの人事案を作成し、人事局長が最終的にその中から候補を一人に絞った上で「最終人事案」として省のトップである諸卿に提出される。
これが軍務省であれば当然それは軍務卿の職掌であり、彼は通常……人事局長から上がってきた最終人事案に承認を与えて、それを宰相が主宰する閣議……諸卿会議に提出する。そしてその案が閣議で了承されると、宰相から改めて国王に提出され……最終的に国王がそれを了承すると、王宮の「任命の間」において親補式が実施され、「親補職」として着任となる。
やたらと面倒臭いのだが、それがこの3000年続いて来た文明国家の官僚世界なのだ。シエルグ卿は軍務省のトップではあるが官僚出身者では無いので、そのような官僚世界での人事制度に疎い。
嘗ては彼も王都防衛軍の一員として軍務省から下達される人事命令によって進級と昇進を繰り返して来たのだが、それだけに畑違いの軍務省の人事にはこれまで殆どと言っても良い程に無関心であった。
最高司令官である国王を除いた、軍部の頂点たる軍務卿へと就任した後は……最早自身の人事に変動が起きるわけではないので、人事局長から上がって来る「他人の」最終人事案をそれほど注意する事無く署名を行って「右から左へ」と閣議に提出していた。
当然ながら閣議における諸卿の態度も同様で、対象者の過去に余程目立つような経歴における瑕疵が無ければ閣議でそのまま了承され、宰相から国王に提出されてしまう。
そもそもが夏冬の除目の季節ともなれば国中の公的機関で、上級幹部のそれを含む何百何千という人事案が下から上がってくるので、いちいち目を通してなどいられないのが現実である。
結局……過去にはそのような「人事案の順送り」を繰り返した結果、デヴォン教育部長が次長職から僅か2年で部長昇進を果たすと言う、とんでもない情実人事が実現されたりしたのだ。
「閣下が御存知では無いのであれば……敢えてご説明申し上げますが……。我が省は閣下を頂点として、本省の事務方で最高位にある次官以下、人事局の局長、副局長までが教育部出身者によって独占されております。軍務省次官でいらっしゃるエルダイス大将閣下、人事局長のオランド大将閣下、人事副局長のアミン中将閣下……全て教育部出身者でございます」
「何だと……?」
「つまり……ここ十数年に渡って次官から人事局長、人事副局長が教育部長から『順送り』にされているのです。私の知る限りですが……今のエルダイス次官が人事局長に上がられてから、教育部出身者がそのまま順送りにされて、本省の人事部門は完全に『教育族』に支配されております」
「じ、人事部長はどうなっているのだ?先任順というものがあるだろう?幾ら何でも教育部の者だけを上に上げ続けるには限界があるはずだ」
「閣下……次官殿や人事局長殿からの人事案を承認されているのは……閣下ご自身ではありませんか……」
シエルグ卿の疑問に対して流石に法務官は半分呆れた表情で応えた。
「なっ……そ、そういう事か……私が……そのような状況にしてしまったと言うのか……」
「閣下。実はこの『教育族の上層部独占』が、その末端であるデヴォン教育部長が『学校長の上申を握り潰す』という暴挙及んだ理由であると思われるのです。
デヴォン部長は、学校長の提出された白兵戦技改革案によって陸軍の新任仕官による戦死傷病者の減少に繋がった場合……これまでの責任が自分自身や嘗ての上司である次官殿以下の本省上層部に及ぶ事を恐れた為に戦技授業の改革を拒絶していると……ヘンリッシュ殿を始めとした『改革派』は見ているようです」
「つまりそのヘンリッシュは……我ら本省内でその弊害となっている教育族を取り除く事が出来ないのであれば……今上陛下のお力を以って本省全体を粛清するかの……『二者択一』を迫っているというわけか……」
「ご賢察の通りでございます」
「しかしそんな……仮に我らがその……教育族を排除する事になるとして、勝算はあるのか……?」
「勝算と言いますか……やらなければ、この『資料』が侍従長殿に提出されるだけでございます。この条件……3ヵ月しか時間は与えられておりません。ヘンリッシュ殿は3ヵ月だけ時間をやると申しまして……」
「何だと!?3ヵ月……つまり冬の除目までという事か……おのれ……いいだろう……私も『あの連中』は以前から気に食わなかった。どうせ座しても王宮に『これ』が提出されてしまうのであれば……私の進退を賭してやってみようでないか」
「さ、左様でございますか……。それではまず彼らに対抗する為にお味方を増やす必要がありますな……私も本省内の伝手を辿ってみましょう」
「そうか。頼むぞ」
これによって軍務省は、内務省とはまた違った様相で2つに割れる事になる。タレンの考え出した白兵戦技授業改革は本人の与り知らぬところで、とてつもない波紋を広げたのである。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。
主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。自らが与り知らぬところで起きる騒動に対して頭を痛めている。身長190センチを超える長身。
マグダル・ヘダレス
55歳。軍務省情報局情報部部長。陸軍少将。勲爵士。
軍務省の地下1階にある情報部を統括している。部下のナラが承認許可無く捜査員を動員した為に身に覚えのない管理責任を問われる。
士官学校ではハイネル・アガサ教頭と同期。