法務官の決断
ウイルスに汚染されたPCが漸く修復を終えて戻ってきました。
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
11月25日、時刻は既に16時45分になっていた。
先日ここを訪れた時から態度が一変し、この部屋に怒りと恐怖をばら撒いて行ったマルクス・ヘンリッシュが立ち去った後……ジェック・アラム法務部次長は激しい疲労感を感じながらも、まだ終わらない「今日」この後に「やらなければならない」事柄を大至急自分の頭の中で整理してみる。
まず絶対に実行せねばならないのは、情報部の末端捜査員にかの士官学校生らへの尾行を止めさせる事である。先程の若者から提示された「証拠」によって、この「暴挙」は情報課長から指令が出ている……という事だけは確認が出来ている。
問題として「その上」はどうなのか……。法務官は情報課長が出している指令の背後関係を考察してみた。マルクスからの説明によれば、この動きの切っ掛けとして士官学校教頭職にあるハイネル・アガサ大佐が絡んでいると言う。
アガサ教頭の前職は、まさに情報課長であり……現情報課長の前任者、つまりは直接の上司だったわけだ。この場合、現情報課長はアガサ教頭の指示……いや、既に情報部の部外者になっている士官学校教頭からの「依頼」を受けて動いている可能性がある。
そうなるとこれは明確に「服務規定違反」に問える。何しろ「部外者」からの依頼で情報課長が勝手に隷下の捜査員を動員しているのだ。
通常であれば情報捜査を実施する際には少なくとも情報部長の許可が必要なはずだ。省内の内部規定では情報捜査員の指揮権は情報課長にあるのだが、規定をそのまま運用してしまうと情報課長という親補職でも無い者に巨大な権限が与えられてしまい、過去にも何度か情報課長職にあった者による「情報権力を濫用した肥大化」が起こっている。
隷下の捜査員を使って部内はおろか、省内のあらゆる情報を握った情報課長を上層部の者達が抑えられなくなってしまい、結果的に情報課長という中堅管理職が軍務省内で巨大な力を持ってしまうという事象を軍務省は建国以来何度か経験しているのである。
最後にそういった不正な権力を握った情報課長を、「最後の黒い公爵さま」であったレアン・ヴァルフェリウスが関係者を「九族まとめて」族滅させた後、動員「許諾権」を情報部長に付与することで「指揮権」を抑えようという慣習が定着し、現代に至っている。
つまり情報課長の捜査員への「発令」に越権性は無いが、情報部長からその許可を得ていないのであれば服務規定違反に問えるはずである。
……但し毎度の事で、この慣習にも「穴」があり……省内の部長級以上の職位にある者からの指示による「緊急性の高い事案」に対して情報課長はその指示に従える……とあり、これはまた情報部長に対して捜査権限の集中を防ぐ為の「逃げ道」だったのである。
アガサ教頭がナラ課長に今回の「白兵戦技授業改革派」3人への行動調査を依頼した際に、そこで得た情報を「教育部長と共有しろ」と予め指示を付け加えたのは、この「逃げ道」を逆に利用して私的濫用の指摘を避ける為だったのだ。
自らも嘗ては情報課長であったアガサ教頭の「心遣い」によって、確かに服務規定違反を避ける事は出来たが……現在の軍務省が置かれている状況が悪かった。
教育部長も情報課長も知らないところで大規模な粛清が進められており、軍部内における大量免職者は建国以来何度か発生した「黒い公爵さま」が起こす国家規模のものには及ばないが、それでもここ数百年来では最大規模のものであった。
その「大粛清」を進める「執行委員会」の委員長を務めるアラム法務官は、今日これからの行動を頭の中で整理し、考えが纏まったところで自身の執務室を飛び出し、大急ぎで昇降階段へと向かった。
時刻は間も無く17時。この軍務省本庁舎内の主要な役職に就いている者は何らかの理由が無い限り、定時である17時になれば退勤してしまう。
本来であればアラム法務官自身もその中の一人なのだが、本日は定刻には帰宅する事もままならない「理由」が発生してしまった。
法務官は速足で裏口側……西側昇降階段から3階へと上がり、回廊の北側へと歩を進め……とある部屋の扉の前で立ち止まって一応はノックした後に、返事も待たずに扉を開けて部屋の中に滑り込んだ。
「軍務卿執務室」と扉に札が貼られていた部屋に入った法務官は急き込んで声を上げた。
「ぐ、軍務卿閣下は……まだご在室ですか?」
部屋の中には奥に向かって左側に机が3つ並んでおり、それぞれに座っていた者達は一様に突然部屋の中へ「侵入」して来た法務官を驚いた表情で見上げていたが、その中の奥側の机に座っていた30代と思われる女性士官が落ち着いた声で応えた。
「はい。閣下はご在室です」
「そうですか……。よかった。では法務部次長のジェック・アラムが大至急お伝えしたい事があると、取り次いで下さい。大至急です!」
この部屋で勤務する3人の秘書官達は、法務局法務部次長のアラム大佐の名前を当然知っている。何しろ彼は前述した通り、現在我が省内で進められている大粛清を実施する「執行委員会」での首座を務める者だからである。
そしてその他にも、彼は勅任官である法務官であり……その平素からの穏やかな姿勢によって「軍務省の良心」とまで言われて、将来の軍務卿候補とまで言われている。
そのアラム法務官が何やら血相を変え、ノックもおざなりにしてこの秘書官室に飛び込んで来たのである。そして開口一番に軍務卿への取り次ぎを要求して来た事は何やら只事では無い事態が発生したのかと、秘書官達も緊張の面持ちになった。
「少々お待ち下さいませ」
30代の女性秘書官……軍務卿首席秘書官であるティナ・ウェイン中佐は、それでも落ち着いた挙措で席を立って部屋の奥にある扉をノックし、中からの返事を待ってからその中に消えて行った。
数十秒後、ウェイン中佐が扉を中から開けて
「閣下がお会い下さるそうです。どうぞお入り下さい」
アラム法務官に促すと、彼はホッとした表情で
「そうですか。では失礼します」
と、足早に軍務卿の執務室へと足を運んだ。
流石にこの軍務省の頂点に君臨する軍務卿の執務室だけあって、室内の造りは他の質実剛健を旨とする軍務省内の内装とは一線を画した物で、執務机や応接セット……床に敷かれた絨毯ですら前室である秘書官室までのものとは比べ物にならない程の高価な物品が揃えられている事が窺える。
その重厚で巨大な執務机の向う側に、この部屋の主であるヨハン・シエルグ侯爵……軍務卿がこれまた大きな椅子に座って入室者を睨み付けていた。
どうやら軍務卿閣下は退勤の支度をしようと思っていたらしく、そのタイミングで「急用」と称して法務官が急き込んだ様子で入室して来たので、怪訝な表情を浮かべている。
アラム法務官は軍務卿の執務机の前で挙手礼を行ってから
「閣下、このような時間に申し訳ございません。少々立て込んだ事態が発生致しましたので、ご報告と……その対処につきご相談にお伺い致しました。お聞き届け頂けますでしょうか?」
軍務卿はやや不機嫌な表情のままで
「何だ?法務官がこんな時間にそのような様子で……明日ではいかんのか?」
と、法務官に言葉を浴びせる。今年で在任6年目を迎えるこの王都防衛軍出身の元陸軍大将は、軍務卿という職を拝命してはいるが、この軍務省で働く軍官僚達には普段から良い感情を持っていない。
それはまさに士官学校の学校長であるロデール・エイチ提督が、つい最近まで士官学校そのものに対して良い印象を抱いていなかった事に似ている。
この軍官僚の本営である軍務省には、軍中央出身とは言え……武人として王都の防衛を担って来た王都防衛軍司令官であった彼が心を許せる部下もおらず、官僚思考の者達に囲まれて過ごす毎日は決して愉快なもので無かったようだ。
軍務省の長であるにも関わらず、官僚出身者が軍務卿に列せられる事はそれ程多く無い。直近では4代前のアントン・ウエルズ卿が37年前に軍務省次官から昇進したのが最後で、以来その地位は軍中央の三長官から交互に任命されて来た。
特に現国王が即位してからは、一度も軍務官僚からの抜擢は無く……これはやはり今上陛下が軍務官僚に対して何らかの隔意を持っているのではないかとの憶測が消えない原因にもなっている。
ヨハン・シエルグ卿は65歳。前述の通り、元王都防衛軍司令官で陸軍大将の地位にあった。彼が軍務卿の地位に就いたのは所謂「順送り」であり、前々代が王都方面軍司令官、前代が参謀総長からの任命であった為に、377代目となる当代は三長官の残り1席である王都防衛軍司令官からの任命という事で、年齢もその年に丁度定年を迎える60歳であったシエルグ大将が、3043年冬の除目で軍務卿への任命となった。
軍務卿という地位自体は軍人では無く、「軍属では無い貴族」が元々は任命される役職であった。彼等「諸卿」の人事権を持つ唯一の存在であるレインズ国王のみが任命権と罷免権を保有している。
一般的に諸卿には「65歳」という定年が存在する。しかし任命権者である代々の国王によって、しばしばその定年が延長されることがある。
過去には幼君や暗君の下で90歳を超える年齢まで職責を担った諸卿も存在したが、軍務卿に関しては概ね70歳前に「勇退」するのが慣例となっているようだ。
シエルグ卿も本来であれば定年を迎える年齢に達しているのだが、王都防衛軍司令官として現国王の覚えも悪く無かった彼は、定年を迎えても引き続き軍務卿の地位に在り続けている。そのような経緯があればこそ、彼は信任されているはずである国王からの勅諭や譴責を極度に恐れるのだ。
この国は建国直後からの大王と、それを引き継いだ国母の時代に「王室」、「貴族」、「官僚」、そして「軍人」を明確に分権させるという方針で国の仕組みが整理されてきた歴史を持つ。勿論これは大陸統一直後にこの国を去った「黒き福音」が残して行った「文明国家建設思想」を基にしている。
そしてその考え方によって、当初は国王の下に直接各政務を担当する省庁が置かれ、その構成員たる官僚は身分等しく「市民」とされたのだが、時は流れて国家経営も数百年が経つと……国王の中にも暗愚な者が何人か出現するようになり、なまじその権力が集中し過ぎていた為に、様々な弊害をもたらすようになっていた。
ここで「運が良い」と建国以来の大貴族であるヴァルフェリウス公爵家から「黒い公爵さま」が出現して社会の「澱」を一掃してくれるのだが、彼らは何しろ数百年に一度しか現れないので、そのような王国の再生が然々と期待出来るものでは無い。
なので、賢明な国王によって自ら持つ権限の一部を「他の機関」に委嘱するという試みがなされた。その中でも現代にまで残った制度が王国歴1198年に46代コベルタ王が制定した「参議制」である。
当時、「沈黙の旬」を起こして魔法世界の大粛清を実施した第38代タラス・ヴァルフェリウス公爵が「お隠れ」になってから20年が経過し、タラスと共に社会制度の一新に尽した44代「賢王」エヌゲス・レイドスと、次代のサテル女王も既にこの世を去っていた。
遺されたコベルタ王は10年間の親政を実施した後に、国王たる自身へ権限があまりにも集中していた事で疲弊してしまい、結果として「その権限の一端を王室の藩屏である貴族へ委任する」という考えに至った。
彼はまずこの考えをタラスの息子であったエルン・ヴァルフェリウス公爵に相談すると、彼からも賛同を得る事が出来たので、省庁の上に「諸卿」を設置し、彼らに省庁を監督させる事にした。
そして国王自身は定期的に「諸卿会議」を開いてその動静を報告させ、国王自身の政策意見をその場で言い渡す……という仕組みを作り出した。
こうして国王自身の負担を軽減させると同時に、集中し過ぎた権限を「委嘱」という形で諸卿会議に分担させる事に成功して以降は、この制度を建国法の末端に付け加える事で法制化し、後世その王権を脅かそうとする輩などの干渉から護られる事となった。
その後出現した3人の「黒い公爵さま」ですら、この制度を改めさせる事はしなかったのである。
この諸卿制度は以後2000年近くの間、王国政府の中心に置かれて一応は機能し続けてはいるが、その内容自体は大きく変質して行く事になった。
その最も顕著なものとして、「貴族が諸卿に就く」という部分が「諸卿になった者が貴族に叙任される」という転倒現象が起こっている事だろう。
元々、この制度が定められた際の附則として「諸卿に列せられし者はその爵位を侯爵に叙する」という一文が追加され、臣下としての貴族の最高位とされた「伯爵」の上に「侯爵」という爵位が新設され、諸卿は在任中にその爵位に上ることで、臣下として最上位の権威を付されるという仕組みだったのだが……。
時代が下ると、制度誕生時の精神など忘れ去られた頃になってこの「侯爵位」を世襲する家が現われた。但しこれは「爵位」を世襲するのでは無く「卿」の地位を世襲する事で結果的に「侯爵位の世襲」になってしまったとする方が正しい表現だろうか。
つまり現代でも見られる「特定の貴族家による省庁の壟断」がどの時代にも発生していたのだ。このような族閥化が何世代も続く事で、当代の暗愚な国王から侯爵位が世襲で認められてしまい、「世襲侯爵家」が幾つか誕生する事になる。
こうなると、後に「黒い公爵さま」が出現しても、その時点でその家が「おかしな真似」をしていない限り、彼の粛清を受ける事も無く残ってしまう。
皮肉な事に、「黒い公爵さま」が出現した時期に「嘗ての栄光」を失い、侯爵位だけが残っていた家は、その粛清をくぐり抜けて世襲は続くのである。
そして更なる諸卿制度の変質としては「市民の台頭」である。
これは本来であるならば貴族社会の専任事項であった「卿」という地位に庶民出身の有力な官僚が「取って代わる」という事であり、この制度の変質によって建国当時に大王や国母が想定していた王・爵・官・軍……特に爵と官の分権が曖昧になって来た。
今では宰相を除く8卿のうち平民出身者は過半数の5卿を占めており、その中でも軍務卿に関してはここ300年程、庶民出身の軍人が就任してきた。
つまり軍務卿という地位に限っては「爵・官・軍」の分権が混在する事になっているのである。
現職であるヨハン・シエルグも元は王都出身の庶民階級に属していた者で、父は腕の良い大工であった。
3002年に士官学校の陸軍歩兵科から首席の金時計を授与される極めて優秀な成績で卒業した後、一旦は王都方面軍に任官したが、3007年には金時計授受者としては珍しく士官学校の教官として赴任。6年間勤めた後に王都防衛軍へと進級転属となった。
その後は王都防衛軍一筋で昇進と進級を重ねて、50歳で第9師団長、57歳で王都防衛軍司令官となり、60歳の定年となった直後に実施された夏の除目で第377代目の軍務卿へと就任した。
つまり彼は士官学校の教官経験者であり、しかもその担当は白兵戦技の槍技であった。アラム法務官は、目の前で不機嫌な顔になっている軍務卿の、そのような若い頃の経歴までは把握していなかった。
「閣下。先日の第四師団長の件でございます……」
軍務卿の態度に不機嫌さを感じ取った法務官はややそれに押され気味になりながらも要件を伝えようとすると
「第四師団長……?あぁ、あの『軍閥作りの件』か。その処分は貴官らに一任していたつもりだが、今更私にこのように急いで何か報告する事が?」
「はい……実は閣下もご承知の通り、あの件は10月4日を以って被害者の士官学校生とネル家側において和解が成立していたのですが……本日になって被害者側から和解の破棄が宣告されました」
軍務卿は法務官の報告の意味が解らず、思わず問い返す。
「和解の破棄……?どういう事かね?」
「はい。被害者である士官学校生が先程私の執務室まで直接訪れ、先月結ばれた和解を破棄すると告げて参りました。理由は……我ら軍務省側の約定違反であるとの事です」
「ん……?約定違反?」
軍務卿はまだ話が飲み込めていないようだ。
「閣下はあの和解締結の際に被害者側から出された『和解条件』をご記憶になられていらっしゃいますでしょうか?」
「条件……?あぁ、確か加害者側のその……軍閥作りに関わっていた者達を全て軍から追放する事だろう?それは現在、貴官らで進めている事ではないのか?」
「はい。その件につきましては免職処分対象となっております74名のうち、既に41名の処分を完遂させております。残る者達も調査が終わり次第……年内には処分履行を完了させる予定でございます」
「ならば別に約定違反では無いではないか。その学生は何を寝惚けた事を言っておるのだ?」
「いえ、閣下……被害者側から出された和解条件はそれだけではございません。条件は3つ示され、関係者の処分はそのうちの1つに過ぎません」
「何だと……?ああ……、確か師団長の一族を全て王都に移住させるという話にもなっておったな。では師団長が移住を渋っているのか?」
「いえ、確かにネル家……特に前師団長の父君で元西部方面軍参謀長のサー・メルサド・ネルが当初王都への移住を拒否する姿勢を見せておりましたが、軍人恩給の停止や子息であるサー・アーガスの軍籍剥奪を勧告したところ、漸く移住に同意され……既に王都への転居を始めております。
この条件……いわばネル家への直接的な和解条件は現在のところ恙なく履行されております。問題は3つ目の条件でございまして……」
「3つ目の条件……うーむ。他に何か約束をしたか?私は『関係者の追放』ばかりに目が行っておったから全く気にしておらなんだがな」
「では申し上げます。3つ目の条件は『被害者マルクス・ヘンリッシュに対して今後一切、軍務省側は干渉や詮索を行わない事』でございました」
「うん?干渉や詮索を……?つまりその者は『これ以上自分に構うな』と言いたいわけか?」
「はい。大まかなところでは、閣下が仰る通りでございます。敢えて申し上げますとその言い分の前に『軍務省は』という主語が付きますが」
「ふむ。それで?約定違反というのは、その3つ目の条件において……という事かね?」
「左様にございます。ネル家の件とは別件の問題で軍務省……つまり我々側がその被害者学生の身辺を探る行動を執ってしまい、彼の感情を著しく損ねてしまいました。その結果として、本日……先程ですが私の下に本人が直接赴いて来まして……」
「和解の破棄を宣告したと……?ならばそれはそれで、放っておけばいいではないか。相手はただの学生だろう?なぜそのような若僧一人に対して本省が気遣う必要があるのだ。文句があるなら学校から放逐してしまえばいいではないか」
「マルクス・ヘンリッシュ」という人間をまるで知らないシエルグ卿は、何事も無かったかのように言った。
そもそもこの老人は前回のネル家騒動の件にしても「軍閥化を図っていた」ネル家に対してばかり目が行っていて、その被害者の学生に対しては全く関心を寄せていなかった。王宮からの勅諭が達せられた事もその思考に大きく影響を与えた。
彼は軍務省……いや、軍部の「恥」がその外に漏れるのを極端に嫌う性質の人間なのである。
法務官は困惑の表情を浮かべて
「閣下……お言葉ではございますが、今回の件……警戒すべきはネル家よりもその『被害者の学生』の方でございます。かの学生の証言によってネル家の軍閥化を図る蠢動が発覚したのです。そして現在進められている74名にも及ぶ免職処分対象者の情報を我らに提供したのも、この被害者学生なのです」
「ん……?どういう事かね……?」
「つまり、この被害者側である士官学校生はネル家の軍閥形成化に関する詳細な情報を持っており、その一端を我らに示すことで、先月からの処分騒動に発展しているのです。彼が我らに提供してくれた情報はどれも精密無比なものでして……そして今回の和解破棄……我ら軍務省側の約定違反に対する『制裁』として、これらの情報を全て宰相府の監査庁に提出すると申しております」
「なっ……何だと……?」
軍務卿にとってはまさに「寝耳に水」の事態であっただろう。そもそも先月に、この件の報告を受けた際にも「関係者74名の処分」と聞かされて仰天したのだが、その処分対象者とネル家の関係が事細かに纏められた報告書を読んで更に驚愕したのだ。
その情報元が……そしてその「大いなる企み」の発覚自体が全く眼中に無かった被害者の学生からもたらされていたとは……。そしてそれらの情報をよりによって監査庁に持って行くと言っているのだ。
折角軍法会議の開廷まで潰して「醜聞の拡散」を防いだつもりであったのだが、その目論見が最悪の形で覆されると聞いて軍務卿は慌てた。
「先程まで被害者との必死の交渉で……今も彼に対して続いている詮索行動を本日中に停止させる事で、ひとまず監査庁への通報は思い止まって頂けるとの譲歩を引き出しました」
「そもそも何故そのような約定を違える行為を行っておるのだ?」
「はい……彼に対して尾行等を実施しているのは情報部情報課隷下の情報捜査員でございます」
「情報部が?彼らが何故?」
「情報部は恐らく今回の約定については承知していないのでしょう。この約定違反に情報部長が絡んでいるのかは不明ですが、情報課長が捜査員に指令を出しているようです」
「また……これは残念な報告となりますが……その情報捜査員が1名……被害者の自宅を令状無しで捜索したらしく、不法侵入と窃盗未遂の現行犯で被害者自身に捕り押えられて護民庁で拘束されております」
「なっ……何だと!?」
「本日、私はその拘束された捜査員とも接見を行って参りましたが……捜査員の所属や氏名は既に護民庁側には知られておりまして……被害者もこの捜査員の供述により、これらの行為が情報課長から指令されている事実を以って『約定違反』を主張しております」
「閣下へのご相談とは……これらの情報部の行動を大至急、閣下のご命令において中止させて頂きたいのです。このままでは明日にでもネル家の一件について、その全貌……ひょっとしたらまだ我ら軍務省側も把握していないような「暗部」に至るまでの情報を監査庁に持ち込まれる可能性が生じております」
アラム法務官の報告と「相談」という名による事実上の「要請」を受けて軍務卿は顔色を変えたまま絶句している。
彼にとってはまさに青天の霹靂のような内容で、「終わった話」だと思っていたものがここに来ていきなり蒸し返された上に、更なる苦境に立たされる可能性が出て来たのだ。
「バカな……何故情報部はそのような愚かな真似を……」
「それでは情報部への対応は私に一任して頂けますでしょうか?ご承諾頂けるのであれば小官は直ちに情報部に赴いて彼らの『愚行』を取り止めるように命じて参ります」
軍務卿は我に返り、声を荒げた。
「さっさと奴等を止めてこい!」
軍務卿の怒鳴り声を聞いて多少縮こまった法務官は、それでも姿を改めて
「はっ!それではこれより情報部に赴いて閣下のご命令を伝達して参ります。但しこの話にはまだ続きがございます。本日はもう時間も遅いので明日改めて事態のご説明にお伺いさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「何だと!?まだ何かあるのか!」
「は、はい……。実は今までの話は……まだ全体の『入口』程度の事なのです……ご説明申し上げるには時間を頂く必要がございますので改めて明日にでも……」
「そ、そうなのか……。その話もまた件の『士官学生』が絡んでいるのか?」
「はい……。『彼』も絡んではいますが……実際に問題となっているのは教育部です」
「教育部……?何故教育部が?情報部とは何の関係も無いではないか」
「その事も含めまして更なるご説明は明日……本日のところは閣下の御名を以って情報部の暴走に大至急対処する必要がございます……。これ以上あの被害者学生の感情を害する事は得策ではございません」
「うぬ……そうか。分かった。ではこの続きは明日改めて聞こう。取り急ぎその情報部の愚行を止めるがよい」
「はっ!ご理解頂き感謝致します。それでは本日のところはこれで失礼致します。この報告と新たな事案についてのご説明は明朝改めまして……」
そこまで言うと法務官は挙手礼を行い、早足で軍務卿の執務室から退出した。そのまま秘書官室を通り抜け、廊下へと出ると即座に昇降階段を駆け下り、地下の情報部室へと急ぐ。何しろ時間が時間だけに情報部の管理職の者達が退庁している恐れがあったのだ。
法務官が慌ただしく自室から去り、一人その場に残されたシエルグ卿は
(バカな……これでは陛下にまた……最早この一件に対する噂が御耳に達せられてると言うのに……これ以上恥を晒すわけには……これ以上何があるのだ……)
「明日また説明に伺う」という法務官の言葉へ衝撃の余り安直に返答してしまった為に、彼が居なくなってから、その言葉が却って気になってしまい……余計に苛立ちを覚えるのであった。
****
(頼む……まだ帰らずに残っていてくれ……)
一縷の望みを抱きながら……昇降階段を地下階まで駆け下りた法務官が情報部の入口の手前まで辿り着くと共に、丁度その扉から1人の人物が出て来たので、法務官は慌ててその人物を大声で呼び止めた。
「へっ、ヘダレス部長っ!お待ち下されっ!」
法務官から呼び止められたその軍官僚は振り向いて
「ん……?あなたは確か……」
「法務部次長のアラム大佐です。よかった……間に合ったようですな……」
「アラム大佐……法務官殿か?」
「はい。恐れ入りますが、至急のお話がございます。部長殿のお部屋にてお話しさせて頂きたい」
「何……?私の部屋でか……?至急案件なのかね?」
「はい。軍務卿閣下からのご命令です」
軍務卿の名前を出されて情報部長は驚いた。なぜ法務部の次長が……軍務卿からの命令を持って来たのか……。
「良かろう。ついて来たまえ」
情報部長は今出て来た扉から再び情報部室の中に入る。たった今……退勤の為に部屋を出た情報部長が、直後に別の人物を連れて戻って来たので部屋の出入りを警衛していた職員は不審に思ったが、それを口にする事無く敬礼をする。
「法務部次長、ジェック・アラムだ。入るぞ」
法務官は情報部長の後に続きながら受付に声を掛ける。2人はそのまま情報課長の部屋の反対側にある情報部長の執務室へと入った。
挨拶もそこそこにアラム法務官が切り出す。
「ヘダレス部長、率直にお伺いします。情報部は何故にマルクス・ヘンリッシュの動向を探っているのでしょうか」
部屋に入るなり、突然「身に覚えのない」質問を突き付けられたマグダル・ヘダレス情報部長は面食らった表情で応える。
「ん……何だって?それは何者かね?」
首を傾げながら答える情報部長の様子を見た法務官は
(やはり……情報部長はこの件をご存知無い……)
と見て取り、敢えて強めの言葉を掛ける。
「これはまた……今回の情報部が行っている暴挙に対し、軍務卿閣下も大層ご立腹のご様子なのですが?」
「なっ……?軍務卿閣下が何故……情報部に?」
「マルクス・ヘンリッシュの件ですよ。情報部は彼の行動を嗅ぎ回っているではないですか」
「マルクス……?何者だ?」
「情報課長が部下に命じて『彼等』を探っているではないですかっ!あなたが承認した上で指令しているのでは無いのですか?」
「ど、どういうことだ……?私は何も知らんぞ……」
「『知らんぞ』で済まされるわけがないでしょう!あなたの部下が本省の意向を無視……いやそれに逆らうかのように実施しているではないですか。現に捜査員が一名、『やり過ぎて』護民庁に拘留されているではないですかっ!」
「知らん……私は知らんぞ……貴官は……一体何を言っている……」
狼狽える情報部長に法務官は「事の顛末」を一から説明した。ネル家の事、そしてその和解に至るまでの事情とその条件。そして和解成立後に軍務省内で条件を履行する為に近年に例が無い程の大規模粛清が実施されているという事……そして先日からその和解条件を破るような行動を情報部員が見せている事……。
法務官は先刻、マルクスから受けた恐怖と屈辱による鬱憤をここぞとばかりに情報部長へぶつけた。
「宜しいかっ!あなた方情報部が行っている事は我ら軍務省全体を危地に陥れる事なんですぞ?これだけの重大事をあなたは『知らない』で済むと思っていらっしゃるのかっ!」
「まっ、待てっ!本当だっ!本当に知らなかったのだっ!かっ、確認させてくれっ!」
顔色を悪くした情報部長は、部屋から飛び出すような勢いで扉に駆け寄り、乱暴な動作で扉を開き、その向こう側でまだ退勤せずに残っていた情報部の職員に向かって
「おいっ!大至急ナラ中佐をここに呼べっ!既に帰っていても構わん。奴の家まで追いかけて大至急私の部屋に出頭するように伝えろっ!早く行けっ!」
広大な情報部室全体に響き渡るような大声で情報部長は怒鳴り散らした。数名の職員がそれを聞いて慌てて情報部室の反対側にある情報課長の部屋に向かって駆け出して行く。普段温厚な情報部長の変貌振りに誰もが驚いているようだ。
「宜しいですか、情報部長殿。件の被害者学生……マルクス・ヘンリッシュは情報部員の『活動』が本日中に引き上げられない場合は、捜査員全員の生命の保証はしないと申しております。更にその足で監査庁へ出向くとも言っておりました。もしもそのような事態になった場合……あなたの監督責任は免れませんぞ……」
相変わらず暗い表情で法務官が言い募る。
暫くすると職員が戻って来て恐懼した表情で報告する。
「ナラ課長はお部屋にいらっしゃらず……上衣や軍帽は残されておりますので、退勤はされていらっしゃらないようなのですが……」
「ならば大至急伝令を走らせて奴を捜せっ!何度も言わすなっ!」
情報部長は尚も声を荒げている。時刻は既に17時50分になっていた。軍務卿に事情を説明した上で特命を帯び、この地下フロアに駆け付けてきたアラム法務官が退勤の為に部屋を出て来た彼を廊下で呼び止めた時点で既に17時20分であった。
情報部長だけでも捉まえられたのは、まだ幸運だったのだ。
「ヘダレス部長。情報課長の事は後でも宜しいので先に行動中の捜査員を今すぐ呼び戻すのが先決です。特に性懲りも無く『彼』を追って行ったと思われる、あの捜査員は危ない……」
「むっ……そうか……。よしっ、捜査1係か2係の長はまだ居るのか?主任捜査員でもいい。とにかく捜査員の責任者を大至急ここに連れて来いっ!」
情報部長も、まだアラム法務官から全ての事情を聞き及んでいるわけでは無い。しかし今回の件は軍務卿直々の特命であり、取扱いを誤れば自身の首が飛びかねない事は察しているのだ。
情報部室の中に響き渡る部長の怒号を聞き付けたのか、情報捜査1係長のニタル少佐が緊張した面持ちでやって来た。
「捜査1係長のニタルであります。何か緊急事態でも……」
怒れる情報部長が言葉を発するより早く、アラム法務官が言葉をかける。
「君は情報課長から士官学校関係者の監視について何か指令を受けているのかね?」
「はっ……?士官学校……?向かいに建つ王立士官学校でしょうか?」
「そうだ。そこの学校長や教官、そして一部の学生を君らの部下である捜査員に監視させている件について、君はどこまで承知しているんだ?」
「はっ……。小官には詳細は伝わっておりませんが、1係の捜査員……7名でしょうか……。ナラ課長殿からの指令によって任務に就いております」
「そうか。では……改めて部長殿の指令に従い給え」
そこまで言うと、アラム法務官はヘダレス情報部長へ目配せをした。図らずも階級が下である法務部次長から指示を受ける形になった情報部長は、怒りを抑えつつも
「貴様ら……1係だけでなく2係の連中も含めて大至急任務の中止を伝達しろ。任務に参加している者達を全員撤収させるんだっ。急げっ!」
部長閣下からの鋭い指示にニタル少佐は背筋を伸ばして
「了解しましたっ!」
と返答した後、回れ右をして執務室から飛び出して行った。
「あの係長は任務の詳細を聞き及んでいないようですな。どうやら彼の頭越しに課長自らが捜査員に指示を与えていたようです」
指揮命令系統の乱れを嘲笑うかのような、アラム法務官の言い方にぐっと堪えながら情報部長は
「おのれ……それこそ奴は私にも無断で……」
顔を真っ赤にしながら怒りで震えているところに、ドアがノックされる音が聞こえてきた。
「失礼します。部長、イゴル・ナラです。私に何か……?」
と、よりによってその怒りの矛先を向けた本人が入室して来た。ナラ課長は怒りに震える部長の横に、自分に突き刺すような視線を送って来ている大佐の階級章を着けた士官の存在に気付いた。
(うん……?ナラ……そうか……ナラ課長とは……この男だったのか……)
アラム法務官は、情報課長を一目見て何かに気付いたようだ。
「貴様っ!一体どこで何をしていたんだっ!」
張本人たる情報課長の顔を見るなり部長の怒号が執務室内に響き渡り、まだ閉まっていなかった扉の隙間から、外の情報部室にも漏れ伝わった。この部屋の責任者である情報部長が先刻から、これまで見た事も無い程に激昂している様子を感じた情報部の職員一同は、退勤することも出来ずに状況の推移を見守っている。
それは実際にその怒号を浴びているナラ課長も同様で、彼は慌てて部長室の扉を後ろ手で閉めると、不可解な面持ちで部屋の中へと歩を進めた。部長の執務机の前まで進んで漸く
(あっ!彼はアラム……アラム大佐が何故……?)
と、上司の隣で自分に対して殺気が混じったような視線を送っていた相手の正体を悟った。
実はこのアラム大佐とナラ中佐は3015年度卒業の士官学校における同期生なのである。更にはクラスも同じ軍務科であり、軍務科内での席次はジェック・アラムが首席、イゴル・ナラは6位であった。
但し、お互いそれほど親しい仲でも無く……在学中も自治会役員として活動し、任官後は法務畑を歩んで法務官に勅任され、将来を嘱望されているアラム大佐と、昨年漸く中佐に進級して情報課長に就いたナラ中佐とは軍務省内でこれまで殆ど接点が無かった。
本日も、マルクスを庁舎内で尾行して、その行先がアラム法務官の執務室であると伝令職員から聞き出した時も彼はその名を久しぶりに聞いて不審に思った程度であった。しかしまさかその当人がこうして目の前に……上司たる情報部長と共に居るとは……。
「しょ、小官は退勤していたわけではなく……」
法務官の正体を悟った途端に態度が怪しくなった情報課長に対して
「そうでしょうな。恐らく彼はデヴォン教育部長殿に報告を実施していたのではないでしょうかね。『対象である学生』が本日いきなり法務部次長たる私を訪ねて来た事やら、その私に同道して護民庁の第5支署に赴いた事やらをね」
法務官から思いも掛けない指摘を受けたナラ課長は更に顔色を変え
(なっ!?何故だ……何故知っている!?)
唇が震え始めた。そんな彼を憤怒の表情で長身のヘダレス情報部長が両手で詰襟を掴み上げながら
「貴様っ!どういうつもりだっ!私に黙って何故このような真似をしているっ!きっ、貴様は自分がっ!自分が何を仕出かしているのかっ!それを判っているのかぁっ!」
先程の職員の驚き様を見て、この情報部長は普段はとても温厚な……恐らくは自分と同じように「部下に対して不必要に強く当たる事はしない」タイプの人間だろうと見当を付けていたアラム法務官は、「軍務卿の怒りの矛先が向いている」と知らされている彼が我を忘れて「嘗ての同窓生」を文字通り締め上げている光景を目にして、却って感情が冷え切ってしまい
「ヘダレス部長。ひとまず彼をお放し下さい。事情を聞き出さねばなりません」
と、一応は情報部長の右腕に手を掛けて部下に対して体罰的制裁を課そうとしている上司を引き剥がした。
「ナラ課長。貴官が命じて門柱の影から『彼等』の監視を実施していた者達には、既にヘダレス部長の名において、その任を解いている。これは軍務卿閣下からのご命令である」
「えっ……ぐっ……軍務卿閣下……ですって!?」
軍服の詰襟を上司に掴み上げられていたナラ課長は、漸くそれから解き放たれて床に投げ出され、一息つく暇も無く今度は「軍務卿閣下」という思いもよらない名前が出て来たので混乱した。
自分は嘗ての直接の上司であった士官学校の教頭からの依頼で
《軍務省の方針に逆らって士官学校の教育内容に異議を唱える者達》
を監視していたつもりだ。
今回の「依頼」にはあくまでも「教育部への動静報告」が建前ではあるが、ナラ課長本人としては順送りとは言え……転出の際に自分を後任として推薦してくれたアガサ大佐に対する「恩返し」という意味合いも強かった。
アガサ大佐は士官学校教頭職として事実上の「学校運営責任者」であり、その上には「名目上」の学校長である海軍大将が「お飾り」のように据えられた状態であるという認識をこの時点においても情報課長は持ち続けていた。
今回の件はその「お飾り」を担いだ主任教官が軍務省の教育部が定める指導要領に反旗を翻している疑いがある……その首魁と周囲でそれを操っている者の監視を「良識派」の教頭だけでなく、「秩序を重んじる教育部長」の意向に沿う形で彼は部下を動員していたのである。
「貴官にこのような馬鹿げた行動を嗾けたのは士官学校教頭のハイネル・アガサ大佐ですね?」
「いや……それは……」
ナラ課長は法務官からの質問に対する回答を躊躇した。ここで馬鹿正直に「はい」と答えてしまうと、外部の者からの指示で捜査員を動かしてしまった事を認めてしまう事になるからだ。
「もう一度聞きます。貴官に士官学校長と三回生主任教官、そしてマルクス・ヘンリッシュへの監視行為を『依頼』したのは士官学校教頭のハイネル・アガサですか?」
アラム法務官の表情が更に険しくなっている。普段は「軍務省の良心」とまで言われている温厚な彼だが、今回に限ってはそのような「優しい顔」などしていられない。何しろ軍務省の浮沈が懸かっていると言っても過言では無い状況なのだ。
嘗ての同級生に対して階級と職位で上位に居るとは言え、このような形で詰問する形となってしまった事に多少の悲しみすら覚えると同時に、それに対して誠実に答えようとしない情報課長の態度に怒りも湧いて来ている。
それでもナラ課長は「部外者からの依頼に応じた」という事実と「アガサ『前』情報課長」への義理立てのつもりか、唇を震わせながらも嘗ての同級生で今は階級が一つ上になっている法務官に問いに対して
「い、いえ……」
と、小さな声で答えた。
「貴様っ!まだそのような戯言をほざくかっ!」
再び飛び掛かろうとする情報部長を間に入って制止した法務官は
「そうですか。分かりました」
と冷えた目付きで短く答えた後、おもむろに部屋の扉を開け……部屋の外で聞き耳を立てていた情報部の職員に
「誰でもいいっ!大至急憲兵を呼べっ!大至急だっ!」
声を荒げて命じた。廊下付近に居た職員が慌てて唯一の出入口から外に走り出て行く。再び情報部長室の扉を閉じて振り向いた法務官は
「貴官を服務規定違反で拘束する。近日中に軍法会議で貴官の処分を決めさせて貰う」
たった今、外に向かって放った荒々しい命令口調とは打って変わり、情報課長へ静かに言い渡した。ナラ課長は驚いて何か言おうとしたが
「もう何も答える必要は無い。取り調べも不要だ。言っておくが貴官の動きについては11月20日に……貴官から指令を受けた捜査員達が士官学校長と主任教官、それと『あの』士官学校生徒を尾行し始めた直後から、すぐに気付かれていたそうだ。
スピニオ・ガレノ兵長……この捜査員は現在マルクス・ヘンリッシュ殿の手によって尾行開始初日に彼の住居への『不法侵入』の現行犯で捕り押えられて護民庁の支署で拘留中だ。
彼は……最早我々軍務省側の働き掛けだけでは解放できない状況に置かれている。全て貴官……いや、貴官らの愚かな行為が原因だ」
「ごっ……護民庁……ですと……」
ナラ課長は何か申し開きでもしようと思っていた口をパクパクさせたまま声が出なくなっている。
「解るかっ!もうこの問題は情報部の起こした『勝手な行動』の域を大きく超えているのだっ!最早我が省の内部で打ち消せるような状況ではないのだぞっ!」
再び声を荒げた法務官の言葉を聞いてナラ課長はヘナヘナというような形容で床にヘタり込んだ。そこに扉がノックされ、部屋の主である情報部長を差し置いてアラム法務官が「入れっ!」と鋭い声で命じると、扉が開いて憲兵が2名入室してきた。
「しっ、失礼しますっ!」
佐官らしき軍官僚が床に座り込んでいる異様な光景を目にしながら挙手礼をする憲兵に
「この者を拘禁しろ。誰にも会わせるなっ!」
「けっ、憲兵本部の拘留室で宜しいのでしょうか……?」
「他にどこがあるんだっ!いいからさっさと連れて行けっ!重ねて言うが接見禁止にしろっ!」
とても「軍務省の良心」らしくない言い様で法務官が命じると、2人の憲兵は弾かれたように再度敬礼し、床にヘタり込んでいる情報課長の両脇をそれぞれ抱えた上で更に後ろ手に拘束して引き摺るように情報部長室の外へ出て行った。
「先程の係長は居るか?」
開きっ放しの扉の向うから部屋の中を覗き込んでいる職員一同に向かって法務官が呼び掛けると、「はっ!ここにおりますっ!」という返事と共に再びニタル捜査1係長が戸口に現われた。彼もどうやら先程からこの部屋の中の様子をすぐ外で窺っていたようだ。
「今回の捜査に参加していた者の総数は把握しているかね?」
「はっ。1係からは7名が参加しております」
「1係……確か……ガレノ兵長は1係だったな?」
「はい……ガレノとは現在連絡が……」
「解っている。奴は当分戻って来ることは無い。気にせんで宜しい。それで?2係はどうなのだ?確か情報捜査係は2部署あっただろう?」
「はい……2係につきましては……しょ、少々お待ち下さい……」
そう言い残すとニタル少佐は踵を返して駆け去った。少し離れた所で「テッドっ!もう帰ったのか?」という声が聞こえる。どうやら2係長を探しているようだ。それを耳にした法務官は思わず舌打ちをした。
「ヘダレス部長。情報部とは……かようにも統制が執れていない部署なのですか?随分と部下を自由にさせていらっしゃるようですな」
「そっ……それは……」
「情報部とは文字通り、軍事機密を取り扱う重要部署のはず。過去にも情報部の士官が任務によって得た情報を利用して大なり小なりトラブルを起こしており、その都度再発防止の為に幾重にも規定を改定してきた歴史がある。にも拘わらず……」
部長室の扉が開いたままの状態で法務官が情報部長に嫌味を言い募ろうとしていた矢先、部屋の外で様子を窺っていた職員達が扉の向こう側で息を飲むような声と共に、一斉に背筋を伸ばして敬礼をしている。その方向はどうも情報部室の一ヵ所しか無い出入口を向いているようだ。
やがて職員達が慌てて戸口の向う側から後ずさる様子を見せ、彼らが空けた戸口の前に現われたのは巨体の老人……ヨハン・シエルグ卿であった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。
主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。自らが与り知らぬところで起きる騒動に対して頭を痛めている。身長190センチを超える長身。
マグダル・ヘダレス
55歳。軍務省情報局情報部部長。陸軍少将。勲爵士。
軍務省の地下1階にある情報部を統括している。部下のナラが承認許可無く捜査員を動員した為に身に覚えのない管理責任を問われる。
士官学校ではハイネル・アガサ教頭と同期。
イゴル・ナラ
51歳。軍務省情報局情報部情報課長。陸軍中佐。
アガサ教頭の後任を勤める軍務官僚。前職は情報課隷下にある捜査1係長。
元上司であるアガサ教頭からの依頼で改革派メンバーの校外での動静を調査する。