和解破棄
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ルゥテウスはイゴル・ナラ情報課長が追加で投入した情報捜査員6名の存在にもすぐに気付き、すぐさまその全容を把握した。
(やれやれ……懲りずに増員してきたか。俺に対する監視は相変わらず緩いが……タレンと校長への見張りが増えたな。屋敷の監視と出勤時の尾行も付いたか)
ここが潮時か……と彼は思った。どうやらイゴル・ナラという男は思っていた以上に「情報職員」としては無能らしい。何しろ、自分達が置かれた状況を「あらゆる意味で」把握出来ていないのである。
情報課の管理職であれば、省内の状況にも通じておかなければいけないはずで、先月来この軍務省で起こっている「粛清」についても事態の認識、もしくは把握くらいは行っていて然るべきなのであるが、この処分を進めている「執行委員会」の動き方が巧妙である為か、彼もやはり人事局の者達同様に「蚊帳の外」に置かれてしまっているので、「マルクス・ヘンリッシュ」という士官学校一回生についての予備知識が全く不足していた。
11月25日……既に12月3旬目に実施される席次考査の科目も決定しており、前旬半ば辺りから考査対象科目の担当教官がその授業で試験範囲をチラチラと仄めかし始めている為、マルクスは既にその対象科目が「数学」、「地理」、「絵画」、「諸法」、「理科」であることを看破していた。
昼食の時間……「いつもの席」でマルクスが給食を食べていると、彼の周りに1年1組の生徒が次々と座り始め、各々いつも通りワイワイと軍隊飯を胃袋に詰め始めた。
最近よくこの昼食に同席していたマーズ三回生主任教官やシーガ一回生主任教官は「考査対象科目が決定した後」なので、気を遣っているのか食堂で昼食を摂らずに職員室で済ませているようだ。やはり考査期間に入ってから無暗に生徒と接触するのは好ましくないと判断しているのだろう。
「あの……ヘンリッシュ君。来月の試験科目って、もう決まっていると思う……?」
ニルダが恐る々々と言った具合に首席生徒に質問する。
「何故それを俺に聞くのだ?」
パンを咀嚼する首席生徒の態度は素っ気ない。
「いえ……ヘンリッシュ君ならもう気付いているんじゃないかなぁって思ったのですよ……」
ニルダが持ち合わせている度胸の良さは他の級友一同にとっては非常にありがたい存在で、普通の神経であればこの首席生徒にこのような「不躾な質問」をする事は覚束ないであろう。
「そうだな。もう決まっているようだな」
その蛮勇に応えるかのように苦笑を浮かべながら首席生徒は重大な情報を漏らしてくれた。
「えっ!?ほっ、本当に!?」
その返事を聞いて驚いたように声を上げたのはナラン・セリルである。隣に座る彼女が突然声を上げたのでリイナは口に運んでいたスープが気管に入ってしまったのか、咽てしまい、暫くの間咳込んでしまった。
「ご、ごめん。リイナ……大丈夫?」
「う、うん……突然大声を出すからビックリしましたわ……」
その隣でリイナの背を摩っていたケーナが向かいに座るマルクスに
「やっぱり授業の内容や教官殿の話し方なんかで判ってしまうのですか?」
と尋ねると
「お前達は気付いていないのか?」
逆に聞き返され
「うーん……私にはさっぱり……」
ケーナが困惑の表情で応えると、他の者達も同様の反応を見せる。
「あの……ヘンリッシュ君……いや、ヘンリッシュ様……。出来ればその『お考え』をお聞かせ願えませんでしょうか……?」
やはり級友一同が一目置いている度胸の持ち主であるニルダが「本題」とばかりに決定的な質問をぶつけてみると
「お前達は……しょうがないな。絵画の授業でメイオス教官殿が仰られていただろう?『時間は2時間あるからもっと落ち着いて対象を観察しなさい』と。それを聞けば絵画が次の対象科目であることは十分に推測出来るはずだ」
「か、絵画が入っているのですか……あちゃあ……!」
絵を描くのを苦手としているインダ・ホリバオが嘆いた。
「数学の授業ではテイラー教官殿の教科書の進め方が極端に遅くなっている。これは『この辺りが次の試験に出る』という先触れだ」
「えっ……今回もまた数学があるの?」
漸く咳が止まったリイナが驚く。彼女は最近、4組の女子2人と「数学勉強会」をこの第一食堂で放課後に開いているが、それでもまだまだこの科目を克服したとは言えず、前回の考査で出た範囲を中心に授業の復習を繰り返している段階だ。
結局この首席生徒は他の科目についても次々に見分け方とその理由を披露して、結果的に試験対象科目を全て教えてしまう形になってしまった為に、最後は苦笑しながら
「……次回の考査からは自分で見極めるようにしろよな」
空になった食器を重ねて長椅子から立ち上がり、食器返却口へ去って行った。
「け、結局……教えて貰えたね……」
ニルダが呟く。
「お前は本当に凄いよな……尊敬するよ」
彼女の隣に座っていたハリマ・オイゲルが呆れ半分に言うと、他の級友達も頷く。何はともあれ、1組の一同はまたしても早い段階で試験対象科目を知る事が出来、首席生徒に感謝しながらその対策に取り組む事にした。今回は前回とは違って独力で考査に挑んでみようと思っている分、彼らも成長したのである。
****
その日の下校時間。「改革派」の集会はマルクスの考査対策への時間を削らないようにとの配慮と、メンバーがよりによって学校長と2人の主任教官で構成されているので、生徒であるマルクスとの接触は「あらぬ誤解を招く」という理由から、考査が終わる12月16日までは控えようと言う事になり、暫く開かれる事は無い。
マルクスは校門を出ると、いつもは東側の近衛師団本部方向へと1号道路を歩いて行くのだが、今日は逆方向に出てケイノクス通りを挟んだ軍務省に向かった。
軍務省の正門に立つ2人の門衛は憲兵が務めているのだが、彼らは軍服を着た者、もしくは士官学校の制服を着た者であれば余程不審に見られない限り、特に構内への入場を咎める事は無い。
マルクスが門をくぐってから左側を一瞥すると、門の内側……その門柱の影に当たる部分で私服姿の3人がこちらに視線を向けつつ驚愕の表情を浮かべている。
彼等は情報課長イゴル・ナラ中佐からの指令で「改革派」のメンバーを尾行する為にこの場所に私服姿で待機していた情報捜査員達だ。その尾行対象の一人であるマルクスが、こうして士官学校の門を出て真っ直ぐこちらに向かって来て、そのまま軍務省の門をくぐってきたので驚いていたのである。
彼等に対して明らかにそれと分かるように「鼻で笑う」かのような態度で本庁舎に入って行ってしまったマルクスを見た3人は俄かに動揺し出して
「奴め……本省に何の用だ?たかが学生風情が……」
「どうするの?後を尾行るの?」
「いや、我らの恰好では本省内では却って目立ってしまう。俺が課長に報告しに行く。校長と教官の見張りを頼む」
「わかった」
このようなやり取りの後に小柄な男が門の影から本庁舎の入口に向かって行く。彼が本庁舎に入ろうとすると件の首席生徒は受付で職員に何事かを伝えていた。
恐らく何者かとの面会を申し込んでいるのだろう。男が何とはなしにそちらに意識を向けながら足取りもゆっくりと地下に向かう階段に歩いて行くと、受付から伝令が出て昇降階段……つまり彼と同じ方向に向かって歩いて来た。
捜査員の男は、その伝令を視線で追うマルクスの視界に入らないよう、先に素早く階段を降りて様子を窺うと伝令はどうやら階段を上って行ったようだ。
つまりあの首席生徒は情報局に用事があるわけでは無いようなので、安心した彼は取り急ぎ自分の職場に戻って上司に現況を報告した。
「何だと?ヘンリッシュがこの庁舎に来ているのか?何の目的で?」
ナラ課長は報告を受けて大層驚き、聞き返してきた。
「分かりません。伝令が出たので誰かに面会を申し込んだと思われます。私はこれから伝令が戻る前に張り込んで彼がどこに向かうのか見届けて参ります」
「いや、お前のその恰好は目立つ。仕方無い。俺が自分で行く」
ナラ課長は情報課において長年勤めて来たせいか、それなりに機転が利くようで、私服姿の捜査員では拙いと判断し、他の事情が分からない部下に説明をする時間的余裕も残されていない事から、自らが彼の尾行を行おうと決めたようだ。
自分はまだあの士官学校生徒とは面識が無いので、それと判らないはずだ……そもそもあの生徒は自分達から尾行を受けているとは思っていないので自分の存在にも気付かれないはずだ……。
情報課長はそのように考えているのだが、その認識は全く甘いもので……尾行を受けている事、その目的、そしてナラ課長自身の人相風体も全てこの士官学校生徒に把握されている事を彼は知らない。
そして、その彼らの行動が本日この生徒が本省に単身で訪れている原因となっている事にも当然気付いていないのである。
ナラ課長は大急ぎで情報部室を出て昇降階段を上ると……丁度先程の伝令が受付に戻り、マルクスを案内する為に彼と引き返して来るところに行き当たった。
マルクスを連れた伝令が、情報課長とすれ違うように昇降階段を2階に上がって行く。伝令の後ろを歩いていた士官学校生徒は、ナラ課長とすれ違い様に彼へ視線を向けて来て来た。
その目と合った時……ナラ課長は相手が自分を「虫けらでも見るかのように」見下ろしているように感じた。実際、小柄なナラ課長とこの生徒とは20センチ程の身長差があるのだが、その頭一つ程高い位置から注がれた視線には
「お勤めごくろうさん」
とでも言わんばかりの「意思」が込められており、ナラ課長は自分の意図がこの若者に全て見透かされているというような印象を受けてドキリとした。
すれ違って通り過ぎた伝令と、それに続く士官学校生徒はそのまま昇降階段を2階に上って行ったので、少し間を置いてその後を追った。2人が階段を上る足音は2階で途切れたので、彼らの行先は間違い無く2階のどこかのようだ。
しかし2階……と言っても、この軍務省は王都北側二層目、ケイノクス通りの西側区画一帯を占めており、その敷地総面積は約11万平方メートル、そして敷地内に建つ軍務省本庁舎の建築面積は約2万平方メートルに及ぶ。
本庁舎を上空から見ればその形は「8の字(厳密には《日》の字)」型になっており、地上3階・地下2階の建物の中には大小併せて70以上もの部屋がある。
そしてその本庁舎に寄り添うように北側には建築面積約9500平方メートル、地上2階・地下2階構造の憲兵本部が建っていて、両者は2階で渡り廊下、地下1階で地下通路によって接続されている事は以前にも述べた。
士官学校本校舎と並んで、有事の際には王城北門前を護る防衛施設にもなるのが軍務省本庁舎なのである。
実際に両者の建物は広大であり、平面的に見て中間部分に廊下が渡された回廊構造になっている本庁舎2階の南側廊下を案内役の伝令を先に歩かせて若者はどんどん歩いて行く。
情報課長は昇降階段を上がった踊り場から、若者に気付かれないように慎重な動きでその様子を確認し、彼がどの部屋を訪問するのかを目で追い続けた。
やがて伝令は南廊下のかなり奥まった場所まで行ってから、とある部屋の前に立ち止まり、部屋の中に訪いを告げて若者を中に通してから敬礼を行い、こちら側に向かって戻って来た。
ナラ課長は受付に戻って来るその伝令を昇降階段2階の踊り場で呼び止めて
「君が今、若者を案内した部屋はどこの部署かね?」
と、尋ねた。上等兵である伝令職員は、突然情報課長であるナラ中佐に呼び止められてビックリしたのか
「はっ、はいっ!ほ、法務部次長殿のお、お部屋にご案内いっ、致しましたぁっ!」
「法務部次長殿だと……?アラム大佐の執務室にか?」
「はっ……はいっ!」
「その用向きは聞いたのかね?」
「はっ……い、いえっ!次長殿へ個人的に用事があると……事前約束は取られていなかったようですが……小官が次長殿へ取次確認を致しましたところ……『すぐにお通しせよ』との指示がございましたのでご案内致しましたっ!」
「では……君はあの若者の訪問目的までは聞き及んでいないのだな?」
「はっ!申し訳ございませんっ!」
「いや……別に謝らんでもいい。そうか……ありがとう。受付に戻って良いぞ」
「はっ!しっ、失礼致しますっ!」
伝令職員は挙手礼を行ってから階段を降りて行った。その場に残った情報課長は
(アラム法務次長だと……?アラム大佐……法務官だったか。一体何の用で彼を訪ねる……?そして大佐は突然の来訪である「たかが士官学校生徒」を何故すぐに迎え入れたのか……)
首を傾げながら自身も階段を降りて地下にある情報部内にある自室に戻った。程無くして先程の捜査員が再度彼の部屋に訪れ、学校長と主任教官の退勤を確認した事、そしてその尾行に入った事を報告してきた。
しかし当然ながら今一人の尾行対象となっている一回生首席生徒はこの軍務省本庁舎2階の法務部次長室に入ったままである。
情報課長は法務部次長とあの士官学校生徒をどうしても結び付ける事が出来ず、不気味な不安に襲われるのであった。
****
法務部次長であるジェック・アラム大佐はその執務室に、先月散々にやり込められた士官学校一回生首席生徒を迎え、やや緊張の面持ちで
「これはヘンリッシュ殿……。本日は私にどのようなご用件が?」
尋ねてはみたが、相手は入室した直後から表情を硬くして自分をまるで「睨み付けている」かのように佇んでいる。先月までの驚愕すべきやり取りの数々を思い出して法務官は落ち着かなくなった。
「これはこれは……『どのようなご用件』とは。法務官殿と致しましては既にご存知なのでは?」
マルクスの表情はやや不快感を漂わせたものになっている。彼がこのような「負の感情」を、あからさまに浮かべた表情を見て法務官は慌てた。
「ど、どうされたのでしょうか……?」
「フン……まぁ、いいでしょう。本日は『通告』の為に伺わせて頂きました」
「つ……通告……?」
「まだ惚けられますか。では通告させて頂きます。先月結ばせて頂いた『和解』ですが、当方と致しましては約定を反故にされたと見なし、これを破棄させて頂きます。
よって本日これより、かねてより申し上げておりました『制裁』を実行させて頂きます。私から申し上げる事は以上です。失礼致します」
そこまで一気に捲くし立てるように言い切ると、マルクスは踵を返して扉に向かって歩き出した。
「和解を破棄」「制裁を実行」という言葉を聞いたアラム法務官は仰天し
「ち、ちょ、ちょっと……おっ、お待ち下さいっ!」
と、弾けるように椅子から立ち上がって扉に向かう若者を小走りで追いかけて来た。後ろから追い縋って彼の左肩に手を掛けた瞬間……その右腕はこの士官学生によって捻り上げられていた。
「触るな。卑怯者が」
右腕を捻り上げている長身の若者は法務官をそれこそ「突き刺すような」視線で見下している。その表情からは先程よりも明らかな「軽蔑」と「敵意」が読み取れる。
「あっ!いっ!痛たたたっ!」
「お前達は私との『約束』を僅か二月足らず……舌の根も乾かぬうちに破った。そちらがその気であるならこちらにも考えがある」
マルクスがこのような態度を示しているのは勿論「演技」だ。今回の件では気の毒ではあるが、この「何も知らない」法務部次長殿に「圧倒的な恐怖」を植え付けてやる事で「軍務省全体を揺さぶろう」というのがその目的である。
「お、お待ちくだ……痛たたたっ」
悲鳴を上げながら尚もマルクスを引き留めようとする法務官の右手を振り払うかのように放し、手首を抑えて痛がる軍務官僚に
「この件の詳細を全て宰相府の監査庁に申し上げて、この腐った政府機関と卑劣な役人を全て追放させてやる。私を止められるものなら止めてみろ。全員この世から消し去ってやるぞ」
「最近、侍従長殿の父君であらせられるエッセル元北部方面軍司令官閣下とも知己を得られたのでな。今上陛下へも言上して頂く。『最高司令官閣下』からの沙汰を待つがいい」
マルクスは矢継ぎ早に言い募った。心当たりも無いのに突然このような恫喝を浴びた法務官は手首は痛むわ頭は混乱するわで目を白黒させている。
「お、お待ち……お待ち下さい!なっ、何の事やら……しょ、小官には訳が……訳が解らないのです……本当でございますっ!」
将来の軍務卿と目されている高級官僚は、この目の前で自分を軽蔑の意を込めて見下ろしている15歳の若者に対して、泣きそうになりながら寛恕を求めている。
言葉遣いもまるで上司に対するそれで、最早相手が士官学生であることも失念しているようだ。
「まだ惚けるのか?そんな奴とは思わなかったがな」
「ほっ、本当なのでございますっ!あの『和解』を破棄……私共がですか……?約束を破ったなどと……何かの間違いでは……?」
半眼となっているマルクスからの圧倒的な「恐怖」を感じて震えながら法務官は必死に抗弁している。
本来であれば自らの執務室を突然訪れて恫喝を浴び、右腕まで捻り上げられたのだ。大声で助けを呼べば多少なりとも時間は掛かるが守衛の1人や2人は駆け付けて来てくれるであろう。
しかし、法務官は本能的に解っていた……。たかが数人、駆け付けて来たところでこの若者を実力で「制止」する事は困難であろうと。
「先月の一件」で散々とそれを見聞きしてきたのである。あの老練な「やり手」であるサムス・エラ憲兵課長ですら「彼を敵に回すのは宜しくない」と言っていたのだ。
まずは何故彼がこのように怒りを露わにしているのか、その理由を確認すべきだ……恐怖に震え上がる自身の頭の中に僅かながら残っていた「理性」がそう訴えていた。
「おっ、教えて下され!わっ、私……い、いや私達は何を以って……あなたを、そこまで怒らせてしまっているのかを」
「ほぅ……自分達が私との約束を反故にしたという事実を認めないのか?」
「みっ、認めるも何も……そ、そのような心当たりが全く以って思い付きません……」
「では、私がその『証拠』を示す事でお前達の『約定違反』を認めるんだな?」
「みっ、認める……い、いや……そんな……決してそのような約束を違えるなど……」
「どうなのだ?証拠を示せばそれを受け入れるのか?それとも白を切り通すのか?まぁ、お前達のような卑怯者には何を見せても惚け通すのだろうがな」
若者からの挑発的な物言いにも声を荒げる事無く法務官は
「も、もし……その……証拠をお示し頂いた上で……お許し頂けるならば、私に弁明の機会を……お与え頂けませんでしょうか……。私には何が何だかさっぱり……本当に解らないのです。突然いらしてそのように申されて……」
狼狽えつつも弁明の機会を要求してくるその「度胸と根性」に心の中で大笑いしつつも感心したマルクスは
「よし。では支度をしろ。これからのその『証拠』を見せてやる」
「どこか……お出掛けになられるのですか?」
「そうだ。その『証拠』と言うのは、この場には無い。庁舎の外……南東区画にある護民庁の『第5支署』にある」
「ごっ……護民庁……!?」
「早く支度をしろ。それとも私との同行を拒否するか?私は別に良いがな。お前が来ないのであればその『弁明』とやらの機会も永久に訪れる事は無いし、私はその『証拠』を監査庁に持ち込むだけだ」
「ま、ま、まっ、待って下さい!いっ、行きますっ!同行させて頂きますっ!」
先程捻り上げられた右手の痛みが漸く治まって来たアラム法務官は、慌てて執務机の右後方にあるコートスタンドから上衣と軍帽をひったくるようにして身に着けた。
それを見たマルクスは小さく笑いながら今度こそ扉に向かう。
小走りに着いて来る法務官を伴って、彼の執務室を出たマルクスはそのまま正門側の昇降階段を使わずに庁舎の西側……即ち裏門側の階段で1階に降りて裏口から一旦庁舎の外に出た。
そのまま庁舎外側の通路を北側に向かい、憲兵本部との渡り廊下の下を通って正面玄関側に回り込む。
後からこれに続いて来た法務官は、この若者が何故このような「回り道」をしたのか理解出来無かったが、正門の裏側が見える位置まで移動したマルクスが
「ほら。あそこに男が居るな」
門柱の裏側に隠れるようにして敷地の外……既に3人の内の2人はエイチ学校長とマーズ主任教官を追って門外に出ている為、一人だけ残って士官学校側を窺っている私服姿の者を指して
「あれがまず最初の『証拠』だ。奴は私の行動を探っている」
「なっ!何ですって!?」
法務官は仰天した。門の内側であのような素振りを見せていながら、付近の門衛にも咎められないあの男は、少なくとも軍務省の関係者である事だけは明白である。
「これから奴の前を通って正門から外に出る。お前は先に歩け。私は後ろからお前を見張りながら歩く。もしお前があの男に何か指示する素振りを見せたら……お前を『クロ』と見做すからな」
「そ、そんな……わ、分かりました……」
アラム法務官はマルクスの前に立って正門に向かい歩き始めた。法務官は門をくぐる際に敢えて男の方を見ずに門を出た。すぐに後ろからマルクスが追い付いて来て
「『奴』は私を尾行して来るはずだ。いいか?お前の様子は逐一見張っているぞ。お前が奴に対して何か指示を送る素振りを見せたら……解るな?」
「は、はい……」
門を出た2人は肩を並べて歩き始めた。今度は士官学校の正門前を通過して近衛師団本部の方向へ1号道路を進む。
制服の隠しから小さな鏡を取り出したマルクスは
「見てみろ。さっきの『奴』が尾行て来るぞ。お前達は私と約束したはずだ。『今後一切、私に干渉したり詮索しない』とな。この時点でもう約束は破られているのだが?」
マルクスの持つ小さな鏡を覗き込んだ法務官は、先程……門柱の影に隠れるようにしていた男の姿が映り込んでいる事に驚愕し
「なっ……な、な……何故……あの者は何故あなたを……」
「立ち止まるな。聞きたいのは私の方なのだがな」
マルクスは、歩みを止める事無く低い声で法務官に言い付ける。
「とにかく歩け。後ろの奴の事はどうでも良い。いずれにせよ『第5支署』に行けば証拠がな……」
「フン」と鼻を鳴らしながら横で歩く若者の横で法務官は脳味噌をフル回転させていた。
(何なんだ……何故、奴は「彼」を尾行している?奴は何者なのだ……?「軍務省の関係者」である事だけは、先程の門内での様子……誰に咎められる事も無くあのような私服姿で居られるという事だけでも判るのだが……。
あのような状態で居るとすれば考えられるのは……情報部か。情報局員ならば……「あんな恰好」で「あんな場所」に居てもそれが「任務」だと言われれば誰も構う事も無いだろう……)
「へ、ヘンリッシュ殿はその……『奴』の正体をご存知なのですか……?」
「正体も何も、軍務省の者だろう?何を今更惚けているんだ?軍務省以外の者があんな場所に居て咎められないわけが無いだろう?」
「あ……いえ、そういう意味では無く……あの者が軍務省の『どこの者』であるかと言う事で……」
「そのような事を私が知る必要は無いだろう?私とお前達との約束は
『軍務省は以後マルクス・ヘンリッシュに対して干渉及び詮索はしない』
と言うものであったはずだ。そして今、私の後ろを『軍務省の者』が尾行している。それでもう十分では無いか。お前達の『約定違反』という事に対してな」
未だその声に不快さを滲ませたマルクスの答えに対して法務官は何も抗弁出来ずにいた。この時点で既に「約定違反」は明確なのだ。
最早……この高級軍務官僚には絶望感しか残されて居なかった。
****
護民庁第5支署にジェック・アラム軍務省法務局法務部次長を従えて入ったマルクスは受付の護民兵職員に
「先日……11月20日に窃盗未遂の被害を受けましたマルクス・ヘンリッシュと申します。エチル護民官殿は本日ご出勤なされていらっしゃいますでしょうか?」
先程来の法務官に対する態度とはまるで違う丁寧な言葉遣いで問い合わせを行う士官学生と、その後ろで落ち着かない態度で立つ明らかに高級士官と思わしき軍人の姿を見て受付の職員も緊張しながら
「しょ、少々お待ち下さい」
と、慌てたように署内に入って行った。
「窃盗未遂……?ヘンリッシュ殿がですか?」
訝しむ法務官へ
「いいから黙って待っていろ」
士官学生の声は冷たい。やがて何か受付の奥から速足で近付いて来る複数の足音がして、短い茶髪の女性が先程の受付職員と共に現われた。
「これはこれは。ヘンリッシュ殿。その後『あの件』で何か?」
「はい。『あの男』はまだこちらで留置されておりますでしょうか?」
「ええ。あれから毎日尋問しておりますが、身分や姓名すら名乗りませんね。全く以ってこちらは手詰まりになってます……」
「そうですか。実は本日、あの男の『上司』を連れて参りました」
「えっ!?」
「えっ!?」
マルクスの前後から異口同音の声が上がった。言うまでも無くエチル護民官と、マルクスの後ろに控えていたアラム法務官からのものだ。
「じょ、上司とは……ヘンリッシュ殿は『あの男』が何者かご存知なのですか?」
「はい。あの後、私も自分自身で色々と調べたのです。何しろ『彼』は私の名を知っておりましたでしょう?それがとにかく不気味でしたので」
「そっ……そう言えばそうでしたわね。あの男……それだけが手掛かりでしたものね」
「ええ。それでまぁ……この半年間の事を私なりに考え返して見ましてね。何となくではありますが……彼の正体に思い当たったので、その『関係者』をこうして連れて来たのです」
「そ、そうなのですか……。で……失礼ですが、そちらの方は……?」
エチル護民官はマルクスの背後に立つ明らかに「軍のお偉いさん」と見える男性に視線を移して尋ねて来た。
「小官は軍務省法務局法務部次長を拝命しておりますアラムと申します」
「ぐ……軍務省の……?」
「はい。彼は法務官でもいらっしゃいましてな」
「えっ……法務官殿……でありますか?」
「ひとまず、宜しければ『あの男』に面会させて頂けませんか?一応、法務官としてなら可能ですよね?」
「え、ええ……法務官殿でいらっしゃるのであれば……犯罪容疑者との接見は勿論可能です」
「まぁ、彼の場合は何と言ってもその『犯罪容疑者』の上司ですから」
マルクスがニヤニヤしながら言うと
「で、ではこちらへどうぞ……ご案内します」
と、エチル護民官は2人を支署の中へ通した。彼女にしてみれば尋問に行き詰っていたところに被害者が突然「容疑者の上司」と称して「とんでもない大物」を連れて来たので、多少動顛している。
中に通された2人は支署1階に何部屋か設けられている「取調室」に椅子を用意されてここで待つように言われ、椅子を勧めた護民官はそのまま「容疑者」を連れて来る為に部屋を後にした。
2人になってから、法務官は
「ヘンリッシュ殿が言われていた『証拠』とは……これから会う『容疑者』の事なのですか?」
「そうだ。予め簡単に説明しておいてやるが、私はその容疑者に住居を荒らされた。どうやら何か家捜しでもしたようだな。その行為中に私が帰宅して、その窃盗犯と鉢合わせたので捕り押えて護民兵に引き渡したのだ。その様子は近所に住む者達も見ているし、先程の護民官殿が犯行現場の検証も行ってくれている」
「で、では……そ奴が軍務省の者と……?」
「そうだ。軍務省の者が私を尾行し、住居を漁る。これは明らかにあの時定めた約束を反故にする行為だな?」
「そっ、それはしかし……私には……」
「ほう……やはり言い逃れるつもりかね?」
マルクスの顔が若干険しくなったところで、扉が開いてエチル護民官が戻って来た。そしてその後ろから、2人の護民兵に両腕を後ろ手で拘束された男……情報局情報課情報捜査1係のスピニオ・ガレノ捜査官が入室し、マルクスらとは机を挟んだ反対側の椅子に座らされた。
ガレノは既に1旬近い拘留と、連日の取り調べで憔悴し切っており……特に抵抗らしい抵抗を見せる様子も無く椅子に座って虚ろな目で2人を見つめている。
「護民官殿。彼に話掛けても構いませんか?」
マルクスがエチル護民官に尋ねると
「え、ええ……どうぞ。もうここ2日くらいはこんな調子ですっかり大人しくなっていますがね」
護民官も「お手上げ」というような身振りで許可を下す。そこでマルクスは
「よし。お前の姓名と身分を名乗れ」
特に感情を込めるでも無く、目の前に座る「容疑者」に「命じるように」話掛けた。
「お、俺は……軍務省情報局情報部情報課……情報捜査1係の情報捜査官ガレノ……スピニオ・ガレノ兵長だ」
これまで頑なに沈黙していた男が自身の身分や氏名を突然名乗ったのでエチル護民官は仰天した。
「ではガレノ捜査官。お前は何故私の部屋に居た?そして私の部屋で何を探していたんだ?それとも単なる窃盗目的で私の部屋に侵入したのか?」
「俺は……上司……ナラ課長の指令に従ったまでだ……そ、その……お前を尾行し、お前の行動を監視しろと……だが……お前の部屋に入った事は……解らない……」
「そうか。分かった。ナラ課長と言うのは、情報課長の事か?」
「そうだ。情報課長のイゴル・ナラ中佐だ」
ここでマルクスは、彼の左側でこの話を聞いていたアラム法務官の方に向き直り
「さて法務官殿。今の話を聞いてまだ何か言い逃れでもするかね?この男は間違いなく軍務省の情報機関の者のようだが?しかもこの男の独断では無く管理職である情報課長直々の『ご命令』と言ってるが?」
更にマルクスは立ち上がり、冷え切った視線で法務官を見下ろしながら
「これで納得しただろう?お前達は私との約束を反故にした。あの『和解』は既に破棄されたわけだ。私はこれから、この男を宰相府の監査庁に引っ張って行き、これまでの経緯を洗いざらいブチ撒けて、お前達のような約束も守れないクズ共を残らず処分して頂くつもりだが?」
「ま、ま、ま、まっ、待ってくれっ!待って……こっ、これは……何かの……何かの間違いだっ!」
「間違いだと?今、私とお前の目の前に居るこの男は粉う事無く軍務省の情報機関の者で、上官である情報課長の指令を受けて私の身辺を探っていたじゃないか。
しかも私の部屋の中に侵入して令状も無しに家財を引っ掻き回してだぞ?そうですよね?護民官殿。あなたも私と共に『あの部屋の様子』をご覧になったはずです」
突然自分に話を振られてエチル護民官は動顛した。今目の前では若い士官学生が、軍務省の次長……しかも法務官に向かって強い口調で一方的に問い詰め、法務官が委縮している様子を見させられて驚愕していたところだったのだ。
「え……ええ……はい……。確かに……ヘンリッシュ殿の部屋が……まるで嵐が通過して行ったかのように荒れ放題になっておりました。当時の近所の方々の証言から、あの部屋でヘンリッシュ殿と……この容疑者が争った上で彼に捕り抑えられて建物の外に引き摺り出されたのは明白のようですし……」
「どうだ?間違いではなかろう?この者の『罪状』はどうやら動かしようも無さそうだぞ?」
「そっ、そんな……私は何も……」
「お前が命じたかどうかなど関係無い。もう一度言うが私とお前達との約定内容は『今後、軍務省はマルクス・ヘンリッシュへの干渉及び詮索は一切行わない』というものだった。お前が関与しようがして無かろうが、軍務省の者が私の詮索……しかもこんな『空き巣紛い』の真似までしてくれたんだ」
「解るだろう?お前『達』は私との約束を反故にしたんだ。だったら『あの和解』は無効だ。私は再度、あの件の被害者として事件の解決を希求する権利がある。
最早お前達は信用ならんからな。だから今度は信用出来そうな監査庁へこの件の解決を依頼するつもりだ。ついでに私との約束を簡単に踏み躙るお前達の腐敗っぷりもお調べ頂こうじゃないか。
軍務省内の醜聞を検察側であったはずのお前が和解を周旋させてまで糊塗しようとしていたんだ。叩けばもっと埃は出て来るだろうなぁ」
マルクスの止め処無い追及に最早法務官は言葉を失って顔を青醒めながら聞いている。嘗て同じように彼の追求を受けたアーガス・ネル前第四師団長に様子がそっくりだ。
「護民官殿。お手数をお掛けしました。面会は以上で結構です。今後の事ですが、この男の身分や氏名は判明しましたが、送検は今少し延ばして頂けませんでしょうか?これより速やかに監査庁に赴いて事情を説明し、あちらから引き渡しの手続きを執って頂きますので」
「ちょ、ちょっとっ!ちょっとお待ち下さいっ!」
マルクスが護民官に依頼するのを茫然と聞いていたアラム法務官が慌てて割り込んで来た。
「何だ?まだ何か言い逃れでもするのか?私はこうして『動かぬ証拠』を見せてやったぞ?私は前にも言ったよな?『遵法意識の無い者とは交渉するつもりは無い』と。約束もまともに守れないようなお前らとはこれ以上交渉するつもりは無い。全員纏めて今上陛下の怒りを受けて処分されてしまえ」
「お、お願いですっ!お願いだっ!ヘンリッシュ殿っ!もう少しっ!もう少しだけ私に考える時間と……弁明の機会を与えて欲しいっ!あなたの要求は何でも聞くっ。だから頼みますっ!この通りっ!」
最早その場で護民官という『第三者』が見ているという事などお構い無しに法務官は立ち上がって士官学校生徒に深々と頭を下げた。ネル少将閣下のように感情に任せて土下座に及ばないだけ、まだこの男には矜持が残っているのだろうか。
頭を下げ続ける法務官を見下ろすように見ていたマルクスは心中で
(まぁ、こんなもんかな。これだけ脅し付ければ十分だろ)
と、ほくそ笑みながら……表向きは尚無言を貫いている。
「あ、あの……と、当方と致しましては事情は何やら分かりかねますが……容疑者の身元も判明した事ですし……ひとまず、この男を留置場へ戻します」
護民官が部屋の外に控えていた2人の護民兵を室内に入れ、再度ガレノ捜査官の身柄を拘束して留置施設へと連れ出そうとすると
「お、おいっ!俺は無実だっ!俺はっ!俺はっ!ナラ課長殿に命じられてっ!」
烈しく抵抗する素振りを見せるのへ
「貴様っ!勝手な真似をしおってっ!貴様らの愚かな行動のせいで我が省全体がどれだけ窮地に立たされているのかっ!解っておるのかっ!」
アラム法務官が珍しく怒鳴りつけた。彼にしてみればこの者を含めて情報部全ての者達を八つ裂きにしたいくらいだろう。
法務官は怒鳴りつけるだけでは飽き足らず、入口付近まで移動させられていたガレノ捜査官に駆け寄ってその頬を平手打ちにした。更にもう一発「お見舞い」しようとしたところで、その右腕をマルクスが掴み捕り
「おいおい。この男は大事な『証人』なので荒っぽい真似はご遠慮願おうか」
「しっ、しかしっ!この者……こいつらのせいでっ!」
「護民兵殿。その者を早く連れ去って下さい」
マルクスの要請に応えるかのように、2人の護民兵はそれでも喚き散らすガレノ捜査員を取調室から廊下に引き摺り出してそのまま連れて行ってしまった。
捜査員の喚き声が小さくなり、やがて聞こえなくなってからマルクスは掴んでいた法務官の右腕を解放して
「やれやれ……仕方無い。一度だけ機会を与えてやろう。これ以上この場で軍務省の醜態をこの護民官殿にお見せするわけにもいくまい」
マルクスが苦笑しながら言うと、怒りに震えていた法務官はハッと顔を上げて
「ほっ、本当でございますかっ!?本当に……私の弁明をお聞き届け下さると……?」
「いいだろう。お前の態度を見るにどうやら『寝耳に水』の事であったと見えなくも無いからな。その話を聞いた上で、改めて判断させて貰おう」
「あっ……ありがとうございますっ!」
もう一度深々と頭を下げる法務官を余所にマルクスは護民官へ言葉を掛けた。あくまでも彼女に対してマルクスの態度は丁寧なものであった。
「色々とお騒がせ致しました。出来る事であれば先程来、この場で見聞きした事は……あの容疑者の身元以外の事はそのお心の内にお納め頂けますよう、お願い出来ますでしょうか」
「あっ……は、はい」
エチル護民官は、その端正な顔に僅かな笑みを浮かべたこの士官学校生の要請を大きく頷きながら受諾した。
「護民官殿……申し訳ございません。我が省の……思わぬ醜態をお見せしてしまいました。本日の事はどうか内密に願います……」
法務官たる軍務省の高官から頭を下げられて護民官は逆に恐縮の態となった。彼女は22歳。官僚学校を卒業して内務省に採用されてから、まだ4年しか経っていないのである。
このような支署勤務である自分がまさか軍高官から頭を下げられるとは思っても居なかっただろう。
「りょ、了解致しました。本日の事は口外致しません。ご安心下さい」
護民官からの言葉を受けて法務官は再度頭を下げた。最早目の前の「小娘」に頭を下げる事など……どうでも良くなるくらいに今の彼は精神的に疲弊していた。
「ではこれにて失礼させて頂きます」
マルクスも頭を下げたので
「お送り致します」
と、エチル護民官は取調室の扉を開けて廊下に出た。士官学校生と法務官はそれに続く。支署の出口で再度、護民官に礼を述べて外に出てみると、空は既に暗くなりつつあった。
マルクスがふと目を支署の向かい側に立つ印判屋の店構えの横にある路地に向けると、ここに来るまで彼らを尾行していた情報課の捜査員がこちらの様子を窺っている。
「さて……まだ飽きずに我々を見張っているのか。まぁ、いい。このまま一度本省に戻ってお前の話を聞いてやる。『奴』の事は放っておけ」
「は……はい」
2人は軍務省に向かって歩き出した。当然ながら捜査員も尾行に就く。滑稽な事に、この捜査員はまだ自分が「相手に知られていない」と思って任務を続行しているわけだ。
事実、この捜査員の尾行能力は通常であればかなり高いものと言える。しかし今回ばかりはとにかく相手が悪かった。一般人であればほぼ気付く事の無いであろう彼の尾行は終始露見しっぱなしであった。
やがて20分程歩いて2人は軍務省の庁舎に戻って来た。アラム法務官は最早ぐったりした様子であったが、これからこの一筋縄で行かない士官学校生に「約定違反行為」について弁明しなければならないのだ。
門衛の敬礼に対しても力無く応じた法務官は庁舎の入口から入る時に「尾行者」が彼等の脇をすり抜けて行き、さっさと昇降階段を下りて行く……恐らくは「元締め」である情報課長に注進しに行ったのであろう……後ろ姿を、法務官は忌々しげに睨み付けた。
法務官はマルクスから指示を受けるまでも無く、2階にある自らの執務室に向かい、彼を中に通してから応接ソファーを勧め、自らもその向かい側に腰を下ろした。
「さて。お前の弁明を聞く前に……私の方で把握している事柄を予め説明してやる」
マルクスの言葉を聞いた法務官は
「どういう事でしょうか……?」
「私はあの愚かな連中が私の事を尾行回す理由に心当たりがある」
「えっ……?どういう事でしょうか?あの情報部……があなたの事を調べているのは……あの『ネル家の一件』と別の事なのですか?」
「そうだな。その前に聞いておく。あの『ネル家の一件』は、この軍務省内でどれほど知られているのだ?」
「はい……。軍務省内でも表向きは『ネル少将閣下の令嬢と子息が士官学校で暴力事件を起こして憲兵隊に拘束された』という内容程度でしか伝わっていないはずです」
「つまりお前達……上層部が緘口令を布いたのだな?」
「はい。まぁ、省内でも多少耳聡い者であればサー・アーガス自ら任地より駆け付けて来て憲兵本部で談判に及んだ事くらいは知っているようですが……そして結局は『被害者の士官学生と和解に及んだ』という決着で認識されているはずです」
「で?和解の為の条件については?あの『3つの条件』はどれだけ知られているんだ?」
「いえ。関係者……あなたの仰る『上層部』の者だけしか知らないと思います。何しろあれだけの大量処分者を出しているのです。その規模を公表してしまえば省内が大混乱になるでしょう」
困惑した表情で法務官は話した。それに対してマルクスは
「では3つ目の条件。今回問題になっている、私への干渉や詮索をしないという項目についても一部の者だけしか認識していないと?」
「勿論そうなります」
「その認識されている範囲に情報部は含まれていないのか?」
「はい……。必要最小限の範囲で情報統制を行っておりますので」
「まぁ、それに関しては私の立場からでは何も言うまい。お前達はお前達の判断で情報統制……緘口令を布いたのだろうからな」
「はい……。あの後に陛下からの御勅諭もございましたし……」
「で、あるならば今回の件はお前……いや、お前を含めた上層部のミスだな。情報の統制範囲を誤ったわけだ」
「そ、それは……」
「そうだろう?今の話を聞いた限りでは情報部……まぁ、今回の件で情報部のどこまでが関与しているのかは知らんが、少なくとも情報課長から指令が出ている事は確実なわけだ。その課長がバカなのかは置いておくとして、少なくともそいつ辺りまで情報を与えておけば、今回のような『動き』は無かったのではないか?」
「そ、そう言われてしまいますと……」
「まぁいい。話を戻そう。奴等は多分……士官学校で最近起こっている『戦技授業』の件で動いているのだろう」
「は……?戦技……授業ですか?士官学校の?」
士官学校卒業後に軍務省に任官し、法務畑をひたすら歩んで来たアラム法務官に、士官学校の授業の事など頭にあるはずも無かった。
「そうだ。現在士官学校の中では『戦場で全く役に立たない戦技』の授業を在りし日の『本来の授業内容』に戻そうという動きがある。つまり授業改革だな」
「改革……ですか?」
「これを見ろ」
そう言って、マルクスは制服の隠しから折りたたまれた紙片を取り出して法務官に渡した。早速その紙片を広げて中身を熟読した法務官は
「あの……これは……?新任官少尉が赴任初年度に戦死する統計……?」
「そうだ。それはここ100年間の記録を基に纏めた統計だ」
マルクスが法務官に読ませている紙片に書かれた資料統計は、過去100年間に渡って陸軍と海軍に任官した新士官……及び転任となった士官が、その赴任最初の年で戦死または任務に堪えられない程の重傷を負った数を纏めたものだ。
そして、その比較対象として700年前……つまりマルクスことルゥテウスの記憶に残っている頃の統計として800年前から700年前のやはり100年間に及ぶ同内容の数字も記されている。
「まず陸軍と海軍を比べてみろ。陸軍の方が遥かに死傷者が多いのが解るだろう?陸軍に比べて海軍は全海域で数多くの実戦が発生しているのにだぞ?」
「そ……そう言えば……。海軍の方が少ないですな……。な、何故なのですか?」
紙片から顔を上げて真面目な顔で尋ねて来るアラム法務官に対してマルクスは呆れながら
「おいおい。それが判らんのか?お前だって士官学校を卒業しているのだろう?」
「え、ええ……」
「それでも気付かないのか?」
「士官学校に原因があると?」
「まぁ……いい。ではその700年前の統計を見てみろ。同じく海軍と陸軍の死傷者を比べるんだ」
「はい……おや?現代と比べてその差はかなり少なく見えますな……」
「いいか?700年前はまだこの国は大北東地方を領有していて、反乱が頻発していた頃だぞ?つまり陸軍が現代とは比べ物にならない程に全体的に実戦を経験していた時期だ。それなのに現代よりも新任指揮官の死傷者……特に死者が少ない。これはどういう事だ?」
「……あっ!本当ですね!新任官少尉の初年度死者数は現代の……3割以下……。こんな事が……」
「何故だと思うかね?」
「敵の強さが今と昔では違う……のでしょうか?」
「そんなわけ無いだろう。戦場の規模は今よりもずっと大きいのだぞ?勿論戦闘に参加する人員規模も違う。2302年……今から約750年前に起こった大反乱では北方住民の他にも王国各地で同時多発的に蜂起があって反乱側の延べ人数は27万人に達している。
現代の北方匪賊では飢饉で飢餓状態の流賊でも発生しない限り、せいぜい数百……場合によっては千をちょっと超える程度だろう。南方と西方の海賊ですら百人単位だ。往時の戦闘とは規模の桁が違う。それなのに新任官の少尉の死者数は現代よりも少ないのだぞ?」
「な、なるほど……一体、これはどういう事なのでしょうか?」
軍法とは畑違いの戦傷被害の話にも関わらず、法務官は考え込んでいる。どうやらマルクスの話を聞いて本気で疑問を抱いているようだ。
「まぁ、お前達軍務省の官僚どもには理解出来無い事かもしれないな。所詮お前達は本物の戦場を知らんのだ」
「ヘンリッシュ殿はお判りになられているのですか?」
「この700年前の数字と見比べれば解るだろう。つまり現代の新任官少尉の方が『戦場で役立たず』なんだよ。戦い方を知らずにむざむざと国境に屯すゴロツキ風情に殺されていっているんだ」
「そんな……な、何故です?」
「それが今、士官学校内で提起されている『戦技授業』の問題だ。つまり700年前と比べて現代の白兵戦技の授業の質が明らかに劣悪化しているんだ。
戦い方も満足に習っていない卒業生が北方や南西の戦場で生命を落としている……この国の軍隊は、その誤った教育によって毎年何人もの『前途ある新士官』の生命を無駄に散らしている」
マルクスがそう断言すると、アラム法務官は返す言葉も無く息を飲むだけであった。
「王国歴2249年から2348年までの100年間で、士官学校卒業直後の新任官少尉で1年以内に生命を落とした者が118名。四肢を失うような重傷を負った者が77名。これには戦地の中心であった北方以外からの転属者は含まれていない。
この期間に陸軍が『戦力』として喪った新任官少尉の総数は195名だ」
「転じて現代……2948年から3047年の100年間になると戦死者は見ての通り……381名、重傷病者177名。総計で558名となる。
ちなみに前者の延べ総出撃回数が19227回。後者が6811回。戦闘機会は3分の1に減っているのに戦死者は3倍強だ」
「そ、そんな……あたら若い生命が……」
「それに比べて海軍はそれほど……まぁやはり増えてはいるがな。それでも陸軍に比べてその増加が少ない数字に留まっているのは、お前達陸軍と違って海軍は三回生の一年弱だけではあるがチュークスの『分校』で『まともな戦技授業』をやっているからだ。
更に言えば王都周辺の部隊でヌクヌクと過ごしていた奴等が教官をやっている本校と、年がら年中……生命を張った海上任務に就いていた分校の海軍士官が教官をやっている『人材の質の差』でもある」
それから暫くの間、マルクスはアラム法務官に現代の士官学校における戦技授業の稚拙さを説明し続け、今まで全くそのような疑問を抱いていなかったこの高級官僚を驚愕させ続けた。
「さて。これまで現代の王立士官学校『本校』における白兵戦技授業がいかに粗悪な質のものであったか説明したわけだが……お前はどうせこの話を『他部署の話』としてしか捉えていないだろう?畑違いの自分には関係無い……と」
マルクスが意地の悪い顔付きで尋ねると、法務官は顔を左右に振って
「とんでもございません。ヘンリッシュ殿のご説明された内容が本当であればその……授業の内容が質の低いものに変質してから既に450年近くですか……?
直近の100年間であのような酷い数字が出ているのです。その『450年』という期間全体で考えたならば……これは由々しき問題です。何故今までこの問題を軍部は放置してきたのでしょうか?」
と、真面目な顔で答える。それを聞いたマルクスは突然笑い出した。驚く法務官に対して
「お前は本気でそれを言っているのか?軍部が放置して来ただと?放置して来たのはお前達軍務省だろうがあっ!」
笑い出したと思ったら雷鳴のような怒鳴り声である。法務官は飛び上がった。言うまでもないが、この時点でこの法務部次長室にはマルクスによって結界が張られているのでこの大音声は室外には一切漏れ出ていない。
「貴様ら無能な軍官僚によって450年もの間……若い生命が北部や、南西部で無駄に磨り潰されて来たんだぞ?このような数字による統計が残っているんだ。
歴代の軍務省だってこの実態には気付いていたはずなんだっ!それでも質の悪い授業内容は変わらない。そして毎年のように悲劇は繰り返されて来た。全部お前達無能な軍務官僚の責任だっ!」
「今、士官学校の中で漸くこの『馬鹿げた悲劇』の悪循環を正そうという者が現われた。お前も知っている『公爵家の御曹司』……タレン・マーズ三回生主任教官殿だ」
「マーズ大尉……いや、少佐でしたな……。そうか……北部軍の鬼公子……」
やはりアラム法務官もタレンの驍名は知っていたようだ。
「そうだ。その北部軍の鬼公子も、この士官学校時代のどうしようもない低劣な戦技授業によって実戦の場での勝手が解らず、初陣で死に掛けたそうだ」
「えっ……あの鬼公子がですか!?」
「彼は初陣で死に掛け、そこを当時の部下が生命と引き換えにして彼を救った。初陣で2人の歴戦の兵士が自分の為に生命を落とした事を以後悔やみ続けている。
その時の無念さが彼をして『今の若者に自分のような体験をさせてはいけない』という思想に至らしめたようだ」
「そうですか……あの御曹司にはそのような体験が……」
「彼は士官学校教官……それも主任教官として抜擢を受けたのを機にこの『改革』を思い付いて海軍大将である今の学校長閣下に意見を直訴したのだ」
「今の学校長は海軍の大将閣下なのですね……そう言えばネル姉弟の復学問題の際にそのようにお伺いしておりましたな。しかし海軍の御方に鬼公子の心情が解るものなのですか?」
「やはりお前は軍人では無く軍官僚なんだな……。海軍は今でも陸軍とは違って全ての艦隊でそれこそ年がら年中、海で生命を張っているのだぞ?そんな彼らは最早王都の『本校』で行われている『貴族の決闘ごっこ』のような白兵戦技授業には見切りを付けて独自の戦技教育を実施している。さっきの数字を見ただろう?戦闘発生数では海軍が陸軍を圧倒しているんだ。それなのに海軍の新士官の死傷者は驚く程少ない」
やや軽蔑の眼差しとなったマルクスの説明を聞いた法務官は面食らった表情で
「こっ……これは……。大変その……不見識な発言をしてしまい申し訳ございません。……そうですか。それでは学校長殿はマーズ殿の具申を受け入れたのですか?」
「そうだな。主任教官殿の熱意に意気を感じたのだろう。学校長閣下はそれから主任教官殿に協力するようになった。しかし学校長閣下に直訴する切っ掛けとなったのは……愚かな軍官僚上がりの教頭……あの男がまるで理解を示さなかったからだ」
「教頭は……陸軍大佐ですな?学校長が海軍大将閣下であらせられるのであれば陸軍の大佐が教頭職を務めるのが慣例のはず……」
「そうだ。ハイネル・アガサ大佐。前情報課長だ」
マルクスの言葉を聞いた法務官は驚いて
「じょ、情報課長……では先程の……愚か者共は……」
「そうだ。どうやらあの馬鹿共を動かしたのはある意味でその教頭だと言える。しかし直接の切っ掛けとなったのは、教育部の奴等のようだな」
「え……?」
「教頭に戦技教育の『是正』を拒否されたマーズ主任教官殿は、この愚かな教頭に見切りを付けて、奴の頭越しに学校長閣下へ直訴した。そして幸いな事にエイチ校長閣下はその具申を大いに評価してご協力頂ける事になった」
「ええ。先程までのお話ですと……そのような事になられたようですね」
「しかし450年近くもダラダラと続いてきてしまっている『クソの役にも立たない戦技授業』をいくら学校長とは言え、その一存で変更する事は出来ない。何しろ士官学校の学習指導要領は軍務省の教育部で定められているわけだからな」
「ああ……そうですね。教育方針決定に関しては彼等の専権ですか……」
「無能な教頭が主任教官殿の意見具申を突っ撥ねたのもそれが原因だろう。無能な官僚は自分自身で物事を判断出来無いからな。本省の顔色を窺わざるを得ない。
そこで学校長閣下はわざわざ本省……ここに出向いて教育部長に白兵戦技授業の正常化を訴えにお伺いされたのだ」
「えっ?学校長がですか?そんな……それで教育部長はそれを聞き入れたのですか?」
同じ軍官僚としてアラム法務官は「受け入れられるわけが無い」とでも言わんばかりの言い様で、マルクスは思わず失笑を漏らした。
「そうだ。受け入れられるわけが無い。そんな事をしたらこれまで若者の生命を徒に磨り潰し続けて来た事を認めるばかりか、その責任を代々の担当官僚が遡って責任の追及を受ける可能性があるからな。少なくとも出世には影響するだろう」
官僚社会についての意見には直接答えることはせず、法務官は
「ではマーズ殿や学校長殿は……その授業内容の修正についてはお諦めに?」
「そんなわけが無いだろう?今でも彼らは授業改革実現に向けて活動を続けている。しかしそれはつまり……この軍務省の教育畑の連中を敵に回す事になるわけだ」
「そ、そうなるのですかね……教育畑……あの連中ですか……」
「ほほう……お前は『その事』に気付いているんだな?」
マルクスからの指摘を受けて、法務官は顔色を変えた。
「この軍務省の、現在の上層部は『人事局教育部』の系統によってポストが埋められているな。軍務次官のエルダイス大将を筆頭に……だ」
「は……はい……。誠に申し上げにくいのではありますが……確かにご指摘の通りです。現在の本省の上層人事は……様々な経緯がありまして教育部出身者によって占められております」
「つまり主任教官殿と学校長閣下の試みはその……軍務省上層部に対する『反乱』と取られてもおかしく無いわけだな」
マルクスは軽く笑う。その笑いには軍務省の上層部を蔑んだような雰囲気が漂う。法務官にはその『嘲笑』に対すべき意見を持ち合わせてはいなかった。
押し黙ってしまった法務官の様子を見たマルクスはいよいよ本題に入る事にした。
「さて。ここまで事情を説明した上でだ。私はまだお前ら軍務省の『背信』を許すとは言っていない。お前達は私との約束を破ったのは事実だからな」
態度を改めて再び眼差しを厳しくした士官学生の表情を見た法務官は、思い出したかのように恐怖で顔が引き攣った。
「しっ、しかし……私っ……私にはどのようにして対処すれば良いのか……」
「お前に一度だけ機会を与えてやる」
「えっ!?」
「もしお前が再度私を裏切るのであれば……ネル家の一件だけで無く、この軍務省が450年もの長きに渡って徒に若者の生命を無駄に喪失させていた事実を……この数字が記載された資料を、侍従長殿に託して今上陛下にご覧頂く」
「なっ!?そっ、それはっ!」
士官学校生の話を聞いて法務官は仰天した。
只でさえ……前回の「ネル家の騒動」においては通常の公事では考えにくい「検察側からの和解提案」を実施した経緯がある。
勿論それはこの醜聞が軍法会議開廷に伴って省外に喧伝されてしまう『恥』を避ける為と、「正義感の強い」とされる今上陛下の宸襟を騒がせて勘気を蒙る事を避ける為でもあった。
そのような「疵」が残る状況で、更に将来有望な若者を数百人も何百年にも渡って「無駄死に」させていた等と知られては……士官学校を出ていない「最高司令官」から見れば教育部だろうが法務部だろうがそれは同じ「軍務省」という組織なのである。
(そ、そんな……これ以上……これ以上陛下の御怒り招いては……たっ、大変な事になる……)
「まず、警告させて貰う。情報部の愚か者共が実施している私や学校長、そして勿論マーズ主任教官への監視行為を止めさせろ。これはお前の判断でその手段は問わない。もし明日以降……奴等が私に対して尾行狙うような行動が見受けられた場合……問答無用で関係者は全て消えて貰う。今度は護民庁へ突き出すような面倒な事はしないからな。永遠に……居なくなって貰う」
マルクスはいつもの半眼になって法務官を凝視した。本日何度目の精神的制裁だろうか。法務官は小さく震えながら
「わ、わ、わ……分かりました……。だ、大至急彼らに……愚かな行為を止めるように……申し伝えましょう……」
「次はこの軍務省内に巣食う『教育族』への対処だ。エルダイス次官以下、現役の官僚でこれまで士官学校の『役に立たない白兵戦技授業』を放置してきた無能共を処分しろ。
今回の件は次官が絡んでいるからお前もやり辛いだろうが、軍務卿に今回の話をそのまま説明して、彼を動かす方向にすれば良かろう。
いいか?可能な限り速やかに実施するんだ。さもなければ私は先程も言った通り、この資料を侍従長殿へ渡すからな」
とんでもない条件である。いくら高級官僚とは言え、アラム法務官の軍務省における地位は法務局法務部次長である。勅任されている法務官であっても所詮は大佐という階級なのである。
その彼に軍務省次官を始めとする「教育族」をこの省内から一掃しろと言うのだ。これは流石にアラム法務官としても荷が重過ぎる……しかしこの条件を呑まないと、それ以上の「災厄」がこの軍務省を襲うのだ。
ここで普通ならばこのような無茶苦茶な要求をしてくる目の前の士官学校生徒……たかが15歳の若造である……の「口を封じてしまうように」企んでもおかしくないのだが、この法務官はそのような選択肢の存在を頭から排除していた。
本日……これだけの恐怖を味合わされているのである。それも彼の言っている事は全て「正論」であり、彼と結んだ「和解条件」を破ったのも軍務省側であり、彼の言うようにあたら若い生命を北方で無駄に散らせ続けて来たのも軍務省の怠慢を源としているのだ。
「よし。今も言ったがやり方はお前に任せる。まずはバカな奴等に『我らの周りを飛び回る』事を止めさせろ。いいか?明日からはその生命に責任は持てないからな」
「しっ、しかしその……士官学校の教頭はどうされるのですか?」
「奴については放っておけ。あまりにも無能であるなら教育族の奴等と一緒に勝手に沈むだけだ。それは自業自得であって我々の責任では無い」
「わっ、分かりました……ではこれより大至急……情報部に……」
「いいか?これはお前にとっても他人事では無いはずだぞ?3ヵ月時間をやる。それまでに一応の成果を見せろ。もしお前が逆に失脚するような事になったら私は否応無く侍従長殿の下に『これ』を持ち込むからな?」
そこまで言うと、マルクスは法務次長室に掛かっていた結界を解いた。そして
「では私は帰らせて貰う」
そう一方的に宣言して法務官の返事を聞くまでも無く踵を返して部屋から立ち去った。いつ扉を開けて、どうやって閉めたのか……それを感じさせない程に滑らかな身ごなしであった。
残された法務官は全身汗まみれになっており
(こっ……これは悪夢か……こんな……こんな事が……)
と、首を振ってみたが……応接机の上には彼の残して行った……大勢の若者が生命を無駄に散らせた数字が記載された紙片が置かれていた。
将来の軍務卿候補として周囲から嘱望されている「軍務省の良心」と呼ばれた男は……とんでもない要求を突き付けられて「軍務省の命運」を背負う事になった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。
リイナ・ロイツェル
15歳。女性。王立士官学校1年1組の級長で主人公の同級生。一回生席次3位。
《賢者の黒》程ではないが黒髪を持つ女性。身長はやや低め。瞳の色は紫。
実家は王都在住の年金男爵家で四人兄妹の末娘。兄が三人居る。数学が苦手。
ケーナ・イクル
15歳。女性。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次13位。
王都出身。濃い茶色の短い髪にクリっとした目が特徴だが、ちょっと目立たない女子生徒。
主人公とは士官学校の入学考査の頃から何かと縁があり、クラスの中で最初に主人公に話し掛けた。
ニルダ・マオ
15歳。女性。王立士官学校一年一組の生徒で主人公の同級生。一回生席次21位。
主人公の右隣の席に座る女子生徒。普段は話掛け辛い雰囲気を持つ主人公に対して、何かと話掛ける度胸を持つ。主人公から考査の出題範囲をまとめたノートを借り出すことに成功し、これをクラス一同で共有した事が一組の席次大躍進に繋がり、彼女自身も席次を21位と大幅に上げた。
イゴル・ナラ
51歳。軍務省情報局情報部情報課長。陸軍中佐。
アガサ教頭の後任を勤める軍務官僚。前職は情報課隷下にある捜査1係長。
アガサ教頭からの依頼で改革派メンバーの校内での動静を調査する。
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する勅任法務官の一人で、ネル姉弟の軍法会議の際には検察官を担当する予定であった。事件の和解後には粛清人事を実施する「執行委員会」の中心となる。