表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
71/129

老提督の戦い

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 11月1日。新年度最初の席次考査の結果も発表され、今年度の一回生は初回の考査からいきなり落第者を出す事が無いと判り、生徒達だけでなく一回生を担当する教官達も大きく息をついた。


落第どころか「再考査」となる者も居なかったのは3年ぶりで、総合職員室に結果が貼り出された際に、一回生の掲示部分にだけ未及第者として赤い字で名前を表記された者が居なかった事については「新任」のイメル・シーガ一回生主任教官もご満悦だったようだ。


 例年、再考査の対象者を多く出すのはやはりこの10月の考査で、特に一回生はその制度の内容もよく解らないまま、一旬前に突然対象科目を発表され……その中に自らの不得意科目が二科目以上含まれて居た場合、その試験対策に絶望的な一旬を過ごす事になる。


一回生の中には入学7~8旬目のこの時期になっても学級内で「馴染めていない」者が多く、それだけに今回の1年1組のような「クラス一丸(あくまでも教官からの目線)」となって、この最初の難関に挑むというケースは前代未聞の出来事であった。


この1組生徒達の取り組みがそれを知った教官達に好感を持たれたのも、このような事情があるからで……事実、1年1組生徒の考査結果は「ほぼ」全員が席次上昇を果たした。


ちなみに……「ほぼ」に該当しなかったのは一人だけで、その者の席次だけは入学時と変わらず「首席」だった事は言うまでもない。


しかし、それと同時に「あの首席生徒だけは自習時間にも試験勉強に一人だけ取り組んでいなかった」という風聞が職員室に流れ……実際、彼は他の者が必死になってノートのページ片を書写していた間も、そしてそのノートが完成した後も、自習とされた時間は椅子に背筋を伸ばして座ったまま、中央列の一番後ろの席から「自習」と書かれた黒板だけをずっと見つめていたという目撃談が担当教官の中で相次いだ。


そのせいか考査直前の一時期、この首席生徒の評価は職員室内で著しく低下したのだが……当時はまだ一回生の主任教官であったタレン・マーズ「大尉」は、そのような風聞に耳を貸す事無く、結局この首席生徒の内申点を下げるような事はしなかった。


結果として、試験翌旬末の29日に発表された考査結果では彼……マルクス・ヘンリッシュの成績はまたしてもダントツの首席であり、彼は実技科目においても他を寄せ付けない成績を示していたので、内部資料における彼の考査結果は「満点」であった。


 これまでの王立士官学校の長い歴史において学年や時期はともかく席次考査で満点を叩き出した前例は皆無で、この内部資料を閲覧する権限を持つ各学年の主任教官及び、学校長、教頭は揃ってこの結果に戦慄を覚えた。


なぜ彼らが戦慄を覚える程に衝撃を受けたのか。それは単にこの考査結果の「満点」という数字を見たからだけではない。

これだけの成績を叩き出してダントツの首席と判定された若者が……「卒業後の任官を希望しない」と表明して、授業料をさっさと前払いしているからなのである。


その事実は寧ろこの前払いの授業料の「納入手続きを代行」させられた学校長自身が一番理解しており、更に三回生主任教官へ昇格したタレン・マーズ「少佐」から「彼は海軍科を希望している」という事実を含めてその為人(ひととなり)の一端を教えられていた為……


(惜しい……!これだけの逸材を……軍部は……海軍は手に入れられないのか……)


学校長室に届けられた考査結果の内容を見て、この老提督は震えていた。この首席生徒はこの後本人の希望通りに海軍科に進み、その後も(つつが)なく学生生活を送れば、卒業時の「金時計授与」は確実である。


 自身も金時計授受者である学校長の記憶において、3006年度卒業である自分の後に海軍科出身者の首席卒業者は何人か居たが、金時計を授与されたのは彼の卒業から27年後……奇しくもマルクスが生まれた3033年に海軍航海科を卒業した大貴族の次男であるワイマル・アヴェルだけであった。


ちなみに……2年の浪人後に入学したタレン・ヴァルフェリウスも同期卒業であり、彼は陸軍騎兵科5位、総合席次23位で卒業している。「二浪組」にしては高い総合席次で卒業しているが……奇しくも「大貴族の次男同士」であるヴァルフェリウス公爵家とアヴェル辺境伯家の両御曹司の卒業席次ではアヴェル家に軍配が上がった形となった。


ワイマルは言うまでも無く、当時の自治会長も務めており……タレンが学生時代に自治会を「生意気なガキ共」と敬遠していたのも彼、ワイマル・アヴェルの存在が大きい。


ワイマルは卒業後、金時計授受者として最先任の任官少尉として海軍本部へと赴任し、その後も驚異的な速度で出世を重ねて任官3年目に20歳で海軍本部直属の伝令艦隊乗り組みで三等士官として中尉進級、その2年後の22歳で急行連絡艦副長として大尉進級、そして更に2年後には24歳で急行連絡艦「ディッシャー」艦長として少佐進級となった。やはり金時計授受者は同期の出世頭となる事が約束されるのだ。


金時計授受者である時点で「士官候補として抜群の能力」と評価を貰っているので、特に海軍であれば


「それ程優秀な者であるならば、可能な限り早く上の地位に引き上げて海軍の指導者層の底上げに資してもらおう」


という柔軟な発想が働くようで、通常の最上位の海軍科卒業者や、金時計授受者ではない首席卒業者とは全く異なる待遇を受けて最短距離の出世街道を驀進する事になる。


 24歳の若き艦長は内務卿の一人娘を婚約者とした後も驚異的な進級を重ねて、つい先月の進級人事で33歳という年齢で大佐となって伝令艦隊副司令官に就任した。今後は海軍の中でも本部付の部署で昇進を重ねていく事になるだろう。


(惜しい……この逸材が……)


学校長は再び嘆息しながら、軍務省へ出向く準備を始めた。タレンが戦技授業の改革を具申してきた翌々日の旬明け、10月25日に軍務省人事局所属の教育部長デヴォン少将に面会を申し込んでいたのだが、相手は余程勿体ぶったのか返答があったのは考査の発表が実施された29日であった。そして更に旬明けとなった11月1日……本日になって漸くその面会が叶う事となったのだ。


現役から退いているとは言え、彼は軍属階級上はまだ「海軍大将」である。それが軍務省本省勤務の部長職にあるとは言え、二階級下の「少将風情」がこちらの面会申し入れを4日も待たせた事に学校長は多少憤ったが、ここは「ものを頼む」側として我慢しつつ提督としての略装姿となって軍務省に向かった。


 黒い陸軍の軍服だらけの軍務省の門を、真っ白な海軍……それも金色の肩章とモールの付いた軍帽を被った海軍提督が単身で入って行く姿は否応無く目立つもので、正門の両脇に立つ警衛の憲兵も彼が通る際には瞠目しながら背筋を伸ばして慌てて敬礼を実施していた。


学校長……老提督は受付で自らの氏名と要件を伝えると、受付の職員も緊張の面持ちで


「こっ、こちらでございます。ご案内申し上げますっ!」


と、彼を庁舎最上階である3階の応接室へ通した。奇しくもこの部屋は約1ヵ月前にネル父子が法務部次長の立ち合いの下に和解文書へ署名を行った部屋である。

そのような事など毛ほども知る事も無い学校長が応接ソファーに案内されて腰を下ろしてから3分程して、教育部長のモンテ・デヴォン少将がこれも単身で入室してきた。


 教育部長は軍人とは思えないような恰幅の良さが特徴で、いかにも運動不足の身体つきに態度も尊大な印象で、階級が2つも上である海軍大将に対しても「お待たせしました」という挨拶も無く応接テーブル越しに彼の向かい側に立ち


「教育部長を拝命しておりますモンテ・デヴォンです」


そう言っただけで、そのままドッカと向かいのソファーに腰を下ろした。


 モンテ・デヴォン少将は54歳。叩き上げ貴族であるデヴォン男爵家の当主でもある。彼自身の父親や祖父は軍人では無かったのだが、その数代前までは代々将官を輩出していたそうで、彼はデヴォン家当主として久々に軍服を着た者だと言う。


その体格を見ても解りそうなものだが、彼は士官学校を席次2位という成績で卒業して以来、軍務省一筋に奉職して来た男で、特に教育畑で出世を重ねてきており、2年前からその頂点である教育部長の職位にある。


 しかし先月から始まっている軍務省内の粛清を実施している「執行委員会」からは完全に蚊帳の外に置かれている。理由としては、彼が所属する人事局内に「ネル家の関係者」が多く居た為であり、彼の部下からも1人免職者を出した。そして彼はその部下の免職理由を知らされていない。


通常であれば免職理由はその上位者に通知されるのが慣例なので、デヴォン部長としては上層部に対して不審を覚えざるを得ない。


 彼は先日、その理由を直接の上司である人事局長……大袈裟に言わずとも王国軍の人事を統括している当人である……に尋ねたのだが、驚くべき事にその部下……教育部施設課の主任を務めていた任官9年目の大尉の免官理由について「全く把握していない」との言葉を受けて驚いた。


軍部の人事官僚の頂点に居るはずの人事局長が、一士官の人事情報が「解らない」と言うのである。解らない……と言うよりも「その資料が無い」と言った方が正確な表現で、これは「自分の関知しない人事」が成されたという事であり、明らかに異常事態あると認識できた。


 このネル家の軍閥形成事件については、最終的に今上陛下からの「勅諭」が発せられた事もあり、軍務省内においては厳重な緘口令が布かれていた。


そのような状況下でデヴォン教育部長は配下の施設課主任を一人失った上、その「教育施設」の対象となる士官学校のトップから面談要請が入ったので、真っ先にこの「謎の人事」が頭を過った為に返答への時間を費やしてしまったが、結局は滅多に本省側に面談など申し入れる事が無い士官学校長が何の用だと、強気の姿勢でこの応接室にやって来たのであった。


「教育部長殿にはお忙しいところに、こんな老体の為に時間を作って下さり誠に恐れ入る」


「いえいえ。歴戦の提督でいらっしゃるエイチ校長殿が本日はどのような御用でしょうか?」


デヴォン部長の態度は正に慇懃無礼ではあるが、エイチ校長はそのような態度はおくびにも出さず、要件を端的に申し伝えることにした。


「実は当校……士官学校本校において実施されている『戦技実習』の授業について意見の具申に参上したのです」


「戦技実習……あの「剣技」や「槍技」の授業の事ですか?」


デヴォン部長も当然の事ながら士官学校卒業生なので、遠い昔の学生時代に受けた実習授業の事は記憶している。


「はい。その剣技やら槍技やらの授業の事です」


「ほほぅ……その授業について何か?」


 どうやら心配していた「今回の人事」とは別の話題のようなので、教育部長も多少緊張を解いた様子で尋ね返した。もっと言ってしまえば……何やら「拍子抜け」した感すらあった。


「先日、我が校の主任教官から……私もその授業について意見の具申を受けましてな」


「主任教官からですか?どう言った事でしょうか」


「その主任教官が申しますには現在、本校で実施されている戦技授業が全く『実戦的』では無いと申すのです」


「実戦的?それはどういう……?」


「つまり本校で生徒に教えている、今部長殿も仰った剣技やら槍技というのは……実際の戦闘では『まるで役に立たない』という事です」


「何ですと……?役に立たない?」


「まぁ、ひいき目無しで私自身から見てもあの授業の内容は酷いものだと思います。不肖、この私も学校卒業後に海軍に任官した身でして、やはりその後に何度も実戦の場を生き延びて参りましたが、この士官学校本校で習い修めた剣技は全く役に立たないどころか、危うく生命を落としかけた記憶がありますな」


「左様でしたか……」


「私に意見を具申してきた主任教官も、陸軍士官としては()()()実戦経験者でしてな。やはり初任官直後に実戦投入されて危うく討ち取られそうになったところを部下に救われて、代わりにその部下達を喪った経験を持っておりましてな」


「実戦経験者……まさか……ヴァルフェリウス……」


「その通り。今はマーズ子爵家に入ったそうですがな」


「そうですか……私も噂は聞いた事があります。『北部軍の()公子』……ヴァルフェリウス公爵家の御曹司は北部方面軍でも随分有名だったとか」


「ほほぅ……彼はそのような経歴を持つ者でしたか。道理で肚が座っているように見えたわけじゃ……その主任教官が申すのですよ。自分のような体験をこれから任官で戦地に赴く学生達に味合わせたく無いと……」


エイチ校長は教育部長の目を見据えて話した。実戦経験者……士官学校で中途半端な実戦訓練を受けただけで戦地に放り込まれ、部下の生命と引き換えに必死になって生き延びた者の悲哀を。


 目の前の軍務官僚は実際、「生命のやり取り」など一度も経験した事が無いだろう。彼らが見る「(いくさ)」は全て紙に書かれた数字だけ。何名戦死した。何名が不具になって前線任務に耐えられなくなっただの、糧食が欠乏している部隊に対して3日間それに耐えてもらって補給を送り込むだの……現場の声を聞かない。それも一つの「真理」である。


現場の声を全ていちいち聞いていたら情実的な判断ばかりになってしまうし、戦争とは時に効率を求めなければ損失に見合う「リターン」を得ることも難しくなってしまう。


「主任教官は色々と文献なども読み漁ったようで、建国直後の我が校の創立当初の戦闘訓練や戦術教練の様子なども研究したようでしてな」


「ほぅ……あの「北部軍の鬼公子」がですか……?」


「ええ。更に……これは大変申し上げるのも憚れる事なのですが……」


「え……?どうされたのです?」


「本年度の入学生の中で、先程来申し上げております『実戦的な』戦闘技術を身に着けている者がおりまして……」


「はぁ?新入生……つまりはまだ十代の若者ですよね……?」


「はい。まだ15歳との事ですな。その新入生の実践的な戦技によって本校に奉職しております実技教官が誰も太刀打ち出来ないのですよ……」


「ん……?どういう事でしょうか?実技教官というのは武術に優れている者を選抜して赴任させていると私は認識しておりましたが」


「そのようですな……生憎私は海軍に長く籍を置いております故、陸軍士官の皆様の『腕の程』というのはあまりよく解っていないのですが、その選抜されて赴任している剣技だの槍技だのを生徒達に教授する者達が誰もその『新入生』に太刀打ち出来ないようなのです」


「何ですと!?」


デヴォン部長は漸くエイチ校長の言葉の意味を理解して驚愕した。彼自身は武術について殆ど見識を持たない。

勿論、彼も学生時代は陸軍軍務科においても必修であった戦技授業を受けており、最終的に「弓術」を選択して、規定の履修時間をこなしている。


 二回生の2月に実施される席次考査以降は自らが選択した戦技科目が、科目決定の籤引き抽選の対象外となり、必ず実施される事となるのでデヴォン部長も現役学生時代は弓術による席次考査を卒業までに計7回受けているはずだ。


そして彼は最終的に首席は逃しているが、ハイネル・アガサ教頭の翌年に当たる3013年度の卒業生の中で陸軍軍務科1位、総合2位という「短刀組」に入る席次で卒業している。

そう考えると彼は一応弓術でそれなりの席次試験成績を修めていた事になるのだ。


しかし卒業後の彼は軍務省に任官し、その激務もあってか修めた弓術からはすっかりと遠ざかっている。現在に至っては彼自身に弓術も含めた武術の見識などあろうはずもなく、戦技教官の採用はもっぱら王都方面軍及び王都防衛軍内からの推薦によって決定しているという有様であった。


その戦技教官達が……たかが15歳の新入生に全く太刀打ち出来無いとは……。俄かに信じられない話であった。


「その……新入生が、戦技教官を軽く捻ってから言い放ったそうです。『こんなものは戦技授業ではない』と」


「たかが新入生がですか?」


「たかが……と部長殿は仰るが、誰もその新入生と一合すら渡り合えないのですよ。件の主任教官……タレン・マーズ少佐も、実際にその新入生の立ち回りを見てその実力を認めておりました。『自分でも到底敵わない』と真剣な顔で申しておりました」


「そんな……タレン・ヴァルフェリウスは北部方面軍はおろか……この軍中央にも名が聞こえていた程でしたのに……あのジューダス公の再来とまで言われていたのに……」


教育部長が唖然としている。彼の耳にすらその名が届いていたのであれば、タレン……今はマーズ子爵の驍名は本物なのであろう。

言葉を失う部長の顔を見て、エイチ校長は内心おかしくて仕方が無かった。


 事実、タレンが北部方面軍に在籍していた時の戦歴は驚異的なものであった。「北部軍の鬼公子」がなぜここまで驍名を広めたのかと言うと、本来であれば部下に周囲を護らせるはずの中級現場指揮官がそれこそ本当に「先頭に立って」敵勢力に突入して行くからである。


通常、実際の戦闘において最前線……末端の兵卒を指揮して敵勢とぶつかるのは下士官と呼ばれる叩き上げの「兵曹」である。彼らが数名の一般兵と班を構成して敵兵に対して斬り込む。


これはタレンが所属していた騎兵隊においても同様で、最先鋒の小隊が突入して行き、小隊長は通常は5列目辺りで先頭に指示を出すと言うのがこの時代の「軍隊」である。ましてやタレンが務めていた中隊長クラスとなると幾つかの小隊に囲まれた総勢200名程の中隊の中心で指揮を執るのが一般的なはずである。


 しかし「北部軍の鬼公子」はそうでは無く本当に「先頭」で敵に突っ込んで行くのだ。部下である副官からの諫言や上官である大隊長、果ては連隊長にまで何度もその行動を窘められても言う事を聞かず、トップの師団長さえもこの「ヴァルフェリウスの御曹司」には強く命じる事が出来なかった。


普段のマーズ中隊長は温厚な性格で、上下の分け隔て無く気さくに接する兵卒からも非常に人気の高い前線士官なのだが、いざ戦闘が始まると人が変わったように鬼の形相で敵軍に突入して行き、愛用の「長鉄鞭」で手当たり次第に敵兵を殴りつけて行く。


撃ち所が悪い者はその場で即死するし、そうでない者も彼を必死になって追って来た後続の部下達によってトドメを刺される事になる。


マーズ中隊長が「文字通り」率いる部隊の特徴は先頭で突っ込む中隊長自らの「戦果(スコア)」はそれ程でも無いのだが、後続する部下達の挙げるそれが驚異的なものなので、結果として部下の損失率が他の部隊に比べて明らかに少ないのだ。


 これは実際に9ヵ月という短い期間であったが、彼の部下として「三番手」を任されていた元第三小隊長のベルガ・オーガス少尉の証言でも明らかである。


本来、新任少尉であったベルガは軍編成上、中隊の中心部で中隊長の護衛役を務める第三小隊の隊長を拝命していたのだが、見事なまでの馬術によって愛馬を操り……結果的に「先頭で突っ込む」中隊長に引き摺られるような形となって中隊突撃でいつも彼のすぐ後ろに着いて突っ込む役を引き受ける事になり、先頭の中隊長を必死に追いかける彼の副官が二番手、そして彼を本来は護衛する役目である第三小隊長のベルガが三番手で中隊長が右に左に殴り飛ばした敵にトドメを刺す役割を担っていた。


タレンは戦闘前に、必ず自身が斃れた後の指揮権委譲順位を明確にしていたので、「彼の代り」として指名されていた第一小隊長が本来の中隊長の位置で全体の隊列を見ていたようだ。


結局、この第一師団の第二騎兵大隊の先鋒である第一騎兵中隊そのものが敵勢力……主に国境付近を根城にする匪賊や違法組織の中で有名になってしまい、第二騎兵大隊の管轄であるラーナン砦西方とヴァルフェリウス公爵領との境界付近から違法勢力が四散して治安が回復した。


 第一騎兵中隊を率いたまま大尉進級となったタレンは第二大隊長への昇進を固辞して最前線指揮官であり続け、彼の下から昇進して配置替えとなった元部下達によって「北部軍の鬼公子」の驍名は喧伝される事になった。


しかし本人は「俺はもう()()では無いしな」と、勝手に思い込んでいるので、自分の驍名が北部から軍中央に掛けて広がっている事を知らない。


そもそも士官学校入学考査で面接官に抜擢されたのも


「いい加減、『あの公子』を北部方面軍から引き離さないと、万が一戦死されたら公爵閣下の怒りを買って責任を問われる」


と考えた本省の人事局が、タレンの敬愛する「前第一師団長リック・ブレア中将の定年引退」と彼の義父である「トリエン・マーズ子爵の死去」を好機と捉え、12年前に続いて二度目となる「王都勤務への引き抜き」を実施したのである。


前回、彼がまだ同中隊の第一小隊長であった頃は、3年の教官勤務の後にブレア中将の前任であるフレッチャー中将の強い希望で北部軍に再び戻されてしまったが、今回はもうそのような上司は存在しないはずなので、マーズ子爵の軍中央における勤務は今後も続く事となるだろう。


 アーガス・ネル少将は、その父であるメルサド・ネル元西部方面軍参謀長と親子二代で西部方面軍内に軍閥形成を企図したのだが、それは「高級士官を押える」というやり方であった。


王都の軍務省の内部にシンパを作って目立たない程度に人事配置に影響を及ぼし、徐々に西部方面軍と軍務省を内部から自派に引き込むという手口は、結局《青の子》を使ってその派閥構成を事細かに調べ上げられたマルクスによって頓挫させられたが……。


 タレン・マーズの場合は、「北部軍の鬼公子」の下で薫陶を受けた嘗ての部下が北部方面軍全体に散らばる事で、彼の驍名が広がり……本人の与り知らぬ所で「タレン・ヴァルフェリウスは先祖ジューダス公の再来」という神話が醸成されていたのだ。


軍部の上を押えに行ったネル家とは逆に、タレンの場合は知らず知らずのうちに軍の下の者達から絶大な支持と尊敬を受けていると言える。


そして先日の「ネル家の一件」で軍務省内部……それも上層部に今度は「士官学校主任教官タレン・マーズ」として、その名が上級幹部を震え上がらせる結果となり、彼はまたしても自らが与り知らぬうちに三回生主任教官への昇格と少佐進級を果たした。


 皮肉な事に、今この軍務省3階にある応接室で顔を突き合わせている2人……エイチ校長は、このネル家の一件について、タレンから詳細な経緯を報告されておらず、そしてもう一方のデヴォン教育部長は「執行委員会」から完全に外されているので、この「戦技授業改革の言い出しっぺ」であるタレン・マーズが、現在の軍務省でどれだけ名が知れ渡っているのか、知る由も無かった。


教育部長の知るタレンとは前述のような経緯で異例中の異例で北部方面軍から士官学校勤務に異動した驍将という認識であったし、そのような軍歴について「知らなかった」海軍出身のエイチ校長は「実戦で経験を持つ士官学校教員」としてのタレンの思想に共鳴しただけであった。


「その……新入生と言うのは何者なんでしょうか?」


驚愕からようやく戻って来た教育部長が尋ねた。


「私が主任教官から聞いたところでは、公爵領の南西にあるダイレム出身だとか。実家はレストランを経営しているようですな」


老提督は小さく笑いながら答える。「あの」新入生は、何の変哲も無い貴族領の田舎町でレストラン経営者の息子として育ったと、自分で言っているのが可笑しくなるのだ。


「レストラン……?どこか名のある武術家の子であるとか……そのような者の下で武術を磨いたというわけでは無く?」


「さぁ……?実家がレストランである事は、彼の身上調査書にも記載されていますな。ただ、どうやら軍隊で実戦経験があった者の下で武芸を磨いていた可能性はありますな。本人も主任教官にそのように申していたと聞いております」


「なるほど……。で、その新入生が今の戦技授業に対して批判を加えたと?」


「さて……それを批判と取るのかについては同意しかねますな」


「何ですと?」


「ご覧の通り、私は海軍出身者です。士官学校在学中も海軍科を選択し、三回生時にはチュークスの『分校』に移って乗艦訓練と共に実戦訓練を受けた身です」


「はい……閣下のご高名については勿論存じ上げております」


「私が分校で受けた戦技訓練は……本校で受けたものとはまるで違っておりました。勿論、分校で1年弱だけでしたが受けた訓練の方が実戦的でして。

あの短い間に受けた授業が無ければ……私も初陣で生命を落としていたでしょうなぁ」


「ほぅ……では閣下も本校で実施されている戦技訓練に対してはご不満があると?」


 教育部長は目を細めた。武術については全く見識が無いが、「授業に対する批判」についてはまた別の話である。


「はっきりと言わせて頂きますと……まぁ、本日はその為に部長殿との面談を申し込んだわけですがな……。今の士官学校本校で実施されている『戦技授業』と呼ばれる「見せかけだけの武術」では戦場ではまるで役に立ちませんな。

これについては私もマーズ主任教官や、件の新入生と全く同じ意見です。なのでこの授業内容を『昔の内容』に戻す事を具申させて頂きます」


言葉を飾る事無く「今の戦技授業は役に立たない」と断言された教育部長は困惑の色を見せて


「昔の内容……?昔とは……?どういう事なのでしょう」


「はい。マーズ主任教官が文献……我が校の図書館には往時の戦技授業についての文献が残っておりましてな。その内容によると、今のような剣技だの槍技というようなものでは無く、「多人数の敵に対して自らの身体を護る技術」というのが昔……どうやら主任教官の主張によれば450年前の大北東地域放棄以前の……内乱による実戦機会が多かった時代の「戦技」なのだそうですよ」


「450年前……それはまた随分昔の話ですな……」


「しかし我が校3000年の歴史からすれば450年前ですからな。この国は北の国土を切り離す前までは定期的に発生する北の蛮族の反乱に悩まされておりました。

現在もかの地域は治安が定まらず、国境を越えて不届者どもが荒らし回っているとか。マーズ主任教官も、つまりはその者達を討伐する現場でこのような考えに至ったのではないでしょうか」


デヴォン教育部長は渋い顔をした。エイチ校長の言っている事は何となく彼にも理解出来る。

武芸の事はからっきしだが、国の歴史として例えられると校長の話にもいくつか頷ける部分はある。


しかしだからと言って、それを安易に認めるわけには行かない。何しろ彼の話は「前例を破る」事に繋がる内容だからだ。これを認めてしまうと


「じゃあ450年もの間、軍務省……特に教育部は何をしてきたんだ?」


と言う……ともすれば「無能揃い」の烙印を押されてしまう。それも相手は海軍出身者だ。彼の知る限り、海軍はその本部の中に「分校」を設けて一年足らずの間ではあるが、士官候補生に独自の教育を施している。


そしてそこで育った精鋭が今日(こんにち)の北サラドス周辺の海を護っており、時折もたらされる海棲の巨大な魔物討伐や南サラドスを根城にする海賊団の討滅戦果の報告は、国王を含めた王都市民の賞賛を浴びているのだ。


 このエイチ校長の話をそのまま認めてしまうのは軍務省……更に言えば王国陸軍にとって非常に宜しく無い事態に陥るというような発想になるのは、このデヴォン部長も、アガサ教頭と同様の「保守的小役人気質」の賜物……こういう人間でないと軍務省では出世競争に勝ち抜けないのだろう。


法務局法務部のアラム次長のような人材は軍務省の中では少数派なのだ。


「閣下の仰り様は個人的に重々理解出来るものではございますが……450年間、『このやり方』が変えられずに残されて来たわけですから……」


デヴォン部長の答弁は非常に苦しいものであった。彼にしてみれば、そう簡単に「悪しき前例」の批判に同調するわけには行かないのだ。


 何しろ彼もまだ54歳。教育畑一本で軍官僚の道を歩いて来て、漸くここまで出世したのだ。官僚にとって、「上」や「前」に対して批判を加えるのはご法度である。

特に450年という期間は非常に微妙で、「450年以上前」の先達の過ちを認めるのは百歩譲って可能だとしても、「450年前から現在」の場合は当事者がまだ存命している可能性があるからだ。


そして彼が最も恐れるのは、現軍務省次官のエルダイス大将が教育部に「籍を置いていた」という経歴を持っている事であった。


エルダイス次官はデヴォン部長にとって三代前の教育部長であり、彼が一昨年の冬の除目に現職に昇進できたのは、12年前に……まだデヴォン「教育課長」だった時代に部長職にあったエルダイス「少将」の引きがあったからだ。


今……目の前の老提督の言い分に頷いてしまうと、取りも直さず大恩ある次官への批判に繋がってしまうのではないかと小役人気質の脳味噌をフル回転させて彼は危惧しているのであった。


「450年続いて来た『過ち』をここで修正しようと申し上げているのです」


 老提督は教育部長の抗弁の語尾に被せるかのように、やや声を強めて応じて来た。どうやらこちらの「乗り気」で無い事にこの学校長は感付いているようである。


「ふーむ……しかし海軍の士官をこれだけの人数……本校に入れるとなると……」


教育部長は苦し紛れに学校長が応接机の上に置いた「改革概要」と表記されたファイルの中をパラパラ捲って内容に目を通し、何か「アラ」が無いか……あればそれを強く指摘して最低でも「一旦取り下げさせて時間を稼ぐ作戦」に切り替えたようだ。


「海軍士官……戦技士官を新たに招聘する事に何か問題でも?今回の件……そもそもが実戦経験が全く無い陸軍士官が戦技教官の席を占めていることに問題があると私は認識しております。私に対して意見の具申をしてきたマーズ大佐も同様の考えです」


(ちっ……あの御曹司め……余計な事を……)


陸軍士官として、今の士官学校の戦技教官の人材不適を指摘した「北部軍の鬼公子」に対して、教育部長は内心毒づいた。

その上で海軍士官の教官増員を具申するなど、「陸軍に対する裏切り」ではないか。


「とっ、とにかく……お話はお伺いさせて頂きました。この……上申書類もお預かり致します。我らで内容を精査させて頂いた上で後日……お答えさせて頂きますので……」


 教育部長の黄色っぽい顔に汗が浮かんでいる様子を見た老提督は軽く溜息をつきながら


「それでは色好い返事を……なるべくお早い時期にお待ちしております」


「ところでその……先程のお話に出た新入生……名をお教え願えませんでしょうか」


「あぁ……彼の名はマルクス・ヘンリッシュ。先程も申し上げたが、ダイレムという田舎町のレストランの息子だそうです。なかなか姿の良い若者でしてな」


くくく……という含み笑いを交えてエイチ校長はソファーから立ち上がった。


「それでは部長殿もお忙しいでしょうから、私はこれにて失礼致します。先程の件、ご回答をお待ちしておりますぞ」


 そう口にすると、入室して来た時の態度と一変して来客を送って行こうと一緒に立ち上がったデヴォン部長を、軽く手で制した老提督はズンズンと応接室の入口まで歩いて行き、自分で扉を開けて出て行ってしまった。元々、供を連れずに単身で訪れたのでそのまま一人で向かいの士官学校へ帰るのだろう。


「フン……海軍の『老いぼれ』が今更何を……。我ら(陸軍)に難癖を付けたいだけではないか。しかも公爵家の御曹司を担ぎ出しよって……」


他の関係者……特に現在進行形で軍部の中で「処分」を水面下で人知れず進めている執行委員会の中心メンバーが聞いたら一斉に顔色を変えそうな人物、タレン・マーズとマルクス・ヘンリッシュの事を殆ど知る事の無いこの小役人は、自らの保身も含めてこの案件を「握り潰そう」と決意した。


後にこの判断が「ネル家騒動」によって弱体化した軍務省に、新たな騒動を巻き起こす事になる……。


****


(ありゃ典型的な小役人じゃな……。あの教頭と同じような臭いがするわい)


 わざわざ単身で軍務省まで出向いたロデール・エイチ学校長にしてみれば、あのデヴォン教育部長の態度は憤懣遣る方無いものであったが、それに関しては元々想定していた内に入っていたので、「ひとまず挨拶はしてきた」という事で割り切ろうと自分に言い聞かせながら、彼は軍務省庁舎からケイノクス通りを挟んだ士官学校へと戻って来た。ちなみに、建物はケイノクス通りを挟んでいるが、軍務省庁舎の門はケイノクス通り沿いに、士官学校の門は環状一号道路沿いに設置されている。


 士官学校の門に立つ警衛当番は二回生以上の生徒によって日替わりになっており、これは在校している……つまり先月の初めからチュークスに教室を移している三回生海軍科を除く二回生以上の生徒の中で当番日を決めて、毎日12名が指名されて「警衛当番」に就く。これとは別に6名が「夜間警衛」に指名されるので、1日当たりで18名の生徒が警衛に就いている事となる。


そして警衛当番の日は6時に登校して夜間警衛の者と交代し、以後18時に再度翌日の夜間警衛と交代するまでの間、12名は1時間交代で2名ずつ門衛として立番に就く。これは在校生徒1人が、毎月3回前後の警衛当番に就くと思って良い。


つまり昼間の警衛当番となった者はその日は都合2回ずつ門衛として立つことになり、夜間警衛の者は4回立つ事になる。

特に夜間警衛の者は朝6時に昼番の者と交代した後は本校舎二階の仮眠室で軽い仮眠を摂った後にその日の授業に出席しなければならない。


夜間警衛中は自身の立番以外の時間帯は仮眠を許可されているので、トータルでは睡眠時間は確保されているのだが、特に最後の立番である朝方の順番後は登校時間まで仮眠を摂ってしまうと逆に眠気が取れなくなるので、仮眠せずにそのまま授業を受ける者も多い。


睡眠時間をブツ切りにされてしまう事になってしまうが、これも士官候補生として軍生活訓練の一環として捉えられている。


逆に昼間の警衛に当たった者は多い者で授業を二時間受けられなくなる。しかし当然ながらこれは欠席扱いとはならない。

但し、席次考査が近い時期にこの昼夜の警衛当番に当たってしまうと、授業時間が不足するというハンデを抱えてしまう事になり、どうしても不利を感じてしまう。


 ちなみに、夜間警衛による生活リズムの逆転については、そもそも二回生……それも陸軍科の者達には月に5日程度の夜間演習があるので、実はそれ程苦にはならない。

夜間演習の日に夜警当番に当たれば眠い中を泥にまみれて演習授業に参加せずに済むので、むしろそれを歓迎する者さえ居る。


そして、昼夜問わず警衛当番に就く者はその証として全校生徒共通で支給されている礼装姿で当番中は過ごす事になる。


一般の王都市民がこの王立士官学校が建つ軍関係のエリアを往来する事は少ないが、彼らが一般的に「士官学校の門番さん」として認識しているのは、この礼装姿の者達である。警衛当番の者はこの礼装姿で、門衛として立番中は更に「警衛」と書かれた腕章を身に着ける。


門衛を交代する時の引き継ぎの一環として、この腕章も一緒に次の当番の者に引き継がれるという仕組みだ。


 時刻はまだ11時を過ぎた頃、門衛の交代を行って間もない男女の警衛当番の男子生徒の方が、渡された腕章に付いている脱落防止の安全ピンを上手く取り付ける事が出来ず、相棒の女子生徒も手伝ってくれないので、焦りながらそれと格闘していると、突然真っ白な金ボタン付き袖の腕が伸びて来て


「じっとしていなさい」


という声と共に彼の安全ピンを上手く礼装の袖に小さく付いているタグに縫い付けてくれた。


男子生徒が驚いて顔を上げると、そこには海軍提督……艦隊司令官の証である四本線の入った肩章が付いた略装(勲章や顕章を省略した礼装)に三本の金モールがあしらわれた軍帽を被ったロデール・エイチ学校長が立っており


「次からは自分で取り付けられるようにな」


と、言ってそのまま門をくぐって行った。見ると反対側の門柱に立っている相棒の女子生徒は目を見開いたまま直立不動で挙手礼をしている。


「あっ、あ、ありがとうごっ、ございますっ!」


男子生徒も慌てて敬礼を行うのへ、軽く手を上げながら61歳とは思えない姿勢良い歩き方で広い背中を見せながら学校長は本校舎の方へ歩いて行った。


「ばっ、馬鹿っ!どうして教えてくれなかったんだよっ!」


学校長の姿が見えなくなってから、陸軍騎兵科に所属する男子生徒は、相棒の女子生徒に罵声を浴びせると、軍務科に所属する女子生徒が


「あ、アンタの手際が悪いのがいけないんでしょうがっ!それに校長閣下がこちらに歩いていらっしゃる前で余計な声を掛ける事なんて出来るわけがないでしょうがっ!」


「俺は心臓が止まりそうになったぞっ!」


「アンタは前々から要領が悪過ぎるのよっ!」


どうやら以前から顔馴染みであった二人はこの時間帯、次の交代が来るまで立番をしながら小声で罵り合う事になった。


 学校長が自室に戻る為に、本校舎2階の総合職員室に入ると、自室の扉の前の席に三回生主任のタレン・マーズ少佐が座っていた。

彼が軍務省に出掛ける時には、所用でもあったのか不在だったので話が出来なかったのだ。


タレンは自室に向かって来るエイチ校長の姿を認めると、他の職員室に残って居た教官同様に軽く会釈をする。その姿に対して、校長は顎をしゃくるような素振りで


(部屋に来い)


という合図をした。タレンとエイチ校長は主任教官と学校長という関係である以前に、陸軍軍人と海軍提督という間柄であるので、傍から見ればあまり懇意にしているように見えない……「はず」である。


それに学校長という存在は、例えそれが校内で「ナンバー3」という地位にある三回生学年主任であっても、普段は全くと言っても良い程に接点が無い「はず」であり、学校長への取次は基本的に教頭が行うものであるというのが職員室内の教官同士での認識である。


 そもそも、この士官学校の外では軍隊において士官学校教官の適性階級とされている「大尉」や「中尉」がその頂点である「大将」と軍務上の事であってもまともに会話する機会など全くと言っていい程に無い。


大将付……特に艦隊司令官であれば副官も中佐もしくは大佐の階級の者が務めるので、通常は彼らがその「取り次ぎ」を担当する筈だ。士官学校においても、本来であればその任を担当するのは大佐である教頭である。


特例によって少佐に進級しているとはいえ、それでもタレンは「主任教官風情」であり、本来であればそうそう気軽に話せる相手では無いのである。


また、前述のように彼ら教職員を統括しているのは大佐である教頭であり、彼を差し置いて主任を含めて教職員が学校長に「直言」を行うというのも本来であれば有り得ない事であった。


タレンはそのような階級環境の中であえて単身で学校長室を訪れ、学校長へ「直訴」したのである。その様な事だけでも今回のタレンが進める「戦技授業改革」において彼が自らの職を賭している姿勢を窺い知る事が出来よう。


 彼はすぐに校長室を訪れる事無く、10分程そのまま過ごしてから自分の席の後方にある校長室の扉をノックし、中に入って行った。

この「やり方」は事前に二人で打ち合わせた方法で、職員室内に「教頭派」が居る事を考慮して、大っぴらに校長室に出入りする事は控えた方が良いと判断したタレンから申し出た事で、彼は一旦職員室内の様子を確認した上で校長室に入ったのだ。


「お待たせ致しました」


挙手礼をするタレンに学校長は「まぁ、座れ」と気さくに応接ソファーを勧めて、略装から一般の略衣に着替えを済ませていた。


「うむ。漸くにな。教育部長へ面会できたぞ」


「随分と日が掛かりましたな……」


「まぁ、奴らの高慢な態度は今に始まった事ではないさ」


校長は苦笑しながら


「して……いかがでございました。感触は?」


「うーむ。良くないな。こちらから色々と訴えてみたのだがな。やはり慣例を曲げる勇気が無いのだろう。それに奴自身が恐らく戦技に対して理解が無い」


「理解が無い……?」


「ありゃ駄目だ。デスクワークだけでブクブク太っておったわ。奴らは軍人では無いのだ。「軍官僚」なのだよ」


「なるほど……そういう事ですか」


「ただな。そんな奴等の中にも君の雷名は伝わっていたようだぞ。随分と北部で活躍していたそうではないか」


ガハハと校長閣下は笑い始めた。よほど愉快なようだ。


突然、自分の過去についての話を出されたタレンは困惑しながら


「いや……まぁその……それはもう過去の事ですので」


と苦笑しながら応えると


「しかし、その過去の体験によって君は今回の()()を思い付いたのだろう?それであるならば、君の戦歴は非常に大きな説得力になるはずだ。

あのような戦も知らない官僚でさえも君の活躍は耳にしているのだ。今後も諦めずに取り組んでみよう。

なーに。今日はまだ顔合わせじゃよ。勝負はこれからじゃて」


「そ、そうですね……重ね重ねのお骨折り。感謝致します」


タレンは深々と頭を下げた。


「よせよせ。最早我らは『同志』だ。遠慮するな。お互い、やれる事をやって行こうではないか」


「はい……ありがとうございます……」


「ところで今後の事だが……」


「はい。教頭殿の事もあります」


「そうだな。儂の予想では……あの教育部長が教頭に念を入れて来る可能性があるな」


「なるほど。叱責などですか?」


「いや、『確認』というやつだろうな。今回の具申に教頭が関与しているのか。儂と君以外にどれだけの教官が賛同しているのか……そんなところなのではないか」


「左様ですな。校長閣下に対しては、あちらも強く言えないでしょうから、間違いなく教頭殿から攻めて来るでしょう」


「君に対してはどうだ?いくら公爵家の次男と言えども、『慣例破り』であれば何かしらの訓告くらいはあるのではないか?」


「ええ。それは勿論考えられます。むしろ教頭殿よりも私に対する圧力が強くなるのは必然かと思われます。

彼らにしてみれば、私が学校長を『唆している』と思っていてもおかしくありませんから」


タレンが苦笑する。海軍に対する遠慮もあるのでこの件についてはエイチ校長に対しては軍務省から攻撃が加わるとは考えにくい。

何しろこの老提督は単に「具申」しただけだからである。では軍務省としては誰を叩くのか。それはこの老提督を「担いだ」と思われるマーズ主任教官……と言う事になるだろう。


 戦技授業への批判は元より、彼らにとっては海軍出身者であるエイチ校長を焚き付けたという行為が許し難いのだ。デヴォン教育部長も感じて居た「陸軍への裏切り」という印象を強く持たれる事になっても仕方が無いのである。


「ふぅむ。君は大丈夫なのか?」


校長が多少不安な面持ちで主任教官に尋ねる。


「元より……覚悟は出来ております。私はあの生徒……マルクス・ヘンリッシュの見せた『本物の戦技』に感銘を受けたのです。

古の先達……我らのご先輩方は絶える事の無い北の内乱から国民を護る為に……戦に負けないように、士官自らがその身を護るという『知恵』を出してあの戦技を完成させたと思うと……。

そんな先達の苦労を忘れて、今の陸軍……特にこの軍中央は平和な世にすっかり慣れ切っております。衰退し切った士官教育の中で、彼の見せたあの技術……あの鮮やかな立ち回りが私に王国陸軍の在りし日の姿を見せてくれました」


「そうか……。それ程に彼の『戦技』は見事なのか。儂も一度見てみたいな」


「お時間さえ許せばいつでもご覧頂けます。戦技の授業はほぼ一日置きに実施しております。彼の技術は剣や槍など種類を選びませんから、戦技の授業であればいつでも剣技台にお越し下さい」


「なるほど。それに彼と話もしてみたい」


「お会いになられますか?では本人に話しておきましょう」


「うむ。頼む」


「それでは失礼します」


タレンは再度挙手礼を実施してから校長室を後にした。


エイチ校長は椅子に深く寄り掛かり


「ふむ……なかなか手強いかもしれんな……」


小さく呟いて思案に耽るのであった。


****


 昼食時間……本校舎一階東端にある第一食堂では、マルクスが毎度の事ながら指定席となる西側の警衛本部の壁際、更に窓側の一番角の辺りの「隅っこ」の長机に座って肉入りのスープを啜っていた。


本校舎一階の反対側にある1年1組の教室から、さっさと移動して来る彼を追うように数分遅れで1組の生徒達がバタバタと入って来るのは毎度の事である。


しかし後からやってきた同級生の面々が配膳を受けて、特盛の軍隊飯が載った盆を慎重に「彼の座る場所」辺りに運ぼうとした時、首席生徒の隣に「先客」が座っている事に気付いて皆の足が止まった。


首席生徒の隣で皆と同じような特盛の昼食を口に運んでいたその先客は、こちらに近付くのを躊躇している1組生徒一同に気付き


「おお。遠慮するな。こっちに座っても構わんぞ」


と……手招きするのでケーナは遠慮がちに


「では……失礼します……」


 軽く会釈をしてから首席生徒の向かい側に座った。彼女の後ろで、これまた大盛りの昼食の盆を持っていたリイナも彼女の隣に座る。

最近のリイナはずっとマルクスの斜向かいに座るようになっていた。入学直後は彼を取り巻く同級生達とは少し離れた場所に独りで座っていたのだが、あれから2ヵ月が過ぎようとしている今は大分違って来ている。


「あの……宜しかったのでしょうか?」


リイナが一応は分別のある級長らしく、向かいに座る学年主任に尋ねると


「ああ、構わんよ。彼に話があったのだが、もう終わったしな」


「そ、そうなのですか……」


タレンの答えを聞いて、ケーナやリイナも固いパンをスープに浸したりして食べ始めた。


「そういえば君達は、このヘンリッシュが戦技の時間に話していた『本来の戦技』についてどう思っているんだい?」


タレンの問いに、彼の隣の長椅子に腰を下ろしたインダが


「そうですね……私は自分の国で暮らして居た頃は、このレインズのような『剣術』と言うものでは無くて、『剣闘』という競技をやっていたのです。

なのでヨーグ教官殿に教わる『剣術』という『1対1(デュエル)』に特化したような剣の使い方にはまだ上手く馴染めていませんので……」


「その『剣闘』と言うのか?剣術とはどう違うんだい?」


「はい。剣闘は……1対1の形式で行う事もありますが、通常は多人数同士……大体、5対5だとか、熟練度の違いによって2対5だとか……とにかく集団戦で行うのが普通ですかね。

私の祖国では国民の娯楽でもあり、公営施設で賭けの対象としている場所もございます」


「ほぅ……どうやら我が国の『武術』よりも実戦的ではないか」


 タレンが感心しているとマルクスが横から


「いや、剣闘というのは元々……南サラドス大陸では伝統的な『物事を決める手段』と言うやつでして、最初から殺し合うものでは無いのですよ。元々は国同士の揉め事を戦争で解決するのでは無く、お互いの国から屈強な者を代表で送り出して、殴り合いをしたり……昔は他にも刃を潰した剣を使っていたのですがね。最近はもっぱら木剣を使って行うようになっているようです。

木剣を使うのが主流になった1000年前くらい前から『剣闘』という競技と『剣闘士』という職業が生まれたようですな」


「何!?そうなのか?」


「え!?ヘンリッシュ君は剣闘を知っているのかい?何でそんなに詳しいの!?」


マルクスの並びに座っていたタレンとインダが驚いて一斉に窓際の方に視線を送る。


「まぁ、俺の知っている『剣闘』は今も言ったように『決め事』をお互いの陣営の代表による模擬乱戦形式……つまりは複数対複数が入り乱れるやり方だな。

それで最後に残っている陣営側の意見を採るというような……戦争では無い、『平和的』な解決手段として発展し、それがそのうち剣闘場で入場料を取って猛獣や……魔物と戦わせるような『見世物』までやっている国もあるな。デズンが本場なんだろう?」


「そ、そうなんだけど……なんでそんなに詳しいんだい?」


「ん?確か……何かの本で読んだな。『マーテル・モロウ』とかいう男が書いた本だったか?剣闘士として成功して屋敷を建てた奴だったっけか?」


「モロウを知っているの!?伝説のチャンピオンをっ!」


 インダは驚きっぱなしになって、軍隊飯を胃袋に詰め込む事を忘れている。マルクスは苦笑いしながら


「いや、その男がそんなに有名である事までは知らなかった。俺は本で読んだだけだからな」


「君は何でも知ってるな。昔の戦技授業の事だってそうだ」


「まぁ、図書館に行けばその手の記録は残されておりますからな。ここの図書館は特に禁書書架があるわけでも無いですし」


「きんしょしょか?何ですそれ?」


 今度はリイナの隣に座って固いパンを食べやすいように予め小さく千切って並べるという不思議な食べ方をしていた教室では右隣に座るケーナやその前に座るリイナとも仲の良いナラン・セリルというインダと同じく寮で暮らしている女性徒が興味津々に尋ねてきた。


「『禁書』に指定された書籍を収めた書棚だ。まぁ、この学校の図書室には置かれていないが、そうだな……国立図書館には十数冊程度の禁書が存在していて、許可を取らないと読めないようになっている。書棚も別の部屋に置かれていて厳重に施錠されている感じだ。しかし大半の禁書の閲覧はまず……許可が下りないだろうな」


「そ、その禁書というはどんな本なのです?」


「まぁ、読んで字の如く『読んではいけない本』の事さ」


「よ、読んではいけない本……」


それを聞いたナランだけでは無く、その隣に座っているリイナやケーナも口に物を運ぶ手が止まっている。


「国立図書館の場合は王室や貴族の不祥事についての記録が多いな。つまり上流階級(おえらいさん)の恥になる物なので公開を禁じている……というケースが大半だ」


「なるほど……」


「あとはそうだな……。魔法ギルドや大聖堂には結構な数の禁書が眠ってそうだな」


「まっ、魔法ギルド……?」


「うむ。魔法ギルドはこの国と同じくらいの歴史があるからな。その間に色々と後ろ暗い事をいくつか抱えているだろうし、そう言った意味では大聖堂……救世主教だって同じだろう」


首席生徒は小さく笑いながら話す。その間にもその手は休む事無く軍隊飯を口に放り込んでいる。


「しかし君は本当に色々と詳しいな。禁書の事まで知っているのか」


タレンが感心すると


「おや。主任教官殿もご存知という事は……やはりご実家辺りには何冊か抱えていらっしゃるのでしょうか?」


 マルクスは相変わらずニヤニヤしている。ヴァルフェリウス公爵家のオーデルにある屋敷には通常の書庫と別に禁書だけを収めた別の部屋が存在している……はずだ。

今の屋敷はどうやらマルクスの持つ記憶よりも新しい時代に改築されたものなので正確な場所は把握していないが、あの様子だと本館側のどこかに設けられているのだろう。


「うーん。私は領地の屋敷に住んでいた時期が短いからな。物心ついた頃にはこの王都の屋敷で暮らして居たんで本邸の事はよく判らんのだ」


「なるほど。そうでしたか。下らない事を聞いてしまい申し訳ございません」


「いやいや。そんな事を気にするなよ。そんな事で君から侘びられたら却って気味が悪い」


 笑い出すタレンに釣られて、周りの1組生徒も笑い始めた。この国王陛下の前ですら不遜な態度を貫き通しそうな首席生徒は、意外にも些細な事を気にして謝罪することがある印象を級友達は受けているが、そんな時は大抵「当てこすっている」ような場合が多い。


しかし謝罪された相手は……この美貌の青年が頭を下げる仕草に怯んでしまい、そのような皮肉が込められた真意に気付く事は難しいのだ。


「これは遺憾ですなぁ。私も一応は衷心よりお詫び申し上げる事もあるのですよ」


心外そうな顔をする首席生徒にタレンは尚も笑いながら


「そうか。君には何もかも見透かされているような気がしてな。これは却って済まなかった」


「しゅ、主任教官殿は……その……王都でお育ちになられたのですか?ならば王都にはやはりお詳しいのでしょうか?」


 禁書に興味を示していたナランが、話題を変えて今度は大貴族の御曹司であるタレンの幼少期に興味を示したようで、恐る々々王都の暮らしについて尋ねて来た。

彼女の実家はドレフェスにあり、入学後は寮に入っているので構内から外にまだ出た事が無いのだ。


「うーん。詳しいという程では無い。幼い頃はオーデルで暮らしていた。6歳の頃だろうか……王都に移ってからは士官学校を卒業する20歳まで暮らしていたが……その後は北部方面軍に任官したからな」


「えっ!?ではドレフェスにいらっしゃったのですか?」


「ん?いや、私が所属していたのは北部方面軍本部では無く第一師団だったので任地はもっと北の方だ。北部方面軍は管轄が広いからな。私自身、ドレフェスに滞在した事は殆ど無かった」


「そうなのですか……。私、ドレフェスから来たのです」


「ほぅ。そうなのか。あそこも大きな街だからな。昔、ある事で医者を探し回った時は随分と広い町だと思ったさ」


 タレンは苦笑する。当時部下であったベルガ・オーガス「少尉」が馬の転倒に巻き込まれて足を潰された時に「腕が良い」とドレフェス市内で評判の整形医の噂を聞いて3日間探し回って漸く見つけ出したのであった。


その医師によって、辛うじて歩けるようになったベルガの右足も、先日この隣に座る首席生徒の不思議な治療技術によって完治するという驚愕の出来事もあった。


「任官して3年くらいで、一度こちらに呼び戻されてな……。この士官学校で3年だけ陸軍騎兵科を担当していた事がある」


「えっ!?以前も教官をされていらしたのですか?」


「3年間だけだったがな。その間に結婚をして子も2人生まれたが、結局また北に戻った。そこから10年……途中何度か王都に帰ったが……その度に子供が大きくなっていて驚いたさ」


 タレンはまた笑い出した。彼には子供が2人居て、上が女で下が男……つまり姉弟だ。姉の方は12歳。今年から中等学校に通っており、一応は貴族の娘として最低限の教育だけは受けさせてやろうと思っている。弟は一つ違いの11歳で、まだまだ腕白坊主だ。


姉弟共、10年ぶりに王都に戻って来た父親に対しては当初、余所々々(よそよそ)しい態度を見せていたが、2ヵ月を過ぎた今ではすっかりと彼を父親と認めてくれているようだ。


戦場の中で生きて来たタレンにとって、王都は「物足りない」場所に思えたが、自分をずっと待っていてくれた妻と2人の子供に囲まれて、今では何だかんだでプライベートは幸せに暮らしていると言ったところだろう。


「まぁ、その北部の地では今でもならず者集団や匪賊の類がまだまだ多く活動している。今も奴らは3000キロにも及ぶ国境線のどこかの町や村を狙っているんだ」


 タレンは急に真面目な顔になって


「たかがゴロツキの集団だと思ってはいけない。国境の向う側……大北東地域での作物の出来が悪い年には飢饉が発生して匪賊に転じる者は一気に増加する。奴らは食い物を求めて国境を侵して南下して来る。酷い年だと数万の集団になっている時もあったな」


「そ……そんなに!?」


リイナが驚愕の声を上げる。こういった生々しい国境地域の話は450年前の領土放棄を知らないマルクスとっても初めて耳にする貴重な体験談である。


「最近になって、奴らの動きにも変化が現れて来ていてな。どうやら国境の向こうで国家を僭称している『ニケ』が、それらの国境匪賊を操っているフシがある」


「ニケ」という国境の向こうにある「国」に関しては、当然だが王国側も認識しており、その存在を承認する事は無いが注視はしている。

何しろ「ニケ」は北東領域を支配下に収めてから既に80年近くが経過しているのだ。


 タレンも当然ながら北部方面軍の中級将校の1人として、ニケの存在は認識しており、その統治形態にもそれなりに知識を持っていた。


「操っている……のですか?国が匪賊を?」


リイナの驚きは続いている。


「まぁ、俺は軍人であって政治家では無いから詳細は判らんがな。奴らはその『建国』以来……ずっと我が国に対して国家の承認と外交官の派遣を求めて来ているらしいのだが、わが国は一貫してそれを『無視』しているのが現状だ」


「恐らく、そのような我が国に対して奴らなりに『揺さ振り』を掛けて来ているのだろう。飢饉によって大量発生した流民を匪賊に仕立て上げて我が国の国境線を荒らしていると思われる」


「そんな……酷いじゃないですかっ!」


 今度はケーナが憤慨したように声を上げる。彼女はついカッとなって声を上げてしまったが、すぐにそれに気付いて首を竦めた。本来の彼女は凄く「引っ込み思案」の性格なのだ。


「ははは……確かに酷い奴らだな。どうやら数年前にニケの支配者……まぁ、『皇帝』を自称している奴だな。そいつがこの『やり方』を考え出したという話を聞いた事がある」


 タレンの言葉を引き取るような形で、マルクスが語り出す。


「皇帝を自称しているドゥエイル・オルグ……自称オルグ皇帝家の4代目らしいですが……8年前に『即位』してから『帝都』イノルタスを急速に発展させているそうですな。過去3代のニケ皇帝と違って、何やら理知的な統治を行っているようですよ」


「まぁ、わが国から見れば色々と『自称』されていらっしゃる部分が多いようですが……。確か……ドゥエイルは今年で24歳だとか……」


マルクスの何気ない説明を聞いたタレンが驚愕する


「きっ、君は……ニケの事までそんなに詳しいのか……」


「いや、そこまで詳しいわけではありませんよ。今の内容は特に秘匿されている情報でも無いですし……」


マルクスは苦笑する。周囲でこの会話を聞いていた級友達も一様に驚いており


「へ、ヘンリッシュ君は……どうしてそんなに何でも知っているんですか……」


ケーナが呆然と問い掛ける


「まぁ、繰り返しになるが別に特殊な情報では無い。北方にある僭称帝国の話はそれなりに王国機関でも掴んでいるし、何より公爵領のアッタスには非公式ではあるがニケと行き来している商人なんかも居るしな」


 《青の子》はアッタスでの活動でニケの内情をある程度は掴んでいる。そのようなアッタスとイノルタスを往復しているような商会の隊商に諜報員も潜入させ、帝都の状況もある程度は把握しており、ドロスは近々にイノルタスに拠点を設ける予定で既に物件候補も上げており……後はニケの法律に沿って合法的にその物件を手に入れる手段を講じている最中であった。


「それにしても……そこまで知っているのは……」


ケーナはそれでも納得出来ていない顔をしている。マルクスは苦笑しながら


「この先、特に二回生の授業ではこういった国際情勢についても学ぶ機会があるだろうから、国境の外にも目を向ける事は悪い事では無いと思うぞ」


「450年前までならいざ知らず、この大陸には王国の力が及ばない場所もあるって事は知っておく事だな」


 食べ終わった食器を盆の上で重ねながら首席生徒は立ち上がった。午後の授業は「槍術」の戦技授業なので早めの準備が必要だ。

同様に何時の間にか軍隊飯を完食していた主任教官も彼に続いて食器を下げに行くのを見て、残された1組生徒達も急ぎ自分の目の前の軍隊飯を胃袋に詰め込み始めるのであった。


マルクスと共に食堂から廊下に出て、並んで歩きながら


「では先程の件、頼むな」


「承知しました……。あまり気は進みませんけどね」


マルクスは苦笑を浮かべながら応じる。


「まぁ、学校長閣下も色々と苦戦が予想されるからな。この前の時のように君の知恵を拝借したいと言うのが私の本音さ」


「学校長閣下に対してそのような出過ぎた真似はしたく無いのですがね……」


「まぁ、そう言うなよ。私と君との仲じゃないか」


 そう言うと、タレンはマルクスの背中をポンと叩いて昇降階段を上って行ってしまった。マルクスは軽く首を振りながら廊下を直進する。

1組の教室側の廊下突き当りにある扉から東校舎の更衣室を回って剣技場に向かうつもりだろう。彼は他の生徒のように更衣室で着替えるわけではないのだが、一応は東校舎を経由するコースを通るようにしているのだ。


(やれやれ……あの姉弟の騒ぎが漸く納まったと思ったら、今度はこの問題か。この国の軍組織はやはり腐敗が進んでしまっているようだな。

こんな時期に昔のような内乱が勃発したら、今度こそこの国は危ないだろうな……)


最早この王国の国体を護るつもりもない血脈の発現者は、他人事のように思いながら次の授業へ向かうのであった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。

王立士官学校入学に際し変名を使う。一年一組所属で一回生席次で首席。


タレン・マーズ

35歳。マーズ子爵家当主で王国陸軍少佐。ジヨーム・ヴァルフェリウスの次男。母はエルダ。

士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に養子入りし、後に家督を相続して子爵となる。北部方面軍第一師団所属から王立士官学校一回生主任教官へと抜擢されて赴任する。

後に少佐に進級した上で三回生主任教官へと昇格し、白兵戦技の改革に乗り出す。


ロデール・エイチ

61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。

剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。

3006年度士官学校海軍航海科卒業。首席。金時計授受者。


リイナ・ロイツェル

15歳。王立士官学校1年1組の級長で主人公の同級生。一回生席次3位。

《賢者の黒》程ではないが黒髪を持つ女性。身長はやや低め。瞳の色は紫。

実家は王都在住の年金男爵家で四人兄妹の末娘。兄が三人居る。


ケーナ・イクル

15歳。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。王都出身。一回生席次13位。

濃い茶色の短い髪にクリっとした目が特徴だが、ちょっと目立たない女子生徒。

主人公とは士官学校の入学考査の頃から何かと縁があり、クラスの中で最初に主人公に話し掛けた。


インダ・ホリバオ

15歳。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。一回生席次28位。

南サラドス大陸の大国、アコン王国からの留学生。士官学校構内の学生寮を利用している。実家はアコン王国の名家で、剣闘士風の剣術と狩猟で培った弓術を嗜む。


ナラン・セリル

15歳。王立士官学校1年1組の生徒で主人公の同級生。ドレフェス出身一回生席次37位。

学生寮に入っている女子生徒。教室で席が近いリイナやケーナと仲が良い。


モンテ・デヴォン

54歳。軍務省人事局教育部部長。陸軍少将。男爵。

王立士官学校を管轄する部署の責任者である軍務官僚。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ