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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
69/129

技術革新

【作中の表記につきまして】


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 ルゥテウスが士官学校の一件に(かかずら)あってた間、ノンは双子に文字を教えたりしながら、サナの研究にも付き合っていた。


「錬金導師」というこれまでの魔法世界の歴史においても聞いた事の無い不思議な存在となった彼女であるが、相変わらずその能力は限定的であり……その原因は彼女の貧しい人生経験によるものなので、ルゥテウスは事ある毎に「もっと外の世界を見て来い」と言っている。


しかし、元から引っ込み思案のインドア派である彼女は藍玉堂の作業部屋に籠って処方箋を処理しながら三人の弟子に薬学を教えているうちに、益々外を出歩かない生活になっている。


こんな彼女ではあるが、難民……嘗てキャンプで暮らしていた現サクロ市民は彼女の作る薬によって、命を拾った者も多い。


サクロの藍玉堂本店の店長、ソンマ・リジは知識人として高名だが、「キャンプの美人店長様」も薬剤師として非常に知名度が高く、今でも彼女を知るトーンズ国民の大半は彼女を「ノン()」と敬称で呼ぶ。


いつも三人集まってはギャアギャア騒ぎながら怒られているパテル、エヌ、モニの三人娘も、師であるノンを心の底から尊敬しており、そのノンに選ばれて薬学の弟子として仕える毎日を幸せに過ごしている。


「お帰りなさいませ」


 双子に文字を教えていたノンはルゥテウスに気付いて顔を上げ、挨拶をしてきた。双子も元気に挨拶をしてくる。


「うむ」


「店主様。お帰りなさいませ。実は兄が後程こちらへ来ます」


三人娘のやかましい挨拶の後にサナが落ち着いて挨拶をするのへ


「兄?どっちの兄だ?」


「はい。長兄です」


「あぁ、工場長か。この前の件かな?」


「恐らくそうだと思います。先程念話を送ってきました」


「そうか。何でアイツは俺に直接念話を送って来ないのか」


「店主様が学校に通われていると聞いて遠慮しているのだと思います」


「相変わらずあいつは変なところに気を回すな」


「キッタさんは昔からそういう方ですよ」


嘗ては《赤の民》の事務員として同僚であったノンがキッタをフォローするように口を挟んできた。


「まぁ、あいつは昔から面白い奴だがな」


店主は笑い出した。ノンも、キッタの妹であるサナも苦笑している。


『工場長。俺だ。何時頃こっちに来るんだ?』


 ルゥテウスはキッタに念話を送ると


『あっ、店主様。キッタでございます。もうお帰りでしょうか?』


実はキッタ……彼は官僚としても技術者(エンジニア)としても極めて優秀な男なのだが……念話を上手く使いこなせないらしく、ルゥテウスが嘗て念話付与の物品を与えた難民首脳の中で彼だけは未だに個別念話で相手の名前の書かれたカードを使っている。


そもそも彼はある意味、難民首脳の中で最も激務に追われているので念話を使う暇も練習する暇も無いのだ。


『うむ。今、サナから話を聞いた。こっちに来るんだろ?』


『はい。私の方は作業が一段落しているので、差支えが無ければ今からお伺いしても宜しいでしょうか?』


『ああ、構わんぞ。二階で待ってるからな』


『承知致しました。取り急ぎお伺い致します』


「どうやら、これから来るらしい」


「そうですか。今、二階に母が居ますので」


「お。おっかあも来てるのか。じゃオヤツを貰ってくるか」


 店主は笑いながら階段で二階に上って行った。二階には兄妹の母であるアイサが来ていて


「店主様。お帰りなさい。オヤツ出来てますよ」


「あぁ、ただいま。これからキッタが来るから、奴の分も頼む」


「おや。あの子も来るのですか?珍しい」


「そうだな。あいつは普段クソ忙しいからな」


 店主が笑っている間に、階下で慌ただしい音がしてキッタが二階に上がって来た。


「て、店主様。お待たせしました」


どういうわけか、本当に「取り急ぎ」やって来たらしい。


「いや、俺も今ここに上がってきたばかりだ。落ち着け工場長」


ルゥテウスは笑いながらキッタに席を勧めた。すぐにアイサが作り置いて粗熱を取っておいたシュークリームを出してきた。


「あぁ、母さん。ありがとう。疲れているから甘い物は助かるよ」


「アンタ……ちゃんと寝てるのかい?いい加減、自分の身体を労わりなさいよ」


母は息子の健康が心配のようだ。


「大丈夫だよ。俺も一応は薬屋の端くれだぞ?」


今年42歳になる息子は母の気遣いが鬱陶しいらしい。


「で、工場長。話ってのはアレの事だろう?」


店主が尋ねると


「そ、そうです。店主様。どうやら目途が付きそうです。最初の頃に比べてかなり小さく纏まりそうです。多分あれなら実用に耐えるでしょう」


「ほう……やるじゃないか」


「店主様から去年頂いたあの図面です。あれを参考に可能な限り部品を小型化していったのです。ソンマ店長のおかげで良質な材料も提供して貰えましたし」


「そうかそうか。試作品とかはあるのか?」


「はい。本日の早朝に試運転を行いまして……特に問題は見受けられませんでした」


「なるほど。では俺も明日は学校も休みだから見に行ってみよう」


「承知しました。工場も明日は休日稼働なので、いつおいでになられても構いません」


「よし。分かった。ご苦労だったな。最初は無理な事を頼んでしまったかと思ったのだが……」


「いえいえ。ここまで五年程掛かりましたが非常に遣り甲斐のある仕事でした。私自身もまさか……ここまで夢中になるとは思いませんでしたが……」


苦笑いしながら話す工場長に


「お前は元々、機械いじりが好きそうなのはこの店に最初の小さな機械を置いた時から判っていたさ。機械を動かしているお前の目の色が他の奴らとは違っていたからな。はははは」


「ま、まぁ……事務作業も嫌いでは無いんですがね……しかし機械は……あの歯車の動く様子が……」


 この目の前の眼鏡の似合う男が、トーンズ建国に当たって国法整備の先頭に立って大活躍したのは記憶に新しい。今でも藍玉堂製薬工場を指揮する傍ら……イモール・セデス首相の相談に乗ることも珍しくない。


ルゥテウスも、一度ならず工場長では無く……まだまだ人手不足のトーンズ国政府を支える方に注力するように勧めたのだが、本人が頑として工場長を辞める事を承服しなかった。

店主もそれ以上強く言わずに、時折政府の仕事を手伝う事を認めている。


彼の妻であるサビオネも香水作りに並々ならぬ情熱を傾けるご婦人なのだが、夫もどうやら機械いじりを始めると、目付きが変わるようだ。


「ところで店主様……ノンさんの話っていうのは本当なんでしょうか?」


どうやらキッタは最近、妹から嘗ての同僚が「新しい力」に目覚めた事を聞いたようだ。


「あぁ、ノンの『あれ』か?」


「はい。サナの話も要を得ないのですが……」


「それは仕方無かろう。サナやソンマ店長や……俺ですら見た事も無い能力なんだからな」


「えっ……?店主様も解らないのですか?」


「俺も初めて見る能力だし、魔法ギルドだって理解出来ないだろうな」


「そっ……そんな……」


「厄介なのが、恐らく大きな力なのだろうが、肝心の遣い手がノンだからな……あいつの貧しい人生経験では力を有効に使い切れていないのだ」


 店主は苦笑いを浮かべているが、まだ実際に「その力」を目にしていない工場長には理解出来無い事が多過ぎて、どう論評して良いのか判らない。


「今はサナが自分の研究に対して有効に利用できないか模索しているようだぞ。ノンにしても自分の乏しい発想よりも、サナの機転に頼った方がよっぽど役に立つだろうさ」


「そ、そうですかね……」


「まぁノンの力については、そのうち適切な使い道を誰かが思い付くだろう。本当ならば自分で思い付いて欲しいのだがな」


「なるほど……彼女は元々非常に頭の良い女性ですから、何とかしてくれるでしょう」


 工場長も一応はノンの力に期待をしているようだ。結局、明日の朝からサクロにある藍玉堂の工場を訪れる事を約束してキッタ工場長はアイサと一緒に帰って行った。


母子が帰った後、ルゥテウスも一階に降りて行くと、三人娘が鍋の中の液体に別の薬液を入れてかき混ぜた物を瓶に詰めていた。

これが菓子店から帰宅するご婦人方に配布される回復薬となるのだ。いつもは(かしま)しい彼女達も瓶詰の作業の時は集中を要する為か静かになっている。


「明日、サクロの工場に行くが……お前も一緒にどうだ?」


ルゥテウスはノンを誘ってみると


「宜しいのですか?」


ノンは嬉しそうに応えてきた。サクロは彼女にとって数少ない行動範囲の中にある人の多い場所なのだが、ここ数ヵ月訪れていない。

建国間も無いトーンズ国の首都であるサクロは、日々発展を遂げている世界の最先端都市でもあるので、数ヵ月訪れていないだけでその様子は大きく変わっている。


ノンも訪れるたびに大きく様変わりしているサクロは好きな町ではあるのだが、どうしても彼女の生活習慣の中で「キャンプの外に出る」という事が少ないので、自ら能動的に訪れようとは思っていないようである。


「では朝から出掛けよう。どうせ明日はここも休みだからな」


「はいっ」


 明るい表情で答えるノンを見て、サナがクスっと笑った。彼女もこれまで何度かノンをサクロに誘った事があるのだが、外出を好まない彼女は毎度捗々(はかばか)しくない返事をするので結果的に難民の故郷であるはずのサクロ……トーンズの地をノンは滅多に踏む事が無い。


そんなノンがルゥテウスの誘いにだけは喜々として応じるというのが、何とも「可愛いな」とサナはおかしくなったのだ。


その日は18時になる前にサナは菓子工場の視察を済ませたアイサとサクロに帰って行き、夕食後に地下室で行われる「鍛錬」はルゥテウスが双子の面倒も見る事になった。


チラもアトも、マナの「取り回し」には大分慣れて来ているようで、鍛錬を始めて一ヵ月半という期間でここまでの進歩を遂げる事が出来たのは、やはり教師役となる者が増えたせいだろうか。


 そもそもこのコミュニティで錬金術師として最初に修行の道に入ったサナは、修養開始年齢が15歳と一般的な「素養がある者」としては異例の遅さであり、これを「キャンプの遅燃炭を独りで造り続ける」と言う、魔法ギルドでもやっていないような方法によって強引に「回数の暴力」で突破した結果、通常の錬金術師の修養期間の約半分である五年程度で術使用の基礎を修めた。


このサナの実績によってルゥテウスやソンマは魔法ギルド……それ以前の時代から連綿と続いていた「事故を起こさないようにじっくりと」という術師の育成法とは違った修養法を開発するに至った。


外の世界から隔離された「灰色の塔」という場所では無く、人々の暮らしの中でそれを支える為の実践的な修養法は、確かに理に適ったものであるという印象をルゥテウスに与えていたのである。


 魔法ギルドによる術師教育は確かに長年のノウハウに基いて安定した能力の向上が見込めるのだが、訓練開始から一ヵ月ちょっとでは、まだ子供達が「魔術師寄りなのか錬金術師向けなのか」という身極めすら出来無い段階である。


チラが魔術師向き、アトが錬金術師向き……と言う判定は「素質者」の投射力をかなり精確に見抜く事が出来るルゥテウスだからこそ可能なのであり、灰色の塔での教育現場では早くても二年、遅いと五年近くその素養の判定に時間が掛かってしまう。


サナが15歳で修養を始めて僅か五年でその力をモノに出来たのは、ルゥテウスが最初からその素質を見抜いた事で、早い段階から「炭造り」という錬金術向けに鍛錬内容を絞る事が出来たからという要素もあったのだ。


「この二人はやはり元々の素質が高いようだな」


「そうなのですか?」


 二人がそれぞれの方法でマナを操る鍛錬の様子を見たルゥテウスが評すると、それを一緒に眺めていたノンが不思議そうに尋ねてくる。


実は……ノンには「マナ」が見えない。彼女が認識できるのは「魔素」だけであり、これもルゥテウスの記憶ではこれまでに前例が無いケースであった。

原因としては、彼女へ結果的にその「力の一部」を与える事になったルゥテウス自身が……魔導を使う際、マナを全く使わずに魔素だけを操るからではないかと彼は考えている。


マナが見えないノンには当然双子が必死になって操っている「それ」の動きを一切感じる事が出来無い。よって、二人がどれだけ成長しているのかも判らないのである。


「これなら来年の初め頃から実践訓練に入れるんじゃないのかな」


「え……?つまり炭を作り出すような?」


「うむ……。アトはそうなるな。まずは薪材に対して『遅燃教化』を付与していく事から始めるのだろう。あれなら素材も食材も、このキャンプには溢れているからな」


「なるほど……。アトちゃんは錬金術師ですからサナちゃんと同じような勉強をすればいいわけですね。ではチラちゃんはどうされるのですか?」


「そうだな。魔術師として訓練をするには、この場所はちょっと狭いな。万が一の事があったら、周囲に置いてある道具や素材……場合によってはそこで修行しているアトすらも巻き込む可能性があるな」


「え……?」


「チラの場合はマナを投影した超自然現象を、お前や店長夫妻のように物品に留めることが出来ない。お前達と違って投射力があるからな。

魔法陣を使ってその場に留める事は可能だが、当然ながらそれを術符や物品として留める事は出来ないので、お前達が思っているものとは違った使い方になる」


「そんな……ではチラちゃんはどうやって修行するのですか?この建物の外でその……れ、練習?するわけにはいかないのですよね……?」


「まぁ、そうなるな。魔法ギルドの監視もある手前、大っぴらに外で練習するのはやめた方がいいわな」


「ルゥテウス様には何かお考えがあるのですか?」


「そうだな……どうやら昔この薬屋を建てた時に確保しておいた『この下の階層』のスペースが漸く役に立ちそうだな」


「この下……あっ、ルゥテウス様が昔教えて下さった『地下二階』のお話ですか?」


「そうだ。よく憶えていたじゃないか」


ルゥテウスはニヤニヤしながら


「元々は動力を設置する為と、俺が人知れず使用する部屋として地下二階を作っておいたのだがな。結局俺は使って無いから、あれからその存在を凍結したままにしている」


「そこをチラちゃんの練習場にするのですか?」


「うむ……。ここの地下二階は10メートル掘り下げて水止めのガラスとコンクリートで囲っているから床部分で、地上の目線(グラウンドレベル)から8メートル程度下がっているはずだ。

なので南に千数百キロ程度離れた灰色の塔からも、西に7000キロ程度離れたジッパ島の支部からも感知されにくい場所じゃないかと思う。

地下二階に結界では無く、魔力障壁で部屋を囲うことで魔術使用の感知を防げるんじゃないかと思う」


「え?そうなのですか?」


「ああ。この地下の錬金部屋を結界で囲っているのは、そもそも魔法ギルドにマナの制御痕が登録されてしまっているソンマ店長の術使用を感知されないようにするのが目的なんだ。奴はギルドから追われている身だからな」


「な、なるほど……」


「しかし、ギルドにとって未知の存在であるはずのチラであれば、灰色の塔や海外の魔法ギルドで感知に従事している魔術師連中からは、また違った感じ方になるんだ。

まぁ、奴らもそういう未知の術師も含めて魔法使用を監視しているわけだから、それほど簡単にごまかせるわけでは無いんだがな。

俺かお前の作った導符を使って障壁を部屋の全面に展開させれば、チラの訓練程度なら隠匿するのは難しい事では無いと思う」


「そうなのですね」


「チラの場合、お前達と違ってとにかくその修養にはある程度のスペースを必要とするんだ。まぁ、それも魔術の系統によるけどな。俺はまだこいつがどんな系統の魔術を得意としているのかまでは把握できていないし……」


「系統?」


「うむ。錬金術にも色んな分野があるだろ?サナとソンマ店長だって得意な分野が違う。サナはお前から教えを受けたせいか製薬……を発展させた高貴薬作成に強い。

今はちょっと畑違いの燃料研究に精を出しているがな」


ルゥテウスは笑いながら


「一方の夫であるソンマ店長は自然科学を発展させた形質変化や物質転換を錬金術に応用している。サナの燃料研究も師である夫の得意分野から大きく影響を受けているんだ」


「なるほど。得意不得意があるのでしょうか」


「そうだな。得意分野というか……どれだけその分野に興味を以って取り組んでいるかによるんだろうな」


「私には……よく判らないお話ですね……」


「お前の場合は明らかに人生経験の不足が原因だ。まだ『自分の使える力』の全貌を自分で理解出来ていないから、何に対して興味が持てるかも判らんのだろうよ」


困惑するノンに、店主は尚笑い続けながら説明する。


「それで……魔術師さんの系統というのは……」


「まぁ、大きく分けて三つだな。炎や氷を作り出して飛ばしたりする攻撃系統……これは主に暗黒時代である第二紀に魔物への対抗手段として発展してきた系統だな。

まともな力を持った魔術師であれば、この系統の中で更に自分の得意な分野を持っているはずだ。『火を操るのが得意』だとか『氷を作るのが巧い』などだな」


「そういうものなのですね」


「お前は全部イメージで投影してしまうから解らないかもしれないが、魔術師の皆さんで炎と氷を等しく操れる者はそうそう居ない。そこまで到達するには何十年もの修養が必要だろうな」


「そんなに……」


「次は回復系だな。……と言ってもお前がこれまで関わって来たいわゆる『医療』とは違う技術だ。主に『治療術』と呼ばれるもので、人体の組成に直接働きかけて傷口を塞いだり病巣を取り除いたりするものだ。

医療と比較して当然だが大きな治癒効果を及ぼすが、一般にさっき言った攻撃系統よりも難易度は高い。救世主教の教会で高い金を取って実施しているのは、この治療術だな」


「火や氷を作るよりも難しいのですか?」


「まぁ、そうなるな。治療術を行使するには、どうしても人体の仕組みに精通する必要がある。学術的には『解剖学』と言うやつだな。

それを学んだ上で、その患部に対して術を施す必要があるからだ」


「えっ?それでは……ルゥテウス様は人体の構造にも詳しいという事なのですか?アイサさんや、オルト先生の病気も治したのですよね?」


「そういうことだ。教会の治療術官くらいになると、治療術の他にも解剖学の研鑽も必要となるから、とてもじゃないが他の系統の魔術の修養などしている場合じゃ無くなるな」


 難民として育ったノンには救世主教の教会に居る治療術官と魔法ギルドの違いについても全く知識が無い。何しろ難民として教会とも全く関わらない人生を送って来ているのだ。


ノンにとって救世主教の教会とは「時間の鐘を鳴らしてくれる場所」という程度の認識でしか無いのである。


「そして最後は、お前も使えるようになった『結界』や『障壁』、『飛翔』などと言った本来の魔術……魔導にも言えるのだが『超自然現象』を起こす技術だ」


「『転送』もですよね?」


「そうだな。転送や瞬間移動も勿論これに含まれる。難易度はお前も知っての通りマチマチだ。結界を得意として簡単に操れる奴も居れば苦手な奴も居る。

他にも飛翔魔術によって空を自由に飛べる奴も居れば自分の身体を浮かす事さえ満足に出来ない奴も居る。そこは修養と素質の両方がモノを言うな」


「なるほど……」


これまでノンとはあまり馴染みの無かった魔術についてルゥテウスから説明を受けている間にも、チラとアトは錬金部屋の作業机に向かい合わせに座ってひたすらマナ制御の鍛錬を続けている。


 今日の鍛錬はルゥテウスが考案した「二人でマナの塊を奪い合う」という二人組ならではのゲーム感覚によるマナ制御の訓練法を試している。

試みは概ね成功しているようで、二人は時間を忘れて夢中になってルゥテウスの作り出した色付きのマナの塊を奪いあっている。


主に声を出しているのはチラの方で、アトの方はミスリルの棒を使って無言だが額に玉の汗を浮かべてマナを操っている。


 このような鍛錬法は今まであってもおかしく無かったのだろうが、このように白熱した内容になるのはマナの制御力が拮抗する双子だからかもしれない。

魔法ギルドにおいても、これまでこのように二人でマナ制御を鍛錬するというやり方は実施していない。


皮肉な事に、魔術師と錬金術師はその素養が判明した時点で修練場所を分けられてしまうし、マナ制御の基礎は主にショテルが遺した鍛錬法のテキストを基にしたものが上古の昔から連綿と使い続けられて来ているのである。


 この世界……もっと具体的に言うと「魔法世界」においては全ての魔術師はショテルの教え子である16人の魔術師から派生しているのだが、11000年という悠久の刻の中では色々な学派に分裂していた。


これは特に師を必要とせずとも遅かれ早かれ自分の能力に気付けば、その力の発現を自力で行える魔導師と違い、「マナ制御と術に対応する触媒」が不可欠である魔術師や錬金術師は独力でその力を開発するのはほぼ不可能だからである。


約8000年後のヴェサリオの出現の際には、大半の学派に属する魔術師が集結したのだが、一部にはその画期に参加しなかった魔術師も存在し、魔法ギルドとは別の組織を形成したりしていた。


 しかし第44代エヌゲス王の治世、王国歴1112年9月23日から28日にかけて起こった「沈黙の旬」が始まる直前に、魔法による犯罪行為に関係していた「在野」の魔導師5人と魔術師24人、錬金術師18人は史上二人目の「黒い公爵さま」であるタラス・ヴァルフェリウスによって消し炭にされてしまった。


この粛清は勿論……魔法ギルド側にも及び、ギルドに所属していた魔術師14人、錬金術師17人、ギルドから独立していた市井の魔術師11人、錬金術師9人が同様にその存在を抹消された。


タラスの怒りはそれだけでは収まらずに98人の魔法世界の住人の抹殺に続き、一旬もの間、生き残った者達のマナ制御能力をも封じる制裁を課した。


 この「沈黙の旬」によって魔法ギルド以外の在野の魔術学派に深刻な損失を出したが、それでも辛うじて生き残った者達……当時のエヌゲス王とタラスに謝罪して許された者達によって現代にも僅かではあるが在野の魔術学派として続いている。


勿論、その存在はルゥテウス自身にも感知出来ており、中にはエスター大陸に留まっている者達さえ僅かながら存在しているようだ。


 魔法ギルド自体は、エスター大陸における魔法使用については感知による管理は実施しているが、よっぽどの事が無い限りその活動に干渉は行わない。


以前にルゥテウスが山賊砦を燃やした際にも、それを重大視したのは六層目の感知担当の魔術師達ですら見逃した「未知の魔素使用による波動」を感じたギルドの両魔導師が驚いて反応しただけの事であり、痕跡を発見出来無かったと言うノディラクスの報告を受けてラル導師長も探索を打ち切っている。


つまり、その気になれば魔術師として成長したチラが文明社会に挑戦するような動きさえ見せなければエスター大陸における魔術使用を魔法ギルドから咎められる事は無い。


 しかし厄介なのはチラのマナ制御の痕跡から、その「学派」の特定を追求された時に、それが彼らの記録(ライブラリ)の外にあった場合、余計な注目を受ける可能性がある。


最終的にチラの魔術師として行動が「未知の学派」として認識された場合に、その源流を探られる事態にまで発展するのはルゥテウスとしては好ましく無いのだ。


 また、将来においてトーンズ国がレインズ王国との国交を樹立して、その存在が世界に対して明らかになった場合に、当然ながら魔法ギルドからも注目される事になる。


戦乱が続くエスター大陸において、レインズ王国すら凌駕する超先進国の存在が認められた時、魔法ギルド側からのアプローチも当然発生し得る。


彼らは1600年前に見捨てたエスター大陸におけるギルド支部の復活を考える可能性もあるだろう。それを許すのか。それとも国家として魔法ギルドとは距離をとるのか。トーンズ国首脳の対応が試される時は将来必ず訪れるのである。


 双子の鍛錬を見守りながら、ノンもサナに依頼された炭の処理をする為の導符造りを工夫しながら過ごし、双子が疲れて集中力を切らしたのを機に今日の修行を終わりにして、それぞれ二階の自室に戻った。


****


 翌朝の10月最後の日、ノンが目覚めて二階で顔を洗って一階に降りると……いつものようにギャアギャア騒ぎながら隣の役場の食堂から弁当を貰って来た三人娘が、地下通路を通って階段から上って来るのとかち会ってしまった。


「おはようございますっ!」

「いってきますっ!」

「今日は川まで行ってきますぞっ!」


朝っぱらから鬱陶し過ぎるくらいに元気な挨拶を受けたノンは挨拶を返し、薬材採取に出かける彼女達を見送った。


 この騒ぎで双子も目が覚めるようで、三人娘の出発とは入れ違いで二階から眠そうに目を擦りながら階段を降りてくる光景も見慣れたものだ。


「お、おはようございます」

「おはよー」


 二人はすっかりこの薬屋での生活にも慣れたようで、どういうわけか二階で顔を洗わずにこの作業部屋にある大きな流しで二人並んで顔を洗う習慣が身に付いてしまっている。


彼女は顔を洗い終わった二人にタオルを渡す。作業部屋の時計をチラリと見ると5時40分を少し過ぎた頃か。この店の主は毎朝5時50分になると、どこからやって来るのか……二階から降りて来るのだ。


 ノンはこの朝の光景を十年繰り返しているが、店主が深夜の時間帯はどこで何をして過ごしているのか未だに把握出来ていない。どうやら睡眠はちゃんと摂っているようなのだが、勿論自分が知る限りこの藍玉堂には彼が寝泊まりしている部屋など存在しない。


この藍玉堂の建物には、自分とソンマ店長しか教えられていない「地下二階」が存在する。地下二階に降りる階段は、別個に結界が使用されているので「地下二階がある」事は知っていたが、「どうやって行くのか」という事までは判らなかった。


昨晩の話では、今でもその地下二階は存在しているようだが、それを作ったルゥテウス本人も特に使い道を考える事無く放置しているような口振りであった。


自分が地下二階について十年前に教わった時は


「地下二階にこの建物の設備を使う為の『機器』を置いている」


とだけしか教わっておらず、この建物に十年もの間……最も長い時間を過ごしているノンですらその機器の詳細を理解出来ていない。


そして自分はその機器の恩恵に対してすっかりと慣れ親しんでしまっているので、今更その機械の仕組みなどにも関心は向かないのである。


 ノンがそうこう考えているうちに、今朝も5時50分……朝の鐘が鳴るきっかり10分前に店主は二階から階段で降りて来た。


「おはようございます。ルゥテウス様」


「おはよう。ノン」


「いつもどこで寝ているのですか?」という十年来の疑問を口にする事はせず、ノンは十年繰り返されて来た毎朝の挨拶を店主と交わした。


ちなみに、この疑問と同じく十年来……店主に聞く事を躊躇(ためら)っていた「自分のヘアクリップの美しい赤いリボンの装飾の正体」については先日、突然店主の口から通知されたばかりだ。


 双子を連れて地下通路から隣の役場一階の奥にある食堂に向かう。この食堂は役場開場の頃から変わらず存在し、そこで働く料理人もこの十年全く顔ぶれは変わっていない。


なのでこの食堂の従業員は、ほぼ毎日の朝食と昼食を摂りに来るルゥテウスとノンの成長を見知っている者達なので、当然ながら二人とは普通に顔見知りの仲である。


そもそもルゥテウスに至っては幼児の頃から彼らにとって見慣れない食材を頻繁に差し入れて来たり、未知の調理法を彼らに教授する関係でもあるので、ある意味でノンに次いでキャンプでは身近な存在だと言っても過言では無い。


あの姦しい三人娘の薬材採取に弁当を作るという無理な注文を依頼したのはノンなのだが、彼らはそのような要請に対しても嫌な顔ひとつせずに、毎朝あの三人の為に特製の弁当を作り続けている。


彼らにとって、あの三人娘は喧しくても実の娘のような存在なのだ。


 食堂でゆっくりと朝食を済ませた四人が隣の薬屋に戻ると、大概三人娘は先に帰って来ていて採取してきた薬材の一次処理を騒ぎ立てながら行っているのだが、本日は採取場所としては最も遠い場所である北のレレア川付近まで出掛けているので、まだ帰って来ていないようだ。


時刻は6時40分。裏の病院から医師見習いの少年が入院患者へ与える薬の処方箋を持って来た。


 いつものように三人娘が居ると思っている少年が……「おはようございますっ!」と大きな声で挨拶をしながら鎧戸が半開きになっている表側から入って来て、作業部屋に飛び込んで来ると、そこに三人娘はおらずに、美人だが怖い女店長や、自分の師匠も含めた難民出身者の誰もが畏れ敬う金髪の店主が双子と共に作業机に座って茶を啜っている場面に出くわし


「あっ……お、おはようご、ございます……」


途端に大人しくなって、おずおずと処方箋の束を渡すのへ


「おはよう。お前はリキだったかな。どうだ?しっかりと勉強しているか?」


と、店主が微笑みながら声を掛けてきた。


「えっ……あっ、はい……。お、おかげさまで……」


 自分の名前を覚えられているとは思ってもみなかった少年が目を白黒させて、しどろもどろになりながら店主に応えているのを横目で見て苦笑しつつ、女店長は受け取った処方箋に目を通しながら薬材棚から処方薬の材料を引っ張り出して作業机に並べ始めた。双子はその様子を興味津々に見守っている。


「あっ……!あの……。ぼ、僕も見ていって……いいですか?」


「あら。珍しいわね。いつもはさっさと帰ってしまうのに?」


ノンがからかうように尋ねると


「い、いつもはあの()達が居るので……」


少年……リキがもじもじしながら答えるので


「そうか。あいつらは喧しいからな」


店主は笑いながら見学を許可してくれた。リキは嬉しそうに双子の隣に座って作業机の向かい側に薬材を並べ終わって座る女店長と、製薬道具を用意してその隣に座った店主が始めた製薬作業を驚きの様子を浮かべながら凝視している。


 今日はこの後、サクロの藍玉堂工場に行く予定があるのでルゥテウスもノンもいつもよりも更に手早く製薬作業を進めていた。相変わらずその息はピッタリで、双子と医師見習いの少年リキの前に、出来上がった処方薬がどんどんと薬盆の中で並べられて行った。


最後にノンが手慣れた様子で薬盆の中の処方薬を藍色の薬袋に詰めて、それを更に木箱に移し


「はい。おまたせ。これを持って行きなさい」


と、リキにそれを渡してきた。


「ありがとうございます」とリキが礼を言うのと同時に三人娘のギャアギャア騒ぐ声が店の外から聞こえてきて、やがてその声の主達が店の中に入ってきた。


「たっだいまっ!」

「もどりましたぁっ!」

「不肖この私っ!戻って参りましたっ!」


と、いつもの喧しい挨拶の後に


「あっ!リキっ!何しに来たっ!?」


と、目敏く医師見習い少年を見付けて早速絡んで来るのへ


「いやいや……リキは毎朝来てるだろ……」


店主が苦笑と共に小さな声で突っ込む。朝っぱらから自分が絡まれると面倒臭いので、この店主は三人娘に対して可能な限り「省エネ対応」をするのだ。


「ノン様にお薬を頂きましたので……ぼっ、僕はこれで……。ありがとうございましたっ!」


 このままここに居ると生命すら取られかねないという態度で木箱を抱えたリキは、逃げるようにカウンター横の出入口をすり抜け、半開きの鎧戸をくぐって外に出て行ってしまった。


「リキの奴っ!逃げるとはっ!」


逃亡者を罵るパテルへノンが窘めるように


「あまりあの子達を虐めちゃいけませんよ。あなた達と違ってあの子たちは毎日一生懸命勉強して将来はみんなの役に立とうとしているのですからね」


と、叱ったが……これは彼女としては珍しく言葉選びを(ミス)ったようで


「ひどいっ!私だってちゃんと勉強してますっ!」

「私の方が一生懸命なのにっ!」

「見損なわないで頂きたいっ!」


三人娘が口々に抗議の声を上げた。藪蛇である。ノンは溜息をつきながら頭を振ったが、不意に娘達の声がピタリと止んだ。

ノンが三人を見ると、相変わらず彼女達は師に抗議するかのように口をパクパクさせながら何かを訴えているかのようだが、その声は全く聞こえないのである。


 ノンが隣に座るルゥテウスの方へ振り返ると、店主はニヤニヤしながら


「このまま暫く騒がせておけ。こいつらもそのうち力を使い果たして静かになるさ」


どうやら先日も見せた結界術の応用である「牢房術」を使用したらしい。三人を包むように結界が張られ、その中の音だけを外部と遮断しているので、魔法陣の外は驚く程静かになった。


三人娘は、喚き散らしているうちに自分達が何か透明の筒の中にでも閉じ込められているのかと気付いたようで、結界の境界にある「見えない壁」を拳でドンドンと叩く仕草を始めた。しかしその叩く音も、彼女達の泣き叫ぶ声も外には聞こえない。


 双子はこの三人の光景を息を飲んで見守っている。二人も「山」で暮らしていた頃に、ちょくちょくと悪戯をしては大人達に怒られたり制裁を受けたりしたが、これだけ恐ろしい「お仕置き」は見た事も無く、只々恐怖を感じているようだ。


「いいか?お前達もあんまりノン先生を困らせるような事をすると、こいつらのように閉じ込められるからな?」


ニヤニヤする店主からの脅し言葉を真に受けて双子は揃って首を小さく縦に振って頷いている。


 やがて喚き続けてエネルギーを消耗し切ったのか、牢房結界の中で大人しくなった三人の姿を見てノンが


「いい加減にお赦しになられてはいかがでしょうか」


と、不肖の弟子達に代わって寛恕を願い出た。


店主は「しょうがねぇな……」と苦笑いしながら右手を振ると結界が解除され、疲れて呆然としている三人娘のハァハァという荒い息遣いだけが聞こえるようになった。


「お前ら、先生を困らせるんじゃねぇぞ。無駄に騒ぐならまた閉じ込めるからな」


店主が真顔で言い渡すと


「は……はい……」

「ず……ずびばぜんでじだ……」


と、半ベソを掻きながら力無く答えた。


「特に今日はみんなでサクロの工場に行こうと思っていたんだがな。お前らがそのように騒ぐのであれば向こうの皆さんに迷惑を掛けるから連れて行くわけにはいかなくなる」


「そ、そ、そんな……」

「ご、ごめんなさい……」

「そっ、それだけはどうか……」


 喚き疲れた上に店主から脅し付けられた三人娘はすっかりと萎れてしまい、師であるノンは笑いを堪えるのに必死になりながら、それでも怖い顔をしている。


「いい?工場の人達は色々と声を掛け合って作業をしているの。あなた達がいつもの調子で騒いで回ったら、仕事にならないし危ない事もあるのよ」


「はい……わ、わかりました……」


すっかり静かになって項垂(うなだ)れる三人に


「反省したか?したならば連れて行ってやる」


店主がやれやれと言うかのように声を掛けると


「しましたっ!」

「もう騒ぎません!」

「もう二度とっ!二度とあのような失態はっ!」


途端に三人は口を揃えて「反省」を口にした。


(どうせすぐ喧しくなるだろうに)


ルゥテウスは苦笑しながら


「よし。では表の鎧戸を閉めて来い。向こうはもう昼過ぎだ。工場長も待っているだろうから行くぞ」


 店主の赦しが出たのので、三人娘は慌てて店舗入口の鎧戸を締めに行った。今日は10月30日。10月最後の「6の日」なので藍玉堂の店舗営業自体は定休日となっている。


一応、6の日でも裏の病院には医師が一人詰めており、急患が出た時の対応も行うし、ある程度の薬品の在庫も揃っている。

薬屋(藍玉堂)に用事がある場合は病院の地下に設置されているサクロ市内にある本院と直結している転送陣を使って連絡は取れるようにしてあるのだ。


 サクロの本院である「サクロ中央病院」はレインズ王国の王都レイドスの四号道路とノガル通りの交差点に建つ「王都総合病院」を遥かに凌ぐ350床の病室を備えた大病院で、嘗てキャンプの病院を任されていたオルト・ロング医師が院長を務め、その妻となったユミノ・ロング看護婦長が約100人の看護婦を指揮する世界でも最先端の医療施設である。


藍玉堂の本店は、その大病院とはサクロのメインストリートである「ランド通り」を挟んだ向かいに建っている。まさに「門前薬局」そのものだが、サクロ市内にも最近いくつか出現し始めた他の薬店に比べ、桁違いの対応力を見せているので誰もこのキャンプ時代からコミュニティの中心にあった錬金術師が経営する薬屋に異議を挟まない。


 ちなみに、この二つの医療機関に挟まれている「ランド通り」は言うまでもなく、このサクロ市の基礎を築いた偉大なる人物の姓から採られているのだが、その由来を知る市民は非常に少ない。


また、その名を冠された本人は自身の姓が通りの名前に付けられた事に対して多少なりとも不満を感じており、当初はその命名に反対したのだが……


「私は自分の姓を国名にされておりますが……」


と、困惑の表情を浮かべて訴える大統領の言葉を受けて沈黙してしまった。しかし本人は尚、それを納得しておらず今でもその通りを単なる「大通り」と呼称している。


ノンも当初は「ランド通り」と呼んでいたのだが、それを聞いた主が露骨に嫌な顔をするので、彼女も今では「大通り」と呼ぶようになった。


 レレア川の畔から採取してきた薬材の処理にルゥテウスとノンも参加して、手早く済ませた一行は、店主の指示に従って一ヵ所に集まった。


当初は地下の転送陣を使ってそれぞれ工場に直接飛ぶつもりだったのだが、双子と三人娘が工場に行った事が無いので、滅多に起こらないのだが「迷子になる」可能性を考慮して、店主の手によって直接工場に飛ぶ事になった。


「いやっ!」

「きゃっ」


普段、店主の瞬間移動を経験した事が無い者達は軽い「転送酔い」を起こしながら藍玉堂の工場地下にある転送陣へと到着した。

特に大きく「転送酔い」を起こしたモニは、到着した瞬間に天地がひっくり返る感覚を受けて、咄嗟に掴んだパテルを道連れに転送部屋の床に転がってしまった。


「ちょっ!モニっ!ひどいっ!」


床に転がされた挙句にモニの下敷きにもなったパテルが抗議の声を上げたが、すぐにノンから「静かにしなさい」と怒られ、先程の「お仕置き」を思い出して静かになった。


 到着した工場は当然ながら藍玉堂専用の工場であり、従業員は現在42人。全て女性で、キッタが工場長として監督している。


ちなみにキャンプ側にも工場は残っており、こちらは旧サクロ村の五人娘が仕切っていて、工場長は当時からリーダー的存在であったシュンである。


シュンは最近、「何かと」忙しいキッタの代りにサクロ側の工場の監督もする事があり、ルゥテウスは近い将来にキッタが「別の仕事」を始めた場合に、その後継者としてシュンを考えている。


これまで何度か官僚や政治家としての転身を拒んでいたキッタではあるが、今後は技術者としての道に進む可能性があるので、今から彼の後継者を探しておく事は悪い事では無いと思っているのだ。


 パテルの声で気付いたのか、工場長のキッタ自らが転送陣のある部屋まで出迎えに来た。


「いらっしゃいませ。これ程の人数でおいでとは」


キッタが笑いながら店主一行を迎えると


「今回の件は薬学にはあまり関係が無いが、この連中にも後学の為になると思ってな」


「なるほど。確かにそうかも知れませんね」


「今日も工場はフル稼働なのか?」


「いえ、本日は五割稼働ですね。それも臨時注文があった物を急遽増産する為に志願者にお願いして出勤して貰いました」


「なるほど。そういうことか」


最近はレインズ王国の風俗に倣って「6の日」を休日にしている店や工場が、このサクロ……トーンズ国でも多くなっている。


 しかし休日に関する考え方はレインズ王国よりも柔軟で、6の日になるとそこら中の店舗が一斉に休みとなる王国側と違って、トーンズ側の店舗経営者は休日の需要を見込んでわざと休日を6の日からズラしている者も多い。


これは単に社会通念の違いだけでは無く、レインズ王国の場合……いや、これはレインズ王国以外の国にも言えるのだが、救世主教が「6の日は身体を休めろ」と教えている事も大きな要因の一つとなっている。


そして6の日には世界中の救世主教の教会で礼拝儀式を実施している為、熱心な信徒は6の日を仕事休みにして教会に通っている者が多いのである。


だが、そのような宗教的な習慣には殆どと言っていい程に関心を持たないエスター大陸出身者で構成されるトーンズ国民には「6の日には休む」という意識がそもそも薄かった。


まだ建国前であったキャンプ中心の頃もその外側の世界が6の日には大半の者達が仕事を休むのに対し、キャンプの中に住む難民達には一旬中に一日の休日を設けていた者達も6の日をその休日に当てるという考え方は持っていなかった。


 藍玉堂の工場でも、原則5勤1休という体制で動いており、官僚としての調整能力にも長けたキッタ工場長によって、毎日稼働するようにシフトを調整しているのだが、レインズ王国内に設けている四店舗が偽装の為に、周囲の社会通念に併せて6の日を定休日にしていたので、両工場の稼働も6の日は少な目にして機械の点検を実施する日に当てていたりしていた。


どうやら今日は、キッタ工場長の弟であるロダル将軍から、軍で使用する回復薬の注文が入ったので、平日の製造能力を圧迫しない為に急遽休日であった本日に生産を行っているらしい。


 藍玉堂……と言うよりも「藍玉堂の関係者」が運営しているトーンズ側の工場は三棟で構成されており、外から見ると正面入口を南側に向けて三棟が建ち並んでいるのだが「藍玉堂の製品」を生産しているのは、その三棟の中でも真ん中に建っている一番小さな建物だけであった。


それでもその大きさは幅30メートル、奥行き50メートルと巨大なのだが……それを挟むように建つ工場棟は更に大きなものであった。


 現在のトーンズ国は、その実効支配面積においては既にヴァルフェリウス公爵夫人エルダが領都オーデルの東側に所有しているキャンプを含めた荘園の総面積の20倍程度に達しており、エスター大陸中央山地の西側に東西200キロ、南北100キロという広さに20万人弱の国民が暮らしていた。


戦乱に喘ぐエスター大陸において五年前に建国したこの超先進国家は、自らも難民逃亡者であったイモール・セデス首相の不断の取り組みによって、大陸中で生きる事を脅かされた人々を次々と受入れながら急速に勃興していったのである。


既にその支配面積と国民人口で、南方の大国と目されるテラキアと肩を並べる程になっていると思われ、突如北方に出現した大国に警戒するテラキア側からは執拗に国を開くように接触を求める使者が派遣されていたが、トーンズ側はこれを一切相手にする事無く、使者も全て支配地域の境界で入国を阻止されていた。


これはルゥテウスの考えで、「3000年も戦乱が絶えないエスターの蛮族国家は相手にするな」という訓告をトーンズ国首脳が厳守している為である。


特にセデス首相を始めとする自身が国を逐われた経験を持つ者達は、この教えを全面的に支持しており、大陸の諸国家の支配層に迫害された者達は積極的に受け入れるが、その支配者達は徹底的に無視していたのである。


 更にはルゥテウスのもたらした大陸全図に基いて、トーンズ国は可能な限り西方の海に向かってその支配地域を広げており、またその大陸西岸にも渡海難民を回収する拠点としていくつかの「隠れ集落」を築いていた。


現在のトーンズ国は、大雑把に五つの地域に分れている。


 まずは首都サクロ。国民の大半はこの街に住む。街の中心は元々、旧サクロ村の村長「ソン爺」の屋敷があった位置の辺りに建てられた市役所であり、その市役所と大噴水広場を内包する公園部分がその発祥の地と言える。


旧サクロ村の中央広場付近だった場所も前述の公園内に含まれており、現在はその場所に村の北側から旧住人の墓が移されて噴水広場の北側に改葬されている。

そして元の墓地があった場所には大統領府を中心とした国の機関が集約されている。


大統領府の主であるシニョル・トーン大統領は「ヴァルフェリウス公爵夫人付きの女執事」として二重生活を送っている身なので不在がちではあるが、大統領府の向かいに建つ首相官邸には彼女から実質的な統治者として指名されたイモール・セデス首相が常在しており、この新興先進国家の運営を一任されている。


 旧サクロ村の中心地であった市庁舎のある公園地域とその北側の旧墓地であった官庁街は距離にして300メートル程離れているが、その両所を一直線に結んでいるのが、首都のメインストリートである「ランド通り」である。


通りの呼称の由来になった「本人」は命名を認めていないこの大通りは、幅が30メートルもあり、その沿道には多数の店舗が建ち並ぶ一大商業地域だ。


そしてその大通りの一番公園側……つまり公園の周回道路と大通りの交差点にそれぞれ通りを挟むように経っているのがサクロ中央病院と藍玉堂本店である。


 サクロの町はこの公園及び官庁街、そしてそれを結ぶ「ランド通り」を中心として市街全体をレインズ王国の大都市部に見られるような同心円環状道路と放射道路では無く、規則正しい升目に区切った完全な「計画都市」であり、この都市設計についてはキャンプ発展時代に取り組んだ区画整理の経験が大いに役立った。


 また、そのような計画的に造られたサクロ市内には、いくつか意図的に空けられた土地が存在し、その規模も都市全体においてはかなりの割合を占めている。


この土地は主に藍玉堂関係者からの要請でサクロ市長であるラロカの命令によって確保されており、当然ながらトーン大統領とセデス首相も承認済みであった。


 このような特徴を持つ首都サクロを国の中心として、他には首都市街地から数キロ東に広がる農村地帯にもそれなりの数、人が暮らしている。

農業地域は更にその南東方向に広がる直径約40キロに及ぶ大きな「湖」と共にオアシスを形成していた。


この湖は更に東にあるエスター大陸中央山地からの雪解け水を主な水源として、太古の昔に「人為的な」力によって形成された巨大な「窪地」に水が溜まった結果、元々あった川の流路が捻じ曲げられるように生成された、ある意味で「人造湖」と呼べるものであった。


 ちなみに、この流路が大きく変わってしまった河川を堰き止めて運動エネルギーを得る為に造成されていた「ダム」は、今やその役割を全く果たさない物になっており、サクロ市民からは首都のシンボル「白い大壁」として親しまれている。


湖の東側にその水源としてそびえる中央山地の更に向う側には《赤の民》と呼ばれる赤褐色の肌を持つ民族が遊牧をしながら暮らしている地域があり、サクロは彼らと友好関係を結んで人員と物資の交換を行う為に頻繁に隊商を往来させている。


 三つ目の地域はサクロから西側に設けられた地域で、そこにはルゥテウスが住民の集団移住で使われなくなったキャンプの長屋や工場建物を魔導で移築した「ソン」という旧サクロ村の村長から命名した村である。


この村には北サラドスにあるキャンプと同様に新しく迎えた難民を収容している場所で、基本的にはこの村に住んでいる間は衣食住が無料で供される。

この村で暮らすのは手に職を持っていない「新国民」で、ルゥテウスが移築した長屋で暮らしながら、同じく移築された鍛冶工房などの工場で働いてみて、自分にとって適した職が見つかれば、そのままサクロに移り住んで貰うという仕組みだ。


現在、このソンの村には6000人程度が居住しており、サクロでの新生活を目指して様々な職業を経験している。


尤も、難民として収容された時点で元の場所で何か稼業を持っていた者達は、そのままサクロに直接入って新たな場所で従来通りの仕事に就く者達もいるし、故郷を逐われたり、自身の財産や家族を喪った者達の中には進んでトーンズ軍に志願する者も居る。


軍としては、当然そう言った者達を迎え入れ、新兵として訓練に参加させている。


 そして先述した「飛び地」となる沿岸の集落群。エスター大陸の西海岸地域には既に11の「隠れ集落」が築かれており、連絡員(エージェント)の巡視によって多い日には100人前後の難民が海に逃げ出す前に保護されている。


難民は連絡員によって保護された後、この集落に入って色々と聞き取り調査を受け、トーンズ国の存在を説明されると、ほぼ全員が移住を希望する。

西海岸まで逃げ延びて来た難民の大半は衰弱しているので、集落で一旬程度過ごして貰って体力を回復させた後に、先述のソン村に移される。


勿論、各集落の拠点には転送陣が厳重な隠蔽措置が施された上で設置されており、そこに展開されている「結界」の使用許可権は各集落に詰めている《青の子》の諜報員が一元的に握っており、彼らは最後にその難民の移住希望者を一通り見極めた上でソン村に送り出している。


 最後の地域として挙げられるのが、ルゥテウス一行が訪れている藍玉堂関係工場が三棟固まって建てられた……ソン村の更に西側にある地域である。


トーンズ国では既に工業の発展が軌道に乗っており、それらの工場地域は概ねサクロ市とソン村との中間地区に集積されている。


 しかし藍玉堂の関係工場だけは、それらの工場群とは違う場所に建てられており、一般のトーンズ国民は、この地域の存在を知らされていない。


トーンズ国内……先に挙げた5つの地域は概ね転送陣によって結ばれているので、一般の移動手段である徒歩や馬車移動に使われる街道はせいぜいサクロと工業地帯や農業地域の間で結ばれている程度で、その他の地域間で通常の移動手段を用いているのは国内各地に設けられている軍駐屯地を巡っている境界巡視隊くらいだ。


嘗て旧サクロ村とその南方にあるテト村を行き来していた隊商も、旧サクロが壊滅している事を当時テト村で接触した《青の子》の偽装商隊から知らされていたので、今ではサクロまで来る事は無い。


 そのテト村も、住人の総意で四年前にトーンズ国の勢力下に加わったので、今ではこのテト村が事実上の「南の玄関口」として機能している。

隊商側も噂に聞く先進都市である「新生サクロ」に興味を示しているが、セデス首相の指示の下に、他の部族と接触のある隊商を国内に深入りさせる事を拒絶しているのでテト以北には進めないようになっている。


何しろトーンズ国は、その建国前のサクロ復興期から軍事力で周囲の中小国家を圧倒しており、今では周辺国からトーンズ国に挑戦して来る蛮族は殆ど存在しない。


 それでもこう言った隊商などからサクロやトーンズ国の噂を聞いた周辺蛮族達は、どうにかしてトーンズ国境の向う側に食い込もうと、様々な諜報を仕掛けて来ているのだが、支配地域の境界線地帯を陰に日向に守備しているトーンズ国軍と国家諜報部隊《青の子》の活躍によって悉く頓挫させられている。


それどころか、捕えられた蛮族側の諜報員は厳しい尋問に掛けられて逆に自国の情報を洗いざらい吐き出される事態になっていた。


 ルゥテウス達が訪れた……そもそもこの三棟の工場を建てたのは他でも無いそのルゥテウスなのだが、ここはトーンズ国の中でも最先端技術の中心地となるので尚の事外からの目を避けないといけない。


そう言った理由で、この三棟だけは周囲に何も無いエスター大陸ではお馴染みの光景である荒野にポツンと建てられているのである。


 尤も……「ポツン」と表現したが、その建物規模は驚異的で……一番小さな製薬工場ですら先程も述べた通り、幅30メートル、奥行き50メートルもある。


そして製薬工場の西側に建つ工場に見える建築物は幅30メートルと同じではあるが、高さ10メートル、奥行きは80メートル前後ある。


 更に東側に建つ最大の建物は他の二棟とは桁違いで幅80メートル、奥行き300メートル、高さも50メートル以上はあるサクロの市役所より何倍も巨大な……恐らくはトーンズ国どころかエスター大陸では最も巨大な建造物なのではないかという巨きさであった。


この東側の超巨大工場は、どうやらつい最近になって建てられたものらしく、この地に約三年ぶりに訪れたノンは初めて見るものであった。


当然ながら、彼女にくっ付いて来た三人娘や双子にとっても初めて見るこの建物は、普段は何かと騒がしい彼女達が息を飲んで言葉を失わせる程であった。


 今回の目的地は、東側の超巨大工場ではなく西側の工場であり、ここは奥行きが長いのと天井がやや高いだけで、正面からの大きさは今出て来た製薬工場とそれ程変わらないので、三人娘と双子は興味を惹かれた東側の大工場に多少の未練を残しつつ、ノンに遅れないようにいそいそと西側の工場に入った。


しかし、彼女達の予想に反して……西側の工場の中の様子は東側の建物の巨大さを忘れさせるように圧倒されるものであった。


 黒鉄(くろがね)の塊。その存在は窓から差し込んだエスターの日差しを浴びて鈍い光を放っていた。

一体これがどういう物なのか……彼女達には理解出来無い。


そしてその「何か」の前に、老人が一人立っていた。


「なんだ。親方も来てたのか?」


「ええ。どうやら漸くこれが『モノ』になったと聞いたので」


強面で日焼けした老人……ラロカ市長は笑いながら『何か』を眺めていた。


「あの……これがルゥテウス様が以前お話ししていた『蒸気機関』というものなのですか?」


「そうだな。お前がサナを手伝って作っていた新しい燃料……無煙炭は、これを動かす為のものだったんだ」


「蒸気機関」と店主から説明された「何か」はシュウシュウと音と煙を発てながら、圧倒的な存在感を放ってそこに置かれていた。


「うむ。かなり小さくなったな。俺が『知ってる』蒸気機関も、概ねこれくらいの大きさだったな」


「そうですか。そう仰って頂けて良かった。やはり去年頂いた図面を基に製作したあの工作機械のおかげで小さな部品も随分と造り易くなりました」


そう言いながらキッタが指を差した先に、何台かこれまで見た製薬機械とは違う形状をした機器が並んでいた。どうやらそれが彼の言う「工作機械」と言うものらしい。


「では早速動かしてみますね」


 キッタはそう言うと、80センチ四方の箱が載った台車を押して来た。箱の中にはこれまでサナが折りを見て研究していた無煙炭が詰まっていた。


キッタがシャベルを使って機関の投炭口に何度か無煙炭を放り込む。暫くすると無煙炭が中で燃え盛っているようで、炭を放り込んだボイラー部分からチリ……チリと音が鳴り始めシリンダー部分からもゴッ……ゴッという音が聞こえて来た。


ここに来てから全く無駄口を叩いていない三人娘と双子は本能的に後ずさる。ノンもルゥテウスの後ろに隠れるようにしながら様子を窺っている。


「そろそろ行けます。ちょっと大きな音がしますので注意して下さいね」


キッタがシリンダーの脇に付いているレバーを動かすと、解放された蒸気の力によってクランクが動き始めた。歯車がカリカリと回り始めてピストンに直結したクランクが上下にせわしなく動き始める。


―――シュゴッ、シュゴッ、シュゴッ


「こんな感じですね。既にクランクの動きを歯車を使って回転運動に変換する事が出来ています」


「ふむ。これなら時速60キロくらいは出せそうだな」


ルゥテウスも満足そうに頷く。


「これが……蒸気機関というやつですか……。店主様から何度かお話は聞いておりましたが……これ程とは……」


 ラロカも歯車の動きを見つめて驚きの声を上げている。


「この動力を載せた『自走する鉄道車両』をキャンプにもあった鉄道の上で走らせる。馬と違って疲れて宿駅ごとに交換する必要も無いし、あの炭さえ投入し続ければ夜だって走り続ける事が出来る。馬車では精々六人乗りの客車を引っ張らせるのが精々だったが、こいつなら一度に何百人も客車を連ねたものに載せて走り続けられるわけだ」


「な……何百人……」


ラロカは絶句した。彼は嘗て暗殺者として活動していた頃に、馬車を使って領都オーデルからレインズ王国中の都市に移動をしていたのだが、馬はどうしても疲れるので途中で何度も止まって水や飼い葉を与えないといけないし、夜は危険なので走らせる事が出来ずに宿駅で乗り継がないといけなかった。


建国間も無い頃に


「炭を使って大きな釜の中の水を加熱して、その湯気を利用した動力を使って鉄道の上を自走させる車を作る」


と説明された時は「そんな物が本当に出来るのか」と首を傾げてしまったが、あれから五年……ついに目の前に「そんな物」がリズミカルな音を発てて動いているのである。


「こ……これを……国中で走らせると……?」


「まぁ、そうなるな。実用化の決め手になったのはサナの無煙炭の質が良くなって火力が上がった事なんだけどな」


ルゥテウスは笑いながら


「まぁ、サナも頑張っていたんだが……決め手となったのはノンの新しい力(錬金魔導)かな。ノンの力を使う事で、更に質の良い無煙炭が大量に造れるようになった」


突然、自分の名前が出て来てノンは驚いた。


「お前の力が『これ』を動かしているんだ。お前の力はまだまだ色んな可能性を秘めているんだぞ」


「わ……私がお役に立てたのですか……?」


「そうだ。無煙炭の大量生産に目途がついたので親方。鉄道の敷設を始めてくれ。まずはサクロの『大通り』の中間地点の辺りに駅を置いて、そこと工場地帯を鉄道で結んでみよう。工場に通勤する連中も楽になるだろうし、工場との材料や製品の輸送も楽になる。鉄道の一番のメリットである『大量輸送』を活かすにはピッタリだ」


「そ、そうですな……承知しました。すぐにでも始めさせて頂きます」


 市長として、ラロカは請け負った。彼の下には嘗てキャンプと初期のサクロの施設建築に従事した建設部隊が更に規模を大きくして組織されていた。鉄道敷設のノウハウもキャンプの頃から既に持っており、今でも工場地帯の中では牛を使って鉄道車両を運用しているのだ。


「そうですか……我が国の技術はついにここまで来たのですね……」


ラロカは尚も音を発ててピストンを上下させる蒸気機関を見上げながら呟いていた。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。


ノン

25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。

肉眼で魔素が目視できる事が判明した為、「錬金導師」として修行を始める。


チラ

9歳。《赤の民》の子でアトとは一卵性双生児で彼女が姉とされる。

不思議な力を感じた最長老の相談を受けた後、サクロに連れて来られて魔術の素養を見い出されたので、弟と共に《藍玉堂》で修行を始める事となる。


アト

9歳。《赤の民》の子でチラとは一卵性双生児。彼は弟として育つ。

姉同様に術師の素養を持ち、主人公から錬金術の素養を見い出されたので姉と共にキャンプに通って来るサナの下で修行を始める。高い場所が苦手。


サナ・リジ

25歳。ソンマの弟子で妻でもある。上級錬金術師。錬金術の修養と絡めてエネルギー工学を研究している。

最近はノンに薬学を学びながら、魔法の素養を見出された赤の民の双子の初期教育も担当する。


キッタ

42歳。アイサの息子で三兄妹の長兄。難民関係者の中で随一の事務処理能力を持つが、同時に工学的素養も持ち合わせており、藍玉堂の製薬工場で工場長を務める。

サクロの先住五人娘の一人、サビオネと結婚して子供を二人儲ける。


パテル

14歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。同じくノンの弟子となったエヌ、モニよりも一年早く弟子入りした、言わば一番弟子のような存在。

しかし精神年齢は他の二人と変わらず、三人集まるとやかましい。


エヌ

13歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。パテルが弟子入りした次の年にモニと共にノンの弟子入りをした。ノンの事を両親よりも尊敬しているが、やはり他の二人と一緒になるとやかましい。


モニ

13歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。エヌと同じ年にノンに弟子入りした。

サクロにある藍玉堂本店への遣いを命じられる事が多く、そこを訪れる患者に影響されてしまい、珍妙な言葉遣いを覚える。


ラロカ

62歳。エスター大陸から暗殺術を持ち帰った元凄腕の暗殺者で《親方》と呼ばれる。

新国家建国後、首都サクロの市長となり変わらずイモールを補佐する。

羊を飼うのが巧いという特技を持ち、時折主人公に妙案を進言して驚愕させる。

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