(第三章エピローグ)最高学府
この章はここまでですが、ルゥテウス君の学校生活はまだまだ続きます。
【作中の表記につきまして】
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
王都の環状四号道路とアリストス通りの交差点の南東側に建つ冒険者ギルド王都南支部、その南隣に建つ1200年の歴史と伝統を誇る王都屈指の高級旅館「ホテル・ド・ノイタル」の最上級客室に逗留していたアーガス・ネル少将は、憲兵本部にて拘留されていた長女と長男の訪問を受けて驚愕した。
アーガスは父として王都に到着してからは、許される限り毎日この姉弟の面会に通っていたのだが、姉は精神が錯乱した状態で受け答えもままならず、そして弟の方は自分が何故この場所に拘留されているのかすら判らないという有様で、全く手の打ちようが無かったのだ。
揃って訪れた姉弟は、不思議な事に昨日までの要領を得ない様子から一変しており、特に姉の方はあれだけの錯乱状態から完全に脱け出していた。
弟の方も明晰な受け答えをするようになっており、むしろ父が今まで認識していた以上に「しっかりとした」物言いをするようになっていた。
そして正気を取り戻した姉の口から今回の件について、改めて説明を受けたのである。彼女は自分の落ち度を全く糊塗する事無く、自分が知り得る情報を余す事無く父に説明し続け、最後にこれまでの所業を陳謝した。
無事に姉弟が自分の下に戻ってきてくれた事で安心したアーガスは、姉弟に対して叱責を加えたり、問い詰める気にもならず、ただ父として涙を流して彼女達の帰還を喜んだのであった。
姉弟は一旦、それぞれが借りている部屋に帰り「自主謹慎」という形で自室にて士官学校からの沙汰を待とうと思っていたのだが、あの憲兵本部から解放された直後の別れ際に事件の被害者であった新入生が予言した通り……翌日には士官学校から学校長の署名の入った「復学許可書」が速達で届いたので、翌10月4日から再び学校への通学が可能となった。
学校からの通知が届いた直後に、今度は軍務省からの伝令が訪れ……フォウラは伝令の内容にあった命令に従って再度軍務省本庁舎に出頭すると、同じように出頭命令を受けた父と弟と共に法務部の次長執務室に通された。
「お待ちしておりましたよ」
執務室の主である今回の件で検察側法務官を担当した法務部次官のジェック・アラム大佐は三人揃った父子を部屋に迎え入れて応接ソファーへの着席を勧めた。
「法務官殿……この度は本当にお骨折りを頂きました」
軍内の階級が一つ高い父親が座る前に深々と頭を下げると、両脇に並んでいた姉弟も同じように頭を下げる。
今回の件で、姉弟……いや、父親も含めた「ネル家」の生殺与奪を握っていたのは、間違いなく目の前に居る軍務官僚だったのだ。
「いやいや。お顔をお上げ下さい。私も職務を果たしているだけですので……。まずはお掛け下さい」
法務官の言葉に従い、父子は漸くソファーに腰を下ろした。机の上に書面を二通……父子から読める向きに置いた法務官は、努めてゆっくりとした口調で話し始めた。
「既に御存知かと思いますが、昨日……被害者の学生と面談させて頂いた結果、本件に関しまして和解を受け入れるとの返答を頂きました」
本来であれば、このような刑事事件の裁判で検察側から「和解」の話が出るのはおかしな話なのだが、今回の件に限って言えば状況が状況なだけに、「この醜聞を軍部の外に出すな」と言う軍上層部の思惑を汲み取ったアラム法務官が中心となって進める事になった。
アラム法務官は昨日のマルクスとの面談を終え、彼から和解の承諾と条件が提示されたのを受けて、今回の軍法会議を構成している「裁判長、二人の判事、検察官、弁護官」という五人の要員のうち、判事の一方を務める軍務省人事局人事部のゼダス・ロウ次長と弁護官を担当する軍務省兵器局のオリク・イエルス工廠整備課長を集めて、彼らに初めて和解の打診を行ったところ、両者共に同様の意見であった為に取り急ぎ和解同意書を作成する事になった。
書類の作成は既にアラム法務官がひな形を作成しておいたので、マルクスから和解の同意を得られた際に彼から署名を貰い、その後に二名の法務官の署名と自分自身の署名を入れておいたものが既に用意されていた。
机上に置かれた、それぞれ四名の署名が入った二通の和解同意書を前にアラム法務官が説明を続ける。
「今回、被害者側から和解の承諾を頂く為に出された条件のうち……閣下にお伝え出来るものだけをご説明させて頂きます」
「『お伝え出来るものだけ』とは……?全てを我々が知る事は叶わないのでしょうか?」
「ええ。条件は大きく分けて三つ出されました。そのうちお伝えできるのは一つだけです」
アラム法務官は努めて感情を殺した顔で父子に言い渡した。
「も、もし……差支えなければ……残りの二つをお示し頂けない理由をお聞かせ願えませんでしょうか……?」
アーガスにとって「三つのうち一つしか示されない」というのは非常に不安の残る事であった。
何しろ、この場に居合わせている四人の中で彼だけがマルクスと直接和解について話し合いの場を持っていないのである。
それどころか、前回の接見では娘と息子だけでなく自身の違法行為まで一方的に糾弾された上に、相手から会談の継続を拒絶されてしまったのだ。
つまり「負の感情」を持たれたままに物別れになったアーガスからすると、あのような状態から相手が和解に応じた事自体が信じられないし、更に言えば条件が「三つ」出された事……あれだけ気分を害していた相手が「その三つを呑めば」和解に応じると言って来た内容の内、「一つしか知る事が出来ない」というのは不安が残って当たり前の事である。
「いえ、閣下。残りの二つをお伝えできない理由というのは、至極簡単な事です。被害者の生徒が提示した三つの条件のうち、御令嬢及び御子息……まぁ、それと閣下も含めてでしょうか……。ネル家の皆様に対して出された条件が一つ。これがお伝え出来るもの。そして残りの二つはネル家にでは無く、軍務省に対して出されたものだからなのです」
「えっ……?」
「つまり、本件の和解勧告を承諾する条件として、彼はあなた方に対しては条件を一つしか提示していないのです。
むしろ彼は我ら軍務省の方に条件を多く提示してきたのですよ。ですから軍務省への要求である残りの二つにつきましては私の一存では『第三者』となる閣下にお伝えすることが出来ないのです」
アラム法務官は尤もな言い様をしているが、実際には一つ目の「ネル家の蠢動に加担した全ての将校を追放しろ」という条件に関して、それをネル家に通告する判断は彼に一任されており、「ネル家には伝えるな」とは言われていない。
三つ目の「自分に対する干渉や詮索を一切禁ずる」という条件はまだしも、一つ目の関係者の処分については、法務官の判断でネル家に伝えず粛々と行うつもりであった。
これによって軍務省とネル家、そして西部方面軍の間で暫くは騒がしくなるかもしれないが、法務官はあえてこの「粛清」を明言しない形にすることで、ネル家以外にも軍組織を壟断しようと考えている「他の者達」にも「見えないプレッシャー」を掛けようと画策したのだ。
「申し訳ございません。これにて当方の事情もお察し頂ければ幸いにございます」
アラム法務官は頭を下げた。アーガスは慌てて
「なっ、なるほど……そのようなご事情がおありでしたか。これは失礼致しました」
と、あっさり引き下がる姿勢を見せた。
「そ……それで、我らにお伝え頂ける一つの条件とは……どのようなものなのでしょうか……?」
「はい。それでは申し上げさせて頂きます」
法務官は再び感情を殺した表情となり
「ネル家の皆様には……一人残らずこの王都に居を移して頂きます。例外は許されません。閣下のご尊父であらせられるサー・メルサドもこの場合は対象に含まれます」
「えっ!?わっ、我が一族総て……という事でしょうか……?」
アーガスは仰天した。両脇に座る娘と息子も驚いている。
「左様でございます。あの被害者生徒……マルクス・ヘンリッシュ殿が閣下と御一族に出された条件……それはネル家の皆様を西部方面軍から遠ざけるという事です。
つまり……閣下ご自身につきましても、この和解成立後に任を解かせて頂き、任地から離れて頂きます」
アラム法務官は相変わらず表情から無理に感情を消している。
「あ、いえ……私自身は最早どうでもいいのです……。例え軍職を辞すことになっても致し方無いと思っておりましたので……しかしまさか……一族をサイデルから移せとは……」
「如何致しますか?今回の和解承諾につきましてはヘンリッシュ殿は一切の妥協を許さないと仰られておりました。この条件がご承諾頂けないのであるならば……残念ですが……」
「い、いや!そっ、それは……それは……」
アーガスは腕を組み、右手の掌で口を覆うようにして考え込んでしまった。どうやらこのような素振りを見せると言う事は、口では色々と諦めたような言葉を吐いていたようでいて、その実……軍中央から離れた西部方面軍内で再び勢力を盛り返そうと思っていたのだろうか。
(やはりこの御仁……諦めてはいなかったのだな。娘と息子が放免されると聞いて「まだ取り返せる」とでも思っていたのだろうな……やれやれ……)
「閣下、ご無礼を承知の上で……敢えて申し上げますが、我ら軍務省が『彼』から突き付けられた『二つの条件』はネル家に提示された物よりも厳しい内容です。
彼は閣下のご一族が西部方面軍を去って王都への移住を呑む事で、今回の件に全て『目を瞑る』と申されているのです。私からすれば寧ろこれは破格の条件であると思いますが……?」
法務官の言う通りである。軍務省はこの後、この和解の条件を履行する為に本省内の人員を含む74人もの軍官僚と軍将校を「軍から追放」しなければならないのだ。しかもその中には軍士官学校を「短刀組」として卒業している優秀な人材が何人も含まれている。
これによって短中期的に王国軍……特に陸軍は深刻な人材不足に陥る可能性すらあるのだ。
更に結果としてこれら全ての「大粛清」をもたらす切っ掛けとなった「あの青年」に対して今後の干渉、詮索さえ全て禁じられる。
そして……これが最も驚くべき事なのだが、その青年は極めて有能でありながら士官学校卒業後の進路について、既に任官を拒否する姿勢を表明しているのである。
つまりレインズ王国軍は軍内部から大量の士官を放逐した挙句に……将来極めて優秀な軍人になるであろう人物を採り逃すことになるのだ。
これに比べれば、これまで50年に渡って築いて来た家の地盤を失う事になっても「お咎め無し」で済むネル家の方が幾分マシであろう。
但し、アーガス・ネルまでもが第四師団長からの「異動」ともなれば、まさに今月の実施が内定していた中将への進級は見送りになるだろう。
何しろこの進級は今年夏の除目による、本来であれば「中将を以ってその任に充てる」第四師団長への昇進に伴ったものであったからだ。
その師団長の地位を失うのであれば進級も取り止めになるのは致し方無い。
「うっ……うむ……。そうですな……確かに……。正直申し上げてこれは非常に厳しい話だとは思いますが……寧ろこれでこの一件が済むのであれば……」
アーガスは目を閉じた。この条件を自分に対して納得するように何度も言い聞かせているように見えた。
「しかしこれは……我が父上は何と申されるであろうか……これは父子揃ってお詫びに参上する必要がありますな……」
すっかり諦め切ったアーガスは苦笑を浮かべる。今回の原因を作った形となる娘達も項垂れてしまった。
「しかしこう申し上げては……閣下にとってご不快でしょうが……皆様は本当に運が良い……あの若者が『その程度』の条件だけで和解に応じてくれたのですから……」
小さく首を振りながら苦笑するアラム法務官の姿を見たアーガスは
(これは……どうやら軍務省側にはよっぽどの条件が突き付けられているのか……我が身が助かったとは言え……我々だってこれだけの条件を呑むのだ……しかしこの男の様子では……)
そう思った途端に「これだけで済んで儲けもの」という考えが頭の中を圧するようになるのが現金なところである。
「なるほど……承知しました。法務官殿には一片ならずお骨折り頂きまして……。ネル家を代表して、申し付けられました条件を許諾致しますと共に改めて御礼申し上げます」
アーガスはソファーから立ち上がり、再度頭を下げた。左右の姉弟のそれに従う。結局、アラム法務官が言い添えた事もあり……ネル家はマルクスの出した条件を呑む事になったのであった。
署名が揃った和解同意書はその日の内に軍務卿に提出され、その内容を承認した軍務卿の名前で裁判長を務める事になっていたジヨーム・ヴァルフェリウス大将の下に届けられた。
和解が成立した件についての公爵閣下の反応に対して、軍務省側はアラム法務官以下それを固唾を飲んで見守っていたが、ジヨームは特に何の反応を示す事無く和解同意書の内容に沿った開廷中止手続きを執って、この件の終結を宣告した。
拍子抜けする程にあっさりと和解による開廷中止を受け入れた裁判長の対応に驚いた軍務省側であったが、こうして法廷手続きが終わったからには、被害者側の提示した「条件」を履行する為に早速動き始めた。
公式には10月4日……裁判長の閉廷宣告の直後から、アラム法務官が入手した「名簿」に記された該当者への調査が始まった。
この名簿を提出した被害者は宰相府所轄の監査庁による調査を提案していたが、このような「恥」を軍部の外に漏らしたく無いアラム法務官は、軍務省独自で調査と処分を進める方針を固めて軍務卿に事情を説明した。
「名簿」を見せられたシエルグ軍務卿は暫しの間絶句し、その後は烈火の如く怒り出して調査と処分の徹底を指示した為、省内にアラム法務部次長を長とする「調査委員会」が密かに組織され、ネル家と名簿に記載された「関係者」とは無関係な者で固められた。
軍務卿の怒りは凄まじく、名簿に記載された者だけでは無く首謀者であるアーガス・ネルの追放にすら言及したが、アラム次長を始めとする三名の関係法務官が必死になって和解に対する説明を行った為に、軍法会議の開廷をあっさりと取り下げてくれた公爵閣下への手前、ネル少将への憎悪を押し殺して承諾する他無かった。
そして、この「秘密委員会」からは今回の軍法会議に関わった三法務官の一人であるロウ人事部次長を除く人事局の関係者が全て排除される形となった。
何しろ……ネル家の関係者の中で軍務省内の人脈の中心になっていたと目されるアンリ・スレダ中佐は人事局受給審査部の調査課長という役職に就いており、彼女による推薦人事がしばしば今回の関係者の配置に関わっていたからだ。
そして更に……マルクスが提出した「名簿」に記載されていた「軍務省内の六名が全て人事局内関係者であった」という事実が人事局の面目を潰す大きな要因となっており、本来であれば軍法会議に判事として出席するはずであったロウ次長が自身には特に利害関係が無いこの裁判の開廷阻止と、その後の粛清に対して力を尽くす動機になったのである。
ゼダス・ロウ大佐自身は、人事局人事部次長という……まさしく人事局の中心に居る人物なのだが、この場合は勅任官である「法務官」としての役儀の方が優先されるので、自身が所属すると同時に「名簿記載者の巣窟」であった人事局が今回組織された調査委員会の構成から排除された事については特に不満も異論も無かった。
彼からしてみれば、アンリ・スレダ中佐による「推薦人事」の承認に関して当時人事課長であった自身が「巻き込まれた」という感情すら持っている為に、その「汚名」を晴らすべく一個人として、この粛清に加担する事を決めたのである。
調査委員会の活動は秘密裡に……そして軍務卿の意向を受けた軍務各局の幹部官僚の協力を得て調査が粛々と進められ、翌旬から続々と調査結果に基く処分が下され始めた。
何しろ調査対象である「ネル家の関係者」の名前と「ネル家との繋がり」が「出所不明の名簿」によって、はっきりと判っているのである。後はその事実が認定されれば粛清の対象となるのだ。
調査する側からしてみれば、この恐ろしく内容が正確に記載された名簿の「答え合わせ」をするだけの「簡単なお仕事」であり……後は念の為に調査対象となった者達が更に協力者を作って居ないかだけが念入りに調べられた。
翌旬……10月9日から始まった「関係者の処分」は当然の事ながら軍務省内外に通達される事無く粛々と行われる事となった。
処分対象者の中に部長級以上となる「親補職」が含まれていなかった事も、この粛清に拍車を掛ける事になった。
そして……この粛清が進められていた最中に「ある出来事」が起こる。
10月13日……和解成立から九日後、突如王宮から軍務省に対して「勅諭」が下された。
「勅任官であっても『今回の件』についての関係者処分に躊躇の必要無し」
つまり国王によって親補された者であろうと処分を躊躇わずに行うようにとの「御言葉」であり……その内容よりも
「今上陛下の御耳にこの件が達している」
という事実が軍務卿を震え上がらせた。これを受けて調査委員会は「執行委員会」と名称を改めて、更に粛清を加速させる事となった。
教職員四名と常駐憲兵士官二名が「ネル家の関係者」として送り込まれていた王立士官学校も例外では無く、勅諭が降りた13日の四日後である17日から一斉に関係者の処分が実施された。
当初、軍務省側としては10月四旬目に実施される本年度最初の「席次考査」への影響を考慮して、士官学校教職員への粛清は11月以降にする予定であったが……この出来事によって、そうも言っていられなくなったのである。
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10月4日、フォウラとダンドーのネル姉弟は実に四旬ぶりに士官学校へ復学した。
9月11日の事件については場所が場所だけに多くの目撃者がおり、その内容の詳細は全校生徒及び教職員に広まっていたが、姉弟は特に臆する事無く堂々とした態度で登校すると、まずは学校長と教頭に事件に対する陳謝と復学に対しての感謝の意を伝えた。
そしてこの件に対して職員の中で格別に尽力したとされるタレン・マーズ一回生主任教官にも挨拶に訪れ、以前のような居丈高な態度では無く心からの感謝を述べて当人を苦笑させた。
「まぁ、色々あったが……頑張りなさい。で……自治会はどうするんだい?」
タレンは「あの新入生」に非合法組織だと喝破された生徒互助組織について尋ねた。
「はい……。私たちは当初、自治会からの活動から手を退こうと思ったのですが……」
「辞めるのかい?君達が不在だった間も、残された連中が頑張っていたようだが?」
「はい……学生互助の志を持った人達はちゃんといらっしゃるようですね」
「まぁ、本来の学生同士による互助努力は悪くないと思うんだがな」
「はい。私もそう思います。ヘンリッシュ君もそのように仰ってました」
「ほぅ……彼がな……。どうやら彼自身は互助を必要としていないようだが」
タレンは笑った。
「彼らが私達を受け入れてくれるかは分かりませんが、許されるのであれば今後は運営思想の転換を図って行きたいと思っております。上から命じるような態度では無く、生徒の皆さんを本当に支えて行くような……」
「そうか……。そこに気付けたのであれば、今回の事も殊更悪い事ばかりでは無かったのではないかね?このような言い方は君らも気分を害するかもしれないが」
「いえ……。ご理解頂きまして感謝致します。私達、遅まきながら今後は出直す気持ちで取り組んで行きたいと思いますので、今後もご指導ご鞭撻をどうか……」
「ははは……私は現役学生の頃は成績も振るわない平凡な生徒だった。君達に物申せるような立派な人間では無いさ。君達は今の気持ちを忘れずに頑張ってくれよ」
姉弟は父親から、この目の前に居る一回生主任教官の正体が軍部ですら恐れる大貴族、ヴァルフェリウス公爵家の次男であることを教えられ、今更ながらに汗顔の至りであったようだ。
そのタレンに衝撃の人事が舞い込んで来たのは新年度最初の席次考査が始まる10月19日の事である。
通常、席次考査は偶数月の三旬目に行われる。しかし10月の考査は新年度の最初であるということで、四旬目に行われるのが毎年の通例となっている。
なぜ一旬遅くなるのかと言うと、二・三回生の新年度は9月1日から始まるのだが、新入生は9月10日の入学式後からとなり、在校生も含めて新年度の開始によって様々な環境の変化等がある為に、10月の三旬目では「早過ぎる」と判断される為だ。
余談ではあるが同様の措置として毎年8月に行われる席次考査が……こちらは入学考査の面接試験と、その後の合否判定という学校側の都合によって四旬目から五旬目にかけて行われる。
ちなみに、8月の席次考査の対象となるのは二回生のみであり、三回生は既に五月に卒業しているのでこの期間に在校しているのは二回生のみとなる。
更に6月は入学考査の筆記試験とその判定が実施される関係で在校生……二回生は長い夏季休暇が与えられる為に席次考査は実施されない。
この期間は学生寮も受験生の宿泊に使われるので、全寮制だった昔ならいざ知らず……現在の校内に残留する入寮生は一時的に本校舎二階の教職員宿直室を使用する決まりになっていた。
と言っても……地方遠隔地から上京して入寮している者や、王都市中の下宿などを利用している者は、この長期の夏季休暇期間中が年内で唯一の帰省機会である為、校外へ出る事が原則認められていない留学生を除いて、大半の遠隔地出身者は帰省の為に出払ってしまう。
学校側もこう言った事情を加味して、この期間中の警衛当番は王都出身者・在住者を指名する事が多い。
そう言った状況の中で敢えて入学考査の「手伝い」に志願する者には内申点において加点があるという「慣習」が生まれたのだ。
毎年10月の新年度初回となる席次考査の初日は10月四旬目の19日となる。この10月19日……休み明けの朝にタレンは突然の配置異動を言い渡された。
「タレン・マーズを少佐進級と同時に三回生主任教官へと任ずる」
士官学校内でこの時期異例とも言える配置異動を言い渡されたのはタレンを含めて二名……三回生主任に任じられた彼自身と、彼の後任として一回生主任教官に任じられた、前二回生陸軍科で格闘戦技を担当していたイメル・シーガ中尉が大尉へと進級した上で任命された。
それまで三回生主任教官であったウィレン・ボレグ大尉は二日前の10月17日付で職を解かれており、新年度からまだ一月強で教官人事……それも三回生主任教官という実質的な校内ナンバー3の人事異動に職員室内は騒然となった。
更に異例尽くめな事に、タレン・マーズ大尉は新任の一回生主任教官から一足飛びで二回生主任教官を飛び越えての昇格であり……更に言えば本来、大尉が適正階級である主任教官職であるにも関わらず、10月の進級人事の末端に急遽付け足したかのように「少佐進級」が伴われていた。佐官の士官学校教官職は異例中の異例である。
やはりこれは軍務省側から、ネル家の件に巻き込んでしまったタレン・マーズ……ヴァルフェリウス公爵家次男への謝罪的なものと「口封じ」的な性質を併せ持った人事であろうことは明白であり、本人もそれを即座に理解した上で「なるほどな」と苦笑いしながら学校長から辞令を受け取った。
今回の騒動に関して、タレンは事態の経過とそれに伴う軍務省側の動きに関して、学校側に殆ど報告していない。彼の口から上司であるアガサ教頭に対して伝えられたのは
「加害者姉弟と被害者新入生の間で和解が成立した」
という事実のみであった。当然ながら、この騒動の裏に西部方面軍所属の一将官による軍閥形成の「発覚」があった事など、おくびにも出していない。
なので学校長や教頭を始めとする士官学校教職員側は、ウィレン・ボレグ三回生主任教官の実質的な更迭と、それと時期を同じにして三名の教官が職を解かれた理由が判らず、ただ混乱するだけであった。
そこに新任の一回生主任教官がその後任に納まった上で異例の少佐進級である。いくら彼が建国以来、軍部内でも影響力を持ち続けるヴァルフェリウス公爵家の次男だとしても、これ程露骨な優遇人事は無かったであろうというのが他の教職員……アガサ教頭を含む者達の感想であった。
そもそも、少佐に進級したとは言え……公爵家の御曹司であるはずのタレンが35歳という年齢で大尉という階級に留まっていた事自体が、これまで彼に対して一切の忖度人事が行われていなかった証左であった。
他の省庁においてはそれぞれ、そこを支配する門閥関係者が彼と同じ年齢で既に部長級にまで昇進していたりするのだ。
30歳で内務省渉外室長に任じられているエリン・アルフォード女史がその好例である。
それに比べて35歳で士官学校の主任教官で大尉……と言う階級であった彼は士官学校時代の成績も凡庸であったので、むしろ平均的な短刀組であるエリート軍官僚よりも出世競争で一歩遅れた状況であったくらいだ。
本人は、それこそ出勤後に学校長室に呼び出されて辞令を受け取った時は衝撃を隠せない程驚いていたが、部屋を出て席の移動の為に一回生主任教官の席に戻る頃には平静さを取り戻していた。
後任のシーガ主任教官が既に席の移動の為に彼女が本来詰めていた東校舎の陸軍科職員室から自らの荷物を運び込んで待っており
「マーズ主任、ご昇格とご進級おめでとうございます」
と自らの昇格と進級を差し置いて彼に祝福の言葉を掛けて来た。
「あぁ……うん。どうも……。君もな……昇格おめでとう」
「ふふふ……。ありがとうございます。私の昇格はマーズ主任の『おこぼれ』に与っただけですわ」
両者共に、新年度最初の席次考査初日の朝という忙しい時に突然辞令を渡されて苦笑いだ。
今回の配置転換で、その職位と階級が全く動く事の無かった二回生主任教官のエルテラ・アーバインは、自分の頭越しに一回生主任教官のタレンが一気に三回生主任教官に任じられた事に、多少不満が無いわけでも無かったが……そもそも彼女はタレンよりも年下であったし、「北部方面軍の驍将」たるマーズ子爵の噂を以前から知っていた事、そして彼が今回の昇格に伴って階級が一つ上の少佐に進級となった為に、あっさりとその拘りを捨てたようだ。
アーバイン主任も手伝って、新任の一回生主任と三回生主任の席移動は比較的短時間で済んだ。
そもそも彼らは主任教官なので、一般教官……それも担任を持っている者達と違って学級朝礼に参加する必要も無く、二点鐘で始まる席次考査の試験官としての任務も無いのが幸いした。
「しかし……ボレグ主任はどうされたのでしょう……?他にもエラン教官、オイデン教官……マーテル教官もですか……」
アーバイン教官がタレンの机から書類の入った卓上棚を移しながら疑問を口にすると
「うーん。新年度早々にこれだけ一度に人事異動があるのは珍しいですな」
と、タレンはすっとぼけて応えた。実際の彼は四人が更迭……どころか王国軍人としての地位を失う事を知っている。
しかし、それは彼の憎む「軍閥化」に絡んでの事であるので、失職者達への同情は一切無かった。
ともあれ、彼自身にとっても寝耳に水の出来事ではあるのだが、彼は主任教官の中でも階級が最上位となった事で、「実質的なナンバー3」から「実質的」という部分が外されて、名実ともに士官学校内で第三位の地位に就く事になった。
これは彼の目指す「戦技授業改革」において大きくプラスに作用するであろう事は間違い無い。
当初は困惑していたが、よくよく考えてみると結果的にはこれで良かったのでないかと、彼は新しい職位と階級を受け入れることにした。
三回生主任教官の席は偶然にも学校長室の入口から一番近い場所にあるので、今後は教頭の「頭越し」にエイチ学校長への陳情を試みやすくなりそうであった。
今回の騒動の当事者であったネル姉弟も復学に伴って相当に反省をしているようであるし、増してや被害者である「あの首席生徒」は自分の出した和解条件が粛々と履行されている事をこの主任教官人事で知るだろうから、最早この騒動はこれで漸くの決着を見るだろうと……タレンは思った。
ネル家の王都移住の期限は今年3048年の年末一杯だという情報をタレンはマルクスから聞いている。
そしてアーガス・ネルは西部方面軍第四師団長の任を解かれ、中将進級も見送られた上で王都方面軍所属のタイラス砦司令官に転出となった。
言うまでも無く王都周辺……と言うよりも王都圏内にある南西のチュークスとの中間にある一要塞の責任者であり、閑職である。
このような王国各地にある要塞司令官の職は基本的に将官を以ってそれに充てるのだが、概ね閑職である事が多い。
嘗てタレン自身が新任仕官として赴任した北方の大北東地方との境界に建つラーナン砦のような出動の多い最前線地域の要塞には、それなりに出世の見込める者が責任者を務めたりするが、その他の……特に王都周辺の平和な地域に建つ軍事要塞にはそのような緊張感も無く、その中の役職も直接王都にある司令部に管理されているので、本来であるならば金時計授受者であるアーガスの転任先になるような場所では無い。
この明らかな懲罰人事をアーガスは受け入れた。タイラス砦……王都とチュークスを結ぶ国道一号線沿いにあるとは言え、王都との距離は馬車で二日程掛かるので頻繁に王都と行き来するわけにも行かず、ネル一族の王都居住が義務付けられる事になった今回は単身赴任という形になる。
それでも予備役入りや除隊処分を免れただけでも好しとして、アーガスは新任地へと旅立って行った。
そして残された彼の一族も移住期限である年末に向けて、事情もよく把握出来ていないままに軍務省から王都への移住を言い渡されて、1000キロ離れた王都の四層目……環状三号道路と四号道路に挟まれた「中小貴族区画」で新居を探す事になり、どうやら王都北側の四層目……王城と北西のユージャス門とを繋ぐトラウバル通りと、西門……ジューダス門と王城を結ぶエヌゲス通りとの間にある四号道路から一本入った場所に、それなりに大きな屋敷を購入出来たようである。
やはり西部方面軍を支配していただけあって、蓄財はそれなりにあったらしく屋敷購入はスムーズに行われたようだと、何故かそれを知るマルクスからタレンは説明された。
この地域の更に内側の地域……大貴族が屋敷を構える三層目の二号道路側にはヴァルフェリウス公爵家が王都での広大な屋敷を構えており、奇遇な事だがタレン自身はその屋敷に士官学校入学まで居住していた。
今では王都方面軍司令官となった父ジヨーム・ヴァルフェリウスがこの屋敷に居住しており、これも奇遇ではあるが公爵家屋敷と二号道路を挟んだ反対側の二層目側には彼の任地である王都方面軍本部が建っている。
ジヨームにとっては自分の屋敷の門と職場の門……正門では無く通用門ではあるが……との移動が僅か数十秒という至近の立地となっていた。
皮肉な事に、王都方面軍本部の通用門を守る警衛にとっては、「通り」を挟んだ反対側から自身の司令官が出勤して来るので立番しているだけでその様子が判り、不意の出勤で慌てて敬礼をするという破目にならずに済むというメリットがあり、彼らにとっては概ね好評のようだ。
父であるアーガス・ネルが、その新任務を受け入れたように、その子供であるネル姉弟も復学後の自分達の境遇について受け入れていた。
あの事件によって「自治会」という組織は被害者の首席生徒に「非合法組織」である事が指摘され、更には会長である自身が憲兵隊に拘束された事で一般生徒からの印象は著しく悪化してしまった。
自治会の会員から脱退する者も多く、姉弟が復学した時点でその人数は往時の三割程度にまで激減していたのである。
それでも学生互助の精神を持って組織に残って居た者も多く、姉弟はその者達に改めて今回の不祥事に対して謝罪をした。
残っていた者達の中で姉弟をあからさまに批判をする者も居たが、大半の会員は姉弟の復帰を認め、結局彼女は引き続き自治会長として今度は「会の改革」に取り組む事になった。
彼女はまず、会員と役員に対して
「自治会という組織は今後、在学中の内申点に対して全く考慮されないものになります。それを見込んで入会された方には脱会をお奨めします」
と告げて、会員の皆を驚かせた。その上で自治会設立に対する本来の目的であった学生互助と校内秩序の維持を改めて確認すると共に、今後は生徒に対して高圧的な態度を採るのでは無く、彼らに寄り添うような組織として再出発しようと提案し、会員からの大きな支持と賛同を得ることに成功した。
そして本校舎三階の自治会室を一般の生徒にも開放して、彼らの相談事にも応じるなどの活動内容も改革も図りつつ、学校側とも連携を密にして「非合法」では無く「非公式」という形で学校統治に協力して行くという姿勢を打ち出した。
この考え方は学校当局側には概ね好感を以って受け入れられ、学校側も彼らの活動を非公式ではあるが認めて、それに協力するという約束を取り交わした。
そんな彼らにとって……どうやら「学生時代から自治会を好く思っていなかった」と思われたマーズ一回生主任教官が三回生主任教官に昇格した事は少なからず不安を覚えたが、彼はフォウラ・ネル会長に対して思いの外寛容に接するようになっていたので、寧ろその活動の後押しを期待出来る存在となったようだ。
イント・ティアロンは新学期開始当初、自身の「内申点稼ぎ」を目的として自治会役員への就任を熱望して、結果的にそれを叶えたのだが……復学したフォウラがまるで人柄が変わったかのように自治会活動の内申点への影響を廃した上で新しい自治会としての姿勢を説いた事に心を動かされて、会に残る事となった。
彼女と同様に成績考慮目当てに自治会活動に身を投じていた者達が次々と会から離脱して行ったので、結局彼女は会の中の席次が上がって副会長に就任してフォウラを脇から支える事になった。
そんな彼女が驚いたのは、フォウラが今回の件を乗り越えて非常に「柔らかい」雰囲気を出すようになった事と、それとは逆に弟であるダンドーが「一皮剥けた」ような凛々しい印象を周囲に与えるようになったことであった。
特にダンドーの変貌は驚くべき程で、あの巨漢とも言うべき体格で一般生徒の為に自らの考えで色々と動き回るようになった事と、今まではベッタリであった姉と一緒に居る事が極端に少なくなった事に、それまでの彼を知る者は目を瞠るようになっていた。
「私達の、この新しい取り組みに賛同して頂いた上で手を挙げて下さる方だけを受け入れましょう」
という会長の考えによって、自治会は新会員の募集を積極的に行わなくなった。自分達の活動を通して、その理念を理解して参加を希望して来た生徒にはしっかりと説明をした上で加入を認める事にした。
やはり口でいくら説明しても「自治会に入れば本来の成績以上の席次が得られる」と勘違いする生徒はまだまだ存在したのである。
「では皆さん、席次考査が始まります。私達の本分は勉学です。お互いベストを尽くして頑張りましょう」
フォウラがそう宣言した10月17日、彼女と弟を陰ながら支えていた四人の教職員が突然軍務省の通達で職を逐われたのだが、彼女達はそれに全く気付く事は無かった……。
****
「まぁ、何とかこの騒ぎも収まったな。今回の件で君という者に対して、私は得体の知れない『何か』を感じたよ。これまでに何度も聞いたが……君は一体何者なんだい?」
まだ自身の昇格や進級など思いもしていない10月10日。入学式から丁度一月が経過した授業終了後の面談室でタレンはマルクスに尋ねた。
彼は今後の「授業改革」に対して一生徒であるマルクスに相談を持ち掛けていたのだ。
「何者……と言われましても。主任教官殿におかれましては、私の身上について入学前の調査書で把握されていらっしゃると思いますが?」
彼の答えは相変わらず……すっ惚けている。
「いやいや。レストランの息子がこんなに色々と情報を……それも国家機密に属するようなものについて知っているのは明らかに異常だろう。
それに君の体術もそうだしな。オーガス中尉の脚を治したという事実も気になるところだ」
士官学校の常駐憲兵士官についての制度改革は、「関係者」の処分よりも迅速に行われた。何しろ三人の定員であった常駐憲兵士官のうち、二名が「関係者」であることが判明しているのだ。
この件に関しては軍務省の本省よりも憲兵本部の方が迅速に動いた。この日の時点ではまだ王宮からの「勅諭」が出されていなかったので、名称を「調査委員会」としていた組織の一員であったサムス・エラ憲兵課長が「三交代制」を改めさせて、責任者として憲兵士官を一名置き、それを補佐する一般憲兵を二名置く事で、補佐役の一般憲兵を「三交代制」とした。
つまり、これまで当番である憲兵士官が一名だけ常駐していた形から、士官を一名に減員させた上で専任させる形に改めたのだ。
そして、その新たな制度による常駐憲兵の責任者に任命されたのは、どういうわけか足の怪我が完治したベルガ・オーガス憲兵中尉であった。
ベルガは10月7日付で、士官学校の新常駐士官を拝命して構内の警衛本部……本校舎の大食堂の西隣で勤務する事になった。
責任者として……そして司法官である憲兵士官は彼一人になってしまったが、彼の勤務時間である8時から17時以外には一般憲兵が二人詰める事になったので、却って構内の治安体勢は向上する事になった。
ベルガが不在である時間に司法官が必要になった場合でも、そもそもこの士官学校は憲兵本部のある軍務省とはケイノクス通り一本を隔てた反対側にあるので、夜間早朝の時間帯は直接憲兵本部に士官の出動を要請すればいいだけの話であった。
また、新憲兵士官にベルガが指名されたのも、今回の事件でそれなりに足を突っ込んでしまった……何しろ彼は憲兵課長と共にネル少将の土下座を目撃しており、それに対する態の良い「厄介払い」という感も否めなかった。
ベルガにとっては、自分も巻き込まれた形であるにも関わらず憲兵隊長の任を解かれた事に若干の不満は残るものの、敬愛する元上司であるタレンや自分の脚を治してくれたマルクスが居る士官学校への赴任とあって、それ程悪い気はしなかったようだ。
「憲兵中尉殿の脚は私からすれば『もう治っていた』のですよ。私はそれを軽く調整したに過ぎません」
マルクスは相変わらず豊かさに欠ける表情で、淡々と無感情に説明した。
「まぁ……どうせこの件を問い詰めたところで君はどこまでも白を切るだろうしな。もう少し建設的な話をしたい」
タレンは苦笑しながら
「例の白兵戦技の授業についてな、私は近々に……まぁ、具体的には今度の席次考査終了後くらいのタイミングで学校長閣下に直接進言してみようと思っているんだよ」
「ほぅ……教頭殿の頭越しにですか?」
「うん。教頭殿……あの人は駄目だった。一応は一通り説明してみたのだがな……旧来の『やり方』を変える事に難色を示された」
「まぁ、これは申し上げにくいのですが……あの教頭殿は典型的な軍務官僚ですからな。確かまだ55歳ですよね?まだ退任後の事まで気にされる年齢ではありますな」
マルクスの容赦の無い言い様にタレンは吹き出しそうになりながら
「おいおい……そんなあからさまに言ってくれるなよ。私も一応はこの学校の教員なんだ。上司である教頭殿を悪し様に言われたらどう反応していいか分からんじゃないか」
「しかし、その上司殿の頭越しに校長閣下へ陳情するわけですよね?後々問題にはなりませんか?」
「まぁ、なるだろうな。何しろ私は陸軍の軍人で、その私が同じ陸軍『官僚』である教頭殿を無視して海軍軍人である校長閣下へ直接具申をするわけだからな」
「校長閣下に具申するよりも、軍務省へ直接陳情した方が宜しいのでは?」
「いやいや。私如きが陳情したところで軍務省が動いてくれるわけが無いさ。軍務省の官僚が動いてくれるくらいなら、そもそも教頭殿が動いてくれるだろう。官僚なんてそんなもんさ」
「なるほど。ではまぁ……首尾良く校長閣下への具申が通る事をお祈りしますよ」
「ははは……そうだな。この件で私は焦るつもりは無い。せめて私がこの職に就いている間に実現してくれれば良いと思っている。
今のような……『実』の伴わない戦技によって任官早々に生命を落とす事になる卒業生を少しでも減らしたい……。
私のような未熟な新任仕官を護って生命を散らせたあの者達のような……」
最後は哀しい過去を思い出したかのように表情を曇らせたタレンを見たマルクスは
「私は主任教官殿のお考えを支持しております。この国の将来の為にも是非改革を実現して下さい」
そう言って面談室を後にした。
(全く……あのエルダが産んだ子供とは思えないな。あのババァのやらかした事は罪深いものだが、生まれた子には罪が無いって事だな)
マルクスは苦笑しながら下校の為に本校舎の出入口に向かった。校舎を出て正門に向かう途中……先日ネル姉弟を投げ飛ばした場所辺りに机が並んでいる。
あの場所は入学以来、主に自治会が案内所を設ける事が多く本日出ている机も何か案内を目的として設置されているものであると思われる。
基本的に今歩いている構内通路は教職員と一回生が利用する事が多く、上級生はその先にある分岐から中庭方向に伸びた通路から各校舎へ向かうようになっている。
ちなみに、本校舎一階の西端に位置する一年一組の前の廊下で突き当たる部分にも扉が設置されており、そこからも出入りは可能で、戦技実習等で西校舎に付設されている更衣室に向かう際には、その扉から出入りする事が普通だ。
正門へと続く通路の踊り場に設置された二つの机の一方には、何とフォウラが座っていた。
フォウラは本校舎から歩いて来る長身痩躯の一回生の姿に気が付くと、少し驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直した様子で話し掛けて来た。
「ヘンリッシュ君、今から下校ですか?」
「うむ。そうだが……何をしているのだ?」
「あぁ……再来旬の19日から席次考査が始まるでしょう?毎年10月は通常よりも一旬遅くやるのだけれどもね。
今年度最初の試験だから、新入生の人達への案内と相談をしているのよ。来旬末まで交代でここに座る事になっていて、今日は初日だから私が座っているの」
「ほぅ……そうなのか。新入生にとってはありがたい事だな」
フォウラの隣には別の自治会員の男子生徒が座っているのだが、この新入生と自治会長の会話をハラハラした様子で見守っている。
何しろ1ヵ月前、この二人はここで騒動を起こしているのだ。この生徒はその現場を直接見ていないのだが、隣に座る会長がこの新入生を襲撃して殺人未遂の現行犯で憲兵隊に連行されたという話は当然知っている。
先日、その騒動も収まり……復学して来た自治会長は「自治会の女傑」などと呼ばれていた頃とは打って変わって優しく丸味を帯びた印象を持つようになっていた。
以前よりも話掛けやすい雰囲気になっており、元から端正だった顔立ちが一層魅力的になっていると思えた。
「ヘンリッシュ君は何か試験に対して判らない事は無いの?」
「今のところは無いな」
「そう……。まぁ、これは私の経験談なんだけどね。日々の授業の内容さえちゃんと理解していれば、そうそう試験で苦戦する事も無いと思うわ」
「まぁ、そうだろうな。ウチのクラスの連中を見ていると、その『授業の理解』の部分で怪しい者も居るようだがな……」
マルクスの級友評を聞いて、フォウラだけでは無く隣の男子生徒も笑い出した。この一見して「他人を寄せ付けない」雰囲気を撒き散らしている首席生徒が意外にもクラスメートをよく観察している事がおかしかったし、何よりこうして話掛けてみると意外にも普通に応じて来るのも不思議な感覚であった。
「では失礼する」
そう言ってマルクスは校門の方に歩いて行った。その様子を眺めながら男子生徒が
「意外にも普通に話せる奴でしたね」
と感想を述べると
「そうね。こちらがそれなりに心を開いて話掛ければ、ちゃんとそれに応えてくれる人だったのね。以前の私はそれすらも出来なかったのだわ」
「そっ、そんな事はありませんよっ!会長は常に礼儀正しくお話しになられるじゃないですか」
「外見上はそう見えても、心の中はまた違っている事もあるのよ。彼はそういう相手の内面も見透かして接しているのね」
「なるほど……大した奴ですね……」
二人が後ろ姿が小さくなって行くマルクスを眺めながら意見を交わしていると
「あっ……あの……」
と、他の一回生と思われる女子生徒が思い切った様子で話しかけて来た。
「あら。試験についてのご相談ですか?」
フォウラは優し気な笑顔を浮かべながら不安そうに話掛けて来た女子生徒の方に向き直るのだった。
****
ルゥテウスが藍玉堂に戻ると、一階の作業場では相変わらず三人娘が奇声を上げながら実習を行っており、それをノンが叱りつけるという「いつもの光景」が展開されていた。
「アイバンバッタって、昼はすごいうるさいのですけど……夜になるとすごい静かになるんです」
アトが故郷の草原で見かける特殊な生態のバッタについてサナに説明している。昆虫がやや苦手な錬金術師であるサナは、その話を聞いて
「アイバンバッタ……確かにこの娘達みたいね……」
と、苦笑いしながら聞いている。
「お帰りなさいませ。監督さんが二階でお待ちです」
ノンがルゥテウスに気付いて挨拶をする。それに続いて三人娘もそれぞれ喧しく挨拶をしてくるのへ手を上げて返しながらルゥテウスは二階に上って行った。
二階には珍しくアイサが来ており、何か菓子を作っていた。彼女は今でも十日に一度くらいはこちらの藍玉堂にやって来て、皆にオヤツを作っている。
「お帰りなさいませ」
大机の椅子に座っていたドロスが立ち上がって挨拶をしてくると
「おぉ。何か待たせてしまったみたいだな。すまん」
店主が席に着いたので彼も再び椅子に腰を下ろす。すぐにアイサが机に焼き立てのパンケーキの載った皿を置いてハチミツをたっぷりと掛けた。
「おっかあ、ありがとな」
ルゥテウスはアイサにも礼を述べてから
「あれから何か解ったのか?」
と、早速ドロスに尋ねた。
「はい。少々思い切って我々の方から直接、渉外室の周辺を探ってみました」
「おぉ。結構思い切ったな。大丈夫だったのか?」
「はい。最近は省内にも雑役婦として手の者を二人程出入りさせてますので」
「なるほどな」
「いきなり渉外室の内部を探るのは流石に危険なので、あそこと接触した相手方を探ることにしました」
「あぁ、そういうことか。それなら多少はリスクも軽くなるな。流石は監督だ」
ルゥテウスが笑うとドロスは「いやいや……」と謙遜しながら
「前回、店主様のご指示を頂いてから……魔法ギルドからの接触が一度だけございました」
「ほぅ……。魔法ギルドがか?ナトス達が動き回っているせいで両者は対立関係に入っていたと思ってたがな」
「どうやら渉外室は別のようですな。まぁ……部署の性質上、闇雲に敵を作らずに全方位的な付き合いは継続しているのではないでしょうか」
「そうかもしれんな。しかし俺の見たところ、灰色の塔の側から内務省庁舎にマナの気配は伸びているぞ。奴らもやはり内務省自体にはかなり警戒しているようだな」
「そうなのですか?」
「うむ。恐らくは内務省庁舎の中にいくつか盗聴の魔導具を仕掛けているのだろう」
「なんと……大丈夫なのでしょうか……?」
「どうだろうな。監督の手の者が引っ掛からなければ俺としてはどうでもいいと思っている」
ルゥテウスがまたも笑い声を上げるとドロスも苦笑を漏らした。この二人は基本的に内務省と魔法ギルドの「暗闘」自体は「子供の喧嘩」だと思っているのだ。
それも今のところはその規模を完全に《青の子》側でコントロール出来ていると言える。
「で、渉外室と魔法ギルドの接触ってのはどういうものなんだ?」
「ええ……。実は魔法ギルド側からは一人だけしか関わっていないようです。目立たない程度に聞き込みをしてみたのですが、どうやらかなり以前から内務省と接触している魔法ギルドの構成員は一人だけのようなのです」
「一人だけ?つまりそいつが内務省……もっと具体的には渉外室との接触に対して専従しているって事なのか?」
「恐らくはそのようになるかと思いますが、その人物は思ったよりも『大物』みたいですな」
「大物?魔法ギルドの中でって事か?」
「はい。本日漸くその人物を特定する事に成功したのでご報告に参りました」
ドロスは表情を改めた。その只ならない様子にルゥテウスも笑いを引っ込める。
「どうやら、かなり地位の高そうな奴だな」
「はい。魔術師の名はシュペル・ブライス。ラル・クリース導師長の首席秘書との事です。彼の名は早い段階でシアロン派の方でも知られていたようで、八年前のキャンプに内務機関の監察が来た時も、それを内務省に依頼したのが……このブライス魔術師だとの記録が残っておりました」
「導師長の首席秘書だと……?そりゃかなり序列の高そうな奴だな」
「ええ。その序列です。私もその序列についてはまだ不勉強なのですが、ブライスはどうやら現在の魔法ギルドでは序列四位に相当するようで、大物である事は間違い無いかと」
「なるほどな。導師長の首席秘書って事はやっぱりそれくらいの序列になるのか。序列一位が総帥のヴェムハ、二位を導師長のクリースだとすると、実質的に魔術師としては序列で二番目になるな。
俺が気配で探った感じでは、あの灰色の塔には現在120名くらいの魔術師が出入りしていると思われる。錬金術師も何人か居るだろうが、基本的に錬金術師はウチの店長のように独立する奴が多いからな……」
「そっ……そんなに大勢の魔術師が居るのですか……?しかもその中でブライスは二番目であると……?」
「監督が掴んで来た情報によればそうなるな。俺やお前が過去に目にした魔術師……ローワンだのノディラクスとかっていう奴らよりも上位である可能性が高いな」
「あの……山賊団を一網打尽にした魔術師よりもですか……」
ドロスは過去に旧サクロ村を襲った山賊の頭目一味を魔術で粉砕した魔術師ノディラクスの力をまざまざと見せられている。
彼にとってあの光景はトラウマとも言えるもので、あれから以後……魔術師という者達……そしてそれを束ねる魔法ギルドに対しての認識を改めている。
「で、そもそもの話……そのブライスという魔術師はなぜ渉外室と接触を続けているのだ?」
「あぁ……はい。実はその後の調査……過去にシアロン派が調べ上げたブライスに関する調査では、ブライス自身は内務省や渉外室と言うよりも……アルフォード家に対して何か繋がりがあるのではないかとの事です」
「ほぅ……身内なのか?」
「いえ、それ程の濃い繋がりでないようです。ですが、やはり何らかの繋がりがあるのは事実のようなので、今後はこの線を我々の手で探ってみます」
「そうか。気を付けろよ?」
「お気遣い感謝致します。ブライスの事もそうですが、こうなるとアルフォード家そのものも調べる必要があるかと存じます」
「そうだな。まずはナトスに一服盛った奴が居るならば、そいつを特定して欲しい。そこさえ判れば、攫って来て尋問する事もできるからな」
店主がニヤニヤするのをドロスは不安そうに見ている。敬愛する統領様の鬼謀に対して、この店主の剛腕振りはまさに対照的である。
「で、では……私は調査に戻ります。また何か進展が見られましたらご連絡致します」
そう言ってドロスは席を立って地下の転送陣へと向かって行った。アイサはいつの間にか大量のパンケーキが載った大皿を一階に運んでいて、作業部屋で皆に振る舞っていた。
(導師長の秘書か。しかもアルフォード家に繋がっていると?意外に面倒な相手かもしれんな……)
ルゥテウスは一人残された二階で思案に耽るのであった。
(第三章 完)
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
王立士官学校入学に際し変名を使う。一年一組所属で入試順位首席。
タレン・マーズ
35歳。マーズ子爵家当主で王国陸軍大尉。ジヨーム・ヴァルフェリウスの次男。母はエルダ。
士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に養子入りし、後に家督を相続して子爵となる。
北部方面軍第一師団所属から王立士官学校一回生主任教官へと抜擢されて赴任する。
フォウラ・ネル
17歳。王立士官学校三回生。陸軍軍務科専攻。二回生修了時点で陸軍科首席。学生自治会長。
学生の間では「自治会の女傑」として恐れられる。
主人公に対する殺人未遂の現行犯で憲兵本部に拘留されるが和解が成立して釈放され、復学も許される。
ダンドー・ネル
17歳。王立士官学校三回生。陸軍科三組。一回生修了時の席次は78位。学生自治会所属。
自治会長フォウラ・ネルの弟。身長190センチ強、体重120キロ以上と言われる巨漢。学年の席次は低いが姉の護衛役として自治会に所属している。
姉と共に主人公に対する殺人未遂罪で拘留されるが和解に伴って釈放され、復学を果たす。
アーガス・ネル
49歳。王国西部方面軍第四師団長。陸軍少将。3017年度士官学校陸軍歩兵科卒業。首席で金時計授受者。勲爵士。
フォウラ、ダンドー姉弟の父親。娘達の起こした事件によって自らと父が築いてきたネル家による軍閥作りが暴かれてしまい、娘達と主人公の和解の条件として軍閥の解体を命じられる。
ジェック・アラム
51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。
軍務省に所属する法務官でネル姉弟が起こした殺人未遂事件を裁く軍法会議では検察官を担当する事になったが、主人公とネル家との和解に奔走する。
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ドロス
54歳。難民キャンプで諜報組織《青の子》を統括する真面目な男。
難民関係者からは《監督》と呼ばれている。シニョルに対する畏怖が強い。
内務省と魔法ギルドの対立工作の陣頭指揮を執りながら、ナトスがエリンに魅了された一件について再調査を行う。