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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第三章 王立士官学校
57/129

改革騒動

今年は世間的には歴史的感染症被害で大騒ぎとなりましたが、私個人としては夏場の手術にまで至ってしまった頸椎ヘルニアに続いて急性虫垂炎で再度入院・手術という厄介毎が続いた年になってしまいました。

突然に連載が停止してしまった事を改めてお詫び申し上げます。


※今回より、士官学校パートでは混乱を避ける為に主人公の表記を変名「マルクス」に統一致します。


【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 王立士官学校の一回生は、専科である二、三回生とは違い学年全ての生徒が同じ授業を受ける。


いわゆる「一般教養」であるが、学科だけでは無く実戦訓練も含まれる。その中の一つであった「白兵戦技」の授業では「白兵戦における武術指導」という内容で行われる事は既に書いたが、訓練には他にも基礎体力を養う為の「基礎鍛錬」や軍学と併せて行われる「行動教練」というものがある。


これら様々な演習場を使用した訓練がほぼ毎日組み込まれており、マルクスが初登校した入学二日目のような丸一日座学だけの日という方がむしろ珍しかった。

そして授業は全て男女一緒に行われ、あらゆる意味で平等に扱われる。


教官も女子だからと言って一切手加減する事無く、基礎鍛錬の授業においても筋力を鍛える為に懸垂や腕立て伏せをクラス全員で行い、それが午前中に行われると次の授業から手の力が入らなくなるという生徒も続出した。


しかしこれも新入生にとっては通過儀礼みたいなもので、数ヵ月も経って年明けを迎えると、過酷な訓練にも「慣れ」が出て来てそれほどキツく感じなくなると……担任教官は説明していた。


 一年一組の生徒に大きな衝撃を与えた初の白兵戦技の授業から一旬が経った。

その間にも白兵戦技の授業自体は一度あったが、それは担任教官であるヨーグが担当する「剣技」では無く、「槍技」担当のハウル・ショーツによる授業であったので、やはり同じように槍術を経験していた生徒二名を補助指導員として槍という武器の取り扱い方や構え方、汎用的な型取りの教練を受けて終わっていた。


その授業においてもマルクスは教練の輪に加わる事無く訓練用の木製の模造槍を持ったまま立ち尽くすように眺めているだけであったが、教官であるショーツは授業の前から一組担任のドライト・ヨーグ教官から話を聞いていたので、戸惑いながらも敢えて彼に声を掛けることはしなかった。

前回の授業で彼の力を間近で体験した同級生一同は尚更である。


そして休日明けの9月19日。再び午後の二時間を占める白兵戦技の授業が回ってきた。担当教官は剣技のヨーグ教官である。


リイナの号令による挙手敬礼に対して答礼を終え、ヨーグは話を切り出した。


「へ、ヘンリッシュ君。前回の『あれ』を踏まえて君に相談があるんだ」


授業開始冒頭から、いきなり担任の口から首席生徒へ「相談」という言葉が出て一組生徒一同はザワつき始めた。


「私に何か?」


縦五列、横四列の教室における席順通りに整列している生徒達の、ヨーグの正面にある真ん中の列の一番後ろに居るマルクスはいつもの無感情な声音で応答した。


「前回の授業の際に俺に説明してくれた、あの……『本来の白兵戦技』というやつな……実はあの後色々考えた結果、俺も取り入れたいと思ったんだ……。おいっ!静かにしろっ!」


ヨーグはザワつく生徒達を一喝しながら、尚もマルクスに向かって


「そこで相談なんだがな……俺も含めて他の戦技教官の方々もな……その……君の言う『多人数相手の』という武術についてはどうもその……苦手と言うかだな……」


ヨーグは口籠りながらも


「取り入れたいのは山々なのだが、その『取っ掛かり』がどうも……難しくてな……。そこで君ならばその訓練法を知っているのではないかと思って……。

もしよければ実戦を経験していない我々でも可能な訓練法を教えて貰えないだろうか?」


同級生一同はこの担任教官の言葉を聞いて驚愕した。伝統ある王立士官学校において、訓練教官が、自身の教義を放棄して……一生徒にそれを依頼する……しかも他の生徒の前でそれを隠す事無くだ。


「お断りします」


マルクスの短い回答は更に一同を驚かせた。本来ならば一方的であるはずの「教官と生徒」という関係において、上官に等しい教官からの依頼を生徒がにべも無く断ったのだ。


「なっ……何故だ……?君は今の授業の内容には不満があるのだろう?」


「不満?私がですか?とんでもない」


「えっ?しっ、しかし……前の授業で……」


「私自身は別にあの授業内容だろうが構いません。私は軍人になるつもりはありませんし」


「だが……このままでは実戦で役に立たない士官が増えてしまうと……」


「やれやれ……」


マルクスはわざとらしく溜息をつきながら


「教官殿、私もこれ以上出しゃばった事を申し上げたくないのですが……。まずは実戦経験のある方を教官として招聘される事が先かと思いますよ。授業の内容だけ変わったところで、あなた方は指導できるのですか?」


ヨーグの言葉に被せるように、強めの声で問い返した。


 結局、この日の授業はヨーグ教官に教鞭を執る気力が見られず、木剣の素振りや構え等の「おさらい」だけで終始してしまい、ロクな授業にならなかった。

ヨーグは号令後にマルクスを引き留めて


「へ、ヘンリッシュ君。少し時間を貰ってもいいかね……?」


彼は本来ならば快活な男なのだが、前回の白兵戦技の授業以来この首席生徒に対して明らかに遜った態度をとるようになってしまっていた。


マルクスは、早くキャンプに帰って最近どんどん成長しているノンの「錬金導師」としての修養に付き合いたいので、彼の呼び留めに多少面倒そうに振り向いて


「何でしょうか?」


それでも声音は平静を保って応えた。


「いやぁ……さっきの……まぁ話の事もあるんだが……。ちょっと学年主任教官と話をして貰えないかなと……」


「主任教官殿と?」


「ああ。主任教官殿は君が言っていた『実戦』を経験されていらっしゃる方なんでな……そう言った方と改めて話をして欲しいんだ……。

主任教官殿は君の言ってた事を全て肯定されていたのでな……」


「私は特に構いませんが……」


あくまでもマルクスの意向を確認した上で話をしているが、本来であれば入学後は「軍属」として「伍長」相当の階級であるマルクスにとっての教官、それも担任であるヨーグは直属の上官という扱いになるので、その依頼は基本的には「命令」なのである。


 先程の授業中における訓練法云々については職分として「生徒」である身分によって拒否した事は問題では無いにしろ、「校内に残って更なる上官であるマーズ主任教官と面談して欲しい」という依頼を断るのは難しいだろうとマルクスは判断し、仕方なく承諾した。


「では制服に着替えたら職員室まで来てくれるか?」


「了解しました」


 そこで二人は一旦分れて、マルクスは一応西校舎の更衣室に向かう素振りを見せた。実際は建物の影で歩きながら結界を張った上で衣装を変えてしまうのだが、流石に堂々と校内通路を歩きながらの「着替え」は拙かろうと、担任と別れて歩き始めた。


ヨーグは職員室に戻ると、一回生主任教官の席にタレン・マーズが座っているのを確認し、すぐさま彼の机へと向かい


「主任、宜しいでしょうか?」


とお伺いを立てた。


「何だい?」


相変わらずマーズ主任は威圧的な態度を取る事も無く、平然と構えながら応える。


「実は……マルクス・ヘンリッシュについてなのですが……」


「うん?また彼の話かね?」


「はい……。本日午後の授業で一組の白兵戦技を担当しまして……その際にこの前主任殿にご助言頂いた通りに彼に対して『本来の白兵戦技』の修養法についてその……教授頂けないか頼んでみたのですが……」


「え……?『教授』を頼んだのかい?そりゃまた……彼は承諾したのかね?」


タレンはヨーグの告白に対して少々驚きながら尋ね返すと


「いえ……拒否されてしまいました……」


「そりゃそうだろうなぁ。彼はそういう『職分』を弁えない話は嫌うように見えるしな」


「しゅ、主任殿はやはり……そのように思われますか……?」


「あぁ、この前の自治会長姉弟の一件を見ても解るように、彼はまず『法に基いた規律』を求める傾向にあると見る。逆に言えば法的根拠を伴わない『勝手な秩序』には従う価値を見い出さないんだ。

そんな彼が自ら『生徒』という立場で、それも……他の生徒も居る授業中に立場を超えて『教授』なんて真似を承諾するとは思えなかったのでな」


タレンはあっさりと説明した。


「そ、そうですか……。それで主任殿……誠に恐縮なのですが……私は授業が終わった後、ヘンリッシュに主任と話をしてくれないかと頼んでおりまして……」


「何!?私がか?何を話すのだ?」


困惑を浮かべるタレンに


「お願い致しますっ!私は彼に改めて『あの件』について要請を致したいと思っています。そこで主任殿からもお口添え願いたいのですっ!」


 ヨーグはガバっと頭を下げた。彼の見たところ、どうやらマルクス・ヘンリッシュは彼自身の面接試験を担当したマーズ主任教官に対して、それ程悪い対応をしていないように見えた。


確かにこの新任の学年主任教官は人格も練れており、これまでの士官学校に勤める教官職に居る者のように学生に対しても高圧的な態度を取るような事はしないタイプの人間に見える。


彼であれば、あの正論によって鉄壁の壁を築いている首席入学生も態度を軟化させるのではないかと思ったのだ。


「そんな事を急に言われてもなぁ……。私はそもそも白兵戦技という科目とは関係の無い者だし……」


専門教科が「騎兵戦技」であるタレンが躊躇うような態度を見せると


「この通りですっ!私は主任殿が仰ったように、あの首席生徒がこの学校の旧弊を払ってくれるのではないかと思っているのです。

あの圧倒的な実力……彼は『一生徒』という存在ではありますが、あの『圧倒的な説得力』を以ってせめて……せめて白兵戦技だけでも変えてくれたらと……。

私は恐らく彼にとって『実戦を知らない者』として蔑まれているかと思われます。私の言葉では彼を動かすことは出来ないのですっ!」


ヨーグはついに床に手を付いて懇願する形となった。タレンは慌てて


「おいおい。頭を上げろ。私はそういう頼み方は好まんな。特にここは軍施設だ。そのような『ものの頼み方』は慎むべきだと思うがな?」


 タレンは苦笑しながらヨーグの腕を引っ張り上げた。土下座という手段で物事を情実的に頼むやり方は強い感情を伴った「押し付け」であり、受けた側も冷静な判断が下せないままに承諾させられる可能性がある。


「生命のやり取り」を潜り抜けて来たタレンには、そのような感情的衝動が絡む依頼の仕方ではなく、道理を説くやり方をすべきだという「思想」を持っていた。「無能な兄」の「生まれた順番」というものだけで半生を振り回された経験から得た教訓なのだろう。


「とにかく、彼とは話しだけはしてやるが……強制はさせられないからな?彼はあくまでもこの学校においては『生徒』であって、それも新入生だ。そんな彼には教育側に参加し、授業内容を改善させるという『義務』も無い」


「やっ!ありがたい……ありがとうございますっ!」


ヨーグは立ち上がって改めてタレンに深々と頭を下げた。


「よせよせ。私も一応は学年主任として担当する学年の授業内容について監督する義務はあるからな……」


このようなやり取りが終わった直後に、職員室の引き戸が開けられて


「一年一組、マルクス・ヘンリッシュ。ヨーグ教官の命により出頭致しました」


 一回生の首席生徒の声がして、視線を入口に移すと噂のマルクス・ヘンリッシュが立っていた。

職員室へ出頭しても、いつもの彼の態度と変わらず……室内を窺う様子すら無い。

職員室に居た教職員から、入学式以来この学校に様々な話題を提供しているこの首席入学生に向かって一斉に視線が集まった。


それでもマルクスは入口で直立しながら視線も全く動かずに待機している。


「こっちだっ!こっちだヘンリッシュ君っ!」


ヨーグが大声で呼ぶと、それに気付いたマルクスは


「失礼致します」


大き過ぎず小さ過ぎない声で挨拶をして職員室の中をヨーグとタレンが居る席に向かって歩いて来た。


「マルクス・ヘンリッシュ。参りました」


マルクスが二人の前で室内礼を行うと


「済まんな。下校するところを引き留めて。さぁ、楽にしてくれ」


と、ヨーグが椅子を持って来て


「ではこれに座ってくれないか」


その椅子を勧めて来た。


「では失礼致します」


マルクスはその丸椅子に腰を下ろし


「学年主任教官殿におきましては私に何かお話しがあるとか」


すぐに話を切り出してきた。彼にしてみれば、一刻も早くこの会見を終わらせて下校したいのだろう。


「ふむ。わざわざ来て貰って済まなかったな」


 つい先程この依頼を受けたばかりのタレンだが、その依頼内容に沿ってこの男子生徒に話し始めた。


「君が先日の白兵戦技の授業で、このヨーグ教官に対して『本来の白兵戦技』というものについて何やら説かれたという話は既に私も聞き及んでいる」


「『説かれた』と仰る程に僭越な行動を執ったつもりはありませんが……」


「いや、すまん。気にしないでくれ。私もその話を聞いた時には、君の言い分が全く正しいと思ったのだ。私も以前の任地で『ちょっとした』実戦を経験した際に、やはりこの学校で学んだ戦技が殆ど役に立たずに生命を落としかけたんでな」


「左様でございましたか」


「私も『嘗ての白兵戦技』という本当に実戦的な性格の授業に戻すという考え方には全面的に賛成だ。実際に死に掛けた身としてはな」


タレンは軽く笑った。


「しかし……この学校の授業が今のような『礼式に則ったような武術』に基いた内容になってしまってから、恐らく相当な年月が経過していると思うのだ。少なくとも二、三百年は経っていると見てよいだろう」


「そうでしょうな。社会の変質が始まったのは大北東地方の放棄以降でしょうか……ならば教官殿の仰るように長期間に渡って授業内容が変容していると思われます」


「ふむ。そこまで理解して貰えているならありがたい。確かに君の言うように、長期間の変容によって指導する側の人材もその能力を失している事はこの際否めないだろう」


タレンは教官側の能力不足を認めてしまった。


「これらの話でお判りのように、現在の教官方では『本来の白兵戦技』を指導するのは難しいと思いますよ」


「では君ならどうすればいいと思う?『生徒として』では無く、マルクス・ヘンリッシュ個人としての意見を聞かせて貰えないだろうか」


そう語るタレンの目は真剣そのもので、目の前の一生徒でしかないマルクスに対して一人の実戦経験者のように意見を求めている。


マルクスは苦笑しながら


「うーん……ヨーグ教官殿がいらっしゃるこの場で申し上げるのは……誠にアレですが……」


「か、構わん。構わんから話してくれっ!」


ヨーグは最早この自分のクラスの首席生徒の言を全面的に受け入れる気でいるらしい。


「そうですか。それでは率直に申し上げますが、白兵戦技の教官を全て実戦経験者……それも陸軍と海軍からもれなく集める必要はあるかと」


「な……なるほど」


 マルクスの言い様は「実戦経験無き白兵戦技教官は必要無し」と明言しているようなものであり、流石にそれを聞いたヨーグは衝撃を受けた。


「宜しいでしょうか。陸軍にしても海軍にしても、この国の中ではまだ実戦の舞台が残されている場所がそれなりに存在すると伺っております。

これが本当に国内外で平和を享受する時代で国内に実戦経験者が払底しているのであれば仕方が無いですが、陸・海軍共に今でも『生命を張っている』方々はいらっしゃるわけでしょう?」


「まぁ……確かに陸軍でも北部方面軍では領土放棄地帯との境界で今でも非合法組織との戦闘は時折発生する。

更に南方の沿岸地域においても上陸した海賊やそれに類する犯罪者の取り締まりで戦闘が起きているという報告を聞いた事がある。

海軍となると、更に多いだろうな。先月も『海竜』などと呼ばれている大型の魔物を第六艦隊総出で討伐したという事件が話題になっている」


タレンも渋い顔で応える。


「で、あるなら人材はそれなりに存在するわけですから……そうですね。戦傷者の方でも構わないので士官学校教官として招聘出来無いものでしょうかね。

別に実技を教官殿ご自身の身体を使って教える必要は無いのですから」


「なるほどな。そう言われてみると適任者は居るわけだな。但し……これまでの士官学校教官職への赴任状況だと北部方面軍や海軍からの人材採用は殆ど無いんじゃないかな……」


「恐らくそうでしょう。私の見たところ、この士官学校教職員というポストは軍官僚や一部エリート軍人の出世コースとされているようですからね。

もうそんな採用基準とされている時点で、白兵戦技を昔のやり方に戻すなどというのは不可能でしょう」


マルクスが失笑混じりに言うのへ、これも苦笑を浮かべたタレンが


「まぁ……そう言われてしまうと言い返す言葉も無いが……。君自身だって実戦経験は無いだろう?ならば君はどのような訓練を受けて来たのだ?

以前聞いた時には、既に他界された師がいらしたようだが……」


面倒な事を聞いて来た。マルクスが説明に使った「今は亡き師」というのは、彼の出自と正体を隠すために架空で「でっち上げた」人物で、彼自身はそのような訓練を受けた事は無い。


 言うまでも無く、「賢者の武」という人知を超えた才能によって彼は自治会長姉弟を行動不能にしたし、包囲された剣技台で立ち振る舞ったのだ。

この才能だけで動いていたものを他人に伝えるのは、難しいのと同時に非常に面倒であった。


だからマルクス自身はヨーグから授業中に受けた申し出を拒否したのである。

仕方なく、ここも架空の話で切り抜けようと思った彼は


「最初は『敵と対峙してこれを無力化させるという行為』を自分自身にしっかりと覚えさせる為に一対一での戦闘訓練を行います。

しかしこれはあくまでも『自分を護る為に相手を攻撃する』という行為そのものに身体的、精神的に『慣れさせる』為の訓練です。

これは道場武術でも同じだと思いますが、他人と相対して武力を行使するという経験をしていない者は概してそのような場面になると身体が動かなくなる。

そのような戦闘未経験者の精神的負担を中和させる為に一対一から始めます」


「『相手を本気で殴る』という真似は普通の人ではなかなか出来ないものなんですよ。それがもし『相手を行動不能にする』と言うなら尚更です。道場武術のような『寸止め』では無く『直接加撃を行う』という意味においてです」


「ふむ……そうだな。君の言っている事も理解できる」


「一対一という状況での対峙であれば、これまで通りの授業でも事足りるのでは?」


ヨーグが口を挟んできたが


「その先はどうされているのです?相手が三人一組で向かって来た場合の対処は?」


「いや……そういう想定は白兵戦技ではなく実地演習で行っていたのでね……」


「ならばその実地演習を増やした方が宜しいと思います。1クラス20人という人数で二組に分かれた集団戦闘を重視すべきでしょう」


「白兵戦技の授業を減らせと?」


「士官個人の戦闘訓練を行うのであれば、一対一ではなく二対一や三対一というように『敵に囲まれる』という想定の訓練は必要だと思いますよ。戦場で一対一になるような機会の方が珍しいと思います」


「まぁ、確かにそうだな。私も戦場で一騎打ちになった事など一度も無かった」


タレンがマルクスの主張を肯定した。


「え!?そうなのですか?」


ヨーグがそれを聞いて驚いている。マルクスは苦笑しながら


「王国軍の歴史において、国家を相手にした対外戦争は発生した事が無く、特に王国陸軍の相手となったのは大北東地方の反乱軍や現代においては王国領や公爵領の境界付近を根城とする匪賊となります。

そのような連中は『名誉』よりも『合理的な結果』を求めますので一騎打ちなど考えもしないでしょう。

むしろそれを求める戦場経験の薄い新人士官を取り囲んでの多対一という戦術を好みますな」


「ヘンリッシュは、その歳でよくそこまで考えが回るな」


タレンも苦笑している。


「まぁ、この手の話は亡き師から散々聞かされましたので……」


「架空の師」を想定してでっち上げた話でマルクスはごまかした。


「つまり個人の武術については、武器の有無に関わらず『囲まれる』想定の訓練と、『囲む』想定の訓練を同じように行うべきでしょう。

私が修行していた頃はその両方を行いました。闇雲に大勢で囲んでも同士討ちになりますからな。

包囲する側も理想的なのは三人、標的の個人的武勇が高くても五人が限界だと思います」


「海軍における艦船同士による白兵戦は実際これと近い形で行われているのではないでしょうか。

恐らくですが、海軍は士官学校とは全く違う白兵教義を持っているはずです」


「なるほど……海軍の士官とは付き合いが無いので実際のところは解らないが、やはり経験者を招聘する必要は感じられるな」


「しかし士官学校教官職は王都周辺の陸軍部隊でほぼ独占されているのですよね?

私に言わせると、もうその時点でこの国の軍隊……特に陸軍は弱体化しておりますね。そもそも、士官学校で学んだ実技が実際の戦場で全く役に立たないと言う状況に対して数百年間まるで疑義が挟まれていないというのが異常です」


 マルクスとしては「自分が教える」という事態は何としても回避したいのだ。

彼自身、「賢者の武」による先天的な才能で得ている今の白兵技能を他人に伝える自信が無い。これは魔導師としてノンや《赤の民》の双子に錬金術を教える方法が解らない事に似ている。


それならば自分よりも余程教授に適した者にやらせるのが一番合理的であり、これ以上、一生徒である彼の分限を超える事が無いのである。


「私も本来であれば北部方面軍の所属であるので、この学校に教官として赴任しているのはかなり珍しいと思うのだが……。君の言うような『軍部の慣習』は確かに存在している。

そしてこの学校の場合は人事を掌握しているのが軍務省であるので、そこは致し方無いと思う」


「『致し方無い』という事で諦められるのでしたら、今後もこの状況は変わらないのでは無いでしょうか。この国全体が戦禍に巻き込まれる可能性はそれ程高く無さそうですし、現在においても国家的な危機に直面しているわけでも無いので……。

軍務省としては特にこの教育体系を変える必要は無いと判断するでしょうし」


「だ、だからこそ君に……」


ヨーグがまた口を挟んで来た。


「ヨーグ教官殿。私は先ほども申し上げましたが『一生徒』です。そのような立場である私にこのような学校運営に関わる一事を委ねるというのは本末転倒かと思われますが」


マルクスは直接「嫌だ」と言わず、遠回しの言い方でヨーグの懇請を拒否した。

いつもの彼であれば、このような場合はにべも無く「嫌だ」と短く、そして直截的に拒絶の言葉を吐くのだが、相手が自身の担任教官であること、更には横に居る学年主任教官を慮って、彼としては珍しく気を遣った言い様になった。


「そうだな。ヨーグ教官。やはり彼に頼むのは教育者としていかがなものだろうか。我々の側に『まだやれる事』があると私は思うのだ。

本当に白兵戦技の授業に変革を起こそうというのであれば、まずは我々が組織に対して職分を弁えながらも働き掛けて行くべきだろう」


「これは……提案という程のものでも無いですが……。現在の学校長閣下は海軍の御出身ですので、彼の御方に陳情された方が良い結果を生み出しそうですが」


「あぁ、なるほど。エイチ学校長閣下は海軍大将であらせられたな。閣下から軍務省と海軍本部に働きかけて貰って『分校』から海軍士官教官を転任させて貰うという手は悪く無さそうだ」


「しかし……もしそれが実現しますと、教官の定員はどうなるのでしょうか……?」


ヨーグが不安そうに言葉を漏らす。彼の言ってる事は生徒であるマルクスに聞かせる性質のものでは無い事に最早本人は気付かない程に気落ちしている。


「いや、その心配には及ばないかと」


その一生徒であるマルクスが応える。


「授業内容を改変するのであればいっその事、実技訓練の授業は二組合同にしてしまえばいいのです。二組合同にしてしまうことによって、授業時間のコマ割りを倍増出来るでしょう。

そして二組の組合わせを毎時間変える事で、全ての組に対して均質な授業成果を求める事が容易となります。

更に、授業を担当する教官殿の数も倍にします。現在では教官一人で行っていた授業を二組合同にする事で単純に二人では無く、四人にするのです。

そうする事で教官一人当たりに見る生徒数を絞れますし、授業の質の向上にも繋がります。

これによって授業を共に実施した教官殿の間でも指導成果の共有する事が出来、教官方の組合せも毎時間変える事で均質化を図ることも当然可能です」


この首席生徒の提案にタレンも驚いて


「なるほど……。教員の数も倍にするのか」


「学校側でこのような変更した授業割を組んだ上で、陸海軍の実戦経験を持った現役武官を教官として招聘すれば往時の白兵戦技……いや実戦訓練授業に近いものに戻せるのでは無いでしょうか」


「分かった。君の意見を参考にさせて貰い、まずは校内の教職員の間でこの問題に対する意識改革を図ってみよう。

その後は私でも少々手に余る話になるが……現在の学校長閣下の任期中であればご協力が得られるやもしれん」


学校長の職は任期が三年であり、三年ごとに陸海軍で60歳の現場定年を迎えた大将が「最後のご奉公」として就任する名誉職みたいなものである。

現在この職にあるのは、前第四艦隊司令官のロデール・エイチ提督で、任期は3049年までだ。


 こうしてマルクス……ことルゥテウスは自ら種を蒔いてしまったとは言え、士官学校の白兵戦技の授業に対する改変へ参画させられる事を辛うじて回避できた。

今後は自らも実戦経験があるタレン・マーズ一回生主任教官を中心としてまずは校内の実技演習教官の間でこの件を諮った上で、教頭を通して学校長に意見を具申し、学校長から軍務省に働きかけて貰うという手順を踏む事になるだろう。


マルクス自身も自分がこの件に関しては切っ掛けを与えてしまった事に対して多少の責任を感じたのか、以後の白兵戦技の授業において「模範演技」の形で多対一の戦闘術を他の生徒や教官に分かり易く披露するようになったので、授業の無い他の戦技教官も一年一組の白兵戦技授業を見学するようになった。


 タレンは実際にマルクスの「武術」を見た教官を集めて授業改革の必要性を説いて支持を得ることに成功し、その勢力を増やしていった。

ひとまず改革の対象となる白兵戦技の授業を担当している現場の教官達から支持を得た上で、学校長との談判に臨もうと計画していたのである。


始めはタレンの説く「実戦的な白兵戦技」という考え方に反発したり、理解出来無かった他の教官達も、一年一組の白兵戦技の授業を見学してからは考えを改める者が続出し、一旬もするとタレンの意見に賛成する者が大勢を占めるようになった。


 職員室内の動静を慎重に計りながら、タレンは


(これなら次回の職員会議の議題に白兵戦技についての改編案を提出しても賛意を得る事が可能だろう……。問題は教頭殿がどう考えているかだが……)


彼が心配するハイネル・アガサ教頭は陸軍大佐。学校長が海軍出身者である場合は教頭職に陸軍出身者が据えられる。


大佐の階級にある者が就任するポストで、学校長の任期が終わると共に退任となるが教頭職にあった者は現役部署を退いた大将が就任していた学校長職とは違い、現役バリバリである為に退任後は少将として晴れて将官進級となる重要ポストである。


但し、名誉職という色の濃い学校長とは違い事実上、学校運営者のトップとしての職務となる事から、就任するのは官僚タイプの者が多い。

アガサ校長もその御多聞に漏れず、軍務省勤務一筋で階級を上げて来た典型的な軍官僚である為に、このような「慣習を曲げる」ような授業内容の変更に同意するかと言うと、実際はかなり怪しかった。


 先日来、タレンは一回生のみならず他の学年の実技教官へ一年一組の白兵戦技訓練を視察してみるように呼び掛けていたが、アガサ教頭だけは結局一度も授業視察に現われなかった。

恐らくはこの授業改革に対して否定的であるのではないかと思われる。


しかし、逆に言えばこのような軍官僚タイプで慣習・慣例を至上とするような者は軍部の序列に重きを置く為に、この改革を提唱しているタレン・マーズが建国以来の大貴族であるヴァルフェリウス公爵家出身である事を意識しているせいか、今のところは表立って反対の姿勢を示す事もしていない。


 9月23日、全ての授業が終わった後にタレンは思い切って教頭室へと赴いてアガサ教頭に今回の授業改革案をぶつけてみる事にした。

この日も一年一組は白兵戦技の授業があり、「本来の白兵戦技」に興味を示す実技教官だけで無く、授業が無い座学を受け持つ教官達までもが戦技場の観覧席でその内容を見学していた。


本日の白兵戦技は担任のヨーグが担当する「剣技」では無く、ソリス・ヤード教官が担当する短剣や素手で行う「補助戦技」と呼ばれる体術を学ぶ時間であったが、ヤード教官自身が「改革推進派」としてタレンを支持している為に、従来の一対一での演習も、「包囲されている」事を前提とした形でマルクスの立ち回りを参考に授業内容を変えていた。


まだ補助戦技の授業自体が今日で三度目であった事もあって、いきなり「多対一」という形で行うのは尚早であるとした他にも、タレンを中心として提唱されている「本来の白兵戦技」という授業がまだ学校上層部、ひいては監督官庁である軍務省内で承認を得ていないという以上は、「大っぴらにやれない」という事情もあった。


しかしそれでもマルクスの立ち回りは圧倒的で、特に徒手空拳での格闘技は自治会長姉弟相手に実際にその威力を目の当たりにしている一組の生徒は、恐ろしさ半面……「究めればあそこまでやれる」という本物の実例を見ているだけに授業中はヤード教官よりもマルクスに教えを乞うような状態になっていた。


 本校舎二階、総合職員室は昇降階段から数ある面談室を挟んだ東側の大部分を占めるが、室内は更に三つの部屋に仕切られており面談室側は一般の教職員の机がある大きな部屋で、東端の部分を更に南北に分けて北側、つまり中庭に面した方が学校長室、南側が教頭室であった。当然ながら学校長室の方が広く間地切られている。


タレンは教頭室の扉をノックすると、中から「どうぞ」という返事が聞こえたので「失礼致します」と扉を開けて中に入った。

どうやら運が良かったのか、部屋の主は特に忙しい様子も無く机の上に置かれていた茶をすすりながら、菓子を食べていた。現在は下校時刻直後。丁度「おやつの時間」だ。


「教頭殿。只今少々お時間を頂いて宜しいでしょうか?」


「おぉ。マーズ主任ですか。何か?」


 ハイネル・アガサ教頭は55歳。前職は軍務省情報課長で階級は陸軍大佐。貴族出身では無いが、順当に行けば二年後には学校長のロデール・エイチ海軍大将の退任に伴って彼も退任となり、慣例に従って一階級昇進……つまりは少将に進級して「勲爵士」に叙任されるはずだ。


「ご多忙の中、失礼致します。教頭殿も既にお聞き及びになられていらっしゃるかもしれませんが、実は現在我が校の中で従来の白兵戦技授業の内容について疑義が呈されております」


「あぁ、私も聞いてますよ。ここ数日、授業の無い教官の皆さんが『ある学級』の実技授業を見学しているとか」


銀縁の眼鏡を掛けて細い顔立ちのアガサ教頭は、タレンから見ると「典型的な官僚」に見える。

確かにアガサは士官学校において生徒として軍務科を選択し、首席とまでは行かなかったが席次二位で「短刀組」として卒業した。


その後は当然の如く軍務省へ任官してエリート軍官僚として順調にキャリアを重ねて来た。

55歳で大佐、このまま順当に任期を全うすれば57歳で少将へと進級して「閣下」と呼ばれる身分になる。勿論将官進級と同時に勲爵士として「年金貴族」の仲間入りだ。


「従来我が校で実施しておりました白兵戦技の授業は実際の戦場では役に立たないという意見が出ております。

かく言う私も実戦経験者の一人として学生時代に履修致しました『士官学校の白兵戦技』が全く役に立たなかったという経験をしております」


「ほぅ……。そうなのかね?」


 初任官以来、その軍人としてのキャリアをずっと王都の軍務省庁舎で過ごして来たアガサ教頭は、当然ながら実戦経験が無い。

そもそも彼は現役の士官学生の頃であっても実技訓練は得意科目とは言えず、それ程高い成績を修めていない。


しかし最上級生として選択した「軍務科」という専門学科においては実技科目はそれ程重要視されなかったので二位という席次を維持する事が出来た。

そして三回生の総合席次においても九位という位置でぎりぎりではあるが「短刀組」として卒業する事が出来た。


つまりアガサ教頭としては白兵戦技というのは自身の興味の中には無く、その内容が実戦に見合っているのか……そうで無いのかというのは職務の外にあると見ているのである。


「教頭殿も我が校ご出身のご先輩として白兵戦技の授業内容はご記憶されていらっしゃると思います。

私の頃もそうでしたが、従来の白兵戦技というのは使用武器によって授業割と担当教官が分かれておりまして、その内容も『一対一』という戦闘を想定したものになっておりました」


「そうでしたな……。確かに君の言う通りです」


「私は実際に卒業後に実戦が存在する部署に任官致しまして……。その後初めて実戦に参加した際に自身が学生として修めた白兵戦技がまるで役に立たなかった事を痛感致しました。

そしてそのような指揮官として『役に立たない』私の為に大切な部下を何名か殉職させてしまいました」


アガサ教頭に自身の体験を語るタレンの顔には、その頃味わった無念の色が再び浮かんでいた。


「部下を何名も失った私は、過ちを繰り返さない為にもこの学校で習得した白兵戦技を全て捨て去ったのです。

このような事を申し上げるのは誠に遺憾ながら、私自身は戦場で『士官学校の白兵戦技』を否定する事で生き延びる事が出来たのです」


「ふむ……」


自身の忘れ去りたい、しかし忘れてはならない「若き日の失敗」を切々と語るタレンに対して、そのような経験が皆無であるアガサ教頭の態度は素っ気無い。


「私は過去の一時期に当校の教官職を拝命し、その際には騎兵戦技を教導致しましたが、白兵戦技については『畑違い』として、当時の同僚や主任教官からは関与する事を拒絶されました。

当時の私も若かったですし、北部方面軍出身とあって同僚の中に理解者を得る事が出来ずに結局は『実戦にそぐわない』白兵戦技を放置したままに再び原隊に復帰する事になってしまいました」


「しかしあれからまた時が過ぎ、過分な事ながら再び当校の教官として……それも主任として抜擢頂く事が出来ましたので、その御恩に報いる為にも前回成し得なかった白兵戦技授業の改革を望む次第でございます。

つきましては教頭殿にもこの改革に御理解を頂いた上で学校長閣下に意見具申する為に御助力願えたら幸いにございます」


 アガサ教頭としては、目の前で熱を帯びて授業改革を唱えるこの主任教官に対して、やや複雑な思いがあった。

何しろ彼は婿入りして姓が変わったとは言え、あの「ヴァルフェリウス公爵家」の次男であり、自身が申し述べているように北部方面軍出身の実戦経験者……それも軍務省にも名が届く程の名指揮官であった。


建国以来の「武門の家」としてのヴァルフェリウス公爵家をそのまま体現するかのようなこの少壮の主任教官に対して、貴族階級でも無い彼は多少の引け目を感じていた。

そんなアガサ教頭の口から出たのは……


「申し訳無いですが、マーズ主任教官。私はそのような前例を崩す行為に加担する事は出来ません」


というものであった。


「理由をお聞かせ頂いても宜しいでしょうか」


自身の具申を退けられたにもかかわらず、タレンは冷静な口調で目の前の教頭に尋ねた。


「我が校には王国の高等教育機関としての伝統があります。この伝統は建国以来と言っても良い。その伝統には秩序が伴っています。

その秩序を殊更乱すような事には加担出来無いと言っているのです」


この典型的な官僚答弁に対してタレンは心が冷えた。予想はしていたが、ここまで頭が固いとは。


「今一度ご再考頂けませんでしょうか。450年前の『政治改革』によって内乱の発生は殆ど聞かれなくなりました。

しかし現在においても北方の境界では不法集団との戦闘は発生し、我が軍にも殉職者を出しております。先程も申し上げましたが、私も部下からその殉職者を出した無能な指揮官です。

私のような……何も出来ずに部下を失わせた……力の及ばない士官をこれ以上輩出する事が我が校にとっても不幸な事ではありますし、王国陸軍にとっては尚更だと思うのです。

現に、海軍……海軍科においては三回生の授業において軍務省告示の指導要領を枉げてまで実戦的な実技指導を行っていると聞いております」


「分校は分校。指導要領を遵守しないのは彼らの怠慢です。私は昨年の就任直後に彼ら分校に対して指導要領の遵守を要請しています。

しかし彼らがそれを聞き入れずに誤った授業を続けているのであれば、それは彼らの責任であり、私の手を離れた行為であると認識しています。

マーズ主任。君はもう昔のような一人の若手教官ではないのです。責任ある主任教官として我が校の伝統と秩序を乱すのはいかがなものでしょうか」


 結局、このアガサ教頭にとっては自身の任期を穏当に過ごせれば退任転出と同時に将官への昇進が待っているのだ。

今更……本省の定めた学習指導要綱に異議を唱えて睨まれたくないのである。仮に少将進級を果たせたとしても、それに伴う部署転出におかしな作用が起こっては、そこからの挽回は年齢的にも難しくなる。


転出後は最終的に何とか……本省の「副局長級」ポストまでと願っている彼にとって、このような「秩序の否定」は「それを良しとしない」者達への口実付けになってしまうのだった。


「そうですか……。ご理解頂けず残念です」


 タレンはあっさりと引き下がった。この典型的な軍務官僚である教頭から今回の授業改革について賛同を貰えないであろう事は事前に予想出来ていた。

この連中がそれこそ軍の弱体化を本当に憂えているのであれば、首都周辺の部隊から教員抜擢を集中させるような事をせずに実戦経験者から意見をもっと取り入れていたはずだ。


それが実現していれば、北部方面での非正規軍相手の戦闘でも殉職者を減らす事が出来たであろうし、タレン自身も新士官の頃に死線を彷徨うような事も起きなかったであろう。


昨年引退された第一師団長リック・ブレア中将は王都方面の陸軍士官をまとめて「実戦知らずの空っぽ野郎共」と呼んで軽蔑していた。

人事の移動に際して、王都周辺に展開している「王都方面軍」や「王都防衛軍」、そして軍務省は「王都マフィア」としてグループを形成して人事を独占していた。


 陸軍としては地方部隊として北部方面軍である第一、第三、第七師団と西部方面軍を構成している第四、第五師団があり、それぞれ大陸北東部境界線への備えと、マグダラ山脈南部から西部への大陸西岸部に対する備えとして置かれている。


北部方面軍は大陸中央部にあり交通の要衝であるドレフェスに本拠を置いて、最前から再三述べているように建国以来、王国を悩ませてきた大北東地方での反乱や、領土放棄後は匪賊やその他不法集団を相手に実戦を重ねている軍団である。


西部方面軍は王都西方にあってマグダラ山脈の南西端の麓……公爵領の港町ダイレムと山脈を挟んだ南東側に位置するサイデルのすぐ南、サイデルから流れてくるイリア川の西岸に本拠を置いている。


 彼ら西部方面軍が主的対象としているのは、マグダラ山脈以南の大陸南西部、特にバルク海及び、南北サラドス大陸の間にあるメタダ海峡沿岸地域で蠢動する海賊や密輸組織への警戒である。


彼ら不法集団の海上における取締りは海軍とそれに属する沿岸警備隊の管轄であるが、上陸して沿岸都市や集落を荒らす者達への防衛は陸軍の管轄である為、西部方面軍がこれに当たることになる。


つまり北部方面軍程では無いが、西部方面軍にもごく稀に戦闘が発生する可能性があるのだが、大抵は戦闘に至る事無く海賊側が海上に逃亡する事で大事にはなっていない。


 王国陸軍は、この王都周辺部隊及び軍務省のグループと、地方部隊の間で人事的な交換が殆ど行われおらず、軍中央のグループから地方部隊への転任は「島流し」と言われており、過去にも中央の派閥争いで敗れた者達が粛清気味に地方部隊へ配属されるという出来事が何度も起きている。


地方部隊に「流された」彼らが中央に戻る為には地方部隊で進級を繰り返して将官として軍中央に復帰するか、タレン・マーズのような「稀有な例として」抜擢を受けるくらいしか無い。


軍中央側としては「地方へ赴任した者はその土地で生活基盤を築くだろうから、その地で軍務に励んで貰った方が良い」などという都合の良い理由を付けて、「中央では中央で」、「地方では地方で」というような固定化された人事査定を実施しているのが現状である。


(やはりこの男をアテにする事は出来ないか。ならばエイチ提督に直接談判するまでだ)


タレンが教頭の頭越しに学校長への直訴を考えているところに、教頭室のドアが強めにノックされた。どうやら何か変事でも起きたかのような勢いだった。


「入りなさい」


アガサ教頭はノックの様子から何かを感じたのか、やや緊張気味に応えた。


「失礼致します!」


といかにも「急いで来ました」とでも言わんばかりに急き込んで入って来たのは先日、自治会長姉弟の処理をして貰った憲兵中尉のベルガ・オーガスであった。


タレンは驚いて


「オーガス中尉、どうしたのかね?」


この「元」部下に尋ねるとベルガもタレンが居ることに驚いて


「これはヴァ……マーズ大尉……いや主任教官殿。実は緊急の要請で参上致しました」


と、タレンの向かい側で教頭の執務机で席に座っているアガサ教頭の方に向き直り、背筋を伸ばし直して


「報告致しますっ!只今憲兵本部に第四師団長のネル閣下がお出でになっており、先日の御子息が起こした殺人未遂事件に関して関係者からの事情を聞きたいと申されております。

誠にお手数ではございますが、学校側よりどなたか関係者の方のご出頭を要請致します」


やや緊張した面持ちで報告すると、アガサ教頭も驚いて


「何ですって?ネル閣下が直々に?任地からいらしていると言うのですか……?」


と、辛うじて聞き返したまま絶句してしまった。


「はい。事件は9月11日に発生し、容疑者であるネル閣下の御令嬢および御子息の姉弟を憲兵本部に連行したという報せが西部方面軍本部に届いたようです。

特別公用便でもサイデルまでは五日、それを受けて任地にて司令官のメンティウス大将閣下への許可申請と引き継ぎ等を済ませて閣下ご自身が出立されたのが9月17日、サイデルから強行軍で六日と考えますと……恐らくは報せを受けて最短日数で王都へご帰還されたと思われます」


「まさか……いくら何でも『私用』でそこまでしますか……」


アガサ教頭はまだ「信じられない」というような顔をしている。


「教頭殿。あの場に居合わせて憲兵出動を要請したのは私です。憲兵本部へは私が出頭致します」


タレンが申し出ると、アガサ教頭は漸く


「そ……そうか。では済まんが君にお願いします。くれぐれも閣下に対して失礼の無いように……」


「はっ!」


タレンは形だけ敬礼をして、同じく敬礼を済ませたベルガを連れて教頭室を後にした。授業改革への協力を要請しに来たのが急転直下、おかしな事になってきた。


「マーズ主任。お手数をお掛けして申し訳ございません」


 本校舎二階の東端から廊下を歩きながらベルガが侘びると


「いや。君が謝る事は無いだろう。悪いのは召喚を受けてもいないのに『のこのこと』王都まで急ぎやって来たネル閣下の方だろう?」


タレンは苦笑する。そして急に何か思い出したように


「ちょっと待て。ベルガ……その足はどうしたのだ!?」


教頭室から出て一緒に歩いた途端に頭の隅っこで湧いていた違和感の正体に気付いて問い質した。


昔の戦傷の後遺症で不自由になっていた彼の右足……あれ以来、タレンが見るベルガは常に右足を引き摺って歩く姿であり、結果的にそれが原因となって彼は第一師団第二騎兵大隊第一中隊第三小隊長から第一師団付憲兵隊へ転出となったのだ。


それが、今彼の横を歩くベルガにはつい先日まで見ていた足を引き摺るような所作は全く見られない。多少の支障感はあるがそれでも健常な歩様と殆ど変わらずに足を動かしている。


「はい……。実はここだけの話なのですが……」


ベルガは歩きながらも声を潜めて


「先日のあの生徒……マルクス・ヘンリッシュ『殿』に調書作成の際にこの足を診て頂きまして……」


「何だと?ヘンリッシュに?何故彼に?彼は医者では無かろう?」


「お前は何を言っているんだ」とばかりにタレンは尋ね返した。


「はい……。私も未だに信じられないのですが、『あの方』は私の足を診て『もう治っている』と仰られまして……」


気のせいか、ベルガのマルクスに対する言い様が至極丁寧だ。


「取調室での調書作成中だと言うのに、その場で私の右足の関節を接ぎ直して頂いたのですよ。驚きましたが、その直後にはこのように右足は元に戻ってまして……『あの方』もこれで完治したと仰られました……また少し歩き方に違和感があるのですが、そのうち慣れて元に戻るとの事でした」


ベルガは軽く笑いながら説明する。聞いているタレンは驚きっぱなしだ。

何しろ十年前だろうか……あの戦闘中の騎乗馬の転倒で下敷きになった彼の右足は膝関節を中心に圧砕されており、一時は軍医によって大腿部からの切断を宣告されていたのだ。


それを憐れんだタレンがドレフェス市内を走り回って「骨接ぎの名医」と呼ばれた人物を探し出して来たのである。

その名医によって、ベルガの右足は切断を免れたのだが……その名医を以ってしても「元には戻らない」、「死ぬ気で努力すれば杖を突いて歩けるようにはなれるかもしれない」と言われたのだ。


ベルガが言っている事が本当であるならば恐るべき事で、あの不思議な田舎の港町出身のレストランの息子は国内屈指の大都市で「名医」と呼ばれたあの老医師の腕前を凌駕していると言う事になる。


「し、しかし……彼はまだ15歳の……」


言葉を失うタレンに対して


「あの方は体術の修養を通して人体の構造についても深く学んだそうです」


「そ、そんな……いくら優れた師についたと言ったところで……15歳だぞ……?」


タレンはまだ信じられずに、憲兵本部に向かっていたはずの足も完全に止まってしまっている。


(一体……一体彼は……何者なのだ……)


 驚異の首席新入生に対する疑問……いや疑念を抱きながらタレンは茫然とするのであった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。

王立士官学校入学に際し変名を使う。一年一組所属で入試順位首席。


ドライト・ヨーグ

28歳。王立士官学校教官。陸軍中尉。担当科目は白兵戦技で専門は剣技。一年一組担任。

若き熱血系教官。剣技においては卓越した技量を持つが長距離走は苦手な模様。


タレン・マーズ

35歳。マーズ子爵家当主で王国陸軍大尉。ジヨーム・ヴァルフェリウスの次男。母はエルダ。

士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に養子入りし、後に家督を相続して子爵となる。

主人公の士官学校入学と同じくして一回生主任教官として士官学校へ赴任となる。

実戦経験者としてヨーグからの要請を奇貨として白兵戦技授業の改革を思い付く。


ハイネル・アガサ

55歳。陸軍大佐。王立士官学校教頭。前職は軍務省情報課長。

軍務官僚出身であるせいか、非常に保守的な「事勿れ主義」の発言が目立つ。

タレンの白兵戦技授業改革に反対の意を示す。


ベルガ・オーガス

30歳。軍務省憲兵本部所属の王都第三憲兵隊長。陸軍中尉。

元北部方面軍第一師団所属でタレンの元部下。騎兵隊の小隊長であったが、乗馬の転倒事故の際に右足が馬体の下敷きとなって騎乗が困難となった為、上司であったタレンの計らいで憲兵へ転属。

ネル姉弟に襲撃を受けた主人公からの告訴を受けて公訴状の作成を担当する。

憲兵に転身した原因でもあった後遺症の残る右足の古傷を治療して貰い完治した事を契機に主人公に対して下にも置かない態度で接する。

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