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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第三章 王立士官学校
46/129

入学考査

【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。


 王立士官学校及び王立官僚学校は毎年9月に入学となり、三年後の5月に卒業となる慣わしである。

厳密には5月に卒業した後に士官学校であるならば新士官考査期間、官僚学校であれば新官吏考査期間と呼ばれる「着任お試し期間」とも言える三ヵ月を過ごす。

その間に任官を希望した卒業生はそれぞれの適性を見られて軍の部署に配置されたり、各省庁は人材の「採り合い」を繰り広げる。


しかしこれはあくまでも「卒業後に任官する」者達の話であり、卒業後に国の機関で服務しない者にとっては5月の時点で卒業生として学校から巣立つ事になる。


 そして逆に入学考査……入試期間も存在し、試験は三段階に分れている。

まず6月二旬から王都にて最初の試験が始まる。士官学校ではこの第一次試験で筆記と身体検査が行われ、受験者本人の能力資質に対しての(ふるい)が掛けられる。


この考査で一定の成績を修めた者に対し、機関が身辺調査を実際するのが二段階目だ。

この調査が時間を要するもので、専門の調査員によって家族構成や家庭の経済事情、家族構成員に対する思想調査まで行われる。


実はこの調査を管轄しているのは内務省であり、彼らは「未来の卒業生」に対して他の省庁に先んじて情報を得られるというアドバンテージを持つのだが、それはまた別の話とする。


二段階目の各種調査によって「問題無し」とされた者達のみ、最終段階の「面接試験実施」の通知を受ける。

最終的に8月初旬に試験官と受験者が一対一で面接を行い、この結果を踏まえて定員内で合格者を決定する。


実際に合格者へ通知がなされるのは8月下旬頃となり、合格者は慌ただしく準備をして例年9月10日に行われる入学式に臨む事となる。


毎年9月10日は王城を挟んだ北と南でそれぞれの学校が入学式を執り行うので、王都中心部は特有の雰囲気に包まれるのが「秋口の風物詩」となっている。


 両校共に年度入学定員は100名だがそれぞれの知名度が非常に高い為に、当然ながら出願者は国内全域どころか……世界中から集まって来る。

受験資格年齢は毎年6月1日の時点で満15歳から19歳までの間であれば何度でも受験する事が可能なので大量の浪人者を含めた出願者数は相当なものになる。


官僚学校には毎年3000人前後の受験者が集まるので競争率は概ね30倍前後と言われている。

そして士官学校の出願者に至ってはそれを大きく上回るのが近現代の傾向で、ルゥテウスが受験するこの3048年度の士官学校入試受験者総数は王国内で5590人に上った。

つまり単純計算で競争率は55.9倍という事になるが、実はそんなに単純な話では無い。


両校の入学定員100名のうち、各々10名はレインズ王国の国籍を持たない「留学生枠」となっており、一般受験とは別個に取り扱われる。


・祖国がレインズ王国と正式な国交を結んでいる事。

・祖国の元首の署名がある推薦状が必要である事。


この二点が留学生の受験資格となる。留学生枠に対しても各国から大量の受験者が殺到するので相当に熾烈な競争になる事で有名だ。


留学生枠の競争率は特に士官学校で毎年100倍近くまで跳ね上がるとされ、その難関を通過して入学を果たしても「在学中の三年間は祖国への帰国を許されない」、「在学中は祖国の言葉を一切使えない」という厳しい生活が待っている。


 この世界においては先述したが、前文明時代に世界各地域の「書き言葉」が統一された事で言語もある程度の共通化を果たしていたのだが、その後に永らく続いた暗黒時代によって世界各地で文化の分断が起きており、識字すら失った「部族」も存在した。


そんな時代の後に復興した現代の文明社会で、言語の疎通に齟齬が生じているのは当然である。

お互いの地域間で文法や発音は辛うじて共通が維持されていても、いわゆる重度の「訛り」がそれを阻んでいるケースが多い。


この問題はエスター大陸各地から難民が集まるトーンズ国でもささやかではあるが起こっており、セデス首相は教育機関の拡充と教育制度の整備を政策の優先課題に挙げている。

ルゥテウスが「対処療法」として提案したのは「国歌」を制定して、初等教育の場や国家の行事や式典等で愛唱することによって発音をある程度は矯正出来るのではないかと言うものであった。


 そう言うわけで、レインズ王国の王立高等教育機関は質が高い事で有名ではあるのだが、入学条件も相応に厳しく、その為に王国内の潜在的に優秀な人材が「たまたま受験者が非常に多かったり、受験者全体の質が高かった年度」に最終段階で入学定員の選に漏れて不合格になった後、他国に渡って他国の条件が緩い教育機関で学んだ後にその国に仕官して功績を挙げたという話は過去において数多く聞かれた事である。


一次試験は毎年6月8日が初日で、近年は人数も多いせいか概ね翌旬の15日頃まで続く。

ルゥテウスは受験申込の締切日である5月28日に、士官学校の受付へ受験に必要な各種書類を受験料である銀貨一枚を添えて提出した。


彼は受験するに当たって、その結果も含めて士官学校在学中は「なるべく目立たないように」心掛ける事を決めた。

理由としては彼の場合、名を変えて受験する時点で多少後ろ暗い気持ちがあるのと、士官学校生は良くも悪くも軍関係者から注目を受ける可能性があるからだ。

そんな状況で卒業後に軍に任官するつもりの無い彼が目立つ事で決してプラスの結果にはならないと判断したのだ。


しかしこれは彼の数少ない欠点の一つであるのだが、ルゥテウスは自身や他人の容姿に対して一般の人間が持つ感覚と異なっており、自らが相当に人目を惹く容姿をしている事をまるで気にしていない節がある。

この欠点こそが、入学後の彼を少なからず悩ませる事になる。


受験日当日の朝、ルゥテウスはノンに


「じゃ、行ってくるが……俺の記憶では試験中は学生寮の空き部屋に泊まるので帰りは三日後になるからな」


「えっ……?今日はお帰りにならないのですか?」


「うむ。今年もかなり人数が多いから何回かに分けられているがな。実際の試験は一人当たり三日くらいだったと思う」


「そうなのですか……」


「まぁ、何か用事あるなら念話で連絡をくれ」


「分かりました。お忘れ物は無いですか?」


ノンはまるで長年連れ添った世話女房のようにルゥテウスの体をパタパタと触って本人と周りで観ていた彼女の三人の生徒を苦笑いさせた。


「お気を付けて……」


と、たかだか数日会えないというだけで美しい顔を曇らす女店長を後目(しりめ)にルゥテウスは転送陣のある地下に降りて行った。


 見送った後に振り返ったノンの顔はもう「厳しい教師」のそれで


「さて。午前の実習を始めます。道具を用意しなさい」


と生徒に課業を命じた。


****


 王都の偽装菓子店二階の転送陣から出て来ると、ルゥテウスはその場でキャンプでの普段着から6月初旬という季節を考えて、亜麻の生地で薄染めの藍色をしたゆったりと丈の長いジャケットに同色のスラックス、ジャケットの中はトーンズ国産の木綿生地を黒く染めたシャツに上着と同じ色のネクタイという姿になった。


ジャケットと同色の亜麻で織られた帽子を被って一階に降りると、店主の来訪に驚いた菓子店の開店準備をしていた二人の女性に軽く挨拶をして、そのまま店の外に出た。


ここから士官学校にある試験会場に向かう。学校には既に先日のノンとの見物の時と、願書を提出しに行った時に続いて三度目であったので、特に迷う事も無く……そもそもルゥテウス自身は血脈の記憶によって3000年前の建国当時からこの街の様子を知っているのだ。


恐らくこの王都の市街構造……張り巡らされた地下水路の配線まで知り尽くしているのは彼だけであろう。


環状一号道路に沿って王城の北地区に入って行くと入試会場を目指しているのか、いつもは軍服を着ている者が多いこの地区の通りが様々な身分の服装をした人々で活況を呈していた。

中には馬車に乗って校門の前まで送られて来る上流階級の者も居るようだ。


(バカな奴だ……。仮に合格しても三年間は散々自分の足で歩かされるんだぞ)


ルゥテウスは馬車から下りて決まりすました顔で校門に入って行く貴族の子女を見て苦笑した。


 今日は6月13日。既に出願順によって受験順も決められ、ルゥテウスは出願期限ギリギリの手続きだったせいか、受験の順割も最後の組に入れられており、この日彼と共に試験を受けるのは概ね1300人程度と見られる。

なのでそれだけの受験者と、門前まで付き添って来た家族、更にそういった者達を乗せて来た馬車等で門前はごった返していた。


「受験者以外は構内に入れませんっ!他の受験者の迷惑になりますので付き添いの方は速やかに移動して下さいっ!」


門前整理に動員されているのは在校生だろうか。王国軍の軍服とは違う……士官学校の制服を着た男女がかなりの数見受けられる。


そのような者達の呼び掛けにも関わらず、大切に育てて来た我が子とのたかだか三日程度の別れを惜しみ、彼らが試験会場の中に消えるまで見送り続ける「親馬鹿」な連中がいつまで経っても校門の前から立ち退く気配が無い。


(ノンよりも大袈裟な連中ばかりだな……。あいつも大概だったが、この連中よりはマシなのだな)


 ルゥテウスは人混みの中を校門に向かって進む。校門に近付くにつれて混雑は益々ひどくなっているのだが、不思議と彼が通る道筋にはそれを阻むような人の壁は無い。

何か見えない仕切りによって彼の前だけ道が確保されているような足取りでルゥテウスは歩を進めた。


これらの混雑はこの北地区の一号道路と、王都北門……ユミナ門に続くケイノクス通りの交差点を完全に塞ぐ形になってしまっていて、軍関連施設の交通を阻害する為に士官学校とケイノクス通りを挟んだ向かい側に建つ軍務省庁舎からも臨時で交通整理の人員が押し出されるのは毎年のこの時期と入学式が行われる9月10日ではお馴染みの光景となっている。


しかし道を塞ぐ者達の中に上流階級、特に高位の貴族が混じっている事が多い為に、軍関係者達もそれを排除しようと手荒な真似は出来ない。せいぜい大声を張り上げて「お願いする」程度の事しか出来ずに北地区の混乱はなかなか収まる気配が無い。


そんな中、ルゥテウスはあっさりと校門まで辿り着き、係員の者に受験票を見せて試験会場の指示を受けてさっさと中に入って行った。


 ルゥテウスの先祖である「黒い公爵さま」の中には「賢者の武」を発現した者が二名居り、彼らが生きていた時代にはこの士官学校もその支配下に入っていた事から、その記憶を引き継いだ彼は士官学校構内の様子にも明るかった。

彼の記憶のものとはいくつか違う外観の建物も見受けられたが、全体的な建物配置は概ね彼の頭の中に残る1500年前のものと変わっていないようだ。


彼は案内係の手を借りる事無く入口の受付で指示された「第二講堂」に移動し、受験票に記された受験番号に従って講堂内に並べられた机に着席した。

一次試験の最初の筆記試験はどうやら校内にある四つの講堂で分散して実施されるようで、それでも一日当たりの受験者数が多いので1300名居る受験最終組を更に二組に分けて筆記科目と身体検査を交互に行うようだ。ルゥテウスは組み分けによって筆記試験の後に身体検査という順番の組に割り振られたらしい。


 筆記科目は三日間の受験期間において毎日実施され、合計で4科目をこなす必要がある。一次試験合格の正答率は八割と定められており、これは予め公表されている。

つまり受験者数に関わらず毎年の試験にて全科目で八割を超える正答があれば一応は合格という事になるわけだ。


最初の科目は「王国の歴史」で、王国民としての初中等教育を受けていないルゥテウスにとっては一番危ない科目であった。

何故なら、彼自身の記憶は700年前までのものしか無く、その後の知識は近年質が悪くなっていたヴァルフェリウス公爵屋敷の書庫にあった書物から得た知識しかなかったからだ。

それでも内容的にどうにか回答出来得る問題で正答率八割を確保できるようなものだったので、ひとまず最も難関だと思われた科目を終える事が出来てルゥテウスは珍しくホッとしていた。


一日目の筆記試験はこの一科目だけであったので、ルゥテウスが入っていた第二講堂の男子受験者は一斉に次の身体検査の会場となる「第一室内演習場」へと移動する事になった。

この筆記試験は男女一緒に行うものであったので、移動の間にルゥテウスの周囲に居た同年代の女子受験者から何かと視線を集めていたが、彼はそんな事には全く関心を持たず、例によって目の前に誰も居ないかのように……移動する人々の間を無人の道を行くかのように早足でさっさと歩いて行った。


身体検査の会場は流石に男女別となっており、移動の過程で順路が二つに分かれ、ルゥテウスが向かう第一室内演習場には男子受験者だけが向かうようになっている。

本日が受験初日の最終組はどうやら女子の方が多かったようなので、あっという間に移動する人の群れが小さくなり、それ程混乱を起こす事無くルゥテウスの男子組は検査会場に逐次到着して空いている検査科目の列に各々並び始めた。


ルゥテウスこと「マルクス・ヘンリッシュ」はまず身長と体重を測定し、179.6センチ、60.4キログラムとその場で新たに作成された検査票に記入されて渡された。


「このままこの検査票を次の検査場に持って行って提出しろ」


ルゥテウスよりもやや背が低いが、ガッチリとした身体付きの検査官に言われたルゥテウスは無言で頷いて次の検査の列に並んだ。

後ろの方ではどうやら検査の結果で入学基準に満たない数字が出た受験者が居たようで、検査官の「身長満たさず不合格っ!」という大き目の声が聞こえ、それに続いて「うわわぁぁ」と無念の叫びを上げる声も聞こえた。


この身体検査にも一応は合格基準があり、男子は165センチ、女子は150センチがそのラインで、それに満たない者は入試そのものが不合格になる。本来ならばこの身体検査を先に行った上で検査に合格した者だけが筆記試験に進むという順序であったのだが、近年の受験者増加によってそれが守られなくなってきていた。


今年も例年に比べてやや受験者数が多いのだが、ルゥテウスの記憶に残っていた頃の受験者数は多い年でも2000名前後であったので、この時点で今年の受験者総数を知らないルゥテウスとは言え、やはり人数の多さを感じずにはいられないだろう。


一方、体重に関してはそれ程合否に考慮されない。どうせ入学してしまえば痩せ過ぎの者や肥満気味の者も徹底的に鍛えられて行くのだ。ルゥテウスの体重は身長に対してやや痩せ型と言えるが殆ど問題の無いレベルであったようで、検査官からは何も言われなかった。

しかし彼の記憶ではあまりにも身長に対して体重が軽い者は何らかの罹患を疑われ、その後の簡易疾病検査でかなりしつこく調べられるはずだ。


次の検査で視力と聴力を測定され、ここでも何人か……特に視力において基準を満たせずに脱落している者が散見された。

但し、この検査では眼鏡等を使用した矯正視力でも基準を満たせば検査を通過出来るので、裸眼で不合格と言われた者が眼鏡を掛け直して改めて検査を受け、合格と告げられて胸を撫で下している者も同じくらい見受けられた。


眼鏡という器具はこの先進国の社会でも、そこそこ高価な物であり庶民が多少無理をすれば手に入る程度の価値があった。

戦時難民であったキャンプの工場長、キッタが眼鏡をしていたが……あれはどうやら亡くなった父の遺品であったようで、彼ら三兄弟の父親はエスター大陸から逃れて来る前から眼鏡を使用していたそうだ。


そして父の死後、イモールの下で《赤の民》の職員となったキッタは視力の異常を感じたので、試しに父の遺品であった銀の眼鏡を掛けてみたところ、思いの外視界が良好になったのでそのまま使用するに至ったというわけだ。


現在、彼の「メガネ」はルゥテウスから念話の付与を受けてから全体的に軽くなり……更に彼の視力に応じて勝手に調整されたようで、あれ以来彼の矯正視力は相当に改善している。

彼も近頃は40歳を超えて多少の老視も混じって来ているはずなのだが、相変わらず視界は良好だと言う。


ルゥテウスは眼鏡による矯正で再検査を通過した者達の様子を見て


(なるほど……そうか。俺も眼鏡で偽装しよう)


と、咄嗟に思い付き列に並びながら軽く手を振り数秒の間だが、その場で結界を張った。そして結界が解かれた彼の上着の内ポケットにはキッタのメガネを参考にした形状の度が入っていないガラスの嵌った眼鏡がケースに入って収まっていた。

後ろに並んでいた連中は、どうやら前に並んでいた長身の男が数秒だけ姿を消した事に気付いていないようだ。


ルゥテウスは自分の視力検査の番が来ると、わざと検査板に並んだ検査環が欠けた向きを間違えて答え、眼鏡使用の許可を求めてそれが受諾されるとおもむろに内ポケットのケースから度の入っていない眼鏡を取り出して装着した。

後は再検査で次々に検査環の欠けた向きを的中させて行って狙い通りに「矯正付き」と但し書きで視力検査を合格させた。


こうして「マルクス・ヘンリッシュ」という人物はその容姿に「眼鏡を掛けた」という「特徴付け」がされたのである。


 視力検査の終わった彼はそのまま聴力検査に進み、合格の印を検査票に書き加えて貰い次の列に進んだ。

この身体検査は一般募兵の入営検査に準じているので、それ程詳細な内容で実施されるものではなく、他の検査と言えば入墨の有無と四肢二十指の欠損確認や医師の簡易診察による指定病検査くらいで、その先の詳細な検査は入試合格者が入学後に行う事になっていた。

入墨の有無を確認されるのは、レインズ王国では伝統的に入墨は「一定以上の処罰を受けた犯罪者に施される前科者の印」という認識がされているので、文化の違う王国各地から集まる受験者への犯罪歴を確認する最も単純な手段だからである。


ルゥテウスは特に他の検査で特筆されるような欠陥を認められる事も無かったので、結局身体検査は問題無く終わらせる事が出来た。

彼の組の者で不合格とならなかった者は会場である室内演習場の外に出た広場に集められて


「お疲れ様です。あなた方の本日の試験は終了しました。まだこのように日の高い時間ではありますが規則によって、あなた方はこの試験会場である士官学校構内から外に出る事が出来ません。よって残りの時間は許可された開放区画において自由時間とさせて頂きます。

昼食は三点鐘(昼の鐘)が鳴ってから二時間……つまり14時までの間に指定された食堂にて済ませて下さい。

あなた方の組は第三と第四食堂が指定場所となります。本日の宿泊場所は追って発表致します。大講堂の入口脇の掲示板に各人の受験番号によって明記させて頂きますので五点鐘(夜の鐘)が聞こえたら必ず確認して下さい。

尚、夕食も五点鐘から二時間の間……つまり20時までに昼食と同じ場所にて摂って貰います。以上っ!解散っ!」


と案内係の女子在校生に告げられた。その在校生は大勢の受験者が集まった場所で女性ながらよく通る大きな声でハッキリと話しており、恐らくこれが士官学校における規律と鍛錬の成果なのだろう。


「時間を潰す」為に構内で開放されている場所は案内係の女性が立っていた指揮台の横に出されていた車付きの掲示板に記載されていた。

どうやら、構内各地に点在する広場と各食堂、そして図書館がその対象となっているようだ。

本来であれば別に宿泊点呼があるまで瞬間移動でキャンプなりサクロなりに帰って食事も時間潰しも行えるのだが、ルゥテウスは今回の試験は可能な限り他の受験者と「同じ環境」で受けようと思っていた。


(ふむ……図書館に行ってみるか。公爵屋敷の書庫よりかはマシかもしれん)


そう考えたルゥテウスは自分の記憶を頼りに、構内北東部にある図書館を目指して歩き始めた。

歩きながら他の受験者の様子を見て


(うーむ。どうやら今日の組だけで千人以上は居るようだな……。俺の組は最後の組だと聞いている。つまり端数のような人数だとすると……全体では五千……くらいは居るのではないか……?)


実際の総数は更にそこから600人近く多いのだが、ルゥテウスは全体の受験者総数を推測して自分の記憶と比べるまでも無いその多さに心中驚きを隠せなかった。


 実は毎年行われる王立士官学校・官僚学校の両校はその年の受験者総数を公表していない。理由は結構面倒な話なのだが


「受験者総数からその年の競争率が精密に算出されてしまい、その結果『ギリギリの成績』で不合格にさせられたと『思い込んだ』上流社会出身の受験者とその家族、果ては親戚までもが騒ぎ出す」


という前例が以前しばしば見受けられたからだ。


近年……もっと昔の「大北東地方の放棄」があった頃から特に士官学校の受験者数が急増した。それ以前はルゥテウスが記憶していたように多い年でも2000人前後で推移していたのだ。


恐らくではあるが、血税が無駄に投入されていたとされる大北東地方を切り捨てた事で王国全体の景気が上昇し、庶民の生活水準も僅かずつではあるが、年々上昇していく中……王国内の人口も、「領土が狭くなった」にも関わらず右肩上がりの増加に転じた。

その分、家を継げない次男次女以下の子弟が増えて、特に農村部の若者が安定した公務員への道として軍の幹部候補を志望し出したのではないかと思われる。


また、(さき)の「黒い公爵さま」が「お隠れ」になって700年。その苛烈な粛清を乗り越えてまたぞろ往時を忘れて緩み出した王室と王国政府、そして上流社会の中で新興の貴族家が増え始め、それに伴ってやはり次男次女以下の子弟が増加して来たという事情も考えられる。


 実際、大北東地方を切り離したことで元々対外戦争をする事も無かった王国において内乱も減少したので、国軍・諸侯軍共に軍事行動が著しく少なくなり、「軍とは言えど戦争に行くわけでも無し」という平和な認識が国民の間に広がって現代に至っている。

「軍人になる」という事に対して国民が抵抗感を示さなくなっている時代なのだ。


そんな中、出願者が数千人にも及ぶ士官学校、官僚学校は当然昔よりも「狭き門」となっており、「学校を出た」という箔と見栄を張りたい上流社会の子弟にとっては競争率数十倍にも及ぶこの門をくぐる事は至難の事となっている。

そんなナーバスになった「高貴なる不合格者」達に、入学難度をはっきりと数字化させてしまうような受験者総数の公表は試験を行う側にとって火中の栗を拾いに行く行為となる。


とにかく合格して入学出来る人数は具体的に「100人の定員から留学枠を除いた90人」と明確に決まっているわけで、仮に留学受験者の成績が全体的に不振を極めて枠を使い切れなくても「100人」という数字は絶対なのである。


その枠に入れなかった気位だけは高い無能な上流階級受験者は「もしかして自分は101人目だったのではないか」と妄想しがちだ。

前述したが、実際に受験者総数が極めて多かったある年の「ギリギリの不合格者」の中からレインズ国籍を捨ててロッカ大陸にある大国へ移住し、そこで政府高官にまで出世した例もあった程で、そういう成功譚を聞いた者の中に「もっと競争率が低ければ俺は100番、いや90番以内に入っていたはずだ」と思うのは致仕方無いのだ。


 ルゥテウスは図書館を目指す道すがら、初夏の正午の時間に向かって日差しが強くなって行く広場の様子などを見ながら


(やれやれ……今年もいっぱい居るな……ゴミどもが)


と広場の日陰を巡って言い争っている明らかに上流階級出身と判るような服装をした男女を見つけて苦笑した。

士官学校に入る世襲貴族家の子弟は概ね次男次女以下が圧倒的に多い。

家督を相続する長男や婿を取る必要がある長女は別に自分で努力をしなくても相続によって爵位と家屋敷、領地や年金が転がり込んで来るので学校に行こうなどとは思わないのが普通だ。


時折……家内の経営に真面目な者や「更なる高み」を目指すような意識の高い者で官僚学校入学を目指すケースがある程度だ。

その他のそのままでは「厄介叔父、叔母」候補になってしまう者達にとっては士官学校から軍の高官を目指して将官にでも進級するなり、独身の高級将校の正妻の座を目指すなりするのが現実的な実家からの独立方法なのだ。


 士官学校を卒業するか一般兵からの叩き上げで少尉に任官できれば、王国政府から「士爵」という最下層の爵位を受ける事が出来る。

しかし士爵位は爵位とは言え名目上のもので貴族の一員とは言い難く、陸海軍の少将以上まで進級することで漸く「勲爵士」に叙任され、公の場で名前の前に「サー」や「デイム」という敬称が付けられるようになる。ここに叙任の直後から「貴族年金」が発生するようになり、これは本人の死去まで支給される。


但し……その爵位の世襲が許されるようになるには、その一つ上の「准男爵」に叙任されなければならず、そこまで上がらないと次代は再び「平民」に戻ってしまう。

准男爵に陞爵(しょうしゃく)するには概ね「三代続けて勲爵士を輩出する」事が基準となっているようで、他にも更なる上位の爵位を持つ家の子弟であれば将官に上がった時点で一足飛びに准男爵へ叙任されて「別家を立てる」事が認められる。

上級貴族の次男次女はそれを狙って、その入口となる士官学校入学を目指すのである。


 また、官僚学校で卒業席次上位五位以内の者に与えられる「指輪」と同様に士官学校においても各科の首席と次席以下学年十位までとなる年次卒業者の席次上位十名に「短刀」が授与される。

政府省庁内で官僚学校上位卒業者が「指輪組」としてトップエリートと目されるように、「短刀組」の者が卒業後に軍への服務を選択すると、同じ少尉任官でも「先任少尉」として扱われ、やはり出世レースを有利に進める事が出来るようになる。


なので、将官への進級……つまりは勲爵士叙任を目指す者であればまずは士官学校入試合格を目指すのでは無く、そこは当然の通過点として入学後の席次上位十位以内が目標となる。

平民出身者、もしくは代々将官を輩出して世襲貴族を目指す者は士官学校に対する意識はそこら辺の上級貴族出身者よりも当然高い。


 ルゥテウスはまだ入学も決まって居ない入試会場で威勢を張っている貴族の子女と思われる一団を鼻で笑いながら図書館が併設されている北校舎の入口を目指した。


ちなみに、士官学校……のみならず軍関係の施設内は貴族に対して治外法権の場でもある。特に士官学校在校生の間では身分の上下は一切考慮されない。

もし、自身の実家の威勢を借りるような言動や行動が教職員に認められた場合は即退学となる。


現代において、貴族勢力の浸食を受ける他の官公庁と違い……軍務省を筆頭とする軍関連の世界には貴族勢力の付け入る余地は無い。


なぜそうなのかと言うと、法律によって軍の最高司令官は国王であることが明確に規定されている為、臣下である貴族がそれに取って変わるのは不可能だからである。

軍官僚の最高位である軍務卿にしても貴族閥が築かれたという前例は皆無で、この部分だけで言えば王国はまだ何もかもが腐敗しているわけでは無いと言える……だろう。


軍務省を筆頭として王国軍の歴代国王への忠誠は概ね良好であり、貴族に対する畏縮を持っているとするならば……やはり貴族の最高位にあるヴァルフェリウス公爵家のみであろう。


 特にこの世襲が認められた唯一の公爵家からは過去に「髪が真っ黒い公爵さま」を二人輩出しており、その強さは最早「神話」として軍内に語り継がれている。

そしてその名は「王都八門」の東門と西門にそれぞれ残されており、東門の通称は「エッツェル門」、西門は「ジューダス門」と呼ばれている。


第27代エッツェル・ヴァルフェリウスは王国歴500年代に出現した「史上最初の黒い公爵さま」であり、第46代ジューダス・ヴァルフェリウスは「沈黙の旬」を巻き起こした第38代タラス・ヴァルフェリウスに次ぐ「三人目の黒い公爵さま」で王国歴1500年代に活躍した英雄である。


どちらの「黒い公爵さま」も北方部族の反乱鎮圧で活躍したのだが、特にジューダスの活躍は圧倒的であった。


 当時の情勢は、建国以来七度目の「北方有力部族連合による大反乱」によって腐敗していた王国軍は惨敗し、建国史上初めて「反乱側に版図を拡げられる」という失態を犯していた。

北東地域は反乱軍によって完全に制圧され、彼らは勢いに乗じて北西側にあったヴァルフェリウス公爵領を窺いながら、戦乱は延べ12年に渡って続く事態となった。


そんな北方大乱の最中であった王国歴1517年に、王国軍を率いて戦死した先代から家督を引き継いだ当時15歳のジューダス・ヴァルフェリウスは、まずは幼少時より苦々しく思っていた、腐敗する王国軍と拝領貴族を諸侯軍ごと粛清。

彼の手によって族滅された貴族家は侯爵家、辺境伯爵家も含めて71家、粛清された政・軍の高官は270名に上った。


 彼は当時の無能な国王として、国民からの信頼を失いつつあった第55代マナヌス王にすら退位か自ら軍を率いての出陣の二択を迫り、それを泣いて拒む王を赦す事と引き換えに、「軍の統帥権」を一時的に譲らせると自らの領兵のみ率いて北東地域に出陣し、軍の先頭に立って反乱軍を圧倒。12年続いていた反乱を僅か19日で鎮圧し、反乱軍を率いていた部族の長の一族を残らず斬り捨てた。


残された記録によると、この戦いで反乱軍参加者の死傷者18万人に対してヴァルフェリウス領兵の死者は僅か7人だったとされる。

国王を始めとして粛清から逃れた貴族、そして王国正規軍関係者はその強さに震え上がり、特に軍関係者に辞職者が相次いだ。


ジューダスは北東の反乱の芽を根絶やしにすると、供も連れずにたった一人で王都に凱旋。祖先の名を冠した南北東門は避けて西門から入場し、王都市民が熱狂的に歓迎する中で王城に至って怯える無能な国王に軍の統帥権を突き返したと伝わる。


他にも「賢者の知」のみ発現したいわゆる「瞳が真っ黒い公爵さま」も出現のたびに軍の腐敗を正した為に、彼の家はその後も軍の中では異例の扱いを受けている。


 ルゥテウスが「無能」の烙印を押している父ジヨーム・ヴァルフェリウスが軍の要職を歴任しているのは多分にこの「神話」によるもので、彼は士官学校を卒業していないにも関わらず、王国陸軍大将の地位にあって現在も「王都方面軍司令官」の役職に就いている。大方の見方に反してルゥテウスがこの事実を以って「軍も腐敗している」と評価しているのは仕方無い。


しかし、シニョルの話によるとジヨームの次男であり、現在は婿入り先のマーズ子爵家の当主となっているタレン・マーズは二年浪人した後に18歳でこの士官学校への入学を果たして、現在は35歳で王国陸軍大尉の地位にあると言う。

二年浪人したとは言え、結果的に入試を突破して入学を果たしているのは大したもので、35歳という年齢で大尉という階級であるならば、任官後も父親の威勢を恃んでいるようにも見えない。


本人も十代後半の頃は、まさか未来に一人娘しか居ない子爵家に婿入りできるとは思って無かっただろうから、当時はそれなりに必死で受験に臨んでいたと思うと他人事ながらルゥテウスは笑いがこみ上げて来るのであった。


(浮気相手の男の方がよっぽど優秀なのかもしれんな……)


ルゥテウスが偽物とは言え、世間的には出生上の「兄」に当たる人物に失敬な評価を下している間に……図書館のある巨大な北校舎の入口が見えて来た。

ルゥテウス以外にもこの空いてしまった時間を普段訪れることの出来ないこの巨大な文化施設で過ごそうとする「意識の高い」受験者は結構居るらしく、閲覧室の椅子はかなり埋まっていた。

しかし、その中にはちらほらと制服を着た在校生の姿も混じっており、彼らもこの「入試休暇」のすぐ後に行われる考査に備えて自習をしていると思われる。


士官学校は偶数月の三旬目に「席次考査」というものが実施され、その結果によってクラス内の席次が上下する仕組みになっている。二ヵ月毎にこの席次変動の機会が訪れるので、成績上位の「短刀組」を狙っている者達は今の席次に胡坐をかくこと無く、勉学に励まないといけない。

しかし、考査は筆記だけでは無く実技も行われるのでこの図書館で自習に励んでいる者以外にも訓練場で自主練習を行っている者が居るかもしれない。


ルゥテウスは閲覧可能な書架に向かい、先程受け終えたばかりの王国の歴史が記されている書籍を探し、その中の「近現代」のものに限って目を通し始めた。


(ふむ……やはりこちらの文献の方が質は高いな。まぁ、主に軍事関連の記録でしか無いが……)


 本を読み漁り始めると、暫くして鐘の音が「カーン!カーン!カーン!」と三回聞こえ、少し時間を置いて同じリズムで繰り返された。三点鐘……昼の鐘が鳴ったのである。


その鐘の音を合図に、図書館に居た受験者と思わしき私服姿の若者達が一斉に動き始めた。受験者に支給される昼食の時間は正午の鐘から二時間の間しか設定されていない。

ルゥテウス達の組が給食が支給される会場は構内に五つある学生食堂のうち「第三」と「第四」の二ヵ所が指定されていた。更にその中でこの図書館から近いのは同じ北校舎の中に入っている第四食堂で、同じく近い場所にあって構内北東区画に独立して建っている第五食堂は、本日構内に留まっている案内係を担当したり自習をしている在校生、担当する試験官の職員の為に割り振られているようだ。


「食堂が五つある」と言っても、この学校の在校生数はそもそも毎年の入学定員が100名なので最大でも300名である。

それに教職員を加えても400名弱という規模なので、本日だけでも1300人という受験者が押し寄せているこの入試期間中は中々の戦争絵図になる。

ルゥテウスの組だけでも600名を超える者達を定員が100名程度の各食堂で賄わなければならない。


そして都合の悪い事に、この北校舎に入っている第四食堂へは当然その近隣の図書館で過ごしていた受験者と、その周辺の広場で過ごしていた者、そしてそもそもその第四食堂で「時間を潰していた者」が集中するので、恐らくはここ一ヵ所を450人程度が目指していると思われる。


二時間以内に定員100名の食堂で、その四倍を超える人数が殺到して昼食を摂るには一人当たり使える時間が30分も無いということだ。ここで出遅れてしまうと昼食も満足に摂れぬまま給食の支給が終了してしまう恐れもある。


 実は恐ろしい事にこういった「限られた時間での行動」についても以前は考査の対象にされており、「飯を食いっぱぐれた者」達の受験番号がそれぞれ控えられて二次試験の参考要素の一つにされていた時代が存在していた事がある。

しかし幸いな事に、この理不尽とも言える考査科目は受験者が爆発的に増加した400年前頃に廃止となり今日に至っている。

それでも時間に間に合わなければ飯を食えない事には変わり無く、受験者は我先にと第四食堂へ殺到した。


中には弁当を持参していた「目端の利く者」も居たが、この士官学校では食中毒の発生と蔓延を防ぐという理由で食堂その他定められた場所以外での……寮生においても自室での飲食が原則禁じられている。

……なのでせっかくの弁当を晴天の下、広場のベンチ等で楽しむ事も出来ずに食堂に持ち込んで食べるという残念な状況になっていた。


(うーん……面倒臭ぇな……)


ルゥテウスは昼食を食べに行く事が億劫になったのだが、彼には前述の「飯を食い逃すと減点対象になる」という悪しき前例の時代の記憶が残っていた為、この大勢の受験者の中で唯一「食べに行かないと考査に不利が生じる」という勘違いを起こしていた。


 もうすっかり受験者が出払った図書館から最後に一人出てきたルゥテウスは、今頃大行列が出来ていると思われる第四食堂を避けて構内の対角線方向にある西校舎の南寄りに併設されている第三食堂を目指して歩き始めた。


途中の広場には既に食べ終わったのだろうか。食後のひと時をゆっくりとベンチで寛ぐ受験者と思われる人々を大勢見かける。

昼食を摂っているのは何もルゥテウスの組だけでは無い。彼らの組とは反対の時間割で動いている別の組も存在しており、そちらも約700人の受験者が振り分けられていた。


別組の受験者はどうやら第一と第二食堂を割り当てられたらしく、特に収容人員が150名規模の第一食堂にはかなり余裕があったようだ。

構内の南西方向にある第三食堂を目指して歩いていたルゥテウスの左手に、本(南)校舎の中にある第一食堂が見えて来て、既に中には人がまばらになっているのを目にして、彼は舌打ちをした。


(もう少し気の利いた割り当て方が出来なかったのか……)


彼は多少イラつきながらも早足で歩き続け、構内の北東側にある図書館からほぼ対角線方向に1キロ強ある南西側の第三食堂まで10分もしない間に辿り着いた。

ルゥテウスの体内時計で現在の時刻はまだ12時30分くらいだろうか。彼の組の大半は第四食堂に吸収されているので、こちらの食堂は行列も殆ど消化された状態で、彼は5分もしないうちに配膳から自分の昼食を受け取って空いている席に着いた。


 このような「列に並んで食事を受け取る」というのはキャンプで暮らしてきた彼にとっては毎日の習慣であり、特に苦痛とも思わない。

しかし今日の配膳がいつもと違うのは、キャンプの食事ではいつも彼の後ろに着いて並ぶノンが居ない事である。


よくよく考えてみると、彼女と出会ったその翌日から約十年。ほぼ毎日のように彼女と配給の列に並んでいたのである。

大半の住民がエスター大陸に帰還している現在においても配給を行っている集会所は二棟残されており、ルゥテウスとノンが通っていたキャンプ中心部にある集会所もそれに該当していた。


その集会所は最早ルゥテウスとノン、それに南北サラドス大陸からキャンプに保護されてきたばかりの住民の為だけに存在しており、その中でも十年間ほぼ通い続けているルゥテウスとノンは調理や配給で賃金雇用となった者達とはすっかり顔馴染みになっていた。


(そういえばこうして飯を一人で食うのは随分と久しぶりだな……)


先月にはダイレムに帰郷した際にやはりキャンプの集会所で夕飯を食べて無かったが、その日はそもそも夕食を抜いたので「独り飯」とはなっていない。

思えばいつも……役場の食堂でも集会所の食事スペースにおいても……食事をする彼の向かい側にはノンが居た。


 最初の頃は「おっかなびっくり」と言った様子で彼に接していたノンも、「偽装姉」としての自覚が出てきてからはルゥテウスと食事を摂るという事が自身の生活の一部として当然のようになり、暫くすると本当の姉のように食事を共にするこの十歳年下の「弟」の世話を焼くようになったものである。


今ではもう彼女のルゥテウスに対する行動は「姉」としてでは無く「世話女房」のそれになっており、彼ら二人を知る周囲の者達も最早そんなノンの行動には気を留めなくなっていた。


 ルゥテウスは、一人食事を摂りながらそんな事を考えていたが、ふと周囲の様子を窺うと……まだ満席近い状態の食堂がやけに静かな事に気付いた。

考えてみれば、この場で食事をしている者達は皆それぞれ顔見知りなど居ない試験会場の受験者同士なのだ。本来であるならば、試験会場への入場から既に数時間が経過しているわけで、同じ組み分けされた者同士の中で同じような時間割で行動しているうちに多少は仲が良くなっても良さそうなのだが、皆一様に無駄口を叩かず静かに……そして速やかに食事を摂っている。


(ふむ……この連中もそれなりに緊張感を以って今日に臨んでいるのだな)


ルゥテウスはなぜかそんな様子に感心している自分に気付いて口元が緩んだ。


この連中の中には恐らく今回の試験が二度目以上の者も居るだろう。


 彼の記憶では、王立士官学校の入試を初回で合格する者は三割弱、王立官僚学校の初回合格率は五割程度とされている。前述したヴァルフェリウス公爵家の「次男」であるタレンですら「公爵家次男」という身分に忖度を受ける事無く二度の不合格を味わっているのだ。


そういう「浪人生」にとってこの入学考査は生涯で五回しか挑戦することが許されない人生の難関であり、ここに合格するとしないとではその後の人生に大きな差が生まれる……という自覚は、あの公爵家に生まれたタレンにすらあったのだ。


 今回、そのような者達を押しのけてその「一枠」を占めようしているルゥテウスは多少考えさせられる事であった。

彼が合格する事は「目立たないようにする」という細工をするにしても既定の話であり、それこそ先述の「違う年であったならば自分が合格者に名を連ねる事が出来た」という者を確実に一人生む。


その者は今年19歳で、入学資格の関係で今年が最後の挑戦になっているのかもしれない。

それを思うとこの入試に取り組む姿勢を疎かにしてはいけないなと彼なりに思ってしまった。


そんな事を考えながら現在のキャンプとは違って昔ながらの伝統ある「固いパン」を咀嚼していたルゥテウスの耳に突然


「何だこの不味い食べ物はっ!こんな物を我に食せと申すかっ!」


と少し甲高い声が入ってきたので、彼の視線は自然にその方向へと向けられた。見ると明らかに貴族……それもかなり上位の家なのか、相当に上質な暑苦しいとさえ言えるような恰好をした茶髪の男を、向かいに座った同年代の平民の装いをした男が宥めている様子が映った。


「若様……お声が高うございます……」


平民の男の声はかなり抑えられているのだが、周囲が先ほども言ったように受験に対して緊張感を持った者達で静まり返っていた為、却ってその耳に入ってくるようなものになってしまっていた。


確かに、この入試期間にこの食堂で出される食事は普段の学生生活で供される給食とは質が違うことは否めない。

何しろ在校生は授業と訓練で多量に消費される体力を回復させ、更には身体を成長させる為にそれなりの質・量共に充実した給食が出されているのだろう。

しかしこの期間は食事をする「口」の数も大幅に増え、上記のような質と量が考慮される事は無くて当然である。


 今この食堂で昼食を摂っている者達は、ここに士官学校の入学試験を受けに来ているのであって庶民の食事情に対して贅沢とも言える「軍隊飯」を食べに来ているのではない。いくら貴族のお坊ちゃまでもそれを自覚すべきであろう。


(あのボンボンは、あの様子だと万が一合格しても多分長続き出来ないな……)


ルゥテウスは心の中で苦笑しながら、その「主従」と思える二人の……服装が煌びやかな方から視線を自分のパンに戻した。


 士官学校……これは官僚学校側にも言えるのだが、入試に合格して入学を果たしたとしても学生にとって安穏とした生活は許されない。

例え成績優秀者の証である「短刀」や「先任少尉」への道を目指さずに居ても、彼らの三年間には常に「放校」への恐怖が付き纏う。


退学者の内訳で最も多くを占めるのは「成績不良」、つまり「落第」だ。士官学校や官僚学校では先にも説明したように二ヵ月に一度「席次考査」がある。

この考査……つまり中間試験において60点以下の点数は「未及第点」……「赤点」という扱いになり、一旬後に再試験を課される。

ここでまた赤点となってしまった場合は「成績不適合者」として即退学処分となる。


この際に授業料を前納していた場合でも返還はされない。これはもう一つの主な放校事由となる「重規則違反」も同様だ。


 規則違反として退学処分となるのは殺人や窃盗などの一般国民にも適用される罰金以上の実刑判決を受けた者は当然として、校内における「決闘」や「私闘」、それに先ほども少し触れたが「自らの出自や身分を嵩に着た行為や発言」もこれに含まれる。


特に後者は上級貴族の子弟において犯す者が多く、困った事に低い身分出身の者が身分差に対する意趣返しを目的として彼らのような高い身分の者を挑発してそのような言動を引き出す事で退学に追い込むという事件が昔は多く発生していた。


そしてそのような事件を面白半分に起こした加害側の者に対して「退学に追い込まれた」貴族側が卒業後の本人やその家族に対して苛烈な報復を行うというような事件も何件か記録されている。


最初に挑発を企む者は年齢的にも未熟な精神思考で「子供の喧嘩」のようなつもりで行ってしまうのだろうが、結果として自分や家族の生命財産でさえ吹き飛ばされるという悔やんでも悔み切れない結果を生む事にまで考えが及ばないのだ。


 同様なケースが全寮制時代にも何度か起きていた。集団による強制的な寮生活という環境において身分の逆転が発生して低身分の学生が結託して上級貴族出身の同級生や下級生を「いじめる」という事件が後を絶たず、その結果として自主退学に追い込まれた上級貴族子弟側が当然のように「学校の外」で報復に出て「いじめた側」の卒業生やその家族までもが社会から抹殺されるという惨事を度々生んできた。


全寮制が廃止されたのもこういった身分差のある未熟な年齢の学生を平等精神によって同じ生活環境で密閉した結果生まれるトラブルを防止するという理由によるものであった。


 現在も学生寮は構内に残っており、地方出身者や外国人留学生が主に利用している。貴族の子弟で寮生活を営む者は現代においてほぼ皆無であり、昔のような寮内において身分差を遠因とする寮生間のトラブルは無くなったと言える。


それでもやはり学校生活において身分の違いによる衝突は近年においても時折発生し、そのたびに少なくない数の生徒が放校処分を受けている。


この対立の構図が絶えないのはやはり「学内においては身分差を誇示するような行為言動を厳に禁ずる」という校則部分を平民出身の生徒が曲解し、「相手の出自が高貴でも学内では報復を受けない」と考えてしまう事である。


そして人数の上では概ね多勢である平民側がどうしても孤立しがちな貴族側の生徒に対して攻撃を加える側に回ってしまう。

そうなると貴族側も団結するようになり、平民派と貴族派の対立が生み出されて行くのだ。


 こういった生徒間同士の対立を防ぐ為に、生徒自身で運営される自治会が存在し両者の緩衝役として機能するようになっている。

この自治会の運営者が優秀な年は校内対立は生まれずに穏健な学校生活が送られるのだが、自治会の統治能力が低い年には校内対立からしばしば生徒の大量放校に発展する場合もある。


先程食堂で出された昼食の質について周囲の雰囲気に構わず大声で不満を述べてしまうような「世間知らず」には、心配した貴族の親が「御目付役兼護衛役」として家臣の親族で同世代の者を同時に受験させる家もある。


先程の貴族のバカ息子を宥めていた者が正にそういった理由で受験に同伴している者だが、そもそも最終的に60倍を超えるような超難関受験に合格することがいかに難しい事なのか理解していない貴族が多過ぎる証左である。


結局、先述のバカ貴族の主従は周囲の受験者達から白い眼で見られている事にすら気付く事も無く、「主」の方は口に合わないとの理由で支給された昼食の大半を残して廃棄していた。


ルゥテウスは生来、食の質……特に「頂いたもの」に対しては不満を表さず可能な限り残さず食べるという「美点」を持っているので、この多少「大人数向け」に作られた昼食を完食し、食器を戻す際に厨房に居る者へ笑顔で礼まで述べて食堂の外に出た。


(さて……まだまだ時間はあるな。図書館に戻って引き続き書籍を漁るか)


と、また北東区画に向かって歩き始めた。


 午後も結局ルゥテウスは、図書館に籠り切りになって王国の近現代史を中心に文献を読み漁り……彼の場合は常人の数十倍の速さで書籍を読破する事が出来るのだが……最終的に公開されている歴史書の書架に並んでいた書物に粗方目を通してしまった。


(ふむ……。やはりここ数百年の王国には政治的にも軍事的にも傑物が現われなかったのが領土放棄に至った原因か……。

もし俺があの時代に生まれていたら……。そうだな……公爵家だの貴族家などは放っぽり出して難民を集めて北方に送り込んで大工業地帯でも作って……)


(いや待てよ……果たして俺は何の切っ掛けも無く難民の窮状に気付いて手を差し伸べることが出来たか……?あの時代にシニョルは居ないんだぞ……)


(つまり俺も他の「黒い公爵さま」同様に難民を救う事は無かったと……?)


(俺は結局……あの連中と出会っていなければ……あの連中から命を狙われていなければ……封印すら解けずにダイレムの薬屋店主として一生を終えていたのか)


軍記の視点を中心とした王国近現代史を一通り頭に入れたルゥテウスは、今の自分という存在について思索に耽っていたところで五点鐘が聞こえてきて彼の思案を中断させたのであった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。

王立士官学校入学に際し変名を使う。


ノン

25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務める。

主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。

主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。

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