表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第三章 王立士官学校
45/129

灰色の塔

構想の最初期に造り込んでいた王都レイドスの設定を、これまでの物語で描かなかったので今更ながらに吐き出す事になっています。主人公がなかなか入学できない……。


【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 ルゥテウスはノンを連れて、王城前広場をアシリス通りの入口がある南東方向から魔法ギルド本部がある王城の西側に向かって歩き出した。


「王城前広場」とは文字通り王城(とそれを挟む灰色の塔と大聖堂)の正面に設けられた広大な広場で、隣接する二つの巨大建築物側も含めて直径が約900メートルの半円形をしている。


王都の「大正門」と称される南門から王城へ一直線に伸びる「アリストス通り」は市街部で幅50メートルを誇るが、市街を貫いてこの広場まで達すると一旦そこで途切れる。


他の放射道路も同様なのだが、このアリストス通りに限っては途切れた地点から更に王城の正門まで距離約400メートル、幅20メートル程の色が異なった敷石が配されており、これが事実上広場に設けられた唯一の「道路」となっていて、半円形の広場を二分した形にもなっている。


 広場の外縁はこの広場と王城部分を囲むような環状道路となっており、これが王都の「環状一号道路」と呼ばれている。

つまり厳密に言うと、放射道路の起点はこの環状一号道路との交差点と言う事になる。


以降、その外側の官庁街(二層目)と大貴族街(三層目)の間に環状二号道路、大貴族街と中小貴族街(四層目)の間に環状三号道路、そしてその中小貴族の屋敷が集中している区画と平民の中では上級層に属する者達の邸宅や大商会の本館が建ち並ぶ区画(五層目)を隔てているのが環状四号道路となっており、難民が経営する菓子店はこの四号道路と広場から王都南西門へと続く「ネイラー通り」との交差点の貴族街側(四層目)に店舗を構えている。


つまり一号道路の内側を「王城区画(一層目・重心部)」とし、四号道路が「貴族と平民」を隔てている構造になる。

平民の中でこの四号道路の内側に仕事を持つ者は圧倒的に公務員と軍人が多いのだが、どれだけ地位が高い者でも平民である以上はこの道路の内側には居住しない……できないと言うのが王都での慣習だ。


あくまでもそれは「慣習」なので法律によって平民の居住が禁じられているわけでは無いのだが、四号道路以内の不動産売買は事実上、貴族以外の者を排除している。


この中の区画で店舗を構えるには、貴族社会と何らかの「強力なコネ」が必要であるが、ルゥテウスとドロスが設けた《青の子》の偽装菓子店は公爵夫人エルダの名義で買い上げられたものなので、そのような慣習による規制をクリア出来ているのだ。


ちなみに、この諜報拠点となっている物件を名義上とは言え公爵夫人に売却した「エルツ商会」は、その経営者がエルツ子爵であるのでやはり規制には抵触していない。


 環状道路は更にこれ以降四本存在し、王都の外壁のすぐ内側を周回しているのが環状八号道路となる。

但し、外壁の外にも……つまり王城をぐるりと囲む道路が存在しているが、それを「環状九号道路」とは言わず「王都外環道路」と呼称している。


王国民……特に貴族階級を含む王都市民にとって「◯号道路」や「◯号通り」と言ったような呼称の場合は、王都の中を周回している王城区画を中心とした環状道路を指す。


それに対して王城区画の外側……一号道路を起点として王都内を放射状に伸びて外壁にある王都八門へと至る放射道路には周知の「アリストス通り」や「アシリス通り」、「ノガル通り」、「ネイラー通り」と言った歴代の中でも「名君」とされた国王の名が冠されている。


建国から3000年もの長い時が経つレインズ王国は、現国王が132代目に当たる為に過去には歴史上に名君の誉れ高い人物が八人以上出現しているので、この放射道路の名称にも何度か変遷がある。


 これと同様に王都の外壁を守る王都八門にも過去の功績著しい軍人や政治家の名が冠されているが、やはり何度かの名称変更が実施されている。

しかしその中でも王都の大正門たる南門の名称はその創設以来変わる事無く「ヴェサリオ門」である事は言うまでも無い。


更に付け加えると、ヴェサリオ門の反対側……王都北門は、その恋人であり、その後の王国草創期において王国の基礎を築いた「国母」の名が冠された「ユミナ門」である。


****


 ルゥテウスとノンが王城前広場を南東方向から西側へ横切るように歩いて行くと、徐々に王城の城壁が視界の右側に流れて行き、ついに城壁に隠れていた灰色の塔の基部が見えて来た。


この灰色の塔から見てやや南南西にある一号道路と南西門へと続く「ネイラー通り」の交差点には内務省庁舎が建っており、裏で暗闘を続ける両者の間は徒歩でも五分という距離しか無い。


そしてその両者の仲を掻き回す《青の子》の王都支部もこのネイラー通りで繋がっている事は先程述べた通りだ。


一説によると、この内務省庁舎の位置は元々はヴェサリオが去った後に王国政府側が「灰色の塔を見張る為」に決められたとされており、過去にも王国政府と魔法ギルドの関係の針が険悪な方向に振れるたび、この徒歩五分の距離の間で両者の暗闘が繰り広げられて来た。


「ふむ。やはり灰色の塔の側から内務省に向かってマナの気配が伸びているな。

俺のチンケな傀儡呪で踊るナトスが仕掛けた『ちょっかい』に魔法ギルド側もイラついているのかな。

いやいや。これは俺のせいじゃなく……我らが統領様の考えた策謀を実行している監督の手腕が凄いんだろうな。くくく……」


歩きながらもルゥテウスはそう呟きながら……おかしくて仕方が無いというように小さく笑い続けている。


「そんな危ない場所に行って大丈夫なのですか……」


後ろを歩くノンは店主が「灰色の塔を見物する」と言い出してからずっと不安そうだ。彼女はイモールやラロカ、ドロス程では無いが魔法……魔術師の振るう力に対して恐怖と警戒を抱いている。

むしろ目の前で暢気に笑っているこの強大な魔導師に寄り添って来た時間は前述の三人よりもずっと長く、この店主を通して魔法に対する理解度は彼女の方が上回っている。


「まぁ、俺達は内務省の職員じゃないしな」


ルゥテウスの笑いを含んだ物言いは尚も他人事のようだ。

実際に彼らの……もう十年近く続くこの暗闘は、元はと言えばこの店主が傀儡にした内務省のエリート官僚に「有る事無い事」吹き込んだ挙句に突っ走らせた結果の出来事なのだ。


しかし、そのおかげでキャンプと難民達は彼ら両者からの直接的な疑惑の目から逃れる事が出来、その後も発展を続け……そして王国と灰色の塔に知られる事も無くアデン海の向うに「自分達の国」を創る事が出来た。


ドロスは今でも自らこの暗闘の監視と分析で陣頭指揮を執っており、彼が定期的に送って来る情報では暗闘は今尚……むしろ首謀者であるナトスの内務省内での地位上昇に伴って更に深まっているようだが、未だに死者は出ていないようだ。


ルゥテウスがこれを「子供の喧嘩」と他人事のように見て笑っているのはこの暗闘が生み出す実害がそれほど大きくなっていないからであった。


「でも……国のお役所と魔法ギルドって、頭の良い人達なのにずっと喧嘩を続けているのですね」


ノンの言い様もかなり暢気な部類に入るが、実際にこの暗闘は相当な深度で行われているので部外者が見ても「両者の関係が悪化している」という事実すら気付かせない。

その最前線で何が行われているのかは、ドロスのように絶えず監視している者でない限り実態を掴めないのだ。


つまるところ、この両者の対立はルゥテウスが創り出した「幻想」に乗っかってシニョルの薫陶を得たドロスが引っ掻き回しているだけの「小競り合い」なのだが、シニョルの考え出した手法が余りに巧妙且つ辛辣なので、両者共に「底の見えない泥沼」に引き摺り込まれているのだ。


 二人は漸く灰色の塔の入口がはっきりと見える場所までやってきた。

灰色の塔の基部……つまり一階部分は直径30メートル程の円形で、これを基礎として全体の重量を無理なく支える為に上階に向かって少しづつ狭まっている構造になっている。


最上階の総帥の居室のある七層部分の広さは直径10メートル程でかなり狭くはなっているが、その軒高は実に地上から80メートルにも達しており、「世界で最も高い高層建築物」の名は伊達では無い。


そして一般には知られていないが、灰色の塔の地下は五層構造になっており、それを含めると全体で12層の構造となっている。


地下には膨大な蔵書や道具の保管庫と魔術の訓練部屋があり、塔の構造に負担を掛けるような重量物である書籍等が万が一の事故によって地上、特に隣接する王城に影響を与えないように配慮がなされている他、逆にその重量物である書籍庫が最下層の三層を占める事でキャンプやトーンズのように鉄筋やコンクリートを使わずに、石と漆喰で固められただけの高層建築物の基礎を安定させる役割も持っている。


一層目……つまり入口から入った一階は意外にも外部の者に開放されており、ギルドの許可を得て貴重な薬材や触媒等を販売する売店やギルドへの依頼を受け付ける為の窓口や面談する個室などが設けられている。


但し、その一階に入る為には「一対の女神像」が見守るこの塔唯一の出入口を通らなければならず、ギルドに害意を持って侵入を図る者はこの入口で弾かれてしまうという仕組みだ。


「あれが入口ですか……?大きな女の人の像が綺麗ですね」


 「一対の女神像」はこの塔が築造された時から入口を挟むように置かれており、これを造ったヴェサリオの後の時代にも三度現われた「賢者の知」を持つ「黒い公爵さま」によって像の持つ力が重ねて強化され、ヴェサリオが造形した際に着色した顔料さえも強力な魔力によって往時の状態が保たれている。


一対の女神像に対して感想を述べるノンへ説明するかのように


「右側の赤いローブを着た像が、この世界に魔導を生み出した『大導師リューン』だ。そして左側の黄緑色のローブを着たのが魔術を創り出した『漆黒の魔女ショテル』だな。別にどうでもいい事だが、二人共俺の先祖だ」


と、ルゥテウスが苦笑を交えて話す。


「え!?ルゥテウス様の御先祖様なのですか?」


ノンが驚いて聞き返すと


「そうだな。大導師は今から33000年前、漆黒の魔女は11000年前の人物だ」


「さ……三万……」


ノンは絶句した。ルゥテウスの血統についてはその昔、ソンマが文献で読んだ内容を語った事あり、それによると「黒い公爵さまのような凄い力を持った者がこの王国が誕生する前よりもずっと昔から時々現われて」と言うものであったが……流石に33000年という数字は想像すら難しい。何しろ自分はまだ生まれて25年しか時間の流れを経験していないのだ。


「ルゥテウス様は……なぜそのような大昔の御先祖様について御存知なのですか?

私は自分が生まれる前に亡くなっていた祖父や祖母の事すら殆ど知りませんのに……」


「まぁ、それはもう『憶えている』としか言い様が無い。お前や他の『普通の人々』が自分の祖先を憶えていないと言うのは別段おかしな事では無い。おかしいのは俺の一族だけなのさ」


ルゥテウスは更に


「あの像もな……あれを造ったヴェサリオも自分の記憶の中にあった自分の先祖の姿をそのまま……実に精巧に作ったもんだ……やはり本人に瓜二つだ」


目を細めて一対の女神像を眺めている。その二体の女性の表情はまるで生命を与えられたかのように美しい顔で微笑んでおり、その間を通る者を見下ろしている。


「あの赤いローブを着た……大導師の像だな。あの像には俺の『おせっかいな』先祖が繰り返し《魔法探知》の付与を施していて、あそこを通ろうとする者に掛けられた魔法を簡単に見破ってしまう」


「え!?」


「そして黄緑色……漆黒の魔女の像。あの像には同じように《術式解除》の魔導が施されている。下を通る者に掛かっている魔法や呪術を見境なく解除してしまうんだ。

まぁ、お前の髪飾りのように物品に掛けられた付与は解除されないがな」


「そ、そうなのですか?」


「うむ。あの像の二人が生きていた時代には《術式付与》という概念が存在していなかったからな。皮肉な事に彼女達が『物に魔法を込められる』という事を知らなかったように、あの像の持つ力も『術式付与品』には及ばないんだ」


ルゥテウスは軽く笑った。


「あの……あの像の力というのは、ルゥテウス様のお力よりも強いのでしょうか」


話を聞いていたノンはふと思い付いた疑問を口にした。


「ふむ……。以前にも監督とその話になったのだがな。俺があの二体の像の間を通る時……それは『黒き福音』ヴェサリオとその後の三人の『黒い公爵さま』……併せて四人と俺一人の力比べになる」


ルゥテウスは少し表情を引き締めて話す。

この大陸の魔物を追っ払った黒き福音と……その後何度か現われて王国の腐敗を押し流した黒い公爵さま……。

そんな連中とルゥテウス一人の力を比べるとは……。

大人になってすっかり落ち着いたノンだが、その話を聞いて久しぶりに震えが止まらなくなった。


「そ、そんな……そ、それではやはりルゥテウス様は近寄らない方がいいのでは……」


「うーん。俺自身は正直全く太刀打ち出来ないとは思っていない」


「え……そうなのですか?」


「やってみないと判らんが……」


仮にルゥテウスの力を二体の像が上回った時……彼が一番困るのは既に覚醒直後から十年に渡って自身に掛けている《変装》の魔導が解けてしまい、衆目に《賢者の黒》を晒してしまうことである。


「発現者の証」である賢者の黒……それも代々の「黒い公爵さま」のように髪だけ、両瞳だけではなくその両方を……よりによって魔法ギルドの本部入口で晒すのである。

これは確実に「血脈継承者」を表す動かしようも無い証拠となり、それに連動して


「では今のヴァルフェリウス公爵家の後継者に『据えられている男』は何者なのか?」


という深刻な疑念を引き起こす。ヴァルフェリウス公爵家の嫡出偽計に対しては既に30年以上も前から「だんまり」を決め込んでいる魔法ギルドにとっては内部で緘口令を布くのは容易だろうが、現在の灰色の塔は皮肉な事にそのルゥテウスとドロスの暗躍によって内務省内の一派に厳重な監視を受けている。


 ルゥテウスの髪と瞳の色が灰色の塔入口で暴露されるというのは、現代社会においてはかなり大きなリスクを伴う出来事なのだ。

この事に気付いているのは当然ながらルゥテウス本人のみで、今の話を聞いたノンも実はそこまで深刻に考えていない。


精々、自分の髪を飾っているルゥテウスから貰った美しい髪飾りに付与された魔法が解けて、元のみすぼらしい黒ずんで擦り切れている赤いリボンに戻ってしまう事を気にしたくらいで、それもどうやら「付術品には影響を及ぼさない」と聞いて少し安心しているくらいだ。


ルゥテウスの正体が知れた時……魔法ギルド、それに救世主教はどのような態度に出るのかはルゥテウス自身にも解りかねている。

「公爵家の偽物息子の化けの皮が剥がれる」のと「髪も瞳も真っ黒な本物の発現者が塔の入口に突然現われる」とでは、彼らにとって受ける衝撃が別次元の話になる。


既に魔法ギルドの首脳であるラル・クリースが多少危惧しているように、今までの歴史的な経緯からして


「現代、この時に黒い公爵さまが顕現した場合……間違い無く政府各省庁に巣食っている大貴族家は綺麗さっぱり抹殺される」


という事態はまず予想できる。(さき)の黒い公爵さまが「お隠れ」になられてから、既に700年もの歳月が経つ。

その間に往時を忘れた愚かな貴族連中が政府機関を私物化して利権を欲しいままにしている。


これらの愚かな政治閥貴族は末端に至るまで族滅されることは間違いない。


そして次の懸念が、当のヴァルフェリウス公爵家の正統を脅かしている公爵夫人の存在と、彼女を送り込んで来た実家のノルト伯爵家に対する「本物」からの制裁だ。


ノルト家は前述の政治閥貴族として財務省を100年に渡って私物化している。

この時点で彼の家には黒い公爵さまの怒りが真っ先に向くのだろうが、それに加えて自らの実家(公爵家)にまで害を与えたという事で制裁が更に苛烈になる恐れがある。


そして問題はこの事実を魔法ギルドや救世主教の宗山が「静観していた」事だ。


こうなると両組織に対して責任を問う形で発現者が報復(八つ当たり)してくる可能性すら考えられる。

実はこの事をラルは一度ならずとも考えた事があり、その際の対応について現在においても時折苦慮することがあった。


彼は公爵夫人が嫡出を偽っている「二人の息子」の存在については当然認識しているが、その他にどうやら「公爵の子がもう一人居る」という情報を掴んでいる。

しかし、その「もう一人の子」が現在どこに居て何をしているのかまでは把握出来ていない。


当主であるジヨームの年齢が既に老境に差し掛かっている為に、不測の事態が起きた際に備えて「もう一人の子」の行方を把握しておきたいのだが、何しろその存在が知れた「シーナ王女との婚姻運動」について魔法ギルドは全く「蚊帳の外」であった為、当人の詳細が判らないのである。


更に言えば、十年前に起こったその運動については公爵本人がどういうわけか、あっさりと取り下げてしまった為に、一時は


「公爵は自身とは無関係の子供を『王配候補』として送り込もうとしたが、その陰謀が露見しかかったので断念した」


という噂が上流社会を(まこと)しやかに流れた程であった。


貴族(上流)社会では、既に「もう一人の子」の存在については忘れ去られた格好になっているが、魔法ギルドの上層部においては未だにその存在を確信しており、ラル導師長の密命によって捜索は続けられている。


しかしここでもやはり厄介なのはルゥテウスの《傀儡呪》とドロスの攪乱によって魔法ギルドに敵意を剥き出しにしている内務省私領調査部次長のナトス・シアロンの存在である。


彼の放っている多くの密偵によって魔法ギルドと灰色の塔は厳重に監視を受けており、ラルが直々に命じている「本物の公爵家後継者」の捜索は難航していた。


何が「厄介なのか」と言うと、この監視を主導しているナトスが「私領調査部」という拝領貴族に対応する部署の実務を掌握している人物だという事実だ。


本来ならば私領調査部に属するナトスが魔法ギルドに対して疑義を挟むというのは「縄張り違い」であるはずだ。

しかしその門外漢であるはずの私領調査部次長が魔法ギルドの監視を執り仕切っている為に、万が一「もう一人の子」を魔法ギルドが秘密裡に探していると事実が知れた場合に彼本来の縄張りである「対拝領貴族」としてヴァルフェリウス公爵家に疑念を生じさせてしまう事になる。


事実、ナトス本人はこの魔法ギルドへの監視を始めた理由の一つが、彼らが仕掛けて来たヴァルフェリウス公爵夫人の私有地で保護されている難民収容施設への調査であった。


ルゥテウスによって記憶を改竄された内務省の監察班は、この「別段特筆すべき事象は存在しなかった」という「空振り」とも言える調査結果によって魔法ギルドの蠢動に疑念が生じたのである。


王国政府の捜査機関である内務省の、それもよりによって貴族を取り締まる部署の責任者であるナトスに疑いを向けられているという事情が魔法ギルドにとっては「痛し痒し」なのだ。


「それにしても……この塔は本当に高いですねぇ」


ノンは頭を首の可動が許すまで目一杯上に向け、それでも足りずに体を少し後ろに反らせていたがひっくり返りそうになりルゥテウスに抱き抱えられていた。


「す、すみません……」


ノンは顔を赤くして店主に侘びたが、彼は一向に気にする事も無く


「一階はさっきも言ったように誰でも入れる。まぁ、疚しい気持ちがあって何か魔法で小細工でもしてない限りはな」


ルゥテウスは笑いながら説明を続ける。


「二階と三階は魔術と錬金術を学ぶ為の階層だ。店長も嘗てはそこで学んだのだろうな。彼は錬金術師だから二階かな」


「そうなのですか?」


「元々、魔法ギルド側は店長やサナのような『素養のある子供』を能動的に探しているわけでは無い。卒業生……特に錬金術師や魔術を習った占い師が世界中に散っているからな。

そういう連中が『近所に住む神童』みたいな子を見に行って、その素養が感じ取れたらその保護者に王都行きを勧めるわけだ」


「なるほど……ソンマ店長もそうだったのでしょうか」


「いや、店長の場合はどうやら昔の《赤の民》をやってた頃の支部長……今は首相か。彼が『頭が良くて性格が鷹揚』だったという理由で灰色の塔に相談しに行かせたらしい。あそこの一階にはそういう相談を受ける場所もあるんだ」


「そうだったのですか」


「そんなやり方で集めているから、『生徒』の数は毎度一定じゃないんだ。それに十年も修行して魔術師や錬金術師として『使える』という奴は半分にもならん」


「え!?」


「魔術師の腕が評価されて灰色の塔に残る奴もそれ程居ないし、店長のように錬金術師としてギルドから独立して工房を構える者なんてのも毎年一人か二人居れば良いくらいだ」


「そうなのですか……」


「まぁ、それでも多少は魔術を使える奴はやはり独立して探偵や占い師をやったりしているし、残念ながら修行をしても魔術や錬金術を使える程になれなかった奴でも『魔法ギルドで学んでました』ってことで働き口はいくらでもある」


「政府の各省庁の中にもそういう『落ちこぼれ』が中途採用で入っているんだけどな。内務省にもそれなりに人数は居るはずだ」


「では、あの昔捕まえた人も……危ないんじゃないですか?」


ノンはナトスの身を案じて言った。ルゥテウスの話が本当であれば内務省内にも「灰色の塔の息が掛かった者」が居ると思われるからである。


「どうだろうな。確かに内務省内にもそういう奴が居るだろうが、あのナトスについては監督も見守っているし、何よりもシニョルの『やり方』で事態を引っ掻き回しているからな」


ノンの心配を余所にルゥテウスは笑い出した。


「統領様のですか?」


「うむ。彼女が監督に仕込んだ『やり口』の恐ろしいところは、味方の中にもどんどん不審と警戒を引き起こさせて行ってそのうちあちこちで敵味方のグループが量産されていくところなんだ」


「え……?」


「つまり当事者達は敵味方関係無く疑い深くなる。そうなると内務省の中に居る魔法ギルド出身の連中ですら「魔法ギルドを疑い出す」というややこしい事態になっていくんだよ」


「ええっ……!?」


ルゥテウスの説明を受けたノンは混乱気味だ。傍からこうして説明を受けている彼女ですら混乱するのである。当事者達の精神的混沌は推して知るべし……であろう。


「こんな立派な……凄い場所に居て魔術も使えるのに……」


「まったく……我らの統領様は普段は大人しいように見えるんだけどな……」


一国の元首となった今でも公爵屋敷の奥館で質素に暮らし、時折自分の国に帰ってアイサの作った甘い物を嬉しそうに摘んでいるシニョルを想像してルゥテウスは苦笑した。


「もし何なら、俺はここで待ってるからお前だけでも塔の一階に入って見物してくるか?」


ルゥテウスの勧めに対してノンは首を振る。


「私は……あまりあそこと関わり合いには……」


困惑した表情で話すノンを見て笑いながら


「そうか。まぁ、奴らに対しては離れた場所からこうして眺めているのが一番面白いわな」


と、ルゥテウスは当事者達が聞いたら怒り狂いそうな言葉を口にした。


「さて……それじゃ学校を見て帰るか」


「ルゥテウス様が通われるという学校ですか?」


「そうだな。この国には最高学府である高等教育機関……つまり学校だな。それが二つある」


「ルゥテウス様は軍人の学校に通われるのですよね?」


「そうだな。軍隊の指揮官を養成するのが王立士官学校。それとは別にさっきまで話していた内務省や他の行政官庁を動かす官僚を養成するのが王立官僚学校だ」


「何だか難しそうですね……」


そう言うノンは別に無学な者では無い。


それどころか、薬学に関して言えばこの王都でも彼女の知識量に敵う者が果たして居るのかと疑うようなレベルだ。


恐らく彼女にレインズ王国民としての国籍があって官僚学校に進んでいれば、今頃は首席卒業者である「ダイヤの指輪」を与えられた上でどこかの省庁で少壮のキャリア官僚として辣腕を振るっていた可能性すらある。


以前は臆病だった性格も克服した彼女はルゥテウスの前に居ない時はそれなりに「頼りになる凄腕の女店長」としてキャンプはおろかサクロにおいても高い名声を博しているのだ。


「王立官僚学校は……ほら。あそこの赤い建物が小さく見えるだろう?あれが本校舎だと思う」


ルゥテウスは後ろを振り返り、この灰色の塔の前から辛うじて見える環状一号道路とアリストス通りの交差点という官庁街の中心地に建つ赤い建物を指差した。


「随分立派な建物ですね」


「いや、俺も現代の本校舎の形はあまり知らんが、どうやら同じ場所に赤い建物があるから、あれだろうな。昔から官僚学校の本校舎は赤い建物なんだ」


「そうなんですね」


「俺が通う予定の王立士官学校は城の裏手側……まぁ、北側だな。北側に集まっている軍関係の施設の中にある。ここからだと一号道路でぐるっと城の裏側に行かないとな。30分くらい歩くけど大丈夫か?」


「はいっ」


ノンはルゥテウスとの王都散策がまだ続く事が嬉しいようだ。


「じゃ、行こう」


二人は灰色の塔の更に西側にある環状一号に向かって歩き出した。


「こちらの方にはあまり人が歩いていませんね」


一号道路に出てから灰色の塔の西側を抜けて王城の裏手に向かう道すがら、ノンが感想を口にした。


「広場の側にはまだ一般市民が居るからな。こっち側は城を囲むように軍関係の施設ばかりが並んでるんだ」


 王城の北側は環状一号道路を挟んで王都防衛軍本部、王都方面軍本部、近衛師団駐屯地等、王城の背後を守るように軍施設が続いていた。その中でも王立士官学校は王城裏門と王都北門(ユミナ門)とを結ぶ「ケイノクス通り」と一号道路の交差点にあり、ケイノクス通りを挟んで軍務省庁舎と並んでいる。


つまり王都裏門のから最も近い区画を軍務省庁舎と共に占めており、その黒い建物部分と建物の裏に広がる訓練施設を併せてかなりの敷地面積がある。

王立官僚学校とは違って正門には軍服を着た警衛が立っており、訪れる者……更にその前を通る者にも厳しい視線を浴びせている。


「ず、随分と怖い感じがしますけど……」


ノンが不安を口にすると


「まぁ、一応は軍務省直轄の教育機関だからな……。あの門をくぐるとそこから先は貴族や平民の区別は無くなるんだ。

あの中では貴族の爵位は関係無く、軍における階級と学年、席次の順番だけがモノを言う世界だ」


「そうなんですね……」


「昔は全寮制で、寮もあの中にあるから一度入学すると私用であの門の外に出れるのは月に二日くらいしか無かったようだ。

今では全寮制は廃止されたから、それ程窮屈では無くなったようだがな」


「やはりちょっと怖いですね……」


「そうは言っても男女比率で例年六対四くらいだから女生徒もかなり居るぞ」


「そうなのですか?」


「まぁ、官僚学校に比べればその比率は低いけどな。女でも軍に入って出世している奴だって居る。

将官にまで出世して爵位を貰った奴ですら長い歴史の間には沢山存在しているからな」


「女性なのに……凄いですね……」


「この国はそういう意味では平等ではあるな」


 女性でも軍人として出世出来得る道があると聞いてノンは驚いていた。

確かに、ルゥテウスの話でもあったようにレインズ王国は男女の性差に対して目立った差別は少ない。


特に官僚の世界では現在では内務省渉外室長補にまで出世しているエリン・アルフォードのように、官僚学校を出た女性キャリア官僚が出世を重ねて最終的に省庁のトップである「諸卿」の地位にまで上り詰めた女性も歴史上で何人も存在する。


官僚に比べて、やはり体力差で不利が出てしまう軍においても官僚程では無いが将官に上って一軍を率いたり、大型艦船の艦長や提督になった女性すら存在するのだ。


ちなみに、貴族家の当主となる女性も数は少ないが存在する。

但し女性当主の場合は原則として後継者に男性を立てなければならず、女性当主が二代続く事は無い。

女性当主の家に女児しか生まれなかった場合は婿養子を取って継承させなければならないので、その部分だけが平等性を欠いている。


しかしその制度にも例外が存在する。それは世襲公爵家として建国法でその身分が保証されているヴァルフェリウス公爵家で、この家においては女性当主から女性後継者への世襲が認められている。

記録においても女性から女性への世襲が歴史上で三度実施されており、この家だけが「名」ではなく「血脈」の継承を重要視されている証左であろう。


 入学前からあまり顔を見られたく無いルゥテウスは、ノンと会話を交わしながら帽子を深目に被ってやや足早に士官学校の正門を通り過ぎた。

その態度が却って怪しまれるかと思われたが、門の警衛は彼らを目で追う事無く真っ直ぐに門の前を通る一号道路を睨み付けたままであった。


「さて、どうやらあの辺りも建物はあちこち建て直されて居たが全体的には様子は変わって無かったな。道に迷う事も無いだろうから、このまま帰るか」


「はい」


昼下がりに王都を訪れ、既に四点鐘(15時)が鳴ってから大分経っていた。

ノンはルゥテウスと二人だけの王都観光を名残惜しんだが、そろそろ店に戻らなければならないと思い、諦めることにした。


ルゥテウスも約700年振りに王都の中心部が自分の持つ「記憶」とそれ程変わっていない事を確認出来たので当初の目的は果たせたようだ。


二人はそのまま王城区画を一周りし、元の四号道路沿いにある《青の子》の偽装菓子屋に戻り、今日も菓子の在庫を売り尽したというシルの報告を受けてから二階の転送陣で藍玉堂に戻った。


「お帰りなさいませ。王都は如何でございましたか?」


ソンマの妻となり、すっかり大人になって言葉遣いも改まったサナがノンに尋ねると


「そうですね……やはりサクロよりも賑やかですし、歴史を感じます。サクロの建物は凄く立派ですが、まだまだ若いという印象ですね」


「なるほど」


「サナは王都に行った事はあるのか?」


ルゥテウスが尋ねると


「いえ……先生があのような事情を抱えてますから……」


サナは苦笑した。彼女は夫であるソンマを「先生」と呼ぶ。


「あぁ、そうか。店長は王都に行ったら危ないな。俺の付与した飾り紐があるから探知はされないだろうが、直接顔を見られてバレる可能性があるしな」


「はい。先生も同じような事を言っておりました」


「まぁ……正直そこまで見所がある場所とは思えないけどな……単に俺の記憶の中で見飽きているだけかもしれんが。お前だけでも行きたければ、時間が空いている時にノンと行ってくればいいじゃないか。

ノンも今日で随分と王都には詳しくなっただろ?」


ルゥテウスが笑いながら言うと


「いえ……私もそこまでは……」


困惑しているノンに


「せ、先生っ!私も行ってみたいですっ!」


サナと一緒に店番をしていた三人娘の一人が目を輝かせながら師にせがむと、他の二人も「私も!」「私も!」と騒ぎ出した。


「そうだな。お前らも休みの日にでも一緒に連れて行って貰え。但しあんまりはしゃいで先生を困らせるなよ」


ルゥテウスが苦笑しながら許可を出した。その言葉を聞いて三人共大喜びで踊り出していた。


「そんな……いいのでしょうか」


困惑するノンに


「いいじゃないか。彼女達にはもっと色々な場所を見せるべきだ。そしてそれはお前にも言える」


「えっ?」


「俺はお前と十年も一緒に居ながら、お前が今日まで領都とキャンプ、それに時々サクロに行くだけの人生を送っている事に気付けなかった。

もっと早いうちからお前を色々な場所に連れて行っておけば良かったと後悔している」


ルゥテウスが珍しく申し訳無さそうな顔をして言うのでノンは驚きながら


「そ、そんな……ルゥテウス様がそのような気を遣われる事はありません。私はルゥテウス様のお側でお仕えできるだけで幸せですから……」


ノンは自分で言っておいて、咄嗟に口からでた言葉に対して顔を赤くしながら俯いている。

ルゥテウスはそれを見て笑いながら


「そうか。まぁ、俺は学校で忙しくなるからな。今日のように俺が連れて行くのは難しくなるが、お前は見分を広げる意味で色々な場所に行ってみるといいぞ」


「はい……」


ルゥテウスは今のノンとの会話を聞いてニヤニヤしているサナに


「ところでお前達夫婦がそれぞれ研究している件についての進捗はどうなってるんだ?」


サナは突然ルゥテウスから尋ねられてビックリしながらも


「あ……はい。私の方は……漸く量産化が出来るかと……」


「ほぅ……。安定してきたと?」


「そうですね。最初は水を抜くのが難しかったのですが……」


「一日でどれくらいの量を造れそうなんだ?」


「100キロくらいは……」


「おぉ。凄いじゃないか。サナの腕も随分上がったな」


ルゥテウスが笑うとサナは照れながら


「店主様や先生が色々教えてくれたからです。最近はノン様の教えも凄く参考になります」


 サナが一人で取り組んでいるのは新たな燃料の開発である。

彼女の「炭作り」は質を突き詰めた結果、最後は《遅燃強化》による薪材からの炭作りでは無く、出来上がった高品質の炭に対して更に《形質変化》を掛けて行き、「木炭」を「石炭」に変えるという方向に進化していたのである。


石炭という資源は前文明時代において石油と同様、地殻表層部分に埋蔵されていたものはほぼ採掘されつくしており、現代には「記録上」だけの資源であった。


自身の日課であった木炭造りの質を高める事を目指していたサナはルゥテウスやソンマからのアドバイスによって、この太古に枯渇した燃料の錬成に取り組む事となった。

取り組み始めた頃はやはり失敗を繰り返していたが、数ヵ月間毎日続けて行くうちに徐々に石化が起き始めて一年も経つ頃には低質ではあるが石炭化に成功していた。


ソンマの文献を基にした助言ではここまでで精一杯だったが、更にルゥテウスの助言によって今度はこの低質の石炭から水分を抜きつつ炭素比率を増やす事で無煙炭を精製する事に今は取り組んでいる。


トーンズ国のあるエスター大陸は北サラドス大陸に比べると全体的に温暖で年間に渡って過ごし易い気候ではあるのだが、やはり大戦争の影響によって地表の植物相がすっかりと改変されてしまい、森林資源に乏しいという弱点を抱えていた。


今後の工業化拡大の事を考えると、木炭よりも熱効率の良い燃料資源の確保は必須の課題で、天然の化石燃料が枯渇しているこの世界においては錬金術による形質変化を基礎とした新燃料の開発は国を挙げて行う必要がある。


サナは錬金術師として魔法ギルドで教育を受けたわけでは無いが、ソンマという形質変化の分野における天才を師として15歳という異例の遅さで錬金術の修養を始め、毎日を実践的に過ごす事で十年経った今では上級錬金術師の域に到達していた。


また、彼女は他の燃料開発も並行して行っており、それは植物由来のアルコール生産である。

このエスター大陸で育つメイズの茎や、甜菜の代りに栽培を始めた「甘蔗」、いわゆるサトウキビの糖蜜を搾った後の残滓を利用する事で、既に街灯の燃料を代替するまでに至っている。


こちらの研究にはノンから学んだ薬学の知識が大いに役立っている。

このアルコール生産にまで至る研究成果は言わばサナとノンの共同作品のようなものであった。


「先生の研究もかなり進んでいるようです」


「そうか。あいつはもうすっかり自然科学の分野に行ってしまったな」


ルゥテウスが笑うとサナも苦笑する。

ソンマは一応今でも「藍玉堂店長」なのだが、製薬に関してはすっかり妻に任せっきりで、今では石油から様々な物質を抽出する研究に没頭するようになってしまっている。

いみじくもその昔、ルゥテウスがイモールやノンに語ったように、彼は錬金術を「薬品調合」では無く「物質転換」や「形質変化」の分野に傾倒させていた。


 彼が最初にこの研究に入るきっかけとなったのが、ルゥテウスからもたらされた石油からキャンプの街灯で使用する液化石油ガスを抽出する際に、その純度を上げようと試行錯誤していた中で、そのうちガスの中に「燃えない気体」が含まれている事に気付いた。


そもそも石油という資源そのものが石炭同様、前文明時代に枯渇していたと「される」物質であった為、残されている文献にも「そういうものがあった」としか記載されておらず……。

その精製自体が既に現代においては「先人が居ない」、ソンマ自身による先端研究となっており、この燃えない気体の発見は彼も当初はそれを持て余す事になっていた。


しかしソンマにとって幸いな事に、彼のごく近い距離に「魔法ギルドですら鼻で笑う」という彼にとっては「知識の神」とも言える人物が居り、彼はその気体の正体を当然知っていた。


「それはな。前文明時代では『ヘリウム』という呼ばれていた物質だ」


「ヘリ……ウム?」


ルゥテウスは額に皺を寄せて考え込む店長とその弟子に


「しょうがない。実演してやる」


と、苦笑しながらガス抽出の時に使った先端に金属の小さな蓋の付いたガラス瓶を置き、まずは原油から液化ガスを取り出した。

彼の採り出すガスはかなりの高精製品なのだが、それでもまだ不純物が混じっていると言う。


「このガスの中にはな、まだまだ多くの物質が混じり合っている。ここから更に特定の物質を取り出すのはもう一段上の錬金技術が必要だな」


そう言うと更に同じ小瓶を取り出し、ガスの入った瓶と並べた上でルゥテウスは目を閉じた。

すると空の瓶の中に元の液化ガスと似たような無色の液体が少量出現したのでソンマとサナは驚いた。


「これがヘリウムだ。お前が言ったようにこいつは不燃性でな。大気よりも軽いという性質を持つ」


「か、軽い……とは?」


「しょうがねぇな……」


ルゥテウスは笑いながら少し大きめの袋を出した。そしてその袋をヘリウムの入った小瓶の口に着いている小さな鉄の蓋に被せて蓋を緩めると、袋の中に気化したヘリウムが入って行き、袋はみるみるうちに大きく膨れ上がった。サナはこの様子を見て本能的に後ずさる。


袋が限界まで膨らんだ事を確認したルゥテウスが再び目を閉じると、袋の口の部分は元々そこに「口が無かった」かのようにびったりと閉じて紙のような材料で造られた袋は球状になった。


「いいか?見てろよ」


ルゥテウスが袋を離すと、袋はそのままゆっくりと天井に向かって上昇してそのまま天井にぶつかって落ちて来なくなった。


「え?え……?う、浮いてる……?」


ソンマが「風船」を見上げながら驚きの言葉を発している。サナも天井を上にして「転がっている」風船を見て口を開けたまま茫然としている。


「こ、これは……どういうことなのですか?」


「つまり今この空間を満たしている大気よりも軽いヘリウムは大気の中では上に浮いて行ってしまうんだ。まぁ、大気の中にも実はごく微量ながらヘリウムは含まれているんだがな。

この場合は周囲の大気と混合せずに袋の中に纏まった量のヘリウムが留まっているからその容器である袋ごと宙に浮いてしまうんだ」


「な、なるほど……」


「このヘリウムはな、やはり前文明時代には色々と利用されていたのだが石油同様に枯渇してしまってな。恐らくそう言った理由で現在に残る文献にもその存在が記されていないと思われる」


「そうなのですね……。私もこのような物質は灰色の塔の文献では見た事がありませんでした」


「まぁ、そうだろうな。但し錬金術を使えば他の物質から転換できそうだがな」


「本当ですか!?」


ソンマは驚きの声を上げた。


「俺も絶対とは言えない。何故なら、前文明時代には『錬金術』は存在しなかったからだ。錬金術という技術がこの世界に産み出されたのは皮肉な事に大戦争によって前文明が徹底的に破壊されて、地表が一旦滅んだ後の時代……それも200年程後に出現した『漆黒の魔女』が魔術を編み出した時の事だからな」


「漆黒の魔女……ショテル様ですか……」


「まぁ、ショテルも魔術という技術の副産物で錬金術というものまで生まれるとは思って無かったようだがな。ははは」


ルゥテウスが笑い出すとソンマも苦笑する。


「とにかく、ヘリウムという存在が社会から消失した後に錬金術が生まれたのだ。

だから錬金術でヘリウムを造り出すという試みは全くなされていないのが現状だ」


「なるほど……解りました!私はこれからこの物質についてもっと研究を重ねてみたいと思います」


「そうか。それも良いかもな。何か解らない事があったら聞いてくれ」


「ありがとうございます」


 こうしてソンマは物質転換という錬金技術の研究に没頭して行く事になる。

そしてその結果、嘗てルゥテウスがイモールやノンに語ったように彼は錬金術師、そして科学者として歴史にその名を残す事になるのであった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。

王立士官学校入学に際し変名を使う。


ノン

25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務める。

主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。

主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。


ソンマ・リジ

35歳。サクロに移転した《藍玉堂本店》の店長。

戦時難民から史上初めて錬金術師となった男。主人公をして「天才」と評される。

嘗て自分が造った術符が暗殺組織《赤の民》に使用された為に魔法ギルドから追われる身となるが、主人公に救われて難民の為に薬屋を経営することになる。

弟子であったサナと結婚して夫婦で錬金術の研鑽を続ける。


サナ・リジ

24歳。ソンマの弟子であり妻。アイサの娘でキッタ、ロダルの妹。

14歳の時に主人公によって錬金術師の素養を見い出され、ソンマの下で修行を始める。

難民キャンプの燃料生産に情熱を燃やす過程で高い錬金技術を身に付ける。

現在はノンに薬学を学び、《藍玉堂本店》の処方箋調剤を担う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ