故郷での再会
今回から第三章に入ります。宜しくお願いします。
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ルゥテウスはキャンプにある藍玉堂に戻り、一階の作業場で三人の生徒に薬学と製薬を教えながら処方薬を作っていたノンに
「俺は今年の九月から王都にある王立士官学校に通う事にしたぞ」
といきなり言い渡した。
ノンも女生徒三人も、この美しい店主が帰って来早々……突然に宣告した事が咄嗟に飲み込めず唖然としていたが、いち早くそれを理解したノンが
「る、ルゥテウス様が学校に通われるのですか……?」
と驚きながら口にした。最近めっきり落ち着いた感のある彼女にしては珍しい事だ。
「そうだ。だから秋からの俺は学生だからな。昼間はここに居なくなるから承知しておいてくれ」
ルゥテウスは尚も軽い感じで話を進める。この辺りで「店主様が学校に通われる」という言葉が頭に入ってきた生徒がそれぞれ驚き始めて口々に騒ぎ始めた。
この女子三人がワイワイ騒ぎ出す様子にノンが
「静かにしなさい。あなた達が騒ぐと店主様のお話が聞けないでしょう?」
と叱りつけた。ノンも大人になったものだとルゥテウスは苦笑しながら
「いや、昼はここを空けるが授業が終わればここに帰って来るから、今までとあまり変わらんぞ」
「でも……ルゥテウス様が何を勉強されるのですか……?」
ルゥテウスと同年代である三人の見習い薬剤師は勿論、その師であるノンから見てもこの青年の知識量は常人とは隔絶しており、「この方が識らない事は何も無い」と言う印象でしかない。
ノンもルゥテウスの下で薬学の教えを受け始めて十年、その薬学知識は世界でも屈指の水準になっている。
今ではサクロに移転した本店の店長、錬金術師のソンマ・リジをも凌駕し、恐らくは王都の著名な薬材工房主や大学で教鞭を取ったり研究している薬学の泰斗、魔法ギルドの高位錬金術師にも引けを取らないはずだ。
そのノンをして、目の前に居る藍玉堂店主の持つ知識は尚圧倒的なのだ。
「あぁ、俺が習うのは『船の使い方』だ。それと、俺がまだ持っているレインズ王国の国籍をもう一度しっかりと確定させる為だな」
ルゥテウスはサクロで他の首脳に説明した内容を改めてノンに説明した。
どうやら彼の士官学校入学は自分達の将来の為だという事を彼女も理解し
「承知致しました」
あっさりと短い言葉で承諾した。作業台を囲む彼女の生徒達はこの不思議な若き店主に色々と話掛けたい様子であったが、師に私語を禁じられているので我慢している。
「ではこれからダイレムに行って実家の人々に話を通して来るんでな」
そう言い残すとルゥテウスは幼児の頃と同様に右手を振ってその場から消えた。
店主が姿を消すと、生徒達は一斉に口を開き始めて、今の店主の言葉に対して何やらワイワイ話し合い始めた。
「ほらほら。店主様も仰っていたでしょう?昼間だけ居なくなるだけで他は何も変わらないって。
あなた達は余計な事は考えずにまずは薬についての研鑽を重ねなさい」
ノンは手を叩きながら、うんざりした様子で生徒達に製薬実習を続けるよう言い渡した。
(ずっと逢えなくなるわけじゃない……)
と彼女自身は生徒達に気付かれないように自分に言い聞かせていた。
****
公爵領南西部にある港町ダイレムの下町で営業を続ける《海鳥亭》は常に満席で、時間によっては行列も出来る程の人気レストランだ。
ルゥテウスが《藍滴堂》の三階にある祖父ローレンの研究室に着いた直後に夜の鐘が聞こえてきたので、店も丁度「夜の営業」を始めたばかりだと思われる。
今回の『帰郷』において、《海鳥亭》の一家以外の者とは顔を会わせないようにしたかったルゥテウスは、営業が終わる時間までこの部屋で待つことにした。
彼が僅か二ヵ月とは言え、幼少期にあの店で暮らしていた頃の閉店時間は概ね22時前後であった。
閉店時間が決まっているのでは無く、仕入れた食材が無くなる21時過ぎには看板を仕舞って、店に残った客が全て退店するのが22時前後というわけだ。
ルゥテウスは久しぶりに訪れた祖父の研究室や、外からは鎧戸によって閉ざされた藍滴堂の内部を隅々まで綺麗にしたりしながら時間を潰し、21時を過ぎた頃に海鳥亭の二階住居部分にある自分が嘗て暮らしていた部屋に移動した。
無人の部屋に瞬間移動してから、明るい結界の下で嘗て二ヵ月という短い時間だが住み暮らした部屋を眺めてみると、現在は誰も使っていないと思われる部屋はきちんと掃除されていた。
南側の窓際に置かれた小さな机……五歳の自分が使っていた机だ……の上にはノートが一冊置かれている。
中を開いてみると母や祖父のノートを読みながら気になった点などが紙面いっぱいにびっしりと小さな文字で書き記されており、
(あの頃はまだ俺も封印が全て解けていない状態だったが、よくもまぁここまであのノートの内容が理解出来たもんだな……)
とルゥテウスは苦笑した。「あの頃」は自分の封印が一生解けないかも知れないと思っていたりして、その場合は祖父のノートから学んだ知識で藍滴堂を再建しながら「のんびりと」余生を送ろうとさえ思っていた。
あれから十年。封印が解けた自分は強大な力を持ち、身体も大きくなったが……その分背負う物も大きくなってしまった。
彼は自分が生来の「ものぐさ」な気質である事を自覚していたので、なぜそんな自分が、数万の人々の運命を背負い込む破目になったのか思案を巡らせるうちに
(まぁ血脈の発現者……公爵家の後継者として下らない「シガラミ」に縛られるよりは、こちらの「シガラミ」の方が面白いわな)
と、自分なりに変に納得してしまい再び苦笑を漏らす。
そうこうしているうちに、随分と時が経ったように思えたが階下の客が一向に減る気配が無い。彼の記憶では21時過ぎには料理が売り切れ、その後に手が空いた伯祖父が夕飯を持ってこの部屋を訪れる頃である。
勿論、その間も店の営業は続いていたが、注文は締め切られているので食事を終えた客は順次退店するはずであり、この時間に夕飯を食べ終えた自分は食器を一階に戻しがてら入浴するという生活であった。
しかし……階下から伝わる気配からはそのような客が動いている様子は感じられず、営業はまだまだ続いているようだ。
ルゥテウスは不審に思いながらも、寝具が取り払われた嘗ての自分が使っていた小さなベッドに腰を下ろして、階下の様子が落ち着くまで待つ事にした。
(おかしいな……?客が全く退く気配が無いぞ……)
ルゥテウスは今でも時計を持っていないが、封印が解けてそろそろ十年が経とうとする今は、時差のある地域を頻繁に行き来していたせいもあって、その地域の時間を脳内でほぼ完璧に把握する能力を身に付けていた。
これはその季節の空の様子……昼間は太陽の位置、夜は月や星の位置によって「今居る場所」の特定が可能となった為で、以前はノンに念話で何かの予定の時間になったら知らせるようにして貰っていたのだが、今ではそれも必要が無くなっていた。
ノンも近年は薬学の生徒を抱えるようになったので、ルゥテウスの秘書代わりをしている余裕が無くなってきたという事情もあった。
そのルゥテウスの脳内時計では既に22時を過ぎている。それでも階下ではまだ大勢の客で賑わっており、店は一向に閉店する気配が無い。
(何か団体の貸切予約でも入っているのか?ガキの頃の俺ならもうこのベッドで眠りに就く時間のはずなんだが……)
結局、客と思われる多くの人数が移動退出する気配が始まったのが23時過ぎであり、0時過ぎにはほぼ階下の客席からは人々の声が消えた。
昔と比べて営業時間が二時間程延びた事になる。
階下の様子を二階から窺っていたルゥテウスであったが、残り三人になってから再び人の動きが感じられなくなったので……いよいよ階下に降りて大伯父夫妻と十年ぶりに再会することにした。
****
ユーキは今年で57歳になっていた。元々が銀色の髪であったので白髪もそれ程目立つ事も無く、若々しい外見とがっちりとした長身の体格は以前のままであった。
「ジョー、掃除は俺がやっておくからお前は仕入れに備えて先に風呂に入って寝ておけよ」
「うん。分かった。じゃ後は頼むな。父さん」
ユーキが声を掛けたのは今年30歳になる一人息子のジョルジュである。
ジョルジュは三年前に王都でも名店として有名な「双頭の鷲」での修行を終えて実家の《海鳥亭》で働き始めた。
双頭の鷲では若くして副料理長候補にまで出世していた彼だったが、店主の遺留も丁重に辞退して帰郷した。
ちなみに、店主の女性は母ラミアの従姉でありジョルジュ本人にとっても従伯母という間柄になる。
母のラミア自身も嘗てこの双頭の鷲で働いていた時期もあり、彼女の菓子作りは王都の名店仕込みなのである。
ジョルジュは一旦部屋に戻って入浴後に着る部屋着を持ってこようと厨房から出て客席部分を横切り二階への階段下まで来たところで、何と上から人が降りて来た事に驚き
「なっ!?誰だっ!」
と声を上げてから、相手を見て驚愕した。
「なっ……!あ……あ、アリシア……従姉さん……そんな……」
ジョルジュは驚きの余り腰が抜けそうになり階段の手摺に掴まって辛うじて転ばずに済んだ。
彼が見た階上から降りて来る人物はもう15年も前……自分がまだ王都に修行に出る前に男の子を産んで亡くなった叔母の娘……嘗て自分の初恋の相手であった美しい従姉に生き写しだった。
ただ……自分の知っている、いや憶えている従姉とは髪の長さが……あの腰まで届いていた美しい金髪が、短く切り揃えられていたが……背の高さや、その顔貌は間違い無く自分が憧れたあの美しい女性そのものであった。
彼の後ろの客席で机を拭いていた母ラミアは、階段の下で腰を抜かしている息子の声を聞いて振り返り……そして彼女もその場で絶句してしまった。
「あ……アリシアちゃ……も、もしかして……ルゥ……ちゃん……なの……?」
漸く……辛うじて言葉を発した伯祖母に
「伯祖母上、ご無沙汰しておりました。そしてジョルジュさん、『お久しぶりです』と申し上げた方が宜しいでしょうか」
5歳になるまで封印されていたルゥテウス自身の記憶ではジョルジュと初対面なのだが、ジョルジュの方はルゥテウスが3歳になるまでダイレムに居たのでルゥテウスの幼少時を知っていた。
ルゥテウスの言葉を聞いてジョルジュも我に返り
「る……ルゥ……お前……ルゥなのか?」
ジョルジュが憶えている幼いルゥテウスは、右目が見えない……全く口を開かない幼児で、いつも義叔父のローレンに手を引かれてボーっとしていた印象しか残っていない。
しかし、目の前の階段から見下ろしているこの金髪の青年は閉じられていた右目も開かれて、その目にはあの従姉と同じ鳶色の瞳があった。
「ルゥちゃんっ!ルゥちゃんよね!?」
後ろで母が突然大声を出したのでジョルジュはビックリした。
ルゥテウスは階段を下りて来てひっくり返りそうになっていたジョルジュに右手を差し出してきた。
その手を取って助け起こされたジョルジュは、自分の従甥の身長が自分とそれ程変わらないことに改めて驚き
「ルゥ……お前……随分と大きくなって……目も治ったのか……?」
と漸く相手を「従姉の息子」として認識し、問いかけた。
「お陰様を持ちまして」
と笑顔で話す従甥に感極まって抱き着いた。
(この人もやはりユーキさんの息子だな)
と心の中で苦笑しながら
「ご無沙汰をしておりまして申し訳ございません」
と話すルゥテウスに
「しかし……アリシア従姉さんに……本当に瓜二つだ……」
と身体を離してジョルジュはしみじみと言った。
「ルゥだとっ!?」
と、また大きな声がして父ユーキが厨房から駆け寄って来た。
「お前……ルゥ……大きく……なったな」
ユーキは涙を流しながら、またしてもこの大甥に抱き着く。
ラミアも……彼女の燃えるような赤毛は色が抜けて白髪が混じってきていたが……
「ほ、本当に……ルゥちゃんなのね……」
と一緒になって抱き着いてきた。
大柄な伯祖父夫妻に抱き着かれながら、ルゥテウスはそれでも微笑んで
「お久しぶりです。只今戻りました」
と応えた。
「お前……いくつになった?あれから……何年になるんだっけか……」
ルゥテウスから身を離して落ち着いたユーキが尋ねる
「はい。あれから十年です。私も15歳になりました」
落ち着いて応える大甥に
「お前……しっかりと話せるようになったんだな……」
とジョルジュが驚いている。彼の両親はその言葉を聞いて
「ははは。ルゥはな。お前が憶えていた頃よりもずっと賢いんだぞ」
ユーキが笑いながら話すと
「そうよ!前にも話したでしょう?ルゥちゃんはね……特別な人なんだから!」
とラミアも嬉しそうに話す。
「伯祖父上、今夜はお願いがございまして……このような時間に失礼とは思いましたがお伺い致しました」
「おいおい!『伯祖父上』なんて堅苦しい呼び方しないでくれ!あの頃のように『オジさん、オバさん』でいいぞ」
「そうだな。俺の事も『ジョー』でいいぞ。ジョルジュなんて呼ばれたのはここ数年無かったわ」
とジョルジュも笑い出す。
「とりあえず、こっちに座りましょう。ルゥちゃん、もうお酒は飲めるの?」
「いいえ、伯祖母……オバさん。私は酒は嗜みません」
「そう。じゃお茶でいいわね」
そう言ってラミアはルゥテウスと夫、息子を客席の一組に座らせて自分は茶を淹れる為に厨房へと向かった。
ラミアも55歳になっているはずだが、既に今日は何時間も客席で働いているにも関わらずその足取りは軽い。
身長は既にルゥテウスの方が高くなっているのだが、彼女の若々しさは昔の思い出のままであった。
淹れた茶を配ってラミアも席に着いたところで、ルゥテウスは話を切り出した。
「オジさん、先程も申し上げましたが本日はお願いしたい事がございまして罷り越しました」
「うん。どうしたんだ?何か問題とかあるのか?」
大伯父夫婦は「あの晩」、遂に封印が解けて本来の力を取り戻したこの大甥が
「ランド家とヘンリッシュ家の無念を晴らす為に、『奴等』に償わせる」
と宣言して出て行った事を鮮明に憶えている。
「はい。『奴等』に関しましては後程報告致します。先に私の相談を申し述べさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「あぁ、うん。相談とは何だ?」
今や海鳥亭一家は再会による興奮から一旦覚めて、この落ち着き払った大甥の雰囲気に呑まれるように彼の話を聞いている。
「実は私、王都の士官学校に入ろうかと思っておりまして」
ルゥテウスの言葉を聞いて三人は驚いた。
「えっ!?し、士官学校って……ルゥは軍人になるのか?」
つい先年まで王都で住み暮らしていたジョルジュが尋ねると
「いえ、別に軍人になろうと思っているわけでは無いのですが……諸事情により士官学校で学びたい事が出来まして」
ルゥテウスが軽く笑いながら話す。
「でも……、士官学校って卒業したら軍人にならないといけないんだろ?」
ジョルジュが尚も不思議そうに聞くと
「いえ、士官学校を卒業しても軍で服務する必要はございません。
まぁ、軍人を志望するのであれば任官を選択した方が宜しいのでしょうが」
「そうなのか?」
「はい。一応は卒業後の進路で軍への任官を選択した上で五年間服務致しますと、在学中に発生する三年間の学費が免除されます」
「ほぅ……」
「しかし任官しない選択の自由も当然ございまして、私の知るところによると卒業後の任官希望率は八割程度だと聞いております」
「え!?そんなに少ないの?」
今度はラミアが声を上げた。彼女はまだ独身であった昔、「双頭の鷲」で働いていた頃に「貴族出身のとっぽい陸軍士官さん」から交際を申し込まれた経験があった。
しかし「料理人と所帯を持つ」と決めていた彼女はそれを断ったという過去があったのだ。
結局、彼女は王都の名店巡りをしていた田舎街ダイレムにあるレストランの一人息子と偶然出会い、そのまま周囲の反対を押し切ってその男に付いてダイレムへ旅立ってしまったのだが……。
「はい。王立士官学校は建国以来続く名門でして……その名声故に海外からも留学生が集まります。
その者達は当然卒業後は帰国してそれぞれの軍の要職に就くでしょうし、領地を持つ貴族家から入った者も卒業後は自家の領兵……諸侯軍の指揮官になるケースが多いですね。
他にもその家族では無く見所のある家臣や領民の子弟を通わせて領兵の指揮官とする場合もあります」
「な……なるほど」
「まぁ、貴族の家であれば学費が免除されずとも費用は負担出来るでしょう」
「そ、そうだな。でもルゥだって卒業後は軍隊に入らないのだろう?学費は払わないといけないのではないか?」
王立士官学校は三年制の高等教育機関である。
元々は原則として全寮制を採用していたが、「とある理由」が原因で数百年前に廃止となったようだ。
学生寮自体は今でも存在しており、遠隔地出身者や外国からの留学生は希望すれば入寮が可能だ。
それでも寮費を除く学費は三年間で金貨200枚程かかるので、年収が金貨5~60枚と言われる庶民ではそれを負担することは非常に難しい。
しかし退学せずに無事卒業後に軍務に五年間服務することで学費の返納が免除となるので、通常はこの学校に入学する者の大半は任官を選択することになる。
「はい。私は軍隊に入るつもりはありませんので、学費は自己負担となります。しかしご心配無く。オジさんに経済的なご心配をお掛けするつもりはございません」
実際、ルゥテウスの個人資産は今では金貨にして十数万枚を数える。そもそも魔導を自在に使えるこの賢者にとって経済的な意味での資産はあまり意味を成さない。
本人が望めば、何時でも好きなだけの現金を獲得する手段を無数に持っているのだ。
「そ……そうなのか。で……俺に何か頼みがあるんだよな?」
ユーキの問いに
「はい。経済的な問題は私自身で解決できるのですが、何分……あの学校の入学資格は原則、レインズ国籍が必要です。
私も一応はこの国の国籍を持ってはおりますが……本名である『ルゥテウス・ランド』では少々不都合がございまして……」
ルゥテウスは苦笑交じりで答えた。
「ほぅ……。本名では何か拙いことでもあるのか?」
「はい……。ルゥテウス・ランドという名前は、少々鬱陶しい連中に知られ過ぎておりまして……」
「鬱陶しい連中?」
「はい。まずは皆様御存知のヴァルフェリウス公爵家です。まぁこれは仕方がありませんが……」
「あぁ!そうか!」
ユーキが納得したように声を上げる。
「他にも、その関係で政府の一部機関や……魔法ギルドにも名が知られている可能性があります」
「魔法……?」
魔法世界に関して全く接点が無い伯祖父は首を傾げたが、王都で生まれ育った妻や長い間修行していた息子はその存在を『一般的な王都市民』のレベルで認識していた。
「魔法ギルドって……あの魔法使いがいっぱい居る所でしょう?」
夫に代わってラミアが尋ねる。
「はい。その魔法ギルドです。ヴァルフェリウス公爵家に関係する者として私の名は彼らに認識されていると思われます」
「え?貴族の息子だから?」
「いえ、この場合はヴァルフェリウス公爵家が魔法ギルドにとって特別な存在でして、あの家は魔法ギルドから常に注目されているはずです」
「え?どうしてなの?」
「以前にもお話したと思いますが……私、いや……ヴァルフェリウス公爵家の祖先は『黒き福音』と呼ばれたヴェサリオという男です」
「ええ。あの時聞かせてくれたわね。黒き福音様がルゥちゃんの御先祖様なのでしょう?」
「はい。そして、そのヴェサリオという男が魔法ギルドを創ったのです。この国の建国とほぼ同時期にですが」
この大甥の説明に三人は驚いた。
「え……?じゃあ、ルゥちゃんの御先祖様があの……魔法使いの塔を造ったの?」
「そうなりますね。実際、あの灰色の塔はヴェサリオ自身が独りで三日掛けて建てたものです」
「えっ!?三日!?」
今度はジョルジュが声を上げた。彼は元王都市民として灰色の塔を何度も見ている。
あの七層建ての塔は王都でも……恐らくは世界の都市において最も高い建築物で、王都であるならば、どこからでもその威容を望むことが出来る。
それをあっさりと「一人の人間が三日で建てた」と言われても俄かに信じられない。
「ははは……まぁ、ヴェサリオは力のある魔導師でしたから……」
「そ、そうよね……この国の魔物を全部やっつけたんでしょう?」
ラミアは子供の頃に見た芝居や講談で見聞きした「黒き福音」像を基に話をする。
「はい。そういう人物の子孫であるからこそ、ヴァルフェリウス公爵家は魔法ギルドから注目を受けておりまして……」
「そうなのか……」
「だからこそ、私の本名で入学すると『ヴァルフェリウス公爵家の関係者』として学校関係者にも認識されてしまう恐れがあるのです」
「なるほどなぁ……」
ジョルジュが納得の表情をする。
「そういうわけでして、『お願い』というのは私をオジさんの戸籍に入れさせて頂き、姓を『ヘンリッシュ』に改めさせて頂きたいのです」
「何だと?つまりお前は戸籍上で俺の養子になるのか?」
「そうですね。そういう事になると思います」
「お前……それでいいのか?ランド家はどうなる?」
「はい。あくまでも戸籍上の話なので、将来はランド家に復籍することも可能です。ただ、先程も申し上げましたように『ルゥテウス・ランド』という戸籍名に戻すのは些か社会の情勢が変わらないと面倒な事になりそうなので」
「面倒な事?」
「はい。それでは私のお願いは今の戸籍の話だけですので、昔お話した『奴ら』についてお話しさせて頂きます」
「『奴ら』って何の事だ?」
当時あの場に居なかったジョルジュが疑問を口にする。
「はい。私はあの日……正確には今から10年近く前となる3038年12月10日の深夜……いや、日付が11日になってましたか……。
生まれた際に施されていた封印が解けて本来の力を取り戻した際に、これまでこのヘンリッシュ家と私の実家であるランド家を苦しめていた者達……主にヴァルフェリウス公爵夫妻に対して報復を行う事をオジさんとオバさんのお二人に約束させて頂きました」
「あぁ……この前母さんが話していた事だな。しかし相手は貴族だろ?それもこの街の領主だ」
「そうですね。確かにあの連中は社会的な地位は高いですが……それでも我々の家族の多くを死に追い込んだ業敵には変わりません」
ルゥテウスが表情を改めて話したので、ジョルジュは僅かに怯んだ。
「私は本来、あの後すぐに奴らを屋敷ごと吹っ飛ばしてしまおうと思っておりました」
いきなり物騒な事を言い始めた大甥にユーキもラミアも驚いて顔を見合わせた。
「しかし、よくよく考えてみると……今も申し上げましたが、あの家はこの国の建国に深く関わっている大功ある大貴族の家で、王国にとって影響力が非常に大きい事に気付いたのです。
そのような家をいきなり消し去ったら国中が大騒ぎになって大混乱が起きると……」
大甥の口から恐ろしくスケールの大きな話が出て来て、三人は言葉を失った。
「そうこう考えて奴らに対して手を下すのを躊躇っているうちに、再び『ある事』に気付いたのです」
ルゥテウスは小さく笑った。
「な、何に気付いたんだ?」
ユーキが尋ねる。彼は今の話を聞いていて、この可愛い大甥が「公爵家を屋敷諸共吹っ飛ばす」という物騒な手段に出なかった事に少し安心していた。
しかし、彼自身……その昔、両手に包丁を持ってガルロ商会の本館に討ち入ろうとして、薬屋を営む痩せぎすの義弟に必死で止められたのは良い思い出である。
「ヴァルフェリウス公爵家の家系には、ちょっとした『秘密』がありまして……」
「え……?秘密……?」
「はい……。今からお話する事は他言無用に願います。宜しいでしょうか?」
ルゥテウスの真剣な表情と迫力に押された三人は
「分かった」
「うん」
と何度も小さく頷いて約束した。
「今の公爵……ジヨーム・ヴァルフェリウスは初代から数えて107代目……つまり107人目であり、あの家は建国直後から3000年に渡って一度も途切れることも無く続いております」
「そ……そんなに長い事続いているのか。あの領主の家は……」
ジョルジュが改めて驚きの声を上げる
「はい。その107人……途中で女性当主も居ましたが……彼らは全て『一人っ子』として生まれ、そして育ちました。
つまり、彼らには兄弟姉妹は存在しないのです」
「ど、どういう事?」
「はい。ちょっと言い換えますが……あの家の当主は代々、子供を一人しか作れないのです」
「え……?どうして?」
「まぁ、これはもう『そうだ』としか言いようがありません。この事実に気付いている者は今ではそう多くはありません。
記録をちゃんと見れば気付くでしょうが、それも恐らく言われてみないと分からないでしょうし、そもそも今の公爵自身がそれを知らないでいるようです」
ルゥテウスは苦笑を浮かべながら話す。
「じゃ……何でそんな公爵自身が知らないのにルゥちゃんはそれを知ってるの?」
「私も一応は……あの家の血を受け継いでいますし、彼のようなボンクラではありませんので……」
ルゥテウスが再び苦笑を浮かべると、それを聞いた三人は笑い出す。
「私の場合は、あの血統の中でも『特別な力』を受け継いでおりますので……オジさんもオバさんも、あの時ご覧になられたと思いますが……」
「あっ……!あの……髪と目……」
ユーキとラミアは、「あの夜」に見た大甥の真っ黒な髪と瞳を思い出し、特にユーキは小さく身震いした。
忘れたくても忘れられないあの真っ黒な髪と瞳……。
「私の場合は、その『特別な力』によって遠い祖先からの記憶も受け継いでいるのです。
しかしその力を持たない凡庸な父親は、長きに渡る王国と公爵家の歴史の中で、その『子が一人しか作れない』というあの家の事情を失念してしまっているのです」
「そうなのか……」
「さて。ここまでお話しましたが、皆さんは今の話をお聞きした上で何かお気付きになりませんか?」
ルゥテウスは悪戯っぽく笑いながら三人に聞いた。
「気付く……?」
ジョルジュが首を傾げる。父のユーキもこの大甥がニヤニヤしながら話す問いの意味が解らずにいる。
「ん……?ちょっと待って……!」
ラミアがどうやら何か気付いたようだ。
「何だ母さん?何か気付いたのか?」
「うーん。いや……だってルゥちゃんはあの公爵の息子よね?」
「そうなりますね。不本意ではありますが」
ルゥテウスはまた苦笑を浮かべる。
「でもさ……確か……あの公爵って、他にちゃんと跡継ぎが居るわよね……?」
ラミアはどうやら「答え」に辿り着いたようだ。
「あ……確かに居るな……もう結構いい歳してるよな?」
「うん。それに弟も居たわよ。確か他の貴族の家に養子に行ったわよね?」
「オバさんは色々と御存知のようですね」
ルゥテウスが笑いながら尋ねると
「いや……だってその息子達が結婚するたびに記念の菓子を作って売った記憶があるもの」
ラミアも笑いながら話す。
「あぁ、そういえばそんな事もやったな。ただでさえクソ忙しいのに」
ユーキも大笑いする。
「いや、だったらルゥだけじゃなくて息子は三人居るじゃないか」
ジョルジュの言葉に
「うん。だから不思議だなって思ったのよ」
母が疑問を呈する。
「そうです。『息子が三人居る』ということが……この話の重要な部分です」
ルゥテウスが急に真面目な顔になって
「私は間違いなくジヨームの子です。奴がアリシア・ランド……母に産ませた唯一の子になります」
「え……?じゃ、あの二人は……?」
ラミアの問いに
「さて。あの二人は何者なんでしょうね」
と再びルゥテウスはニヤニヤする。
「え……?だって兄の方がもう次期公爵ってことで大々的に紹介されているわよね?」
「そのようですね」
「じゃ、別に偽物ってわけじゃないんでしょう?」
「ほぅ。そうですかね?」
「え?どういう事?」
大甥と妻の謎掛け問答を横で聞いていたユーキは
「おい……もしかしてその二人ってのは……」
「オジさんはお気付きになられましたか」
尚もニヤニヤしているルゥテウスにユーキは
「しかし……まさか……そんな事ってあるのか……?」
「何?何なのアンタ」
まだ謎が解けない妻が夫の腕を揺すって答えをせがむ。
「いや、つまりアレだろ……?公爵の女房が……他の男の子供を産んだって事だろうが……」
「えっ!?」
ラミアは驚きの声を上げた。
「改めて申し上げますが、この事は他言無用に願います」
ルゥテウスはまた真面目な顔になって三人に言い渡した。
「公爵夫人エルダは……他の男の種で男子を二人産み、公爵自身もあの家の不思議な『代々、子供が一人しか作れない』という事実を失念している為に、それと気付かれる事も無く嫡出を偽っております」
「な、何だと……!?」
ユーキが声を上げた。他の二人は逆に声を失っている。
「しかし、ここからが更に重要な事なのですが……この公爵夫人の背信は公爵自身には気付かれていないようですが、他の者には知られているのです」
「ど、どういう事だ?二人が公爵の実の子じゃないって事があの夫婦以外の者にバレてるって言うのか?」
「はい。まずは私です。私はあのボンクラな父とは違って公爵家……厳密には私にも流れる血脈の特徴を知っている為に、公爵夫人の背信の事実を即座に気付けました」
「な、なるほど」
「次に、先程お話した魔法ギルドです。私の祖先である『黒き福音』ヴェサリオとの関係でその子孫たる公爵家とは縁深い彼らも凡庸続きの公爵家当主とは違って血脈の特徴を知っております。
なので公爵夫人が二人目を産んだ時点で『どちらかが他の男の種』と気付いておりまして、更に私が生まれたことで『あの正夫人が産んだ二人共が偽物』という確信を強めているでしょう」
「魔法ギルドは既に公爵夫人の『浮気相手』の特定も行っている可能性が高く、既に特定は成されていると思われます」
「な、何と……そうなのか……」
「他にも公爵家の成り立ちについて文献を遺している救世主教も、恐らくは公爵夫人の背信に気付いているでしょう」
「つ、つまり……どうなるんだ……?」
「魔法ギルドも救世主教も、どういう事情があるのか解りかねますが公爵夫人の背信について告発せずに『泳がせている』といった状態でいることは間違いありません。
恐らくは、今の公爵からの家督を相続する時点で……あの二人がその家督を請求する際に告発を行うと思われます。
彼らが今も告発を行わない理由を、敢えて推測するならば両者共にレインズ王国の外にある組織になるので、性急な告発は国内への干渉だと受け取られるのを避けているのではないかと思われます」
「うーむ……」
「つまり、私が報復感情に流されてそのままあの家を吹っ飛ばすよりも、このまま放置しておくだけで、いずれあの家は相続で大揉めになりながら、公爵夫人の恥ずかしい過去まで明るみになって恥辱の中で裁きを受けて没落していくのです。
私が敢えて今回皆様にこのような『国の大事』を打ち明けますのは、今の話が現実になった時には、公爵領に属するこの街も少なからず混乱に巻き込まれると予想されるからです」
「あっ……そうか」
今度はジョルジュが声を上げた。
「実際、現公爵のジヨームは既に58歳です。今でもお健やかなご様子のオジさんと違って、あの男はいつ健康上の問題が発生するか知れたものではありません」
「それにそもそも、魔法ギルドや救世主教の方針が変われば即座に破滅は訪れるのです。なのでお三方はこの『事実』を心にお留め頂いて、その日に備えておいて下さい」
「わ、分かった」
ぎこちなく頷く夫に代わって、ラミアが
「ところで、話は戻るけど……ルゥちゃんは何で士官学校に入るの?軍人になるんじゃないんでしょう?」
と、当初の疑問を口にした。
「あぁ、その事ですか。私はとある事情で船の運用について学びたいのです。まぁ、船というよりも海軍の事ですかね」
「え?だって軍人になるんじゃないんだろう?じゃあ何で海軍なんだ?」
「ええ……まぁ、この国の海軍には興味はありません」
「うん?じゃあ、この国以外の海軍ってこと?」
「いや、そういう事では無くて純粋に海軍という『海上戦力の運用』について興味があるのです」
ルゥテウスはジョルジュの問いに対する回答を濁した。この一家に戦時難民によって創られたトーンズ国の事を説明しても理解して貰えるか甚だ疑問だからだ。
「ふーん。そうなのか……。まぁお前が元気でやっているなら俺としては別に気にはしないさ」
ユーキが笑いながら話す。
「私自身は海軍には関わることは殆ど無いと思います。学校を卒業したら、この街に戻って薬屋を再興させるつもりですし」
「何!?《藍滴堂》をか?」
「はい。お陰様を持ちまして祖父が遺してくれました薬に関する知識はほぼ全て修めましたので」
「そ、そうなのか?」
ユーキは驚いた。何しろ彼が知る「ローレンのノート」の数は膨大で、あの数からして彼の持っていた知識もそれに匹敵するものであったと推測できるからだ。
「それは……モートン先生もきっとお喜びになるわね」
ラミアが嬉しそうに言った。
「そうですかね……。但し、今夜こちらに私が現われた事は……街の皆様にはご内密にして頂けますでしょうか。
私はすぐに王都に発ってしまいますし……学校を卒業してから改めて皆様にはご挨拶にお伺い致しますので」
「そうか……分かった。残念だけど街の皆には内緒にしておくよ。それで……戸籍か?勿論俺に異存は無い。お前を養子として我が家の籍に入れることを許そう」
ユーキも嬉しそうに話した。
「ありがとうございます。ついでと言っては何ですが……私は戸籍上の名前を今の『ルゥテウス』では無く私の尊敬する先祖の名を頂いて『マルクス』とすることにしようと思っております」
「え?名前も変えるのか?」
「戸籍上の事だけです。このルゥテウスという名は母が私に遺してくれた唯一の『意思』ですから、捨てる事は出来ません。私の事はこれまで通りルゥテウスと呼んで頂いて結構です」
「そうか……アリシアのな……ローレンから聞いた事があったな。アリシアはお前が女の子だった場合の名前も考えていたとか」
「そのようですね……。それでは私の名を『マルクス・ヘンリッシュ』として戸籍に記載させて頂きます。
私の願いをお聞き届け頂きまして感謝致します」
ルゥテウスは椅子から立ち上がって三人に頭を下げた。
「そんな水臭いことするなよ。それで、どうするんだ?今夜はここに泊まっていくか?」
「いえ、夜分ではありますがこのまま市役所に行って戸籍を『書き換えて』そのまま王都に向かいます。
このような夜更けまで大変失礼致しました」
「書き換えてって……まぁ、お前のような凄い奴ならそんな事も簡単にやれてしまうんだろうな……」
ユーキは苦笑した。
「皆様の睡眠時間を奪ってしまいました。今夜はお休み前にこの薬を服用なさって下さい。明朝スッキリと起床して疲れも全て取り払いますので」
そう言うと、ルゥテウスは右手を振って机の上に青い液体で満たされた瓶を三本並べた。
何も無い空間から突然薬瓶が三本現われた事に三人は仰天したが、ルゥテウスの言葉をそのまま受け取って
「そ、そうか。では頂いておくよ……そういえばいつか置いて行ってくれた包丁な。今でも凄い切れ味だぞ」
ユーキは笑った。
「あぁ、あの包丁なっ!王都の店にもあんな凄まじく切れる包丁なんて無かったぞ」
ジョルジュもやや興奮気味に話す。
「お気に召して頂けて私も嬉しいですよ」
ルゥテウスもニッコリとした顔で応える。その顔は本当に亡きアリシアにそっくりだと……ジョルジュは改めて感じ、嘗て憧れた美しい従姉を思い出して目頭が熱くなった。
「それではそろそろ失礼致します。これからも折りを見てご迷惑にならない時間に参上致します」
「そ、そうか……。何時でもな……何時でも好きな時に帰って来ていいからな……何時でも待ってるぞ……」
別れの時間になり、それを惜しむかのようにユーキはまた涙を流した。ラミアも同様に
「またね……体に気を付けて……」
と言葉を詰まらせながら大甥の腕に触れる。
「ありがとうございます。それではこれにて失礼致します」
そう言うと、自分に触れたラミアの腕をそのまま残し彼は姿を消した。
「行って……行ってしまったな……」
「そうね……あんなに立派になって……」
しみじみと話す両親の言葉を聞いて
「しかし……本当にアリシア従姉さんに生き写しだった……子供の頃も似ているとは思っていたが……背丈まで……驚いた……」
ジョルジュが呟いた。
****
ルゥテウスは《藍滴堂》の三階に戻ると、そのまま結界を張って再び瞬間移動で自分の記憶にある限りのダイレム市街の中心部へと飛んだ。
飛んだ先は嘗て自分を引き取ってくれた伯祖父夫妻が店の休日に連れてきてくれた公園に出ていた屋台があった場所だ。
そこはダイレム市役所前にある噴水広場の一角で、この時間は全く人気が無く細い月の下で静まり返っている。
(そうか。ダイレムには街灯が無いんだな……)
キャンプやサクロの夜と違って闇に包まれた街並みを見てルゥテウスは苦笑を浮かべる。
そのまま噴水を隔てた市役所の大きな建物の正面に向かって歩く。
数百年前の記憶とは建物の形が違っており、前発現者であるレアン・ヴァルフェリウスの時代から少なくとも一度は庁舎の改築が行われたようだ。
移動結界を張ったルゥテウスは、正面入口の大扉の鍵を難なく解除して内部に侵入した。
自分の記憶の中にあるダイレム市役所……のみならず、他の都市の役所においても「保管庫」は地下に防湿対策が施された厳重な空間に造られているのが普通であったので、彼はこれまた地下への階段が設置される事の多かった正面から入って左側の奥に向かった。
案の定、建物一階の左側奥に地下へと続く階段があり、そのまま地下二階まで下りると、廊下に大きな甕に水が満たされた物が数メートルおきに置かれており、階段から右に向かって突き当たりに大きな二枚扉があった。
甕に水が満たされているのは、この建物が火災に遭った際に保管庫があるこの地下二階層の温度上昇を抑える為である。
突き当りの二枚扉は二ヵ所で施錠されており、それがこの扉の先に市政に関わる重要書類が大量に保管されている事を物語っていた。
ルゥテウスはその鍵に右手をかざすと、鍵はいとも簡単に解錠されて中に入る事ができた。
彼はその場でこの広大な保管庫一杯に結界を拡げた上で目を閉じた。
数秒程目を閉じていたが、何かを見付けたかのように目を開くと、そのまま迷う事無く、一つの棚目指して歩き始めた。
この部屋には地元ダイレムに住む錬金術師が作った泥棒避けの警報術符が至る所に貼られていたのだが、ルゥテウスの存在に対してその術符は一切反応しない。
術符を作成した錬金術師とルゥテウスの力に圧倒的な差があるからだ。
やがて、一つの棚の前で足を止めたルゥテウスは棚の中からファイルを一冊取り出して中を見た。
そのファイルはランド家がこの街に暮らし始めてからの記録と、一家の戸籍が記載されていて、その内容によるとランド家は今から150年程前……ルゥテウスから数えて八代前からこの街で暮らしていたらしい。
記録によると既にその八代前のミルズ・ランドが住み始めた頃から下町の今の場所で薬屋を営んでいたらしい。
つまり、ランド家はこの街にやって来る前から製薬の知識を持っていて、街に引っ越してくるなり、すぐに今の店舗を建てて薬屋……《藍滴堂》を始めたことになる。
(その前のランド家は……どこで何をしていたのか?)
今まで考えた事も無かった「母方の先祖」について初めて知ったルゥテウスは俄然その出自について興味が湧いてきた。
と……言うのも、この《藍滴堂》を営むランド家の者達がほぼ例外無く薬学に対して大きな素養を持っており、店の名声はかなり古い頃から下町のみならず、この市街中心にまで広がっていた節があるからだ。
同じくこの街において名声を博す医家であるモートンは
「藍滴堂とは祖父の代から付き合いがある」
と言っていた。彼の祖父と言うならば百年近く前の話だろう。また彼が他にも話していた
「藍滴堂には独自の製法がいくつかある」
という証言についても、ルゥテウスは祖父のノートから確認しており、今ではその技術を応用して藍玉堂の工場での大量生産を実現させていた。
その祖父のノートの内容は、彼の知る限りこの世界のどんな医術、製薬術をも圧倒しており、祖父が恐らく訪れた事の無いと思われる他の大陸についての記述もかなり含まれていた。
当時の自分はそれを祖父の「異能」として納得していたのだが……。
(うーん。これは手が空いたら一度母の家系について調べてみるのもいいな)
これから学校に入学しようかというところで、またもや新たな興味を持ってしまった青年賢者は、当初の予定を思い出して苦笑しながら、そのランド家の戸籍に記載されていた自分の「ルゥテウス」という記載部分を「マルクス」に変化させた上で、「ヘンリッシュ家に転籍」と備考を付け加えてファイルを棚に戻した。
今後は何時でも好きな時にこのファイルを手元に取り寄せられるので、特に写し等を作る必要は無い。
そして再度目を閉じた彼はヘンリッシュ家の戸籍ファイルを探し出してその末席に「マルクス」という名を加えた。
(ヘンリッシュ家は……ふーむ。こちらも約250年前に王都から来たのか……そして市内で一度転居して今の場所で飲食店を始めたのが100年前か……あの店は結構歴史があったんだな)
ルゥテウスは《海鳥亭》の意外にも長い歴史に驚いた。
(その前まで……なんと……金貸しをしてたのか……。王都では何をしてたんだろうか。今度王都で調べてみるか)
ここまで考えてルゥテウスはある一つの「事実」に気付いた。
(ん……?待てよ……?ヘンリッシュ家に関してはこの街に来る前の転出元である王都の名前まで書いてあるが……ランド家のそれには書かれていなかったぞ?
ランド家は……一体どこからこの街にやって来たのか。そしてこの街に来る前は何をしていたのか……?)
当初の目的を果たしたルゥテウスの頭の中に、「母方の家系」という新たな謎が加わり、夜間の地下保管庫の中で彼はおかしくて笑い出した。
勿論、その笑い声は結界の外に漏れることは無い。
(何か……学校に入学するよりも……こっちの方が気になり始めたじゃねぇか……)
これが父方の家系についてならば、「血脈の記憶」によってそれこそリューンの生きた33000年前まで遡れるのだが、そうでは無いランド家の記憶などあるわけが無く、この母の一族の謎めいた歴史が……その後の彼にとって一番の興味へと変わっていく事になる。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
王立士官学校入学に際し変名を使う。
ノン
25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務める。
主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。
主人公から薬学を学び、現在では自分の弟子にその技術を教える。
ユーキ・ヘンリッシュ
57歳。主人公の伯祖父に当たる人物で。
港町ダイレムの下町で《海鳥亭》という人気レストランを経営するオーナーシェフ。
長身で筋骨隆々の体格は昔と変わらず。
ラミア・ヘンリッシュ
55歳。ユーキの妻で主人公の義伯祖母に当たる。王都レイドス出身。
夫の店で主にパンや菓子作りとホールを担当している。
自身も若い頃は王都の名店で働いていた経験がある。
勝ち気な性格で均整の取れた長身の女性。
ジョルジュ・ヘンリッシュ
30歳。ユーキとラミアの子で、両親を含めた周囲からは「ジョー」と呼ばれている。母の実家の親戚である王都の名店「双頭の鷲」で十年の修行を終えて実家の《海鳥亭》で働き出す。
主人公の母に初恋相手として憧れていた。