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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第二章 難民の王国
38/129

故郷へ

【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。


 魔法ギルドに焚き付けられた内務機関の監察班を退けたルゥテウスは、監察班の一人であったナトス・シアロンという男を捕えた際に《傀儡》の呪術を掛けて支配下に置き、そのまま送り返した。


ナトスは王立官僚学校を優秀な成績で卒業したエリート官僚だったのだが、あろうことか自身が所属する内務省の長、内務卿アルフォード侯爵の長女で同じく内務省に勤務していたエリンに一目惚れしてしまったようだ。


本来ならば年下の後輩であるエリンに想いを告げて職場恋愛……結婚にでも至れば問題は無いのだが、いかんせんエリンには既に婚約者が居た。

それも辺境伯……領地を持った伯爵家の次男という相手だ。


 これが平民同士の話であるならば、この伯爵家の次男坊はナトスの「恋敵」のような存在として「男としての魅力勝負」にでも持ち込んでしまえば一発逆転があったのかもしれないが、不幸なことにエリンもその婚約相手も大貴族であった。


大貴族同士の場合、婚約というのは平民的に言う当人同士の「結婚の約束」とは意味合いが異なる。

彼らは正式な「婚約の儀」という一種の「公に対するお披露目」を経て、その事実は上流社会へと正式に伝え広められる。


すると……その家同士の結び付きを見た関係者が、その結び付きを当て込んで蠢動が始まる。

特にエリンの実家は領地を持たないとは言え、臣下としては実質的に最高位である侯爵位にあり、近年においては内務省の中で「内務閥」とも言える族閥を築きつつある名門アルフォード侯爵家だ。


対するアヴェル伯爵家も、王国の南西地方に領地を持つ「辺境伯」と呼ばれる家柄で、その次男ワイマルは24歳という若さで王国海軍少佐という将来を嘱望された人物である。


順調に出世を重ねれば将官進級と同時に次男である彼には別家が立てられて、「小アヴェル」とでも呼ばれて男爵位辺りに叙せられるのがこれまでの王国の歴史における慣習だ。


侯爵家と伯爵……辺境伯家の婚姻はレインズ王国の爵界、つまりは貴族世界において久しぶりの大きな組合せであり、注目を浴びていた。


そのような機会を経たエリンに対して恋情露わに執拗に食い下がろうとするナトスは「怖い者知らず」と周囲から恐れられ、その噂はたちまちにして内務省内を駆け巡った。


このままではエリンの父である内務卿の耳に達するのも時間の問題で、人々は内務卿の逆鱗に触れると予想されるナトスと距離を置き始めた。


 3040年2月1日。新月の晩である。

王都の夜は繁華街を中心に店舗から洩れる光で明るく、一方で王城に近い大貴族の住まう区画も、綺麗に舗装された道路を照らす美しい細工が施された街灯によって適度に抑えられた明るさがあるが、それ以外……特に平民の住宅街は月明りもなく闇に包まれている。


そのような闇に沈む中層住宅街の一角に独身男性用の官舎があり、その一室で寝台に潜り込みながら、ナトスは悶々としていた。


(うぬぅ!エリン!おのれぇぇ……この俺に恥をぉぉ……いや……しかし彼女は美しい……)


 時刻はまだ20時を少し回ったところなのだが、彼は休日明けの本日昼に上司である監察室長の部屋に呼び出されて個人的な訓戒を受けた。


「シアロン、今日は何故ここに呼ばれたか解っているよな?」


目に困惑と怒りを浮かべて監察室長は彼の執務卓の前に立つナトスを見上げた。


「いえ……恐れながら自分には心当たりが……」


ナトスは青ざめた顔色ではあるが落ち着いた態度で白を切った。


「そうか……よかろう。では聞かせて貰うが、お前が渉外室のエリン・アルフォード嬢へ執拗に言い迫っているという噂を聞いた」


「室長……。どこでそのような噂を?」


「噂の出所などどうだっていい。これは事実なのか?」


「事実……とは異なりますな」


「ほぅ。では事実を教えて欲しい」


「お断りします。これはプライベートの話です」


「なるほど。しかし省内での行動だ。プライベートだと言い逃れるのは些か無理があるな」


「ですから、プライベートというのは場所という意味ではな……」

「屁理屈はいいからさっさと話せっ!」


被せ気味に監察室長の声が急に大きくなった。彼からしてみれば自分直属の部下が


「婚約の儀を終えている内務卿の長女にいらぬちょっかいをかけている」


という噂が立ち、それが事実であった場合……「監督不行届」を理由に自分のキャリアに疵が付く事を恐れたのだ。


 ナトス・シアロンは官僚学校を優秀な成績で卒業し、内務省に入省。

この際「指輪組」の場合は入省を巡って複数の省庁で争奪戦になる。


彼の場合もやはり複数の省庁からの誘いがあったのだが、父も現役の内務官僚で、当時既に護民局副局長という重職に就いていたことが決定的となり内務省が引き当てることに成功したという経緯があった。


入省後のナトスは官僚としても有能で、特に現地調査員としての手腕を発揮した。


彼の関わった地方貴族監察によって大小幾つかの悪徳貴族の領民への圧政が内務省によって暴かれ、更には徴税後の国庫納付金の不正が何件か摘発されるなどの功績を重ねて入省後10年、30歳を前にして私領調査部監察室の中でも室長補に次ぐ第三席の地位にあった。


これは官僚学校同期の中では「出世頭」と言っても良い。


今回俄かに起こったエリン嬢への「痴情」に苛まれる前の彼は間違い無く私領調査部門のエースであったのだ。


 今回のエリンへの「箔付け」という意味で、上層部が用意したヴァルフェリウス公爵夫人の荘園内で庇護されている「戦時難民収容施設(キャンプ)」への監察班を編成するに当たり……彼の経歴が評価されて、「エリンの補佐」として抜擢されたという事情もあった。


平民出身であっても、官僚学校を優秀な成績で卒業し入省後も私領調査を通じて、貴族世界の慣習について知識を積み重ねた彼が……なぜこのような噂が立てられる事態になったのか……。


室長の困惑が本人に対しての怒りに変わるのも無理は無い。


「私はエリン・アルフォード殿に言い迫ったわけではありません。

今回の任務において『見落としが無いか改めて確認しましょう』と持ち掛けただけです」


ナトスは白々しく抗弁した。


「しかしお前は彼女を話し合いに(かこつ)けて夕食に誘ったと聞いたが?」


「既に任務は完了しており、監察班も解散している以上は職務時間内で公式な話し合いを持つのは不自然であると判断したまでにございます」


「既に班は解散しているのだから今更話し合いなど持つ事など必要ない!」


またしても声を荒げる室長に対して


「室長。お言葉ですが、今回の件で我ら監察室側では未だ報告書も作成できておりません。

監察班は解散したかもしれませんが、ご命令を受けた案件そのものはまだ完了していないのです」


尚も抗弁を続けるナトスに


「とにかくっ!これ以上エリン嬢と接見することは禁じる!」


エリンとの接触を禁止され、ナトスの態度は一変した。


「しっ!しかしっ!しかしっ!彼女とはもう一度話し合ってっ!私はっ!」


「いい加減にしろっ!どうしてしまったんだ!お前はそんな男では無かっただろうがっ!」


室長はナトスの激高を抑え付けるかのように声を荒げて制した。


「もう良いっ!お前はもう今日は帰れっ!一晩頭を冷やして来いっ!」


室長に早退を命じられ、ナトスは納得できず憤懣遣る方無いといった様子で室長の部屋を出て来た。

監察室の中では、怒鳴り声と共に部屋を出て来たナトスに対し、他の職員達の視線が集まっている。


その中には今回の監察班のメンバーとして同行した二人の職員……ルゥテウスが尋問を端折った者達なのだが……の姿も在り、彼らは他の職員達に何か耳打ちするかのように小声で話をしていた。


大方、任務遂行中にナトスがエリンをおかしな目付きで見ていたなどと面白おかしく言い触らしているのだろう。

彼ら一般職員は一様に「指輪組」としてのナトスの醜態に対して冷ややかに見ており、特に女性職員達は露骨に軽蔑の色を浮かべて彼を見ている。


 すっかりエリート官僚としてのプライドを傷付けられたナトスは他の職員に挨拶もせず、無言で自席に戻ると荷物を纏めてそのまま監察室を後にした。

そして自宅官舎に戻ると食事を摂る事もせず、着替えもせずにそのまま寝台に潜り込んだのだ。


(くそっ!どいつもこいつも……俺をバカにしやがって……エリン……エリン……!)


こうして彼は上司や同僚への怒りとエリンに対する歪んだ恋情を抱えたままベッドの中で悶えていたのだが……


『ナトス……ナトスよ。聞こえるか』


どこからともなく子供の声が聞こえてきた。


(き……聞こえ……ます……主よ……)


 今の今まで寝台で掛け布を被りながら悶えていたナトスだが、この声……ルゥテウスの声を聞いて急に大人しくなり、火が出そうになる程に見開かれていた目も半目となり虚ろな様子となった。


『どうした……何か職場で嫌なことでもあったのか……?』


ルゥテウスの声はゆっくりと、頭の中に直接響いてくる。


(は……い……エ……リンが……一昨日……せっかく……の……休みの……前の夜に……夕食に誘……ったのに……)


『そうか……エリンを誘ったのか……エリンは素晴らしいからな……』


ルゥテウスの声はナトスの想いを肯定するかのように聞こえた。


(はい……アシリ……ス通り……の……双頭……の鷲……で……)


『そうか。夜飯に誘ったんだな……ん?』


傀儡の呪術を施したナトスの脳内に800キロ離れたドレフェスの《青の子》支部建物の地下から呼びかけていたルゥテウスは、ついでに行っていた内装整備の手を止めて


(ん……?双頭の鷲……?双頭の鷲……おっ!)


自分の脳内記憶に引っかかった「双頭の鷲」という店名について思い出した。


(双頭の鷲!ジョルジュさんが修行に出てる店だっていつかユーキさんとラミアさんが朝食の時に話してたな……)


ルゥテウスは懐かしい伯祖父(おおおじ)夫妻の会話を思い出して苦笑した。


『双頭の鷲……良い店ではないか……』


と、自分では行ったことも無い「噂の名店」を誉めそやした。


(双頭の……鷲……席を……取る……のも……大……変……だった……のに……)


ナトスもうわ言のように王都の名店の席を、しかも休日の前夜に予約する大変さを「主」に申し述べた。


『そうか。なのにエリンは来てくれなかったか……』


(は……い……)


ナトスの力無い返事にルゥテウスは恋情と言うよりも悲哀を感じた。


『ナトス。お前は素晴らしい男だ。

そんなエリンなどという小娘なんかを相手にせずとも……お前ならもっと似合いの女と出会える。きっとな。

お前がこれまで通り、任務に忠実に……そして余計な事に脇目も振らず……そうすれば将来……エリンだってお前の素晴らしさに気付くかもしれないぞ……』


ルゥテウスはゆっくりと暗示を掛け始めた。


(余計……な事……)


『そうだ。今のお前ではどう頑張ってもエリンは無理だ……。

今のエリンは貴族と婚約を交わしているからな。だから一旦手を引くんだ……。

そして本来のお前に立ち戻れ……今まで以上にな……自分の役目だけを考えるのだ……そうすればきっと将来……エリンは……分かってくれるさ……だから今はな……』


ルゥテウスの暗示はナトスの意識をエリンから引き離すように繰り返し何度もゆっくりと伝えられる。

勿論、この暗示には傀儡という呪術以外にも改めて彼自身の魔導が込められている。


(今は……手……を引く……将……来……必ず……)


『そうだ……今は自分に与えられた事だけを考えるのだ……他の事は考えるな……内務機関と……魔法ギルドの繋がりだけを調べるのだ……お前なら出来る……出来るぞ……』


(は……い……内務……魔法ギルド……俺……出来……る……)


ルゥテウスは自身の暗示がしっかりと掛かったことを彼の波動から感じて、最後に仕上げの波動を送った。


―――パッシィィィィンッ!


 頭の中で大きく乾いた音が響き渡り、ナトスは我に返った。


「ん?何だ……?ここは……?俺の部屋か?」


彼は寝台から起き上がり


「あれっ?俺は寝ていたのか?……おや?服を着たままではないか」


真っ暗な部屋で起き上がった彼は暗さに慣れた目で室内の照明ランプに回転式の燧石(フリント)で灯を入れた。壁の時計を見ると21時まで5分程ある。


「まだこんな時間……何で俺は家に帰って来ているんだ?あれ?報告書は……もう書き終えたんだっけ……?」


彼は部屋の中で独り言を繰り返す。更にそれを確認するかのように頭の中で


(何だ……?何で俺は家に帰って来てるんだ?報告書を書き終えた覚えは……無いな……)


彼のカバンは床に投げ出してある。


(俺は何時頃帰宅して……まてよ……そもそも俺は出勤したのか?今日は何日だ?)


頭を振りながら床のカバンを拾い、中身を見る。驚く事に仕事に関する書類やメモが全く入っていない。職場に置いてきてしまったのか。


(おいおい……俺はどうかしてるぞ。どうしたってんだ)


寝台に横になる前の事が何も思い出せない。


……まるで安酒をたらふく飲んで酔っ払った挙句に記憶が全部吹っ飛んでしまった翌朝みたいだ。


(うーむ……思い出せん……それなのに……それなのに頭の中が妙にスッキリして……)


不思議な思いで考えを纏めていると、腹が減っている事に気付いた。


(何も食っていないようだな……仕方無い。とりあえず腹拵えをしてから考えるか)


彼は改めて自分の服装を整えて部屋の外に出た。


****


『監督、聞こえるか?』


ルゥテウスからの念話にドロスは応じた。


『店主様。聞こえております』


『ナトスの頭の中をいじっておいたぞ。恐らく奴は明日から俺達の与えた役目を最優先に、その為に合理的な行動をするはずだ。

どうやら奴は元々は役人として能力が高いみたいだからな』


『左様でございますか。あの……エリンという娘の事は?』


『うむ。恐らく目にも入らないだろうな。いや、目的の為の手段として娘とは接触するかも知れんが、そこにはもうお前も辟易した恋情は無いはずだ』


『そ、そうですか……何だか少し気の毒な気がしますが』


ドロスが珍しく人情味のある感想を述べると


『いや、エリンを諦めることが奴にとっては賢明なんだ。少なくとも今はな』


『そうなのですか?』


『あの尋問で彼女は自分には婚約者が居ると言っていただろう?』


『はい。その後に私があの耳に着ける道具で知った事ですが、相手はアヴェル伯爵家の次男で王国海軍少佐、急行連絡艦「ディッシャー」艦長のワイマル・アヴェルという者だそうです。ナトスが調べておりました』


『アヴェル伯爵家……やはり大貴族だな。王国南方に領地を持つ歴史ある辺境伯家だ。

なるほど……次男を海軍に入れたか。しかも既に小型艦とは言え艦長か……。

こりゃ只のお坊ちゃんってわけじゃ無さそうだ』


現代情勢とは700年もの乖離があるルゥテウスが知っているくらいなので、アヴェル伯爵家はかなり古い歴史を持つ家柄なのだろう。

沿岸諸侯は海軍を所有していることが多い。アヴェル家も将来はこの若者に自家の海軍を任せるつもりであると思われる。


ちなみに「急行連絡艦」とは出航中の海軍艦艇に対して急を要する伝令や命令文書、郵便物、更には要人等の人員を届ける為の高速艦で、その艦長職は少壮の海軍士官にとっては憧れの存在である。


『なるほど……そう言えば「辺境伯」と言っておりましたな』


『彼女の実家も侯爵家だろ。と、すると……大貴族同士の婚姻だ。つまり婚約の儀を伴った正式なものだろう』


『ほぅ……何か特別なのですか?』


『そうだな……。大貴族同士の婚姻だと「婚約の儀」という特別な儀式を行った上で、この国の上流階級の間に「お披露目」される。

こうなると簡単には覆せない』


『な、なるほど……ナトスにとっては勝ち目が無いわけですな……』


ドロスの声に同情的なものを感じてルゥテウスは笑い出した。


『どうした監督。昨日まではあんなに辟易していたではないか』


『まぁ……そうなんですが……。身分の差だの上流階級だのという単語が出て来ると何だかナトスが哀れに思いまして……』


『なるほど。とにかく、婚約の儀が済んでいるならナトスの行動は却って危険だ」


『え?き、危険とは?』


『そうだな……。ちょっと例としてはアレだが、我らがボンクラ公爵様と股のゆるい御館様の組合せで考えてみろ』


ルゥテウスはドロスでも分かり易いように、彼らには身近でお馴染みの老夫妻を例として挙げた。


『え……?』


『あの二人だって大貴族の家同士の婚姻だ。婚約の儀は行われたはず。

そうなるともうエルダは婚姻前にも関わらず「次期公爵夫人」などという扱いになる』


『ほぅ……』


『そうなるとな……その将来の公爵夫人に対してあちこちから虫ケラのように、その利権に与りたいというバカ共が群がってくるわけだ。

エルダの場合はそのバカ共をシニョルが巧妙に操って婚前から莫大な金品を巻き上げたようだがな』


ルゥテウスは笑っている。


『な、なるほど……さ、流石は統領様……』


ドロスのシニョルに対する畏怖は昔から相当なものである。

シニョルはその莫大な資金を原資に同胞を救う為のキャンプを創設したのだ。

ドロス達難民にとって、シニョルの鬼謀は今や伝説になりつつある。


『そんな奴等にとって、その婚姻をひっくり返そうとしている奴が居ると知ったらどう思うかね?』


『あっ……なるほど……』


明敏なドロスは流石に事情を察した。


『最悪の場合、ナトスは刺客を送り込まれるぞ。

以前だったら王都やアヴェル伯爵領の商会辺りから《赤の民》に暗殺依頼が入っていたかもな』


ルゥテウスのブラックでスパイスの効いた冗談を聞いてドロスも苦笑いした。


『まぁ、明日からのナトスの巻き返しに期待しようではないか』


『左様ですな。私もこれで落ち着いて物件の選定に入れます』


『そうか。もう候補は揃ったのか?』


『はい。四件程見付けました。しかし、やはりこの街は治安が少々悪いですな……。

同じ難民でも我らの同胞ではなく、北から入って来る連中は犯罪に手を染める者が多いようです。

なので今回は藍玉堂の支店という取扱品単価の高い店舗として、比較的治安が良好な高所得街に候補を絞っております』


『そうなのか。俺もまだ公爵屋敷の書庫で少ししか調べて無いんだがな。

やはりニケという国……どうやら「帝国」を自称しているらしいな。

王国とはあまり友好的では無いみたいだぞ。

正式な国交も無いようだから、その街に入っている北方からの難民はエスター大陸の者と違って違法滞在として取締の対象になっている可能性がある。

場合によっては難民にニケからの間諜が混じっている可能性もあるから注意しろ』


『え?そうなのですか?』


『うむ。この前お前は交易も行われていると言っていただろう?

恐らくは非合法だ。そもそも、その街は公爵領だからな。王国の官憲の手が及んでいないんだろう。公爵家が放置または黙認しているという状況だと思う』


『な、なるほど』


『まぁ、それでも諜報拠点を置く価値はあると思う。

犯罪者が多いのであれば北方の難民を保護するのは慎重になるべきだ。

そこはエスターからの難民も結構居るんだろ?』


『はい……我らの同胞もそれなりに居ると思われます。

一応は服装等の風俗が異なりますので、ある程度の見分けはつきますね。

北からの難民と比べると、やはり他の都市に居た頃のように慎ましく、街の隅の方で暮らしているようです』


『今までキャンプで保護はして無かったのか?』


『いえ、保護は実施しておりました。現にキャンプの中にはアッタスから来たという者はいくらかおります。

《青の子》の者も極少数ですが居りますので拠点設置後は彼らを配置する予定です』


『なるほど』


『但し、アッタスには「連絡員」を置いていなかったと思います。

ご承知の通り、我々はつい先年まで自力で拠点を築くのが非常に難しく……この街の場合は治安の悪さもあって難航しておりました。

なので効率的にキャンプへの誘導が行えていなかったようです……。

この件に関しては私よりも市長様の方が詳しいですな』


『なるほどな。では拠点が出来たら今後は難民の保護も行うのか?』


『はい。市長様はそのおつもりです。統領様も賛成されております。

そもそも私がこの街に拠点を置くのを急いでいるのは、同胞の保護を効率的に行いたい市長様の意向も汲んでおります』


『そうか……なるほどな。やはり市長は人格者だな』


ルゥテウスは少し考え込み……


『よし。その話は了解した。俺は今夜中にはこのドレフェスの建物を仕上げるつもりだから明日から使えるぞ。

但し、出入口の結界と念話設備はお前がやらんとな』


『承知致しました。ありがとうございます。私も明日中には選定を終えたいと思います』


『わかった』


ルゥテウスはドロスとの念話を切って、彼なりに「ある決断」をした。


****


 数日後。ルゥテウスはシニョルの屋敷の勤務終了を待って藍玉堂の二階に主要人物の召集をかけた。

いつものメンバーの他に今は製薬工場で働いているサクロ村出身の五人娘も呼ばれている。


ルゥテウスの「召集」という滅多に無い行動に一同は何事かと緊張の面持ちで居る。

大人数が集まったので藍玉堂の二階には机と椅子が増やされた。


一同を代表してシニョルがルゥテウスに尋ねた。


「店主様……最近としてはこのように一同を集めるとは珍しい事ですが、何か緊急事態でも……?」


その顔には他の者と等しく不安感が浮かんでいる。


「いやいや。そんなに緊張するな。悪い話じゃないんだ」


ルゥテウスが笑いながら話すと、そのタイミングでアイサが皆の前にチーズケーキの皿を置く。ノンとサナはこのアイサのチーズケーキが大好物である。


「左様でございましたか……私はてっきり先日の王国政府からの偵察の後に何か起きたのかと……」


イモールが大きく息を吐き出した。キャンプを預かる市長として余程心配だったのだろう。


「うん。実はな……結論から先に言うぞ?」


ルゥテウスは一拍間を置いて


「実はお前達の故郷、エスター大陸への帰還事業を一部開始したいと思う」


ルゥテウスの言葉を聞いた一同は一瞬沈黙した。それぞれが言葉の意味を咀嚼しているのだろう。

やがて意味を理解した一同はそれぞれ驚きの顔を見せて声を上げる者も居た。


「なっ……!今っ……何と!?」


一同を代表するかのようにイモールが舌を縺れさせながらルゥテウスに聞き返した。


「ふむ。もう一度言うが、エスター大陸への帰還を……準備としてだが開始したい」


「いっ……何時からでしょうか?」


シニョルも思わず尋ねる。


「そうだな……早ければ数日中には始めたいな」


ルゥテウスは特に何事も無さそうな口調で話す。


「よ、宜しければ詳しくお聞かせ願えませんでしょうか」


「あぁ、もちろんそのつもりだ。そのつもりで皆を集めたのだ」


ルゥテウスは苦笑しながら


「皆もまぁ……見て分かると思うが、このキャンプも随分と充実したと思う」


 ルゥテウスの言葉に一同大きく頷いている。

彼がこのキャンプにやって来てから一年余りだが……。

それまでは無計画に拡張された木造平屋の長屋が立ち並んでいたキャンプ。

大半の住民は何も職を持たずに一日三回、集会所で粗末な配給を受け取るだけの生活だった。


毎日北にある貯水池や季節によっては更に北にある、外の市街に汚されたレレア川まで水を汲みに行き、体を洗う事も出来ず、燻り続けていた日々。

「暗殺組織」という犯罪行為によって生活費の一部が賄われ、最後は識らず知らずの内に魔法ギルドから追い詰めかけられていた。


彼らは25年間続いて来た最低限の生活……年配者はもっとそれよりも前の……外の街で裏路地の残飯を漁って居た頃をも思い出している事だろう。


 それらの生活が、目の前の少年が現われた事によって一変した。

今やキャンプは藍玉堂と役場の位置を中心に精密に区画整理がされ、道路には美しく切り揃えられた黒い玄武岩が規則正しく敷き詰められている。


それを挟むかのようにコンクリートで造られた二階建ての長屋が立ち並び、夜になるとそれらの街並みを煌々と街灯が照らし出す。

南北を貫く大通りには様々な嗜好品が売られ、酒も飲める。

それを買い求めるための賃金が貰える仕事があり、毎日風呂にも入れるのだ。


北の農場では住民が食べ切れない程の収穫があり、酪農まで行われて毎日新鮮な牛乳からバターやチーズも造られる。

配給の質も大幅に引き上げられ、今では上流階級しか食べられないような柔らかく甘いパンが当たり前のように供されている。


皆の前に置かれたアイサが作ったチーズケーキもそれらの材料で作られたものだ。


 今やキャンプはこの王国でも最高レベルの街並みと生活水準を実現しており、その治安を守る自警団や《青の子》という諜報組織まで充実している。


役場の裏にある病院には王都のそれを凌ぐ最新鋭の機器が揃い、しかも住民は無料で治療を受けられる。

何しろ、病院の裏に建つ薬屋の店長は錬金術師なのだ。

「特殊な店主」と共に彼が処方する高貴薬は王都でも治療不可能な病ですら根治させる。


いみじくもルゥテウスがエリンら内務省が派遣した監察班に「刷り込んだ」粗末な収容施設ではなく、そのような偵察から実態を隠さないといけないくらいの生活を難民は送っているのだ。


「そ……そうですな……本当に……このような生活を送れるとは……」


最近涙脆くなったイモールが俯きながら涙声で話すと、他の者も同様に目を赤くしている。


「おいおい。そんなにしんみりすんな」


ルゥテウスが明るく笑いながら言うと、ノンが顔を上げて笑った。

彼女はルゥテウスに出会った事で家族と死別した孤独な心をどれだけ癒されたことか。

この少年に偽装とは言え「姉」として扱って貰い、製薬の知識まで授けて貰った。

今の彼女は藍玉堂の薬剤師として裏の病院から医師見習いの少年が注文して来る入院患者への処方薬の調剤をほぼ全て引き受けている。


「話を戻そう。俺の見積もりでは、ここまで来るのに五年……いや十年くらい掛かると思っていた。まさか一年ちょいでやれるとは思って無かった」


彼自身もこれ程早くキャンプの充実が叶うとは思っていなかったようだ。


「自警団も形になってきた。《青の子》も勿論な。この王国内に徐々にではあるが諜報の根を伸ばしつつもある」


ここで少し言葉を切って


「しかしな。これだけ早い仕上がりを見せたのと同時に、やはり外の色んな連中に目を付けられるのも早くなっちまったわな」


ルゥテウスの言葉にロダルやドロスが頷いている。


「特に魔法ギルドが裏で動き出しているようだ。俺もちょっと誤算だったのだが導師長とかいう、珍しく几帳面そうな魔導師に目を付けられているようだ」


「導師長」という単語にソンマがビクっと反応した。


「そもそも、我々……いや正確には我らが御館様が色々『やらかしている』のを魔法ギルドに知られているというハンデがある。

これによって、お前達にはいつ『破局』が訪れても不思議では無い」


「よって、今から『逃げ場所』だけは造っておきたい。

これだけ早く余裕が出来たんだ。準備は早ければ早い程良いわけだ。

そうなると厄介なのはお前達難民……それも三万人も集まった難民にとって、この王国……もっと言うとこの大陸には他に行く場所が無い。

そして御館様の破局が訪れた時、それに伴う大洪水にお前達は確実に呑み込まれる。呑み込まれて押し流される先は……多分アデン海の冷たい底だろうな」


「はい……そのお話は以前にもお聞かせ頂きました。私もその通りだと思います。

奥様の秘密が白日の元に晒される時……長年お仕えしている私だけでなく、その迫害は恐らくその庇護を受けている同胞の皆さんにも及ぶでしょう。

そしてその秘密はいつ晒されるのか……これはもう相手にそのカードが握られているのです」


シニョルが青ざめた顔で話す。


 彼女は初めてルゥテウスと出会って諭された時、改めて自分の主人エルダの犯している罪の大きさを知った。

そしてその秘密は既に魔法ギルドや救世主教の宗山には知れ渡っていて、二十数年もの間「見逃して貰っている」状態である事を聞かされた。


彼ら難民にとって辛うじて踏み留まれているのは、暗殺組織《赤の民》が難民を母体として営まれていた事実がまだ発覚していないという事だけであった。


これらの組織が何時……何を切っ掛けにして事実を公開してくるか……そうで無くても何時この事実を基にして脅迫や取引を要求してくるかもしれない……。


考えれば考える程に恐ろしいのだ。当のエルダはそのような自身の危うい立場には全くと言っても良い程に無頓着なのだが、「知る者知られる者」の間に居るシニョルには只々恐怖でしか無いのだ。


彼女はルゥテウスという「守護神」を擁しながらも、この圧迫感を一年以上も抱え込んで来た。


「そうだな。我らが統領様の心配事を少しでも減らそうじゃねぇか。

お前達の同胞諸君が、いざ『コト』が起きた時に官憲の追及から速やかに逃げられる場所を今から準備しとこう。

異論がある者は遠慮無く言ってくれ。これはこの場に居る皆の総意で決めたい」


ルゥテウスは話し終えて一同を見回す。皆が真剣な表情で彼の話と、シニョルの言葉を聞いていた。


「店主様。俺は賛成です。

俺は店主様から武術の手ほどきを受けて、自警団を率いるようになってからは、常に『東への帰還』を意識してます。

団員にもそれをちゃんと説明して、俺達が故郷で同胞の皆さんを護るという気持ちで毎日訓練してます。

還る準備をするのであるならば望むところです!」


自警団隊長のロダルが立ち上がって声を上げた。


「私も賛成です。我々は何時か故郷に還る為に今も頑張っているのです。

私は長屋の区画整理を管理していた時に、これだけの人数の同胞が一緒に暮らしているのだという事実を改めて実感しました。

これだけの人数で力を併せればきっと帰還は叶うでしょう」


兄のキッタも立ち上がり、静かに話す。隣同士だった二人は手を打ち合った。


「左様ですな。これだけしっかりした若い世代も育って来ている……。

同胞の皆もこの二年で随分と意識が変わったことでしょう。

きっと解ってくれると思いますぞ」


ラロカが立ち上がる。最年長であり、この大陸で生まれた彼はキャンプが設置される前の……難民にとって苦難が続いていた頃を知っている。

そしてそこから抜け出す為にエスター大陸に渡って常識外の年齢で暗殺術を身に着けた。

全ては難民同胞を救う為に立ち上がった、自分よりも年下のシニョルやイモールを輔けたい一心だったのだ。

今、更に若い二人の兄弟が同胞の帰還に対して闘志を見せたのが何より嬉しかった。


「勿論私も賛成です。我ら《青の子》も自警団と共に同胞を護り続けることをここで改めて誓いましょう」


ドロスがゆっくりと立ち上がった。他の者も次々と立ち上がり、「私も私も」と口にする。

難民にとって自分達のルーツであるエスター大陸への帰還は悲願なのである。


全員が立ち上がった。両親家族、知人を全て殺されてまだ日の浅いサクロ出身の五人娘も立ち上がった。

彼女達にとっては辛く悲しい思い出しかない故郷だが、やはり郷愁の想いは他の者達と同じなのだ。


シニョルは黙ってその様子を見ていた。その頬は涙で濡れている。

主人の秘密を守るという名目でこの施設を創り、苦労してきた二十数年が今報われようとしている。


それはイモールも同じであった。二十数年前のあの日……たまたま公爵邸のゴミを引き取りに車を牽いて来た彼を見たシニョルに声を掛けられたあの日……同じ難民の同胞だと自己紹介され驚いたあの日……。

彼は机の上に顔を伏せていた。零れた涙が机に染みを作る。


「よし。分かった。ひとまず座ってくれ。帰還を是として具体的な話を始めたい」


ルゥテウスが静かに言うと一同は再び腰を下ろした。シニョルとイモールも涙を拭く。


「最初に俺の考えを言っておく。俺が最初の上陸地点として選んだのは……サクロ村だ」


彼のこの言葉にシュンが驚いて声を上げた。


「わ……私達……私達の村ですか!?」


「そうだ。俺も一応は色々考えたのだ。その中で帰還する場所の条件として真っ先に考えたのは『水』だ。

このキャンプの整備を始めた時にも話したよな?大勢の人々が集落を形成するに当たって一番重要なのはまず水なのだ。

水が無いと生命維持が難しい。そして食糧を生産するにも水は重要だ。

エスター大陸は、俺も何度か足を運んでいるが、このキャンプのある場所と違って地下水脈が少ない。

いや、有るには有るのだが……三万人、将来的にはもっと爆発的に増えるだろう『国民』の生活を賄うことができる量を確保するのが難しい」


「な……なるほど」


シニョルが頷く。


「その点、サクロ村には大きなオアシスがある。水質も良好だ。

オアシスも形成過程で色々有るのだが、あそこの場合は東側に山地があるな。その雪解け水が由来だ。

しかも山地の麓に上手い具合にその水が貯まる窪地があるからだな。

ただ、その窪地の正体は一万年前の大戦争で超兵器が何発か着弾した跡だけどな」


ルゥテウスは笑い出したが、「大戦争」という言葉を聞いた一同の顔は引き攣っている。


「とにかく、雪解け水を上手い事受ける容器が、丁度いい場所にあるってわけだ。

あのオアシスならば十分な人口を賄えるだろう」


「更にこれは俺の予想なんだけどな……お前達サクロ村の連中が言っていた『大壁と火の戦争』の話だ。

恐らくあの壁の下には地下シェルターが有る」


「ち、ちか……?」


「地下シェルターと言ってな。まぁ、前文明時代に戦争が起きた時に逃げられるように地下に造った構造物だ。その頃は世界中にそういう場所があったんだ。

大抵の物は実際に戦争が起こった時に、飛んで来た兵器の破壊力が想定よりも大き過ぎて役に立つこと無く破壊されたんだが……」


「あの大壁の正体はダム……川の水を堰き止める為の施設で、その地下にあったシェルターは敵の兵器に耐えられたんだろうな」


「今ではすっかり地形が変わってしまったのだが、大昔は東の山地を水源とする川があって、それを大壁……ダムで堰き止めて運動資源を利用していたのだろう。

そして、その地下に戦争が起きた時の避難所を設けたと思われる」


「その後はどうなったのかは知らんが、世界各地で破壊を免れたシェルターはそのまま生き残った人々の住居になったようだな。

現代においても元はシェルターだったという集落から大きな都市になった場所は結構ある。王都レイドスがその代表だな」


「そうなのですか?」


ドロスが興味津々に尋ねる。


「そうだ。王都レイドスには、遠い昔……地下深くに造られたシェルターが在ってな。

この大陸はそれ程激しい戦禍に巻き込まれなかったから破壊されずに生き残れたのだ」


「その後はシェルターを中心として沢山の人々が集まって来て村のようになった。

人が集まった理由はその地下深いシェルターの中で豊富な地下水が出たからなんだ。

そして人々は力を併せて魔物からシェルターを守りながら数千年も戦い続けた。ずっと長い間……何しろ暗黒時代である『第二紀』は8060年も続いたからな」


ルゥテウスは目を閉じたまま語り続けた。一同は今まで聞いた事も無かった上代の話を静かに聞いている。


「で……今から3000年くらい前か。その集落の住民は『レインズ』という名前の部族を形成していたのだが、族長を継いだ若者の妹が旅の男と恋仲になった。


その男は髪も瞳も真っ黒だった……」


「あっ……もしかして……」


「そうだな……。その男は恋人であった少女の兄に力を貸して、この大陸の『大掃除』の為に立ち上がったのだ」


「そのシェルターの場所……集落の名前が《レイドス》。

当時は姓を持っていなかった族長の若者……まぁ当時の人類の殆どが姓なんか持って無かったけどな。

彼は自分が住んでいた場所を自分の姓にしたんだ。

今でも言うだろう?『◯◯の◯◯』って。要は『レイドスのアリストス』ってわけさ」


「後にアリストスという族長の子孫はそのまま『レイドス』という姓を族長……王室だけのものとして名乗った。

そして……妹が産んだ赤子には古い言葉で《決してー忘れない》という意味を持つ『ヴァルーフェリウス』という姓と世襲公爵位を贈った。

後に妹もその姓を名乗って『ユミナ・レイドス=ヴァルフェリウス』となり、兄の死後は『国母』と呼ばれた」


目を開いたルゥテウスは「フン」と鼻で笑いながら


「決して忘れない……建国の大功を挙げながら恋人とその腹の子を残して立ち去った盟友に対して大王はその功績と友情を『永遠に忘れない』という意味で名付けたらしいな。

だからボンクラ当主が続いてもあの家は潰されないんだ。くっくっく」


ルゥテウスが笑う口元は皮肉の色を浮かべて歪んでいた。一同は何とも言えない顔で彼を見守っている。


「て、店主様は……その……やはり古い時代の事を良く御存知ですね」


ソンマが口を開く。実際、難民同胞の中で最も古い文献に目を通して来たのは彼だろう。

そういった文献ではなく、自らに伝わる記憶を基に話すルゥテウスの言葉は彼にとっても初めて聞くものばかりであった。


彼は文献から得た知識によってルゥテウスの正体を知り得る可能性に一番近い人物であったのだが……。


彼は……「黒き福音」だの「黒い公爵さま」、「沈黙の旬」などの話は全て「眉唾物」と思っていた。

元々が難民出身でキャンプ育ちの彼は一般の王国民が子供の頃に誰もが聞かされる建国神話など知らずに育ったからだ。


少なくとも魔法ギルドで術師の基礎から錬金術までを学んでいた頃は建国時代の記録は全く信じていなかった。

以前も本人が口にしていたが、彼は現代に伝わる「歴史」を「誇張が多く、信じるに値しない」ものとして捉えていた。


ルゥテウスと出会ってからは文献に記されている「妄想や誤った伝聞」だと思っていた事が現実のものとして目の前で次々と起こる為に、最近では灰色の塔でもっと歴史を学んでおけばよかったと後悔している節があった。


しかしそんな彼でも結局はルゥテウスの正体……「完全発現者」という存在である事を見抜くのは難しかった。


彼の学んでいた灰色の塔……魔法ギルドにおいてさえ、「発現者」という存在は「何々をした」とか「何々ができた」という表現で同時代の書物には記されており、「どのような者なのか」という事について深く研究・考察された資料は見当たらない。


歴代の「黒い公爵さま」、特に「賢者の知の発現者」も自身の血脈については全くと言っても良い程に語らなかった。

皮肉な事に現代のルゥテウスが自分について尋ねられると「俺の事はどうでもいい」とはぐらかすのに似ている。


そして歴代の黒い公爵さまは「お隠れ」になる前には前任者の記憶に倣い


「私のような力を持つ者は今後も必ず現れる。お前達が国の祖法を蔑ろにし、ギルドの憲章を踏み躙る時、再び現れて必ずや愚か者を誅するであろう」


と遺される者達に警告のような脅し文句を浴びせてこの世を去るのだ。


この魔王が滅びる際の捨て台詞に似た遺言は数百年に一度、人々が忘れかけた頃に現実となり、社会の「愚か者」は抹殺されて不正は一掃されてきた。


「ちょっと話が逸れたな。シュンに尋ねるが、サクロ村はどこかの『国家』に属していたのか?村で採れた収穫物をどこかに納めていたのか?」


ルゥテウスから突然尋ねられたシュンは、一同の視線が集まる中でビックリしながら少し考え込んで


「実はその……私はここに連れて来て貰うまでく……国?と言うものは知りませんでした……」


他の四人も同じらしい。どうやらサクロ村というのは、独立した集落だったらしく、その上位の統治者が居なかったようだ。


「知らなかったという事は、サクロ村と交易なんかで交流があった近隣の村も同じようなものだったのか?」


「た、多分……私達の村には年に二度……たまに三度ですかね……村で採れた物を交換してくれる人達が来てました」


「ほぅ。何を交換していたんだ?」


「はい……。そういうのは亡くなったソン爺……村長(むらおさ)が知ってたと思いますが……うちは麦……小麦ですか。それを出して、干し肉や……塩を貰ってました」


「エナルの家は綿花……綿を作っていたんだろう?」


「は、はい……」


キャンプに連れて来られた頃と比べて随分と明るくなったエナルは


「父さんを手伝って綿を採ってからは、それを糸にしたり織物にしたり……糸のままとか織物を肉や塩と取り換えて貰ってました。その夜はお肉の入ったスープが飲めて……」


エナルの話は当時のサクロ村の素朴な生活を思わせた。

そんな彼女も今では休憩時間になると隣に建つ菓子工場にお邪魔して、女性同士でワイワイと雑談をしながら甘いお菓子を食べてお茶を飲むという生活に慣れてきている。


「話を聞くと、どうもサクロを含む周辺と、遠隔地の地域を回る行商隊が居たのではないかな。

その連中を介して周辺の集落や遠隔地の産物を交換していたように思えるな」


ルゥテウスの推測に当の娘達も「なるほど」と頷いている。

彼女達の行動範囲はサクロ村とその周辺だけで、寧ろ皮肉な事にあの山賊に攫われた時が彼女達にとって生涯初の遠出になっていたようだ。


シュンは父からサクロの周辺には別の集落がある……という話だけは聞いていたようだが、実際に彼女達がその「隣村」を訪れた事は無かったし、もしかするとその話をした父自身もそうだったかもしれない。


「と、言う事はだ。我々がサクロ村に新たな集落……いや国家を築いても、当面は周辺勢力との摩擦は生じなさそうだな」


「なるほど。そうですね」


ラロカが頷く。


「よし。そういう事であれば、まずは俺と親方が先行してサクロ村に入って測量をした後に将来的には役場として使用できる建物を造ろう」


「承知しました」


「後はそこに転送陣を設置して志願者を中心に人員と物資を少しずつ移す。その間にさっき話に出て来た『隊商』と接触する事が出来たら周辺の事情を聞いてみよう」


「しかし……サクロ村が壊滅してから既に五ヵ月が経ちます。その隊商とやらがもしその間に訪れていて、あの惨状を目にしたら以後の行動ルートからサクロは外れるのでは無いでしょうか?」


ドロスの指摘は尤もだと言えた。


「なるほどな。そういう可能性もあるか」


「店主様。初期の人員に《青の子》の者もお連れ下さい。我らで周辺を探索して、もしも集落が存在するならば実情を確認致します」


ドロスが申し出た。


「そうか。では最初の人員は俺と親方。それと《青の子》と自警団からも10名。勿論、志願者を優先する。まぁ……転送陣をすぐに設置するから結局はここと普通に行き来できるんだけどな」


ルゥテウスが笑うとドロスも小さく笑う。

考えてみると先人が苦労して渡って来たアデンの大海に隔てられた故郷の大陸と「簡単に行き来できる」というのは信じ難い話である。


「では監督と隊長は人選を頼む」


「はっ」


「承知しました」


ロダルとドロスはそれぞれ立ち上がった。


「いよいよ……なんですね……」


シニョルが静かに言う。


「私は昔……まぁ、恥ずかしいですけれど……体を売ろうとしてた頃がありましてね……。それでもこんな見た目だから全く駄目で……。いつもひもじくて……弟が居ましてね……小さな弟が……」


シニョルは再び涙をポロポロ零しながら語る。


「弟が……食べる物も無くて……最期に……目を瞑る前に……」


彼女の話を聞いて一緒になって涙を流す者も居る。彼らにとっても当時はこのような出来事が当たり前であったのだ。


「海が見たいって……お祖父さまに聞いた『向こうの場所』が見たいって……逃げて来る前は貧しくても食べ物だけはちゃんと食べられたって……」


「私独りになってからは毎日夢を見てましたわ……。弟が見たかった『向こうの場所』にいつか行く……還るって……」


「シニョルよ。お前の『敵討ち』はこれからだ。皆の敵討ちを始めるんだ」


ルゥテウスが何時になく優しく言うとシニョルは顔を上げて、涙を拭き


「そうですわね……私はやっと……ここまで来れたんですわね……」


と笑顔で言った。他の者達も涙を拭いて同じく笑顔になった。


ついに難民達の敵討ちが始まるのだ。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド

主人公。6歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

戦時難民のキャンプの魔改造と難民の帰還事業に乗り出す。

難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。


シニョル・トーン

52歳。エルダの独身時代からの腹心で現在は公爵夫人専属の女執事。

難民同胞を救うためにキャンプの創設を企図し、難民からは《統領》と呼ばれ崇拝される。

普段は極めて冷静沈着で高い知性を持つが、甘い物に目が無い。


イモール・セデス

50歳。シニョルの提案で難民キャンプを創設した男。

現在もキャンプの責任者を務め《市長》と呼ばれる。

理知的で穏やかな性格だが、最近は涙脆い。


ラロカ

53歳。エスター大陸から暗殺術を持ち帰った元凄腕の暗殺者で《親方》と呼ばれる。

現在は難民キャンプの実質的副市長で施設建築を担当。

誰もが認める強面だが、時折良策を主人公に提案し驚愕される。

暗殺術の修行時代から羊を飼うのが上手い。


ドロス

45歳。難民キャンプで諜報組織《青の子》を統括する真面目な男。

難民関係者からは《監督》と呼ばれている。

シニョルに対する畏怖が強い。


ソンマ・リジ

26歳。戦時難民出身で初めて魔法ギルドに入門し、錬金術を修めた初級錬金術師。

《赤の民》へ術符を提供してしまった為にギルドから追われる身となるが主人公に救われる。

難民キャンプの中で主人公が作った薬屋《藍玉堂》の経営を任され、仲間からは《店長》と呼ばれる。


ノン

16歳。《藍玉堂》の受付担当。美人で有能だが気が小さい。

主人公の秘書を務め、姉を偽装する役目も負っている。

主人公からアリシアのノートを託されて薬学を学び始める。


アイサ

51歳。キッタ、ロダル、サナの三兄妹の母。

かつては末期の肺病に冒されていたが主人公に命を救われる。

現在は《藍玉堂》二階でお菓子作りに精を出す。


キッタ

32歳。アイサの子供で三兄妹の長兄。眼鏡がトレードマーク。

製薬機械を自在に操る才能があることが発覚し、現在は一部から《工場長》と呼ばれる。

非常に有能で機転が利き、地味な活躍が多い。


ロダル

29歳。アイサの子で三兄妹の次兄。

主人公から武術を学びキャンプの自警団初代隊長に任命される。

統率力と度胸に優れるが、女性に対して免疫が少ない。


シュン

21歳。エスター大陸のサクロ村出身。

村が山賊に襲われて攫われていた女性達のリーダー的存在。

主人公とロダルに救われて、現在は藍玉堂の工場で働く。


イルク、アイ、エナル、サビオネ

エスター大陸で山賊に攫われていた女性。

アイはシュンの妹。

シュンと共に藍玉堂の工場で働く。


****


エリン・アルフォード

21歳。レインズ王国の内務省渉外室に所属する女性で現内務卿ロビン・アルフォードの長女。

魔法ギルドからの申し入れを受けてキャンプ調査の指揮を執る。

既に婚約者が存在する。


ナトス・シアロン

29歳。レインズ王国の内務省私領調査部監察室に所属し、エリンの指揮の下でキャンプの調査に同行した。

初めて会ったエリンに一目惚れしてしまい、以後付き纏う。

主人公に呪術を掛けられ、傀儡にされている。

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