導師長の疑念
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
3040年1月末、レインズ王国の内務省渉外室所属のエリン・アルフォード率いる合計六名の特務監察班は、ヴァルフェリウス公爵領オーデル北東郊外にある公爵夫人私設の戦時難民収容所の「視察」という名目の偵察を終えて王都へ帰還した。
彼女ら六人が密偵紛いの行為までしてキャンプを偵察したのは、同じく王都に居に構える魔法ギルドからの通報で「難民キャンプが怪しい」という情報を得て、その実情を確認しに行ったのである。
本来ならば内務省という政府機関が魔法ギルドという王国の統治圏外にある「組織」に煽られてわざわざ藩屏の最高位に位置する大貴族であるヴァルフェリウス公爵家の領都を公爵家の承諾も無く偵察するというのは政治的なリスクを考えると肯んじ得ない話ではあるのだが、ギルドと王国の実質的な互助関係にある現在、それを無下に断るわけにも行かず、内務卿は一人娘であるエリンの「キャリア作り」を兼ねて送り出した形になった。
魔法ギルド側もそんな事情を弁えてか、一部人選に協力する形を採って冒険者ギルドに監察班へのサポート役として人材の派遣を依頼、冒険者ギルドが推薦する偵察能力に定評のある人物へ《隠形》の術符を提供するなどした。
結果的にはこの六名はルゥテウスと《青の子》によってあっさりと捕縛されて記憶の操作まで受けて送り戻される格好になったのだが、この際にキャンプ側の四人は「内務省の職員二名が四名の冒険者を率いて来た」と認識していた。
実際は逆で「内務省職員四名が二名のサポート人員としての冒険者を率いて来た」というのが正解であった。
要は面倒臭くなったルゥテウスが冒険者であるエフトのサミエル、そして内務省のナトス、エリンの三人を尋問した後に残りの三人の尋問を端折った為に結果的に残り三人の身元確認を怠ってしまったのが認識違いとなってしまったのである。
しかしそのような問題は全体的に見れば「些細な事」と言って良く、「魔法ギルドに唆された内務省が冒険者を雇ってキャンプを覗きに来た」という認識はあながち間違ってはいなかった。
エリンは復命すると内務省の上層部には報告書を提出し、魔法ギルドに対しては口頭で結果を伝えた。
その際、灰色の塔からは導師長の首席秘書である、魔術師シュペルが内務省を訪れた。
彼はこの監察のきっかけとなった魔法ギルドからの通報時にも派遣された人物で灰色の塔においてはかなり高位の魔術師であるため、エリンも相手に対する畏怖から態度を改めざるを得なかった。
「今回の監察結果をお伝え致しますわ。シュペル様」
「これはこれは……本来ならば王国政府内での機密をお漏らし頂くとは誠に恐れ入ります」
シュペルは高位の魔術師と言ってもまだ30代後半の少壮と言っても良い人物である。
本来ならばこのような地位に在ってしかも実力も卓絶しているだけに態度が横柄になってもおかしくないのだが、上司であるラル導師長が実直ながらに人当たりを大切にする人物であるので、自然とそれに仕える彼も温和な雰囲気を持っている。
これは当代の魔法ギルド総帥であるアンディオ・ヴェムハ子爵が王国貴族であることも然ることながら、もう一方の魔導師であるラル・クリース導師長の人格も手伝って灰色の塔と王国政府は過去の歴史と比べても非常に友好的な状況が数十年続いている。
総帥選出の際にはそれぞれに与する政府や貴族の「取り巻き」によって険悪な状態になったのだが、いざ総帥が王国貴族であるヴェムハに決まった後は双方「遺恨を持たず」という暗黙の了解の下でこのような関係が続いているのだ。
「灰色の塔からご推薦頂いたお二人を加えて六名という人員で監察に赴かせて頂きました。私自身も未熟ながらその班列に加えさせて頂きました」
「左様でございましたか……お嬢様ご自身の御手を煩わすとは。これは却ってご面倒をお掛け致しました。申し訳ございません」
シュペルは恐縮の態で頭を下げたがエリンは「お嬢様」と呼ばれた事に軽い苛立ちを感じた。
彼女自身はあくまでも自分は「自立した一人の高級官僚」であると自負しており、決して「親の七光り」では無いと思っている。なので「(内務卿の)お嬢様」という呼ばれ方に多少の反感があるのは致し方ない。
しかし、そうは言っても彼女は王国官僚学校を次席で卒業してまだ三年、21歳という若さである。
本来ならばその若さで「渉外室」という重要部署に配されていることが異例なのだ。
渉外室は内務省の中にあって、文字通り省の外部と交渉や連絡を執り行う部署である為、本来ならば社会経験を大いに積んだ人格が練れた者を配置するのが慣例となっており、内外共にその慣習は知れ渡っている。
そこに高学歴とは言え入省三年目の「小娘」が配属されたとあっては「これは縁故人事」と揶揄されても仕方無いのである。
「ご推薦の方のご活躍もあって、収容施設の中も随分と詳細に観察することが出来ました。また当方の職員による周辺での聞き込みもあって、その実情をかなりの部分まで把握することが叶いました」
「なるほど。監察は順当に実施できたわけですな。ご足労をお掛けしました」
シュペル師の態度は「お嬢様」という扱いを除いては、どこまでも穏やかで丁寧である。
エリンは先程少し抱いてしまった彼への反感も消えて説明を続けた。
「で……監察の結果ですが。実際にその実情を観た限りでは導師様がご懸念されているという状況とは異なり、当初我々が抱いていたものとそう変わりの無いものでした」
「ほぅ……」
「戦時難民の者は、ヴァルフェリウス公爵夫人の庇護を受けているとは言え、その暮らしぶりは至って質素。最低限の粗末な住居……あれは長屋ですわね……と、やはり最低限の食糧配給、老若男女問わず服装も極めて質素でこの寒い季節に却ってこちらが気の毒になりそうな程のものでしたわ」
「なるほど。そうでしたか」
「シュペル様が御説明下さった『異常な光、異常な明るさ』というのは、菓子を作る工場が防犯の為に特別に設置した街灯の明かりでした」
「街灯?」
「シュペル様は、最近王都でも評判になっている菓子店を御存知ですか?公爵夫人が後援して出店している難民が経営する店舗です。下級貴族街のネイラー通りに面した場所にあるのですが」
「はい……店舗の場所はともかく、公爵夫人がそのような難民を庇護されているというお話は数十年前……それこそお嬢様がお生まれになる前から承知しております」
またしても自分の若さを論うような言い方をされて、エリンは再度気分を害した。恐らくシュペル本人はそのようなつもりで言っているわけでは無いのだろうが、彼女を一人の社会人としての官僚では無く、「内務卿の娘」として見られている事実に反感が起こるのだ。
それでも彼女は表向きそのような感情を出す事無く報告を続けた。
「どうやら、その菓子を製造している工場に窃盗を目的として忍び込む不心得者が、よりによって同じ収容施設で暮らしている難民の中に居るようですわね。
そのような盗難から菓子や材料を守る為に近頃、照明を配したようです。
難民の質素な暮らしでは、恐らく甘い物を口にすることも侭ならないのでしょう。
彼らからしてみれば、自分達では無く外で売る為に菓子が造られていることに隔意を抱く者も居るのでは無いでしょうか」
エリンの口にするこういった考察は、ルゥテウスが具体的に「刷り込んだ」わけではなく、その掛けられた暗示の内容を基に監察班の構成員で話し合われた結果導き出されたものである。いかにその暗示の力が強固なものであるかが窺い知れよう。
「この件については既に私共の考察も添えて上には提出済みです。シュペル様にとりましては味気無い内容かもしれませんが、お戻りになられましたら導師長様にお伝え下さい」
シュペルはエリンの表情をそれとなく観察してみたが、どうやら嘘を言っているわけでもないし、その理由も見当たらない。政府当局としてはこの件でわざわざ公爵家……厳密には公爵夫人が抱えている戦時難民を庇う必要も無いのだ。
「左様でございましたか。なるほど……どうやら今回の件は導師長の杞憂だったようですな。
承知致しました。私も立ち返ってお嬢様の仰られた内容を伝えさせて頂きます。
重ね重ねお手数をお掛けした上にお騒がせ致しました事をギルドを代表してお詫び申し上げます」
シュペルは椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。エリンも慌てて立ち上がり、礼を返す。シュペルはゆっくりとした所作で応接室から退出して行った。
(結局最後まで私の事を「内務卿の娘」として見てたわね……)
エリンは胸の内に僅かな鬱屈を抱えながらシュペルを送り出し、自分も職場に戻って行った。
職場へ戻って来ると渉外室の扉の前に、今回の監察に同行した私領調査部のナトス・シアロンが立っていた。ナトスは応接室から戻って来るエリンを認めると、わざとらしくゆっくりとした所作で彼女に近付き、挨拶を交わしてきた。
まるで先程の退出するシュペルを思い出させるような動作だ。エリンは多少の苛立ちを覚えた。
「エリン様、今回は私如き若輩をお導き下さり誠にありがとうございました」
わざとらしい謝辞だが、ナトスはもうじき三十路を迎えるはずでエリンにとっては王立官僚学校の先輩に当たる。「若輩」などと遜られても返答に困るだけだ。
「これはシアロン様。何か御用でしょうか?」
エリンの態度はぎりぎり礼に失しない線で素っ気ない。年下ではあるが素性からすると内務卿の娘であり、侯爵令嬢である彼女の方が身分も立場も圧倒的に上なのではあるが、彼女はあくまでも同僚でもあり先輩としてナトスに接している。
「ナトスで結構です、エリン様。今回の件について、再度話し合いを持ちたいと思いまして……何か見落としがあるやも知れません。もし宜しければ夕食でもご一緒になりながら……」
「申し訳ございません。今回の件についての報告書を早急に提出するようにと内務卿から促されておりまして」
エリンは嘘をついた。報告書はもう提出済みであるし、重ねて内務卿である父ロビン・アルフォードには直接口頭で説明済みである。
彼女としてはこのナトスという年上の同じ内務省職員が自分への接し方対して抵抗があり、既にアヴェル辺境伯の次男との婚約が済んでいる貴族の令嬢の立場として不用意に婚約者以外の男性と晩餐を共にするのは慎まなければならないと思っている。
彼女のような高位の貴族令嬢の場合、婚約……それも相手の家が辺境伯というこれまた高位の貴族である場合は「婚約の儀」という正式な儀式を経ているので、その事実は広く公に伝わっているはず……にも関わらず、このように夕食の同席を誘ってくるという異性に対しては非常識であるという印象が拭えない。
「ですから、その報告書を提出される前に今一度その内容について話し合いたいと思っているのでございます。
アシリス通りにある『双頭の鷲』で席を取ってありますので、宜しければ今晩にも……」
ナトスは尚も食い下がる。彼にしてみれば、本来ならば「私領調査部」と「渉外室」は同じ内務省の中でも普段殆ど接点の無い部署である。
ましてや彼はその中でも更に「監察室」という現場を飛び回っている部署で、王都で腰を据えて勤務しているわけでもない。
そして平民出身である彼は雲の上の存在である大貴族同士の婚約事情には疎く、彼女には既に婚約者が居ると聞いたところで、どうしてもそれを平民レベルでの話に当て嵌めて考えてしまう。
本来ならば、彼の部署である私領調査部にとって、領地持ち貴族であるアヴェル辺境伯家は、監察対象ともなる存在なのだが、その次男の婚約までは気が回らないのである。
このレインズ王国という国家は、その建国時に定められた「建国法」によって、貴族の世界と官僚の世界が明確に分けられている。なのでお互いがそれぞれ干渉することは滅多に無い……はずである。
この「見えない法の壁による明確な住み分け」がこの王国を3000年もの長きに渡って途中大きく傾いたりしながらも存続させてきた大きな要因で、「祖法絶対主義」という一見すると極めて硬直した社会を形成し、厳格な身分制度を保持してきた功罪相半ばする事象なのである。
但しこれにも建国法では毎度お馴染みの、一部例外というか「穴」が存在する。
貴族による政府各省庁の長への就任だ。初めはいつも何かしらの「名誉職」のようなものが代を重ねて実質的な権威と権力を帯びてくるパターンだ。
前述したが、この王国は建国以来何度か「黒い公爵さま」によって社会の腐敗を一掃する時期があり、それが終わって彼が「お隠れ」になった後は政・官・爵……場合によっては商界も一新された清冽な社会が始まるのだが、次の黒い公爵さまが現われる数百年の間に、やはり社会が弛緩してくると、その枠組みが大きく乱れて政官界に対する爵……つまり貴族側の浸食が顕著になってくる。
それによって一部の有力貴族を中心として各省庁に派閥が形成され、そのトップ人事が「順送り」になる。
現代の好例としては政府の「柱」である財務省を掌握しているノルト伯爵家を中心とした財務閥で、近年……この百年余りの間の財務卿とそれに近いトップの人事は全てこのノルト家が支配する財務閥が握っている。つまり、今の王国の経済・財政面は一貴族が束ねる派閥によって掌握されていると言っても過言では無い。
同様に国内の統治を預かる内務省も、アルフォード侯爵家によって掌握されつつあり、まだ21歳でしかない「内務卿の娘」が渉外室という対外重要部署に配属されている事態を見ただけでも明らかだ。
他にも有力貴族によって各個支配された省庁は無数にあり、王国の統治秩序は現在大きく乱れていると言っても良い。
もしも、このような状況で「黒い公爵さま」がヴァルフェリウス公爵家に出現した場合、ノルト家もアルフォード家も真っ先に粛清の対象となり、その一族は九族に至るまで族滅させられるだろう。
本来ならば門閥貴族達はこの黒い公爵さまという存在に対して恐々とその対応に腐心すべきなのだが、粛清された貴族の関係者は記録諸共もれなく抹殺された上に毎度数百年という空白期間はその「伝説」すらも風化させてしまう。
二代前の財務卿で、現在の財務閥を束ねるニーレン・ノルト伯爵は結果として次女エルダをヴァルフェリウス公爵家に輿入れさせることに成功したが、これは皮肉なことに貴族の頂点に君臨する世襲公爵家としてのヴァルフェリウス家を自陣営に抱き込む為の単なる運動であり、「黒い公爵さま」という存在は全くと言って良い程に意識されていない。
黒い公爵さまの存在と活躍は、それによって族滅した大門閥と共にその都度忘れ去られ、「黒き福音様」の建国神話だけが吟遊詩人の歌や、講談、演劇の題材として脚色塗れで伝えられるだけなのである。
エリンは……彼女にしては強い口調で
「シアロン様。仰られるような事であるならば、わざわざ市内の料理店で無くとも今回の監察に同行された他のお二人も交えてこの庁舎の中で、それも勤務時間内に会議室を使って行えば済む事。
なぜ私が貴方様と二人だけでこのような重要事案について、再協議を行う必要があるのでしょうか。
先日もお断りさせて頂きましたが、私には婚約者がおります。この時期において勤務時間の外で殿方と二人だけで行動するのは厳に慎まなければならないのです。
折角のお誘い、大変恐縮ですがご辞退させて頂きます」
と……はっきりと拒絶の態度を示した。
「なっ……」
ナトスは声こそ落ち着いているが、その口調には自分に対する明確な拒絶と軽蔑すら感じるエリンの言葉に顔色が青ざめた。
「失礼します。私も色々と忙しい身でありますので」
軽く頭を下げるとエリンは渉外室の中に消えた。その場に残されたナトスは言葉も出ないままに立ち尽くしている。これらのやり取りを見せられる事になった通りすがりの同僚達は
「バカかあいつ……内務卿閣下の御令嬢だぞ。しかも婚約までされているというのに……」
と心配半分、嘲り半分といった様子で通り過ぎて行く。このままでは、この様子が省内に広まり、遠からず内務卿自身の耳にも入ってしまうかもしれない。それは当然ながらナトスにとって悪い結果をもたらすだろう。
(ちくしょう……あんなに美しいのに……クソっ……それでも……それでも彼女は素晴らしい……俺のモノしてやりたい……)
立ち尽くす彼はそんな周りの様子など気にする事無くエリンに対しての想い……歪められて行くそれを更に燃え上がらせて行く……。
(これは……またどうしようも無いのを引き当てたな……)
ルゥテウスに与えられた、ナトスの右手中指に嵌っている指輪と魔導で直結している魔装具を耳に掛けて、この一幕を2000キロ近い彼方で聞いていたドロスは苦笑した。
彼は今、北の国境の街アッタスにて昨日から《青の子》の支部を設置するために物件を物色中だ。
同時に進めていたドレフェスへの物件購入契約は既に一昨日に済ませており、予定では本日引き渡しのはずである。
引き渡し自体はシニョルの作成した、公爵夫人エルダの委任状を持ったイモールがルゥテウスに送り込まれて済ませる手筈になっており、本日引き渡された建物は今夜辺りルゥテウスによっていつものように地下を掘り下げられて地階は《青の子》の支部に、地上部分は菓子屋に改装されるはずだ。
今回のドレフェスの物件もかなり良い条件で、場所は街の中心部、それも中央広場に面した幅6メートル、奥行き15メートル、地上三階建てという元はなんと、あの「マイル商会」所有のもので、価格こそドロスの交渉を以ってしても金貨830枚と値が張ったが、菓子屋としても諜報拠点としても最高級の立地である。
王都レイドスに対して、《副都》とも呼ばれるドレフェスはレインズ王国……いや、北サラドス大陸のほぼ中央という場所に位置し、古くから交通と流通の要衝であり、歴史的にも《大王》アリストスが《建国宣言》を行った地でもある。
海運の中心が大陸南東にあるレイドスと共に首都圏を構成するチュークスに対し、陸運の中心は文句無くこのドレフェスであり、大陸東西の産物はこの国内第二位の大都市で交換されると言っても過言では無い。
その商況賑やかなドレフェスの中心部に物件を持てた事は菓子店事業にとっても《青の子》にとっても非常に幸運な事であった。
この地でキャンプ製造の菓子が好評を博せば、それは大袈裟ではなく王国中で流行する可能性すらある。
青の子の拠点という意味で注目を浴びる事は好ましくないが、菓子屋の繁盛はキャンプの財政に直結することでもあるので、その後の各地への出店で事業が成功する見通しが高くなる。
思えばキッタの提案が諜報活動の偽装よりもキャンプの経済好転に繋がっている現状を鑑みてドロスは自分の予測を超えた事態に苦笑を禁じ得ない。
今の彼は前述の通り、大北東地方……現在はニケ《帝国》との国境に位置する公爵領の都市アッタスで《青の子》の支部拠点を物色中だ。
この地での諜報は隣国ニケの状況や国家体制に関する事が主となるので、これまでの公爵領内、王国内とは違う形の技術が必要となる。
ルゥテウスすら知らなかった「隣国」という存在に対して政治的な知識も必要になるだろうし、現在でもこの街には北から流入する難民が増え続けているのである。
そして厄介な事にその難民は二種類居て、彼らがこれまで保護の対象としてきた「エスター大陸からの避難民がニケ沿岸に漂着して放逐された者達」と「北方で困窮した者がニケを捨てて王国側に庇護を求めてやって来る者達」が混在している。
王国はエスターからの戦時難民は勿論、北方困窮民にも国籍を与えず社会の最底辺民として放置している。
王国側からすればエスターからの戦時難民はともかく、北方困窮民に対しては
「王国への移住勧告は450年前に済んでいる。王国政府の勧告を無視して臣従を拒否し、北方に残留した愚か者の子孫が今更何を言っている」
という態度なのだ。
この方針は以来450年もの間堅持されてきたし、その間に王国側が予想した通り、放棄された地でエスター大陸を彷彿とさせる人間同士の血で血を洗う状況を軽蔑の眼差しで眺めてきた経緯もある。
王国政府にとってみればこの北サラドスの大北東地方の住民もエスター大陸の住民も等しく「蛮族」なのである。
「秩序ある文明統治」に従えないのであれば無理に組み込む必要は無く、ましてやそれに対して国民からの血税を投入するのもバカバカしいというわけだ。
ドロスは《青の子》を統括する立場で、このアッタスに根拠地を設置するに当たり、今後はそういった歴史的経緯と王国側の立場・心情を理解する必要がある。
いみじくも先日、ルゥテウスが北方の隣国に対する知識の欠如に「不安」を口にした事は、今後のドロス自身にも言える事なのだ。彼はアッタスにおける物件の選定を進めながら、そう言った地政的、歴史的知識も研鑽する必要がある事を感じていた。
その一環として、先日ルゥテウスから与えられた耳に装着する魔装具を通して、間違い無く現代における国内政治・行政のエリートであるだろうナトスという内務省職員の行動を通して、前述のような知識の涵養に努めようとしていたのだが、その魔装具から洩れてくるものは彼の期待に反して、「年下の上位者である異性」に対する痴情ばかりである。彼にしてみれば
「成り行きとは言え、人選を誤った」
とボヤくのも当然だと言える。そしてこの魔装具、大魔導師たるルゥテウスが作成したものだけあって、恐ろしく高度な術式が施されており使用者であるドロス専用に造られているのか、彼の左耳にピッタリと吸い付くように装着でき……そしてその魔装具を通してナトスの指輪周辺の音を拾うどころか、ナトスの精神状態、もっと言うと「心の声」のようなものまで「何となく」拾っているのである。
この魔装具を通して、ドロスはこのナトス・シアロンという人物とその情報を媒介している指輪の経歴まで知るに至っている。
ナトス・シアロンは王都生まれの王都育ちで父親もどうやら現役の内務官僚らしい。年齢は29歳で、ロダルと同年齢のようだ。
優秀な成績で王国官僚学校を3029年に卒業し、上級官僚として父が務める内務省に入省。領地持ち貴族に関わる部署を歴任し、現在は監察室で第三席を務めているようだ。
指輪はどうやらこの王国官僚学校にてその年度の優秀な成績を収めた極少数の卒業生に王室から贈られる物らしく、台座に嵌った紫水晶は「第四位」であることを示すものらしい。
ちなみに次席で卒業したエリンは真っ赤なルビーが嵌った、やはり同じ形の指輪を右手中指に着けており、同じく官僚学校出身の国王夫妻においては……国王が「首席」を示した白く輝くダイヤ、マレーナ王妃もエリンと同じく次席であった証拠であるルビーが嵌った物を即位後の今でも身に着けており、この身分の忖度無しに与えられる指輪は官僚世界において「優秀な成績を修めた」という一種のステータスとなっている。
また、これらの者達を指して「指輪組」と呼ぶのが各省庁の慣習であるようだ。
この監察室というのは現場部署でのエリートコースで、この部署を経て対拝領貴族政策に関わる幹部候補になるようだ。
そして将来はそれらの貴族から見込まれて婚姻の対象になることが多い。
現状は婚約者持ちの大貴族令嬢に魂を抜かれていても、彼本来はエリート官僚であることは間違い無さそうだ。
(よりによって……女に現を抜かすエリート様か……)
ドロスとしては苦笑と同時に舌打ちを禁じ得ない。
彼にしてみれば諜報組織のトップして、護るべき同胞達の命運すら左右しかねない魔法ギルドと内務機関の繋がりを探り、その余慶として王国の政治や行政、歴史などを学ぼうと期待していただけに軽い失望が彼の脳内を駆け巡る。
とにかく、「雑音」が多過ぎるのだ。もっと魔法ギルドとの接点であるエリンから上手く情報を引き出して貰うように接して欲しいのだが、この有様ではその目的達成も怪しくなる。
(仕方無い……。店主様にお願いして奴の「ネジ」を巻き直して貰うか……)
ルゥテウスの激務を考えるとせめてこの分野では彼の手を煩わせたく無いのだが、この件はキャンプと同胞の安全保障に直結しているだけに、彼も多少は妥協するしかない。
ドロスがそう考えているうちに、その「当人」から念話が来た。
『監督、今忙しいか?』
ルゥテウスからの個別念話に対して
『いえ、現在は売り物件の情報を集めて、アッタスの町中を探索中ですので大丈夫でございます』
タイミングの良さに驚きながらドロスはコンパスを握りしめ応答した。
『そうか。市長がドレフェスの物件の引き渡しを終えたぞ』
『左様でございますか。ご苦労様です』
『いや、俺は市長の横でその様子を眺めていただけなんだけどな。
今夜にでも中を改造しようと思っているのだが、今回の物件はこれまでよりも一回り大きいんだよな。
何人くらい詰めさせようと思ってるんだ?』
『はい。ドレフェスは東西南北の交通の要衝ですから、多めに人員を配して未だ支部が開かれていない地域にも対応しようかと思っておりましたので、念話担当者も含めて常時八名程詰めさせようと思っております』
『なるほどな。では八人が寝泊まりできるように施設を広げておくぞ。
それとこの場所は本当に市街の中心だから人通りが多過ぎる。地上に出入口を造ると却って面倒臭い感じがする。
もし何なら地下から横に通路を広げて地下水道に出入口を造るか?』
『そのような事が可能なのですか?』
ドロスは驚いて聞き返した。
『ああ。この場所なら大丈夫だな。ここは寧ろ店の目の前の中心広場にある噴水に水を供給している水道施設がある。この施設を経由して複数の出入口を設置できるな。
その全てを結界で固めれば行政にもバレないだろう』
『なるほど。それではお手数ですがその方向でお願いできますでしょうか……それと実は別件で……二つ程ご相談があります』
『ほぅ……何だ?』
『まずはこのアッタスにおける《青の子》支部の偽装についてです。
このアッタスは街の規模こそ大きいですが、実情としては国境交易の他に難民の居住が非常に多く、他の国内都市と違って菓子は売れないかもしれません。
そう言った嗜好品に手が出せる住民の割合が少ないと思われます』
『なるほどな……』
『なので、もし可能であれば藍玉堂の支店を出して頂くことは出来ませんでしょうか?
回復薬の販売であれば、寧ろ大きな売り上げが期待できそうです』
『薬屋か……なるほど。
よし、何とか店員の候補を探してみよう。薬屋を出す前提で立地を考えても構わんぞ』
『お聞き届け頂きましてありがとうございます……して、今一つのご相談なのですが……』
『うん。どうした?』
『件の内務省職員です。ナトスという男の事なのですが……』
『あのエリン……だっけか。お嬢様に惚れちゃってる奴の事か?』
ルゥテウスの念話には多分に笑いが含まれている。
やはり彼もナトスをその様に見ているのか……と、ドロスも失笑を禁じ得ない。
『左様でございます。仰せの通り、彼の者は我々の想像以上にその……エリンという娘に対する恋慕が激しいようで、却って娘から敬遠されてしまっているようでして……』
『ほぅ……そりゃいかんな。奴の指輪に術を入れたのは、そんな恋愛模様を探る為じゃ無いしな……』
『左様でございます。そこで……もし可能であれば人選を改めるか、彼の思考を操作して、今少し我らにとって有益な行動を執って頂くように仕向けて頂きたいのですが……』
『よし、分かった。人選を改めるのは面倒臭いから、奴の脳内をもう少し職務に忠実な方向に書き直そう』
「脳内を書き直す」という恐ろしい言葉を聞いてドロスは身震いしたが、現状の「叶わぬ恋情」を垂れ流されるよりはマシである。
『重ね重ねお手数ですがお願いできますでしょうか』
『分かった。今すぐやると周囲の連中に怪しまれる可能性があるから、今夜……奴が眠っている間にやっちまおう。
ではドレフェスの店の方はこっちで進めておくから、地下の諜報の方はそっちの物件が片付いてからでもいいから頼むぞ。
設備だけは八人……予備を入れて十人分で作っておくからな』
『ありがとうございます』
『それとシニョルがな、アッタスの物件が決まったら直接自分に念話を寄越せって言ってたぞ。
アッタスは公爵領内だから、エルダの名前で多少は幅を利かせられるらしい』
『さ、左様でございますか……。承知致しました……』
統領様の名前を聞いて、ドロスは軽く震えながらルゥテウスとの念話を終わらせた。
統領様が言う「多少の幅を利かせる」という言葉に怯えながら、それでもこれであの痴情の垂れ流しから解放されると安心して、物件探しを継続するドロスであった。
****
魔術師シュペルは、内務省の応接室でエリンとの接見を済ませると魔法ギルド本部に帰還した……と言っても両者の距離は徒歩にして5分も掛からない場所にあり、共に王城とほぼ隣接した西側地域にある。
ちなみに反対側である王城の東側には救世主教の大聖堂があり、更にそこから10分程東に行くと「あの」マイル商会の本館がある。
灰色の塔と大聖堂。二つの大組織は王国に属しているわけでもないのに王城に隣接した王国の心臓部に位置しているのである。
「導師長様。只今戻りました」
シュペルは復命の挨拶をし、早速エリンから得た「監察」の結果を上司に報告する。
「シュペルか。案外早いでは無いか」
ラルは何やら書類に書き付けを行っていたが、自らの首席秘書が姿を現すとその手を止めて顔を上げた。
「はい。何やらお忙しいご様子ですが報告は後程に致しましょうか?」
「いや、構わんよ。今年の入門者のな……名簿が上がってきたのでな」
「左様でございましたか。それではお言葉に甘えましてご報告申し上げます」
「うむ」
「内務省は件の難民施設に六名の人員を差し向けたようです。どうやら率いたのは、今回の件であちらの窓口になっている内務卿アルフォード侯の長女、エリン殿が自らその任に当たられたようです」
「何……?確か其方の話ではその娘はまだ二十を超えたばかりだと言うではないか。そんな小娘に監察を率いさせたのか?そもそもその娘は監察は門外で内務省の外との窓口になることが仕事なのでは無かったのか?」
ラルはやや眉を顰めた。
「はい……私も彼らの内幕までは確かめようがありませんが、この度の件においては内務卿ご自身が娘の『実績作り』で抜擢した可能性が考えられます」
「全く……仕方ない事だな。あそこはアルフォードの家に好き勝手にやられているじゃないか。彼らは過去の歴史を学んだりはしていないのか?」
ラルが言うのは「黒い公爵さま」による粛清を指している。
「曲がりなりにも彼らは官僚学校を出ているのだろう。で……あるならば、王国における政治史を学んでいてもおかしくなかろう。それとも『あの御方』の存在は今の王国では忘れ去られているのか……?」
ラルは懸念を口にした。彼自身はそもそもが学歴などは無く、教育を受けることも出来ない貧困に喘いでいた青年期にその力を発現させ、現在の地位に君臨している。
ある意味でドロスと似たような真面目さを持つ彼は、灰色の塔に入ってからはその地位に胡坐をかくこと無く、貪欲に書物を読み進めた。
その研鑽は今でも続けており、これは他の「混沌派」である魔導師が自らの知識欲に呑まれて世界秩序に目を向けなくなる行動に似ている。
しかし彼の知識欲は世界秩序、それも特に魔法世界の秩序に向かっているのである。
アンディオ・ヴェムハという天才魔導師がその天稟のみで力を伸ばした事に対し、彼は非常に珍しい「努力する魔導師」でもあるのだ。
これは彼が元々は無学で貧しい境遇で生まれ育ったという事情もあると思われる。
この姿勢こそが灰色の塔の魔術師から大きな尊敬を集める要因でもある。
「左様でございますな……」
シュペルはラルの言葉を首肯した。彼は魔法ギルドに所属はしているが、同時にレインズ王国民でもある。他国出身のラルが王国の将来を嘆くまでもなく、彼自身が王国の過去を学んだ上でその将来を危惧している。
そしてその肝心の「黒い公爵さま」を生み出して来たヴァルフェリウス公爵家が現在進行形でその「愚かな派閥貴族」出身の公爵夫人によって嫡出を偽っている。
彼としては今すぐにでも大声でその暴挙を公爵本人に怒鳴りつけてやりたいのだが、「外部不干渉」というギルド憲章を守って、それを堪えているという状況だ。
ヴァルフェリウス公爵家の不始末については、魔法ギルド自体はそれほど悲観はしていない。彼らとしてみれば、暗愚として名高い現公爵に何か起こって次代の「偽長男」であるデント・ヴァルフェリウスが家督の継承を請求した時点で、その正当性を告発する手筈となっている。
その結果としてヴァルフェリウス公爵家は正夫人エルダと彼女の産んだ二人の「息子」と共に排除されることが予想される為に、その家名の断絶が危ぶまれるはずなのだが、灰色の塔は既に「当主の愛妾アリシア・ランド」の存在と彼女が産んだ男子の存在を認識している。
何故かと言うと、その当の男子を王女シーナの婚約者として捻じ込もうと当主自身が躍起になって国内の貴族社会及び官僚社会に対して運動を起こしていた事があったからだ。
あれから二年。公爵家は何故かその「男子」の存在を引っ込めてしまったが、彼には愛妾が存在し、その女が男子を産んでいたというのは爵・官界のみならず魔法ギルドや救世主教の宗山にまで広く知れ渡る事になった。
肝心の男子はその後の消息を断っているのだが……。
ラルは男子の消息について、「あの」悪妻・エルダによる生害を恐れたのだが、あの運動の際には公爵自身だけでなく、そのエルダ夫人も、更にその実家であるノルト伯爵家も大いに協賛していた事は紛れも無い事実であった為、むしろ男子には彼女の毒牙は伸びていないと予想していた。
事実は全く逆でルゥテウスはエルダの差し向けた赤の民に殺されかけたのだが……。
なので、現当主の後はその夫人と偽息子二人を告発によって退け、代わりに「正統な血統」を継いでいると思われるその男子を108人目の当主に据えれば、全てが丸く収まると導師長……いや、灰色の塔の上層部は考えているのだ。
……周知の通り、そのような楽観的な想定は今や全く裏目に出ており、彼らは知らぬうちに藪を突いて蛇を出しそうな状況になりつつある。
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王国政府や公爵家、各組織にとって厄介なのは、今現在起きている状況は彼らの歴史においても全く前例の無い……彼らにとって「不運なる偶然」とも言える特殊な出来事がたった数年の間に幾重にも起きた事である。
……そもそもの始まりがヴァルフェリウス公爵家の中で「黒き血脈」に対する知識が失伝してしまったことに端を発する。
但し、このような状況は過去にも何度か発生しており、発現者が誕生する度にその継承された記憶と共に復活し、発現者……つまりは「黒い公爵さま」が薨去した後も数代の間はその知識の伝承は行われ、そしてまた無能な当主によって知識の失伝が発生する。
このように、先代である第106代シアール・ヴァルフェリウスの頃には公爵家の者はその血脈の意味が解らなくなっていて、この家が何故このように他家には見られない厚遇を受けているのかということすら失念している状況になっていた。「数百年の空白」とはそれだけ長い期間なのだ。
そしてそんな無能な当主が続いたヴァルフェリウス公爵家に不義を隠してエルダ・ノルトが輿入れした。
彼女は婚姻後も不義を繰り返し、公爵家としては有り得ない「二人の男子」を出産するに至る。
不幸な事に前述の事情もあって公爵家ではこの件で彼女を弾劾する者は居なくなっていた。
勿論、その影で腹心のシニョルが「夫人の秘密を知ってしまった者」の口を次々と封じていたという暗躍もあった。
この時点で公爵家における血脈の継承に重大な危機が発生していたと言えよう。
だがエルダとシニョルの努力も空しく、血脈の秘密を研究や文書で伝えていた灰色の塔と宗山には、二人目……「次男タレン」の誕生でエルダの不義が露見していた。
にもかかわらず当時の両組織は王国の……それも両者とは因縁のあるヴァルフェリウス公爵家で起きている不始末に対し「外部不介入・不干渉の固守」として静観する構えを見せた。
当時、既に現職に就いていたラルは組織の運営意欲に乏しいヴェムハと相談して
「こちらから無暗に介入すると応酬的に後の世でこっち側へ介入される口実が残ってしまう恐れがある」
と、上代に何度か発生したと伝わる「黒い公爵さまによる粛清」の歴史を恐れて静観を決意した。
エルダの不始末を放置したこの「英断」が、後の歴史において様々な歯車を狂わす事となる。
一方で無能な当代、ジヨーム・ヴァルフェリウスはそのような事情を知る両組織が「やきもきしながら」状況を静観するのを後目に、次男の誕生で満足したのか……他に「本物の子」を成す事も無く十数年の月日が流れた。
この間にも両組織によって「公爵夫人が不義によって嫡出を偽っている」という事実は認識され続け、静観という名の観察は続けられていた。
やがて慌ただしく状況が変わる。それから20年も過ぎてから突然、公爵が愛妾を迎えたのだ。
観察を続けていたはずの両組織は共に、一旦この事実を見落とす。何故ならば、彼らは「無能・無気力でお馴染みの」当主ジヨームの性格を鑑みて本物の後継者を儲ける可能性は低いと見ていたからだ。
彼らの諦観とは裏腹に、この知られざる愛妾は懐妊した。
そしてこの事態に、不義の正夫人エルダが愛妾アリシア・ランドの排斥を目指して貴族社会を巻き込んだ騒ぎを起こした事によって、アリシアの存在とその懐妊が王国政府と貴族社会、そして灰色の塔と宗山の両組織にも知れ渡る。
ここで最初の「不幸な偶然」が発生する。アリシアという存在とその懐妊を知った二つの組織は血脈の存続が成されることに安堵し、観察の手を抜いてしまったのだ。
この両組織……特に魔法ギルドは3000年前、そしてその後の度重なる「黒い公爵さま」の出現による粛清と支援の繰り返しによって、ヴァルフェリウス公爵家に対し「遠慮」のような感情が形成されていた。
また、根本教義であった「黒は不吉な悪魔の色」を粉砕されて滅亡の縁まで追い詰められた救世主教も同様な感情を持っていたのかもしれない。
一連の事態を静観したのも、これが原因である。思えば、このような中途半端な態度が「不幸な偶然の連鎖」を生み出す。
そして放逐されたアリシアは実家にて男子を産むのだが、よりによってこの男子が「完全なる発現者」であった事、そしてその男子に対して他でもない母アリシアが付け焼刃の封印魔術、それも自らの魂を触媒として捧げるという「魔術の奥義」を使用した事……このような出来事を両組織、特に魔法ギルドは結果的に見逃すことになってしまう。
普通であれば、そのような「術師の素養が無い者の俄か仕込みな超高等魔術」が、それも発現者を相手に成功するわけが無いのだが、破局を回避する為の咄嗟の行動とは言え、《血脈の管理者》として彼女に寄り添っていた大導師リューンがその不滅の身を挺して奥義の暴走を防いだので、不完全ながらも禁呪たる「極封印」が完成してしまった。
この出来事によって誕生した「完全なる血脈の発現者」という存在そのものが封印され、その効果によってアリシアを見守っていた全ての者達から産まれ出た男子の存在意識を霧散させた。
アリシアが使用した「禁呪」も本来ならば灰色の塔が察知していたはずだったが、この恐るべき奥義級魔術はそんな事実も全て打ち消してしまったのだ。
つまり男子誕生の事実……ルゥテウスの誕生を灰色の塔も、宗山も、そして貴族社会、勿論ヴァルフェリウス公爵家の者達ですら忘れてしまったのだ。
但し、皮肉な事にこの奥義による効果は血縁者……祖父ローレン・ランドと実父ジヨーム・ヴァルフェリウスだけには及ばず、ルゥテウスはローレンによって大切に育てられ、ジヨームの脳内にその記憶を遺した。彼に息子が誕生間近であった事を通報したジノ・ガルロも効果に巻き込まれる。
よりによって「発現者の誕生」を見逃した事は、特に魔法ギルドにとっては痛恨の出来事であったはずだ。
そして……次の「不幸な偶然」として、この発現者……ルゥテウスに掛けられていた「極封印」が段階的に解除されたことが挙げられる。
ルゥテウスは祖父ローレンを亡くした事で、まずは封印の一部が解けて「意識と知能の一部」を取り戻す。
これによって彼は「能力が使えない発現者」という存在となり、各組織に認識される事無く……自身の「理不尽なシガラミ」を知る事となった。
結果的にローレンの死の遠因となってしまった、ジヨームによる王室への婚姻運動が「知られざる男子」の存在を再び各組織に知らしめる事になったのだが、ルゥテウスが発現者である事までは認識できなかった。
その認識は「血脈を受け継いだ普通の男子」としてであり、後に彼がリューンの解説と実際に彼女の知覚を借りた母の一族の悲劇を知ると、両組織や王国政府への隔意、そして何よりも公爵家と「黒き賢者の血脈」そのものへの憎悪を生み出してしまった。
これら「不幸な偶然が生んだ連鎖」の結果、ヴァルフェリウス公爵家は「賢者の血脈」を喪失することが確定し、魔法ギルドはその「最強の完全発現者」の存在に気付く事無く今後も振り回されることになる。そしてその血脈は……。
****
「彼女らに率いられた監察の結果は……特に我らが指摘したような事象は確認出来なかったとの事です」
「ほぅ……何も無かったと?」
そもそもが、今回の件についてラル自身はそれほど大きな関心を持っていない。
ただ、騒ぎの元になっているのが近年になって色々と彼の耳に届く
「ヴァルフェリウス公爵領オーデル」
「公爵夫人」
「犯罪者ソンマ・リジの出身である戦時難民」
この三つのキーワードを全て繋げた
「ヴァルフェリウス公爵夫人が私有地で庇護している戦時難民収容施設で怪しい光」
というものであったので、彼なりに状況確認を求めただけである。
「話題になっていた光に関しては、彼らが近年になって公爵夫人の後援によって経営している菓子店で売り出す菓子やその原料の盗難防止の為に製造工場の外に設置された照明がその正体だったそうです」
「菓子工場……ふむ」
「どうやら我らが隠形術符を与えた上で彼らに推薦した者が首尾良く施設の中を詳細に探る事に成功したそうです」
「そうか。まぁ……術符を使えたなら造作も無さそうだが」
「左様でございますな。戦時難民どもは以前よりは幾分かマシな生活を送っているようですが、それでも衣・食・住はお世辞にも快適とは言えないようです」
「そうだろうな。軽く見積もっても奴等の数は「万」を超えているはずじゃ。そのような者共を養うには、あの公爵夫人と言えども大変だろうて」
「はい。私もそのように愚考致します。しかし今後は菓子屋の成功によって多少は暮らし向きが改善されるかもしれませんな」
「ふぅむ……。そもそも儂は思うのだが……あの長年に渡って公爵家の嫡出を偽っているような愚かなエルダ・ノルトが、なぜ難民を保護しているのか……そして25年も経ってから急に菓子屋の経営を後援し始めた。何か目的でもあるのかのぅ……」
ラルは自身の感じた素朴な疑問を口にした。
「た……たしかに……。申し訳ございません。私はかの公爵夫人が難民庇護を始めた頃はまだ修養中の身でございましたので、当時の状況を存じ上げないのですが……」
「まぁ、それを言うなら儂だって似たようなものだ。彼女が嫡出を偽っておる事を知った、彼女が二人目を産んだ事……次男か。そう言えばどこかの貴族に婿入りしたらしいな。その確信の直後に難民の庇護を始めたのじゃ。儂はそれを嫡出を偽るという重罪を犯した彼女の世間に対する欺瞞行為だと思っておるのじゃ。何しろ時期が一致するのでな」
「なるほど……以前にもそのお考えをお聞かせ頂きましたな。それにしても25年経って今更……確かに私も気になります」
考え込むシュペルの顔を見て、ラルは軽く笑った。
「ふふふっ……あの家……いや、あの女に関しては叩けば叩く程に埃が出るのだ。埃のような疑問がな……」
シュペルはラルの笑い声を聞いても真面目に考え込んでいる。
「私は導師長様にお仕えするようになってからもう10年になります。これ程不可解な……導師長様のご注意を引くような事象が立て続けに起きている事に却って不気味さを感じます」
「儂が何かに対して関心を持つのがそんなに珍しい事か?」
ラルは尚笑いながら聞き返す。
「い、いえ……決してそのような事は……」
シュペルは慌てて前言を撤回した。
「まぁ、そう狼狽えることもあるまい。
……そうだな。確かに其方の申し様にも一理あるな……。
確かに儂は魔導に目覚めた後に、先代のヤン導師によってこの塔に入ってから40年が経つ……。
しかしこれ程多くの不可解な出来事がこの1、2年で集中しているような気がするのぅ……」
ラルは笑いを収めて今度は沈思し始めた。シュペルもそんな上司の呟きを自分なりに咀嚼しながら見つめる。
やがてラルは滅多に見せないような厳しい表情で
「おかしい。確かにおかしいのじゃ……。
これまで40年間……儂はこの灰色の塔にあって様々な事象を見て来た。
膨大な書物にも目を通し、我ながらそれなりに研鑽を積んだつもりじゃ。
しかしここ最近……それらの知識では説明出来無いような不可解な事が起こり過ぎじゃ。
何か……何か非常に嫌な予感がする……。
一体何が……何がこのような不安を呼ぶのか……何が……」
ラルの険しい表情を見てシュペルは驚くのであった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。6歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民のキャンプの魔改造と難民の帰還事業に乗り出す。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
ドロス
45歳。難民キャンプで諜報組織《青の子》を統括する真面目な男。
難民関係者からは《監督》と呼ばれている。
シニョルに対する畏怖が強い。
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エリン・アルフォード
21歳。レインズ王国の内務省渉外室に所属する女性で現内務卿ロビン・アルフォードの長女。
魔法ギルドからの申し入れを受けてキャンプ調査の指揮を執る。
既に婚約者が存在する。
ナトス・シアロン
29歳。レインズ王国の内務省私領調査部監察室に所属し、エリンの指揮の下でキャンプの調査に同行した。
初めて会ったエリンに一目惚れしてしまい、以後付き纏う。
主人公に呪術を掛けられ、傀儡にされている。
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ラル・クリース
58歳。魔法ギルドの序列2位で魔術師を束ねる導師長を務める魔導師。魔導師としては珍しく魔法世界の秩序に心を砕く。
南サラドス大陸アンシモ王国出身。
シュペル・ブライス
37歳。ラルに仕える首席秘書。魔法ギルドにおいて序列5位。
導師長を心から尊敬している。