最初の成果
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。
ノンがルゥテウスから亡き母アリシア・ランドの遺品とも言える製薬ノートを借りて本格的に製薬を学び始めてから10日が経過した。
彼女はそのノートを毎晩丹念に読み進めながら自分なりに気付いた事を紙に書き留めていた。
そして翌朝、ルゥテウスに会うと自分なりに解らなかったところをその紙を見せながら彼に尋ねるのだ。
ルゥテウスはノンが自分と……いや、祖父に製薬を習い始めた母が行っていたのと同様に自分の文字で学んだ内容を書き出してきた事に感心し、今度は彼女自身が学んだ事を記す為の新しいノートを彼女に与えた。
ノンは封印の一部が解放された時のルゥテウス程では無いが、普通の人間にしてはとても聡明で、アリシアが最初に書き留めたノートを1旬で読破し、その内容をしっかりと理解している事を昼間のルゥテウスとの応答で示した。
藍玉堂の営業時間は裏の病院の診察時間と同じく、9時の二点鐘から夜の鐘が鳴る18時までとしている。
建築も普請もそれぞれラロカとロダルが順調に進めているだけあって、ルゥテウスも昼間はなるべく店舗に居るようにして処方箋を持ってやってくる難民の対応に備えている。ノンとの薬学に関する対話はその時に行われるのだ。
また、普請や建築、開墾を行っていた難民が賃金を得た上で藍玉堂の回復薬を購入する者が出てきた。
藍玉堂ではこの回復薬を店頭でコップを使って飲むならば銅貨10枚、持ち運びが出来る瓶入りを銅貨30枚という外の世界では信じられない破格の値段で提供していた。空き瓶は銅貨20枚で引き取るという回収方法も考案した。
キャンプの外でこのような金額で販売したら間違い無く同業者に叩かれそうなものだが、キャンプ内では住民が鳴け無しの金でも買えるような価格設定にしたのだ。
回復薬は住民に好評で、彼らは生まれて初めてこのような「薬品」と言う物に触れ、その目に見える効果に驚いていた。
店の営業時間が終わると、ノンはルゥテウスと配給を貰いに行き、そこから帰ってくるとルゥテウスの許可を貰って自分の部屋に籠る。部屋には以前から使っていたベッドと小さいタンス、それにルゥテウスが造ってくれた机と椅子があり、彼女はそこでアリシアのノートを見ながら勉強を始める。そこから日付の変わる時間くらいまで勉強を続けて眠りに就く。彼女は今までの人生で無かった「学問」と言うものに出会い、その楽しさに夢中になりつつある。
ルゥテウスの提案があった翌日から、サナは錬金術による「遅燃強化」を炭に施す作業を始めた。
最初の三日程は横に師匠のソンマが付いて、色々と助言をしていたが四日目からは手順を覚えた彼女は独りで黙々と作業を始めた。
やはりそこから二日程は失敗ばかりだったが、低級品とはいえ自分の錬金が成功すると、嬉しさで泣き出し、近くで別の錬金作業をしていたソンマを驚かせた。
魔法ギルドでは無い環境で学んだ者が錬金を成功させるというのは非常に稀有な例で、ソンマには味わえなかった感覚なのだろう。
それから数日、ひたすら炭造りを続けているサナは時折ノンの造った低廉回復薬を飲みながら毎日数個ずつではあるが錬金炭を生産し始めた。
効果はそれ程高く無く、一日経てば燃え尽きてしまうのだが、それでも今まで一度の配給調理でさえ結構な薪材を消費していた事に比べれば小さな炭一つで三食分の配給調理に使う竈一つの火が燃え続けるというのは驚異的であった。
この効果を実際に見て驚いたイモールは、以後サナの炭生産に更に協力的となり、触媒となる雑草マシタゼリを開拓民から買い上げる告知を行い、資材調達を支援した。
薪材も優先的に藍玉堂に納められる事になり、今後はサナの遅燃強化術の慣熟に伴い、同時に施せる数量や品質も向上するので、生産性はどんどん上がっていくだろう。それがサナの錬金術師としての経験にもなっていくのだ。
ちなみにソンマくらいの熟練度になると8日程度燃え続ける遅燃強化炭を一度に数キロ、ルゥテウスに至っては数年燃え続ける物を一度に数百キロは生産出来る。
《青の子》の本部にもなる藍玉堂の領都市内への出店は、物件の選定から二日で監督が売買契約をまとめて、その翌日には引き渡しが行われた。
購入した物件は石造りのなかなか見栄えの良い三階建ての一軒家で、市内の高所得者層が住む地域の外縁、つまり外側の中層階級の居住地と丁度境目に位置するような立地となった。
ルゥテウスは引き渡しが行われた夜にこの物件に入り、地下を二層まで掘り下げて地下室を確保し動力を設置。地下一階と二階を《青の子》の本部とした。
地下一階には転送陣を設置し、魔導による念話網によって本部と訓練所がまずは結ばれた。
ルゥテウスはこの青の子の念話網には入りたく無いと、念話を込めた魔導符を作成してそれぞれドロスに持たせて使用させる事でこの二ヵ所を紐付けさせた。
いずれ王都に支部を設けた時はこの念話網へ新たに追加するという事にし、青の子は本格的に業務を開始した。
青の子の業務開始に一日遅れてラロカの弟ヒューの一家がこの建物に越してきた。世間的にはこの一家が家主であり、この一家の転居と薬屋の開店によって漸く外部への体裁が整った形になる。
一階部分は薬品の販売。二階と三階は一家の住居とした。ルゥテウスの内装工事によって一家の住居部分にも快適な設備が整えられたのは言うまでも無い。
敷地の広さは幅10メートル、奥行き20メートルと本店の丁度半分の幅の広さで地下室の広さもそれに準じている。
一家の生活は朝の鐘が鳴ると一旦本店に移動し、開店前に従業員総出で例の「看板娘の回復薬」を造る。この時はノンも参加し、四人での製薬となる。
しかし薬効部分は全て機械による量産として、仕上げの味付けだけを人の手で行う事にした。開店時間の9時前に完成した回復薬を支店に運び、店頭販売にて瓶入りの物だけを、本店が難民に販売する価格設定の10倍となる銀貨3枚で販売する。
効果がしっかりと現れるので次第に好評を博すようになり、毎日100個の在庫が完売するまでになった。瓶入り1個銀貨3枚の「看板娘の回復薬」が100個完売で売り上げが金貨30枚、経費となる一家の人件費や原料費を差し引いた金貨25枚のうち、金貨10枚分をキャンプに納めても一日の利益は金貨で15枚。定休日を1旬で1日入れて月25日営業の利益が金貨375枚。キャンプへの上納が月間で金貨250枚という驚異的な売り上げに店主一家は勿論、市長のイモールも驚いた。
回復薬の原料はいずれもキャンプ周辺で採取出来るような物であり、元手はそれ程掛かっていない。
ルゥテウスはこの利益をもっとキャンプ全体に分散させる為に原料の薬材を難民に採取させての買取とキャンプ東側の工業地域に新設が決定された工芸品工房へガラス瓶の制作を依頼する事にした。
サナの炭製作の質が上がってくればこれも支店で販売する事にしているので収益は更に上がるだろう。
一般的にこの時代の薬屋というのは数ある小売業の中でも利益率と売上額が大きい業種として知られており、この業種から大きな商会へと育っていった例も少なく無い。
しかし質の良い薬品の確保がかなり難しく、製薬から販売まで一貫して行う嘗ての《藍滴堂》のような形態が採れる店というのは非常に少なかった。
《藍滴堂》はアリシアの死後、製薬から販売までローレン一人で行っていたのだから、やはり彼は一流の薬剤師だったのだろう。
それにしても一般的な平民労働者の年収が金貨5、60枚程度と言われるこの時代に瓶入り回復薬を銀貨3枚で買えるのはやはり高所得者ならではと言える。
この立地が優れている理由として「高所得者は高級住宅街でしか買い物をしない」と言う客層心理を上手く捉えているところだろう。
高所得者は見栄などの問題もあって高所得者地域にある店舗でしか買い物はせず、中層所得帯の者も場所が近ければ高所得者地域の店舗を利用する。
それは逆に言うと高所得者帯の者は中層地域の店舗は利用しないと言う「見栄」の部分を上手く突いた形である事だ。
そして、ルゥテウスはシニョルからの報告でこの近辺で他に出店する薬屋がどのような薬品を取り扱っているのかを事前に調べ上げていた。
その結果、単純に「疲れを取る」ような程度の回復薬の方が売り上げを伸ばせると踏んでいたのである。
通常、こういった効果の薬品というのは肉体労働者や冒険者が多い低~中所得者層に需要があると思われており、下町や歓楽街付近で販売されている事が多い。
しかし、実際には高所得者にも徹夜で仕事をしていた商会関係者や、当然の事ながら歓楽街帰りの者も少なからずおり回復薬の需要というのはそれなりに存在すると見ていたのだ。
そしてやはり「効果がある」と言うのは大事な事で、藍玉堂の回復薬は他の店で売っている物よりも目に見える回復を感じさせる事が好印象となり、繰り返し購入する客が多かった。そう言う客層に「瓶入り一本銀貨3枚」というのはそれ程負担を感じさせない絶妙な価格設定だったようである。
「看板娘の回復薬」は午後の早い時間に100個の在庫を売り切るようになり、ニコは売り切れ後に来店する客に侘びを言う回数が増えてきた。
これを聞いたルゥテウスは早くも増産を検討するようになったが、とにかく人員が足りない。増産はキッタとロダルの兄弟が藍玉堂従業員に復帰した後にする事とした。
「そ、それにしても……こんなに売れるとは……」
一日の営業が終わり、銭箱の中に貯まった銀貨と金貨を見てヒューは落ち着かない顔で呟いた。彼の生涯において、このような現金は見た事が無い。
そもそもそれまでの人生で金貨を見た事すら無かった。それは妻のホーリーも同様である。
「まぁ、俺もちょっと出来過ぎかなとは思うがこれは俺達のせいでは無く、今までこの地域でこういう商品を扱って来なかった同業者が間抜けだったんだと思うぞ」
ルゥテウスがニヤニヤした顔で言う。18時の閉店時間になると「支店」はさっさと表の間口を《藍滴堂》でも使われていた頑丈な鎧戸で締めてしまう。
出入口は裏側にもあり、そこを使う事もあるが一家は大概店の外に出る事は無く、もっぱら転送陣を使って本店に戻り、役場か集会所の配給を貰いに行く。
長年に渡って戦時難民として冷たい差別の中で暮らして来た彼らは店の外である「領都市街地」に出る事を忌んでいた。
そもそも、この頃には市街地よりもキャンプの方が住環境が向上しており、他の住民も含めて市街地へと行く意味が無くなってきていたのだ。
一家は売り上げの中から一人当たりそれぞれ銀貨5枚を日当として受け取っており、これは外の一般的な平民労働者の二倍以上である。
勿論ヒューはこのような大金を労働の報酬で貰った事が無く当初は受け取りを拒否するような態度まで見せたが
「お前達にはこれが正当な報酬で、お前達が受け取らないと他の者に市長を始めとするキャンプの経営者が労働の対価を払う拠り所を失くしてしまう」
と諭され、恐れ入りながら受け取る事になった。
「お前らは得た賃金をこのキャンプの中で消費すればいいのだ。そうする事でこのキャンプの中で金が回って行く。これからこのキャンプでは様々な物が貨幣で取引されて行く事になるだろう。
力が強い者は普請や建築、運搬等で。力は弱いが手先の器用な者は物造りで。力も無く器用ですら無い者でも何かを売ったり、習ったりして色々な職を身に付けて行く。
しかしその労働と生活を円滑に回すのはこれまで『難民同胞』という団結力だけであった。これからはこれに『働けば正当な対価が得られる』と言う当たり前の考え方が導入されるのだ。
人間、無償でやれる事にはどうしても限度がある。その対価を払ったり受けたりする事で、その限度以上のものを提供出来るようになるのだよ」
彼は長々と説教を垂れて、夜の配給を貰いに転送陣に消えた。一家三人はその幼児の後ろ姿を見て
「ふ……不思議な御方だ……」
「そうね……」
と呟くのであった。
****
「明日から側溝の型出品が出荷出来るそうです。普請工事でそれを利用します」
夜の集会所で配給を食べながら、横に座るロダルがルゥテウスに報告した。
「ほぅ。漸くか。現物は見たのか?」
「はい。試作品は昨日見ました。あれなら型枠に直接コンクリートを流すよりも楽ですね」
「そうだな。但し運搬が面倒になる。車を少し改良しておこう。明日からそれを使え」
「ありがとうございます」
「で、新しい長屋に移った住民は全体でどれくらいの割合なんだ?キッタ」
今夜は兄のキッタも同席している。
「はい。全体の二割くらいですかね……旧北地域の住民の皆さんの転居は間も無く終わります」
「そうか。順調だな。この分なら全ての建て替えは7月か8月までには終わるんじゃないか?市長」
「左様ですな。まさかこんなに早く進むとは思ってませんでしたが……」
イモールは笑いながら
「それよりも私としてはまさか領都市内に出店した藍玉堂の支店があれだけの売り上げを出すとは思ってもみませんでした……あれならば年換算でキャンプに金貨で3000枚程入ってくる計算かと……」
「うーん。そんなもんか。まぁ、そのうち増産するからな。昨日監督と話したが、王都に青の子の支部を出す時は藍玉堂がまた支店を出店してくれと頼まれたぞ」
ルゥテウスは笑いながら答えた。
「増産が可能なのですか?」
「それはキッタとロダル次第だよ。こいつらが店に復帰してくれれば常に薬を造り続けられるからな。多分一日500本は造れる能力はあると思う。店の設備ではな」
「そ……そんなに?」
「うむ。工房がガラス瓶を大量生産してくれれば……と言う前提付きだ」
「しかし、ガラスとは……我々にとってガラスというのは今まで非常に貴重な物と言う認識でしたが……」
今の古い木造長屋には小さなガラスの小窓が天井近くに辛うじて一つ付いている。寒い冬の季節になると、他の窓が開けられなくなる為に、住民はこの小窓から洩れて来る細い光を頼りに昼間の薄暗い室内で暮らしていたのである。
新しい鉄筋コンクリート造りの長屋では大きな両開きのガラス窓が二ヵ所も設けられ、昼間の室内は格段に明るくなった。明るい室内で編み物等の細かい作業を始めている住民も居る。
「まぁ、ガラスは鉄よりも材料が集めやすいし、設備さえ整えば製造も容易だ。他の資材を集める副産物としてもガラスの原料は多く混じっている事が多いんだ」
「そうなのですか?」
「うむ。今までお前達だけで無く領都や王都でもガラスが貴重だと思われているのは設備と技術が不足しているからだ。
特に技術においては教会勢力が長い間に独占してきているからな。
このキャンプは教会の影響を全く受けないから逆にこれまでは外からガラスを少しづつしか買えなかったんだろう?これからは好きなだけ使え。
その為の設備が漸く完成したしな」
「な、なるほど」
先日完成して稼働を始めた資材加工場は、コンクリート製の排水溝ブロックだけでは無くガラスの製造も始めている。
高品質で強度のあるガラスの生産と加工には高い温度が出せる炉の存在が欠かせない。
新しい加工場のガラス炉ではサナが造り出す錬金の炭によってこの問題を克服している。
ガラス職人は難民の中に一人しか居なかったが、技術を習いたいと言う若者が何人か志願したので職人は彼らを使いながら技術の継承に努める事となった。
「それと店主様、本日加工場にも鉄道が繋がりました」
「おぉ。そうか」
「はい。これで資材の搬入が楽になります。あれは凄いですね」
「そうだろ?」
「はい。普通の道を車で牽くよりも楽に進みます」
「そのうち、牛か馬で牽かせるようにするといいな」
「なるほど。各工房が収益を上げれば導入されるかもしれません」
鍛冶工房も資材加工場も現在は役場から依頼される公共事業でキャンプ内の備品を製造するのに精一杯で、鍛冶職人に日当が払われている状況だ。
これが落ち着いたらキャンプの外に売れるような製品を生産して外貨を稼ぐ事で自らの設備を整えていく計画になっている。
「それにしても、最初は色々と出費が重なりましたが、ここに来て投資した分が次々と稼働を始めてこのキャンプも劇的に環境が変わりました。これも偏に店主様のお陰です。25年も続けてきた貧しい生活が嘘のようです」
イモールがルゥテウスに頭を下げる。
「いやいや。計画は始まったばかりだ。これからもどんどん進めて行くぞ。最終的にここはこの王国のどこよりも先進的で素晴らしい街にするんだ。難民だけのな!」
ルゥテウスが大笑いする。他の者も釣られて笑い始めた。外の奴等は今でも難民は死ぬか生きるかの境を彷徨うような汚物にまみれて地面に這いつくばる生活をしていると思っているだろう。しかしそれは大きな間違いだ。
「俺が次に目指すのは、この配給をもっと豪華にする事だ!」
ルゥテウスがスプーンを掲げながら力強く宣言すると向かいに座っていたノンが笑い出し、手を伸ばしてスープの付いたルゥテウスの口の周りを手巾で拭いた。
「うむ。済まんな。ノン……しかし最低でもパンは柔らかく、シチューの肉は多く……だ。これを早急に実現したい」
ルゥテウスの力の籠った提案にイモールが笑いながら答えた。
「そういえば酪農場の状況はどうなのです?そろそろ家畜の購入予算が必要なのでは?」
「うむ。数日前に酪農経験者の皆さんが親方と話し合いを持ったそうだ。それによると、既に敷地を牧柵で囲むのは終わったので自分達で家畜小屋を建てたいと申し出たそうだ」
「ほぅ……」
「何しろ羊の飼育は先に始まっているし、貯水池の反対側の農場も開墾が本格化しているからな。自分達もヤル気があるのに事業を開始出来無いのはもどかしいのかもしれないな」
「私はこれまで、そういった手に職を持つ者達の思いに応えてやれませんでした。自分達の手に付いた技術を朽ちさせたまま亡くなって行った住民に申し訳無い気持ちで一杯です」
「市長。いつもの悪い癖が出て来ているぞ。自分を責めるんじゃない。お前達はよくやったんだ。いくら技術を持ってたって飯を食えぬまま飢えて死ぬよりはマシではないか」
イモールは最近のキャンプの大きな変化を受けて、これまでの自分のキャンプ経営の甘さを自責する事が多くなった。
ルゥテウスは事ある毎にそれを戒めているのだが、これだけ短期間で劇的な変貌を遂げると無理も無い事である。これはもう時間が解決するしかない。
イモールにとって幸運だったのは、彼のこれまでの努力を誰もが理解している事であり、誰も彼を責めない事と、誰もが彼とシニョルに自分達が救われた事をしっかりと理解している事である。
「す、済みません」
「お前は胸を張れ。それだけの事をやってきたんだ。そしてこれからもお前は同胞を導いて行くんだろ。俺は面白いからお前らを手助けしているんだ」
過去の血脈の発現者に対する反発から彼らに与している事を隠すようにルゥテウスは明るく言い、席を立った。
集会所からの帰り道、ルゥテウスはドロスに念話を飛ばした。
『監督、済まないがちょっと話がしたい。今、時間は大丈夫か?』
『はい。大丈夫です。只今本部に詰めております』
『そうか。俺は配給を貰った帰り道なのだが、店に帰ったらそちらに向かおう』
『私は特にここに詰めていないといけない用事も無いので私からお伺いしましょうか?』
『そうか?ではご足労だが店の二階まで頼む』
『承知致しました』
「今、監督と話をして店の二階に来て貰う事になった。市長もこの後用事が無いなら来ないか?」
「はい。承知しました」
結局、全員藍玉堂の二階へ同行する事になった。そもそもキッタとロダル、ノンは藍玉堂の店舗に住んでいるのである。
「ノンはいつも通り勉強をするのだろう?俺達は《青の子》についての相談だから部屋に入っていていいぞ」
「宜しいのですか?」
「ああ。お前にとって今は勉強する事が何より楽しそうだ。その気持ちを大切にしろ」
「ありがとうございます」
ノンはあのルゥテウスに薬剤師の勉強を懇願して以来、少し心が強くなったようだ。自分の事をちゃんと主張出来るようになった。
しかし、ルゥテウスへの傾倒も強くなった気がする。こうして外を歩いている時は、他に同行者が居ても彼の手を自分から取って歩くようになった。
他の者はこの光景に見慣れてしまい、もう何も気にするようにならなくなった。
店の二階に上がると、既にドロスは到着していた。アイサもいつもは長屋に帰っている時間なのだが、何故か残って何時もの菓子作りをしていた。
「済まん。待たせてしまったな」
ルゥテウスらが席に着くと
「いえいえ。私もたった今着いたところですので」
とドロスも挨拶をする。
「早速だが、監督に依頼したい事があるのだ」
ルゥテウスが切り出す。
「どのような?」
「うん。今支店で回復薬を売ってるんだが」
「ええ」
「周辺の同業者の動きを探って欲しいんだ。開店からそろそろ2旬だ。彼らもウチの店の回復薬の評判を聞いて偵察くらいは送って来ているだろう。我々は完全に奴等の隙を突いた形になるからな。
あんな立地では回復薬なんて売れないと思っていた連中だ。今後は類似した商品で競合して来る可能性がある。
しかし俺達の店は元々はエルダの名義で建物を取得しているくらいは噂で聞いてるだろうから、表立った妨害はして来ないとは思う」
「なるほど」
「俺らもわざわざ連中の商売を妨害して閉店に追い込もうなんて事はしたく無い。何しろ地下にお前達を抱えているんだ。商品が評判を呼んで有名になってしまうのは仕方無いにしても、余計な腹は探られたくない」
「左様ですな」
「なので、お前達に探って欲しい……と言うか警戒して欲しいのだ。元々薬屋という業種はそれ程に同業者同士で波風が立つようなものじゃないんだ。しかし利権のようなものは一応存在する。代表的なものとしては冒険者ギルドと軍隊だ」
「あぁ、なるほど。あの連中は回復薬を多く消費しそうですな」
「回復薬だけでは無い。傷薬もそうだし麻酔もそうだ。特に軍は一度その利権の一端にしがみつく事が出来れば金貨にして万単位の額が平然と動く世界だ」
「そ……そうなのですか……」
イモールが驚きを口にする。他の者も「万単位」と言う言葉に反応して目を見開いている。
「しかし、ウチの店は今の所そういう商品は扱っていない。大丈夫だとは思うのだが、今度は逆にエルダの名前がそういう奴等を警戒させてしまうんだ」
「公爵夫人の権力で強引に利権に食い込んで来ると?」
「その通りだ。あのババァは他にも領都はおろか王都の商人をも操って巨利を挙げている。まぁそれを采配しているのは、エルダの影に隠れたシニョルなんだけどな」
ルゥテウスは大笑いした。イモールやドロスですら小さく失笑する。
シニョルが辣腕を振るって商人同士を競合させる手段はえげつなく、しかも本人は決して表に出ない。
むしろ私人としては物静かで慎ましく質素な生活を貫いており、この清貧を通す人物がまさか公爵夫人の膨大な利権を操っているとは到底思えない。
「必死に利権にしがみつく奴は同業者の動きに臆病になるんだ。俺らは今のところ、そんな連中とは付き合いたく無いのだが、お前らの事がバレるとな。エルダにまで悪印象を持たれてしまう」
「左様でございますね。承知しました。領都の中の薬材業者を監視する事に致します」
「頼む」
ルゥテウスの依頼が終わると、今度はイモールがドロスに
「監督、どうだ?余裕があるなら王都への進出も考えるか?」
「はい。やはり活動範囲を広げる事はそれ程悪い事とは思えませんので」
「ちょっと待て。王都に出る前に俺は低所得者層の居住地域辺りに、もう一ヵ所くらい拠点を設けるべきだと思うぞ」
「ほほぅ……それは?」
イモールが尋ねる。
「それはな。単純に情報収集をするならば高所得者層が住む地域よりも、歓楽街やスラムに近い場所の方が適しているからだよ」
「私もそう思います」
ドロスもルゥテウスの言葉を肯定した。
「貴族や金持ちってのはな、悪事を働く際にはなるべく自分の手は汚さないんだ。エルダだってそうだっただろ?自分の醜聞の始末をお前らにやらせていたんだぞ?」
一番身近な例を出されて一同は苦笑いした。確かにルゥテウスの言う通りである。
「どこの街でも黒幕は富裕層だが、実際に動くのはずっと下の方で暮らしている奴等だ。だから街の裏社会の舞台を把握するのに低所得者層が住む場所に拠点を設けるのは間違っていないと思うがな」
「た、確かに……言われてみればその通りですな……」
イモールもルゥテウスの話を聞いて納得したようだ。
「ではどうされますか?藍玉堂の支店をもう一つ出しますか?」
「いや、ウチの店はもう人手が足りない。そちらにも偽装で店を出すなら飲食店の方が良くないか?お前らが以前やっていた酒場みたいに」
「なるほど」
「まぁ、エルダの名前で物件を確保するなら、少しは上品な飲食店がいいな。公爵夫人が買い上げた物件で居酒屋はねぇだろう」
ルゥテウスは笑った。一同も笑い出した所でアイサが皆にプリンを出してきた。
「店主様に置いて貰った『冷蔵庫』と言うのは便利ですねぇ」
「そうだろ?仕組みは内緒だ……と言うか説明しても解んねぇだろ?」
「そうですわねぇ。何で冷たくなるんですかねぇ」
「余計な事は考え無くていいぞ。『入れておけば冷たくなる』って納得しておけばいいんだ」
「お袋、美味ぇな!これ!」
冷たくて滑らかな舌触りのプリンを口にしてロダルが声を上げた。
プリンをノンの部屋に持って行ったアイサが戻ってきて
「そうだろ?これは店主様に作り方を教わったんだよ」
「店主様はこんな美味ぇ物の作り方も知ってるんですか?」
ロダルは驚きながら言った。
「まぁな。俺は甘い物にうるさいんだ」
ルゥテウスが自慢気に話すとイモールやドロスも苦笑した。
「あの……さっきの話、こういうお菓子を売る店なんてどうでしょうか?飲食店だとそれなりに客席なんかを設けないといけませんし、不特定多数の者を建物の中に入れる事になります。
それならば店頭でこういう菓子だけを扱う店にしてしまえば……薬屋と同じような形態に出来ませんかね?
私はそう言う諜報等には詳しくないですが、素人から見て菓子屋と諜報組織はちょっと連想しにくいですよ……かなりの偽装効果が得られませんか?」
今まで黙っていたキッタが母のプリンを食べながら提案してきた。この実直一筋の官僚人の絶妙な申し出にルゥテウスもドロスも驚愕し
「おいっ!キッタ!お前、流石に目の付け所が違うなっ!やっぱり眼鏡は伊達じゃないなっ!」
ルゥテウスの言い様は手柄は眼鏡のお陰のように聞こえ、母も含めて一同は爆笑した。
「確かにキッタの言う通りですな……なるほど……菓子屋か。それは盲点でした……」
ドロスが何度も頷いている。彼をして盲点だったのならば、他の者からしたら到底「菓子屋=諜報組織」は思い付かないだろう。
「店主様。キッタの案を採用しましょう。私は大至急物件の候補を探しますので、菓子屋の手配をお願い致します」
「え!?俺が?何で俺が菓子屋を?」
ルゥテウスはドロスの依頼に困惑した。
「いや……先程ご自身で甘い物に対する拘りを口にされたものですから……」
ドロスが笑いながら言うと、イモールもゲラゲラ笑い
「やはり出店するには、それなりに儲けを出さないと。寂れた店なのに潰れず続けていたら周囲から怪しまれますからな」
とドロスの意見を肯定するように言った。キッタもロダルも笑いを堪えている。
「店主様!私もご協力させて貰いますよっ!」
話を聞いていたアイサも大乗り気だ。
「そ、そうか……分かった……」
結局、店員役として青の子を含めた関係者の身内から既婚の女性で料理の素質が有ると見込まれた何人かがアイサによる選抜の結果採用された。
ドロスが店舗となる物件候補を探す期間で藍玉堂の二階を臨時に使用してルゥテウスの菓子教室が開かれた。
ルゥテウスは自分の記憶にある菓子を数百種類もノートに書き出し、この中から材料が容易に調達可能な物に候補を絞ってメニューを作成し、アイサに渡した。
同時にラロカに対して役場の並び、藍玉堂の反対側の土地が区画整理で空いたらそこに菓子工場を建設するように要請した。
「菓子店を青の子の拠点に」と言うキッタの考案した偽装計画をドロスが気に入り、今後の各都市の支部を藍玉堂の支店か菓子店で増やすと表明したからである。
物件を購入する必要がある事から、この計画はシニョルにも報告され、彼女にも喜んで了承を受けた。そしてシニョルはルゥテウスの菓子教室に用も無いのに毎日のように現れ、菓子の試食に参加したのである。
既に藍玉堂の支店として出店を経験していただけあって、ドロスの物件選びも順調に進み、2月15日には青の子の出張所としての菓子店の開店まで漕ぎ着ける事が出来た。
場所は結局、歓楽街である領都西門周辺とは少し離れた北門寄りの大通りに面した一等地の店舗物件を金貨460枚で購入した。
今回は店員役の女性達を転送陣を使ったキャンプからの通勤者としたので居住区画は必要無く、地上二階建てのやはり外見は石造りで広さは幅5メートル、奥行き10メートル程度の小さい建物に、店員役は二人、ルゥテウスが掘った地下二階造りの諜報員詰所部分には常時三人を詰めさせて、地下二階部分は諜報員の仮眠室を三部屋と風呂も設置した。
地下一階は諜報員の詰所で青の子の念話ネットワークに繋げて本部とその場で連絡が取れるようにしてある。そして転送陣も設置された。
青の子の詰所がある地下部分からの出口を完全に独立して造った為に地上階の菓子店と使用部分を完全に分離している。何故ならば、菓子店の店員は青の子の身内とは言えど、諜報とは無関係である難民の既婚女性で、彼女らを諜報活動に巻き込まない為だ。
菓子店側の転送陣も別に店舗二階部分に設置され、こちらは藍玉堂の二階と直接繋ぎ、菓子工場が完成した後はそちらに移転させる予定だ。ラロカは現在、鍛冶屋の裏側に酒造所を建設しており、完成は目前である。数日中に菓子工場の建設に取り掛かれるだろう。
菓子工場が完成するまでは菓子店の営業も試験運転として、菓子の製造は藍玉堂二階に臨時のコンロを増設して行われた。
2月15日の開店では10種類の菓子がそれぞれ銅貨10枚という価格設定で並べられたが、大評判となり各30個の在庫は正午過ぎには売り切れた。
急遽増産して追加で各20個を補充したが、これも売り切れて売り上げは金貨5枚に達した。
工場が稼働すれば、この二倍は在庫を用意出来るので一日の総売り上げは金貨10枚が見込め、人件費を含めた経費を銀貨40枚としても、残った利益が銀貨60枚、すなわち金貨6枚がキャンプに納められる事になる。
販売と製造の従業員を日当払いでシフト制にしたので休日を設定する必要が無く360日稼働出来、毎月の利益は金貨にして180枚、年間金貨2160枚をキャンプにもたらす事になる計算だ。
賃金は販売員に日当で銀貨2枚、製造員には3枚を支払う事になり、これまで普請や建築、その他の専門職で働き口が無かった既婚女性が賃金を稼げる道を開いた。
青の子の支部が各地に設置されるのと同じくこの菓子店も数を増やしていくので将来の工場拡張と雇用拡大は必至である。
一月後にはこの店の繁盛ぶりが店舗購入の名義人である公爵夫人の耳にまで達し、彼女も献上された菓子に満足しつつ、自らの後援によって菓子店が成功している事を喜んでいると、シニョルからの報告が入った。
「奥方様もすっかりご満悦のご様子で、この計画を進言した私も一安心でございます」
シニョルは出されたシュークリームを頬張りながら笑顔で言った。
「そうか……。まぁお前の顔を潰さずに済んだと言う事で良しとしよう」
ルゥテウスが苦笑する。イモールもシニョルの面目を守った上に、またしても大きな利益を上げている店舗経営に笑いが止まらない。
「仕事を貰って賃金が受け取れるご婦人方にも大好評です。就職希望者が殺到しております」
「よし。この成功を受けて《青の子》の王都進出も行けそうだな。今度は王都の中心に近い場所に出店して価格設定を上げよう。阿呆な貴族達なら1個銀貨3枚でも買うな」
「そ、そんな価格にして大丈夫でしょうか……?」
「なぁに。メニューをちょっと見た目が派手なやつにすりゃいいんだよ」
「ちょっと高級そうな菓子は作るのも手間が掛かるからな。原価が上がる分、販売単価も上げるべきだろ?くっくっく」
この幼児の商才は計り知れないが、悪そうな顔は相変わらず可愛らしい。
「監督が王都の物件を探しに行くのか?」
「そうですな。可能ならば自分自身で選びたいですな」
「じゃ、俺が送ってやろう。前に一度飛んだ事があるからな」
「これは……助かります」
領都から王都までの距離は約1400キロ。馬車で行くと10日前後掛かる。ルゥテウスは以前にソンマの記憶を基に王都まで飛んだ事があり、その時点でマークをしている。ドロスもこれまで三回程王都に赴いた事があるので彼の記憶を辿ってもいい。
「ではもう少し遅い時間になってから行こう」
結局、この夜は日付が変わって翌1時に王都にドロスを送り込んだ。彼は一旬の間に王都の貴族街を中心に売り物件を探し求め、ひとまず5件の候補を選んでキャンプに戻った。
再度の検討を重ね、結局下級貴族街の外縁部にある店舗物件を金貨780枚で購入した。
上級貴族の屋敷が集まる地域には元々店舗が少ない。彼ら貴族の場合は店舗に自らが赴くのでは無く、出入りの商人が商材を持って参上するという購買形態だったので、下級貴族街の外側という立地しか選択肢が無かったと言える。
しかし却って上級平民の邸宅地にも近い立地になったので、「高額な菓子を売る」と言う目的には適いそうだ。
ドロスが購入を決めた物件は元の商売も菓子を扱っていた店舗らしかったのだが、経営していた商会が別の事業で失敗してしまい、その債務の返済の為にこの物件を手放したと言う事情があり、これも候補の決定に大きく影響を及ぼした。
キャンプ側としては領都の結果から「菓子屋はある程度結果を出せる」と見ており、後は「青の子の支部」としての環境考慮に重点が置かれた。
元からあった菓子屋を買い取って居抜きで同じ商売をする。これはよくある商売のやり方なので不審感を招き難い。
いくら公爵夫人エルダの名前を使ったとしてもここは王都で、領都オーデル程のアドバンテージは得られない。
その辺りは慎重を期さないといけない事をルゥテウスとドロスは留意した。
地上二階建てで、建物の規模は領都に出した菓子店と同じく幅約5メートル、奥行が約10メートル程度のものだったが、例の如くルゥテウスが物件取得後速やかに地下二階まで掘り下げて領都の店と同じような構造にした。
青の子の念話ネットワークはこれで4ヵ所となり、念話の難易度が高まる事になるので念話連絡専従の者を別に養成する事にした。
この王都の菓子店を開店するに当たってキャンプ内の菓子工場の建設が前倒しされ、区画整理による用地取得が間に合わず、結局鍛冶工房の南側に建設された。
建設期間中に菓子の生産研修を終えた総勢100名の女性だけで構成された「お菓子部隊」は、毎日楽しそうに鍛冶工房の隣に建設された幅60メートル、奥行き40メートルの大工場で、最終的に一日最大で5000個の生産能力を持つようになる。
王都の支店が稼働開始された事で菓子販売部門の売り上げは跳ね上がり、二つの店は一日の売り上げが金貨50枚、経費を引いた利益は金貨約20枚に達した。
これは月間で金貨約700枚、年間だと金貨約8000枚以上になる計算だ。菓子販売事業を担当する職員はその金額に震えた。
ちなみに、菓子はキャンプの中でも販売されるようになった。こちらは一個銅貨5枚から10枚で、甘い物など滅多に食べられなかった難民は労働で得た賃金で菓子を買う事が出来るようになった。
後に農業で甜菜を生産し、そこから製糖事業が始まる事でキャンプ内に砂糖が流通するようになり、集会所でも菓子が作られて配給で出されるようになった。
ルゥテウスがレシピを提供した菓子という「甘味」は王都や領都だけでは無く、キャンプの中でも住民の幸福感を上昇させる一助になったのである。
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「市長、そろそろ雑貨屋に手を入れないと住民の消費に追い付かないぞ」
三月に入ってすぐのある日、役場で昼食を摂りながらルゥテウスはイモールに言った。
「店主様には何か名案が?」
「名案と言う程では無いが、まずは酒だな。完成した酒造所で酒の生産を始めている。酒は製品化までに時間が掛かるからな。
原料を外からの輸入でしか調達出来なかったのが悔やまれるところだ。早ければ早い程良いとの判断で止むを得なかったのだが……」
「原料と言うと……何が考えられますかね」
「そうだな。大きく分けると果実系か穀物系だな。赤の民の皆さんは羊の乳から酒を造っていたようだが……難民の中で穀物酒の製造経験者が二人だけ居た」
「なんと……!そのような経歴を持つ者が二人も?」
「あぁ。で、その二人はどうやら全く違う酒を造っていたらしくて、話を聞いてみたら、一人は小麦を使った酒を造っていたらしい。そしてもう一人がメイズで造っていたらしいのだ。但し麦を使った酒は自家製で自分達だけが楽しむと言ったような物だったようだ」
「ほぅ……メイズですか。これまた懐かしい」
メイズとはトウモロコシの事で、エスター大陸では麦よりも割とポピュラーな主食穀物であった。
イモールの育った大陸北部でもメイズは麦よりも栽培が盛んで、穀物酒と言えばメイズから造られた物が一般的だったと言う。
しかし、メイズもまた羊と同様に北サラドス地方には伝播されておらず、レインズ王国における一般的にな穀物と言えば大麦であった。
南サラドス大陸から小麦が伝わるとその作付けも広がっていたが、寒冷な地域ではまだまだ小麦を育てる農家は少なく、酒類も主に大麦を使った物が多かった。
現在、キャンプの中で開墾を続けている農業経験者達の中で圧倒的に多いのは小麦を育てていた農民で、次がメイズという具合だ。
ルゥテウスは将来を見越して甜菜の栽培を彼らに依頼しており、その種株も既に確保していた。
小麦を育てていた農家の土壌作りの方法は特殊で、まず農地に畦を造り水を引き込んで一旦農地を田んぼにしてしまう。
この田んぼの状態で土を撹拌し、一ヵ月程度放置した後に今度は水を抜く。
種蒔きの直前、冬の寒さが和らいできた頃にこれを行い、その後春になってから種を蒔くのだ。
どうやらこれが連作障害を防ぐエスター大陸流の伝統的農法で、小麦農家の人々は開墾と同時にこの畦作りを始めたのである。
ルゥテウスもこの農法を血脈の記憶で知っており、彼らが開墾した跡地に畦作りと灌漑の整理を夜間にこっそりと進め、翌朝になって自分達の開墾地が大きく変貌を遂げた様子に「また神様が散歩にいらっしゃった」と、茫然とする農業従事の住民が立ち尽す様子があちこちで見られた。
区画整理によって全体的にキャンプの居住地が小さく纏まったので相対的に農地を多く採れるようになり、荘園の残った土地も継続的に開墾を行う方針が決定していた。
こうして旧来の長屋の取り壊しと新築の鉄筋コンクリート造りの新長屋の建設は交互に行われ、排水溝の整備と地下水脈汲み上げの手押しポンプの設置、長屋と長屋の間を通る道路は全て石畳敷きになり、3039年の8月の初めには全ての区画整理が完了した。
ルゥテウスの夜間施工の助けを借りながらとは言え、凄まじい早さでキャンプの様相は一変したのである。
住民の大半も、この二十数年見慣れて来た街の風景の変化、快適な暮らしと職に就いて賃金を得る喜びが一度に降り掛かって来た為に混乱している者も多かったが、仕事の忙しさに追われるようになった者にはそのような「些細な事」に拘っている暇は無かった。
仕事を希望する者は役場や集会所に設置されている職業相談窓口へ行けば、何かしらの仕事が貰え、技術が無くても教えて貰えるので手に職を付けようとする若者の労働就役率は9割近くに上った。
嘗てのヒューのように何十年もキャンプの中で燻っていた人々はここで漸く
「外で無理して汚い仕事をしなくてもキャンプの中に職がある」
と言う事を理解するようになったのである。
市長のイモールはルゥテウスの指摘を受けて、彼らが手にした貨幣を消費して貰う方法に腐心した。
雑貨店を拡張して各長屋の近くに設置し、キャンプ内で製造された日用品を販売したり、菓子工場で作られたお菓子もそこで売り出すようにした。
また外部への仕入れ担当を強化してシニョルから紹介された複数の商会から食材や嗜好品の買い入れを行い、これを雑貨店を通じて住民に放出した。
藍玉堂や菓子店が開店直後から巨額の利益を上げるようになったので、エルダからの補助金に頼る事無くこのような購入が可能になったのだ。
そして実りの秋がやって来た。一月の中旬から始まった恐ろしい勢いで広がった開墾。そして畑作り。種蒔きを経て初年度の秋に収穫された小麦は1万トンに達し、配給で一年に消費する量を大きく上回った。
かつて配給で使われていたのは大半が大麦で、作られるパンも大麦を使った堅い物がメインであった。
これはヴァルフェリウス公爵領が位置する大陸北方が未だに大麦栽培が盛んな地域である事から、購入価格でどうしても大麦を多く買い入れざるを得ない状況にあった為である。
本来、パンを作る材料としては大麦よりも小麦の方が適しており、キャンプは漸く第一世代難民が故郷で食べていたパンの味に戻る事が出来たと言えよう。
メイズ、つまりトウモロコシの収穫も数千トンに上り、これは一部余った小麦と共に酒の原料や酪農家への飼料に回された。その酪農家では初期に大量導入した乳牛から牛乳を得る事が出来、他にも豚や肉牛からは来年以降に肉が採れるようになる。勿論皮も骨も残さず利用する予定は既に立てられており、特に骨や角、臓物の一部は藍玉堂に買い取られて治療薬の原料となる。
そして羊毛の採取も僅かながらに行われた。ラロカの提案で再度赤の民と交渉を行い、初乳を二旬に渡って飲ませた、間引き予定だった子羊を140頭買い入れる事が出来た。
最初の番5組だけを育てるつもりであった諜報員候補生はある朝牧場に来てみると大量の子羊が牧場内を元気に走り回っており、驚愕しながらも10頭の毛刈りと子羊の世話に追われた。
青の子の現役諜報員は140名。暗殺員からの配置転換の再教育を受けている訓練生が50名。
一般の訓練生が60名居り、羊の世話には当番制で30名程度が従事する事になった。
最初の羊毛採取によって造られた毛布を贈呈されたシニョルは、その手触りと温かさに驚き
「これが……あの羊の毛から造られた物ですの?」
とうっとりしながら口にし、
「左様でございます。私が製法を工房の者へ指導致しましたので、来年より少しずつですが生産量は増えるでしょう」
とラロカが説明した。
「そうですか……よくもこのような素晴らしい物をキャンプで……」
とシニョルは感動し、イモールは他の事業も順調に進んでおり、初年度より莫大な利益をもたらしている事を報告した。
ルゥテウスはこの場におらず、ノンの初等製薬の実践で郊外の農地や森へ薬材の採取に二人で出掛けている。ノンの製薬学習は既にアリシアのノート10冊分を読み終えて基礎学習のまとめに入っている。
「まことでございます。私が25年懸けて出来なかった事を、あの方は僅か一年足らずで成し遂げているのです」
イモールは少し涙脆くなったようだ。
「区画整理も終わり、道路の普請も完了しております。その後は普請部隊を中心に自警団を結成して、いよいよ『国』としての体裁を整える段階に入るようです。店主様は、普請事業を通じて統率力を身に付けたロダルを自警団の初代隊長として藍玉堂の従業員から正式に配置換えして頂けるとの事です」
「そうですか……たった一年でそこまで……」
「ご本人も当初は数年は掛かると思われていらっしゃったようですが、住民が思った以上にヤル気を見せてくれまして……」
「彼らはこれまで3000年もの間、我慢してきたのです。天は我々の辛苦をご覧になられ、《青の子》を遣わされました」
このシニョルの言葉にイモールは、《赤の民》の野営地に赴いた際に見たルゥテウスの真っ青なローブ姿を思い浮かべて、ハッとした。
「《青の子》が我らと共にある限り、故郷への帰還は本当に叶うでしょうね」
シニョルは目元を赤くしながら、そう呟いた。
季節は廻り、彼ら難民が《青の子》と出会った冬がまたやってくる。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。5歳。賢者の血脈の完全発現者で魔導師。戦時難民のキャンプの魔改造に取り組む。難民幹部からは《店主》と呼ばれる。
ソンマ・リジ
25歳。戦時難民出身で初めて魔法ギルドに入門し、錬金術を修めた初級錬金術師。《赤の民》へ術符を提供してしまった為にギルドから追われる身となる。キャンプの中で主人公が作った薬屋《藍玉堂》の経営を任され、仲間からは《店長》と呼ばれる。
ノン
15歳。《藍玉堂》の受付担当。美人で有能だが気が小さい。主人公の秘書を務め、姉を偽装する役目も負っている。アリシアの遺したノートを使って製薬を学び始める。
サナ
15歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の末妹。錬金術師の才能があると認められ、現在は製薬の傍らで錬金術を学ぶ。
ヒュー
48歳。ラロカの弟。仕事も無く家で燻っていたところに一家で藍玉堂の支店経営を命じられる。ルゥテウスに《おやっさん》と呼ばれ、それが周囲にも定着する。
ホーリー
43歳。ヒューの妻。一家で藍玉堂の支店経営を命じられ、主に経営について学ぶ。一家の中では慎重な性格。ルゥテウスに《おかみ》と呼ばれ、周囲もそれに倣い出す。
ニコ
14歳。ヒューとホーリーの娘。顔の痣を気にして自宅に引き籠っていたが、ルゥテウスに消して貰い、藍玉堂の支店で《看板娘》として働き出す。
イモール・セデス
49歳。難民キャンプを創設した男。現在もキャンプの責任者を務め《市長》と呼ばれる。理知的で穏やかな性格。元《赤の民》領都支部支部長。戦時難民第一世代。
ドロス
44歳。戦時難民出身で、ラロカと共にエスター大陸に渡って諜報術を修める。キャンプに諜報術を持ち帰り以後は諜報部門を率いる真面目な男。《赤の民》解散後は新生諜報集団《青の子》の統括を任される。難民からは《監督》と呼ばれる。