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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第二章 難民の王国
30/129

領都進出

【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。


「アリシアの子はどうなったのかえ?」


 シニョルは突然、エルダに尋ねられた。「ルゥテウス抹殺」の命を受けて既に4ヵ月近くになる。

あの時、エルダは結果の報告に拘りを見せず、シニョルもエルダに聞かれない限りはこちらから報告も行わない旨を伝え、了承されていただけに、今になってこの話を持ち出され、彼女は面食らった。


「はい。それではご報告をさせて頂いて宜しいでしょうか?」


「そうよな。あの男が間も無く王都に参るでの。帰りは……夏頃だったか?」


「左様でございます。8月中旬に御帰着の御予定だとか」


「なるほどのう。それでな。あの男の事を考えておったら、あの女の遺児の事も頭に浮かんだのでな」


「かしこまりました。それでは御報告させて頂きます」


と、シニョルは手帳を出して日付を確認した。ルゥテウスを「抹殺した日」では無く「襲撃に失敗した日」、つまりルゥテウスの封印が解けて覚醒した日だ。


「件の遺児につきましては、『我らが手の者』によって去る年の12月11日深夜に彼を引き取っていた親戚宅にて処理を完了しております。

別の手の者にて現場の見分も行われ、件の遺児の死亡を確認したとの報告が上がっております」


「ほう。そうかえ。漸くにして禍根を絶ったと言う訳じゃな?」


「左様にございます。これにて奥様を煩わす者は全てこの世から消えた事になります」


シニョルは嘘の報告をした。周知の通り、ルゥテウスは殺される事無く逆に覚醒し、襲撃者を返り討ちにした挙句にその直後には数百キロ離れた領都にある《赤の民領都支部》の根城を急襲。

シニョルも含めた関係者も全て引き摺り出された挙句に暗殺の愚を諭されて、既に暗殺組織は解散している。


 しかしシニョルにとってはここからが正念場であった。アリシアの関係者を抹殺し終えた事で、エルダにとって難民を保護する必要性が失くなると思われる可能性があった。

こうなった場合、現在年間で金貨4000枚にも及ぶ経済的援助の他に、「キャンプ」という難民を保護する領域まで失うという危機が想定されるのだ。


 だが、シニョルにはそれでも勝算があった。エルダに対して暗殺という犯罪を起こさせる事無く、それでいて難民の保護を続ける必要性を訴える手段。


「奥様。奥様がこの報告を欲っされます可能性を考慮し、私の方から今後の方策についてお奨めさせて頂きたい事がございます」


「ほう。何かえ?」


 このシニョルという「知恵袋」はエルダにとって、昔からその進言に従って損をした事は一度も無い。

彼女はシニョルの進言を通して25年前から難民への援助を垂れ流しているのだが、結果的にそれが彼女の「秘密を守る」という事に対する大きな担保になっているわけだし、シニョルの采配によって領内や王都からの商人を競わせて莫大な金品を巻き上げ続けている。


その金額が膨大な数字になっている事はエルダ自身も弁えており、彼女への信頼は寧ろ増大している。

今回も「用済み」となった難民について妙案があるのだろうか。エルダはシニョルの言葉に耳を傾ける事にした。


「奥様も……私もですが……これは申し上げにくい事ながら、お互い歳を重ねて参りました。件の子の処分も終わり、奥様にはもっと別の事をお考え置いて頂きたいのです」


「ほぅ……考えるとは?」


「奥様にとってまだまだ必要なのは『名声』です。残されるお二人の御子息の事も考え、奥様ご自身にはもっと名声を得て頂きたいのです」


「名声……とな?」


「はい。私も含めてですが、この『難民』という連中を王国は建国以来ずっと放置して参りました。保護するでも無く、国籍や戸籍を与える事も無くです。

そのような者達を奥様は建国以来初めて保護されていらっしゃるわけです。これは王国、王室の皆様にも成し遂げられなかった美事であると私は思っております」


 シニョルに持ち上げられて、エルダは考えた。


(言われてみればそうじゃ。あの汚らしい連中を国はずっと無視してきたではないか。妾が初めて保護したからこそ、あ奴等は糧に有り付けておる)


「私も難民と言う軽蔑された者達の出身ながら、奥様に拾い上げて頂きこれまでお仕えする事が出来ました。我ら難民は奥様へ海よりも深い感謝を捧げているのです」


「そ……そうか」


 普段、怜悧な口調で話すシニョルが熱を帯びて話すのを聞いてエルダは少し驚きつつも、彼女から手放しに感謝の言葉を言われて照れていた。


「奥様の大いなる『秘密を守る』と言う役割が一段落した今、我ら難民は奥様の為に更なる忠誠を示し、奥様の御為にお役に立てる事をさせて頂きたいのです」


「そ、それは?」


「先程も申し上げました。奥様の世間からの名声を更に高める為の手段です。難民の者共が奥様からの援助を受けられた上で活躍する事により、結果的にそれを後援頂いた奥様への名声に繋がるのではないかと私は愚考するのです」


「例えば?」


「難民に政治的な力は無く、そのような分野で出しゃばると、これは逆に奥様の足を引く行為になりかねません。

そこでもっと庶民の中で評判になる行為……例えば『良く効く安価な薬』を庶民の間に販売する店や、『素晴らしい味の料理』を提供する店等、奥様の政治的立場に攻撃を受けるような事では無く、むしろ庶民の間に『奥様から応援された者が出す店』が名声を上げれば……奥様が『国も放置する難民に手を差し伸べて彼らを成功に導いた』として奥様の名声にも繋がりませんでしょうか」


「な、なるほど」


「数万人の難民。これが全て奥様の名声を高めるように動くのです。そしてこれには新たな出費等を必要と致しません。

奥様にこれ以上の御負担を掛けては本末転倒でございます。これまでの援助で十分にやって行けますので……」


「そ、そうか……それは妙案じゃのぅ。流石はシニョル。我が知恵袋じゃ」


「もしも奥様からの御許可が頂けるのであれば、不動産を購入し、そこを起点に活動を開始出来ます。

ただ悲しいかな、彼らは難民。この国の法律では彼ら戸籍を持てない難民が不動産を購入する事が不可能なのです。

しかし、そこを奥様の名義で買い上げるという事にさせて頂ければ購入は可能になるどころか、その店が成功した暁には『あの店は公爵夫人の援助によって成功した』と言う評価が得られます」


「ふむ……なるほどのぅ」


エルダはすっかりシニョルの「妙案」に聞き入っている。


「逆にもし失敗するようならば、その時は彼らを切り捨ててしまえばいいのです。失敗した者は再びキャンプに戻るだけですから。

それにしても奥様の名をお借りするわけですから、無様な真似はさせません。数万人の中から優れた素質を持つ者を選び、事に当たらせましょう」


「そうか。分かった!許可するぞよ」


「ありがとうございます。これで難民同胞も救われ、今後も奥様のお役に立てる事になり、彼らも喜びましょう」


 シニョルは深々と頭を下げた。エルダにとっては、この「妙案」を実行するに当たり、これ以上の出費が必要無いという事、そして彼女自身が何もする事無く彼女の名声だけが浮き上がって行くというメリットがある。

これまで年間にして金貨数千枚を投じて「秘密」を守るような事をしてきた彼女が、今度は「自らの名声が勝手に上がって行く」事にその掛け金を移す事に何ら躊躇は必要なかった。


こうして、シニョルは引き続きエルダからキャンプ運営資金の提供を確約させると共に、「公爵夫人名義」での不動産購入という巨大な権限を与えられたのである。

これは正しくシニョルの知謀による真骨頂であり、ルゥテウスの計画を強力に後押しする援護射撃になったのである。


****


「ほ……本当に羊が……」


 強面の伯父が予告した通り、日の出と共に羊牧場に行ってみると既に羊小屋の柵の中には羊が10頭入っており、メェメェと鳴き声を上げていた。

そして小屋の横にある水槽の脇に、上下に動かすハンドルの付いた手押しポンプが設置され、水槽には澄んだ水が並々と注がれていた。


また水槽の底栓の先から柵の外に排水溝が設けられており、そのまま西に向かって森の中に続いていた。小屋の中には乾燥させた草が敷き詰められており、何頭かの羊はその上で寝転んでいる。


「ど……どうなって……こんな……」


「どうした?」


 イバンは小屋のある柵の前で茫然としていたところに後ろから声を掛けられて飛び上がった。慌てて振り向き身構えると、そこには鬼より怖い《監督》ことドロスが立っていた。


「か、か、監督……あ、あの……これ……羊が……」


「羊がどうした?」


「いや……今朝起きてきたら突然……」


「俺が羊を手に入れに行く事は出発前に話していたと思うが?」


「は……はい。き、昨日……店主様とお会いしまして……羊を送り込むと……」


ドロスは呆れるように笑いながら


「店主様がそう仰っていらしたのだろう?だったら羊はここに居て当然ではないか」


伯父と同じような事を言っている。


「そ、それに……これ……水が出るように……」


「地下水を汲み上げるポンプだろう。これも店主様が言っておられた事だ。気にするな。あの方は『そう言う方』なのだ。我ら凡人が考えるだけ無駄だ」


バッサリと言われてイバンも強引に自分を納得させるしかなかった。


「それよりも、羊は毎年5月に毛刈りをする。これはお前達にやらせるつもりだが、腕が未熟だと羊を傷付けてしまうからな。世話をする者としてしっかりと練習しておけ」


「は、はい」


「お前の伯父上が工房に毛刈り用の鋏を発注されているはずだ。後で引き取ってこい」


「りょ、了解しました」


「よし。それでは見回りに戻れ」


「はっ、はい」


 監督の迫力に圧倒されてイバンは牧場の見回りに戻った。そして数日前から訓練生総出で行っていたが手を焼いていた伐採後の切株が全て引き抜かれて転がっているのを見て更に仰天する事になる。


****


 3039年1月28日。藍玉堂と役場の裏の敷地に住民が待ちに待った病院が竣工した。大きさは幅50メートル、奥行き30メートル。

上空からこの病院と藍玉堂、役場を見ると丁度正方形の敷地に収まるような構造で地上二階、地下一階となっている。


診察室や手術室、検査室の他に病床が120も用意されており、これは領都の中央病院の100床を越えて王都の王立総合病院の150床に迫る規模である。

しかも内装と医療機器、病棟施設は全てルゥテウスが用意した物なので、その質は王立総合病院を大きく凌駕している。


中には院長であるオルト医師にも取り扱いが分からないような検査機器まであり、彼は暫く患者の診察と機器使用の習得に追われそうだ。


更に後進の医師の育成も彼に委ねられ、見習いとして12歳の少年四人と看護婦長となったユミノが新たに十人の看護婦見習いを雇った。


翌日の開院式に参加したシニョルを始め、市長のイモールや藍玉堂店長のソンマ、そして院長のオルトやユミノですらも病院の設備と内装を見て口が空いたまま言葉を失っていた。


「と……とにかく開院おめでとうございます。まさかこのキャンプで病院が開かれるとは思ってもみませんでした。私も感激しております」


と、何とか気を取り戻したシニョルの挨拶で、他の者も我に返り


「院長、処方箋をバンバンお願いしますよ。ウチの店もこれで大助かりだ」


とニコニコしながら満面の笑みで話す藍玉堂店主の幼児に院長も


「あっ……はい……が、頑張ります……」


と消え入りそうな声で応じるのが精一杯だった。入院患者も受け入れる事になったので、新たに料理が出来る賄いを担当する者が数人、掃除や洗濯を行う者も何人か雇われた。


また、入院患者への投薬の為に毎日、医師見習いの少年が藍玉堂に注文を出しに来るようになった。

更に役場の職員も健康診断などが定期的に行われる予定である。


 ルゥテウスは開院に当たって、オルト医師に魔導で付与された聴診器(ステート)と青い光を放つメスを贈った。

そして婦長のユミノにも同じく聴診器と体温計を贈った。


メス以外の物は超古代文明時代の技術で造られており、聴診器を使ったオルトは両耳からステレオで聞こえてくる心音に驚いていた。

メスはルゥテウスが伯祖父夫妻に送った包丁と同じく、研がずとも切れ味の落ちない付与が掛かった物である。


「よしよし。これで藍玉堂の経営も万全ではあるが……」


役場で昼食を摂っていたルゥテウスは、同席していたイモールにある提案をした。他に同席しているのはソンマ店長とサナ、そしてノンである。


「ほぅ。まだ何か懸念が?」


お気に入りの柔らかいパンを齧りながらイモールが尋ねると


「いやいや。そうじゃない。実はちょっとな……」


「な……何か?」


イモールは少し不安になった。


「この役場と藍玉堂、そして病院は様々な熱源や動力を、まぁ……ちょっと特殊な形で得ている」


「そのようですな……」


「しかし、他の建物……特に風呂場が併設された新築の長屋や鍛冶工房などの施設の熱源は今でも薪に頼っている」


「えぇ。昔からそうですしね」


「これからどんどん、風呂付の長屋が増えて行く事で薪となる木材の消費量がバカにならない割合で増えて行くんだ。このままだと周辺の森林資源が早晩枯渇する」


「え?そうなのですか?」


驚くイモールにソンマが


「そうですね。このままだと5年もすれば東側に広がる森林は消滅するかもしれませんね」


と言い添える。パンを咀嚼していたイモールの顎が止まった。


「では……どうすればいいのでしょうか」


 新長屋の入居は既に終わっており、農業従事者の宿舎も完成して入居が始まっている。

排水溝の型枠に流したコンクリートの水分が一晩で抜け切った上に巨大な玄武岩で出来た路盤が綺麗に並べられた石畳の道路が出現し、ロダルも流石に仰天したが、普請部隊も自分達でやれる事を一生懸命やっているので、


「お前らを見た『神様』がきっと助けてくれているんだよ……うん。きっとそうだ」


と苦笑いしながら説明するロダルの言葉に頷くしかなかった。



「そうですね……こればっかりは……数も多いですしね」


と珍しく思案に暮れる店長の横から幼児が自信満々に言った。


「そこでだ。諸君。俺がそんな君達の為に素晴らしい案を捻り出してきた」


「ほ、本当ですか?さ、流石は店主様」


とイモールが泣きそうな顔で縋りつくように口を開いた。ノンとサナはその顔を見て笑いを堪えるのに必死だ。


「このままだと、木が無くなる。しかし燃料は必要だ。それなら燃料を『造れば』いいんだ」


 これには一同も首を傾げざるを得ない。古来、大消費社会には燃料の枯渇問題と言うのは切っても切れない縁で結ばれており、文明社会の産業は燃料の節約と効率化を一義として改良が進められてきた。


キャンプも当然その道を辿るしか無く、その為には風呂を沸かす釜や鍛冶工房の炉の改良が必要なのだが、ルゥテウスは全く違うアプローチでこの問題の解決策を提案したのである。


「炭を改良する。勿論錬金術でだ。そしてそれをやるのはサナだ」


 突然ルゥテウスに指名された見習い錬金術師のサナは熱々のスープをそのまま飲み込んでしまい、顔を真っ赤にしながらコップの水を大急ぎで飲み干した。


「もしかして炭の『遅燃強化』ですか?」


この中では本職である錬金術に詳しいソンマが応じてきた。


「そうだ。炭の遅燃強化は、本来は錬金術を行う為の準備作業として用いる物だが」


 錬金術で予め素材を加熱する必要がある場合、大抵の場合は小型の燃料コンロを使う。以前にソンマの個人工房にあった物で後に長屋の仮設事務所に設置した物だ。

そしてその際にルゥテウスが『改良』した炭は魔導による一種の付与で、結局は役場が機能し始める半月余り、その火力を維持し続けた。


「その遅燃強化をひたすらサナにやらせて、出来上がった物を藍玉堂が役場に納入する形を採る。そして役場から集会所経由で各長屋に配布していくわけだ。

最初は初心者のサナだから失敗も多いだろうが、所詮は錬金の準備品だ。それ程難易度も高くない。

そのうち品質も安定してきて炭1個で1旬くらいは風呂を沸かせるくらいの物が出来るだろう。同じように鍛冶工房にもこの炭を納入する。

これは藍玉堂が直接納入したいが、工房もまだ収益を上げて無いから暫くは役場経由での供給でいいだろう」


「しかし……そんな量の遅燃強化なんて聞いた事がありませんよ。しかも触媒はどうす……あっ!そうか!」


「な、何だ?」


突然声を上げたソンマに驚いてイモールが恐る恐る尋ねる。


「いや、遅燃強化の触媒はマシタゼリ。恐らく今、北の農園予定地で開拓民の方々が必死の形相で毎日引っこ抜いている雑草です」


「何だと!?」


「そうだ。本来は羊の餌にもならないマシタゼリを役場で買い取る。開拓民の皆さんは春になって種を蒔いて夏から秋に収穫が無いと、現在のところ収入が無い。それを補う為に役場で雑草を買い取れば副収入程度にはなるはず」


「な、なるほど」


「それに、いくら難易度が低い遅燃強化とはいえ、このキャンプ全体を賄う量の錬金術を重ねればサナの技能だって嫌でも上がるさ」


ルゥテウスは笑って言った。


「凄い……一石二鳥どころか三鳥じゃないですか……よくもまぁ、後から後から考え付きますね……しかも結果的にウチの店がボロ儲けじゃないですか……」


ソンマが呆れたように言う。


「お前……それじゃ俺がまるで小悪党みたいじゃねぇか」


ルゥテウスが気分を害したように言うと、向かいの席でパンを齧っていたノンが吹き出した。


「いやいや、これでも最大の賛辞を贈っているつもりですよ」


ソンマが慌てて言い直した。


店主と店長のやり取りを聞きながらサナが恐る恐るといった口調で


「あ……あの……あたいなんかで務まるでしょうか……」


「大丈夫だ。素材と触媒は腐る程ある。俺達はお前がどんなに失敗を繰り返そうが損失は殆ど無い。安心して失敗を繰り返せ。但し疲れるだろうがな。そこはノンに『看板娘の回復薬』でも貰っておけばいいさ。わははは」


大笑いする店主の無責任な言葉にサナは何も言い返せず唖然としている。


 市長と藍玉堂の面々がそのような相談を笑い混じりに交わしている所に、何とシニョルが単身でやって来た。

シニョルが役場にやって来たのは役場の開場の時以来で、食堂部分にやって来るのは勿論初めての事だ。


 彼女は好奇心旺盛に周りをキョロキョロ見渡しながら歩いて来る。部外者かと思って引き留めようとした職員は相手がシニョルだと気付いて仰天している。シニョルはルゥテウスらを見付けると、嬉しそうにやって来てイモールの向かいに座った。


「美味しそうな匂いがしますわね。そう言えばお昼がまだでした」


「ノン、統領様に昼食を取って来て差し上げろ」


ルゥテウスが呆れたように言うと


「統領様、少々お待ち下さい」


とノンが配膳の方に向かって行った。


「飯は御屋敷で食わないのか?」


「はい。今日は病院の開院式でしたのでお屋敷の予定は切り上げて来ましたから」


「なるほど。そうなのか」


「それと店主様にご報告が」


「ほぅ。俺に?」


「はい」


 そこにノンが盆に載った昼食を持って来た。今日の昼食メニューはルゥテウスが仕入れて来た白身魚を使ったフライだ。

本来はバルク海に面した王国西部でしか食べる事の出来無い料理で、エスター大陸出身の調理人も料理の仕方が分からなかったが、ルゥテウスが幼児とは思えない包丁捌きで魚を三枚に下ろすとそれに倣ってすぐに調理法を覚えた。


今後は定期的に魚を仕入れて来ればこのキャンプでも魚料理が浸透するだろう。

シニョルが言った「美味しそうな匂い」とはこの白身魚のフライを揚げる時の匂いだったのだ。


シニョルはノンに礼を言い


「まぁ……これは……何と言うお料理なのですか?」


「うん?それは白身魚のフライだ。俺の故郷のダイレムでは割と普通に食うな」


「統領様、この粒々の入ったソースを付けて食べるのです」


ノンがタルタルソースの使い方を教えた。教わって一切れ口に入れたシニョルは目を見開いて


「なっ……こっ……これは……」


と呟いた後はひたすら「フンッ、フンッ」と言いながらフライと、これまた驚きながら柔らかいパンとスープを交互にひたすら食べ続けた。これは彼女にメナの実を初めて食べさせた時と同じ反応だった。


「ふむ。とりあえず話は食ってから聞こうか」


ルゥテウスは諦めたように言うと、ノンとサナはまたもや笑いを堪えるのに必死になっていた。


「あ、店主様。そういえば親方も何か店主様にお話があると朝方会った時に申しておりました」


「ふぅん。親方が?何だろう。確か病院の次は資材工場を鍛冶工房の隣に造ってるんだったよな……後で行ってみるか」


「はい。お忙しいところ申し訳ございません」


「いや、いいよ。今一番忙しいのは親方とロダルだろうから」


「ははは。キッタも結構忙しいようですぞ。長屋の新築が進んでますからな」


「そうだな。これで資材工場が出来れば排水溝が型枠では無く組み付け品になるから一気に工事が加速するぞ」


「なるほど」


等と話している間にシニョルは食事を済ませた。何か非常に幸福感溢れる顔だ。ノンが食器を下げると、漸く我に返り一同の視線に気付き口元を手巾(ハンカチ)で拭きながら


「あ、あら……済みません。私……はしたない……」


「いや、今更言われてもな……それで報告って何だ?ここで話せる事なのか?」


「あ……そうですわね。出来れば藍玉堂の二階で……」


「分かった。では移動しよう」


一同は調理担当の者に礼を言って席を立ち、地下通路を通って藍玉堂の二階に移動した。


二階では台所にアイサが居て


「あらあら。これは大勢で。すぐに何か拵えますからね」


と、今度はこちらでお菓子を作り始めた。


「済みませんね。お忙しいのに」


と、シニョルが笑顔で侘びているが、明らかに出て来るお菓子を期待している顔だ。


「じゃ、話を聞こうか」


とルゥテウスが切り出すと、慌てて彼に向き直り


「奥様から正式に援助の継続の確約と、奥様名義での不動産売買の許可の一任を取り付けました。これで私達は自由にこの国で不動産の売買が行えますわ」


「何だとっ!?そりゃ凄ぇな!」


 ルゥテウスが驚愕の余り声を上げた。イモールも驚きの余り硬直している。よもや難民の自分達がキャンプの外で建物の売買が行えるとは……


「お、お前……どんな手品を使ったんだよ……まさか何か暗示の魔術でも使ったのか?」


ルゥテウスはどこまでも疑わしそうだ。面倒臭いとすぐに暗示を使いたがるのは彼の方で先日も赤の民の者に使った事をイモールは憶えている。


「キャンプを保護するメリットを改めてご説明申し上げただけです。あの方にとって、最早貴方様を葬ったとなれば残すは御子息に跡をお継がせになる、更に次男様に婿入り先の家督を継がせる為に自らの名声を高める事こそがそれを盤石にする要素。その名声の為に今度は難民を利用するように誘導して差し上げたまでですわ」


 最近のシニョルとは違う、以前のカミソリのような切れ味を持った凄味のある冷徹な眼差しを受けて一同は震え上がった。ルゥテウスですら言葉を失っている。


「いやぁ、ウチの統領様はやっぱり凄ぇな。みんなもそう思わんか?」


 イモールやソンマは無言で頷いている。何か論評するのも恐ろしいのだろう。相手は大貴族たる公爵夫人である。

普通ならばルゥテウスを消したと言う時点で「用無し」として切り捨てられてもおかしくないのだ。

それを援助を継続させるばかりか、新しい権利までもぎ取って来るとは……。


「いかが致しますか?領都中心街に《青の子》の本部を進出させるのですよね?」


 以前の《赤の民》だった頃は領都の中心街などとてもじゃないが建物を持つ事など出来ず、スラム街にどさくさ紛れに偽装酒場を持つのが精一杯だった。

今後は何と領主夫人の名前で堂々と建物が持てるのだ。これはイモールやラロカからしたら夢のような出来事だろう。


イモールが震えながら


「る……ルゥテウス様がこの地にいらしてから僅か二ヵ月……二ヵ月でこれ程までに……隔世の思いです……」


と涙を堪えながら吐き出した。


「そうですわね……私も店主様……ルゥテウス様と出会えたからこそ、これだけの勇気を与えられたのですわ……」


シニョルもしみじみと語った。他の者も皆俯いている。この超絶的な力と知恵を持ち合わせた幼児に出会えた事……これによってこの場に居る……アイサですら運命が変転した。これは全ての者が総じて感じている奇跡なのである。


「とにかく、本部については監督の話も聞きたいな。時間が空いてるならここに呼び出したいが……」


「では私が聞いてみましょう」


 シニョルが念話を始めた。何と彼女はもうカード等の助けを借りる事無く単体念話を飛ばせるようになっているようだ。

彼女は最近、念話もそうだが転送陣も使っている。転送陣も複数個所に設置してあるのでその行先を強く念じる必要があるのだ。


そういう機会を重ねる事で、彼女自身気付かないうちにそう言った能力が養われているのかもしれない。

やはり彼女に魔法使いの才能があれば、優れた魔術師になっていたかもしれない。


「市長は本部の建物を出すに当たって、もう予算の確保はしているのか?」


「はい。金貨で500枚程用意してあります」


「俺は最近の領都市中の不動産価格の相場が分からんのだが、それだけあれば結構な建物も買えるのか?」


「実は私もよく分からないのです」


イモール苦笑いした。


「しかし金貨500枚と言えば、俺の知っている頃と制度が変わっていなければ子爵の年金額よりも少し多いくらいだ。そこそこの物件は行けるんじゃないかな」


「ほぅ……そうなのですか?」


「子爵と言えば一代公爵の次代が叙爵する地位だからな。結構バカにならんぞ」


「監督はこれからこちらに来るそうです」


そう言っている間にドロスが二階に上がってきた。恐らく最近彼にも開放した資材置き場の転送陣を使ってきたのだろう。


「お待たせ致しました」


「いや……うん。待ってはいないかな……」


ルゥテウスが曖昧に笑うと、一同も笑い出した。彼は相変わらずクソ真面目なのだ。


そこにアイサが


「さぁさ、どうぞ」


と巨大なアップルパイを机の真ん中に置いてナイフで切り分け始めた。皆、会話が止まり無言でそれを見守る。


焼き立てのパイを小皿で分けられて、それの匂いを嗅ぎながらシニョルが


「監督はもう本部の候補になるような物件を見繕っていらっしゃるのかしら?」


「はい……僭越ながら3件程候補に残しております。内1件が少々急がないと先を越されそうですが……しかし本当に不動産の売買が可能になったのですか……?」


事情を聞いたドロスも「信じられない」という表情を見せている。

この滅多な事では驚かない監督が見せる驚愕の表情には構わず、シニョルが


「へぇ。どの辺の物件なの?」


「は、はい。こちらをご覧ください」


 そう言うとドロスは懐から出した地図をアップルパイの大皿が下げられた机の真ん中に広げた。見るとそれはこれまでの諜報員が集めた情報を基にした詳細なオーデル市内の地図であった。

地図に3ヵ所印が付いている。1件が高所得街で2件が中層街だ。


 この国の王都や領都は概ね、王宮や領主屋敷を中心として同心円状に内側から王族及び領主の直轄地、その外に王都ならば高級貴族街、更に外側に向かってその地位に応じた貴族の屋敷、そしてその外側に平民の中でも富裕層に属する者や大手の商会本部、そして中流層、低所得者層、そしてスラムのような底辺層の住居が並び、各領地持ちの貴族の領都も基本的にそれに準ずるような構造をしている。


今回ドロスが目を付けたのは中心に近い高所得者が住む街区とそのワンランク下の中流層の市街地だ。


「この中で商談が進んでいるのがここ、中流層の1件です。我らが掴んでいる情報では売主側の要求額が金貨180枚程で、買い手側は140枚程度に抑えたいと言う事で未だ多少の食い違いがあります。

他の2件に関してはまだ買い手が付いていません。高所得街の物件が金貨330枚、今1件の中流層の物件が金貨210枚ですな」


「うーん。俺はこの高所得街の方が良いと思う。理由は高所得街と言えどもこの場所は中流層街にも比較的近く、両者の需要に応えやすい事。

更に言うなら《青の子》のような諜報機関を使おうと言うような連中は比較的高所得者側に多そうな気がするからだ」


ルゥテウスが持論を述べた。


「実は私も店主様と同じ考えでこの高所得者街の境界スレスレの場所を候補に入れたのです。やはりそこに着眼されるとは。御見事です」


「いやぁ……監督に褒められるとは光栄だな」


ルゥテウスは笑った。


「多分、薬品の単価も上げられるだろうから、すぐに買値の元は取れそうだぞ。飲食店とは違うからな。

商品単価が違うし、ウチは錬金商品の需要にも答えられる。ひとまずは『看板娘の回復薬』と『看板娘の炭』で勝負だな!」


ルゥテウスが大笑いするとソンマも一緒にゲラゲラ笑う。サナはオロオロしている。


「とにかくサナにはどんどん炭を造らせる。最初でもたまに高品質な物が出来るから、それをあっちで売ろう。元は東の森の薪と北の農場の雑草からだからボロ儲けだぞ」


ルゥテウスは、彼がよく見せる悪そうな笑顔でご満悦である。ノンが吹き出した。


「サナ、支店で炭が売れたら売り上げの半分をボーナスで差し上げます。頑張りなさい」


店長も煽る。


「だ、大丈夫なんですか……うちのサナが……」


流石にアイサは親として心配のようだが


「いやいや。これも修行だよ。おっかあ」


とルゥテウスは笑うばかりだ。ニコニコしながらアップルパイを食べている。


「ではこの高所得街の物件を購入しましょう。監督、奥様の委任状を書いて来ますから売り手と話をしてしまって下さい。奥様の名前を出して少しくらいは値切っても良くてよ」


「しょ、承知致しました……」


シニョルの抜け目の無い指示を受け、ドロスは軽く震えながら承諾した。


「では早速、本日中に売り手と接触して参ります……」


「分かりました。委任状は明日中にここに持ってきますわ」


「そうなると、いよいよ……おやっさん一家が行ってしまうか。また人手が少なくなるな。サナは炭造りだしな」


「店主。暫くは我々二人で頑張りましょう。どうせ処方箋対応は我々しか現状出来ません」


ソンマが諦め顔で話す。


「そうだな。ロダルも一人でやれてるし、親方もどんどん建ててるしな。後は物件購入が決まったら、俺が夜中にきっちり仕上げてやる。くくく」


 ヤル気満々のルゥテウスを見て一同が不安になる。この人の「きっちりやる」は一同の予想を遥かに上回ってくる事は今日の病院落成で思い知ったばかりだ。


「よし。一旦解散だ。俺は親方に話を聞いて来るよ。ノン、一緒に来てくれないか?」


「はい」


アップルパイを完食し、アイサに礼を言ってルゥテウスとノンは階段を下りて行った。出掛けに作業台で作業中のヒュー一家に


「処方箋の患者は来たか?」


と聞くと、ヒューが


「いえ、まだ来てませんね」


と答えた。


「じゃ、俺とノンは外出するから、処方箋の患者が来たら店長に頼む。それと領都でも店が決まりそうだ。

高所得街だから、後でちょっと高級そうな服を用意しておくんで、お互いサイズを測っておいてくれ」


「え……高級住宅街ですか?」


「そうだな。自慢の娘が作る『看板娘の回復薬』がどれだけ売れるか楽しみじゃないか」


ルゥテウスが大声で笑いながら言うとノンも一緒に笑い出す。


「そ、そ、そんな……私の薬なんかが……」


ニコは不安を隠し切れない。


「おいおい。そこは笑顔で押し通せよ。効果の問題じゃないんだ。『看板娘』の部分に金持ちのバカ共は食い付いて来るんだからな」


またしても悪そうな笑顔を見せる幼児。両親を前にして恐ろしい発言だ。


「じゃ、俺はおやっさんの兄貴に会ってくるから留守番を宜しくな」


小さく手を振ると、後に続くノンを従えて店を出た。


「お、俺も看板娘の父親に恥じないよう頑張らんとな……」


「ちょっと……大丈夫なのかい?」


妻のホーリーはまだ不安そうだ。


****


「親方。休み無く働いて貰って済まんな」


 ルゥテウスは鍛冶工房の隣にある資材加工場建築現場で相変わらず厳しい指示を飛ばしているラロカの横に立って労った。


「いえいえ。店主様のお働きに比べれば……」


「何か俺に話があるんだって?建築の事か?」


ルゥテウスが聞くと


「実は羊の事なのですが」


「おぉ。キャンプ随一の羊飼いである親方が何か不安でも?」


 ルゥテウスは笑いながら聞く。ノンも吹き出す。この強面の元殺し屋が羊を飼うのが上手いと言うのがどうしても信じられない。


「いや……不安では無いです。あの羊牧場を見回らせて貰ったのですが……」


「うん」


「私が思っていたよりも広いですし、監督が訓練生に羊の世話をさせると言うので、人員的にもかなり余裕が出来るはずなのです」


「まぁ、そうだろうな。俺もあの広さで最初とは言え10頭ってのはちょっと勿体無い気はするよ」


ルゥテウスはラロカの意見を肯定した。


「そこで考えたのですが……」


 この老練な元凄腕暗殺者が時折出す提案は非常に有益なものである事が多く、ルゥテウスも一目置いている。


「私や監督が修行時代に羊を飼っていて、何が一番辛かったのかと言えば、増え過ぎてしまった羊を間引く事だったのです。それも子羊をです」


「あぁ、無暗に増やし過ぎると駄目だったのだろう?」


「そうです。これは部族全体に対して大きな災いを招く事に繋がるので、泣く泣く処分しておりました。元々人を殺すのが嫌いだった監督は特に辛そうでした」


「あぁ、そうか。監督はその気性だからあれだけ優秀なのに暗殺者になれなかったのか」


「はい……いや、まぁ監督の事は良いのです。それよりもその羊の間引きです」


「あぁ……うん」


「いっその事、連中から間引く予定の羊を我らが買い取ってしまうと言うのはどうでしょう?」


「え!?」


「恐らく連中が毎年冬営を終えて移動するのが4月の中旬なのです。それは羊の出産を待ってから行うからです。今年も同様でしょう」


「うん。確かに4月の中旬まで留まると聞いた。そう言う事情があったのか」


「はい。なので移動の前に間引きが行われます。そこの機会で我らがその間引く子羊の買取を願い出れば……」


「そうか!俺達も羊が手に入り、連中も間引かずに済むのか!」


「はい。しかも二束三文で譲って貰えるはずです」


「おいっ!相変わらず凄ぇなっ!やっぱり伊達に歳は取ってないぞっ!」


 ルゥテウスはラロカの知恵に脱帽し、思わず彼の尻をどやしつけた。ノンは堪え切れずに笑い出す。またしても年の功を賞賛されて微妙な表情になったラロカは


「もし何でしたら、今度は私が交渉に赴いても構いません。どうせ交渉する頃にはここの建築も一段落しているでしょうし。久しぶりに師の顔も見てみたいですし」


「そうか。まぁ、俺は一度行ってるから一瞬で飛べるしな。ではその時は頼むか。ところであと何頭くらいあそこで飼えそうなんだ」


「いや、その気になればあの面積なら1000頭くらいは可能でしょう」


「そんなに飼えるのか!?」


1000頭という数字を聞いてルゥテウスとノンが息を飲む。


「はい。あの面積を確保しており柵もしっかりして居ますし、水も豊富に使えます。そして訓練生が面倒を見ますから、放牧よりはそれ程難しくはありません」


「なるほど」


「但し、欠点もあります。まずは餌です。遊牧によって餌となる草を求めて移動するわけでは無いので、常に餌を用意する必要があります。

それと病気です。やはり囲いの中である程度の数を飼うとなると病気が一気に蔓延してしまいます。

その辺の管理をしっかりしなければいけませんし、この森に棲む肉食性の獣からも羊を守る必要があります」


「なるほど。それなりに手は掛かるわけだ。よし俺の魔導で何とかやれるところは力を貸すぞ。

差し詰めだが、病気の予防くらいなら薬品で何とか出来る。それと飼料か。ちょっと研究してみよう。

獣対策だが、これはもうキャンプの狩人経験者の皆さんに頑張って貰うしかないな」


「そうですな。訓練生にも夜哨をやらせるといいかもしれません。将来的には店主様が仰っていた自警団の力を借りるとか」


「そうだな。そこは色々と考えよう。とりあえず間引き羊の買取については市長に言っておく。まだ少し先だからな」


「承知しました。お聞き届け頂き感謝致します」


ラロカは頭を下げた。


「いやいや。親方の献策はいつも鋭い。助かるよ……献策と言えばシニョルが……まぁ後でどうせ市長から聞くだろうけど……」


先程の席に居なかったラロカにルゥテウスはシニョルとエルダの交渉の話をした。


「なっ……!?」


それを聞いたラロカは暫く絶句した後、涙を流し始めた。


「わ……我々が建物を買える日が来るとは……あの酒場を確保する時ですら大変だったのです……スラムの顔役のような奴に大金を支払って……それでも度々金銭を要求されまして……」


スラム街の顔役が雇ったチンピラが店に押し掛けて来ては因縁を付けて来るという光景を住み込みの事務員だったノンも何度か見覚えていた。

ノンもその頃を思い出したのか、ルゥテウスの肩に掴まりながら小さく震えて涙を流していた。


「そうか。そんなクズ共に絡まれていたか。大変な思いをしていたんだな」


「いえ、店主様にお会いして私もこの歳になって運命が変わりましたよ」


ラロカは涙を拭いて笑った。


「思えば私は幸運です。この歳で……殺ししか能が無いのにこうして同胞の役に立てる……」


「いやいや。親方はもうこのキャンプに無くてはならない人物だよ。今日開いた病院を見たか?住民の皆さんの顔。

あんなに大勢の人達があんなに喜んでいたんだ。もっと自分の仕事を誇るべきだ」


ルゥテウスが明るく言うと


「そ、そうですな。これからも皆さんに御恩返しをしなくては」


「そうか。では邪魔したな。素晴らしい提案、改めて感謝する」


「いえいえ。とんでも無い」


こうしてルゥテウスはノンを連れて藍玉堂に戻って行った。


その帰り道。


「あの一家が居なくなったらノンも大変になるな」


「はい……」


「サナも錬金部屋に籠り切りになるしな。店長もサナにまずは炭の作り方を教えないといけない」


「すると処方箋は俺が処理する必要があるか……」


「今更キッタとロダルが加わったところで、奴等は製薬に関しては全く何も習っていないからな……」


 ルゥテウスのボヤキが続く。当初製薬の為に雇った三兄妹が製薬に関して全く機能していないのが誤算である。


「私……」


ノンがポツリと言った


「ん?何だ?」


「私じゃ駄目でしょうか?もっとお薬の事を勉強させて貰って……」


「え?お前が?」


「す、済みません……出しゃばってしまって……済みません」


ノンは顔を真っ赤にして俯いた。


「お前が……製薬を……」


 ルゥテウスはノンを見上げ、その顔をじっと見つめる。

いつに無く真面目な顔だ。ノンは出しゃばった事を言って怒られるのかと思い顔が強張っている。しかし次の瞬間、ルゥテウスから出た言葉は意外なものであった。


「やってみるか?」


「え……?」


「お前は元々が有能……と言うよりも聡いと思う。まぁ多少は引っ込み思案だが……」


「いえ……あの……」


「どうだ?本気で製薬を学ぶ気はあるか?」


「えっ?」


「お前が本気で製薬を学ぶ気があるなら、俺はお前に協力する。その用意も出来る。どうだ?」


「そっそれは……どう言う……」


「俺の母の遺したノートがある。それで学べば……製薬の初歩は学べるぞ」


「おっ、お母様の……?そんな貴重な物を……」


「母もお前と同じくらいの歳に製薬の勉強を始めたそうだ。まぁ、その頃は『凄腕』と言われた祖父が居たしな」


「そ、そうなのですか?」


「母……母さんは19という若さで俺を生んで亡くなった。僅か4年の間だが、あのクズ公爵に攫われる前までは製薬に夢中になったそうだ。

そのノートが俺に遺された。学問とはそうして人から人に引き継がれるのだ。そうだな……お前に母のノートを託すのも……悪く無いかな」


「そんな……私では……」


ルゥテウスはそのまま沈思したまま歩いた。ノンもその後を追う。結局彼はそのまま店に戻るまで口を開く事は無かった。


 その夜、ノンは自室に入って先程ルゥテウスと話した事を思い出した。彼の母は短い生涯の後半の数年だけ製薬を学んだと言う。

そして学問の素晴らしさを知り、それに夢中になったと言う。顧みて自分はどうだろうか。藍玉堂というキャンプの中に作られた……今までは想像も出来なかった場所。


店長が錬金術師であるどころか、店主に至っては普通の人間がその存在すら知らないまま生涯を過ごすであろう魔導師という存在。

そんな雲の上の存在がこんなに身近に居る。この一ヵ月の間、言われるがままに初歩的な薬を作ってみた。

自分は面白いと思ったが、それは言われるがままに材料を用意され、言われるがままにそれを加工しただけだ。


あの人は……あの幼児は不治の病と言われたサナの母の命を救い、そして医師であるにも関わらず病に倒れたオルトの命さえ救った。

自分も彼のように人を救ってみたい。あのような大病で無くてもいい。同胞の命を救えるなら。市長も親方も監督も。そしてあの尊敬すべき統領も。


皆、同胞を救いたい一心でその身を投じて来た。振り返って自分はどうか。救われてばかりではないか。自分も救ってみたい。いや、救えるはずだ。ノンの心の中に今、生まれて初めて何か炎が灯った。彼女は勇気を出して『彼』に念話を送った。


『ルゥテウス様。ノンでございます。夜分遅くに申し訳ございません』


すぐに彼から念話が戻ってきた。


『ノンか。どうした?』


『わ、私も人を救いたいです!救われるだけじゃなくて……救いたい!』


『ノン……』


『私は……この二ヵ月で貴方様に沢山の物を頂きました。でも……今度は私が……貴方様……いえ、同胞の皆さんのお役に立ちたいっ!立ちたいのです!』


『お願いします!私に!私に、製薬を教えて下さいっ!お願いします!』


『そうか……いいだろう』


 その直後、ノンの頭上から一冊のノートがゆっくりと落ちて来た。ノンは慌ててそのノートを空中で受け取り、中を開いてみた。美しい書体。そして非常に対象の特徴を掴んで巧みに描かれた挿絵。


『母が製薬を学ぶに当たって本当に最初に書き留めたノートだ。お前にその内容が追えるのであれば……お前が望む限り続きのノートも貸してやろう』


『あっ、ありがとうございます!私……私っ!頑張りますっ!必ず……必ず皆さんをお助け出来るように……!』


『そうか……頑張れ。人と言うのはな。自分の事では無く他人の事になれば頑張れるのだ。頑張れる奴が上を目指せるのだ。おやすみ。ノン』


そう言ってルゥテウスからの念話は終わった。ノンは気付かないうちに自分がカードを見る事無くルゥテウスに念話を個別に送れるようになっていた事に気付いた。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド

主人公。5歳。賢者の血脈の完全発現者で魔導師。戦時難民のキャンプの魔改造に取り組む。難民幹部からは《店主》と呼ばれる。


エルダ・ノルト=ヴァルフェリウス

ジヨームの正妻。50歳。結婚前後に自らの行為によって重大な秘密を抱えてしまう。戦時難民の保護・組織化に資金を提供していることから《御館様》と呼ばれ崇拝されている。


シニョル・トーン

51歳。エルダ専属の女執事。主人の実家時代からの腹心。戦時難民第三世代。難民同胞を救うためにキャンプの創設を企図した。難民からは《統領様》と呼ばれ崇拝される。念話がお気に入りの様子。


イモール・セデス

49歳。難民キャンプを創設した男。現在もキャンプの責任者を務め《市長》と呼ばれる。理知的で穏やかな性格。元《赤の民》領都支部支部長。戦時難民第一世代。


ラロカ

52歳。戦時難民第二世代。エスター大陸より暗殺術を学んでキャンプに持ち帰った男で《親方》と呼ばれる。現在は主に難民キャンプの建設担当で実質的な副市長。


ドロス

44歳。戦時難民出身で、ラロカと共にエスター大陸に渡って諜報術を修める。キャンプに諜報術を持ち帰り以後は諜報部門を率いる真面目な男。《赤の民》解散後は新生諜報集団《青の子》の統括を任される。難民からは《監督》と呼ばれる。


ノン

15歳。《藍玉堂》の受付担当。美人で有能だが気が小さい。主人公の秘書を務め、姉を偽装する役目も負っている。


ソンマ・リジ

25歳。戦時難民出身で初めて魔法ギルドに入門し、錬金術を修めた初級錬金術師。《赤の民》へ術符を提供してしまった為にギルドから追われる身となる。キャンプの中で主人公が作った薬屋《藍玉堂》の経営を任され、仲間からは《店長》と呼ばれる。


キッタ

32歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の長兄。事務職員として非常に有能な為に役場の業務に駆り出される。眼鏡がトレードマーク。


ロダル

28歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の次兄。元暗殺員。現在は主人公の右腕としてキャンプの普請部隊を率いる。


サナ

15歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の末妹。錬金術師の才能があると認められ、現在は製薬の傍らで錬金術を学ぶ。


オルト・ロング

42歳。戦時難民第一世代で、キャンプに居る唯一の医師。逃避行中に病に倒れたが主人公に命を救われる。キャンプで病院の経営を任されて《院長》と呼ばれる。


ユミノ・シラ

32歳。戦時難民第一世代。オルトが難民になる切っ掛けとなった女性。オルトと共に逃避行を続けて難民キャンプに辿り着く。病身のオルトを支え続け、オルト回復後は彼の病院で看護婦を務める。


ヒュー

48歳。ラロカの弟。仕事も無く家で燻っていたところに一家で藍玉堂の支店経営を命じられる。主人公に《おやっさん》と呼ばれ、それが周囲にも定着する。


ホーリー

43歳。ヒューの妻。一家で藍玉堂の支店経営を命じられ、主に経営について学ぶ。一家の中では慎重な性格。主人公に《おかみ》と呼ばれ、周囲もそれに倣い出す。


イバン

18歳。ヒューとホーリーの息子。《青の子》の訓練生として修行中。


ニコ

14歳。ヒューとホーリーの娘。顔の痣を気にして自宅に引き籠っていたが、主人公に消して貰い、藍玉堂の支店で《看板娘》として働き出す。


アイサ

50歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の母。かつては末期の肺病に冒されていたが主人公に命を救われる。現在は《藍玉堂》二階で賄いを担当。主人公からは《おっかあ》と呼ばれる。

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