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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第一章 賢者の血脈
3/129

一角亭

【作中の表記につきまして】


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日弱という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入

・「曜日」という概念は存在しておりません。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。

 《藍滴堂(らんてきどう)》の向かいに建つマーサさんの宿屋は建物としては三階建ての石造りで、大きさは宿屋とあって横幅が藍滴堂の二倍近く、奥行きはもっとありそうだ。


建物に向かっての右端にある(ひさし)の付いた入口扉の左脇に縦30センチ、幅50センチ程の風雨に打たれて年季の入った楕円形の看板が掛かっており、看板には《一角亭(いっかくてい)》と書かれていた。


《一角》とは何だろうかと思いながらマーサさんに続いて店に入った瞬間、一階左側の壁面の天井際の高さに2メートル程の錐のような《牙》を含む全長7メートルはあろうかと言う見事な《イッカク》の剥製が飾られているのが目に飛び込んできた。


きっとこれが店の名物で店名の由来なのだろう。


 玄関から入ると2メートル程度隔てて正面、つまり右璧に沿って二階に続く、石を積んで造られた頑丈に見える階段があり、左側は食堂のような造りになっている。

食堂部分は手前側に四人掛けのテーブルが奥に向かって三列、剥製が飾られた建物左側の壁に向かって横に二列の計6卓が置かれ、更にその奥に厨房の開口と向かい合わせにカウンター席がいくつかあり開口の奥に厨房が見える。


階段の奥側は廊下になっており、厨房の右側を通って奥に続いている。廊下の突き当りにも扉が見えるが、それがどこに繋がっているのかは分からない。建物の形状からすると裏口なのかもしれない。

上階が恐らく客室部分で宿泊客は入口から入ってそのまま食堂を通らず階段で自分の部屋まで行けるような動線になっているのだろう。


 マーサさんと俺が玄関から入ると奥の厨房からマーサさんに負けじと劣らない恰幅の、それでいて顔つきが何となくマーサさんに似ている白髪頭を頭頂で団子結にした老婆が出てきて、エプロンの端で濡れた手を拭いながらヨタヨタと歩み寄り、マーサさんに尋ねた。


「で、どうだったんだい?」


「うん……ダメだったわ……私が駆け付けた時はもうモートン先生が診てらして首を横に振っていたわ」


「そうかい……ローレンさんも逝ってしまったのかい……なんてこった……」


 婆さんは俺の祖父の様子を聞き、その死を知って衝撃を受け言葉を失っている様子だ。

まぁ、幅6メートル程度の通りを挟んだ向かい側に暮らしているわけだから近所付き合いも長いのだろう。

藍滴堂も一角亭も似たような造りの古さを感じた。もしかしてお互い何代も続く老舗なのかもしれんな。


「あんなに幸せそうだった家族が……ここ数年でみんな死んじまったのかい……うぅぅ」


婆さんは信じられないといった顔になり、ついに泣き出してしまった。


「大体何だい!あの黒い馬車が来るたびにローレンさんの家に不幸がやって来るじゃないかい!あの馬車は悪魔の遣いかい!」


「ちょっと母さん!……滅多な事を大声で言うもんじゃないわよ。誰が聞いているか分かりゃしないんだから」


 婆さんはしくしくと泣いてたかと思ったら突然喚き始めた。

慌ててマーサさんがそれをたしなめる。確かにここは不特定多数の人間が出入りするであろう食堂兼宿屋で、奥の厨房からも誰かが立ち働く姿と音も聞こえるし、客席にもこんな時間なのに何人か座ってる人が居る。


 彼女の言葉の中にあった「黒い馬車」と言うのが何なのか分からないが、話の内容からただの馬車じゃないのだろう。

何分それは俺の生まれる前の話かもしれないし、俺の頭の中に霧に覆われていた間の事かもしれない。

とにかく俺はここに連れてきたマーサさんの後ろで押し黙ったまま店内の様子を確認するように左目だけをキョロキョロと動かしていた。


そんな俺に気が付いたのか、婆さんは再び泣き出しながら俺を抱きしめた。


「ルゥちゃん!可哀相なルゥちゃん!なんて事だろうねぇ……こんな小さい子一人残して……ひどすぎるじゃないかいっ!」


俺を抱きしめた婆さんは、また怒りがぶり返してきたらしい。

またしてもドア越しに表の通りまで聞こえるんじゃないかと言うくらいの大声で喚いた。


「なんだよ……ローレンさんも逝っちまったのか。俺ァあの人の薬にはいつも世話になってたのによォ……ルゥ坊独りになっちまってこれからどうすんだよ……」


 食堂の一番入口に近いテーブルに独りで座っていたちょっと(いか)つい体格で左頬に浅い疵痕(きずあと)を付けた男性がこちらを見て肩を落とした様子を見せた。

どうやら食堂を利用している客のようだが、祖父の事も俺の事も知ってるようだ。


やはりここは自宅周辺だけあって、俺は結構色んな人に知られた存在らしい。俺の事を男性は「ルゥ坊」、女性は「ルゥちゃん」と呼んでいる。

《文字の奴》は俺の事を「ルゥテウス」と呼んでいた。恐らくそれが俺の本名なんだろう。


とりあえず今の時点で俺が知る事のできる俺自身のパーソナルデータは


・藍滴堂と言う薬屋を経営していたローレンの孫で、名はルゥテウス。


・年齢は恐らく5歳から8歳の間で右目に障害を持つ魯鈍な幼児。


・つい数時間前まで頭の中が霧に覆われたような状態になっており、それまでの記憶は曖昧。


・現在は右目瞼の裏に謎の技術で文字を映し出せる奴と交信が可能。


・元の性格は不明だが俺を知る人々には極端に口数の少ない印象を与えていた模様。


こんな感じだ。恐らくこの後、文字の奴からの説明でこの情報に多少何かの上積みがあるはずだ。


「ひとまず今のところはウチで預かるようになったよ。でもまぁ、ユーキが引き取って育てるでしょうね。何しろこうなるとルゥちゃんにはあそこだけが残った身内なんだから。

でもユーキのところも今は二人で忙しいし、まだ両親の事があってからそんなに日が経ってないから大変かもしれないわねぇ」


(……ん?ユーキ……?また新しい名前が出て来たな)


しかも身内だって?俺には親戚がまだ居るのか。こりゃいかんな。情報が少な過ぎる。

今、目の前に居る人たちだって、多分俺は知っていないといけないはずなんだ。これだけ親しく接してくれているのだから、いくら鈍い子だって、もう少し……。


(……)

(……)

(ん……?あれ?)


 俺は物覚えの悪かった数時間前までの自分を反省しながら、今更ながら突然気付いた。


(俺はなんでこんなに分別が付いているんだ?……いや、だっておかしいだろう)


俺はまだ自分自身の姿を詳細に確認できていない。


鏡で顔も見ていないが、自分自身で確認できる手の大きさや目線の高さで、先程も自分の年齢が概ね5歳から8歳くらいではないかと推測できた。

8歳だとするとかなり体の成長が遅い気がするが、今まで目や知覚に対して障害を抱えていたのだ。

それに()()()()の情報によると俺は《封印》されていたのだと言う。多少の成長の遅れは考えられる。


(それにしても……だ)


(頭の中の霧がスッキリと晴れたとは言え、今度は少しばかり明晰(めいせき)過ぎないか?)


考えてみると俺はさっきから文字がスラスラと読めている。文字の奴が右目の側に浮かべてきた文字もそうだし、「藍滴堂」だの「一角亭」だの看板の文字も無意識に読んでいる。


そして頭の中の霧が晴れた直後から人々の会話の内容を「本質的」には理解できている。

記憶に無い人の名前などは理解できなくても話している内容そのものは解り過ぎる程解るのである。


(5歳や8歳の子供がこんなに文字をスラスラと読めるのか?そして「大人同士の会話」を理解できるのか?これは相当不自然な状態だぞ……?)


(まぁ、考えてみれば瞼の裏に文字が見えるだの封印されていただの全く以って現実の常識からするとかなり逸脱した話ではないか)


(ひとまずここは「この事」に気付いただけでも良しとしておこう)


こう言う認識を予め持っておく事で、後に文字の奴から説明を受ける際に理解の足しになりそうだ。


『その通りだルゥテウス。よく()()()気付いた。とにかく説明が長くなりそうだ。なるべく早く自宅で独りになれる時間を作れ。お前だって知りたくて仕方がないだろう?』


 俺の考えを見透かしたように右目の瞼の裏に文字が浮かんできて、俺は少しだけイラっとした。考えている事が全て奴に漏れている。

こいつがいつまで俺の頭の中を覗けるのか分からんが、今後はなるべく早いうちに奴への発信と俺だけの思考を分けて行えるような方法を模索するべきだ。


(何しろどれ程不思議だとは言え、俺は奴に対して何の疑いも無く信用し切ってるいるわけではない)


(いわゆるよくある比喩で「悪魔のささやき」と言うやつかもしれない)


『お前は酷い奴だなルゥテウス。言っておくが私は悪魔とは違うぞ。少なくとも多少はマシなはずだ』


明らかに疑いを助長するような弁解を送って来た。とりあえず一刻も早く藍滴堂に安置されている祖父の下に独りで戻れるようにしよう。色々確認したい事がどんどん増えてくる。


 俺が玄関に突っ立ったまま色々と自分自身について改めて思索を重ねている間にも一角亭の人々の話は進んでいた。


「まぁほら。とりあえずルゥちゃん。こっちにいらっしゃいな」


そう言って婆さんは俺を奥のカウンター席まで連れて行き、椅子に座らせてくれた。

椅子は背もたれの無い丸い座面が回転する四脚椅子で、座ると床に足を付けられず、宙ぶらりんになった。

カウンターの机には何とか届いているのだが、目の前の厨房への開口の下を塞いでいる衝立のせいで厨房の中を伺うのは難しい。どうも動く影の様子から厨房には少なくとも二人は居そうだ。


「ルゥ坊。これでも食いな。腹が減ってるだろう?」


衝立の上から太い腕が出てきて俺の前に皿が置かれた。皿の上には砂糖がまぶされたドーナツが2個載っており、揚げたてなのか湯気が出ている。


「いただきます」


「おぁ!偉いなルゥ坊。いただきますが言えるようになったか」


「あぁ、アンタ。ごめん。私にも何かくれる?ご飯食べずに飛び出して行っちゃったからね」


「おぅよ。ちょっと待ってな。今何か適当に出すわ」


俺の隣に座ったマーサさんが衝立越しに厨房の中に話しかけると俺にドーナツを出してくれた人が返事をした。


(どうやらマーサさんのご主人かな)


家族で経営してるのは何となくわかるけど、どうやら経営者がマーサさんの母親だとすると父親は既に他界しているのか、それとも何かの事情で一緒に暮らしていないだけなのか。


(マーサさんに子供は居ないのかな?)


「親父、そら。お袋に出してやってくれ」


「おぅ。ほれ。ちょっと待ってくれよ。今昼に出したパンに湯気当ててるから」


「ありがとね。やっと落ち着けるよ」


どうやら厨房には息子さんも居るようだ。


(と言う事は従業員は全員家族なのかな?今聞こえた感じだと息子さんも結構年齢が上のようだぞ)


 俺が見た感じ、婆さんは60代後半から70歳くらいに見える。足もちょっと弱くなってるような歩き方してたしな。で、マーサさんが40代後半くらいかな。祖父よりかは幾分若く見える。

すると息子さんも20歳は超えているかもしれんな。もう嫁さんも貰っているかもしれない。


(……ひょっとしたら子供も居るかもしれないぞ)


……などと揚げたてのアツアツのドーナツをふぅふぅ言って齧りながら何とは無しに一角亭の構成人員について考察していると、案の定、俺の予想は悪くなかったようだ。


上の階からちょっと小柄で若い女性が降りてきて


「あ、お母さん。おかえりなさい。女将さんの大きい声が聞こえてきたけど……もしかして」


「あぁ、ただいま。うん。駄目だったよ……」


「そう……アリシアも……おばさんも……おじさんまで……」


「そっか。あんたはアリシアちゃんと同い歳だったもんね……」


先程の入り口側のテーブルに座っていた厳つい体格の男性が小柄な女性に話しかけていた。


「坊はもう泣き止んだみてぇだな」


「うん。今やっと寝てくれた。お父ちゃん今日はこのまま仕事休みなの?」


「あぁ。午前に1つ依頼をやってきたけど今日は他に良さそうなのが無くてよ」


などと女性が返している事から、


(この女性と厳ついオジさんは父娘なのかな)


と言う事はこの女性は厨房に居るマーサさんの息子の嫁か?で、女性には赤ん坊が居るのか……?


(やけに家族構成が濃い宿屋だな)


 俺の隣ではマーサさんが後から出て来たホカホカと湯気の出ている柔らかそうなパンを千切りながら、先に出て来たシチューにひたして食べている。

シチューは大きめの肉やら野菜がゴロゴロと入ったブラウンソース系の色をしたものでとても美味しそうだ。


(そう言えば祖父が倒れたのは昼過ぎだったから、俺は恐らく昼飯を食べていないのだろう)


マーサさんもどうやら昼飯を食わずに祖父の所に駆けつけて来てくれたようだ。

シチューは美味そうではあるが、俺としては目の前のドーナツ2個で恐らく満足できるのではないだろうか。


(時間的には昼食と言うよりおやつだろうな)


そして今新たに《アリシア》と言う名前が出て来た。話の内容からするともしかして……


(俺の母親の名前なんじゃないか?)


マーサさんの息子の嫁は小柄なせいもあり20代前半に見える。


(話の中に出て来た「おじさん」が先刻亡くなった俺の祖父の事だとすると「おばさん」は祖母か)


そしてアリシアが俺の母親なんだろう。


(そうか。祖母の存在と言うのを失念していたな。祖父が居たんだから当たり前だよな)


 しかし話のニュアンスからして祖母は既に他界しているのだろう。

現時点で俺は家族を全員喪い、残された親類は「ユーキ」と呼ばれる人物だけのようだ。

何でこんな他人の話の内容で自分の家族について知らなければならないのか、複雑な気持ちになる。


 俺が自分の家族について色々と思いを巡らせながらドーナツを齧り続けていると、一角亭の玄関扉が勢いよく開け放たれ、また新しい人物が店に飛び込んで来た。


「ローレンが倒れたんだって!?今見て来たけど店は閉まったままじゃねぇか!フランが店まで知らせに来てくれたから急いで来たんだけどどうなってる?」


 見るとそこそこ体格の良い白髪ではなく銀髪の男性が息を切らせながら婆さんに急き込んで聞いている。

白い厨房服の上下を着ているので調理人に見える。

顔は思いのほか端正(ハンサム)だ。いぶし銀の中年コックといったところか。

どうやらそう近くない距離を駆けてきた様子の男性へ婆さんはポットからコップに水を注いで渡しながら


「あぁ……もう手遅れだったよ。マーサが見に行ったんだけどね。間に合わなかったって」


婆さんは先程老体の身で喚き散らした後だったからか、落ち着きつつも多少疲れた口調でコップの水を飲み干している男性に答えた。


「なっ……なんて事だ……俺の家系はどんな呪いが掛けられているんだ……とうとうローレン……ローレンまで……あぁ……ミム……親父……お袋……うぅぅ……」


膝から崩れ、床に手を付きながら人目を憚らずまたしても祖父の死を嘆く人。そして「ミム」と言う名前。ご両親の事も嘆いているようだ。


(今日はもうずっとこんな感じなのか)


 下町の人情あるご近所さん付き合いでは、こうして誰かが亡くなると皆がそれを悲しむ。

俺が今日これまで見て来た人々の中で祖父の死を嘲笑ったり喜んだ様子を見せた者は居ない。


(皆さん等しく嘆き、悲しんでくれる。そして残された俺を憐れんでくれる。とてもありがたい事だし、とても申し訳ない事だ)


……そしてそれと同じくらい()()に対して怒りが湧いて来る。

いみじくも今の男性が口にした()()……どうやら俺の身内は立て続けに不幸に遭っているようだ。


(これは偶然なのか?)


それとも()()によって仕組まれた事なのか。


(もしそうであるならば、俺はその()()を星の裏側まで追いかけて跡形も無く打ち滅ぼし、返す手でそいつの眷属をこの世界から塵も残らぬよう消し飛ばしてやる!)


 俺が()()に対して《黒い怒り》を燃やしながら我を忘れて打ち震えそうになった時、どう言うわけか先程激痛が起きた瞼が閉じられたままの右目が熱くなってきた。


熱くなりながら……トクン……トクン……と脈打っているように感じる。


『落ち着け!落ち着くんだルゥテウス!ここで怒りに我を忘れたら、お前を思いやってくれているこの善良な人達に迷惑がかかるんだぞ!とにかく落ち着くんだ!』


 文字の奴が初めて慌てた様子で俺を宥めてきた。今回の文面は奴の必死さが見える。先程からの上から余裕ある雰囲気で繰り出してきていたものとは明らかに違う雰囲気だ。


『怒るのは仕方ない!お前はこの後、どうせ私が止めても怒り狂うのだ!でもそれは今じゃない。今じゃないんだ!怒るなら周りに誰も居なくなってからにしろ!頼む!私の頼みを聞いてくれ!』


 こいつは明らかにこの場で俺がこれ以上怒りに身を任せるのを恐れている。その文面から見る口調は先程までとは明らかに違う。俺はこの文字の奴が全く余裕を無くしている様子を見て却って冷静になれた。


(なるほど。ここで魯鈍な俺が急に怒り出したら、ただでさえ今日は皆さんを再三驚かせているのだ。腰を抜かしてしまうかもしれない)


俺はどうにか怒りを鎮める事ができた。右目の熱も次第に引いて行く。

気が付くと俺は額から汗を流していた。汗が頬を伝って今しがたドーナツが載っていた皿に落ちた。


「あれ?ルゥちゃん?どうしたんだい?どこか具合が悪いのかい?それともどこか痛いのかい?」


マーサさんが心配して俺に話しかけてきた。ポケットから手拭きを取り出して俺の額の汗を拭ってくれる。


「どうしたんだい?こんなに汗をかいて。熱でもあるのかい?」


そう言いながら俺の額に手を当ててきた。湯気を当てたと言うパンを千切っていた手からは仄かにパンの匂いがした。


「だいじょうぶ。なんともない」


 俺は努めて心配をかけまいとマーサさんを見上げながら少し微笑んでみせた。

マーサさんは俺が微笑んだ顔を見て明らかに驚いた顔をしていたが、そのうちそれは悲しそうな表情に変わり俺の顔から眼を逸らせて、先程俺の額の汗を拭った手拭きで自分の目元に浮かんだ涙を拭って鼻までかんだ。


「こんな事があったのに……まさかこんな日に初めてこの子の笑顔が見れるなんてねぇ……」


……どうやら俺は鈍いどころか笑わない子でもあったらしい。


(一体どれだけ感情が欠落していたんだ)


このやり取りで入口で床に蹲りながら嘆いていた男性が俺の事を見つけたらしく


「ルゥ!ルゥテウス!おぉぉ!お前……ごめんな。オジさん来るのが遅くなっちまって……ごめんよ……」


俺の所に駆け寄りながら俺を抱きしめた。どうやら俺への接し方からして……この人が俺に残された身内であるユーキさんか?

先程の嘆き方はこれまで見て来た他の人々とは違うものであった。自分自身の喪失感も伴うような大きな嘆きを感じた。


(この人が俺の、そして亡くなった祖父の身内なのは間違いないだろう。今の所どう言う関係なのかは分からないのだが、「オジさん」と名乗っていたので俺の親の兄弟かな?)


(母アリシアの兄弟だとすると、それは祖父ローレンの子供である可能性が高いので故人を呼び捨てにはしないだろう)


(だとすると未だ名前の出てこない父親の兄弟か?それにしても祖父は一世代上になるはずだから他人の前(ひとまえ)で呼び捨てにするのは不自然に思える)


(……そういえば俺の父親はどうなっているんだろう?)


先程は祖母の存在を思い出したが、考えてみると家族構成を考えた時にまずは父と母だろう。


周りの人々の話の中でも藍滴堂一家の話の中に父親の話が一切出てこない。


(よくよく考えてみるとこれはかなり不自然ではないか?)


(ちょっとこれは確認する必要があるな)


更に言うと先程ユーキさんの口から出て来た「ミム」と言う人物も気になる。


(色々気になる事がどんどん増えていく)


これはマズいな。これだけ何も事情が分からない状況が続くと疑問が際限なく増えて行き、本当に知らなければならない情報が何なのか失念してしまう可能性がある。


俺は多少強引だが独りになる予定を繰り上げる為にマーサさんへ自分の意思を伝える事にした。


(ドーナツも食って腹も膨れたしな)


「そろそろおじぃのところにかえる」


「え?おじぃ……ってローレンの事か?おぉ。そういえば今、ローレンはどうなっているんだ?」


オジさん……多分ユーキさんがマーサさんに尋ねた。


「ローレンさん、今はお店の中に置いてるんだよ。でね、ルゥちゃんは今晩ローレンさんと一緒に寝たいって言うからこの後お店に戻そうと思ってたの」


そう言ってマーサさんはポケットから預かっていた祖父の鍵束を出して見せた。


「そうか……そうなのか。分かった。ルゥは俺が店に連れて行くよ。俺もローレンに別れが言いたい。鍵を貸してくれるかい?」


「えぇもちろん。これは身内のアンタが持っておく方が普通だもんね」


マーサさんはユーキさんに鍵束を渡した。


「ルゥはもう行きたいんだな?よし。オジさんも一緒に行っておじぃに挨拶したいんだけどいいか?」


「うん」


「じゃ、オジさんと行こう。マーサさん、ネイラさんも。世話になったね。この通りだ」


そう言ってユーキさんはマーサさんや婆さんに頭を下げた。


(婆さんの名前はどうやらネイラと言うらしい)


「シンタもルゥに食わせてくれてありがとな。今度奢るわ」


「いいって事よ。俺とお前の仲じゃねぇか」


ユーキさんはカウンター越しに厨房の中に居る、マーサさんのご主人にも礼を言った。


(この色黒でユーキさんとは対照的にちょっと強面(こわづら)のご主人はシンタさんか)


どんどん皆さんの名前が判明していくな。そして不思議な事に俺は人の名前を一度聞いただけでどんどん憶えて行くようだ。


(もしかしてこれまでずっと付き合いがあったから頭の中が霧に覆われていてもちゃんと刻み込まれていたのかな?)


(それがこう言うちょっとしたキーワードでどんどん記憶が復活するのかもしれない)


俺はそんな事を考えつつ、自分からも周りの人々に礼を言った。


「おばさん、おばあさんありがとう。おじさんもごちそうさまでした」


そう言って頭を下げた俺を見てその場に居合わせた俺を知る人々は全員絶句していた。


「お、お前……そうか。お礼が言えるようになったか。よしよし。これならローレンも安心して逝けるな」


ユーキさんが涙ぐみながら俺の頭を撫でまわしていた。俺の脱・鈍い子作戦は順調に進んでいる。


「い、いいんだよ……ルゥちゃん。またいらっしゃいな。私達はルゥちゃんの家族だからね。ここはアンタの家だと思っていいんだからね……」


婆さん……ネイラさんが涙で顔をクシャクシャにしながらも笑っていた。


「じゃ、行ってきますわ」


ユーキさんが俺の手を引いて出口に向かう。


「あいよぅ。エベンスが葬儀屋に行ってるから、そっちに行くかもね」


「うん。分かった。何から何までありがとな。恩にきります」


 こうして俺とユーキさんは一角亭を後にした。外はもう夕方に差し掛かっていたがまだ空は明るかった。ユーキさんは店を出ると、俺の顔の高さまで屈んで俺に話しかけてきた。


「ルゥ。お店の中に入ったら、俺は一度帰るからもう一度お店を閉めるけど大丈夫か?」


俺に理解させるようにとゆっくりと話すユーキさん。


(もしかして俺がちょっと賢くなってると思ってくれてるのかな)


「うん。だいじょうぶだよ」


俺もちゃんと答えておく。一度帰って着替たりしたいのだろうか。


(彼が帰っている間、やっと俺は独りになれそうだ)


「よし。良い子だな。今店を開けるからな」


 また俺の頭を撫で回しながらユーキさんは立ち上がり、藍滴堂の鎧戸を再び開け始めた。

どうやら開け方をちゃんと知っているらしく、鍵束を使って上下二ヵ所の鍵を開錠する手に迷いが無い。

鍵を開けて一番右側の鎧戸を一枚だけスライドさせて中に入る。


俺もユーキさんの後に続いた。


カウンターの向こうにある作業台には先程と全く変わる事なく祖父の遺体が寝かされていた。

今日の日付が分からないが、俺の体感だと初秋が過ぎた頃だと思う。


(9月の終わりか10月の初めの頃ではないか?)


 こんなに悲しくて大変な思いをした日でも空は高く、雲一つない青空だったが恐らく海方向から吹いてくるのだろうか、湿気を含んでいた風も涼しかった。

気温もそれ程上がっていないと思うので、遺体もそれ程傷まないと思われる。

作業台に寝かされた祖父の遺体の前でユーキさんは俯きながら立ち尽くしていた。実際に祖父の遺体と対面して、やはり少なからず衝撃を受けているのだろう。


やがて祈りを捧げ始めると、胸の前で手を組んでいた彼の目から大粒の涙がポロポロとこぼれた。

涙は作業台の上に落ち、そこだけにいくつもの染みを作った。


「ローレン……お前も逝っちまったんだな……。ついこの前まで元気にしてたじゃねぇか。心の臓の病だって?お前は薬屋だろうが……それも飛び切り凄腕の薬屋だったじゃねぇか……。

そんなお前がなんでこんな若さで逝っちまうんだよ……。ミムもあの若さで逝っちまったが、お前まで……。こんな小さなルゥを残してどうすんだ。

こいつはお前にしか心を開いてなかったんだぞ……。でもアレだな。今日のこいつは何と言うか……。そう、心が通っているように見える。

俺はこいつが向かいの人達にお礼を言ったのを見てビックリしちまったよ……ははは」


ユーキさんは泣きながら祖父の遺体に話しかけていた。


(……すみません。今まで心が通ってなくてすみません)


何しろ俺自身何が何だか分からないまま今日まで生きてきてたんで……。


俺は思い切って言葉に出してみた。どうしても気になったからだ。


「みむ?」


俺の声に気付いたのかユーキさんは作業台の上の祖父の遺体を挟んで反対側に立っていた俺の方を向いた。


「ん?ミムか?ミムが何だって?」


「みむってだあれ?」


「あぁ……そうか。うん。ミムって言うのはな、おじぃの奥さんでお前のお婆ちゃんだ。お婆ちゃんって言っても俺の妹だけどな。まだお婆ちゃんって言う歳でもないうちに死んじまったんだ」


(なんと……ミムと言うのは祖母の名前だったのか。そしてユーキさんは祖母の兄なのか)


(と言う事とは俺から見て伯祖父(おおおじ)と言う関係になるのか。「オジさん」とか言うから俺の両親の兄弟かと思ってたわ)


なるほど。祖父を呼び捨てにするのもこれで得心できる。それにしてもユーキさんは体格もそうだけど顔立ちがハンサムだから祖父より大分若く見えるけどな。


(そりゃ両親の世代の人だと思っちゃうのも無理ないわ)


「おばぁ?」


「あぁ……。そうだな。ローレンがおじぃなら……ミムはおばぁだな……あはは。そうだな。おばぁだ。あははは」


俺の返事を聞いてユーキさんは笑い出した。


「そうか……ミムはおばぁか。あんなに若かったのにな……お前にとってはおばぁなんだな……何だか不思議な気分だ……」


そしてまた一人でしんみりしてしまった。


俺は思い切って()()()()聞いてみた。


「おとぅ」


「え?」


「おとぅは?」


俺の「おとぅ」と言う言葉を聞いて、その意味を飲み込んだユーキさんは明らかに狼狽している。


そして、さっきまでしんみりしてた雰囲気が一変してその顔に苦渋の表情が生まれる。肩まで震え始めた。明らかに俺の父親と言う存在に対して好意的ではない反応だ。

表情が苦渋から怒りに変わりかけた頃合いで俺は慌てて


「ごめんなさい」


と謝罪する事にした。

何で父親の事を聞いて謝らねばならんのだ。


(父親よ。お前は一体彼に何をしたんだ)


 俺の目の前にいるユーキさんは身内であると言う事を差し引いても善良な人物だろう。

恰好からして正業に就いてるみたいだし、身なりも清潔だ。

先程の一角亭での人々に対する態度も非常に当たりが良い。

あの人達もユーキさんに対して決して忌避するような態度は示していない。

それどころか俺に対するものと同様に身内を亡くした人として心より哀悼の意を示してくれていた。

そんな彼をしてこのような顔をさせるとは、尋常ではない……。


「い、いいんだよ、ルゥ。俺は怒っていない。お前に怒る事なんてありゃしないんだ……おとぅ……お、お父さんの事はオジさんにはよく分からないな……」


うん。明らかに言葉を濁された。彼は恐らく父親の消息について知っている。そして父親が何をやらかしたのかも知っているのだろう。

子供の俺には話せないって事か。どれだけやらかしたんだよ。


「さて……。オジさんはちょっと、家に帰るからな。お前も一緒に来るか?いずれにしても明日からは俺の家に住む事になるだろうからな」


ふむ……。やはり俺は一角亭ではなくユーキさんの所に引き取られるのか。


(まぁ彼は身内だしな。彼の所に行くのがやはり自然なのだろう)


彼の家がどの辺にあるのか分からないが、俺としてはこの藍滴堂に近い一角亭か、どうにかしてここで独りでもいいから暮らしたかったけどな。


(俺の立場で我が儘を言うわけにはいかないだろう)


「ううん。ここでおじぃとまってる」


「そうか。わかった。じゃあ、外から戸を閉めて行くからな?独りで大丈夫か?」


「だいじょうぶ。いってらっしゃい」


「よし。じゃあ行ってくるぞ。なるべく早く戻るからな」


そう言い残してユーキさんは外に出て鎧戸を外から締め直して鍵を掛けて行った。


これで俺は漸く独りになれる時間を作る事ができた。

今回も主人公の一人称視点です。


【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド

主人公。5歳。右目が不自由な幼児。頭の鈍い子であるが近所の人々に愛されている。


マーサ

宿屋《一角亭》の若女将。


ネイラ

宿屋《一角亭》の女将でマーサの母。


シンタ

マーサの夫。宿屋《一角亭》の厨房で料理を担当。


リン

シンタとマーサの息子の嫁。宿屋《一角亭》で働く。まだ幼い子供がいる。


モートン

医師。ローレンの遺体を確認して《死亡宣告》を行った。


ユーキ

主人公の伯祖父。ミムの兄。料理人。


《文字の奴》

謎の技術で主人公の右目側に文字を書き込んで来る者。


ローレン・ランド

主人公の祖父。故人(享年50歳)。港町ダイレムの下町で薬屋《藍滴堂》を経営。


アリシア・ランド

主人公の母。故人。ローレンとミムの一人娘で《藍滴堂》の看板娘。


ミム・ランド

主人公の祖母。故人。ローレンの妻でユーキの妹。

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