赤の民
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。
ドロスからルゥテウスへ念話で連絡が来たのは、朝の鐘が鳴った直後であった。彼はルゥテウスに教わった「時差」を考慮した上で挨拶をしてきた。
『店主様、おはようございます。ドロスです』
『おはよう、監督。どうだ?』
『はい。御依頼を頂いていた《赤の民》との繋ぎに成功致しました』
『おぉ!』
ドロスはかつてエスター大陸に渡り、本場の赤の民から諜報術を7年学んだ。同時に渡った兄貴分のラロカは暗殺者としての適性を見出されたので修行が継続となり、彼だけが先行してキャンプに帰る事になった。
彼は赤の民領都支部に初めて「技術」をもたらしたのだが、その際に本家赤の民との「繋ぎ役」も任されていた。尤も、両者はアデン海を隔てて別の大陸で活動し、本家の者はその特異な外見で外の大陸での活動はほぼ不可能である為に、ラロカ帰還後はお互いの交流は薄れ、そのまま没交渉となって10年以上が経過していた。
しかしドロスに教えられていた本家との連絡手段は廃れておらず、日数は掛かったが繋ぎに成功した。
ちなみに今回、ルゥテウスはドロスの繋ぎを輔ける為にエスター大陸にドロスを運び、以後は彼の行動に任せていた。
連絡は常に念話で行える為、ドロス不在の間は《青の子》の訓練が多少滞ったが、夜間の訓練に、昼間の普請監督を終えたラロカが代わりに入り、他にもに諜報員として一人立ちしている者がその穴を埋めたり、訓練施設南側の羊牧場の普請等を行っていた。
『それで、どうすればいいんだ?』
『はい。彼らは現在冬営している場所に4月の中旬まで留まっているそうです。過去に何度か使った場所で私の修行時代にも一度だけ滞在した事のある場所なのでご案内出来るかと思います』
『そうか。俺がお前を運んだ場所からは離れているのか?』
『そうですね。300キロくらいでしょうか。山をいくつか越えないといけません』
『よし分かった。俺がお前を運んだ場所に戻れるか?』
『はい。店主様に下ろして頂いた町に滞在しております』
『よし。市長を連れてそこに行くんで待っててくれ』
『承知しました』
ルゥテウスは《藍玉堂》の地下にある通路を通って役場に入り、二階の奥にあるイモールの執務室に向かった。部屋のドアをノックするとイモールは既に奥の居室から執務室に入って仕事をしていた。
「入れ」
「済まんな市長。朝早くから」
「これは店主様。失礼しました。おはようございます」
「いや気にするな。早朝から押し掛けているのはこちらだ」
「どうかなさいましたか?」
「監督が赤の民と繋ぎを取ったので連中の居場所が分かった」
「おぉ!それは本当ですか!」
イモールは声を上げた。
「と、言うわけでもし時間が大丈夫ならお前をエスター大陸に連れて行きたいんだがどうだろう?」
「承知しました。少々お待ち下さい」
そう言ってイモールは懐から金属の輪で留めたカードの束を取り出して、その中から一枚を選び何やら沈思するように目を閉じた。どうやら誰かに個別念話を送っているらしい。
暫くしてイモールの執務室に現われたのはキッタだった。
「市長。キッタ、参りました……あ、店主様。おはようございます」
「おはようキッタ」
イモールはキッタに
「キッタ。私はちょっとこれから店主様とエスター大陸に行ってくる」
これから散歩しに行くと言う感じで話した。キッタは暫くその意味が分からないようだったが、飲み込めたらしく
「え!?」
と驚きの余り声を大きく出してしまった。
「しばらく私は不在になる。店主様もだ。だからお前はその間に私の業務を代行しろ。我々も余り邪魔されたく無い。何か決裁が必要なら親方に頼め。いいな?」
キッタは少し混乱しながら
「あ、あの……こ、これからですか?これからすぐ?」
「そうだ。これからすぐだ。お前との話が終わり次第俺達は居なくなる」
ルゥテウスのからかうような言い方にイモールも苦笑した。
「そ、それでお帰りは何時頃に?」
「判らん。現時点で具体的にどこに行くのか私も店主様も解っていないのだ」
イモールは流石に赤の民が野営地を移動しながら生活する事を弁えているせいか、場所が特定出来無い事情を説明した。
「そ、そうですか……ではお早いお帰りを……」
「安心しろ。半日もあれば帰ってこれるさ。行きは面倒だが帰りは一瞬だしな」
そうルゥテウスはキッタに言うと
「市長。準備はいいのか?」
「はい。構いません」
イモールの返事を聞いたルゥテウスは彼の手を握ってその場から消えた。後には茫然としたキッタだけが残された。
「……おっと。今日も新街区の入居者名簿を……」
有能な官僚タイプの彼は自分の仕事を思い出して、机に戻って行った。
****
「こ……こんなに寒かったですかね……」
ルゥテウスの瞬間移動で飛んだイモールは、現地が意外に寒い事に困惑した。全体的に温暖だと思っていたエスター大陸だが、今は1月の中旬だ。場所によっては気温もそれなりに落ちる。
二人の飛んだ場所は、中央部の山に囲まれた町……と言うよりも村の外れである。やはりこの寒さは平地よりも海抜が高いせいだろう。
「しょうがねぇな……」
苦笑したルゥテウスが右手を払うとイモールの体に鍔が広い革の帽子と麻で織られたポンチョが着せられた。ポンチョは淡く青い、ルゥテウスの魔法特有の光を放っており、非常に軽くて快適だ。
「あ、ありがとうございます」
そう言ってルゥテウスに礼をしようと向き直ったイモールは息を飲んだ。ルゥテウス自身は目の醒めるような真っ青なローブを身に纏っており、いつもの平民の子供服姿と違って、魔導師としての圧倒的な存在感を放っていた。
ローブの色はソンマに与えた魔導師ギルドの追及を躱す為の飾り紐と同じ事にイモールは気付いた。
「こ……これは……」
「俺は本来、こういう恰好なんだ。街の中やキャンプでは目立っちまうだろ」
「な……なるほど」
『監督、市長を連れて例の場所に来たぞ』
ルゥテウスがドロスに念話を飛ばす。
『承知しました。すぐに向かいます』
ドロスからの返事があった三分後には遠くに彼の姿が見えてきた。普通に歩いているような歩様なのだが、凄い速さで近付いてくる。
何か諜報術の技なのだろうか。数十秒前は豆粒のようだった彼はあっと言う間に彼ら二人の前までやって来た。
「お待たせしました」
「いやいや」
「監督、ご苦労だったな」
「いえ、市長様こそお出張り頂きまして、お疲れ様でございます」
「まぁ挨拶はこれくらいにしておこう。さっきの話だと、ここから300キロくらい離れているんだな?」
ルゥテウスが改めて尋ねると
「左様です。あの山の先……あの向こうにもある山を4つ程越えた先に草原がありまして、水もあります……」
「なるほど。今年の冬はそこで連中は冬営しているって事だな?」
「はい。冬営地は毎年変わるので、この先にある町の中に居る赤の民の手の者とまずは繋ぎを取って、その者から『実』を受け取るのです」
「実?何か植物の実か?」
「はい。私も呼称は解らないのですが、その実を正午の時間に焚火の中に放り込むと赤い煙が上がりまして……」
「ほぅ……」
「すると何日かするとその繋ぎの者が居る店に野営地から使いが来て場所を知らせるのです」
「なるほど。それで日数が掛かるのか」
「はい。しかし今回は山5つ向こうの300キロと言う距離を3日で繋いできたので……」
「なるほど。奴等も中継しているのかもしれんな」
「はい。恐らくそうだと思います」
「まぁ、とにかく場所は分かったんだ。ひとまずその場所に向かおう」
キャンプを出たのは6時過ぎだったが、時差の関係で今の場所はもう日が随分と高くなっている。ルゥテウスの感覚だと時差は5時間程度。既に昼前になっている。
「よし。これからちょっと空を飛ぶから落ちないように掴まっていろよ」
ルゥテウスは右手を振って移動結界を展開し
「えっ?」
と声を上げるイモールとドロスの腕を掴んで空に舞い上がった。
「うわっ!?」
騒ぐイモールに
「じっとしていろ。落ちるぞ」
とルゥテウスが脅かすと彼は口を閉じ、そして目も閉じた。
「しばらくこのまま我慢しろ」
そう言うと、ドロスが示した方角へ低速飛行に入った。高度は1000メートル。結界の中に風を入れないようにしたので寒さも感じられず、掴まれている二人も高さによる恐怖さえ我慢すれば、それ程不快さも感じられない。特にドロスは1000メートル上空からの地上を見て
「なるほど……これならあれだけの精確なキャンプの全体図が作れるわけですな……」
と逆に感心していた。彼は数日前に同じような方法でキャンプからこのエスター大陸までの飛行を経験している。但しその時は夜間だったので地上は殆ど見えなかったのだが。
イモールとドロスを掴んだままルゥテウスは南南東の方向へと飛行を続けている。あっと言う間に一つ目の山を越え、その先を見ると盆地や草原を挟んで幾つもの山が連なっている。
エスター大陸は、嘗ての「超大陸ノーア」の南東部分が斜めに切り離されたような地形をしており、大陸中央部はかなりの広範囲で山岳地帯になっている。
この地形は大戦争の前から存在し、第二紀には大型の竜族の棲家になったりもした。現在でもその時代を生き延びた「古代竜」と呼ばれる存在が何頭か棲息しているという噂もあり、目撃談も出ているが、現代では魔導師の力を以ってしても古代竜の力には及ばない事もあり、完全に放置されている。
竜も人里に下りてきて彼らの目につかない限り討伐はされない事を知っているのか、深山に籠って出てこないのだ。
途中、1000メートルを超える標高の山岳を越える為に高度を上げたりしながら二時間程飛んで、ルゥテウスは高原の端の部分に降り立った。腕を掴まれたまま二時間の飛行を体験した二人はそのまま地面に座り込んでしまった。
「監督、この高原でいいんだな?」
ルゥテウスはまだ立てないドロスに尋ねた。
「は……はい。ここから2キロくらい東側ですね……」
彼はそれでも隠しから銀色のコンパスを出して方角を確認した。このコンパスはルゥテウスの念話付与の際に差し出した、諜報術を修めてキャンプに帰還した際にシニョルから贈られた物だ。
ルゥテウスから念話付与を施して貰ってから、針の動きが通常のコンパスのようにゆらゆらと揺れるような様子は見られなくなった。蓋を開けると常に針は北を向いてピタっと動かずにいるのだ。
これを見たドロスは当初非常に驚いたが、ルゥテウスの力を知った後なので戸惑いながらも受け入れ、以後は方角の測定が非常に素早くなった事をむしろ喜んだ。
「よし。暫く休んだら近寄ってみよう」
「は、はい」
イモールは慣れない飛行で結構消耗していたが、ルゥテウスが右手を振って出したコップに入った「何か」を飲むと急速に気力が戻って来るような気がした。
「何か」は少しだけ甘いが複雑な香りがいくつも重なり、何が入っているのか特定出来無い。
「これは……何ですか?」
「藍玉堂特製の気付け薬だ。ちなみに見習いのノンが実習で造った物だ」
ルゥテウスが笑い出した。
「ノンが……ですか」
「なかなか効くだろう?」
「えぇ……何か複雑な味がしますが、気分はシャキッとしますな……」
「中身は藍玉堂の企業秘密と言うところだ。但し全部キャンプの周りで採れる物だけどな」
「ほほぅ……」
「では行くか」
三人は高原を北東方向に歩き始めた。
「向こうは二人の事を覚えているのか?」
「繋ぎの時に見た者は私の事を覚えていたようです」
ドロスが応えた。
「市長はどうなんだ?25年ぶりくらいなんだろう?」
「どうでしょうか……私が交渉の時にお目に掛かった最長老様は当時既にかなりの御高齢でした。恐らくは80歳を超えていたと思われます」
「当時で80歳超えか。ならばその最長老様はもう居ないだろうな。上層部は丸ごと世代が変わってるんじゃないか?」
「はい。私が考えるに、その可能性が高いです」
「と言う事は、交渉としては監督の顔頼みになるかな。監督の顔を覚えている奴を窓口に繋いで貰う感じか」
「そうなると思います。ところで監督。私はあの時、それ程羊について意識していなかったのでよく解らないのだが……」
「はい。何でしょう?」
「羊の番は5組は入れないといけないと親方が言っていたそうだが」
「そうですね。親方様の仰る通りかと思います」
「彼ら赤の民にとって、羊の番5組……まぁ10頭か。それをいきなり買い取ると言うのは彼ら側の負担としてどうなのだ?もしや厳しいのではないか?」
「相手にもよりますね。彼らにとって、羊を飼うという技術は部族内では一種の勲章みたいなもので、扱う羊が多ければ多い程に尊敬を受けるという文化があります」
「へぇ。そうなのか。って事は羊を沢山飼ってる奴ってのはそれだけエライって事なのか?」
ルゥテウスが口を挟んで来た。
「左様でございますね。彼らの対外的な活動は暗殺組織としての活動ですが、部族内では最長老様を頂点とする序列の他に羊の数という基準があります。
私の知ったところでは羊の数が多いと異性に人気がある……とか、結婚を多く申し込まれる……など。
つまり羊を多く飼えると言う事は『生活力がある』とされるわけです」
「なるほど。そう言う事か」
「はい。羊は元々、この地域の気候で飼えばそれ程苦労も無く数を増やせます。多い時は一度に3頭産む牝羊も居ますから。
しかしだからと言って無制限に増やし続けると管理出来無くなって、群れから逸れたりさせてしまいます。
そういった羊が周辺の狼や魔物の餌食となり、却ってそういった者達を招き寄せる事になり、部族全体の災いに発展してしまう事になるので、管理出来る『身の丈に合った』数を飼う必要があるのです。
増え過ぎたら子羊のうちに間引く。これを怠ると先程も申し上げましたが外敵を招く事になり、部族は不必要な移動を迫られる事になります」
「そりゃ大変だな」
「赤の民は12歳で成人と認められます。我らキャンプで選抜年齢を12歳としているのもそれに因んでの事です。
12歳になると男子は親、もしくは親族から羊の番を譲られて、それを増やしていく事になります。私と親方様もここに来た時に長老様から2組ずつの番を譲られて育て始めました」
「そうか。監督はどれくらいまで増やせたんだ?」
「私は7年しか居ませんでしたので15頭が限度でした。しかし親方様は羊を飼うのが上手く、私が帰る年に30頭を育てており、更に帰る私の羊も引き取ってくれました」
「親方凄ぇな!」
ルゥテウスは大笑いした。イモールもあの無骨で強面なラロカにそんな特技があったと知ってゲラゲラ笑っている。
「あいつ、そのまま帰らずに羊で一財産築けたかもしれないんだな……」
どうしても「羊毛=貴重品」というイメージが頭から抜けないルゥテウスはラロカの知られざる特技を聞いて、彼の別の将来像を描いてみた。
「いやいや。親方がちゃんと戻って来てくれたからこそ、我らはそれが過ちだったとは言え、暗殺術で食い繋げたのです」
イモールが慌てながらも笑いが収まらないといった様子で否定した。
「ところで、監督が見た中で一番多く羊を飼っていた奴ってのは何頭くらい飼っていたんだ?」
「いや、それこそ『名人』と呼ばれたリー老師は300頭くらい飼っていましたよ」
「うわっ!凄ぇなそれは!そういう奴も居るのか。ならば同じ群れで番5組は結構何とかなりそうじゃねぇか?」
「いずれにしろ、現在の長老方の許可は必要でしょうね。羊は部族の財産ですから」
「まぁ、そこは市長の交渉力に期待だ」
三人は途中で二度休憩を摂りながら歩き続けた。ルゥテウスが飛んで行こうと提案したのだが、ドロスが言うには、彼らの極度に発達した視力によって、恐らく三人は既に見張りに補足されており、ここで無暗に姿を消したり宙に浮いたりすると、いらぬ警戒を与える事なると進言され、そのまま徒歩での接近を続けたのである。
途中で二度の休憩を入れたのは標高が高い為に体が慣れていないイモールが歩くと疲れやすく、交渉役の彼を疲れさせるのは得策では無いと判断して無理に進むのを控えたからである。
当初のドロスの予想を上回り、二時間半程歩いて、一行は漸く羊の群れとテントを確認した。
「やっと着いたみたいだな」
「はい。あれが一番外のテントですから、長老様のテントまではあそこからまだ500メートル程はあるかと」
「ま、まだそんなにあるのか……」
イモールはゲンナリした様子で呻いた。
辺りは既に日が暮れ始めており、イモールは懐から懐中時計を出して時間を確認した。この懐中時計もルゥテウスが念話付与をした事で、不思議な事にゼンマイを手で巻かなくても勝手に動き続け、教会の鐘の音と寸分違わず時間がズレなくなった。時計の針は11時40分を指している。時差を考えると既にここは16時40分。季節を考えると間もなく日没だ。
そのまま歩いて行くと、向こう側からも三人の人間が歩いてくる。二人の者が前を歩き、その後ろから一人。前の二人は茶色の革製の服を来て、後ろの者は灰色の羊毛で出来た上衣を着ている。明らかに後ろの一人は前の二人よりも地位が高そうだ。
こちらはドロスを先頭にその後ろをルゥテウスとイモールが歩いている。お互いは5メートル程の距離を取った位置で立ち止まり、明らかに《赤の民》と解るような赤みの強い褐色の肌の男……三人の中で後ろを歩いていた者が声を掛けて来た。
「お前は四日前に繋ぎのパナラを使った者だな?どうやってここまで来た。まだ四日しか経っていないではないか」
まさかルゥテウスが十日は掛かる距離を二時間半で飛んで来たとも言えず、ドロスは
「私はその昔7年程皆様にお世話になり、こちらは以前に滞在した事のある場所でしたのである程度予測して動きました。
皆様にはあらぬ疑念を抱かせてしまい申し訳ございません。本日は長老様方にご相談があり、私共の指導者を連れて参ったのですが紹介させて頂いても宜しいでしょうか?」
ドロスは丁寧な口調で話した。諜報者ともなれば、このような話術を使いこなせなければならないのだろう。
「ほぅ。名は?」
「ドロスでございます。こちらは我らの指導者であるイモール・セデスです」
「セデスと申します。赤の民の皆さまにはおかれましては往時、大変お世話になりました。お陰様を以ちまして我らは生き延びる事が出来ました」
とイモールも頭を下げた。
そしてその横の青いローブを着た幼児に目を移し、その目を見た途端に……
「これは失礼をした。長老様の場所へご案内しよう」
と、急に先程までの警戒した雰囲気が消え、あっさりと長老への取次を言い出して踵を返した。彼ら三人について行きながら、イモールは小声で
「何だか急に警戒が解けたようで……」
とルゥテウスに不安を口にした。
「あぁ、何か面倒臭いので暗示を掛けた。『我らは親しき者。疑うなかれ』とな」
ルゥテウスはニヤニヤしながら答えた。
「なっ……?そんな事が出来るのですか?」
「まぁ、思った以上に掛かり易かったな。恐らく魔法を知らずに生きて来たからだろう。エスター大陸は戦乱の地だからな。魔法世界も見捨てているから関わろうとしない」
「そ、そうなのですか?」
「見捨てなければ今頃は『黒い公爵さま』の誰かがお節介にも木っ端小国を掃討していただろうよ」
「な、なるほど」
「この先は市長に任せたぞ。俺もいちいち連中を一人ずつ暗示に掛けるのは面倒臭い」
「はい。承知しました」
「暗殺組織を解散した事は伏せておけ。気分を害されてもつまらんしな」
「そうですね」
「俺は一旦姿を消す。こんな場所に子供を連れて来るのはやはり不自然だからな。俺は適当に連中から見つからないように野営地を見物してくる。終わったら念話で呼んでくれ」
「はい」
そう言い残すとルゥテウスはそのまま「すうっ」というような表現で姿が見えなくなった。
イモールはそれを見てギョっとしたが、大きな声を出すわけにもいかず必死で驚きを抑え込んだ。
ドロスも後ろでルゥテウスが居なくなった気配を感じ取ったのか、チラリと後ろを首だけで振り返り彼が消えているのに気付いたが、別段驚いた素振りも見せずに前を向き直った。
(むぅ。流石は監督。少しの事では動じないな)
イモールは今更ながらにこの年少の部下に感心し、その後に続いた。しばらく歩くと、一際大きなテントの前に到着した。
イモールはこのテントに見覚えがあり、これがこの部族を率いる最長老のテントである事を思い出し、懐かしさのあまり足を止めてその正面の威容を見上げた。
テントと言えどもその高さは中央の頂点部分で4メートル、直径は20メートル程もある。
幕は羊毛で造られたフェルトを何枚も重ね合わせた物で冬でも中は温かい。
自分も嘗ては二度の野営地移動でこのテントの撤収と展開を手伝った事があったが、彼らはこのテントを30分足らずで撤収し、二時間足らずで展開する。
絶えず羊の餌となる草を求めながら、そして他部族からの襲来から逃れるように彼らは何千年もの間、この広いエスター大陸中央山地の中を移動しながら生活しているのだ。
「長老様方、お客人をお連れしました」
先程のルゥテウスに暗示を掛けられたと言う男性はテントの入口の前に立ち良く通る声でイモールとドロスの来訪を告げた後、中から何か乾いた音のする拍子木を打ち合わせたような音を聞いて入口の幕を引き上げた。
そして後ろに続く二人に「中に入れ」と空いている方の手で合図した。二人が中に入ると、円形の広いテントの中央部で火が焚かれ、その周りに車座のように床に敷かれた座布団の上に七人の老人が座っていた。
そして入口正面の焚火の向こう側に座る老人が恐らく現在の最長老なのだろう。
イモールは上目使いでチラリと最長老の顔を見たが、その顔は見覚えの無い顔だった。しかし……
「イモール。久しぶりだな。息災であったか?ドロスもよく戻った。見事な身のこなしだ」
と左側より声が掛かったので顔を上げてみると、車座で焚火を囲み、全体的に馬蹄形に並んで座っていた七人の長老の中の左側に座っていた男がこちらを見て、血の色をした肌に白い歯を浮かべてこちらを見ている。
「こ……これは……レンデリ様……でしょうか……お懐かしい」
と、その顔を見た途端に涙が出て来て声を詰まらせてしまった。ドロスも頭を下げる。
「レンデリ師、お久しぶりでございます。ご息災のようで何よりです」
「うむ。数日前に何やら海の向こうの者達から連絡が来ていると聞いてな。誰が来るのかと待っておったが、まさかお前らが二人で来るとはな……ラロカはどうした?」
「はい。親方……ラロカは今回は留守居をして貰っております」
「そうなのか。残念だな。あ奴はここに来た時は既に27であったが、そこから我らの技を習い取って行ったからのう。
もっと若い頃から仕込みたかったと何度も思ったわえ」
「はい。ラロカが帰ってきてくれたお陰で我ら、皆様の技を伝えさせて頂く事が叶いました。改めて御礼申し上げます」
彼らはドロスにも一目置いていたが、やはり諜報術というのはあくまでも暗殺行為の補助的役割だと認識しており、その考えは2500年変わっていないのだ。
なので諜報術のみ学んで帰還したドロスよりも、暗殺術を学ぶ者として常識外れの27歳という年齢で修行に入り、見事に技術を学び終えて去って行ったラロカの方が評価が上であるのは仕方が無かった。
「して、この度はどうしたのか?これまで我らとその方達は交信が途絶えて早14年。そちらの大陸でのその方達の活躍を風の噂では聞いていたが、ここにきて何か問題でも出来たのか?」
レンデリという男は25年前の組織創設の交渉時にその窓口になってくれた者である。
その頃はまだ長老では無く長老の下に何人か居る高位の暗殺者のうちの一人であった。
交渉に長老は表に出て来る事は無く、実務的な話をレンデリと行い、その内容を一つずつ長老会議に諮らせて返事を貰うという交渉を積み重ねたのだ。
そして交渉の結果として難民側から、見どころのあった者を五人送り込んだ。
中でもラロカは最年長で、ドロスは3番目に年長であったが、結果として生き残ってキャンプに戻れたのはドロスとラロカの二人だけであった。
他の三人のうち一人はこちらに来て数年後に病死し、残りの二人は実地訓練中に命を落とした。
こちらの組織の訓練は非常に人命軽視で荒っぽいものであった為に、技術を移転された側の領都支部はその考えを改めさせて訓練期間を延長してまで損耗減少を優先するようになったのである。
「いえ。ご心配をお掛けし、宸襟を騒がせました事をお詫び申し上げます。実は今回無沙汰を承知の上で罷り越しましたのは、皆さまの技術では無く、羊を売って頂きたいと思い参上致しました」
イモールが切り出すと
「何?我らの羊を売って欲しい?」
「はい。我らの大陸には羊はおりません。恐らくは文化の交流が途絶しているからでしょう。
しかし我らも元はこのエスターの子。その為に我らも羊を飼育してみようかと愚考した次第でございます。
只今我らが居を構えている北サラドス大陸北部は、平地と言えどこちらと気候がよく似ているように思えますので飼育も上手く行くのではと思ったのです」
「ほぅ。なるほどな。そちらの大陸には羊はおらんのか」
「はい。恐らく気候の問題もありますし、アデンの海が両大陸を隔てている為に羊そのものを導入するのが難しいのでしょう。
我らは既に何度もこちらと行き来をしている経験がございます。きっと羊をあちらの大陸に運ぶ事が出来るでしょう。
羊は我らにとってこちらでお世話になった時の記憶として切っては切れないもの。是非お譲り頂けたらと思い参上致しました」
「何だ。羊か。我らは何か重大な懸案でも出たのかと思い驚いて、こうして久しぶりに集まったのだが……」
別の長老が気が抜けたと笑いながら話した。どうやら何か緊急事態でも起きて抜き差しならぬ問題を持ち込まれるのではないかと思っていたらしい。
「お騒がせ致しまして申し訳ございません!」
とイモールは跪いて頭を下げた。ドロスもそれに従う。
「まぁ……他でも無いお前達外の大陸の子の頼みじゃ。羊を譲ろう。どれ程欲しいのだ?」
「はい。過日、私が修行を始める際の師からの教えに従い、番5組を連れて戻れればと思っております」
「ふむ。5組か。妥当なところだの。分かった。儂の群れから持って行くがよい」
レンデリとは別の、最長老の右側に座っていた長老の言葉にイモールは再度跪いて頭を下げ
「あ、ありがとうございます。我ら今後もお譲り頂いた羊を増やし、皆さま方から受けた御恩を忘れぬよう努めて参りたいと思います」
そう言ってイモールは革袋に入った金貨を差し出した。中には500枚もの金貨が入っている。
ずっしりと重い袋を渡され、最長老を始めとして一同は驚き
「これ……たかが羊10頭に過分な礼ではないか」
と訝しんだ。
「いえ。これはこれまで25年もの間に受けた御恩返しも含めた御礼にございます。皆様方から学ばせて頂きました技によって我らは生き延びる事が出来たのでございます」
イモールは当時の事を思い出したのか、涙ぐんで答えた。彼の態度から誠意を感じ取ったのか、最長老が
「我らもこれまで周りの敵に滅されぬように必死で生きてきたのだ。お前達の受けて来た艱難辛苦も理解しているつもりじゃ。これからもお互い離れていても尽きる事の無い誼を結び続けようぞ」
「はい……はい……ありがとうございました」
最後はイモールだけでなくドロスも泣いていた。ドロスにとってこの地は青春を駆けた思い出の場所であり、難民として燻っていた自分を生まれ変わらせてくれた聖地なのである。
羊を提供してくれると言う長老が入口近くに控えていた若者に
「オロン。この者達に儂の羊を5組与えよ」
「はい。それではこちらへどうぞ」
オロンと呼ばれた若者は二人をテントの外に案内した。羊の購入を終え、旧知の長老と久闊を叙して二人はテントを後にした。
『店主様。長老が羊を譲って頂く事を許可してくれました。これから5組を選びに行きます』
イモールはルゥテウスに念話を飛ばした。例のカードを見ながらではあるが、前を歩くオロンはそれに気付いていないようだ。
『そうか。ご苦労。あちらの反応はどうだった?』
『特に悪い感情を持たれているとは思えません。羊も長老様のお一人が自ら提供頂けるようですし』
『なるほどな。じゃ羊の選定を頼む。俺はちょっと周囲を見てくるから』
『承知しました。ただ……一つ問題が……』
『うん?何だ?』
『既に日が暮れております。恐らく今日は泊まっていけと勧められる事でしょう。この暗さで、しかも羊を連れて山の中を行くのは明らかに不審に思われます』
『そうか。分かった。ではお前らは泊まって行け。積る話もあるだろう。俺は一旦キャンプに帰る。夜の配給を貰いたいしな』
『……承知しました』
『明日早朝に出るようにして、その際に念話をくれ。迎えに行く』
『はい』
ルゥテウスは当初、赤の民の野営地を姿を消しながら見物していたが居るのは羊と肌が赤褐色の人間だけなのですぐに飽きてしまった。
また、彼らは遊牧民族なので牧場飼育を目指すキャンプとは羊を飼育する環境が違うのであまり参考には出来なかった。
ルゥテウスはそのまま、周辺の山岳地の鉱物資源の調査を始めた。超古代文明時代、この辺りは超大陸最後の秘境と言われ資源調査も殆ど行われなかった。
人類の興味はその頃、地上最後の秘境では無く未知の月面へと移って行ったからだ。
(なるほど。上空から見ると周囲が5000メートル級の山岳に囲まれ、その中に高原が点在するような地形か。
これだと地上からの調査は厳しいな。赤の民も別の部族に追われる形でこの地域に逃げ込んだと聞く。
見た所、軍勢も展開出来無いし戦略的価値は無いのかもしれないが……しかしこの地形だと火山性の隆起だろうか……だとすると良質の石が採れるかもな)
ルゥテウスは試しに山の一つに下り立ち、山肌に手を当ててみた。やはり岩山である。そのまま石質の一部を取り出して手に取って詳細に眺めてみると、どうやらこの山は玄武岩で構成されているようだ。
(玄武岩ならば路盤の敷石として悪くないのではないか?)
ルゥテウスはこの場所をマークして、一度キャンプの資材置き場に飛んだ。空いている場所の面積を見て、まだまだ余裕があると判断しその場に巨大な結界を張る。
そして先程の山に戻り、山肌から石材をどんどん切り出して転送陣を使って資材置き場に送った。30分程その作業を続けた彼は、資材置き場に戻り今度は整形された状態で切り出された石を薄く切ってみた。
切り口は見事な黒い石肌であった。
石の質に満足し、どんどん薄切りを続けて行く。
資材置き場には大量の整形石の代りに薄切りになった路盤石材が平積みにされて行き、その総量は1メートル四方で厚さ40センチの滑らかな切り口を持つ玄武岩が4000枚程出来上がった。総重量にして約5000トンである。
石材の処理が終わったルゥテウスは資材置き場から南側に向かい、羊の牧場がどうなっているのかを見に行った。
牧場には何人かの諜報員訓練生と思わしき者達が敷地内に残った切株を抜去する作業をしていた。今の時間は恐らく15時くらいか。間も無く四点鐘が鳴るのではないか。
キャンプに戻ったルゥテウスは勿論ローブ姿からいつもの平民の子供服に姿を戻している。そのまま牧場の中を移動して内部を観察していると、牧場の西側に小屋が建っている。
何かと思って近寄ってみると、これは恐らく羊小屋なのか。飲み水を入れると思われる水槽や日除けになる木まである。この為に伐採せずに残しておいたのか。考えられた配置にルゥテウスが感心していると
「こらこら、ここは立入禁止だ」
振り返ると、まだ17、8歳くらいだろうか。修行中と思われる諜報員訓練生の男性が立っていた。結界も張らずに不用心に歩き回ってしまったようだ。
「どこの子だ?一人で居るのか?」
ここで口を開くと面倒な事になると、ルゥテウスはそのまま小屋の西側の森を突っ切ろうとしたが、その男性は
「こらこら。そっちは森だ。迷子になってしまうぞ」
と、腕を掴まれてしまった。これは参った。ノンを連れてくれば良かったが、彼女を連れて姉弟を装っても場所が場所だけにあまり状況は変わらない気がする。
幸いにしてこの男性は自分を「怪しい」とは見ていないらしく、単にここへ迷い込んだ迷子の類だと思っているようなので、ルゥテウスは念話を飛ばした。
『親方、聞こえるか?』
少しだけ間が空いてラロカから返事が来た。最近は皆、念話を受けると例の個人名の書かれたカードや手帳を取り出すようなので返事が遅れるのである。
『店主様、どうか致しましたか?今日は市長や監督と一緒にエスター大陸へいらっしゃっているとお聞きしましたが』
『いや、今は俺だけこっちに戻ってきていてな。羊牧場を視察していたら訓練生の一人に捕まってしまった。羊小屋の辺りだ。悪いが俺を引き取りに来てくれるか?』
『承知しました。少々お待ちを』
彼は数日前まではすぐ近くで鍛冶工房の建設に従事していたのだが、現在は藍玉堂と役場の裏に病院を建設中で、多少離れている。
「ほら。こっちに来い」
と腕を引く訓練生に
「少し待て。今迎えが来る」
と短く言って、ルゥテウスはその辺にある切り株に腰を下ろした。訓練生は
「何だと?迎えに来るだと?ここにか?」
と明らかに怪しんでいる。それに幼児の口の利き方が明らかにおかしい。彼らも一応は諜報員訓練生として人物観察を学んでいる。
その観点からすると幼児はこんな口の利き方をしない。訓練生は一瞬「貴族の子か?」と思ったが、身なりは平民のそれだ。
難民の子が着ている物よりは多少マシには見えるが、とても貴族の子供が着るような物では無い。
「ちょっと来い。あっちでゆっくりと話を聞いてやる」
腕を引く力が強まったその時
「よせイバン。その方は俺の知り合いだ」
と声がして、訓練生の動きが止まった。
ルゥテウスが振り向くとそこにはラロカが立っており、急いで来たのか多少息が荒くなっている。
「その方は怪しい者では無い。手を離せ」
ラロカの言葉に訓練生は即座に反応してルゥテウスの腕を離した。
「店主様、申し訳ございません。遅くなりました」
遅くなったと言っているが、実際は念話を入れて2分程度しか経っていない。病院の建設予定地から藍玉堂地下の転送陣を使って資材置き場から走って来たとしても驚異的な速さだ。
そして彼はこの訓練生の前で自分を「店主様」と呼んだ。自分の身分を知られたく無かったルゥテウスは、ラロカならばそれくらいの気の回し様はあるだろうと、それを訝しんだ。
「店主様。この者は私の甥です」
ルゥテウスは合点が行き
「あぁ、彼が『おやっさん』の息子か」
と笑い出した。ルゥテウスはラロカの弟一家と面談し、彼らを正式に領都の藍玉堂支店の偽装経営者に採用してからは、ラロカの弟、ヒューを「おやっさん」と呼ぶようになった。
兄であるラロカも、当のヒューもなぜルゥテウスが自分をそう呼ぶのか分からないが、彼がおやっさんと呼ぶようになると、他のロダルやキッタ、イモールまでもが彼を「おやっさん」と呼び始めてしまい困惑していた。
「あの……親方。これは……?」
「イバンよ。この方が藍玉堂の店主様だ。勿論怪しい者では無い」
ラロカが笑いながら言った。
「え……?あの……親父達を雇って下さった……?」
「そうだ。そしてここで羊を飼う事を提案された方でもある」
「いやぁ、ここに羊を飼う牧場を造っていると聞いていたが、こんな小屋まで造られているとは知らなくてさ。珍しいから観察してたんだ」
「左様でございましたか」
訓練生……イバンは漸く事情が飲み込めたらしく
「すっ、済みませんっ!ご無礼をお許し下さい!」
と慌てて跪こうとしたので、ルゥテウスは今度は逆にその腕を抑えて
「いや、お前は任務に従って不審者や侵入者を取り締まろうとしただけだ。悪くない。謝罪の必要は無い」
幼児に腕を掴まれて全く動けない自分に驚いたイバンが
「はっ……はい。しかし……大変な失礼を」
ルゥテウスは腕を離して
「いやいや。気にするな。こんな森の中に俺のような幼児が一人でウロついていたらそりゃ怪しむわな」
笑いながら言うと、ラロカも笑い出した。イバンも気が楽になったのか、「あはは……」と力無く笑う。
「しかし、こんな小屋まで造って本格的ではないか」
ルゥテウスがラロカに尋ねると
「はい。赤の民のように放牧では無く、牧場飼育となりますのでこのように設備を整えて羊に負担を掛けないようにしなければなりません」
「なるほど。そう言えば監督に聞いたぞ。親方は羊を飼うのが上手かったと。羊長者に成り損なったそうではないか」
ルゥテウスはニヤニヤしながら言った。ラロカは嫌な事を聞かれたとでも言わんばかりの顔をして
「いやいや。最前から申し上げておりました通り、あの頃は羊を飼えないと生きて行けなかったのです」
「しかし親方は監督が帰る頃には30頭飼ってて、帰る監督の15頭も引き取ったんだろう?最終的にはどれくらいまで増やせたんだ?」
「左様……最後の年は120頭くらいでしたか……」
「おいおいっ!凄ぇなっ!」
ルゥテウスは仰天した。傍で聞いているイバンも驚いている。
「監督に聞いた……リー老師だっけ?そのおっさんが300頭って聞いて凄いと思ったが、親方の120頭も凄ぇじゃねぇか!」
「いや……それでも帰る際にはそれを他の方に引き取って貰うのに苦労しましたわい」
「しかし、120頭も居れば女にモテたんじゃねぇか?飼っている羊が多ければ縁談が殺到するって聞いたぞ?」
「私は修行中の身で、いずれはここに帰る事になっておりましたから……そんな事を考える余裕すらありませんでした」
「そうなのかぁ。何だか切ねぇ話だなぁ」
そんな事を5歳児に言われても慰めにならないと思ったラロカは苦笑いした。
「それはそうと、店主様はなぜこのような場所に?今日は市長と監督をお連れになって赤の民の下へ行っていらっしゃるとキッタに言われましたが……」
「あぁ、そうだ。羊を譲って貰う交渉は上手く行ったようだぞ。但し、交渉が終わった段階で時差の関係で向こうはもう夜だったんだ。それであの二人は泊まって来ると言う話だったぞ」
「じさ……ですか?」
「時差だ。今俺達が立っているこの大地は実は『星』という球状の物だって事は知っているか?」
「は……はい。確かエスター大陸の東にあるロッカ大陸の先はこのサラドス大陸だとか……ここからずっと東に行くと最後はまたここに戻って来るとか……」
「そうだ。この星というのは太陽の周りをこう……周りながら自らも回っている。これが季節として太陽の位置が違うように見え、一日が24時間で昼と夜がある仕組みだ」
ルゥテウスの石ころを使った説明にイバンが早くもついて行けていない。
「今居るこの場所が正午だとしよう。正午というのは太陽が一番上に昇っている時間……つまりこのように太陽の光が当たっている場所がある一方で太陽が当たっていない場所……つまり夜の場所もある」
「あ、なるほど」
イバンが納得したようだ。
「この正午の真裏は0時。つまりこことの『時差』が12時間あるという事だ」
「ほぅ……そう言う事ですか」
「そして赤の民の皆さんが住んでいるエスター大陸中央山地とここの時差は5時間。つまりあちらが5時間先に居るわけだ。さっき四点鐘が鳴っただろ?つまり15時だから、そこから5時間進んでいると20時。もう夜だ」
「なるほど!」
「夜に羊を連れて山の中を通って帰って行くなんて言ったら彼らにとっては自殺行為だ。怪しまれてしまうから泊まって行くという事になった」
「そう言う事でしたか。了解致しました」
「明日の朝……まぁこっちは未明だがな。俺が迎えに行く。帰りは転送陣を使ってここに直接送り込むよ」
そう言ってルゥテウスは小屋を囲っていた柵の中に入って小屋の屋根の下でマークをした。
「直接……送り込むとは……?」
イバンの疑問に伯父が答えた。
「イバンよ。この御方の成される事を気にしてはいけない。そして疑う事もするな。この御方が『ここに送り込む』と仰るならば、明日の朝にはここに羊が10頭居るんだ。余計な事は考えるな」
ラロカの説明にルゥテウスは苦笑した。
「よし。羊の件はこれでいいな。俺はこの小屋から排水溝を引いて、地下水のポンプも小屋の横に設置しておく。それだけあれば大丈夫かな?」
「はい。ロダルには開拓で刈り取った草をこちらに運んでおくように申し伝えておきましたので、当面の飼料も問題無いでしょう」
「解った。では俺もロダルに舗装道路の路盤石の確保が終わった事を伝えてくるよ。済まなかったな。仕事中に呼び出して。それとイバン。任務を邪魔して悪かった」
「い、いえ!とんでもございません。失礼致しました」
「では私は病院の建設に戻ります」
ルゥテウスは農場の向う側にある農民宿舎の現場に向かった。
「ロダル。どうだ。あとどれくらい掛かる?」
ルゥテウスが現場に着いて、作業を監督しているロダルの横に並んだ。
「はい。ご覧の通り、躯体は完成しました。コンクリートの資材加工がまだ出来ませんので、直接排水溝に型枠で流し込む作業が残っております」
「そうか。もう少しだな。それと、あの北側の長屋のあの辺りだけ何も建っていないのは何でだ?」
ルゥテウスは農地の南に先日完成した新長屋群の中に、一部何も建ってない部分を見つけて指摘した。
「はい。市長からの要請で、あの土地は店舗を建てるそうです。あの位置とあの位置の間を10メートルの広さで大通りとして南北を貫くのだとか。なのであの通りを真っ直ぐ行くと藍玉堂に突き当たるのだそうですよ」
「え?藍玉堂に突き当たるのか?役場じゃないのか?普通は役場が真ん中だろう?」
「いえ、市長が仰るには『このキャンプの中心は藍玉堂だ』と。とにかく、あの大通りに面する位置は全て店舗の為に敷地を空けておけとの指示がありました」
「そうか。まぁそれで良いんじゃないかな。それと舗装路に使う石材な。資材置き場に用意しておいた。エスター大陸で良質の玄武岩が手に入ったぞ」
「そ、そうですか」
「あのままだと資材置き場を占領したままになるから、もう敷ける所には敷いておくからな」
「分かりました」
言われたロダルはその後、資材置き場を見に行った時に綺麗な1メートル四方の大きさに整えられた5000トンもの玄武岩が積み上げられた光景に度肝を抜かれて放心するのだった。
次にルゥテウスが見に行ったのは新しく建設されて昨日開業した鍛冶工房だ。広さは幅30メートル、奥行き60メートルと広々としており、奥側には資材置き場と通路で直結している裏口がある。
炉は全部で8基あり、金属の溶解に使われる物と鍛造等に使われる物と別々に分けられている。奥の2基で現在行われているのは鉄製のレールの製造だ。
先程の資材置き場と裏口の間にレールを敷いて鉄道とし、資材搬入時の運搬を効率化すると言うルゥテウスの提案を親方が鍛冶師一同に説明し、現在レールの作成に取り掛かっているところだ。
他にもコンクリート造りの建物に使用する鉄筋も、この鍛冶場が建設された事で漸く自作出来るようになった。現在8基の炉はフル稼働しているが、うち6基で鋳物を造り、残りの2基で農工具等の鍛造品を作成している。
鋳物としては先程のレールや鍛造を併用した鉄筋、そして藍玉堂のソンマ店長によってもたらされた新金属「不銹鋼」の合金と、それを使用したポンプの部品が製造されていた。
この鍛冶場が開業した事で、ルゥテウスの負担が一気に減ったのである。更に工房内では炉の増設も進んでおり、最大で16基になる予定だ。
キャンプ内の建設ラッシュが過ぎて、需要に余裕が出来たら金属製品の外部輸出も検討しているらしい。
未だ一月半ばという寒風吹きすさぶ季節なのにも関わらず、工房の戸は全開にされて中から熱気が溢れ出て来ていた。
中に入ると怒られるので、他の見物に来ている子供に混じって、ルゥテウスも中の様子を窺い、その稼働に満足をして藍玉堂に戻った。
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藍玉堂に戻ると、カウンターの向こう側の作業机でノンとラロカの弟一家の四人が乳鉢や薬研を使って何かを磨り潰しており、壁際のコンロでは「おやっさん」の娘、イバンにとっては妹に当たる女の子が鍋で何かを煮ていた。
恐らく練習用に作成を店長に命じられていた低級の回復薬でも造っているのだろうか。今の藍玉堂ならば、その程度の薬材は機械化されているので自動で大量生産が効くのだが、あくまでも研修中という事で、敢えて手作りとしているのだろう。
乳鉢で一生懸命薬材を磨り潰していたノンがルゥテウスに気付き、顔を上げて
「ルゥテウス様、お帰りなさいませ」
と言った。他の連中が彼を「店主様」と呼ぶのに対し、ノンだけは今でも「ルゥテウス様」と呼ぶ。
「うん。ちょっと時間が空いてな。まだおっかあは御菓子をくれるかなと」
ルゥテウスが言うと、ノンは笑い出した。
「大丈夫ですよ。アイサさんはルゥテウス様の分は夜まで必ず残してますから」
「そうか。じゃ上に行ってみるかな」
「あ、店主様。お帰りなさい」
「あぁ。ただいま。おやっさん、薬研というのはもっと挽き車の重さを利用するんだ。そんなに力を入れっぱなしだと、疲れちまうだろ?重さを使って押し潰す。そんなイメージだ」
一家の主、「おやっさん」ことヒューはルゥテウスの助言通りに挽き車を細かく動かすように操ってみて
「あ……なるほど。車自体を大きく動かすと疲れちまうんだが、こうすればいいのか……」
「そうだ。感覚としては車の重さを使って『押し砕く』。これがコツだ」
「なるほど……店主様はお若いのに詳しいのですな」
「まぁ、実家も薬屋だしな」
ルゥテウスは曖昧に笑った。彼が記憶を取り戻した時は既に母も祖父も亡くなっており、《藍滴堂》は店を閉めていたのだが……。
「ニコ、ちょっと火が強いな。もう少し弱火で薬液は基本的に沸騰させては駄目だ。熱によって中の液体が動く程度。その加減を覚えないとな」
「はいっ」
ニコという少女は元々、右目の下から首筋にかけて大きな痣があり、近所の同年代の子供達からも不気味に思われて仲間外れにされていた。
本人もこの外見に引け目を感じ、家の中に閉じ籠る日々が続いていた。ルゥテウスの提案を受けた伯父が彼と面談するように一家に命じ、無理矢理引っ張り出されて泣きそうになっていたのだが、ルゥテウスは彼女の顔を見るなり
「何だ。お前はそれで外に出るのが怖くなっていたのか」
と、頬に手を当てると痣はすっかりと消え去っていた。両親や、付き添っていたラロカも仰天し、ノンに渡された手鏡で自分の顔を確認した本人も驚愕で声が出ない程になり
「これで領都のど真ん中に店を構えても看板娘になれるだろ」
と苦笑いしながら言うルゥテウスに対して、一家が拝もうとしてラロカに制止されるといういつもの展開になった。以来、まだ1旬程しか経っていないが、ニコはすっかり明るさを取り戻し、薬屋の店員としての研修を一生懸命受けている。
「これは午前中に造った回復薬です」
とノンがコップに入った液体を差し出してきた。ルゥテウスは中身を見て、匂いを嗅ぎ、一口飲む。
「味にまだ苦味が残っているな。ここのところにもう少し甘味があれば、常連客が買ってくれるようになるかもな。大量生産の物も良いのだが、こういう手作りならではの『売り』を出すのも俺はいいと思うぞ」
「なるほど」
「瓶詰にしてカウンターに並べてだな。『看板娘が造りました』って書いて売ればバカ売れ間違い無しではないか」
ルゥテウスがニヤリとしながら言うと、ヒューも
「なるほどっ!それだ!私はそれをやってみますよ!」
と情熱を浮かべたように薬研を転がす。それを隣で薬瓶を磨きながら見ていた妻のホーリーは
「そんなに上手く行くでしょうか……」
と心配そうに言っている。彼女は一家の中では一番慎重な性格で、薬品の製造よりむしろ店舗の経営に関して重点的に勉強しているようだ。
一家の中に誰か一人こういう者が居ないとたちまち経営が破綻してしまうので、これは良い事だとルゥテウスは思っている。
「『おかみ』よ。領都の中心地には競争相手が一杯居る。いきなり大きな効果で売り出すと怪しまれるからな。こういう薬効とは関係の無い部分で売り出すくらいが丁度良いのだ。何事も最初が勝負だぞ」
ルゥテウスはホーリーの事も「おかみ」と呼んでいる。よって、他の者も彼女を「おかみさん」と呼ぶようになった。勿論本人は夫と共に困惑している。
「とにかくだ。もう近いうちに店舗の場所も決まるみたいだから、それまでに『看板娘の回復薬』の完成を目指すのだ。新規開店の目玉にするからな。わっはっは」
そう言うと大声で笑いながらルゥテウスは、アイサにオヤツを貰いに二階に上って行った。上からアイサの「まぁまぁ、店主様。ちゃんと手を洗って!」と言う声が聞こえ、一同は笑い出した。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。5歳。賢者の血脈の完全発現者で魔導師。戦時難民のキャンプの魔改造に取り組む。難民幹部からは《店主》と呼ばれる。
イモール・セデス
49歳。難民キャンプを創設した男。現在もキャンプの責任者を務め《市長》と呼ばれる。理知的で穏やかな性格。元《赤の民》領都支部支部長。戦時難民第一世代。
ラロカ
52歳。戦時難民第二世代。エスター大陸より暗殺術を学んでキャンプに持ち帰った男で《親方》と呼ばれる。現在は主に難民キャンプの建設担当で実質的な副市長。
ドロス
44歳。戦時難民出身で、ラロカと共にエスター大陸に渡って諜報術を修める。キャンプに諜報術を持ち帰り以後は諜報部門を率いる真面目な男。《赤の民》解散後は新生諜報集団《青の子》の統括を任される。難民からは《監督》と呼ばれる。
ノン
15歳。《藍玉堂》の受付担当。美人で有能だが気が小さい。主人公の秘書を務め、姉を偽装する役目も負っている。
キッタ
32歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の長兄。事務職員として非常に有能な為に役場の業務に駆り出される。眼鏡がトレードマーク。
ロダル
28歳。《藍玉堂》で製薬を担当する三兄妹の次兄。元暗殺員。現在は主人公の右腕としてキャンプの普請部隊を率いる。
ヒュー
48歳。ラロカの弟。仕事も無く家で燻っていたところに一家で藍玉堂の支店経営を命じられる。ルゥテウスに《おやっさん》と呼ばれ、それが周囲にも定着する。
ホーリー
43歳。ヒューの妻。一家で藍玉堂の支店経営を命じられ、主に経営について学ぶ。一家の中では慎重な性格。ルゥテウスに《おかみ》と呼ばれ、周囲もそれに倣い出す。
イバン
18歳。ヒューとホーリーの息子。《青の子》の訓練生として修行中。
ニコ
14歳。ヒューとホーリーの娘。顔の痣を気にして自宅に引き籠っていたが、ルゥテウスに消して貰い、藍玉堂の支店で《看板娘》として働き出す。