藍玉堂
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。また、特に言及の無い限り文中の時刻は24時間表記です。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。
ルゥテウスがこの難民キャンプに入ってから10日が過ぎた。今日は彼の実家の名に準えて命名された薬屋《藍玉堂》がついに開店の日を迎えた。建物は地上二階建てで地下一階。
実際は地下二階まであるのだがその存在を知るのは設計者のルゥテウスとこの店の店長である錬金術師のソンマ・リジと今や秘書兼偽装姉担当のノンだけだ。
ルゥテウスはこの店の開店に合わせて《店主》と呼ばれるようになった。
店長としてはソンマが居るのだが、この建物の持ち主は実質的にルゥテウスであり、普段は薬屋の経営には参加しないのだが、彼の持つ薬学知識は驚異的である為、店長を含む店員一同は基本的に彼の指示によって動いている。
店長を始めとして従業員は四人なのだが、現在三人は別の事業に従事しており、店長のソンマが新人店員のサナに教育を施しながら孤軍奮闘している形だ。
しかし製薬に関してはこの建物の地下に魔導を利用した動力源が設置されているので、それを利用した機械化が実現し、世界でも類を見ない安定した品質の薬品を大量生産出来るようになった。
また、この店舗は入口からカウンターとそこから見える範囲は普通のどこの都市にもある薬屋の風景なのだが、見えない場所は世界でも最先端の設備で満たされており、特に地下室は技術的に機密の塊であった。
一階の店舗を除く部分は従業員の住居になっており、キッタとロダルが居住している。店長の居室も当初は一階に設ける予定だったのだが、地下一階の錬金作業場の隣に確保される事になった。
二階の大部分は大きな広間になっていて、普段の食事や休憩はここで行える。またキャンプ経営の要人会議もこの場で行われる事になる為、大きなテーブルと十人分の椅子が用意されている。
大部屋の隅には台所が設けられており、恐るべき事に水と湯が出る蛇口や薪を使わないコンロが2口用意され、料理も可能となっている。
台所と反対側の隅には別の部屋があり、当初は店主のルゥテウスがここで暮らす予定だったのだが、彼は滅多にこの場所を使わないので、女性であるノンに譲られる事となった。
そして地下である。地下一階にはその大半を店長が利用する錬金作業を行う部屋が占め、残りの三分の一の広さに風呂場と……転送陣が設置された部屋があった。
転送陣は今のところ二ヵ所に接続されており、最初に接続されたのはヴァルフェリウス公爵家屋敷の奥館二階にある、統領シニョル・トーンの部屋のクローゼットだ。
この為、このクローゼットは彼女自身がルゥテウスに渡された強力な魔導結界符が使用されて、本人以外にはクローゼットの存在すら認識されないという状態になっている。
二ヵ所目はキャンプの誇る諜報組織《青の子》の訓練施設の東側を借りて設置されたキャンプの資材置場に設置された。
ルゥテウスがいつの間にか掘っ立て小屋を建てて中に転送陣を設置し、これを強力な結界によって一般人が存在を認識出来無いようにしている。
藍玉堂完成前に使用していた近隣の長屋の一室で、ルゥテウスが作成したキャンプの精密全体図と地形図を見せられた一同はその精細な内容を見て言葉を失った。当然である。
この時代、実際に上空から街や都市を測量した記録など前例が無く、建築技術者は地上での測量を頼りに町の全体図を「想像して」描いていた。
それが上空から全ての建物の位置を実測した上に地形の高低差までを精密に図にされた物など超古代文明以来の出来事だった。
「我々のキャンプが……こんな形をしていたのですね……」
市長であるイモールが感想を漏らすと
「そうだな。ちょっと無計画に伸ばし過ぎたな」
と作製者であるルゥテウスが笑いながら評した。
「最初はどの辺から造ったのかしら」
目を瞠りながら図を凝視するシニョルが尋ねると
「記録では、この南西の地域からのようです。記録では次にここ、そしてここ……」
ラロカが建築記録を基に説明を加える。
「こうして見ると、レレア川ってかなり遠いのね……」
「左様ですな。これならルゥテウス様ご提案の地下水脈利用は全ての面において理に適っております」
「しかし、俺は実際にこうして図にしてみて思ったが、水道確保よりも先に区画を整理した方がいいんじゃないのか?
いくら何でもこのような形で排水路を設置するのは損失が多過ぎる。この辺りなんか、こんな形状になってこの辺りで確実に流れが滞る。そうなると詰まりの原因になるな。それと、この辺りの棟の位置関係が悪くて風呂場の設置も難しいぞ」
「しかしどのようにして……」
「俺だったら、この北側に空いてる土地から順にだな……そして今の藍玉堂と隣に造られる運営事務所……役場の位置を基準に……」
「なるほど。造っては壊しを繰り返すのですか」
「そうだ。俺の記憶では確かサイデルの街がこの方法で今の形になったと思う」
サイデルとは国内第5位の人口60万を誇る大都市でダイレムからマグダラ山脈を挟んだ反対側に位置する。
かつては山脈の麓にあって、規模もそれほど大きく無かったのだが、将来の発展を見込んで今から900年程前に当時の市街中心部を東に3キロ移動させるという街の大改造を行った結果、山から離れる形で土地が開け、後の大発展に繋がった。
その際の方法も住民の大半からの支持を受けた当時の市長が、移転住民への新居を保障するという形で総費用の八割を公費で賄う事で歴史的大事業を実現させた。
当時の人口が約二万世帯で六万人だったと言うから、今の難民キャンプよりもかなり規模が大きい。
更にキャンプの場合は住民の負担として「着の身着のまま」の生活を送っている彼らが、順に新築物件に転居するだけである。
元々が共同社会である彼らは転居も長屋の住民が一丸となって行うので個人の負担はそれほど大きく無いと思われる。
そして何と言ってもこのキャンプには恐るべき「深夜の施工能力」を持つルゥテウスがおり、彼がどこからとも無く調達してくる資材によって、今やこのキャンプでは普請作業に賃金が支払えるようになった。
施工人員はロダルがノンによって整理された住民入居時の聞き取り調査記録を基に建築業経験者を中心に集めており、既に200人近い人材を確保していた。
「私は市長のご判断に一任するわ」
シニョルが言うと
「そうだな。この《町》はお前が築いてきたんだ。こういう岐路で判断するのも市長であるお前だ」
ルゥテウスもシニョルの意見に賛成した。
「うぅむ……」
イモールは迷っていた。彼は今、住民の戸籍登録を行っていた。このまま区画整理を始めてしまうと、戸籍の登録に混乱が生じてしまう可能性がある。
ルゥテウスはイモールの懸念を感じ取り、助け舟を出した。
「市長。戸籍登録の事で悩んでいるなら、良い案があるぞ」
「えっ?本当ですか?」
「うん。簡単な事だ。北側から順に新築物件を造って行き、そこに移動した住民から戸籍を作って、更に住所も設置すればいいんだ」
「住所?住所とは何ですか?」
「うん。やっぱり知らないか」
ルゥテウスは笑って、住所の概念を説明した。この時代、王都や領都などの大都市では一部で「住所」の記号化が行われていた。
一部とは主に郵便事業と軍隊である。郵便事業は当然のように配達先の記号化は必要だったのだが、軍隊においては徴兵の際に戸籍と住所を照らし合わせて徴募隊を送る必要があった。
但しレインズ王国において建国以来、法で明文化されている「王の徴兵」が行われた事は皆無で軍隊のそれは有名無実化していると言ってよいだろう。
これまで戸籍を与えられてこなかった難民にとっては「住所の記号化」というのは全く考えた事の無い概念であった。
「な……なるほど。その住所と戸籍を紐付けすれば『誰がどの辺に住んでいる』というのが地図からすぐに分かるわけですな」
「そう言う事だ。ただ闇雲に住民の居住確認をしながら戸籍を造るのでは無く、こういった機会を利用して住民情報を整理して行くんだ」
「分かりました。そのような妙案があるのでしたら区画整理を承認しましょう。具体的な計画はルゥテウス様と親方に任せても宜しいのですね?」
「そうだな。言い出した以上は俺が責任を持とう。だから図面上で新区画の位置が確定しているのは、現在だと藍玉堂と隣の役場の位置だけだ。
主要施設の建築は予定通り親方が進めてくれ。こっちの区画整理と排水溝を伴う道路整備は俺とロダルでやる。ロダル、いいな?」
「はっ。了解です」
「そして新築物件への転居と同時に戸籍と住所登録をやるのはキッタが担当しろ」
「は、はい」
キッタの事務処理能力は非常に高い事がここ数日で判明している。青く光る眼鏡は伊達ではなかった。
「ノンは市長の補佐をしながら、引き続き聞き取り調査の整理だ」
「はいっ」
「ではシニョル。今後の予算の主な用途は人件費になる。済まんが引き続きエルダから同じくらいの金額を引っ張り出してくれ」
「かしこまりました」
この話し合いが持たれているのは藍玉堂が完成する前の事だったのでルゥテウスはシニョルに
「それと、さっき転送陣をお前の部屋と繋いだけどな、昼間はまだうちの店は工事中で作業員の皆さんがあちこちに居る。
だから無暗に地下の入口から出て来るなよ。お前は目立つ。遊びに来るなら作業員さんが帰った後の夜にしてくれ。
まぁ、迷子になられると捜索する監督の余計な負担になるから程々にして欲しいけどな」
と釘を刺した。
「わ、わ、わっ、分かっておりますっ!」
シニョルはそれを楽しみにしていただけにいきなり指摘されて慌てた。ノンとサナは笑いを堪えるのに必死だ。
こうして、排水溝と井戸の掘削は一時棚上げになった。
区画整理が決定してからのルゥテウスの働きは凄まじかった。現在の全体図から、区画整理の図案を一時間で書き上げ、材料を算出して親方とロダルに見せた。
彼はこの区画整理に乗じて、下水道と各長屋の水道確保と共同浴場の設置、そしてラロカが提案した道路舗装を一気に進めると宣言した。
そしてその日の夜のうちに最初の新築長屋予定地の縄張りを行い、排水溝の下掘りを行った上で更にその位置に合わせてレレア川からの空掘を引くという離れ業を見せ、翌日の朝には資材置き場にコンクリートの原料となる石灰石や珪砂や砕石が大量に積まれていた。
そしてあの鉄も延べ棒にされて小分けされ山になって積まれており、ロダルを仰天させた。
「ロダル、木材を主体に長屋の躯体を造ると火災の心配がある。冬場の断熱性も考えていっそコンクリートで造ってしまおう」
「え。長屋をですか?」
「そうだ。ちょっと試しに今夜一棟建ててやる。お前はその手順を見ておけ。面倒なところは全部俺がやってやるから」
「は……はい」
こうして日付が翌日になる頃、密かに新長屋建設予定地に来たルゥテウスとロダルは、ルゥテウスの張る結界の中で一瞬にして基礎穴が掘られ、鉄を加工した組まれた鉄筋の入った型枠にコンクリートがどんどん流し込まれて最終的に魔導で水分が抜かれるのをロダルが茫然と眺めながら朝を迎えた。
ルゥテウスが結界を解くとそこには20世帯が入れる二階建ての鉄筋コンクリート製の長屋が建っていた。
「これが基本だ。これをひたすら造るだけだ。ひとまずこれは単身用で、家族用はこう……階段も部屋の中に組み込んで一階と二階を一世帯で使って貰う。そしてこっちが水道と共同浴場だ。中に入ってみろ」
「こ……これは……今俺達が住んでる部屋よりも広いし静かで温かいですね」
「そうだな。造りが強固になるのと火災に強い事が以前と比べて有利だな。風呂が付く事によって火災の危険が出て来るからな。今後は」
「しかし、これってルゥテウス様だから一晩で建ちましたけど、我々が普通に建てたらかなり時間が掛かりますよね」
「そうだな。しかしその為に大量の人員を確保するんだ。大量の人員を使って一気に建てて行く。この図を見ろ。今はこの一番西側だよな。
これを東側にある川まで続く排水路の手前……10棟を一気に施工して行く。そしてその横ではどんどん排水路も掘る。道路の舗装もやる。
これはもう町の造り直しなんだ。住民総出でどんどんやればいいんだ。それも現金収入のある雇用に繋がるだろ?」
「な、なるほど……」
「お前らは金を気にしているかもしれんが、そんなもんはどんどん住民にバラ撒けばいいんだ。
住民の皆さんには雇用とお金と技術の蓄積を提供してやる。そうすれば施工期間もどんどん短縮されていくだろ」
「忘れるな。お前も俺も本業は薬屋なんだ。いつまでもこの作業に関わってる場合じゃないんだ。ある程度住民の皆さんの技術を成長させたらそこに任せて薬を売るんだろ?」
ルゥテウスは笑いながら言った。
「そ、そうですよね。分かりました。人員の確保を急ぎます」
「うん。そうしてくれ。俺はさっき見せたやり方を全部ノートに纏めておく。そして事前の時間が掛かるところと資材の調達をやる。人の方はお前に任せたからな」
こうして区画整理に伴う新棟建設は急ピッチで進められた。ノンが聞き取り調査の記録を基に建築作業経験者を探し、更に募集に応募した者を一緒に教育させて「新街区」ではどんどん新棟建設が着工した。
ノンの手柄は、聞き取り調査の整理において何と「元医師」を発見した事である。その男はつい最近になってこのキャンプに流れてきたのだが、以前はエスター大陸で医術を学んだ第一世代の者であった。
しかし難民として漂流中に自らが病に罹ってしまい、このキャンプに連れてこられた時は既に体が弱り切っていて、長屋で寝たきりになっていた。
『ルゥテウス様っ!聞こえますでしょうか?』
ノンからの念話は何か興奮した様子だったのでルゥテウスは訝しみながら
『何だ?何かあったのか?』
藍玉堂周辺で変事があったのかと焦って応答すると
『い、いえ……あの……』
『何だ。どうしたのだ』
『今、聞き取り調査の記録を見ていたら、同行者の方の証言で以前にお医者様をやっていたと言う方が……』
『何だと!?医者か?……しかし同行者の証言ってのは何だ?本人が医師である事を隠してるって事か?』
『いえ、そうでは無いようで記録では到着時に既に病に冒されていると』
『え?じゃ、もう死んでるのか?』
『判りません。到着は3037年の6月となっていますから一年半前ですね』
『分かった。今行く。ちょっと待ってろ』
ルゥテウスはマグダラ山脈とは別の場所で石灰石を掘っていたのだが、すぐに仮事務所に戻った。ノンに渡された聞き取り調査記録を見ながら
「この人がどこの長屋のどの部屋に収容されたってのは書いていないんだな」
「そうですね……その辺は聞き取りをした人と部屋を割り当てた職員の人が情報を引き継いで無かったんでしょうね……」
「名前はオルトか。41歳。まだ若いな。どんな病気なのか。同行者ってのは……これは妻なのかな。31歳女性。しかし妻とは書いていないな」
「うーん……どうしましょう」
「監督に頼もう。とにかく探して貰って生きていれば俺が何とかする」
「はい。お願いします」
ルゥテウスはすぐにドロスと連絡を取り、可能な限りの人員を動員してオルトという元医師の住居を探させた。
情報が非常に少なかったのだが、新生《青の子》の連中は恐ろしく優秀で、何と翌日の夜にはオルトの住居を突き止めてきた。ルゥテウスはその捜査能力に逆に呆れて、どのようにして探し出したのかをドロスに聞いたところ
「ここの住人ですから、生きている限りは配給を受けるはずです。なので集会所の責任者に片っ端から病人に配給を持ち帰っている女性が居ないか聞き回って該当者を全て尾行させました」
「なるほど……凄いな。流石は監督だ……」
ルゥテウスは監督の探索者としては筋金入りの能力を褒め称えた。
「いえいえ……店主様にはこれくらいしかお役に立てませんから……」
とドロスは謙遜した。
とにかく、対象の人物の居場所は割出した。そしてまだ生きており、食事を摂るくらいの体力は残っている事も判明した。
翌日の午後、ルゥテウスは仕事中だったイモールを連れてオルトの住む長屋へと急いだ。彼にしてみれば医師の確保は区画整理よりも重要な優先事項である。
オルトの長屋の前に辿り着いた。
「どうやらここのようですね」
「市長。ちょっと話をしてみてくれ。いきなり俺のような5歳児が行っても怪しまれるだけだ」
イモールは笑いながらオルトの部屋のドアをノックして
「ちと済まんが話をしたい。私はイモール・セデスと言う者だ」
と中に向かって大きな声で呼び掛けた。時間はまだ午後に入ったばかりでこの東地域もまだまだ人通りが多く、イモールの姿を見た近所の住民が何事かと集まって来ていた。
扉が開いて、中から見た目は40代のかなりやつれた女性が出て来て
「あの……うちに何か御用でしょうか……」
と疲れた目で誰何してきた。
「あぁ、私はイモール・セデス。このキャンプを管理している者なのだが、ご主人……オルト殿はいらっしゃるか?」
「オルトは居ますが……何か御用でしょうか……今は病で臥せっておりまして」
「そうだ。その病のオルト殿と話がしたいのだ。お邪魔してもいいかね?」
女性は少し怯えながらもイモールを中に入れてくれた。すかさずルゥテウスも一緒に入る。ルゥテウスの事はイモールが先に譲ったので女性も気にしていなかった。
室内は本当に質素で、サナの家よりも家具は少なく、ベッドが二台と小さな箪笥が置かれているだけで、机や椅子すらも無かった。
そして並べられたベッドの入口から見て右側に髪と髭が伸び放題の男性が寝かされていた。
男性は眠っているようで呼吸は静かだがその髭面の表情には眠りながらも何かの苦痛に耐えている様子が浮かんでいた。
ルゥテウスは女性に尋ねた。
「俺達はオルトが元医師だったと聞いて来たのだ。それは本当なのかね?」
目の前の幼児が全くそれらしく無い口調で尋ねてきたので女性は驚きながらも
「はい。オルト先生はこの国に逃げてくる前はタンゴという町で医師をしておりました。しかし私達の国の軍の連中が自国である私達のタンゴへ略奪に来たのです。
先生は私を庇って略奪しに来た兵士をメスで刺してしまい、私達は逃げ出す事になってしまいました……私の事を庇って……うぅぅ」
女性は辛い事を思い出して泣き出してしまった。
「まぁ、落ち着いてくれ。その後、こっちの国に逃げる為に乗り込んだ船で病気になったんだな?お前はそのようにここに入る時に説明していたようだが」
「はい。船に乗ったのは去年の3月でした。小さな船が逃げ出す人で一杯になっていました。
皆さんで交代で漕ぎながら西を目指したのですが、暫くして病気が蔓延してしまいまして……先生は初め病人を診ておられたのですが、そのうちご自分も倒れられて……」
「分かった。ちょっとオルト先生を診てみよう」
「えっ?あなたは……」
「安心しろ。この方は……まぁ、私が知っている限り世界最高の名医だ」
イモールが女性に笑い掛ける。ルゥテウスは右手を振って皿を左手に出すと、もう一度右手を軽く振り、皿の上に切り分けられたメナを出して女性に渡した。
「お前も疲れているようだ。これでも食って待ってろ」
渡された女性は一切れ食べてメナの味と甘さにビックリし
「なっ……何ですかこれは……」
と疲れた顔で目を見開いて驚いていた。
背後で女性がメナに驚いている間にルゥテウスはオルトを診察し始めた。熱はあるが、それ程重篤という感じではない。しかし体はかなり痩せ衰えており、ルゥテウスの診察中も全く目が覚める事は無かった。
ルゥテウスは診察を終え、女性とイモールが居る場所に戻ってきた。
「あの……どうなんでしょう」
「店主様。あの方は……」
不安そうに聞く二人に
「いや……まぁ、既にかなり進行しているが原因は『寄生虫』だな。恐らく避難船の劣悪な環境の中で保存食などから感染したんだろう。俺からすると『運が悪かった』って事だな」
「つまり……もう手遅れなのですか……?」
女性は涙声になっている。原因が解っても手遅れならば意味が無い。
「市長。使いを頼んで悪いが、集会所に行って配給でスープを入れて貰うあの椀で水を貰ってきてくれないか?八分目くらいで」
「承知しました」
イモールは元暗殺者の身ごなしで扉から滑るように出て行った。
「今……市長と……」
「あぁ。彼はイモール・セデス。このキャンプの市長で創設者だぞ」
ルゥテウスが言うと
「そんな……あの方がセデス様……」
「さっきノックする時に大声で名乗っていたけどな」
ルゥテウスが笑うと
「私……もう疲れてしまっていて……」
「ちょっとお前も診てやる。お前も虫に感染しているかもしれん」
そう言ってルゥテウスは女性をベッドに寝かせて体の上で手を動かしながら
「あぁ、お前にも感染してるな。初期症状だ。お前の体調が優れないのもそれが原因だ」
「えっ……?ほ、本当ですか?」
「俺の記憶では、お前の年齢は去年の時点で31歳。今年で32歳だろ?その割に随分と老けて痩せこけている。お前も感染しているんだが、この寄生虫は男性の方が進行が早いんだ」
女性を起こしてルゥテウスは元の場所に戻った。女性が自らも感染している事を知って茫然としているところにイモールが椀に水を入れて戻ってきた。
「おぉ。こんなに水が入ってるのに、これ程早く帰ってくるとは流石だな。市長」
暗殺訓練を受けて元は一流の暗殺員であったイモールをルゥテウスは笑いながら褒めた。
「いやいや。もう、お恥ずかしい過去ですよ……」
苦笑するイモールから椀を受け取り、ルゥテウスはオルトの横に戻った。そして寝具を捲って、椀を左手に持ち右手でオルトの体を隅々まで撫で回す。オルトはその間も全く目が覚めなかった。
ルゥテウスが20秒程してイモールと女性のところに戻ってきて椀を見せた。なんと、椀の中に紐状の「何か」が無数に入っている。
「これが寄生虫だ。しっかりと成長し切っている。底に見えるのは卵だな」
ルゥテウスの言葉を聞いてイモールは仰け反り、女性は悲鳴を上げた。
「わ、私の体の中にもこれが……?」
「そうだな。しかしお前はまだ歩けているから成長し切って無いかもしれん。お前ももう一度ベッドに横になれ」
「は、はい……」
女性が再びベッドに横になると、ルゥテウスは椀を左手に持ったままやはり右手で女性の体を撫で始めた。
女性は幼児とはいえ、自分の体を撫で回されている事が気になるようで、目を固く閉じて小さく震えている。
やがてルゥテウスは右手を離して再びイモールの居る場所に戻る。女性は明らかに何か体が軽くなった事に驚きながら後に続く。
ルゥテウスの持っている椀の中では更に「何か」が増えておりその数は相当多く見える。イモールは背筋の震えが止まらないのを感じた。
「まぁ、こんなもんだろうな」
ルゥテウスは椀の上で右手を振ると、椀の中は水なのに炎が上がった。イモールと女性が仰天しながら見ていると、そのうち炎は小さくなりやがて消えた。椀の中は空になっていた。
「ど、どうなったのでしょうか?」
イモールが恐る恐る聞くと
「俺がヘマすると思うか?」
ルゥテウスはニヤニヤしている
「では……」
「うむ。二人共、体の中の寄生虫は全て取り除いた。オルト先生は夕方には起きるだろうから……」
右手を振って、真っ赤に熟したメナを出して女性に渡し
「それを皮ごと食わせてやれ。美味過ぎて泣くかもな」
ルゥテウスは笑った。イモールもそれを聞いて笑う。
「お前も配給をちゃんと食べろよ?一月もすれば元通りになるさ」
女性は涙をポロポロと流しながら
「あ……ありがとうございます。この通りです……」
拝もうとしたので、イモールが
「いや、待つのだ。この方は拝まれるのが何よりも大嫌いなのだ」
と苦笑しながら止めた。女性はポカンとして
「そ、そうでございますか。それでは……」
と深々と頭を下げた。
「オルト先生にな、元気になったらこのキャンプの真ん中辺りに《藍玉堂》という薬屋があるから、そこに一度顔を出してもらうように伝えて貰えるかな?
俺は本来、医者じゃ無いんだ。だから本物の医者である先生のお力を借りたい。頼まれてくれるか?」
「はっ、はい。必ず。必ず伝えます。本当にありがとうございました」
再び頭を下げる女性に軽く手を上げて二人は部屋を出た。
「しかし店主様は医師としても十分に務まるのではありませんか?」
イモールが聞く。
「いや、俺のは医療行為じゃないんだ。魔導を応用した治療行為なんだ」
「それは何が違うのです?実際に店主様は患者を治されたではないですか」
「医療と魔導は全然違う。医療は人間の病を治す為の『技術』でその継承の資質は魔術や魔導などよりもずっと低い。
俺の使う魔導は確かに強力だが、この技術は勉強する事なんかじゃ習得出来無いんだ」
「あぁ……なるほど」
「だから医師は貴重なんだ。腕の良い医師の診察を受けて、しっかりとした治療判断の下で処方箋を出して貰えれば、薬屋の方だってそれに従って薬を出せばいいからな。助けられる人が増えるわけだ」
「なるほど」
「彼が元気になったら医師として復帰して欲しい。市長。あの藍玉堂と役場の近くの空いてる敷地に病院を建てられないだろうか?」
「勿論賛成です。親方に言っておきましょう」
「頼む。恐らく彼が医師として開業してくれれば、風呂を造るよりも劇的に病人が減る。いや、公衆衛生は必要だから風呂も毎日入って欲しいんだが」
ルゥテウスは笑いながら言った。
「そうですな」
二人で話しながら歩いているうちに仮設事務所へ戻ってきた。
中に入るとノンが待っていた。
「お帰りなさいませ。如何だったでしょうか?」
「うん。とりあえず治した。今回はノンの大手柄だな」
「そうですな。ノンはやはり職員として有能だ。藍玉堂で働かせるのは惜しい」
イモールは大笑いした。ノンは褒められて赤くなっている。
「バカ野郎。ノンは俺の姉役という一番大切な役割があるんだ。いつまでもこんなシケた仕事をさせておくわけにはいかんのだ」
ルゥテウスも笑うとイモールも「いやいやそれは」と一緒に笑う。
こうして、二人に持ち上げられたノンは益々顔を赤くして俯くのであった。
「じゃ、俺は資材採取に戻るよ。夜の配給になったら戻るから、また時間になったら念話をくれ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
こうしてルゥテウスはコンクリートの材料採取に戻るのであった。
****
オルト医師の回復は思った以上に早く、一度回復の軌道に乗ると本人が医師だけに養生法を弁えているのか、みるみるうちに回復して5日後には藍玉堂に女性を連れて現われた。
ルゥテウスは最初、オルトから深々と頭を下げられたが誰の事か分からず首を傾げていると、女性が
「先生にお救い頂いたオルト先生です。私の名はユミノです」
と言われ、髪を切って髭も剃ったオルトを見て彼としては珍しく仰天していた。
「これは失礼。俺はルゥテウス。この薬屋の居候だ。こいつが店長でソンマ・リジと言う者だ」
「ソンマでございます。いやぁ、同胞の中に医師の方がいらしたとは……」
と、目を細めていた。
オルトはルゥテウスとソンマを交互に見ながら二人が只者では無いと見抜き
「失礼ですが……お二人共魔法使いの方ではないでしょうか?」
オルトに言い当てられてソンマが照れたように答える。
「はい。私は錬金術をやっておりまして。こちらの方は少々特殊で……」
と苦笑いしながら言葉を濁した。ルゥテウスはそんな事はどうでもいいとばかりに
「オルト先生。お願いがあるのです。今一度医師としてこのキャンプで開業して頂けませんでしょうか」
彼としては丁寧な言葉遣いである。ルゥテウスは実家の《藍滴堂》がダイレムで名医として名高いモートン医師の後ろ盾を受けていた事から、医師という職に対して尊敬を払っていた。
「しかし……恐らくあなたの方が私よりもよっぽど優秀な……その年齢で」
とオルトはユミノから聞いていた話を出して自分の疑問を口にした。
「いや、俺は医師では無いのです。むしろ薬屋でして。なので腕の確かな医師の方からの処方箋を頂いて製薬業に専念したいのです。開業場所も医療道具もこちらで提供させて頂きます。どうか我々の願いをお聞き届け願えませんでしょうか」
ルゥテウスは重ねてオルトに要請した。オルトもルゥテウスの目が真剣である事を認め
「承知しました。貴方は私の命の恩人です。そして病に倒れた我らを快く迎え入れて下さったこのキャンプも、その人々も私にとって恩人です。私も微力ながらそのお返しをさせて頂きましょう」
オルトは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。貴方のおかげでこのキャンプから多くの病に苦しむ人が減るでしょう。我らも協力を惜しみません。
今、この店の隣にこのキャンプの新しい役場を造っております。その裏側の土地を病院とし、先生方のお住まいも併設させて頂きます。完成まで暫くお待ち下さい。
完成の頃にお知らせに参りますので、今はお体のご快復にお努め下さい」
「こちらこそ。命を助けて頂きまして改めて御礼申し上げます。それでは今日はこれにて失礼致します」
もう一度オルトとユミノは頭を下げ、オルトはユミノに体を支えて貰いながらゆっくりと帰って行った。
「いやぁ。髪と髭を整えたら案外いい男だったな」
ルゥテウスは大笑いしたが、ソンマはその姿を見た事がなかったので
「そうなんですか?さっきは凄い驚いていたので逆に私が驚きましたよ」
とこれも苦笑いで応じた。
「よし。これで処方薬が扱えるようになったな。正直、ここに病人が直接来られても製薬の邪魔だからな。ちゃんと診て貰える人が出来て良かった」
「そうですね」
「じゃ、俺は隣の現場に行って親方に病院の建設もお願いしてくるよ」
「承知しました。私も作業に戻ります」
ルゥテウスは隣の役場建設現場に向かった。
****
更に時は過ぎて12月30日。3038年も今日で終わりだ。キャンプでは藍玉堂の隣に「役場」が建った。広さは幅が藍玉堂よりも大きい約30メートル、奥行きは20メートル。
区画として藍玉堂と綺麗に揃っており、地上二階で地下も一階層あるが、地下は独身職員の住居とされ、更に東隣の藍玉堂と地下通路で結ばれた。
以前《赤の民》の土竜酒場にも地下通路があったが、あれは万が一の際の脱出ロとしての性格が強く、普段の利用は殆ど無かったが今回の場合の主な用途は普通に藍玉堂への移動に使われる。
尤も、通路はルゥテウスによって結界が施されており、それを認識して通過が許されているのはルゥテウスから自分の愛用品に念話の付与をされた者だけで、通路自体も他の職員の目に触れないような場所からの出入りとなる。
一階はキャンプ運営の為の様々な手続きや住民からの相談窓口が設置され、二階にはそれらを処理する部屋と、奥には市長であるイモールの執務室と、更には居室もあった。つまりイモールはこれまでのようにラロカではないと繋ぎがつかないような住所不定の生活では無く、この役場に腰を据えて暮らす事になったのである。
藍玉堂と同様にルゥテウスが内装や備品を取り揃えたので、入居してきた職員もザワつくような機能が揃っていた。
特に地下の職員寮はしっかりした広さで幅3メートル、奥行き5メートルの個室で中央から男女に別れており、フロアの中央には談話スペースまである。
そして浴室も男女別に設置され、それぞれが複数人で使用出来る程に広い。藍玉堂と同じく常に水と湯が出る蛇口も設置され、照明はランプの灯では無く、職員も正体が分からない器具が天井に埋め込まれていて、壁のスイッチに手を触れると自動でランプよりも明るい白い光が点いたり消えたりするという物で、それが全室に設置された。
浴室の湯も常に適温となっており、循環して綺麗な物になっていた。
壁紙も白い物が貼られて、躯体の内側だけならば王宮や大貴族の邸宅と変わらないような美しさで、これまで贅沢な暮らしをした事の無かった職員一同を逆に怯えさせた。
苦笑いする市長とこれまで土竜酒場ですら滅多に見た事の無かった統領が優しく微笑みながら
「これまで皆さんには苦労をお掛けしましたね。今日からはここにお住まいになりながら引き続きキャンプの皆さんの暮らしを守って下さいね」
と訓示すると、打ち震えて泣き出す者まで出ていた。一階の奥は職員の食堂になっており、料理の出来る住民が賃金で雇われて配給と同じ素材を使って食べられるようになった。
後にこの調理人達は、隣の薬屋に住む不思議な幼児が頻繁に持ち込んで来る様々な食材を受け取る事になり、その献立に頭を悩ませる事になる。
そして藍玉堂の面々もいつの間にか、この役場の食堂で何食わぬ顔をして職員と一緒に食事を摂るようになった。
職員は最初は怪しんだが、イモールやラロカも一緒になって歓談しながら食べている為に気にならなくなり、更にその中の幼児が「店主様」と呼ばれてイモールやラロカ、そして時折ドロスまで来て丁重な態度で一緒に食事を摂っているのを見て、「あの方は特殊なのだ」と認識するようになり、食堂や階段ですれ違うと挨拶をするようになった。
美しい幼児も必ず笑顔で挨拶を返してくるので、たちまち女性職員から人気者になってしまった。
「どうされますか?予定では次の工事は鍛冶場と資材加工場ですが、病院を先にしますか?」
役場の食堂で昼飯を食べながらラロカが尋ねてきた。鶏の足のグリルを手で持って齧っていたルゥテウスが
「オルト先生はまだ体力が戻らず本調子では無いから、病院の開院はまだ先なんじゃないかな。鍛冶屋でいいんじゃないか?もう人員は揃ってるんだろう?」
「はい。鍛造や鋳造それぞれ併せて20人の経験者が運営を申し出てくれました。店主様」
ルゥテウスの横で今まで食べた事の無い柔らかいパンをビックリしながら食べていたロダルが応えた。
彼は本来、藍玉堂の従業員なのだが現在のこの段階では役場に出向して副市長であるラロカの下で人材確保と土木普請を担当している。
そして彼に人材情報を提供しているのが、ルゥテウスの向かい側で熱々のスープを恐々と啜っているノンである。
「まだ他にも居そうなのか?ノン」
ルゥテウスが尋ねると、少し眉根を寄せて困った顔をしたノンが
「はい。聞き取り調査記録の確認はまだ半分くらいでして……もうお亡くなりになられていらっしゃる方のものも混じっていますから」
「ノンからの情報で話をしに行ったら既に死んでたって人も結構居ました」
ロダルが苦笑しながら言った。
「まぁ、そもそもが手に職を持ってる人ってのは第一世代だからな。こちらに渡って来た時点で結構な年齢って場合が多いだろ」
「なるほど。鍛冶屋をやっていたと言う死んだ私の父も30代半ばでこちらに渡って来たと生前に聞いた事がありましたぞ」
ラロカが自分の体験談として話す。
「単身だったんだろ?そんでこっちでお前の母と出会ってお前が産まれたってんなら、やっぱり結構年齢が行ってるよな」
「はい……その頃はまだ統領様がこのキャンプの創設をお考えになる前でしたから、父はここに入る事無く、鍛冶師として再起する事も無く亡くなりました」
「うーん。事情が事情とは言え、大きな損失だよな。キャンプに入っていればもっと長生き出来た可能性だってあったわけだろ?」
「そうですな……結局、父が亡くなったのは残された我々がキャンプに入る10年前でしたから……そう考えると母は幸運でしたよ」
「なるほどね。そういや、お前には弟が居たよな?結婚してるんだっけ?」
「はい。お陰様で子供を二人も作りまして。一人は今《青の子》で修行中ですな」
「おぉ。そうなのか。もう一人は?」
「はい。娘……私にとっては姪になるのですが、サナと同じ歳ですから年が明けて3月で15歳になりますな」
「弟は何かやってんの?」
「いや、手に職があるわけでも無く……」
「だったら、その諜報員やってる甥か?そいつを除いた残りの三人家族で領都の藍玉堂支店で家族ぐるみで販売をやってみるか?
本物の家族なんだから偽装も何も無いし、息子は諜報員になるわけだから」
「えっ?そんな事が……」
「いや、だってウチも現状で支店に人は出せないぞ?こいつらを見ろ。お前ら役場の手伝いに駆り出されてるじゃねぇか」
ルゥテウスが大笑いすると、ノンとロダルも苦笑いして、ラロカも恐縮の顔になった。
「な、ならば……今夜にでも弟に話してみます」
「おぅ。出来れば明日ここに連れて来いよ。一家三人でな。監督には俺が話す」
「あ……ありがとうございます」
ラロカは頭を下げて震えている。ラロカ本人がこの年齢なのだから、弟だってそれなりの歳なのだろう。
そんな年齢になるまでキャンプの外では差別によって碌な仕事も貰えず、時折キャンプ内の普請を手伝うばかりで甲斐性無く過ごしてきたのだろう。
弟一家の行く末がこれで明るくなり、兄として、伯父として嬉しくなったラロカはルゥテウスに感謝しつつ涙を流した。
「いやいや……そんな事で泣くなよ……。ほら、周りの職員さんも見てるぞ。全く……歳を取ると涙脆くなるって言うのは本当なのか?」
ルゥテウスが困惑したように言うと、ノンとロダルが吹き出した。
ラロカは鼻を啜って涙を指で拭いながら
「そう言えば、監督が訓練場の南側の森を訓練生に新たに拓かせて、そこで羊の飼育を始めたいと昨日念話で言ってきました」
「本当か?」
「はい。訓練生に羊を育てさせるのだとか。まぁ、我々もそれは本場の修行時代に散々やった事なので……」
「なるほど……その伝統だけは《赤の民》から受け継ぐと……?」
「いや……我々の時は命が懸かってましたが……別に羊飼い自体は諜報や暗殺と何も関係ありませんからね」
「そうなのか……まぁそうだよな」
ルゥテウスが苦笑した。
「じゃ、ちょっとエスター大陸から羊を番で買ってこないとな」
「店主様。羊を番で購入される場合は、一組だけでは駄目です。最低でも五組。十頭は入れないと。それも同じ群れからでないとお互いが争い始める可能性があります」
「そうなのか?」
「はい。そして一組の番だけから増やすと、その子孫の体が弱くなる事が多いのです。これは私も長老に教わりました」
「なるほど。劣性遺伝子の強調か」
「それはどう言う事ですか?」
「人間で説明すると、お前と弟はまぁ顔が似ている部分もあるだろ?鼻の形でもいいし耳の形だけでもいい」
「はい。私と弟は目元が父とそっくりだと母が言ってました」
「つまりそれは父親からお前ら兄弟が遺伝によって特徴を受け継いだ事なんだよ」
ルゥテウスは劣性遺伝子と先天性の病気の関係を解り易く説明した。但しパンを齧りながらだが。
「なるほど……そう言う理由だったのですか。長老はそれを御存知だったと言うわけか……」
「まぁ、連中も《赤の民》を始める前から何千年も羊を飼ってたから体験としてそう言う事が多いのを言い伝えてきていたんだろうよ。奴等だって生活が懸かってるわけだしな。そりゃ必死に伝えるだろ」
ルゥテウスが笑うとラロカも「なるほど」と笑った。
「じゃ、監督に飼育場というか牧場か?が出来たら報告するように伝えてくれ。俺が市長を赤の民の所に連れて行って買わせるから。俺が一人で行っても5歳児だから相手にしてくれなさそうだし、姉代わりのノンと行ってもやっぱりそんな姉弟に羊を売ってくれるとは思えないしな」
ルゥテウスの言葉にノンが赤くなって俯きながら「そうですね……」と小声で呟く。
「ロダルは訓練生の皆さんに必要な資材を提供してやれ。あそこにある資材は全てお前の裁量で動かしていいからな。いちいち俺に許可の念話を入れるなよ」
「はい。了解しました」
ロダルが応じた。
ラロカは食事が終わるとすぐにドロスと念話で連絡を取り、羊の件がルゥテウスに了承された事、飼育場で必要な資材はロダルに申し付ける事と、青の子の活動本部が設置されるオーデル市内に出店予定の藍玉堂の偽装店員にラロカの弟一家を推薦された旨を伝えて全て了承された。
ドロスにとっても、自分の所で修行中のラロカの甥の家族が入ってくれれば、偽装の質も上がると判断したのだ。藍玉堂支店の業務そのものは薬の販売だけなので、製造する程の知識は必要無い。
分からない時は店舗に設置された念話装置でソンマに聞けばいいだけの話だし、何よりも転送陣で一瞬で行き来が出来るのだ。
食事を終えたルゥテウス達がそれぞれの仕事に戻ろうとすると地下の階段からソンマとサナが上がってきた。地下通路を通って遅い昼食を摂るつもりなのだろう。
「あ、店主様」
サナの呼び掛けに
「おぉ。お前ら今から飯か?」
「えぇ。漸く薬の加工が一段落したので」
ソンマが応じた。
「そうか。あ、そうだサナ」
「はい。何でしょう」
「今まで仮事務所に使ってたあの長屋な。お前、おっかあを連れて引っ越して来い。通勤が楽になるだろ?」
「え!宜しいのですか?」
「あぁ。もうノンも住んでいないからな。どうせそのうち区画整理でまた移る事になるけど、新しい長屋になっても入居権は元の場所からの住民が優先されるからな。今のうちに引っ越しておけよ」
「あ、ありがとうございます」
サナは頭を下げた。「おっかあ」ことアイサは既に肺病から快癒しており、最近は近所を散歩出来るまでに回復していた。サナが母の看病から解放されて藍玉堂へ出勤し始めると、帰りに店長が回復薬をお土産に持たせるので、それを服用させる事で回復速度が早いのだ。
「引っ越す時は念話を寄越せ。お前の長屋とあの部屋を転送陣で繋いでやる」
「何から何まで……」
「じゃあな。ちゃんと飯食ってしっかり勉強しろよ」
「はいっ」
ルゥテウスはそう言うと階段を下りて行った。彼に挨拶をして返された女性職員がニコニコしている。全く不思議な御方だと……サナは改めてその小さな後ろ姿を見送った。
午後のルゥテウスはキャンプの東側、彼が既に空堀を掘ったレレア川へと続く予定排水路の向う側に沿って建てられる鍛冶屋の敷地と普請資材の加工工場の縄張りをラロカと行った。
そして更にその場所に羊毛加工工場も追加で建設する事が決まり、どうせならと紡績全般を行えるものにする事で調整が決まった。
ラロカは既に藍玉堂と役場の建設で、建築作業の監理に慣れたのか大まかな図面を自分で作成し、それにルゥテウスが詳細を書き込むという形で縄張りを開始した。
この工業地域は《青の子》の訓練場の南側に当たり、この地域の更に北東側、資材置き場のすぐ南側に羊の飼育が行われる牧場が造られる。
ルゥテウスとロダルのコンビで進めている区画整理も、最初に着工された一番北側の区画は既に躯体が完成し、住民が今まで見た事の無いコンクリート造りの二階建て長屋が東西に10棟建ち並んだ。
作業は現在、風呂場周りの設備と排水溝、それと道路の舗装が進んでおり、これが完成すると最初の住民移転が開始される。
実はサナの家もこれに含まれているので、ルゥテウスはこの機会に藍玉堂に程近い旧仮設事務所の部屋への転居を勧めたのだ。あの場所ならばサナも通勤が楽になるのと、藍玉堂には兄二人も住み込んでいるので家族四人が近所で暮らせるのである。
また、アイサは昔の経験で料理が出来るので役場の食堂で働くと言う。将来的に藍玉堂の従業員が全員復帰する際には藍玉堂の二階にある台所設備を使って従業員一同の賄いをやってくれるのだそうだ。
「じゃ、俺は今夜中にその三ヵ所の基礎穴を掘っておく。明日から三日の間は新年休みにしていいから、四日から建設を始めてくれ。資材置き場との間の森を切り拓いて道を造っておく」
「承知しました」
「それと区画整理で北側の境界線が確定したから、貯水池の周辺を農場にしたいんだがどう思う?」
「なるほど。貯水池を農業用水に利用出来ますな」
「そうだな」
現在、キャンプで暮らしている難民のうち、本人がエスター大陸から逃れて来た「第一世代」の者は約4500人居り、その大半が成人であった。
彼らは逃避行の前に何かしらの職を持っていたので現在のキャンプにおいては「宝の持ち腐れ」として暮らしていた。
そしてノンの調査ではそのような者達の中で最も多かったのが農業従事者、つまり「農民」である。彼らの経験と技能を活用しない手は無い。
彼らに対して超古代文明時代の合理的な農学知識を授けて農産品が増えれば、キャンプの食糧自給は一気に改善する。
酪農を営んでいた者も居るようなので、青の子の羊牧場とは別の家畜牧場をやらせてもいい。ルゥテウスの当面の課題は、とにかく住民に職を与える事。そして賃金を渡して経済を回す事。
彼はその気になれば何トンもの貴金属を手にする事が出来る。将来的にはそれを使ってキャンプ内でのみ通用する貨幣を流通させてもいいと思っている。
「店主様。実は私に一つ提案がありまして」
「ほぅ。何だ?」
ラロカの言葉にルゥテウスは身を乗り出して聞いた。
「本日、役場が開所した事で一階に住民の相談窓口が併設されたのですが」
「あぁ。そうらしいな。シニョルの提案だって?」
「はい。統領様が勿体無くも我ら住民をお気遣いになられて、あのような窓口を設置して頂いたのですが……」
「うん。いかにもシニョルらしいよな」
ルゥテウスは笑った。
「あの窓口に就職相談もやらせてみては如何でしょうか?」
「え?」
「ノンに台帳を調べさせて、その都度勧誘をしに行くのと同時に、住民側からも自発的に自分の持つ職業経験を基に相談出来るような窓口を設けるのです」
「おぉ!そう言う手があったか!流石は伊達に歳を食っちゃいないな!」
ルゥテウスはラロカの発想に驚愕しながらも絶賛した。「年の功」を賞賛されたラロカは微妙な表情をしながら
「いや……私も以前は土竜酒場の店主役として組織の窓口になっていたものですから……その経験で統領様の窓口設置の御提案を目にして……」
「是非やろう。いや、今すぐやろう。お前は縄張りを続けていてくれ。俺は市長に掛け合って今日中にその窓口を設置させる」
「集会場経由で告示すれば配給を通じて住民にはすぐ伝わりますから……」
ラロカは更に助言を付け加えた。
「ありがとう!よしっ、後は頼むぞ!」
そう言うとルゥテウスは消えた。
ラロカは苦笑しながら工業地域の縄張りを図面に書き入れる作業に戻るのだった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。5歳。史上10人目となる賢者の血脈の完全なる発現者。難民キャンプの魔改造に取り掛かる。
シニョル・トーン
51歳。エルダ専属の女執事。戦時難民第三世代。エルダの実家から婚姻に同行して以来の腹心。エルダの闇と秘密を守る名目で同胞の保護を始める。同胞からは《統領様》と呼ばれている。念話がすっかりお気に入りに。
イモール・セデス
49歳。戦時難民第一世代で暗殺組織《赤の民》の領都支部をオーデルに創設し、《支部長》として束ねる男。性格は穏やかで理知的。
ラロカ
52歳。戦時難民第二世代で《赤の民》領都支部創設に向けて本場の組織より暗殺技術を学んで持ち帰った男。《親方》と呼ばれる。
ソンマ・リジ
25歳。戦時難民出身で初めて魔法ギルドに入門し、錬金術を修めた初級錬金術師。《赤の民》へ術符を提供してしまった為にギルドから追われる身となる。難民キャンプで薬屋を経営することを決意する。
ドロス
44歳。戦時難民出身でかつてラロカと共に《赤の民》の本場に渡り、諜報術を学んで持ち帰った男。真面目一辺倒な男で《監督》と呼ばれる。
ノン
17歳。《赤の民》領都支部建物にて職員を務める女性。美人だが気が小さい。幼児である主人公の姉役を偽装する担当になる。
キッタ
32歳。《赤の民》領都支部建物にて職員を務める男性。眼鏡が特徴の実直な男。
ロダル
28歳。キッタの弟。《赤の民》領都支部の新米暗殺員。暗殺員としての失業に伴いソンマの薬屋へ兄妹と共に転職する。
サナ
14歳。キッタの妹。術師の素養を持った女の子。