封印
今回から三人称視点です。多分しばらくそうなる……はずです。
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日弱という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。
ユーキは地面に這いつくばりながら、必死で叫んでいた。
「やめろっ!やめてくれっ!俺は!俺はどうなってもいいから!」
腕が切り飛ばされた右肩の切り口からは、今も大量の血が流れ続けているが、痛みそのものはもう麻痺してしまいそれ程感じなくなっていた。
しかし目の前では背後から小男に両手で首を締め上げられている愛する妹の孫……ルゥテウスが最早両目を閉じて意識を失っているように見えた。
腰を刺されたと言う妻は自分の右側で転がっている。もう殆ど身動きをしていない。
「その子……その子だけは勘弁してくれっ!その子はもう……誰も残っていないんだ……俺が死んでもまだ近所の人達がその子をっ!」
「うるさいね。アンタは。もう片手がちょん切れているんだから大人しく死んでおけよ。こんなに血を撒き散らしやがって」
自分の腕を後ろから斬り飛ばしたスーツ姿の男が不機嫌そうにユーキの腹を右足のつま先で蹴り上げた。ユーキは苦痛に顔を歪めながら体を「く」の字に曲げて呻いた。
「全く……お前らのせいでこっちは二人も死なせてしまったんだぞ?俺達はなァ!替えがなかなか利かないんだよ!お前らみたいな雑魚と違って一人失ったら取り戻すのが大変なんだよォ!」
スーツの男……《赤の民》の0番は自分の読み違いで裏口からの侵入直後にラミアと鉢合わせてしまい、計画が狂ったまま裏庭へ退く過程で裏口脇に隠れさせていた虎の子の6番と7番をユーキ夫婦によって喪ってしまった。
自分が手下を率いた任務で二人も暗殺員を失ってしまったのは大きい。自らの口で言った「替えが利かない」と言うのも本当だが、彼の本音としてはこれで支部における自分の評価が下がってしまうという事だ。
それだけに余計に腹が立つ。本来ならば大人二人にガキ一人。造作も無いはずだった。こちらは暗殺員を六人も動員した上に《術符》まで使っているのだ。その術符の力で今のところはこれだけ大きな音を出していても全く問題無いのだが、それでも予想外の被害に普段の冷静さもどこかに吹き飛びつつあった。
「おらァ!5番!いつまでそんなガキを相手にしてるんだ!さっさと殺せ!そのまま吊り上げて首の骨を折ってしまえッ!」
「やっ!やめてくれっ!俺はいいっ!俺はいいからそいつだけはぁぁぁ!」
ユーキが再び叫んだ。俺達はここで殺されるのか。ついさっきまで……今日も料理を全部売り尽して……ルゥに夜飯を持って行って「ありがとう」と笑顔でお礼を言われ……それなのに……
「ら……ラミア……ごめんよ……やっぱり俺は呪われていた……俺のせいでお前まで……る、ルゥまで……」
出血のせいか、ユーキの意識も段々と遠くなり……
しかしその時……
うううううううぉぉぉぉぉぉ!
うぅるぅぅぅぅあぁぁぁぁ!
おぉぉぉぉぉぉぉあぁぁぁぁぁぁ!
ユーキは薄れかけてた意識をほんの僅かに取り戻した。ルゥテウスが叫んでいる……と言うよりも吠えている……あんなに普段は無表情で無口なはずのあいつが……
うぅるぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
そして……自分の目を疑った。
ルゥテウスの頭上に、今まで見た事の無い何か紫色に光り輝く円形の模様が浮かんだ。直径4、5メートルはあるだろうか。巨大な円形の中に……文字か?そう言うものが描かれゆっくりと回転する《円盤》が。
この暴漢達は気付いていないのか?あれだけ明るく輝いている円盤が……今奴らが首を締め落として命を奪おうとしているあの幼児の頭上に……そして……
円盤に次々とヒビが入り始めた。そのたびに何かが砕けるような音。硬い……皿を落として割った時のような……
パッキィィィィィン……
すぐに別の場所にヒビが入って割れ散る。
パキィィィィィン……
ヒビがどんどん増えて、円盤がどんどん割れていき……とうとう
パァァァァァァァァァァァァァァン!
円盤の残り部分が砕け散って、光の破片は庭の空に消え散った。
……。
……。
……そして変化が訪れた。
いくつかの事が同時に起こった。
まずは今までルゥテウスが地面に置いたランプだけの薄暗い光だけだった庭全体が、急に明るく……空が明るくなった。しかしこの明るさは昼の日の光に似ているが、淡い緑色のエメラルドを通した太陽の光のような……そんな色の空になり……。
それと同時に自分の右肩に僅かに感覚として残っていたズキズキとした痛みが……治まっていた。相変わらず意識は遠のきそうにダルいのだが、何かもの凄く気持ちの良い感覚になり……。
気が付くとユーキは自分の倒れている場所の地面に、先程ルゥテウスの頭上で輝いていたような紫色の円盤の模様と似たような青いそれが描かれ、その光り輝く円盤の上で寝かされている事に気付いた。更に驚く事に、自分の横にはいつの間にか妻も寝かされており、薄く目を開けていた。どうやら意識を取り戻したようだ……。
「あぁ……あぁ!ラミア……!」
「えっ……アンタ……あたし……どうして……刺されて……」
ラミアも混乱しているらしい。その二人の困惑を別の叫び声が遮った。
ギャァァァァァァァ!
「う、腕がぁぁぁぁ!腕がぁぁぁぁぁ!離れないぃぃぃぃぃ!」
「あぁぁぁついぃぃぃぃ腕がぁぁぁぁ焼けるぅぅぅぅぅ!」
ルゥテウスの首を締め上げていた5番……元々は入口側に伏せている予定だったのだが、裏庭からの悲鳴を聞いて自分の持ち場から裏庭に足を忍ばせて戻ると、同胞の……7番が倒れている向う側で幼児が地面にランプを置いてこちらに背中を向け屈んでいるところに背後から近付いて首を締め上げていたのであるが……。
首を締め上げて吊り上げたところで幼児が雄叫びのような声を上げ始め、同時に空が明るくなったと思ったら幼児の首を絞めていた自分の両手が燃えている事に気付いた。
慌てて幼児を離そうとしたが手が離れないのである。5番は猛烈な熱さと痛みに喚き続けて、近くに居た0番に助けを求めようとそちらを見たが、0番も、その後ろに居る3番と4番も信じられないと言うような顔をしたまま動かない。
「あついぃぃぃぃぃ!助けてぇぇぇぇぇぇぇ!」
ようやく腕が離れた。5番は勢い余って後ろにひっくり返ってしまった。そして自分の腕を見て更に悲鳴を上げた。5番の両腕は肘の辺りで燃え尽きており、骨らしきものが真っ黒く燃え口から突き出していた。燃え口というか、切り口のようになっている部分は明るい空の下で見ると炭化しており、最早出血もしていなかった。
海鳥亭の庭に居る全ての者の目は……5番の手が離れて地面に下り立った幼児に注がれた。
幼児のその様子は……髪は真っ黒になっていた。決して5番の腕を燃やした炎が燃え移ったわけではない。そう言う黒さではなく……淡い緑の明るい空の下で……真っ黒であった。
そして幼児は目を開いた。この場に居る全ての人間は、幼児は右目を盲ているものと思っていたのだが……幼児は「両目」を開いた。
そして、その両目の瞳は……その髪と全く同じように真っ黒だったのである。
「伯祖父上、伯祖母上……このような場に巻き込んでしまい申し訳ございません」
幼児の口から出た言葉は……これまでの「鈍い」印象とは全く違う……しっかりとした子供離れした言葉使いであった。
「お二人の傷口は既に治しましたが、いかんせんお二人とも血を多く流し過ぎてしまっております。誠に恐れ入りますが、今暫くその《回復陣》の上でお休みになって居て下さい。その上に居る限りはお二人とも安全でございます」
ユーキとラミアは今はハッキリと意識を取り戻していた。何しろ傷の痛みが無くなっているのである。ルゥテウスの言葉を聞いて自分の受けた傷を見ると……ユーキの腕は繋がっていて、ちゃんと動いている。
「こっこっこれは……ルゥ……お前が……お前がやったのか?」
「はい。今少しお待ち頂けますか。このゴミ共を始末致しますので」
そう言うとルゥテウスはまず両腕を焼かれてもがき転がっている5番に向かって軽く手を振った。
5番は一瞬急激に膨らみ……体が膨らんだのである。そして破裂した……と思ったら、その破片ごとどこかに消え失せていた。続いて、ルゥテウスは見向きもせずに6番と7番の遺体も同様に「パァン!」という音と共に破裂させ、その破片はその場でどこかに消え失せた。三人共、明るい空の下で見る限り、既に流していたものも含めて血が一滴も残されていない。
残された赤の民は我が目を疑った。同胞の体が……三人の同胞の体が弾け散った上に消え失せたのだ。消える直前、明るい空の下で確かに急激に膨らんだと思ったら、袋が破裂するように乾いた音を発てて弾け散ったのに……その破片すら残っていない。
0番と3番と4番の三人は本能的に裏木戸に向かって逃げた。既に裏木戸の前に居た1番と2番も同様である。鍵は開いているのでノブを回して引くだけのはずだ。しかし開かない。1番は半狂乱になって裏木戸をドンドンと叩いた。
「貴様ら、自分で結界を張ったんだろ?どうやら魔導師や魔術師は居ないようだな。大方、術符でも使ったか。お前らみたいなチンピラが持ってていい物じゃないんだよな」
ルゥテウスがよく通る声で裏木戸の辺りで必死に戸や塀を叩いたり登ろうとしている赤の民に話し掛けた。
「さぁて……今すぐ全員ブチ殺してやってもいいが……ちょっと聞きたい事が沢山あるな」
0番が喚いた。
「クソっ!おかしいっ!結界はとっくに解除しているのに……なんで出られないっ!?」
「お前……今の空を見て分からんのか?お前の張ったチンケな結界なんて、とっくに俺の結界で上書きしているんだよ」
「俺の結界を破れる奴なんて、今のこの星の上には存在しないぞ?」
「ふむ……とりあえず邪魔だな」
ルゥテウスは軽く右手を払うと、五人のうち、0番と1番を除く三人が先程と同様の破裂音と共に弾け散って消えた。
「さて……お前らは何者だ」
残りが二人になったところでルゥテウスは尋ねた。見た目はパジャマを着た5歳児だが、髪と両目の瞳は見た事も無いくらい真っ黒く、その美しい顔に浮かぶ両瞳には全く感情が浮かんでいない。
何しろ、まだ真夜中のはずなのに空は薄い緑色で昼と同じくらいに明るいのである。明らかにこの場所だけがこのように変化しているのだろう。そしてその明るい空の下で見る彼の表情には全く感情が見られない。
これは怖い。既に八人の同胞のうち、為す術なく四人が消され、二人の死体も血痕すら残さず消えていた。
「し……喋らん。俺達は死んでも喋らん」
辛うじて0番が声を振り絞った。
「そうか。それでは最後の機会を与えてやる。そこのお前。お前らは何者だ」
最早質問するニュアンスですら無い。返事をしなければ確実に他の六人と同じ運命を辿る。
0番は、ルゥテウスを直感的に《魔術師》であると見た。自分の術符を上書きし、5番の腕を炭になるまで燃やし、そして消し去った。これまで見たどんな暗殺技術にも当てはまらないし、何よりこの真夜中に緑色の明るい空だ。既に現実感など消し飛んでいる。
0番はルゥテウスに聞かれている1番を見た。彼は必死になって恐怖を抑え込んでいる様子だ。どのみち夜中に押し入った挙句に彼の家族にあそこまでの重傷を負わせたのである。自分達の運命は他の六人と変わらないだろうと腹を括ったのか。無言を貫いている。
自分が出発前に下した命令を忠実に守ろうとしているのか。
「そうか。それではお前の頭に直接聞くかな」
そう言ってルゥテウスは赤の民二人がその目に捉えられない程の速度で1番の目の前に移動し、左足を払って彼を転倒させた。そして倒れ込んだ1番の頭に左手を伸ばした。
グシャ……
恐ろしい事にルゥテウスの左手は1番の額を突き破って頭部に突き入れられた。
「ふむ……赤の民……」
0番はこの光景を見て戦慄した。なんとこの幼児は1番の頭に手を突き入れて脳から直接情報を読んでいるように見える。これ以上読ませるわけにはいかない!
「やめろ!」
0番は勇気を振り絞って右手の小剣を幼児に振り下ろした。
「うるさいな。今尋問中なんだよ。邪魔をするな」
幼児は振り下ろされる小剣すら見ていなかった。0番は右腕を振り下ろし……そしてその右腕が自分の視界の中で小剣ごと焼き切れるのを見た。そして凄まじい激痛が走るのを感じた。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁ」
今夜、何度目の悲鳴だろうか。0番は右腕を抑えて喚きながら転がり回った。
「全く……静かにしろ」
0番を一睨みすると彼の残された左腕と両足も焼き切られた。0番は更に喚き散らしたが……やがて痛みで気を失ったようだ。彼の両手両足は5番の腕と同じく炭化するように焼き切られたので出血も無い。
ルゥテウスは本来これ程残虐な性格では無いのだが、覚醒した事によって血脈の記憶を全て獲得し、封印を解除する過程でリューンの視点から見た母の悲しい境遇を体験し、執拗に繰り返される襲撃とその理由に対する怒りが頂点に達していた為、この襲撃者とその首謀者に対する人道意識など欠片も感じなかった。
ルゥテウスは1番の脳から直接情報を引き出し、この連中が《赤の民》と呼ばれる暗殺組織である事。元はエスター大陸から逃れてきた難民である事。《赤の民》の本拠が領都のスラム街にある事。《親方》や《支部長》、《統領》や《御館》と呼ばれる上位の存在が居る事。今回の襲撃の指揮は、そこで両手両足を炭にして転がっている男である事を始めとして、1番が知り得たこれまでの偵察の経緯や術符の事まで関係する情報を全て引き出した。
ルゥテウスは1番の頭部から左手を引き抜くと、1番はピクピクと痙攣した後に絶命した。それを見て1番の死体も弾け散らす。引き抜いた左手に付着していた1番の血や脳漿も綺麗に消え去った。
横で気絶して転がっている唯一の生存者である0番を見下ろして、
(まぁ、こいつは逃げられないだろうからこのまま転がしておくか)
と放置する事にした。
そのまま今度は伯祖父夫妻の下に歩み寄る。
ユーキとラミアは、ルゥテウスを見て茫然としていた。
「ルゥ……お前」
「話すと長くなります。このままでは何でしょうから部屋までお運びしたいのですが、私もまだこんな小さな体なのでお二人を直接お運び出来ません。失礼致します」
そう言ってユーキとラミアの体に両手で触れると一瞬にして二人の寝室に瞬間移動した。
二人とも出血が多過ぎてまだ身動きが上手く出来無い。先程代謝を促進する回復陣の上に安置したが、何しろ短時間の事だ。
「着衣のままで恐縮ですがご容赦下さい」
そう言うとルゥテウスは夫妻の体を一人ずつ軽々と持ち上げてベッドに寝かせた。
「さて。実はもうお別れしなければなりません。私はもうここに住む事は出来無いでしょう。何しろこんな外見ですしね」
「おま……貴方は一体誰なんです?」
ユーキが改まった口調で尋ねた。
「私は……あなた方ご夫婦が知っているルゥテウスですよ。ローレンとミムの娘、アリシアの産んだルゥテウス・ランド。父親はあの愚かなジヨーム・ヴァルフェリウスですが」
「いや……しかしルゥは……」
「そうですね……ではヴェサリオと言う人物をご存知ですか?何やら後世の人々には《黒き福音》などと呼ばれていますが」
「ええ。《黒き福音さま》ですよね?吟遊詩人の歌とかお芝居とかに出て来る……あっ!その髪と……目……」
「そういう事です。私はヴェサリオの子孫に当たります。彼はこの国が作られた時に最初の王の妹との間に子を作って姿を晦ましました」
「《大王》さまの妹さま……《国母》さまの事ですか?」
ラミアが国民の大半が知っている建国神話の知識の中から答えた。
「はい。その国母とヴェサリオとの間に生まれたフェリクスという者が初代ヴァルフェリウス公爵という人物ですね」
「あっ……ヴァルフェリウスって……」
「そうです。私はあの愚かなジヨーム・ヴァルフェリウスから、そういう遺伝を受け継いでしまいまして」
「伯祖父上……申し訳ございません。伯祖父上は、あの男が大嫌いでしたよね」
「いやいや。あいつは嫌いだけどルゥの事は大好きだから」
「そうですか……ありがたい事です。私は生まれた時に母と死に別れ、祖父の手で育てられました。そして……あなた達からも愛されて育てて頂きました」
「ルゥ……」
「私は生後間もなく魔法で頭の中と右目を封印されていたのです。なので最近まで頭が働かなくて魯鈍に見えていたと思います」
「頭の中って……あぁなるほど……。そう言う事だったのか」
「そうだったの……」
ユーキとラミアはルゥテウスの話でようやく合点がいったようだ。
「祖父が目の前で亡くなった時、今言った封印の一部が壊れて、少しだけものを考える事が出来るようになりました」
「あぁ……あの日から急に賢くなったように見えたのはそういう……」
「はい。そして先程、あの連中に殺されかけて漸く封印が全て解けたのです」
「伯祖父上、あなたがあの時、危険を顧みず助けに来てくれたおかげで封印を解く切っ掛けが掴めたのです。御礼申し上げます」
「とっ、とんでもない……ですよ。俺らなんて逆に死ぬところを助けて貰って……」
「いえ、元はと言えばあの連中の黒幕が母や私の命をしつこく狙って来ていたのが原因です。私を引き取ったせいで今回はあなた方お二人まで標的にされてしまったようです。重ねてお詫び申し上げます」
ベッドに寝かされた夫妻は困惑していた。昨日まで片言の鈍い口調で話していた幼児が、凄まじい威圧感を放つ髪と瞳の色に変わり、話す言葉まで全く違うものになっているのである。これを同一人物として見るのは無理があり、封印の話で多少は合点が行ったところでどうしても目の前の幼児の変貌ぶりは受入れ難いものがあった。
ルゥテウスは自分の賢者の黒が夫妻に威圧感を与えている事に気付き、少し微笑みながら目を閉じて集中すると……
髪の色が元の金色に戻り、両目の瞳の色は姪も同じであった《鳶色》に戻っていた。右目もである。
「あぁ……その色だ……ルゥだな……」
「そうね……。ルゥちゃんだわね」
夫婦は少し涙声になりながら安心したように言った。
「申し訳ございません。少々驚かせてしまっていたようです」
夫婦の驚きは少々どころでは無いのだが、ルゥテウスは謝罪した。
「さて。これまでの私の事情はご納得頂けたかと思います。そこで本題です」
「私はこのように自分の力を取り戻した以上は、先程も申し上げましたがこの家にこれ以上住まう事は出来ません」
「な……何故だ?」
ユーキが慌てて聞き返した。
「私がこのような形で能力を持ったのは、あの愚かなヴァルフェリウス公爵家の血筋として実に700年、私と同等の能力で言うならばそれこそ先程話に出た《黒き福音》ヴェサリオ以来3000年振りの事なのです」
夫妻は突然、スケールの大き過ぎる話を聞かされて茫然とした。
「なので、私のこの能力を巡って色々と良からぬ連中がちょっかいを出してくる可能性があります。今回の襲撃もその一つです」
「そうなのか……」
「なので、私はあなた方を始めとしてこの町に住む大恩ある皆様をこれ以上巻き込まない為にもこの町を去る必要があるのです。それに……」
「それに……?」
「伯祖父上がいつも嘆いていらっしゃった《呪い》。私はこの呪いに対して報復する必要があります」
「呪いって、それはだって……あの」
「解っております。諸悪の根源はヴァルフェリウス公爵家です。私はあの家の連中に我らが一族の苦しみと呪いに対して『償わせる』つもりです」
「だってあの家はお前の……」
「ええ。今では私にとっての実家に当たる場所になるのでしょうか。しかし私はあの愚かな公爵に認知されておりませんし、それを受けるつもりもございません」
「また、私をこの世に送り出す切っ掛けになってくれた事は承知しておりますが、あの公爵家が母に行った仕打ち、祖母や曾祖父母の皆様に与えた苦しみ、そして祖父を死に至らしめた愚かな行為。その全てにおいて彼らを許す事が出来ません」
「私はランド家とヘンリッシュ家の無念を晴らしたいのです」
ルゥテウスははっきりと宣言するように言った。
「あの連中には我らが一族の苦しみを同じように味合わせます。この報復を終えましたら、必ずここに帰って参ります」
「そうか……帰ってきてくれるんだな?」
「はい。誓って」
「私達……いつまでも待っているわね……」
「そのお言葉、肝に命じておきます」
「それでは……近所の皆さんには『薬剤師の修行に出した』とでも言っておいて下さい」
ルゥテウスは笑った。ユーキとラミアはその笑顔にかつてのアリシアを重ね合わせた。
(あぁ、やっぱりこの子はアリシアの息子だ)
「それでは、失礼致します……そして……おやすみなさい」
ルゥテウスが右手をかざすと、二人は眠りに就いた。
さようなら伯祖父さん、伯祖母さん。
更にルゥテウスはかつてリューンがそうしたように右手を大きく薙ぐ様に振った。
するとパジャマから目の醒めるような真っ青で袖口と襟ぐりに金の縁取りがされた彼の体の大きさにぴったりのローブ姿になった。腰には金色で縁取られた黒色の帯が巻かれている。
彼は裏口から外に出ると裏口の戸に右手をかざし、鍵を掛けた。そして裏木戸の方に歩いて行き、裏木戸にも鍵を掛けると近くでまだ気絶して転がっている0番の髪を左手で掴んで引き起こした。
あれだけの騒ぎがあって、あれだけの記憶の旅をしたのに現実には2時間しか経過していない。ルゥテウスは苦笑いした。
そして左手に0番の髪を掴んだまま
「リューン。居るんだろ。出てこいよ」
と言った。
すると、ルゥテウスの目の前に少し白っぽい光を帯びながらプラチナ色の髪をした青い瞳、真っ赤なローブを身に纏った美しい女性が現われた。
女性は少しボヤけた存在で、実体が見えているとはいえ明らかに人間離れした存在に見えた。
「ようやくお前の前に実体で現れる事が出来た」
「俺はお前の目を通して、母の事や封印の事を全て見聞きしてきた」
「そうか……」
「お前の余計な煽りで母が封印なんていうバカげたものに憑り着かれて結局は命を落とす事になった」
「……」
「母の命を懸けた努力は無駄だったよな」
「……」
「命を懸けて……お前まで巻き込んで……それでもたったの5年だ」
「そして今日は死に掛けた。お前は母の行為をどう思うよ」
「確かに私は彼女に余計な事を吹き込んでしまったのかもしれない」
「ほぅ……それを認めるのか」
ルゥテウスは髪の色も瞳の色も賢者の黒に戻って、半眼になった。
「お前も見てきたと言うなら解るだろう?あの時お前の母はあの屋敷から出る事が出来なかった。その境遇の中で産まれて来るお前を護る為には封印しか無かったのだ」
「そうか?お前は生後間も無いヴェサリオに髪色と瞳の色を偽装する魔導を使用するように提案したんだろ?偽装なんて封印じゃなくても可能だったのではないか?」
「いや……私は歴代のヴァルフェリウス公爵家の出産を見て来た。いくら偽装を試みるつもりでも、産後の瞬間の様子は必ず他人に知れる。一度知られた後に偽装を施しても遅い。結局はお前が生後間もなくまだ体が動けない隙を突いてエルダの一派がお前とアリシアの息の根を止めに来ただろう」
「フン……まぁ良い。お前も母が自らの魂を触媒に捧げるなんていう《禁呪》を使うとは思っていなかったようだからな」
「当たり前だ。そのような術者の命を前提にするような術を私が許可するわけが無いだろう」
「解った。それは信じてやろう。しかし俺はお前を今のところはまだ赦せそうに無い。お前が『不滅の存在』とやらでなければ報復の対象に入れるくらいにな」
「……」
「なのでお前との付き合いはここまでだ。二度と俺の前に姿を見せるな。それとな……」
「俺はこの賢者の血脈という存在がこの先、世界にとって幸福をもたらすとは思えない。なので血脈は俺の代で断絶させるつもりだ」
「なんだと!?」
「お前は33000年も生きて来て……それに気付かないのか。フン……そうだな。お前は『血脈』しか見ていない。お前の見えていないところではその『血脈様』によって不幸になっている人々も居る。
血脈とは、まさにあのユーキさんが言っていた《呪い》だ」
「……」
「俺の言っている事に納得が出来無いのなら、今一度その自由になった体でもっと世界をよく見ろ。もしかしたら何か解るかもしれないな」
「……」
「じゃぁな。もう二度と会う事もあるまいよ」
そう言うとルゥテウスは右手をかざした。すると今まで薄緑色の光で昼間のように明るかった海鳥亭の庭の空が元の星空に戻った。
ルゥテウスは結界が消えた事を確認すると、左手に0番の頭髪を掴んだまま、飛び立った。
リューンは哀しい顔を浮かべて飛び立つルゥテウスの姿を見ていた。
****
ユーキは目を覚ますと、12月で日が昇るのが遅いにもかかわらず既に部屋の中には日光が差し込んでいた。
この季節によらず、市場に行く時間はまだ日の出前で、定休日にもいつもの時間に起きるように心掛けているユーキとしては、起きたら部屋がこれだけ明るい事など年間を通しても殆ど無い。
自分がいつもと違う時間に寝ていた事を考え、そして昨夜起きた「事件」を思い出し、ユーキは飛び起きた。
左隣のベッド……を見ると妻もこの明るい時間だというのにまだ眠っている。
続いて無意識に自分の右腕を見る。
(腕を切り落とされたのは夢だったのか?)
右腕はちゃんと付いているし、思い通りに指も動く。
……しかし寝起きでまだ頭が回っていないユーキもすぐに気付いた。
(右の袖が……無い)
そうだ。ユーキの右腕はしっかりと付いていて機能にも問題なさそうなのだが、その右腕が剥き出しなのだ。その証拠に左腕には昨日の風呂上がりに来た肌着の袖が残っている。
それどころか、湯冷めしないように着ていたベストも着たままだし、寝具から足を出してみるとズボンも穿いたままだ。
やはり自分は昨夜の風呂上りの恰好でそのまま寝ていた事に改めて気付いたユーキは、《ある事》を思い出してベッドから飛び起き、裸足のままで構わず廊下に出て向かいの部屋の扉を開けた。
……部屋の中は無人であった。扉を開けた正面の窓からは自分達の寝室と同じように午前中だろうか。日の光が入り、窓の下にある机を照らしていた。ベッドも綺麗に整えられ、その寝具の上にはパジャマが畳まれて置かれていた。
「ルゥ!どこだ!ルゥテウスっ!」
(あいつは俺が市場に出かけた後に店の前を掃除するはず……)
ユーキは廊下に飛び出して階段を急いで下り、一階レストランの客席部分を横切って鍵の掛かった表の扉を開け、外に飛び出した。
12月11日の朝の下町の通り。ここはテンス大橋から続いてくるメインストリートだ。時計を見忘れてきたが、もうすっかり外は明るくなって、人通りもそれなりにある。今日は世間的に「休日の前日」であり、人々の暮らしはまだ平日のそれである。
「おはよう。ユーキさん?そんな恰好で寒くないの?右袖だけ無いじゃない……それに裸足で……」
「あ……うん。おはよう。いやちょっと……そこで……その……釘に引っ掛けちゃって破れちまってね……」
ユーキは慌てて隣の金物屋を経営する主人の妻である女性に挨拶しながら、弁解した。
「いや、寒いでしょう。風邪をひいちまうよ!」
「あ……あぁ。そうだな。ちゃんと上着を着てこないと……それじゃ」
店に入る。時計を見ると針は7時15分を示していた。本来の平日であれば、仕入れも済ませて夫婦と引き取った大甥と三人で朝御飯を食べ終わってから午前の仕込みを始めている時間だ。
そう……三人で朝食を……。
「やっぱり……ルゥは……もういないのか……あれは夢じゃなかったのか……」
ユーキは肩を落とし二階に戻った。既にこの時間という事もあるし、今日はもう店など開ける気がしない。心情的には店を開けている場合では無い。
寝室に戻ると、妻のラミアが起きており、自分のベッドに腰を下ろす恰好で座ってうなだれていた。
「おはよう……ラミア」
「うん……おはよう……」
「やっぱり……夢じゃ無かったんだね……アンタ」
ラミアは自分の恰好を見ながら言った。彼女もやはり風呂上りに着た白いブラウスと紺の長いスカートを履いたまま寝かせられていたらしい。左の腰の辺りを探ってみると、ブラウスを通してスカートにも穴が開いていた。自分は昨晩……ここにナイフを突き込まれたのだ……。
「あたし……昨夜はここにさ……多分あのままなら死んでたんだよ……」
ラミアは急に涙声になりながらブラウスに開いた穴の辺りをいじっていた。
「そうだな……そこの辺りから血が……服に滲んでいたんだけどな……今はもうサッパリと跡も残ってないな……その穴だけだ……ははは」
ユーキも力なく笑って答えた。
「俺なんてほら……腕を斬り飛ばされたのに……こうしてくっ付いて……でも袖だけは戻らなかったみたいだな……」
左手を右肩に添えて、右手を少し上げ肘を曲げながら掌を閉じたり開いたりして見せて、ユーキは呟いた。
「やっぱり本当の事だったんだね……あの子は……?」
「部屋は片付いていたよ……表で掃除でもしてるかなって見て来たけど……やっぱり……居なかった……ううぅ」
ついにユーキは泣き出し、ラミアも俯いたまま涙をこぼし始めた。
自分達は死に掛けた。ラミアは左の腰を深く刺され、ユーキは右腕を斬り落とされた。ユーキが地面でもがきながら見たラミアはうつ伏せに倒れて腰の辺りを血に染めながら、段々と動かなくなっていて……。
二人にとっての「死を体験した」恐怖と「正当防衛とは言え初めて人を殺めた」と言う実感が今更ながらに押し寄せて感情が制御出来無くなったのだ。
自分達は生きている。
そして自分達を死の淵から助け出してくれたのは……ユーキはあの幼児の頭上で砕け散る紫色に輝いていた《円盤》と鮮やかに地面に輝く青い《円盤》を思い出した。そして、その円盤を造り出して自分達を寝かせたであろう、《小さな人》……自分達の可愛い大甥……。
泣いていたユーキが急に震え出した。
「あの髪……と目……。あいつは……目が治っていたな。でもあんなに綺麗な……アリシアと同じだった髪がよ……」
ラミアはしゃくり上げながら答えた。
「でも……あたしには、あの黒も凄く綺麗に見えたよ。何て言うか……神々しいと言うか……あれが黒き福音さまなんだよね……作り話だと思ってたのに……本当だったんだ。あたしね、子供の頃に絵本を読んで貰ったり、お芝居で見たりしながら憧れていたんだ……でも、本物はお芝居の役者なんかよりもずっと……ずっと……綺麗な……真っ黒だった」
ラミアは《黒き福音》への思い出を語ってから涙顔で笑った。
「そうだな……あいつ……あんなに黒い髪と黒い目で……あんなに小さい体なのに……まるで神様が乗り移ったみたいに立派な言葉遣いになって……」
「でも……あの子は行っちまった。行っちまったんだよ。お父様とお母様と……ミムちゃんやアリシアちゃん、ローレンさんの仇を取りにね……」
「そうだな……あの貴族のクソ野郎を……あいつならやれるさ。そして必ず帰って来てくれる。その日の為に、俺達も頑張らないとな。あいつがちゃんと帰って来れる場所を守らないと」
「今日はもう店はやめよう。どうせ明日も休みだ。ちょっと着替えて裏口の周りを見て来るわ」
ユーキは右袖の千切れた肌着を脱ぎ捨てて、新しい肌着とその上から羊毛のセーターを着た。
「あとで近所の人達に説明しよう。あいつは自分で薬剤師の修行に出たと伝えてくれって言ってたよな」
「ふふふ。そうね。皆さんに信じてもらうのが大変ね」
ラミアもすっかり泣き止んで笑った。
ユーキが靴を履き直してから改めて一階に下り、暖炉に火を入れた。この暖炉に火を入れないと家が温まらないのだ。
そして恐る恐るといった感じで裏口に向かってみる。昨夜は裏口を開けて外に出た辺りでラミアが賊と刺し違え、自分も一人包丁で仕留めた。
屋内から見た裏口の辺りは薄暗いのであまりよく見えないが別に異状は無さそうだ。そのまま近付いて扉を開けてみる。
扉には元通り鍵がしっかり掛かっていた。ルゥテウスが出て行く時に施錠していったのか。しかし彼は鍵を持って無かったはず。鍵は……鍵束は自分のズボンのポケットの中だ。
扉を開けると、裏口から光が入り込み廊下を照らした。扉にも目立った傷などが増えている様子も無い。外を見回す。
この場所で賊も含めて三人の人間が刃物で刺し合い、鼻を突くような凄まじい血の臭いもたちこめていたはずだ。
裏口から裏庭に出た辺りには、ここで人が争って死傷者が出たような痕跡は一切残っていなかった。
相変わらず出口から出て向かって左隅の手前辺りに自分が掘った焚火用の穴があって、ルゥテウスはあそこで毎朝焚火を眺めていたのを思い出した。
更に裏庭に出てみる。昨夜はかなりの乱闘がここで繰り広げられたのだ。自分が認識しているだけで多分二人死んで自分も含めてラミアと二人……いや、あの腕や足が炭になったやつらも含めると四人が重傷を負ったはずの裏庭の惨劇現場は、いつもと全く変わらない
庭木さえ植えられていない無駄に広い空き地だった。血痕一つ残っていない。
ユーキは念の為に向かって右隅にある裏木戸も確認してみる。やはり鍵はしっかりと掛かっている。
起き抜けに自分が飛び出して行った表の扉も施錠してあった。つまりあの子はここから出て行った時にどうやって鍵を掛けて行ったのか……ユーキはなぜかそんな事を思いながら建物に戻った。
裏口から戻ると、厨房にラミアが居た。
「どうだった……?」
「いや……何も。俺が覚えている限りの騒ぎの跡はキレイさっぱりと無くなっていた。それどころか、どこもキチンと鍵が掛けられていてさ」
「まあっ……!」
ラミアは吹き出した。
「あの子、そういう几帳面なところがあったわよね。あははは」
ラミアはとうとう笑い出した。
「そうだな。部屋のベッドの上にちゃんとパジャマが畳んであったよ。わははは」
ユーキも笑い出した。
「不思議な子……最後は髪の色も目の色も元の色にしてくれて……アリシアちゃんみたいな……綺麗な顔で」
「そうだな。最後に笑ってくれたな。右目もアリシアの色だった」
「その……ふう……なんだっけか。アイツの目と脳味噌にかかってたやつ」
「あぁ……ふう……いん……じゃなかったかしら」
「あぁ、そうだ。その《ふういん》だ」
「ちょっとローレンのノートを返してくるよ。そしたらあいつが帰ってくるまで、あのノートの部屋も『ふういん』だ!」
「そうかい。じゃ、遅くなるけど朝御飯を食べてから行きましょう」
ラミアは厨房で朝食を作り始めた。夫婦の間でどちらが食事を作るというのは決めていない。たまたま厨房に居た者が作るという事が多いが、ルゥテウスが居た頃は彼が表の通りと店内の客席部分の掃除とゴミの焼却を手伝ってくれていたので、ラミアの手に余裕が出来ていた事もあり、ラミアは朝の時間から洗濯をする事が出来た。
そして朝食も主にラミアが作る事が多くなっていたのである。逆に昼は店の営業の関係でユーキが厨房に残っている事が多いので営業終了時の夜飯の時も含めてユーキが作るのが普通になっていた。
昨日の余りのパンとハムやレタスでサンドイッチを作る。この夫婦の間ではサンドイッチは「手間を掛けずに作れる」軽食の代表格だ。
パンはごく少量だが前日の物が余る場合がある。大抵はそのまま翌日の朝の仕込みでパン粉などにしてしまうのだが、今日は店を営業するわけでも無いので余り物のパンで定番のサンドイッチにしたのである。
「アンタ……」
「うん?何だ」
「これ……」
「うん?……うわっ。これは……もうダメだな。砥ぎじゃ戻せないと思うぞ」
「それもそうだけど……他人を刺し殺したのなんて気持ち悪くて使えないよ……」
「そうだな……よし。じゃこの2本はダンに頼んで新調してもらおうか。すぐに出来るかな……?」
昨晩、夫婦が賊に対する為に持ち出した包丁は、しっかりと包丁棚に戻されてはいたが復元はされていなかった。
ラミアが持ち出した大出刃は魚の骨すら砕く逸品であったが、賊の首の付け根に突き入れた事で、骨に当たって大きく毀れたようだ。ユーキの持ち出した牛刀も勢いよく突き入れた為か、少し歪んでしまっていた。
裏口と裏庭には一切の痕跡が残っていなかった事もあって、ユーキはラミアが見せた2本の包丁を見て昨晩の「生きた人間」を刺した感触が両手にありありと甦ってくるのを感じた。
昨晩の惨状を思い出して、多少食欲が減退したが、それでも妻の作った朝食を胃に詰め込んで、ユーキは今日の予定を話した。
「じゃ、今日はダンの所に寄ってから藍滴堂かな。ノートを返してからマーサさんのところに顔を出すか」
「そうね。マーサさん達には本当の事は話せないけど、ルゥちゃんが居ない事はちゃんと話しておかないとね」
「そうだな。あそこであらかた話しておけば勝手に広まってくれるだろう。客も多いし、ウチと違って客と店員で雑談もするしな」
同じ飲食業を営む海鳥亭と一角亭だが、客層が違うので同じ下町の中にあってもいわゆる「商売敵」にはならない。
そもそも一角亭の場合は主たる業務は宿屋であり、一階はあくまで「宿泊客の為の食堂」である。一角亭もそうだが、この時代の旅館業は通常一泊一食という料金体系で、宿泊と翌朝の食事付きというのが通常の営業スタイルだ。
なぜなら、昼食は客も外出先で食べるのが普通だし、夜も他の飲食店を利用する宿泊客が多いからだ。
逆に朝は出発前に宿屋で朝食を摂るのが一般的だし、そもそも早朝の時間帯に外食出来る場所など、市場の周辺の屋台くらいしか無い。
なので一角亭はあくまでも宿泊客の食堂で、それに対して海鳥亭は「料理を食べに来る人」を相手にやっている店である。客層も違えば供される料理の質も違うのだ。
但し一角亭は下町では珍しく、宿屋を兼ねている関係もあって飲食業にしては営業時間に柔軟性を持たせている。
宿泊客が朝食以外に宿で食事を摂りたい場合もあるし、夜中に出入りする客も居る。なので食堂の営業時間は早朝から深夜2時頃までは営業している事が多い。
何より現在の一角亭はシンタとルイスの父子が交代で厨房を担当出来る。
元々が飲酒と酒場女が接客をメインとするような「いかがわしい店」ではないので、深夜の時間帯は配膳を行う女性陣も寝ているとあって厨房の担当一人がセルフサービスの食堂と宿屋の精算も兼務しているという状況だ。
朝食を済ませて外出着に着替えたユーキとラミアは店を後にした。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。5歳。史上10人目の《完全なる賢者の血脈の発現者》。母によって封印されていた。
リューン
《始祖》と呼ばれる史上初めての《賢者の血脈の完全なる発現者》。血脈の管理者でもある不滅の存在。
ユーキ・ヘンリッシュ
主人公の伯祖父。47歳。ミムの兄。レストラン《海鳥亭》を経営。主人公と同じく多くの家族を喪っている。
ラミア・ヘンリッシュ
ユーキの妻。45歳。主人公からは義伯祖母に当たる。夫と二人でレストラン《海鳥亭》を切り回す。
《0番》
暗殺組織《赤の民》所属の暗殺者。領都の支部でも屈指の実力を持つ。《海鳥亭》一家襲撃の現場指揮を執る。
《1番》~《7番》
《赤の民》の構成員たち。《海鳥亭》一家襲撃に参加。コードネームとして番号で呼び合う。