王兄屋敷へ
ミンが持って来た話は……
「王兄屋敷で昨年から屋敷内の雑用をこなす女中を1人募集しているのだが、なかなか決まらない」
というものだった。ミンはこの話を引き出す為に、まずは交易品を装った交換物資を市街南西部の……この街ではかなり大きな店構えをしている商人宅に持ち込んだ。前日にホウやチムニらが市場で、「良質な塩」と引き替えに得て来た物資の他に、ケインズで仕入れた物資も混ぜ込んで「都からの行商」を装ったのである。
この街に物資を持ち込んで得られるのは基本的には西側から入って来る「塩」だけである。このタシバ周辺では一応農業も営まれているが、他の地域に輸出出来る程の量では無い。タシバを支える水源地である、現地の人々が「タシケ」と呼ぶ直径2キロ程の湧水池は、大規模な農業を支えるには規模が小さ過ぎるのだ。
この「タシケ」と言う池の周りに人々が定住して発展したのが「タシバ」であり、古来……この地が邑として集団社会が築かれた後も、主な産業は「交易」……つまりは「西から運ばれて来る塩の中継地点」として、発展して行ったのである。
ミンがこの大店に交易物資を持ち込んだ際に、まずは王兄屋敷の様子をそれとなく聞いてみたところ……「女中を何人か募っている」と言う情報を入手した。ミンはこの時、彼女自身の他に2人の女性隊員を連れており
「実は彼女達をケインズから連れて来たのだが、女の身だと行商はキツかったようなので……この街で仕事があるならば彼女達をどこかで雇ってもらいたい」
と……大店の店主に相談してみた。すると店主は「募集の取次は神殿でやっているらしい」と教えてくれたのである。
ミンはこの情報を基に王兄屋敷を挟んで北東側に建つ神殿……ルゥテウスが言うところの「太陽教」の祭事を行っている場所に向かい、門前で立番をしていた守衛に商人から聞いた「王兄屋敷での募集の件」について問い合わせたところ……守衛はわざわざ神殿の中に通してくれた上、中に居た下級の神職者に取り次いでくれた。
「我々はケインズから行商で来た者なのですが、今回初めて同行させたこの娘達は思いの外長距離の移動に難儀しまして……商隊から外してこの街で働く場所があればと思ったのです」
と、何となく「それっぽい話」を作って王兄屋敷の女中募集を聞いてやって来たと切り出した。
「ふむ……。実は『お屋敷』では常に人手不足でな……。あぁ、いやいや。下働きの者ではないのだ。色々と庶務をこなしてもらう故に、ある程度は読み書きや計算が出来ないと務まらんのだ」
どうやら、この国の庶民階級の教育水準は押し並べて低水準である為、彼の言う「読み書き、計算」が出来る者は少ない上に、募っているのは女性である。屋敷では当初、5人の女性「事務職」を雇うつもりで神殿に取次を打診してきたのだが、半年以上が経過して……その条件に合致した者が2人しか集まらなかった。
なので屋敷側も神殿側と再度話し合いを持って、「読み書きと簡単な計算が出来る女中をあと1人」と言う線で募集を続ける事にした……と言う話なのだそうだ。
「私達の商隊では、そちら様がご要望される『読み書きや計算が出来る女』を何人か連れております」
ミンがそう告げると、その下級神職は嬉しそうな様子で
「そういう女が居るなら是非紹介してくれ!」
と、鼻息荒く応じて来た。ミンはこの場で話を決めてしまうのは当然宜しくないと判断して
「しかし、この娘たちも含めて……商隊に居る親に許可を貰わないと、後々仲間内で揉める恐れがありますので……」
そのように言い抜けて、一旦拠点に引き上げて来たのである。
「なるほどな……。『女中』では無くその……事務を執り行う女性を募集しているって感じなのかな?」
ホウが顎に手を当てて……今聞いた内容を頭の中で纏めると、ミンも頷いた。
「はい。聞いた内容からすると、そんな感じですね。年齢にも別に拘った様子は見られませんでした」
「ふぅん……。だとすると、権力者の側に置いて身の回りの世話を……って感じでも無いな」
「そうですね。そう言う感じで雇っているわけでは無さそうですね」
「よし。とりあえず1人入れてみよう。一応聞くが……志願者は居るか?」
現在、この「タシバ支部」には女性隊員が5人居る。「目標」からの条件の中に「計算が出来る」というものが含まれているので、能力的には皆それを満たしているが、特に優れているのは「異常な計算能力」を持つと評価されるテスである。この背の低い……子供と見間違われそうだが今年で26歳になる女性隊員は、主に拠点に常駐して事務作業を主任務としている。なので彼女を送り込む……と言うのはホウにとってもあまり気乗りしない。
「兄貴っ!アタシにやらせてよっ!」
ネラが手を挙げた。今日の彼女はミンに同行しておらず、実際に神殿での話を聞いていなかったのだが、今の話を聞いて俄然ヤル気になっている。
「ネラ……。本当にいいのか?向こうは『女中』と言う名目で女を集めている。分かるな?」
ホウは言葉を敢えて暈したが、それはつまり
「下働きや雑用、事務仕事だけでは無く……『体』を求められる可能性がある」
と言う事だ。身分の高い家でよく聞かれる「主人の手が付いちゃった」と言うやつだ。こう言った可能性が考えられるので、ホウは敢えてこの任務に対してまずは「志願者」を募ったのだ。
「兄貴。それは覚悟の上だよ。それにアタシは『念話付与』を持ってる。元々、『探索』よりも『潜入』の方が適任だと思ってたんだ。兄貴のようにね!」
《青の子》の隊員の中には、その資質が認められると訓練終了の後に、私物に対して監督から「念話付与」を受ける事がある。兄であるホウも「念話連絡員」として指定されているわけではないが、念話付与品として「折り畳みナイフ」を所持している。
どうやらこの兄妹は揃って念話に対する資質があるようで、2人共に念話付与を受けているようだ。念話付与を受けているのは念話連絡員を含めて《青の子》隊員全体の2割弱しか居ないので、組織からするとかなり貴重な人材である事は言うまでもない。《青の子》の隊員総数は、今年の訓練終了者を含めて現在1100名程度なので、念話連絡員80名を除いて念話付与品を所持している隊員は100名前後だと思われる。
彼らの大半は現在、隣の大陸も含めて諜報対象各所への潜入任務を負っており、現在このタシバに配置されている班、14人の中にも「本職」であるベッツ以外に、班長を務めるホウを始めとして、チムニ、ヒュウム、ミン、そしてホウの妹であるネラと、5人を擁している。ホウやチムニはこれまでも、どちらかと言えば単独での潜入任務を数多くこなして来ているし、ミンは自身が潜入任務に就く事は殆ど無いが、隊員同士の「繋ぎ役」を命じられる事が多い。
ネラは今回最後の補充でやって来た新隊員達の中で唯一の「念話持ち」だったので、一行の引率役を命じられていた。なので一応……彼女は「潜入役」としては「打って付け」の人材だと言える。
しかし……やはりホウは「兄」として歳の離れた妹を「体を汚す可能性のある任務」に就かせるには抵抗がある。それでも……「王兄屋敷に人を入れる」からには「誰か」がその任を引き受けなければならないのだ。
ホウは暫くの間考え込み……
「そうか。ならばネラに任せる。あまり無理をするな。じっくりと時間を掛けて王兄の様子を探ってくれ」
と、妹を潜入担当に任じた。
「はっ!了解しました!」
ネラは態度を改めて兄に応え、ミンの方へ振り返り
「ミンさん。明日は宜しくお願いします」
と頭を下げた。ミンは何とも言えない表情で頷いた。
「分かった。明日一緒に神殿まで行くわ」
こうして……青の子のタシバ支部は王兄屋敷に人を入れる事に成功した。
****
「いいか?一昨日の塩交換でお前も俺達と市場に顔を出している。つまりお前も顔が割れている可能性が高い。しかも昨日の報告では王兄屋敷に俺達が持ち込んだ塩を転売した奴まで居るそうだ。だから十分に気を付けてくれ」
翌日。「口入れ」を仲介してくれる神殿へと出発するに当たり、ホウは妹にいくつかの注意点を与えた。彼も元は潜入任務をほぼ専門としていた経験を持つ者として、「初めての潜入任務」に向かう妹へ「自分の持つノウハウ」を伝える事にしたのだ。
「それでは行ってきます。定時連絡に関しては潜入後に手の空く時間を確認次第申告します!」
《青の子》と言う組織には敬礼動作は存在しない。ただ1つ……
「気を付けてな。青の子様のご加護を」
「青の子様のご加護を!」
この文句だけを言い交してネラはミンと共に拠点を出発した。
「そんじゃ俺達も出るぜ」
チムニも自らが選抜した新隊員を2人連れ、一昨日に塩商人から得た交換品が満載された台車を牽いて出発した。彼らは西方にある集落への調査を行う為、「塩の交換を終えて集落に帰る」と言う態で西門から出発し、街から離れた場所で日没後に《空の目号》に収容してもらう。
目指す集落は西方に100キロ離れた場所にある為、その近くまで空輸してもらおう……と言う作戦である。そして集落へは逆に「タシバから塩を交換しに来た商人」として潜入するわけだ。
「ああ。気を付けてな。お前の事だから……しくじるとは思えないが慎重にな。連絡を待ってる。青の子様のご加護を」
ホウは右手を差し出した。チムニはその手を握り
「うむ。ネラの無事を祈ってるぜ。青の子様のご加護を」
そう応えた。彼の後ろに立つ2人の隊員も「青の子様のご加護を!」と唱和して、彼らも拠点を出発した。
「皆……頼むぞ……。青の子様のご加護を……」
ホウはそう呟いてから拠点の地下に下りる床穴に入った。彼自身は市場で顔が割れている為に、暫くは身動きが出来ない。ヒュウム達の探索で塩商人と「街の支配層」との繋がりがある程度見えてから、「王兄の動向」を探り始める予定である。
「大丈夫ですよ。ネラは自分が見てもしっかりした娘です。きっと屋敷内でも上手く立ち回ってくれますって」
そう言ってヒュウムも新隊員を2人連れて、街中の塩取引の探索に出て行った。
「頼む……ネラ。無理だけはしないでくれ……」
地下1層目の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと天井を眺めながら呟くホウを、ベッツとテスは心配そうに見つめるのであった。
****
神殿における屋敷への雇用取次は呆気無いと思う程に進んだ。相手方はネラに対して全く警戒する事無く「採用の方向」で話を纏めてしまい……
「では、これからお屋敷に参ろう」
と、担当者と思われる下級神職の男は席を立ち上がった。
「宜しいのですか?この娘の身辺調査などは行わないので……?」
一応、「商隊の女を纏めている」と言う名目でネラを連れて来たミンは却って困惑したが、相手はそんな彼女の顔色に斟酌する事無く
「お屋敷では去年から全く人手が足りていないと、毎日のようにせっつかれているんだ。なので一刻も早く、この娘を送り込みたいわけさ」
見た目からして30代前半の年齢と思われる神職の男に、何やら他意の色は無い。彼としては毎日のように女の雇い入れを急き立てて来る屋敷側の言い様がよっぽど鬱陶しいのだろう。
「あの……このような事をお伺いするのは些か失礼かと思うのですが……」
と前置きした上でミンは
「お屋敷の女中雇い入れと言うのは……昨年からずっと続いていらしたのですよね?」
と、今にも部屋から飛び出そうと言わんばかりの神職に尋ねた。
「うん……女中?ああ。そうだな。このところずっと続けておったな」
「例えば、あの……雇った者が長続きしないとか……」
「うーん……?長続き?どう言う事かね?」
「ああ……いえ……その……お屋敷でのお勤めが厳しくて入った者がすぐに辞めてしまうとか……」
ミンは相当に突っ込んだ訊き方をしていると……ネラはちょっと心配になった。しかしミンとしては、この任務を経験の浅いネラに任せる事になったので、少しでも事前に情報を引き出しておきたいと言う思いがある。
「ああ……お屋敷での仕事は、そんなにキツいものじゃない。ただ、読み書きが出来たり、ちょっとした計算が出来ないと務まらないんだ。そう言う女をアガタ様はお望みなんだがね……いつの間にかこの街には、この程度の条件でも女が集まらなくなってしまったんだねぇ。嘆かわしい事だよ」
「なるほど……昨日聞いた感じですと、5人募ってまだ2人しか集まっていないとか?」
「そうなんだよ……。この街も以前はそれ程忙しくなるような場所じゃなかったんだけどね。王兄様がいらっしゃってから、段々と人手が必要になって来たんだ。5人は無理でも、せめて3人は……ってね」
「そうなんですか」
「王兄様を補佐されているアガタ様が、王兄様に代わって街を治めるようになってからは、商いの事もお屋敷で取り仕切る事になってね。それで文字が読めたり、計算の出来る女が必要になったわけさ」
「ああ、そう言う事なんですね。でも……なぜ女だけを集めるんです?街のあちこちで塩の取引をしている男だったらいっぱい居るじゃないですか。彼らを雇えば宜しいのでは?」
ミンは王兄屋敷が初等教育に準ずる教養を持った人間を募っている理由については納得出来たが、ならば尚更に「女に拘る」と言う所に引っ掛かりを覚えた。
この国……と言うか地域は見たところ、女王が治めている割に女性の社会的立場が弱い。ただでさえ低水準の教育を受けているのは男性が圧倒的に多く、「読み書きと簡単な計算も出来る」と言う女性は極めて少数派だ。
その貴重な女性に絞って募集をしていると言うのは随分と不自然に感じる。現に……この「教養ある女性募集」の話は、市街に住む者達に誤解を与えており、「募集話」が街に下りて来た時には、いつの間にか「女中を募集している」と言う捻じ曲がった募集内容に変貌していたではないか。
この街の住民……と言うよりも、この国の一般国民レベルの認識では「女性を雇い入れる」とは「女中を雇う」と同義で、「読み書き計算が出来る」と言う条件で雇うものではないのだろう。
「アガタ様は、この街に居る塩商人達にあまり信を置かれていない。可能であれば今後はこのタシバでの塩の取引を、『西』からの仕入れも含めて、『お屋敷』が全て取り仕切りたいと思っていなさるようだ」
神職の言葉にミンやネラは驚いたのだが、両者共に顔色一つ変えずにいた。
『ミンさん!今の話が本当だとすると、塩の流通を操作しようとしているのって……王兄屋敷なんじゃない?』
ネラは神職に気付かれないように、隠しの中で《念話付与》が施されている「髪留め」を握り、目の前で椅子に座っているミンに念話を送った。この2人はお互い念話交信が可能なのだ。
ちなみに……彼ら《青の子》の一部隊員に付与されている《念話》は、所謂「本来の念話」であり、目標の話者と「1対1」で交信するものである。
現在のトーンズ首脳及び藍玉堂店主を加えた「初期の10人」のように、店主が面倒臭がって纏めて直接付与を行った産物である「紐付け念話」は出来ない。しかしその分、「他の無関係な付与品所持者」に念話が漏れ聞こえると言う、迷惑な事故は発生しない。
《念話導符》を作成したのは店主なので、付与される念話性能も大陸間通話をものともしないのだが、素養の差で「相手が見えていないと使えない」者もいれば、全世界に散らばっている念話網に入った相手なら、例え相手の顔を見知っていなくとも……特に気にせず自在に交信出来る者までいる。
ミンもネラもその点については「普通レベルの素養」で、お互い見知った者であれば目の前に相手が居なくても、労せず交信が可能らしい。なので現在のようにお互い目の前の至近距離に居るならば特に支障を来たす程では無い。
そもそも……それくらいの素養を持っていなければ念話付与者に選抜されないのだ。
『そうね……やっぱりって感じかしら』
『アタシはこのままお屋敷に入りますので、ミンさんはこの事を兄貴に伝えて下さい』
『うん。分かった。気を付けてね。青の子様のご加護を』
念話を終えたミンは漸く腰を上げ
「この女の名はネダです。宜しくお引き回しの程を……」
そう言ってネラを振り返った。「ネダ」と言う偽名を与えられたネラは僅かに頷き
「ネダと申します。精一杯務めさせて頂きます。どうか宜しくお願い申し上げます」
と、普段の彼女からは想像も付かないような言葉遣いで挨拶をしてから頭を下げた。
この様子を見た神職は満足気な表情を浮かべ
「ほう……しっかりとした娘だな。歳はいくつだ?」
と……彼女を「娘」と呼んで年齢を尋ねて来た。「娘」と呼んだからには彼女の事をかなり「若く」見ているようだ。
本来であれば今年で24になるネラはこの辺りの地方……いや、エスター大陸の習慣であれば「女」と……つまり成人女性と見做されて呼ばれるはずなのだが、ネラ本人は背もそれ程高いわけでもなく、快活な顔付きをしているので、案外実年齢よりも若く見られるのかもしれない。
「はい……19でございます」
ネラは思い切って5歳もサバを読み、それを聞いたミンは思わず吹き出しそうになって咄嗟に下を向いて堪えた。
しかしそれでも神職は少し面食らったような顔になり
「19か……?思ったよりも歳が上だったな」
と言ったので……サバを読んだ当人も驚いてしまった。
「そっ、そうですか……?た、確かに周りからも『子供っぽい』と言われる事もございますが……」
驚きを隠す為に、殊更困惑顔で苦笑して見せた。
「そうか……。まぁ良い。ではお屋敷に向かうでな。ミリとやら。引率ご苦労であった。立ち戻ってこの娘の親御に宜しく伝えてくれい」
「はい。宜しくお願い申し上げます」
ミンは神職に一礼して彼の執務室から去って行った。彼女はこの後、真っ直ぐ拠点に戻り、先程聞き出した「重要な情報」をホウに報告するのだろう。
「さて。我らも行くぞ。今ならアガタ様もお会いして頂けるだろう」
「あの……アガタ様と仰る方は……お屋敷ではどのような立場のお方なのでしょうか?」
ネラは目敏く尋ねた。王兄屋敷の内部、人員の情報は……これまで先行してこの街に入っていた者達ですら掴みあぐねていた。何しろ屋敷の人間の出入りが余りにも少な過ぎるのだ。
ホウとヒュウムの2人が最初にこの街へ入ってから既に2旬が経過しているが、その間も拠点確保に追われていたと言う事情もあり……彼らは結果的に見て王兄屋敷の動向を把握出来ていなかったようだ。
この街における諜報活動は、他のテラキア王国諸都市と比較しても難易度が高めである……と言える。
街域も元々大きくないものだったが、近年は縮小衰退の一途を辿っていた。そこに王位継承を放棄した王兄が2000人の親衛隊を率いて邑長となった為に、俄かに街中の警備が物々しくなったのだ。
「アガタ様は王兄様のご側近で、この街の神殿において最も位の高いお方である。現在は王兄様からの命で、この邑の政事と幽事の両方を差配されていらっしゃる」
「元よりこの街で位の高い神職に就かれていらしたのですね?」
「いや……。今も言ったろう?アガタ様は王兄様のご側近として都におわしたのだ。王兄様がこの街に移られると共に随行されて来られたのだよ」
「なるほど……。そのアガタ様のお手伝いを私が仰せ仕るのでしょうか?」
「多分そうだと思うぞ?さっきも言ったろう?アガタ様は現在、街に入って来る塩……将来的にはその全てを一旦お屋敷へ集めた上で国々の各所へ放出する事をお考えのようだからな。恐らくは事業が本格化するに従って、事務作業もどんどん増えるだろう」
この30歳を少し超えたばかりに見える下級神職は、何やら事情に通じているのだろうか。やたらと「自分が雇い入れられる目的」に詳しい。まぁ、屋敷の外からの雇用人事を担当しているからには、それも当然か……と、ネラは納得する事にした。
それにしても……行政の中心、と言うよりもこの街における唯一の統治機関であるはずの王兄屋敷と一宗教施設に過ぎない神殿が相当に密着している。「一体となっている」と言ってもいいくらいだ。
恐らくここがテラキア族と同じく、「太陽神コル信仰」の中核を担うドウマ族の故地である事も関係しているようだし、統治者はテラキア族出身の王兄ロメイエスである。
邑の民も「統治者と神殿」の関係についてあまり疑問を持たないのだろうが、一応は「政教分離」が成されている先進国家レインズで生まれ育っている「難民3世」に中るネラの目にはやはり奇異に映った。
彼女自身は他の〈青の子〉の隊員……いや、トーンズ国民と同様に「神など毒にも薬にもならない」と言う考えが強く、彼女にとっての「崇敬対象」はやはり「青の子様」と「統領様」、そして命の恩人である「ノン様」だけである。
神殿は王兄屋敷の北東側に通り一本隔てて隣接しており、ネラを連れた神職は時計の逆回りに屋敷の塀沿いを4分の1周して北側にある門から敷地内に入った。彼は門衛と顔馴染みなのか、「雇い入れの女を連れて来た」と言っただけで何もチェックされる事なく中に通された。
やはり神殿に詰める神職は国民の中では社会的階級が高いのかもしれない。門衛の兵士も神職に対して慇懃な態度で接していた。ネラは一応、門を通過する際に門衛に軽く会釈をしておいた。
前述したが、《青の子》側は現在もこの王兄屋敷の「中の動向」が全く掴めずにいた。今回初めて、ネラが屋敷の塀の内側に足を踏み入れた事になる。
この屋敷には門が2つ備わっており、神職がネラを連れてくぐったのは「裏門扱い」となる北門だった。ネラ自身はこの街に到着してから、市中を見回ったのは一昨日の兄やその友人と共に……台車を牽きながら持ち込んだ塩を、屋敷の南側にある市場で捌いた時だけだ。
結局、その際に持ち込んだ塩の品質が不自然なまでに高品質だった事で、この街の塩市場全体に「あらぬ騒動」を巻き起こしてしまった為に、彼女は翌日から街に出れなくなってしまった。そう考えると、この神職が正門である南門……市場と程近い入口を選ばずに市場とは屋敷を挟んだ反対側の北門を選んでくれたのは彼女にとっては幸いだったかもしれない。
裏門から、そのまま通用口のような……それでもそこら辺の民家よりは立派な造りの扉から中に入ると、まだ午前中だと言うのに急に薄暗く感じた。
どうやら必要以上の照明は使っていないらしい。屋敷の外観は日干し煉瓦を積んで表面を仕上げたような質感だったが、内部の壁には漆喰らしきものが塗られていた。
また、外から見た感じでは屋敷の高さ……軒高が結構あったので3階建てかもしれないと思ったが、実際に中に入ると天井が非常に高い構造なので、恐らくは2階建てかな……と、ネラは思った。
前を歩く神職は、この屋敷の内部構造にも大分精通しているのか……迷う事無い足運びでどんどん進んで行く。途中何人かの使用人や守衛らしき格好をした者とすれちがったが、彼とは会釈する事はあれ、咎めるよう者は皆無であった。
廊下を歩くとすぐに大きい階段のあるホールのような空間に出た。神職の男は、1度だけチラッと後ろ……つまり自分の事を確認するかのように視線を送って来たが、そのまま前に向き直って無言で階段を上り始めた。ネラは慌ててその後に続く。
天井の高い1階部分を上るのに30段を超える階段を上り、踊り場で90度左に向きを変え、更に15段程上った。
2階のフロアに足を踏み入れた瞬間に、ネラは足に何か違和感を感じ……目線を床に移すと、直ちにその原因が判明した。
2階フロアには廊下の床一面に絨毯が敷き詰められていたのだ。キャンプでの訓練時代においても、このような絨毯張りの床を踏み締めた事がなかった彼女は、思わず声が出そうになった。
(凄い……。外からの見てくれはそうでもないけど……。中の様子、特にこの2階の内装はかなり手間が掛かっているわ。やっぱり屋敷の主が王族になったからなのかしら。それとも以前からこんなに豪華なのかしら……?)
頭の中で色々と考えながらも、彼女は俯き加減に……前を歩く神職の踵だけを見つめるようにしながら、その後を歩いた。彼は階段のあった位置から暫く真っ直ぐに伸びる廊下を歩き、やがて守衛が立つ1枚の扉の前で立ち止まると、守衛に対して
「アガタ様がお探しになられていた者で、新しく応募して来てくれた女を連れて来た」
そう説明した。すると守衛は居住まいを改め、「それはご苦労様です」と声を返してから、自分の後ろにある扉をノックした。中から返事が聞こえて来たのだろうか。自分で扉を開けてから身体を中に入れる事はせずに扉の隙間に向かって
「シウド様がいらしております。先日来お探しになられていた『仕事を手伝う女』をお連れしております」
そのように中に向かって声を掛けると、扉が開いているせいか……さっきよりもハッキリとした女の声で
「おおそうか。中へ通せ」
と返事が聞こえた。守衛は「はっ!」と応じてから、振り向き……神職へ「中へどうぞ」と声を掛けてから扉を大きく開いた。
「うん。ありがとう」
神職は守衛に礼を言ってから、ネラに「付いてこい」と小さく手招きをしてから「シウドです。失礼します」と言いながら室内に入って行った。ネラは一応困惑した様子を見せてから守衛を見ると、彼も「中に入れ」と言わんばかりに小さく頷いたので、「恐る恐る」という演技を交えながら室内に入った。
もっと豪華な装飾でもあるのかと思いきや……室内は質素な雰囲気で、部屋の壁は白く塗られているようだが、余計な家具や什器は置かれていない。それでも正面には……こんな辺境の街だがガラス窓が嵌っており、その前に大き目の机と背の高い椅子がポツンと置かれていた。
このような部屋に置かれていそうな来客を相手にする為の「応接セット」的なものすら置かれておらず、本当に机1つで何か仕事をするだけの部屋……そんな印象をネラは受けたのである。
そしてその椅子には……暗めの茶色く、長い髪を後ろで結い上げた若い女性が座っており、つい今しがたまで何か仕事をしていたのか、机の上には何枚か紙が広げられていた。それが目に入って、この国で紙を見るのも珍しいな……とネラは思った。
「シウドか。ご苦労」
女性は立ち上がる事も無く、神職……シウドを迎えて労いの言葉を掛ける。
「アガタ様。お仕事中に失礼します」
この女がアガタか……!?シウドの言葉を聞いたネラは少なからず心中で驚いた。「アガタ」と言う人物は男であると思い込んでいたからだ。
「して……?そこの……後ろに立っているのがそうか?」
「はい。ここ最近になって街へ到着した、『都からの商隊』に付いて来ていた娘だそうです」
「商隊に?」
「はい。これ……お前からアガタ様へご説明して差し上げろ」
半身に振り向いたシウドに促され、ネラは緊張した。どうやらここからが「本当の初単独任務」になると腹を括ったからだ。
「はい……。ネダと申します。4日前に……ケインズからやって来ました。商隊の中に父と兄がおりまして……。私も今回初めて一緒に、こちらの街へ来たのですが……」
「ほう……?家族も商隊に居るのか?なのにお前だけが、この屋敷で働くと?商隊はじきに都へと帰ってしまうのだろう?お前だけがこの街に残るのか?」
立て続けに幾つもの質問を浴びせられ、ネラは思わず顔を上げた。正面に座る女性の顔は端正だが……目元の雰囲気から怜悧な様子が見て取れる。年齢は……どうだろうか。自分よりもやや上くらいだろうか。
事前に聞かされていた……実質的にこの街の統治と信仰施設を取り仕切っている人物が、こんな若い女性だったと言う事にネラはまだ戸惑いを覚えているが……それでも事前に決めていた「設定」に沿って自己の身の上を話し始めた。
「はい。これまで何度か都の周囲の街を回る時に同行していたのですが、今回初めてその……遠い場所まで付いて来たのですが、思いの外……身体に堪えてしまいまして」
「それでお前だけが、この街に残ると?」
「はい……。私の他にも何人か同じ年代の娘が家族ぐるみで来ていたのですが……」
「ほう……?他にもお前のような娘が?その者達も字が読み書き出来て、計算も出来るのか?」
「ええ多分……。私は今も申し上げました通り、父も兄も商人でございますから幼い頃から読み書きや計算を習わされておりましたし、他の娘達も多分似たような境遇でしたので……」
「アガタ様。そう言えば、この娘を私の所に連れて来た女も今のような話をしておりました。昨日もその女はこの娘とは違う女を2人程連れておりました」
「何……?では他にも『使えそうな女』が居るわけか?」
アガタの言葉を聞いたネラは慌てたような素振りで
「あの……仰るように私が居た商隊には何人か同年代の娘が同行していましたが、私のようにここに残りたいと思っている娘は殆ど居ませんでしたし、私以外の娘は……昨日ミ……ミリさんからのお話を聞いた時に、親に反対されたりして、結局私だけが父に許されたので……」
そのように申し開きを行った。途中、自分をここへ連れて来たミンも偽名を使っていた事に寸前で気付いて慌てたものの、概ね平静を保てたと思えた。
「お前の父だけが、娘をこの街に残す事を許したのか?」
「はい……私の場合は兄も居ますし、私自身がこの街に到着する前までに何度も体調を損ねまして……実はこの街の前に訪れたパダスで私だけ置いて行こうと言う話にまでなった事がありまして……」
「なるほど。長旅に身体が耐えられなかったと?」
「はい……思いの外、自分には体力が無いと……お恥ずかしながら痛感いたしました。元より我が家は決まった場所に定住せずに国中を巡りながら生きているようなものですので、別に都に戻れずとも私自身は特に寂しくもありませんものですから」
「ほう……?都には戻れずとも構わないと申すか?」
「はい。このような立派な場所で我が身を置いて頂けるのであればと、父も了承してくれまして」
「そうか。まぁ、良かろう。それで……?お前の家族はいつ、この街を出発するのだ?」
「明日か明後日には都に向けて発つと申しておりました。何でも……今回の取引では思いの外、質の良い塩が手に入ったと、父も喜んでおりましたので」
「ああ、お前の父のところにもあの塩が回ったか。私も昨日見たが……あのような美しい白さを持つ塩は私も初めて目にした」
やはり王兄屋敷に自分達が持ち込んだ塩が転売されていたと言うのは本当だったようだ。「その塩」を持ち込んだ側……しかも市場へ実際に持って行った1人として……ネラは心中で首を竦めた。
あの時、自分達の持ち込んだ塩を競い合うように物々交換して行った者達の中に、この屋敷へそのまま塩を「転売した」とされる人物は……もしかして、塩の一元統制を画策する屋敷側から予め市場に放たれていた密偵だった可能性も考えられる。そうなると……その者に恐らくは顔を見知られている自分は危ないかもしれない。
「まあ良い。とにかく……そうだな。お前なら合格だ。字を読み書き出来て、計算も出来る。もう少し人数を揃えたかったが、これで何とか3人確保出来たか。そろそろ本格的に事を進める。シウドもそのつもりで頼んだぞ」
「承知致しました。既に何人かの、この街出身の者達にはアガタ様の御意向を伝えております故……」
アガタはシウドに何やら意味深に申し付け、それを受けたシウドもちゃんと了解しているような反応を見せた。どうやらこのシウドと言う人物もアガタの意向を受けて屋敷の外での「工作」を担っている……ように思える。
シウドはゆっくりと頭を下げてからネラに対して「ではな」と軽く挨拶をしてから部屋から立ち去った。部屋に残されてしまった形になったネラは困惑しつつも、部屋の主が何か言い出すのを待つ事にした。
「さて……ではお前の詰める部屋などを案内させよう」
アガタはそう言って卓上にあった小さな鈴を鳴らした。するとネラの背後で扉が開いた。
「何かございますでしょうか?」
声は先程の守衛だった。彼は先程もそうだが、扉を十数センチ開けるだけで決して中を覗き込まない。この部屋の主が女性だからと気を遣っているのだろうか。
「この娘を『部屋』に案内するんでな。オミを呼んでくれ」
「はっ。少々お待ち下さい」
声だけの返事が聞こえて、扉が閉められた。するとお互い何も言葉を発しない……何とも言えない気拙い空気が部屋の中で流れた。ネラはその沈黙に耐え切れず……適当に話を切り出した。
「まさかアガタ様が女性でいらっしゃるとは……思っておりませんでした」
「ほう……?どう言う事だ?」
「ああ、いえ……その……。今回の『お屋敷での募集』と言うお話をお伺いした時にも、『なぜ女だけを募っているのか』と……少し邪推してしまいまして。他の娘や、その親御さん達もそれがあって応募に対して否定的になってしまわれたのではないかと」
これを聞いたアガタは笑い出した。
「ははは!なるほど。そうか!確かにな……!人を集める条件を女だけに絞ったのが良くなかったか!」
どうやら彼女は、今の指摘によって漸く……「去年来、募集を掛けても人が集まらない」という現実に対する答えが見付かったようで、これまで見た目で全く「隙の見えない切れ者」と言う印象だった彼女が初めて虚を突かれた態度に出たのでネラも逆に驚いた。
「そうか。確かにな……。つまりは『娘の操に危険が生じる可能性』を、その娘たちの親は危惧したのだな?」
「は、はい……。今にして思えば大変にご無礼かとは思いますが……」
「まぁ、お前が見ても分かるだろうが……私もこれで一応『女』だからな。これから私自身で手掛ける事業において、男手を借りるのは避けたい気持ちがあったのだ」
なるほど……そう言う事だったのか。ホウを始めとする《青の子》側の分析としては当初、この「女中募集」の主体は屋敷の主である王兄であると予想していたので、どうしてもこれまでにありがちな「そう言う目的」をも想定して屋敷への潜入方法を検討していたし、実際これに志願した自分も「そう言う覚悟」をしていた。
しかしどうやら、現在この屋敷の内外を仕切っているのは二十代後半にも見える、目の前の女性……相当に「切れ者」の雰囲気を持つ人物で、現時点において屋敷の主である「王兄ロメイエス」の気配は感じない。
(もしかして……イバン隊長が仰っていたように、王兄自身はもう……)
そのような疑念が湧いて来て、多少気が重くなってきたところで扉をノックする音が聞こえてネラは我に返った。そして例によって扉が少しだけ開けられ、廊下より守衛の声だけが聞こえてきた。
「オミ殿が参りました」
「通せ」
アガタの返事を聞いたのか扉が更に開かれて、女性が1人部屋に入って来た。見た目の年齢はネラよりも4、5歳上か。アガタよりも年上な感じがする。目に入った人物の年齢を推測する訓練も積まされる《青の子》隊員としてネラが見たところでは、アガタは26、7歳、そして今入って来たオミと言う女性はその1歳か2歳上……30歳には達していないように思えた。
オミと言う女性は容姿は平凡だが背丈があり、154センチのネラと比べて20センチ近く高い。アガタも160センチ台後半と思われるが、彼女と比べても頭半分は高かった。そのオミはネラにチラリと目線を送りながらアガタの机に近付いて、やや低めの声を発した。
「お呼びでしょうか?」
「うむ。漸く募集していた女が1人来てくれた。紹介する。ネダだ。案内してやれ。ネダ。彼女はお前達を束ねるオミだ。仕事の内容と、部屋について案内してもらえ」
「は、はい……。オミ様。ネダと申します。宜しくお願い致します」
ネラは緊張した演技を続けつつオミに頭を下げた。
「ネダさんね。オミよ。宜しく。では仕事場に案内するわ。付いて来て」
オミは大柄な体からは想像しにくい穏やかな物言いで、アガタに会釈してから部屋の出口扉へ引き返して歩き始めたので、ネラも慌ててアガタに会釈してから、それに続いた。
廊下に出てから、先程歩いて来た階段方向とは逆側に向かって歩きながらオミは
「よく来てくれたわ。これで多分……『新しい事業』を始められるんじゃないかしら」
そのように言いながら、声は先程よりも少しトーンが高くなったように思えた。
「新しい事業……ですか?もしかして、塩をどうこうするって……」
「ええそうよ。アガタ様から聞いたの?」
「いえ……。私をこちら様にご案内して下さった神殿の方……シウド様でしたっけ?」
「ああ、なるほど。シウド様から聞いたのね。その通りよ」
「この街に入って来る塩を、このお屋敷に一度集める……そのようにお伺いしました」
「そうね。その為に塩の出入りをちゃんと管理する必要があるのよ。貴方にはそれを手伝ってもらいたいの」
「なるほど……そう言う事なのですね。でも……そうなると私の父達は大丈夫かしら……」
「貴方のお父さん……?何をされている方なの?」
「はい……。私の父と兄はずっと東にあるワラダと言う村から国中を回って行商をしているのです。最後にこの街に国中から集めて来たものと塩を交換してまた帰って行くんです」
「あら……行商をやっているのね?でも……それなら却ってこの街での商売は楽になるんじゃない?」
「え……?そうなんですか?」
「ええ。だって、お屋敷で塩の取り扱いを一元化すれば……これまで市場で好き勝手にやっていた塩商人達と塩を持って来てくれる人達が一々交渉する必要が無くなるし、足元を見られる事もなくなるから……闇に流れる塩も減るでしょうしね」
「闇……?闇に流れるとは……?」
それまで兄からも聞いた事が無かった「闇の塩」の存在を聞いて戸惑うネラに、それを答えようとしたオミが何かに気付いて、急に立ち止まって居住まいを改めた。廊下の端に寄って頭を下げる。
「ネダさん。壁に寄って。このお屋敷の主様がいらしたわ」
その言葉を聞いてネラも慌ててオミに習って廊下の壁際に寄って頭を下げる。チラリと一瞬だけ目線を上げると……美しい青年が穏やかな表情で通り過ぎるところだった。
「ご苦労様」
青年は壁際に寄って頭を下げた2人に、見た目通りに穏やかな調子で声を掛け、そのまま通り過ぎて行った。
その後ろ姿を見送りながら、オミが言った。
「ネダさん。今のお方が、この屋敷の主様。女王様のお兄様であらせられるロメイエス様よ」
「い、今のお方が……ロメイエス様……王兄様……」
動向どころか、生死すら不明……と言われていた王兄を初めてこの目で見たネラも、その通り過ぎる姿から目が離せずにいた。
(王兄ロメイエスは、確かにまだ生きているのね……)
これが《青の子》隊員ネラと王兄ロメイエスとの最初の出会いであった。