悲しみを乗り越えて
今回から新しい章に入ります。
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
エスター大陸の北西部、この辺りは赤道からもやや離れている為にトーンズのある中部内陸地帯よりも「季節らしい季節」がそれなりに感じられる地域である。
そもそも、この大陸は古代の大戦争によって隣のロッカ大陸と切り離されてしまったわけだが、何もその全土が荒野であると言うわけでは無い。
大陸北西部には暗黒時代を経て現代に至る10000万年の間に、戦争前のものとは大きく植生が変わってしまったとは言え……緑豊かな地域もあるし、北方のジッパ島を経由した東西の大陸からの物貨の流入もあって作物栽培も盛んに行われている。
但しその「豊かさ」が平和へと繋がらないところが、この大陸の「救われない部分」であり……嘗てはこの北西部に拠点を設けていた魔法ギルドや、救世主教団でさえ手を引いてしまったと言う過去を持っている。
―――豊かであるが故に争いが起こる
2人の少女は緑豊か……だった草原地帯を駆け抜け、普段……両親から口酸っぱく「近寄ってはならない」と言われていた荒地に足を踏み入れた。
その両親は……どうなったのか。2人の少女……姉妹は後ろを振り返る事無く走り続けた。母親が最期の力を振り絞って
「逃げなさいっ!逃げてっ!」
と叫びながら2人を家の裏口から逃がしてくれたのだ。父が「奴ら」に命懸けで抵抗している間に……。
村に見た事も無い恰好をした、いかにも「荒っぽそうな奴ら」が現れたのは、姉妹と両親が揃って夕食の机を囲んでいた頃であった。彼女達の家はそれほど裕福では無かったが、土地の地味は悪く無く……作物もきちんと育つ地域で、時折「自分達の国」と「太陽が昇る方にある国」が何かと諍いを起こしているとは聞いていたが、彼女達の住む村は国の中ではかなり「太陽が沈む方」に位置している為に、これまでは「何か遠くで起こっている事」として捉えていたのだ。
その「太陽が昇る方」から「奴ら」はやって来た。この村までやって来たと言う事は……「自分達の国」は既に「奴ら」によって蹂躙されてしまったのか。姉妹の父親は外の騒ぎを聞いて家から飛び出して行き、暫くして慌てたように戻って来た。
「奴らだっ!奴らが来るっ!こんな場所にまで……族長様達はどうなすったんだ!?」
父の恐慌ぶりに母も飛び上がり
「どっ、どうするのさっ!どこに逃げればっ……」
母がそこまで言ったところで、外から大きな悲鳴が聞こえ……「奴ら」は既にこの家の近くにまで迫って来ているようであった。
「クソっ!お前は子供達をっ!」
そう言って父親は扉の横に立て掛けてあった、木鍬の柄を手にした。寝る前までに外れてしまった刃床を修理しようと納屋から持って来ていたのだ。
「早くっ!ここは俺が食い止めるっ!早く子供らをっ!」
夫から急かされた母親は、2人の娘に
「裏からっ!裏から逃げてっ!垣根の向こう側に隠れながらっ!」
そうしている間にも「こっちにも家があるぞっ!」と言う荒々しい声が聞こえて来る。母親も姉妹も完全に恐慌状態となり、慌てて裏口に向かって走り出した。妹は食べ掛けのパンを握りしめながら……。
背後で父親の「この野郎っ!何しに来たっ!来るなっ!」という怒鳴り声と何か打ち合うような音。父親は家の入口で必死に抵抗しているのだろう。
母親は裏口から裏庭を通って垣根の切れ間に姉妹を押し込み……
「逃げなさいっ!お日様が沈む方にっ!あの……荒地の方に向かってっ!息の続く限り……逃げなさいっ!」
「母さんっ!母さんはどうするのっ?父さんはっ!?」
今年で15歳になる姉……近所でも賢く美しく育ったと評判の、上の娘が……それでも声を落として垣根の向こうに居る母親に尋ねた。
「私達の事はいいからっ!あなた達だけでも逃げなさいっ!絶対に『奴ら』に捕まっては駄目よっ!」
「母ちゃんっ!母ちゃんっ!わぁぁぁぁ!」
パンを握りしめながら妹は泣き叫んだ。彼女は今年まだ……10歳になったばかりだ。
「行きなさいっ!行ってっ!母ちゃんの分まで……」
そう言い残して母は駆けて行った。垣根の隙間から……母はどうやら囮になるべく家に戻ったのだ。父親はまだ「奴ら」を食い止めてくれているのか……。
「行くよっ!ほらっ!泣かないでっ!ねっ!」
姉は逃げる決断をしたようだ。両親が命懸けで自分達を逃がしてくれている……。彼女はその事を正確に理解し、泣き喚く妹の口を押さえて彼女の体を抱えながら走り出した。
お日様の沈む方向―――西の荒野に向かって。
一度だけ後ろを振り返った。村を囲むように掘られていた濠……生活排水が流れ込むように作られた水濠に、橋代わり掛けられた板切れを渡り切った時にだ。
……村には既に火が掛けられていた。石造りの壁に板屋根の家々が燃えている……そして、間も無く自分達が暮らしていたあの家からも火の手が上がった。「奴ら」の仕業か……それと両親のいずれかが自ら火を放ったのか……。
姉は泣き出したい気持ちをグッと堪え……妹の手を引いて荒野に向けて駆け出した。
****
荒野は危険な場所だと……幼い時分から父親に何度も言われていた。この大陸にはずっと昔……「魔物」と呼ばれる異形の者達が地上の全て地域において闊歩していたらしいが、ある日突然「お日様の沈む方向」からやって来た「黒髪の勇者さま」が魔物をみんな「お日様の昇る方向」に追いやってくれた……という「言い伝え」を死んだ祖母が聞かせてくれた。
それ以来、魔物は居なくなったのだが……荒野には色々な獣が住み着き始めたようで、村の狩人のオジさん達は毎日のように荒野に狩りに出掛ける。毎日とは言ったが、何日も帰って来ない日もあったり……ついに帰って来なかった人も居た。
時折、大きな獣が獲れた時は何人もの大人達が棒に括りつけた得物を担いで村まで持ち帰り、村の広場で解体して肉が村人に振舞われた。そうしてこの村の人々は力を併せて平和に暮らしていたのだ。
その平和な日々と、自分達の村は……魔物が追いやられたと聞いていた「お日様が昇る方向」からやって来た「奴ら」によって壊された。両親はもう……生きてはいまい……。
妹は漸く落ち着いたのか、泣き喚く事も止め……今は黙って付いて来ている。それでも時々鼻をすすり上げる音は聞こえて来るので、泣き止むまではいっていないのか。
姉妹はやがて息が上がって走るのを止めたが……それでも歩き続けた。既に日は暮れており、逃げる方向の目安にしていた「お日様」が見えなくなっても、歩き続けた。夜の荒野にはどのような恐ろしい獣が住んでいるのか分からない。「特に夜に荒野へは絶対に近寄るな」と、子供の頃から父親に厳しく言われて来たのだ。
今から約11000年前に起きた前文明の列強大国同士による大戦争では、周知の通り当時世界の中心であった超大陸ノーアの主に南西部で数多くの超兵器が使用され、最終的には超大陸が「2つに割れる」という事態にまで発展した。
それに伴って超兵器着弾爆心地点を中心に「高熱高圧で変質した魔素」が撒き散らされた。同時期に世界中の別地域にも大なり小なり超兵器の使用があったので、変質魔素の拡散は惑星規模に及び……地表の生態系は一旦滅亡する事となった。
しかし死滅したのはあくまでも地表部分で生命の営みを持っていた生物だけであり、地下の避難壕に逃れていた人々や、地表からそれ程深度が無かった洞穴などにおいても……爆心地から離れていた場所では比較的大型の生物も生き残った。
他にも人類と共に有望家畜としてシェルターへ共に避難させた使役動物や、愛玩動物も生き残って子孫を繋げたし、野生動物も上記のような状況で生存した個体がそこそこ居たのである。
大戦争発生による「地表の災厄」は概ね1年程で終息に向かい始めたが、その被害はもちろん甚大であり……特に超兵器の着弾破壊が直接発生した数時間で人類の約97パーセントが喪われ、その他の動植物も同じくらい死滅した。
その後は爆発によって舞い上げられた塵などによって日照が遮られたりして地表環境は極度に悪化しながらも、生き残った人類は大破壊にも耐えたシェルター内で生命を繋げ、野生動植物も洞窟や山中の岩陰、海洋の水中で活動を継続する事が出来た。
しかし……変質した魔素によって、生き残った動植物……特に動物の中にそれまでの氏族進化の道程を無視した異変が発生し、その結果として……まるで異なる能力を獲得した「変異種」が惑星のあちらこちらで誕生し始めた。
数十年が経ち、生き残った人類が「そろそろ様子を見に出ても良かろう」と言うかの如く、環境装備を整えた上でシェルターから「変わり果てた我が星の地上」に出て来てみると……生物や植物はそれなりに散見出来た。この事態に生き残った人々は「一瞬」歓喜したのだが……やがてその詳細が明らかになるにつれて、歓喜が「戦慄」へと変わって行った。
彼ら地上に戻った人類が目にしたもの……それは節々が曲がりくねった奇形植物が広がる「平らになった」大地に蠢く、人間の身体……それをも超える大きさの昆虫や「見覚えのある」小動物だった「存在」が、彼らに襲い掛かって来る光景であった。まるで……「貴様ら愚かな人類の犯した大罪の報いを受けよ」と言わんばかりに……だ。
変質した上に惑星中にバラ撒かれた魔素の影響を受けた……主に閾値の低い昆虫や小動物の体内に、魔素に対して反応する器官が急速に発達し、雪だるま式に変異進化を重ねた。生き残った人類が2世代……約50年の間、シェルターとその僅かな周辺を活動範囲としている間に、何世代、何十世代も重ねた「魔物」は……第二紀に入って100年も経つと、1人の人間では全く太刀打ち出来ない程に凶悪進化していた。
月面から帰還した、ルゥテウスの先祖マルクスを首班とするコミュニティは、地下シェルターで生き延びた者達よりも、相当に早い時期に地上に降り立って活動を開始したのだが、やはりこの「魔物」の急激進化には悩まされた。
「地下シェルター」という防衛拠点を持たない彼らは、約2万人という人口規模を生かした集団防衛によって魔物を退け続けたが、それでも魔物の進化は日々急速に進み……地上の人類……後世「サンデル」と呼ばれるその人類コミュニティは、徐々に劣勢に立たされる事となる。
結局、その後数世代……正確にはマルクスの5世代後に出現した「漆黒の魔女」によってサンデルは救われ、更には彼女が生み出した「魔術」という人類の新たな「技術」のおかげで「人類の劣勢」はやや緩和されたが……人類が「魔物に怯えずに暮らせる」時代が訪れるまで、更に8000年近くを要した。
しかし「魔物」という存在は、その発生と進化が非常に特殊であり、地表壊滅時における「小さな者達」に対して変質魔素が作用したのだが、人類を始めとする比較的大型の「生き残りし者達」には殆ど影響を及ぼさなかった。つまり魔物化は「変質魔素の影響を受けた小さき者達」だけに起こった現象であったので、地表の過酷な環境が終息するまでに生き残れた大型生物は、その後も緩やかな「正常進化」を伴った世代交代を続けたのである。……ごく僅かな「例外」は存在したのだが。
……姉妹が逃げ込んだ「荒野」は、これら暗黒時代を生き残った野生動物……とりわけ魔物同様に人類の脅威となってきた肉食の獣も棲息している。この大陸は3000年前に西の海の向こうにある北サラドス大陸同様に「髪と瞳が真っ黒な勇者」によって大陸北西を占める「死の海」沿岸部を除き「魔物の駆逐」が成されたのだが、「魔物ではない」これら古来からの所謂「野生生物」は、その対象外となった。これは北サラドスでも同様であり……当時の「黒き福音様」がその線引きをどのようにしたのか……は現代人にとって「大いなる謎」の1つとなっている。
姉妹は文字通り「荒れた大地」を一晩中歩き続け、背中の方から「お日様」が昇り始めてから自分達の村……まだ遠目に立ち上る煙が見える方向から「追っ手」が来ない事を確認してから、自分達の背よりも大きな岩陰に隠れて体を休めた。妹が握りしめていたパンを見せ
「半分こしよ」
と、姉に申し出た。姉は無理やり笑顔を作って
「ううん。それはあなたが食べなさい。そうね……今は半分だけにして……、夜になったら残りを食べなさい」
「でも……ねぇちゃんも、お腹空いてるでしょ?」
「大丈夫よ。姉ちゃんは後で何か探すから……。それよりも疲れたでしょう?それを食べたら眠りなさい。お日様が頭の上から落ち出した頃にまた歩き始めるから」
姉は父親や近所に住んでいた狩人達から、「野獣は夜行性である場合が多い」という話を聞いていた。「夜は危ないから村の中であっても出歩くな」という父親なりの警告であったが、姉は今更ながらそれを思い出していた。昨夜は村からの逃亡を優先する為に夜間行動を強行してしまったが……今考えると背筋が寒くなる。
彼女はそこまで気が付いて居なかったが、昨晩は彼女達の村で起きた騒乱によって近辺の動物は皆逃げ散ってしまっていた。少なくとも村から15キロ程度……今姉妹が身体を休めている場所は偶然なのか、その範囲ギリギリの場所であった。
巨岩と巨岩の「隙間」で妹を休ませた姉は、付近を探し回り……自分の拳程の大きさがある「トンの根」と呼ばれている野生植物の球根を幾つか掘り返して来た。この辺りの住人に「トン」と呼ばれているこの多年性植物は、地上部の茎や葉は硬くて加熱しても可食が難しいのだが、球根部分に水分を貯蔵する性質を持っている。
やはりこの荒野で何日も狩りを続ける狩人が、しばしばこの球根から水分を補給する……と、姉は子供の頃から聞かされていたし、実際に土産代わりに近所のオジさんが持ち帰ってきたトンの根を石で擦って剥がれた球根組織を指先で摘まんで絞り出す「水」を飲ませて貰った事もある。
その時に口にした球根が蓄えていた「汁」は村の井戸で汲める水よりも酸っぱいし不味いのだが、今はそのような贅沢は言っていられない。彼女は球根を石で擦って僅かに滲み出す汁を口に含んで顔を顰めた。
姉妹はそのまま昼下がりまで眠り……まだ自分達の暮らしていた村の方向に立ち上っている煙から遠ざかるように荒野を再び歩き始めた。
『お日様が沈む方向に向かいなさい』
という母の言葉に従って彼女達は西に向かって歩いた。日中の、まだ日が高い時間だと……その方向を見失いがちになったが、日が沈む頃には必ずその方角を確かめてから「夜を過ごす場所」を探して身体を休めるようにした。この広い荒野で2人きりの姉妹は……途中生えている草や木の実、花の蕾まで齧って飢えに抗った。
しかし悲しい事に……草花の可食に対する知識が無い姉妹は、次第に体力が失われて行く。口にした植物に何か毒性があったかもしれない。それを火に通す事もせずに生で齧っていたのだ。姉は必ずまず自分が先にそれらを口にして、自らの身体に即効性の異変が感じられなければ妹に勧めた。このような生命の限界に挑むかのように……姉妹は荒野を西に向かって歩き続けたのだ。
やがて……どれくらいの日が経ったのだろうか。実際には10日程だろうか。沈み行く太陽の方向に翻弄されながらも、概ね西南西に向かって彼女達は140キロ程度を進んでいた。ここまで歩けば、当然だが村を襲い両親を……恐らくは殺した「奴ら」の追跡からは逃れられたはずである。
姉妹は既に、そのような「自分達を追う者」の事など頭から離れていた。今の彼女達は、それよりも……
「いつまで歩けばいいのか」
その事だけを考えながら重い足を引き摺るようにして「お日様が沈む方向」を目指していたのだ。荒野に僅かながら葉茎を伸ばしている草を掘り起こし、葉を齧り、根を石で磨り潰して土混じりの汁を口の中に垂らす……。最早彼女達は「生きる」事と「西に向かって歩く」事だけを朦朧とした頭の中に自ら命じながら歩き続けていた。幸いにして季節は春を迎えたばかりで、暑熱や寒冷は殆ど感じない……日が暮れてから野宿をしても、それ自体に体調を悪化させるような気温では無かったので、彼女達は何とか生き延びる事が出来ていたのである。
姉もそうだが、妹も極端に無口になっていた。口を開くと体力が失われる……。本能的にそれを感じているのか。岩陰で眠りこけて、朝日が昇る頃に先に目覚めた姉が彼女を起こす時だけ……それでも姉は笑顔を作って妹に語りかけた。
「大丈夫?立てる?……じゃ、今日も頑張ろう。ねっ?」
妹も……無理に笑顔を作って姉に「うん」と頷いてみせる。まだまだ子供である妹は、明らかに姉よりも体力が無いはずなのに、必死になって歩き続けている。まるで……姉に置いて行かれるのを恐れているかのようにも見える。
……そして、その日はやって来た。
村から逃げ出して……もう何日目だろうか……。それすらも解らなくなっていた夜。姉妹はその日も日没前に身体を休ませる……夜眠りにつく為の岩陰を見付ける事が出来たので、座り込んで居た。今日も日の光で空が白む頃から10時間近く、途中休憩を挟んで草を齧ったりしながら歩き続けた。姉妹の体力は既に限界を超えている。生への本能が……そして母の「最期の言い付け」だけが2人を動かしていた。
座り込むと妹はすぐに眠ってしまった。日はまだ完全に暮れ切っておらず、周りの様子が薄っすらと見える。既に軽い寝息を発て始めた妹の薄汚れた顔を見て……姉は涙を零した。自分独りだったら絶対に諦めていた。そしてこの荒野で野垂れ死んで屍を晒していた。この子が一緒に居たから……この子だけは生きて「お日様の沈む場所」に届けたい……。その一心で彼女は生き延びて来たのだ。
草の根を磨り潰した汁だけを口に含みながら繋いで来た生命……。既に身体の中には水分がどれだけ残っているのだろうか。いけない……ここで涙を流しては……余計な水分を失うわけにはいかない。
彼女は土に汚れた手で目を拭った。その時……いつもとは違う……「音」が聞こえてきた。
―――ウォルルゥゥン
それは……「何か」の鳴き声だろうか……。鳴き声……このような夜に……。
彼女はハッとした。それはこの荒野に生息する……食物連鎖の頂点に君臨しているであろう存在。
―――ヒタ、ヒタ、ヒタ、サッ
いつもであれば却って耳が痛くなるくらいに静かな夜の荒野に……「何か」が足を運んでいるような音。決して人間では無い……「何か」が夜の闇に紛れて近付いて来る音。静かに獲物に近付こうとしている音……。
「起きてっ!起きなさいっ!」
姉は慌てて妹を揺さぶり起こした。妹は既に深い眠りに落ち掛けていたが、姉の何やら切迫した声に驚くように目を覚ました。
「何か……何かが来ているわっ!逃げる用意をしてっ!」
姉はその辺に落ちていた石を拾い上げた。注意深く辺りを見回す。日は既に暮れ切っていて夜の暗闇に支配されていたが……それでも辛うじて星明りと……これまで自分達が進んで来た方向とは逆側の空にかなり低くはあるが昇り掛けている細長い月の光で……僅かながらだが地面が見えた。そのお陰で天地の失調を起こす事無く姉妹は立ち上がる事が出来た。
辺りを見回していた姉の背後から……不意に「何か」が飛び掛かって来る……ような気配を感じて、姉は咄嗟に地面に身を投げた。
正に間一髪……と言ったところだろうか。「何か」は姉の左肩口を掠めて、倒れ込んだ彼女の前方に降り立った。仄かに照らす月と星の明かりが……その「何か」の姿を浮かび上がらせていた。
四本足の生物……獣だろうか。その大きさは……朧気に見える様子で体高が1メートル以上はある。僅かな星明りに反射したその両眼は黄色く……妖しく光っている。これは……村の家畜を時折襲うオオカミ。それも姉がこれまで見た事も無いくらいに大きなオオカミであった。
彼女を睨み付けているその獣から低く唸る声が聞こえた。そして……それに応えるかのように、背後の岩の上からも……唸り声が聞こえる。
姉は咄嗟に振り向き……岩の上にも同じような大きさの獣がもう1頭居る事に気付いて愕然となった。
(そっ、そんな……ここまで来て……ここまで来れたのに……)
この状況で逃げても……今の姉妹に残された体力では到底逃げ切れないだろう。走れと言われても……既に十数日間に渡って、草の葉と根だけを齧って飢えと渇きを凌いで来た彼女達に……それは難しいと思えた。
で……あるならば……。姉の出した結論は……
「逃げてっ!姉ちゃんがこいつらを引き付けておくからっ!あなたはその間に逃げなさいっ!」
姉は妹に対して絶叫した。この子だけは……この子だけでも逃がさないと……。
しかし妹は姉の叫びに対して
「いやっ!ねぇちゃんが死んじゃうよっ!」
泣きながら喚き返して来た。
「いいからっ!このままだと2人ともやられちゃうっ!あなたを守りながらじゃ、姉ちゃんも上手く動けないのっ!だからっ!あなただけ逃げてっ!あっちっ!あっちの方に向かってっ!」
左手に石を持ち、空いた右手で月とは逆の方向……「お日様が沈む方」を指差した。その顔……哀しみで一杯の表情は……妹からは見えなかった。ただ彼女が指差す、その「影」だけが見えるだけ……。その「最後の顔」も……見る事が出来なかったのである。
「ねぇちゃん!いやだっ!いやだよっ!」
「お願い……姉ちゃんの言う事を聞いて……。お願い……あなただけでも……お願い……」
最早姉は、妹に「お願い」する事しか出来なかった。強い言葉で言っても……この子は聞き入れないだろう。これから独りで生きていかなければならない妹を……送り出す為には「お願い」するしか無いと……彼女は悟ったのだ。
妹はそんな姉の……夜の暗闇でその表情すら見る事も出来ずに、しかしそれでも必死でそれを頼んでくる姉の言葉に、もう余計な事も考える事も出来なくなって
「あとで……あとで必ず……待ってるからねっ!」
「うん。姉ちゃんも向こうに逃げてから……あなたを追うから。あなたはとにかく……お日様の沈む方に……ね?止まっては駄目。独りになっても……止まっては駄目よ……」
食べ物も……飲み物ですら満足に摂っていないその小さな身体が……それでも駆け去って行く足音を聞き……、それを追おうとした目の前の「獣」に向かって手に持つ石を叩き付けるように威嚇しながら姉は……
(頑張って……!姉ちゃんはここまでしか来れなかったけど……あなたは……お日様の沈む場所へ……)
「来なさいっ!あの子は追わせないっ!お前達は……ここで私と一緒に死ぬのよっ!」
石を利き腕の右手に持ち替えて……姉は最期の力を振り絞るように、2頭の「黒い影」を睨み付けた。身体の向きを変えて2頭が同時に視界に入るように位置を変え……両手を広げながら……とにかく時間を稼ぐように……。
左側で唸っていた黒い影が飛び掛かって来た。その牙が左肩に食い込む……。その頭部を噛まれた反対側の手に持つ石で殴りつけようとした所に……もう1頭が襲い掛かってきた……。
****
「ねぇちゃん!ねぇちゃん!わぁぁぁぁぁ!」
妹は泣き叫びながら走った。姉が指し示した「昇る月」とは反対側の方向……それは昼間であれば「お日様が沈む方」であったが、妹はそれすらも意識せずに泣きながら走った。涙で前がよく見えなかったが、元より周りは夜の暗闇なのである。
一度躓いて転んだ。どうやら右頬を擦り剥いたようだが、その痛みにも構わず起き上がって彼女は走り続けた。やがて声も枯れ、泣き疲れて足が止まりそうになったが……それでも姉に言われた通り、彼女は走り続けた。これまで草の葉や根っこだけしか口にする事無く……身体から力が失われて行く……腹の底が冷たく……それでも燃えているかのような気持ち悪い感触……それでも姉の言い付けを……母の言い付けを守りながら彼女は走り続け……気が付くと、地面に倒れ込んでいて動けなくなっていた。
あそこから、どれくらい離れる事が出来たのだろうか。姉は……どうなったのか。ここでこのまま眠ってしまえば……この「悪い夢」は醒めるのか。目が覚めたら……いつものように自分の家の……姉と一緒に使っている部屋のベッドの中で……「起きなさい。もう朝よ」という優しく美しい姉の声がして……。
彼女の目が閉じられた……。「夢ならば……さめて……」という言葉を残して。
****
「ふむ……避難民かな。まだ息があるようだ」
「ひとまず……ここからだと『4番基地』が近いな。背負って行こう」
「よし……。おっ……!?何だこれは……何て軽い……」
「多分……何も食って無いんじゃないか?どこから来たのか……よくもまぁ……こんな子供が独りで……」
妹は……気が付いて、何とか目を開いた。自分はどうやら……気を失っていたのだろうか。あれから……どれくらいの時間が経ったのか。そして、自分は今……どういう状況に置かれているのか。
目を半分くらいまで開いてみると、薄い茶色の……髪の毛?だろうか。それが自分の額に当たっている。力の入らない両手はダラリと下がったままだが、どうやら足を抱えられている。自分は誰かに背負われているのか。このツルツルとした感触は……自分を背負っている誰かが着ている服……革製の衣類か。
妹……少女は「誰かに背負われている」という状況を理解し、声を上げた。この「誰か」は……自分達の村を襲いに来た「奴ら」なのではないか。彼女は咄嗟にそう思い込んでしまったのだ。
「やめてっ!放してっ!」
少女はまだ僅かに残っていた力を振り絞って自分を背負っている「誰か」に抗った。腕を振り回し、足をバタつかせて放せ下ろせと暴れる。
「うおっ!気付いたのか?おっとっと!落ちるぞっ!やめろっ!」
自分を背負っている「誰か」はどうやら男であり、彼は自分の背中で突然暴れ始めた少女を宥めるかのように声を上げた。
「分かったっ!下ろす!下ろすから暴れるな!危ないって!」
「ジルっ!助けてくれ!この子を下ろしてやってくれ!」
「おいおい!暴れるな!ほら。今下ろすからっ!」
もう1人……彼女を背負っていた男とは別の「ジル」と呼ばれた男が慌てながら、彼女の腕を取り押さえ……そのまますっかり軽くなった彼女の体を、「相棒」の背中から抱え上げて地面に下ろした。
「そう怖がるな。俺達はお前の『敵』じゃない。倒れていたお前を助けたいんだ。分かってくれ」
地面に下ろされ、それでも自力で立ち上がれずに後ずさるだけの少女に向かって「ジル」が努めて優しい声で話し掛けた。
「大丈夫か?ほら。自分で立てないんじゃないのか?とりあえずこれを……」
ジルが腰に提げていた水筒の蓋を開けてを差し出した。少女を安心させる為か、彼女の目の前で少しだけその中身を零してみせる。中に入っているのは透き通った……ここ最近ずっと見る事の無かった「水」であった。
少女は、その水を見て……差し出された水筒ににじり寄って手を……震える手を上げた。ジルはその手に更に水を少し零してやると、少女は汚れた掌に零された水を急いで舐め始める。
「ほらほら。そんな汚いのを舐めるな。これで飲め」
更に水筒を差し出すと、まだ立ち上がることの出来ない少女は上目遣いで警戒感を露わにしながらも……水筒を受け取り、その乾き切った口に水を流し込んだ。
「おいおい。あんまり急いで飲むな。お前、何も飲み食いして無いだろう?急いで飲むと腹痛を起こすぞ」
ジルが苦笑いを浮かべながら諭すように言葉を掛けたが、少女は水筒を勢いよく傾けたまま、浴びるように水を口の中に流し込み、気管に入ってしまったのか……猛烈に咽せ始めた。
「ほら言わんこっちゃない。ゆっくりだ。ゆっくりと……口のなかで噛むようにな。ロイ。お前のも渡してやれ」
ジルは、初めに彼女を背負っていた男……「ロイ」にも水筒を差し出すように言った。ロイもベルトから水筒を外して
「うむ。ほら……俺のも飲んでいいぞ。但しゆっくりとな」
ロイの手からも引っ手繰るようにして水筒を受け取った少女は、2人の話を聞いていないかのように水を口に流し込み続けた。
「やれやれ……」
苦笑するジルに対してロイが
「この子……どこから来たんだろうな。ここに来るまでどれだけ……この様子だと水は全く飲んでいなかったようだし……なにより痩せ方が酷い。いくら子供だからと言って、あの軽さは普通では無いぞ。きっと……追われていたんじゃないか?何かから夢中で……何も持たずに、いや持つ余裕すら無いくらいに……」
ロイの顔には何時の間にか怒りの感情が浮かんでいた。このような小さな子供を、このような境遇に追い込んだ「何者か」に対して……怒りを覚えているのか。
ロイの渡した水筒の水を飲み干した少女は、漸く落ち着いたのか……大きく息を吐き出して、そのままぐったりと地面に寝そべってしまった。
「ほらほら。こんな場所で寝ては駄目だ。どこか行く当てでもあるのか?」
少女は倒れ込んで……真っ青な空を見上げたまま、放心したかのように……それでも男の尋ねた事に対して小さく首を横に振った。
「……ぇちゃん……」
「うん?何だって?」
消え入りそうな掠れた声で少女が何かを口にしたので、ジルが顔を近付けた。
「ねぇ……ちゃん……ねぇちゃんが……あとで……来るって……」
散々叫びながら走った挙句に枯れてしまった喉は、大量の水分を補給しても声が戻っていなかった。
「ねーちゃん?姉……姉ちゃんがいるのか?お前は、姉ちゃんと一緒に逃げたのか?」
恐らくこの少女は……この辺りでよく見掛けるような「どこかから」逃げて来た者……つまりは難民なのではないかと見当を付けたジルがゆっくりとした言葉遣いで尋ね直す。
「ねぇちゃんが……私に逃げろって……あの化け物は自分が引き付けるって……うわあぁぁぁん!」
「あの時」の場面を思い出したのか……少女は突然枯れた声を放って泣き始めた。十分な水分の補給を受けたのか……地面に寝転んだまま、涙と鼻水で顔がグシャグシャになっている。
「引き付ける……何かに襲われたのか?えっと……人間か?俺やお前のような、人間に襲われたのか?」
「さ、最初は……『奴ら』が家に来て……父ちゃんと母ちゃんを……うぅぅ……」
「奴ら……?お前の家が襲われたのか……?それで?姉ちゃんと逃げたんだな?」
「母ちゃんが……逃げろって……『お日様が沈む方』に逃げろって……」
「どうやら『西』に向かって逃げるように言われたんだな。母親はこっちに海がある事を知っていたんかね?」
ロイが小声でジルに尋ねる。ジルも少し考える素振りをしたが、少女に質問を続けた。
「姉ちゃんと一緒に逃げたんだな?その……お日様が沈む方に向かって逃げたんだな?」
「ずっと走って……それからずっと歩いた……。そしたら今度はあの『化け物』が出て……」
「化け物……?何だろう?」
「えっと、化け物ってのは……どんな奴だ?人間じゃないのか?」
考え込むジルに代わって、ロイも努めて優しい声で尋ねる。
「わかんない……暗かったから。4本足で……大きくて……怖い声を出してた……2匹居たの……」
「4本足……?オオカミかな。確か……あっちの森の中にはクロエリオオカミの群れが棲んでると聞いた事があったな。奴らの縄張りは結構広いみたいだからな。森の外の荒地まで出て来るのかもしれん」
ジルが小さな声でロイに耳打ちした。ロイも「その可能性は高いな……」とジルの仮説を肯定した。
「姉ちゃんは……自分の身体を張ってお前を逃がしてくれたのか……?」
ロイは少し声を落とした。この目の前で横たわる少女の姉……どのような女性だったのかは判らないが、この少女の実姉であるならば、年齢もそれ程離れていないだろう。精々……、10代の半ばから後半くらいまでか。
そんな若い……まだ「女の子」と言ってもいいような年齢の女性が、妹を逃がす為に自らが犠牲になって……。
2人の男は何か居た堪れない気持ちになってその場に立ち尽くした。この2人も嘗ては「難民」であった。10年前に……この少女と同じように、自分の生まれ育った場所から逐われて……「西の海」に向かって歩き続けたのだ。
しかし2人とも、逃避行の際は独りではなかった。ジルは他の村人達と10人程の集団で肩を寄せ合うように西に逃げたし、ロイも両親と弟を連れて、やはり「西の海」を目指した。
『西には海があり……その向こうには『大きな国』がある。戦争の無い平和な、大きな国がある』
そのような噂がずっと広まっており、彼らはいざ逃げる際に、その「噂」に縋りつくかのように西を目指したのだ。そう……彼女が言う「お日様が沈む方」へと……。
2人はそれぞれの事情と、道連れと共に西の海を目指し……結局は海まで辿り着いたが、海を渡る事はしなかった。「どうやったらこの『広大な水溜まり』の向こうに渡れるのか」と、途方に暮れていた時に、今の彼ら自身のような者達に助けられたのだ。
そして今度は自分達が……「自分と同じような境遇に陥った人々を助ける」為に、「その組織」の一員に志願したのだ。
今、目の前に嘗ての自分達と同じ境遇の少女が横たわっている。しかも彼女は独りでここまで逃げて来た。両親と……そして一緒に逃げた姉が自らの生命を投げ出して、彼女をここまで逃がしてくれたのだろう。
彼女を最後に逃がした姉は……恐らくもう生きてはいないだろう。ロイは何度かジルの言っていた「東の森に棲むクロエリオオカミ」を見た事がある。全身を薄い灰色の毛に覆われているが、首の付け根……前足を支える胸の部分だけに黒い襟のような模様を持つ獰猛な獣である。
その身体は大きく……集団で行動するだけに、成人男性が武器を持っていても撃退するのは困難だと言われている肉食で狡猾な獣。それがこの辺の食物連鎖の頂点に君臨している「荒地と森の支配者」なのである。
そのクロエリオオカミ……しかも2頭に対して女の子が独りで対峙して生き残れるかと言えば……。
「ねぇちゃんは……私を追いかけて来るって……」
少女が再びボソリと言葉を口にした。喉の渇きが満たされたとは言え、その途端に抗い様も無い疲労が再び押し寄せて来たのだろう。そのまま目を閉じて眠ってしまった。
「どうする……?」
困惑した表情で相棒が尋ねるのへ、ジルが応える。
「もう、この子の姉は……駄目だろうな。この子だけでも……『基地』に連れ帰ろう。イリさんなら……何か考えてくれるだろう」
「そうだな……。そうするか。じゃ、また俺が背負うよ」
再び眠り込んでしまった少女を、ジルが抱き上げてロイの背中に乗せた。ロイは先程同様に少女の足を抱え上げて立ち上がる。
そのまま2人は無言で南西方向に向かって歩き始めた。彼らの属する組織……《青の子》がアデン海沿岸の海岸線地帯に設けた南北11カ所の《隠れ集落》のうち、最北側から数えて4番目の場所に位置している「4番基地」に向かう。
基地までの距離は今の地点から約5キロ程あるが、少女は2人が驚く程に軽くなっており、先程2つの水筒から水をたらふく飲んだとは言え、まだまだ背負っても全く苦にならないのだ。一体どれだけ「飲まず食わず」だったのか……。
2人はこの辺り一帯を巡回しながら、嘗ての自分達……今ロイに背負われながら眠っている少女のような「逃げて来た人々」を保護し、近隣の基地まで送り届ける任務を負っている。
そんな彼らも、巡回に出る時は携帯食料を持参している。任務中の自分達の分を含め、他にも今回のように「避難者」に遭遇した際に、「とりあえず」与える為の分も当然持ち物に加えている。しかしそれらの携帯食は、文字通り携帯性を高める目的で、水分を抜いて「固く」なっているものが多い。この携帯食を開発した《藍玉堂》のノン様は
「何日も食べ物を口にしていない人に、これをそのまま食べさせると、却って体調を崩しかねません。食べさせるのであれば、少量のお湯か水でふやかしてから与えて下さい」
と、使用上の注意をしていた。体内の水分が少なくなっている者に、これを固いままで与えると、口内の水分を持っていかれてしまって嚥下が大変であるし、胃の中でも水分不足によって消化不良を起こして危ないと言う説明を受けているのだ。なので少女に対して水だけを与え、携帯食を与えるのは見合わせたのだった。
2人は、このすっかり軽くなってしまっている少女の過酷な運命を想像しながら……相変わらず無言のまま、基地を目指して歩き続けた。
****
少女が目を覚ますと、そこは清潔なベッドの中であった。一瞬、自分の部屋……やはりこれは夢だったのか……とも思ったが、眠っていたベッドは自分達の家にあったそれよりも、余程上等なもので寝心地も素晴らしく……横になったまま見渡した様子は、見慣れた自分の部屋のものとは異なっていた。
(ここは……どこ……?)
少女はゆっくりと体を起こした。身体の節々……特に足が痛い。散々歩き続け、最後は気を失うまで走り続けた為だろうか。体内の水分が極度に不足したまま走り続けた為に、どうやら足を痛めていたようである。
足の痛みに顔を顰めながら起き上がってみて……自分は泥土に汚れた身体のままで、このような清潔なベッドに寝かされていた事に気付き、ベッドを汚してしまった事に狼狽していると……
「あら。起きたのね。気分はどう?」
優しい声……何かとても懐かしいような……隣に住んでいたイギーおばさんに似た声が聞こえたので、ハッと顔を上げてみると、部屋の入口……この部屋には扉が無く、廊下から直接部屋の中の様子が見える構造になっており、その入口に女性が立っていた。
歳はずっと……姉よりも上に見えるが、それでいて母よりは若い……。全体的に引き締まった印象の、その女性は
「どこか痛いのかな?」
更に質問を浴びせて来たので、少女は慌てて
「だっ、大丈夫……」
と応えた。まだ少し喉が枯れたままのようである。
「そう。歩けるかな?歩けるなら自分で身体を洗って来なさい。こっちに来て」
そう言うと、その女性は少女の体を支えてベッドから立ち上るのを助けてくれた。そのまま体を支えられながら何とか自分の足で歩き、部屋を出て廊下を右に曲がり……その突き当りにある部屋まで付き添ってくれた。部屋の扉を開けると、そこは浴室……の脱衣所になっており、部屋の奥の湯舟には湯が張られていて湯煙を上げている。
彼女が育った村では、このような「風呂」に入る習慣が無かった。燃料はそこそこ貴重であったし、「綺麗な水」も地下をそれなりに深く掘って漸く得られた井戸水に頼っていた為、このような「大量の湯を沸かす」という贅沢は出来なかったのである。せいぜい、体を濡れた布で擦って最後に頭から水を浴びる……寒い季節には湯で温めて絞った布で体を拭く……その程度の衛生習慣しか存在しなかった。
「あの……あのお湯で……洗っていいの?」
少女は困惑しながら女性に聞いた。女性は、自分自身が嘗て「風呂に入る習慣が無い」場所に住んでいた事があるせいか、少女の様子を見て瞬時に事情を理解し
「お風呂の使い方が解らないのね?」
そう言って、少女に体の洗い方……「風呂の入り方」を丁寧に教えた。生まれて初めて「石鹸」を目にして驚いている少女へ
「じゃ、終わったらそれで身体を拭いて。そしたらそこにある服に着替えなさい。今着ている服は後で洗っておくから。終わったら、さっきの廊下を……ずっと歩いてきて。あら。靴も泥だらけね。これを履きなさい」
と、サンダルまで用意して「じゃあね」と言って廊下に出て扉を閉めた。部屋の中は天井に湿気を逃がす為の出窓がある以外は窓も無かったが、かなり明るい照明が置かれており浴室の様子も良く見える。
少女は女性に言われたように身体を洗い、生まれて初めて「浴槽」で湯に浸かって驚くのであった。
****
風呂で身体を洗い、置かれていた新しい服に着替えた少女が言われた通りに浴室を出てから、自分が眠っていたような扉の無い部屋の前を何部屋も通り過ぎて、廊下を反対側まで歩いて来ると、いきなり視界が開けて……10メートル四方くらいの大きな、机と椅子がいくつか置かれた部屋に出て来た。
今の時間は夜……のようだ。壁には窓が何枚から嵌っており、ガラスもふんだんに使われていて、自分の生まれ育った村にある家々とは大違いの内装が上等に見える部屋には、夜だと言うのに先程の浴室同様に非常に明るい照明によって昼間の屋外かと思わせるような様子を見せていた。
少女が部屋の入口で立ち尽くしていると、部屋の中程にある机の椅子に座っていた先程の女性が気付いて
「あら。綺麗になったわね。初めて入ったお風呂はどうだったかな?うふふ」
と、優しく笑いかけて来た。その声も……やはり隣に住んでいた女性に似ていたが、その容姿は似ても似つかぬ……今、目の前に居る女性の方が明らかに若く、顔立ちも整った様子でやはり「この人は私の知らない人だ」という印象を少女に与えた。
「あの……すごく……気持ち良かったです……。身体が……軽くなったみたいで……」
そう言った途端に少女の腹から大きな音が鳴った。どうやら彼女の胃袋は空っぽで、昼間に大量の水を飲んだ為に、再び活発に動き出していたのだろうか。
「お腹が空いているのね。こっちにいらっしゃい」
少女が顔を真っ赤にしながら、おずおずと、女性の所までやって来ると、女性は少女を自分の隣の椅子に座らせてから、自分は立ち上がり
「今、ちょっと食べるものを持って来るから、少し待っててね」
と言って、少女が出て来た廊下とは部屋を挟んだ反対側の廊下に姿を消した。広い部屋の中には他に誰も居らず、独りそこに取り残された少女は、何となく落ち着かなくなり……辺りをキョロキョロと見渡し始めた。
実はこの部屋、ガラス窓の大きさと明るい照明以外は何組か並べられた机と椅子しか無く、机は全部で9卓、そこに椅子が4脚ずつ並べられていた。長辺向きに3列。短辺向きにも3列。合計9卓の机の、丁度真ん中の机の椅子に少女はポツンと座らされているのだ。落ち着かなくなるのも無理は無い。
やがて、2分程経っただろうか。女性が盆に少し深めの木椀を載せて戻って来た。少女の前に置かれた盆には押し麦粥の入った椀が載せられ、温かそうな湯気が上がっていた。少女の喉がゴクリと鳴ったのを聞いた女性は笑いながら
「どうぞ食べてちょうだい。どうやらずっと何も食べて無かったみたいだからね。今はそれで我慢してね」
我慢も何も、ここまで荒地に生えていた恐らくは雑草……の葉だけを齧り続けて来た少女にとって、目の前の何も具の入っていない粥はまさに「ご馳走」に見えた。少女は盆の上の木匙を取って椀に突っ込み、結構な勢いで粥を掬って口の中に入れ、その熱さに咽せ返った。
「ほらほら。落ち着いて食べなさい。ゆっくりとね。今も言ったけど、あなたは多分……ずっと食べて無かったのでしょう?慌てて食べると、却って体に悪いわ」
女性が笑い混じりに、それでも優しく語り掛ける。少女は口中の熱さに涙を浮かべながら、黙って頷き……やがて今度はゆっくりと匙を動かし始めた。
女性は水差しからコップに水を入れて盆の横に置いてやり、そのまま優し気な顔で少女の食事を見守っている。その顔には
「よくここまで……生きて辿り着いてくれましたね」
と言うような……感謝すらしているような様子が見て取れる。実際彼女は感謝していた。彼女もまた……嘗ての少女や、少女を運んで来た2人の男性同様……祖国を逐われた経験を持っていた。しかも彼女の場合は、そのまま「西の海」を渡ったのである。
彼女自身は幸いにも、海を渡った先が奴隷制を否定する先進国であった為に、それなりの苦労はしたが……すぐに一緒に船で漕ぎ出した人々と共に「統領様」がお造りになられたキャンプに収容され、その後に《青の子》に志願して選抜を突破し、諜報員としての訓練を受けた。
彼女は諜報員……と言うよりも北サラドス東部沿岸帯を巡回する「連絡員」として、自分と同じような境遇に遭った者達を救いたかったのだが、訓練期間終了の直前になって、なんと……自分が嘗て逃げ出して来た大陸……祖国のある隣の大陸に「難民の国」が建国される事になったのだ。そこで彼女は前述の北サラドス側の連絡員から、祖国の大陸側の「西部沿岸地域の連絡員」に志望を変え、見事それに選ばれたのだ。
そして3年前の正式な建国に伴って設置された西部沿岸地域の《隠れ集落》のうちの1つ……「4番基地」の責任者に任命された。今年で30歳。連絡員として8年の経験を買われての抜擢であった。
粥をペロリと平らげて、一息ついている少女に対して女性が再び語り掛ける。
「私は『イリ』って言うの。あなたの名前は?」
女性……「イリ」は少女に自分の名を告げ、そして少女に名を尋ねた。
「私は……私の名前は……」
少女は少し躊躇った後に自分の名前を告げた。
「そう……。私の事は『イリ』ってそのまま呼んでくれていいわよ。一応、ここ……まぁ、村みたいなものね。ここの運営を任されているわ」
「イリさん……た、助けてくれて……ありがとう……ご、ございま……うぅぅ……」
少女は……緊張が解れたのか……再び……「あの時」を思い出してしまったのか、泣き出してしまった。「あの時」とは、どの時の事か。突然に「奴ら」が村に襲い掛かって来た時か……。両親が、母が自分と姉に逃げるように言って垣根の向こうで家に引き返して行った時か……。それとも……。
イリは枯れた声を上げて泣く少女の様子をただじっと見守っていた。この子の事情は、この子をここへ運んで来たジルとロイから聞いている。この子は姉と共に……親に逃がして貰い、そしてその姉も自らの生命と引き換えるように、この子だけを逃がした……。
自分もそうであった。父と母に連れられ……3人で逃げた。彼女の生まれ育った土地は比較的「西の海」に近く、数日歩いただけで海まで辿り着いたのだが、その際……まだ幼かった自分を逃がす為に両親が犠牲になった。父は執拗に追ってくる略奪者を食い止める為に犠牲となり……足に深い傷を負った母も、最期は海岸で出会った他の避難者達に自分の事を託して息を引き取った。
イリは自分の村を襲った者達を憎み、すっかり「他人」を信用出来なくなっていたが、共に海へと漕ぎ出したボロ船の上で、人々と助け合いながら西の大陸を目指すうちに、その考えを改め……キャンプに辿り着いた頃には
『私のような人達を……今度は私が助ける。私を救ってくれた人達に……報いる』
と決意するまでになっていた。親を喪った自分を温かく迎え入れてくれたキャンプの人達、厳しい訓練ではあったが、家族のように接してくれた仲間達と監督や親方様。そして……
彼女が訓練を終える直前になって突然キャンプに現れた、あの美しい幼児は不思議な人で、彼が来てからキャンプの中の環境がみるみるうちに激変し、食べ物も美味しくなり……お菓子まで貰えるようになった。
その幼児は今では「美しい青年」になったが、時折この《隠れ集落》にやって来る。そして嘗ての自分と同じ境遇に陥った人々を助け続ける我々に対して優し気な笑顔で褒めてくれる。
その「店主様」の優しい顔と同じような表情で、イリもまた……目の前の泣きじゃくる少女を見守っていた。彼女が泣き止むまで……彼女の気が済むまで。
随分と時間が経っただろうか。少女は漸く、泣くのを止めた。その間……イリはずっと彼女を見守っていたのだ。
「い、イリさん……ごめんなさい……」
「いいのよ。私もね……。あなたのように、家族に逃がして貰ったの。あなたのように……家族から『生命を貰った』のよ」
「え……」
少女は顔を上げて、机の向かいに座るイリの顔をまじまじと見つめた。イリは相変わらず優しい眼差しで自分を見ている。その表情には『家族を喪った』という翳りはまるで見受けられなかった。
「私もね……あなたと同じなの。だから、あなたの気持ちは良く解るの。私のね……お父さんもお母さんも……多分……私に『生命をくれた』事を後悔していない……と思うのよ。いえ……、思うようにしたの。そうじゃないと、お父さんもお母さんも可哀想じゃない。もちろん……私自身もね」
イリは変わらず優しい顔だ。
「あなたはね……家族の皆に愛されていたのよ。自分の生命を差し出してでも……あなただけは助ける。そう思ったから……あなたを逃がしてくれたのよ。だから……あなたは……お父さんの分も、お母さんの分も……そして……お姉さんの分まで……幸せに暮らさないと……ね?そう思わない?」
イリの不思議な説得力のせいか、少女はその顔をじっと見つめて
「うん……うん……。父ちゃんも……母ちゃんも……ねぇちゃんの分まで……うん……」
彼女はゆっくりと頷いた。まだ悲しみが消えたわけじゃないが……自分の境遇を「受け入れる」決心がついたのかもしれない。
「じゃあ……まずは疲れた身体を休めなさい。元の身体に戻して……そうしたら『これから』の事を考えましょう」
腹中に食物を収めたからか、イリからそう言われた少女はまた眠気が回って来た。イリに促されて最初の部屋に戻ってみると、汚れていたベッドのシーツが綺麗なものに替えられていた。自分が風呂に入っている間にイリがやってくれたのか。少女は余計な事を考えずにベッドに潜り込んで再び目を閉じた。
「お休みなさい……。あなたには……身体にも……心にも休息が必要よ……」
そう呟くと、イリはベッドの上に吊るされていたランプの灯を消して部屋の外に去った。
****
少女はその後、「4番基地」で8日間を過ごした。ジルとロイの2人組は4日目と8日目の2回……基地を訪れ、少女に対して「出会った場所周辺の様子」を教えてくれた。2人は彼女と出会った場所から、やや範囲を広げて捜索していた。もちろんこれは……彼女を最後に逃がしてくれた「ねぇちゃん」を、その対象としてくれたのだ。少女の証言によれば……
「日が沈みそうになる頃に眠ってしまったが、多分すぐに起こされて逃げるように言われた。逃げる頃にはもう真っ暗になっていたが、それから夢中で走って逃げた。そこから憶えていない」
と言うものだったので、2人は少女が前日の日没直後に逃げ出し……「月とは逆方向に逃げた」という証言に基いて、出会った場所から主に東方向に対して10キロ以内に絞って探し続けたと言う。
捜索中は互いを見張りにして野営もしたが、森の北側の荒地でオオカミの遠吠えを聞いた。やはり少女の言う「化け物」はオオカミ……クロエリオオカミではないかと言う「確信」だけが残ったのだ。
《青の子》の2人組は根気強く捜索を行ったが、4日目に基地に戻り……その結果を少女に伝えた。そして更にもう一度北東方向を中心に捜索範囲を広げたが……収穫は無く、ついに8日目に再び基地へと戻って来た。
「ジルさん、ロイさん……どうもありがとうございました……」
あれから栄養ある食事を与えられ、休養も摂った少女は椅子から立ち上がって2人に頭を下げた。自分の為に目の前の2人が……あの危険な荒野に戻って「ねぇちゃん」を探してくれた……。2回目の「芳しくない報告」を聞いた時……哀しい気持ちで一杯になったが、少女は姉の消息について諦める事にした。
まだ10歳という年齢ではあったが、彼女は目の前の大人の男2人を
「これ以上……自分の為に危険な捜索を続けさせるのは心苦しい」
と悟ったのだ。
「ねぇちゃんは……多分、今頃……ちゃんと逃げられているんだと思います。見付からなかったのですよね……ならば……逃げられたのかもしれません。私は……そう信じる事にします」
最後は消え入りそうな声で、涙を零しながら少女は言葉を発した。ある日突然降って来た理不尽な運命……両親を喪い、姉とも「生き別れ」となった。いや、両親だって……彼女は「父ちゃん」と「母ちゃん」の「最期」をちゃんと見届けてはいないのだ。そう思えば……「いつか会えるかもしれない」と思ってもいいではないか。
「ごめんな……」
ジルもロイも項垂れている。この「娘の姉」を見つけ出せなかった……少なからず彼らは自分達を責めていた。彼らの任務は
「海に向かって逃げて来る人々を救い出す」
と言うものであるのだ。その任を負っているにも関わらず……「彼女の姉」を救えなかったのだ。
「いえ……気にしないで下さい。あんな怖い場所に行って下さって……」
表情を歪めながら少女は再び頭を下げた。イリはその様子を見ながら
「そろそろ……あなたも『次』の場所を探さないとね……いつまでもここに居る事は出来ないわ」
イリの言葉に少女は驚いて尋ねた。
「なっ、何でですか!?ここに……置いてもらえないのですか?」
「うん……。ここはね……あなたのような『逃げて来た人』を保護して、身体が動くなるようになるまで一時的に預かるだけの場所なの。何故って……ここも本当は『危ない場所』なのよ。いつ蛮族……あなたの村を襲ったような『奴ら』がここにも押し寄せて来るかもしれないわ」
「あ……あいつらが……ここにも……」
少女は顔色を変えた。「奴ら」がここにもやって来る……自分の家を……村を焼いて……両親を……。少女はガタガタと震え出した。イリはそんな少女を優しく抱きしめて
「ごめんね。思い出させてしまったわね……。でも解ってくれたかしら。あなたはその為に、ここからまた『別の場所』に移る必要があるわ」
「い……イリさんとはもう……もう会えないの?ジルさんは?ロイさんは?」
イリの肩に顔を埋めて泣く少女の様子を大人3人は暫く見守った。彼らはいつもそうだ。悲しんでいる人に対して「泣くんじゃない」とは決して言わないのである。
泣きたければ泣けばいい……。でも泣き終えた時は……一つまた「違う考え方」が出来るようになる。人間だけが感情によって涙を流す……人間は他の動物と違って、「泣く事」によって自分の悲しみを「整理」する事が出来る。これは人間だから出来る事なのだ。
それが彼ら……《青の子》を束ねる人物の「教え」であり、彼は決して「人が泣く事」を否定しない。「泣きたい奴は泣けばいい」という考えを……嘗て自らの「悲しい思い出」によって、その境地に至ったのだと言う。
少女は暫く泣き続け……彼女なりに「再度の別れ」に納得したのか、イリから身を離して押し黙った。
「安心して。あなたは幸運よ……。ほら……これにあなたを推薦しようと思ってるの」
そう言うとイリは机の上に置いてあった紙片を手にして少女に渡した。少女は字が少しだけ読めるようで、イリもこの8日間でそれを弁えていた。姉が教えてくれたのだと言う。
「サクロの藍玉堂で店員を募集しております。受付をお願い出来る人。字が読めれば尚良し。読めなければ教えます。年齢や性別は不問です」
そのように書かれていた。「藍玉堂」というのが何なのかは分からないが……どうやら「店員」と書かれているので何かを商う場所なのか。年齢性別を問わないのであれば、子供である自分でも大丈夫なのか……。
「藍玉堂は……私達にとって大切な場所。『神様』みたいな人達が暮らしている所だわ。あなたをそこに……推薦する」
「大切な場所……か、神様……?何でそんな凄い場所に私を……?」
「あなたは……別れてしまった人達を忘れてはいけないけれど、それ以上に『別れてしまった人達の分』まで幸せにならなければならないの。《藍玉堂》の人達……『あの人達』ならば……その『答え』を教えてくれるかもしれないわ」
イリが遠くを見つめる……まるでその場所を懐かしむかのように言葉を発すると
「そうだな……あそこならば……」
「うん。あの方々ならな……」
ジルとロイも、それを肯定するかのように笑った。《藍玉堂》……それは全てのトーンズ国民にとって重要な場所。悲しい運命に翻弄された人々に「生きる力」を与えてくれた不思議な場所。そしてそこに住む人達は……難民にとっては「神様」のように思える場所。但し実際に拝むと凄く怒られるらしいが……。
数日後……集落の最奥に設置された《転送陣》を使って、イリが少女を藍玉堂に連れて行った。ヒョロっとして茶色い髪。明るい緑色の、ゆったりした服を着た「店長様」と呼ばれる男性と、少し癖のある濃い茶色の髪が肩まである、やや小柄だが白い……これもゆったりな服を着た優しい顔の女性が出迎えた。
「イリさん、この子をウチの店員に?」
女性がイリに尋ねると
「ええ。この子……つい最近保護したのです。独りで海まで逃げて来たようでして」
「え……?独りで?」
「はい。海の手前まではお姉さんと一緒だったそうなのですが……」
イリがやや暗い顔をすると、「それ」を察したのか相手の女性も少し表情を曇らせて
「そう……。苦労したのですね。先生。私は『この子で良い』と思いますよ」
女性が「先生」に自分の意向を伝えると「先生」も
「そうか。君が言うなら私にも異存は無い。多分……君が世話をする事になるけどね」
笑いながら応えるのを聞いて、女性もクスリと笑う。
「イリさん。では……この子をウチの店員さんとして迎えましょう。連れて来てくれてありがとうございました」
女性が頭を下げると、イリは恐縮したのか……彼女にしては珍しく慌てた様子で
「いえいえ!受け入れて頂きまして……こちらこそ感謝致しますわ」
と、頭を下げ返した。女性はニコニコしながら
「では今日から宜しくお願いしますね。私はサナと言います。こちらの方は……ソンマ店長です」
「ソンマです。宜しくお願いします。最初はちょっと慣れないと大変かもしれないが……まぁ、君は賢そうだ。すぐに覚えてくれるだろう」
「あなた……名前は?」
サナの問いに対して
「私は……モニって言います。宜しくお願いします……」
少女……モニは新しい「自分の居場所」の主達に頭を下げた。
彼女はその後……《藍玉堂本店》の受付店員として様々な勉強をしたり、近所の老人から珍妙な言葉遣いを学んだりしながら2年を過ごし……その間に「お遣い」に行かされたキャンプの《藍玉堂》で「凄腕の女薬剤師」……後に彼女の「師」となる女性や、「店主様」と出会う。
2年が経ち、彼女が自ら強く望んで「師」に弟子入りした頃には……すっかり悲しみから立ち直り、悲しみを「新たな目標」に変えた彼女の姿が……彼女の「仲間達」と共にあった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
モニ
13歳。ノンの下で薬学について学ぶ元難民の少女。エヌと同じ年にノンに弟子入りした。
ノンへ弟子入りする前は暫くサクロの《藍玉堂本店》で暮らしていた事があり、そのせいか同店に遣いを命じられる事が多い。店長夫妻とも顔馴染みである。
《藍玉堂本店》で暮らしていた頃、近所に住む患者に影響されてしまい、珍妙な言葉遣いを覚える。
イリ
30歳。《青の子》隊員。
トーンズ国が避難民保護を目的としてエスター大陸西岸に設けている《隠れ集落》の一つ「4番基地」を運営する女性隊員。
心身共に疲弊したモニを保護しながら彼女の心を癒し、《藍玉堂本店》の店員として彼女をソンマ夫妻に紹介する。モニにとっては命の恩人。
ジル、ロイ
共に22歳。《青の子》の新人隊員。
主に大陸西岸地域における難民保護の為に巡回を担当しているが、新人なので2人1組で行動している。荒地で倒れていたモニを保護して「4番基地」へと運んだ、モニの命の恩人。
両者共に自らが同様に保護を受けた経験があり、そのせいか任務に対して熱心である。
****
ソンマ・リジ、サナ・リジ
《藍玉堂本店》を経営する錬金術師夫婦。2人共に地下の錬金部屋に籠る事が多くなったので、店番の店員を新たに募集していた。
イリの連れて来た当時10歳のモニを受け入れ、後にノンの弟子として送り出す。