それを正す者
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
2月も慌しく過ぎて行き、本日は29日。今年度3度目となった席次考査の結果が、本校舎2階の総合職員室前の掲示板に貼り出された。当然ながら生徒達はこの日の朝……厳密には7時30分に掲示が実施される事を知っているので、いつもよりも早めに登校する者が多い。
何しろ、2回生と3回生はこの席次考査の結果を確認してから、再び本校舎を出て……各々の教室のある別校舎へ、広大な構内の通路を使って向かわなければならない。
特に自分が「未及第」になる可能性があると認識している生徒は、とにかくその結果を知ってから自分の教室に向かわなければ、その日の授業内容など頭に入って来ない程に精神的に疲弊しているので、職員室前の廊下壁面の掲示を望むその目は切実そのものである。
「自分は赤点とは無縁だろう」と思っている席次上位の者達にとっても、その掲示内容を一刻も早く確認したくて堪らないらしく、各学年上位の席次順位が記載されている辺りを空中で指をなぞりながら自分の名前を探している。そして見付けた時に……氏名の左側の席次順位の数字を見ては一喜一憂するので本校舎2階の東側突き当りの騒々しさは偶数月末にはお馴染みの光景である。
以前にも書いたが……この掲示には席次順位は記載されているが、考査結果……つまりは試験に対する点数は記載されていない。なので、自身と「1つ上の者」の結果にはどれくらいの差があるのだろう……とか、「あの首席生徒」はどれくらいの点数を取っているのだろう……という参考記録は得られない。
彼らは、この後の朝礼で渡される「自身の科目点数が記載された紙片」の内容を基に……自分よりも上位の者達の「得点」を推測するしか無い。そしてどの科目が自分の足を引っ張ったのかを認識しつつ、次回以降の考査に備えるしか無いのである。
その理由も以前に書いたが……この「考査結果」と言うのは何も「試験の点数」だけが反映されているわけでは無いからだ。試験の点数は確かに、この考査結果を算定する有力な「指標」ではあるが、実際はその試験結果に「内申点」による加減算が行われる。普段の授業に対する態度や教官……つまりは軍における「上官」への態度も当然見られているし、課外活動への参加……例えば自主的な清掃活動への参加、中庭訓練施設の整備活動への参加など……意外にそれは見られており、そのような「点数以外の」考慮が加味された上で最終的な「考査結果」として算出される仕組みである。
以前はこれに……自治会による活動や、会長を始めとする「役員得点」なるものも加算されていたようだが、今年度最初の考査前にそれは廃止されている。また夏季休暇中に実施される毎年の入学考査における自主的な「お手伝い」も以前は内申点に大きく影響していた……と言われている。
そしてそのような内申点をも考慮された結果……一回生の首席はやはり「あの学生」であった。これはもう入学考査の時から、その位置は動いていない。そして次席と3位の氏名も同じであった。4位と5位はどうやら入学以来、かなり拮抗しているらしく……同じ名前が考査の都度入れ替わっている。どうやらこの2人、場合によってはお互い逆の組に入っていた可能性もあったようだ。
そして6位には前回7位から上がった1組のアン・ポーラが入った。西部の「赤い屋根の町」からやって来たアンは、入学考査から10人を抜いて……リイナの入試順位にまで上がって来た事になる。他のクラスを圧倒している1組生徒の中でも、入学半年で「最も伸びた生徒」だと言えよう。同じ1組のカタリヌも2人抜いて7位、そしてケーナも堂々の8位である。
他にも「歴史大好きっ娘」のアミナ・エリエも14位まで……入試順位の26位からじわじわと上げている。尤も……今回の考査には彼女が得意とする「歴史」が試験科目に含まれていたので、科目別でマルクスに次ぐ学年2位の点数を歴史で稼いだ結果として、前回考査よりも更に席次を2つ上げたのだろう。
一年一組の生徒は、各々自分の結果を確認してから自分達の教室へと戻ると、「あの首席生徒」は……いつもと全く同じように自分の席で目を閉じて瞑想しているような様子を見せていた。そんな彼に、級友達は次々と挨拶をすると同時に……感謝の礼を述べる。
今回の考査もまた……彼の右隣に座る「英雄」がこの「知恵の神」から「選抜科目に対する見解」と「その範囲に対する考察」を「お告げ」として聞いていた為に……同級生たちは再び一丸となって食堂で勉強会を開催した結果、各自成績を落とさずに満足のいく結果を得られたからである。
このニルダ・マオという「英雄」が「知恵の神」と並んで級友から賞賛を受けるのは、その「度胸」だけでなく、「聞いたお告げ」を自分だけで独占する事無く、級友達に余さずしっかりと伝える為だ。この半年間、一年一組は成績だけでなく……学級内における団結力についても、教官達から高い評価を得ている。但し約1名……がその「団結の輪」に加わっているのかが微妙なところではあるが……。
級友達から口々に感謝の言葉を浴びている首席生徒は、薄っすらと目を開いて
「俺に感謝するよりも、頑張った自分に対して自信を持て。お前達は将来……この国を護る軍人になるんだろう?ならば、自分を信じるんだ。自分をまず信じ、そして仲間を信じる。部下を信じる。軍人として、この事を……忘れないでくれ」
窓からの光が差していた、彼の眼鏡の奥に見える「赤みの掛かった茶色の瞳」まで強く光っているように見える。今や級友達は全員……同年代であるはずの彼の事を、この学校の教官とは違う意味での「師」であるように見ている。その「師」からの言葉に何故か心を打たれたかのように、皆一様に頷いていた。彼らは後に、この「言葉」を思い出す事に……なるのだろう。そして「自分は確かにあの時、『あの人』と同じ教室で学んでいたのだ」と思い返すのだろう。
(この人は一体……何者なのかしら。本当に同じ歳の……私達と同じ学生なの……?)
最近はリイナですら、彼をそのように見ている。入学当初は、自分よりも席次が上で……それでいて入学式をすっぽかしたり、首席章をゴミ箱に投げ捨てたりと……色々と破天荒な行動に対して反発した目で見たりしていたが、今の彼女は……もうこの不思議な青年を、そのような目で見ていない。
彼の美しい容姿や、恬淡とした態度に惹かれる事もあるが……それでも却って恋愛の対象として見る事は出来無くなっている。この人は……自分よりも何か「一段上の舞台」に居て、何か違う世界を見ている……ような気がしてならないのだ。
他の生徒達も等しく彼女と同じような印象をこの首席生徒から受けている。「この人に反発しても……どうしようもない」という不思議なカリスマ性を感じているのだ。
担任のヨーグ教官が、相変わらず暑苦しい挨拶をしながら教室に入って来たので、生徒達は自分達の席に戻り……朝の点呼……朝礼が始まった。彼はこれから生徒達に渡す「考査試験得点が書かれた紙片」を持っていて、「あの首席生徒」が今回も全教科満点であった事を知っており……軽い興奮に包まれていた。
2月最後の日の授業が始まる……そして、それが終わった後に……今日は前軍務卿との会談があるのだ。
****
話は除目の翌日……つまり士官学校の考査終了の翌日に戻る。2月17日……2月の3旬目、5の日。ベルガ・オーガスは元上官であるタレンからの伝言を携えて、自身の「担当上司」への旬例報告を行う為に……士官学校とは通り一本挟んだ軍務省の敷地内にある憲兵本部を訪れた。
憲兵本部は、構成人員こそ多いが……構成士官の階級がそれ程高いわけでも無いし、軍務省を構成している部局の中では、使用している庁舎も別で組織としての人事交換も参謀本部くらいが対象なので……毎年2度の除目でも、それ程大騒ぎになる事は無い。
精々……課長職である中佐階級の者が昇進して参謀本部に転出したり、同じ王都に本部を構える王都方面軍や王都防衛軍の本部付の憲兵部隊長へと転出したりする程度だ。そもそも高級幹部が局長級、部長級、課長級の3名しか居ないので……異動そのものの発生する確率はそれ程高いわけでもないのである。
しかし今回の除目では記録上で45年ぶりとなる「憲兵本部長」の職位が設置され、憲兵課長が昇進の上で任命された。階級は大佐であり、更には法務官に任じられたと言うのだ。
常設の憲兵課長は当然ながら後任が入ったが、これまで憲兵課長の職責で色々と「背負わされていた権限」が本部長に大きく引き継がれ、更には軍士官の送検に関する権限が大幅に拡大されて、憲兵本部側が現場で判断出来る水準が引き上げられたようである。
特に士官の送検に関しては、憲兵本部内に……これも60年ぶりであるが大佐階級の法務官が誕生したので、これまでのようにわざわざ頭を低くして「本省の法務官様」にお伺いを立て……という必要が無くなった。なので、これまでのように微罪を犯した本省の士官が上司に泣き付いて「もみ消して貰う」という真似が出来なくなる……この事に、本省の大半の官僚達はまだ気が付いていない。
そもそも、今回の除目によって次官を筆頭に、人事局長、人事副局長、人事部長が全員法務官になったのである。これは「何を意味するものなのか」と言うのをその他の官僚達は、そのうち身を以て知る事になるだろう。
(おや……?扉が開け放たれているな……。ということは、やはりまだこっちの部屋に居るのかな?)
ベルガが、やや困惑気味に扉が開放されたままの「憲兵課長室」と書かれた扉をノックすると……「部屋の主だった者」は、やはりまだこの部屋に残っており、同じ憲兵本部2階に確保された「新しい部屋」に引き移る為の作業に追われていた。
(この人は……出世したのに忙しさは全く変わっていないな……)
「失礼します!」と声を張って入室し、挙手礼を実施したベルガを見た部屋の主は
「おお。丁度いいところに来た。ちょっと手伝ってくれんか?」
嬉しそうな顔……出世を喜んでいるのでは無く、「顔馴染みの奴が来た」というような顔で応じて来た。
「え……?あの……独りでやってらっしゃるのですか?」
「何もやりたくて私独りでやってるわけじゃないんだ。この時間だろ?当直との入れ替わりで向こうも忙しいのだよ。君だって以前は……この時間にアタフタしながら隊員に夕礼をやっていたじゃないか」
「あぁ……なるほど。そう言えばそんな時間でしたな。いや、私もあっちの退勤時間になったからこちらにお伺いしているわけでして……」
「ならば君はもう勤務時間外なんだろう?明日も休みだ。ちょっと遅くまで手伝えるんじゃないか?」
「え……?」
どうやら最悪のタイミングで訪れてしまったようだ。ベルガはそれを誤魔化すかのように
「ところで……ご昇進おめでとうございます」
と、姿勢を改めて上官の昇進祝いを述べた。
「うん……?あぁ……ありがとう……君もな」
どういうわけか力無い返事をする上司に対し、更に
「法務官にも勅任されたそうで、重ねてお祝い申し上げます」
ベルガは愛想笑いを浮かべた。
「何と言うかなぁ……ただ仕事が増えただけのような気がするんでな。実際に任命されると、ちょっと気持ちが萎えてくるなぁ」
憲兵本部長殿は、いつものボヤきを発し始めた。本部内の他の者には決して口に出来ない内容だが、この……何故か気の合う元憲兵隊長には、これくらい言っても大丈夫だろうという感覚があるのだろう。
「いやいや。そう仰らずに。課長……いや、本部長殿はこの憲兵本部に無くてはならないお方ですので」
「正直、そう言われてもあまり嬉しくないんだよなぁ。まぁ、私の後任……トメル君にどこまで押し付けられるか、今後はそこに懸かっているのだがなぁ」
本部長は後任として「順送り」で昇進した憲兵係長だった部下の名前を出した。「憲兵課長」として自分が色々と抱え込まされた仕事を、そのまま彼に押し付けると……恐らく彼の精神が破綻する。そこの所は本部長も十分理解しているだけに、今後は「少しずつ押し付けて、どこまで彼が耐えられるのか」を試すつもりらしい。
「ところで……君だって、他人の事は言えないからな。どうするんだ?ちゃんと『勤務計画』は立てられたのか?」
「いや……それがですね……」
実はこのトメル前係長の後任として、先任憲兵主任のオクス憲兵大尉が順送りで昇進したのだが、これによって2人居る憲兵主任の席の1つが当然空くので、そこにベルガが大尉進級を伴って昇進する事になったのだ。
ベルガは当初この昇進を辞退する意向を示していた。主任昇進に伴って本部に戻されるよりも、「士官学校憲兵士官」として現職に留まる事を選択したのだ。
しかしエラ新本部長は、それを許さなかった。士官学校憲兵士官は、以前の「3人体制」の頃から、憲兵中尉としては本部の憲兵隊長よりも先任であるとされており、「順送り」の人事で言えばベルガ・オーガス憲兵中尉がそれに該当する……という事が内定しているのだ。
なので、この「内示」に対してあっさりと辞退の意向を示したオーガス中尉に対して新本部長は「わがままを言うんじゃない!」と一喝した。
しかし……ベルガはこれに抗弁した。先旬末の旬例報告の際に、この部屋で「この件」について揉めた際に
「小官を士官学校に配置しておいた方が、課長がたにとってはご都合が宜しいのではないですか?小官を本部に戻すとなると……誰がたいちょ……いや、マーズ主任教官殿との『連絡役』をするのです?後任の者があの主任教官殿とまともに話せますかねぇ……」
「何っ!?」
ベルガの言葉を聞いて、エラ課長(当時)は目を剥いた。言われてみればその通りだ……。あの「北部軍の鬼公子」はこれから……士官学校において「授業改革」に邁進する事となる。
そして……その授業改革は新生軍務省の高官方……特に人事副局長に就任が決まっている、トカラ少将閣下が相当に「前のめり」になっている。もちろんこれまで、法務官達の会合に出席していたエラ課長は、「その理由」を知っている。あの女性将官は、教育部を管掌下に置いて、かなり厳しく改革への協力を迫るはずだ。
一斉に刈り取られた教育部幹部の後任に、誰が就任するのかは分からんが……あの「鬼公子」と「学校長閣下」が今更教育部に対して心を開くのか……その「内幕」を熟知しているだけに、エラ課長は尚更不安になった。
この目の前でニヤニヤしている男は……そんな鬼公子に対して、我々の側で唯一「顔の利く」男なのだ。その彼を士官学校から引き離すのは……確かに……。「何かあった時」に任命権者である自分に責任が……。
ここでお馴染みの「小役人根性」が脳内に染み出して来た憲兵課長は
「むぅ……」
と唸ったまま……黙り込んでしまった。そして渋々と言った表情で
「わ、分かった。とりあえず君の昇進は保留だ。私もちょっと……『然るべき所』にご相談してくる」
そう言って、先旬の旬例報告の場からベルガは解放されたのだ。
翌旬明け……エラ課長は、旬末の除目で人事部長への昇進が内定しているロウ人事部次長の下へ赴いた。親補職では無い「次長級以下の人事権」は、この法務官が握る事になるからだ。
「ロウ次長殿。実は来旬以降の憲兵本部の人事に関してご相談が……」
人事部次長室の中に通された憲兵課長は、困惑した表情で法務官に切り出した。
「どうした?憲兵本部の人事……とは?後任の選出は新本部長殿に一任していたような……?」
「はい。次長殿からそのようにお話を頂いておりましたが、一つ問題が発生しまして……」
ここでエラ課長は、ロウ次長に先旬末の……士官学校憲兵士官とのやり取りを説明した。実際、現在の憲兵中尉の中ではベルガは最年長でもあるし、彼は士官学校入学で1浪しているとは言え、北部方面軍経由での転籍だったせいか……能力に不足があるわけでもないのに進級が遅れているのだ。
そしてその彼が昇進を辞退して、今後も憲兵中尉に留まると言う……。「今回の一件」で彼の果たした役割も大きい。そして何にせよ、「軍務卿派」が士官学校の面々に対して繋げている「糸」は、そのベルガ・オーガスという「1本」だけなのである。
その功績が報われない……と言うのは、「自分達は軒並み論功人事の対象となった」法務官達にとって「後ろめたさ」から看過出来ないし……何より、ロウ次長にはベルガの「昇進辞退」が嘗て「大隊長への昇進」を辞退した、あの御曹司の姿と重なるのである。
「いや、駄目だっ!その……オーガス中尉の昇進辞退を認めるわけにはいかんっ!」
前回、マーズ少佐との会談を個人的に「かなり気まずい」終わらせ方をしてしまったロウ大佐は、タレン・マーズからの「目」を極度に恐れていた。
(我々はもうこれ以上……あの御曹司に軽蔑されるわけにはいかない)
険しい表情で小さく首を振りながら、突然声を上げた人事部次長に対してエラ課長は驚きながら
「でっ、では……どう致しましょうか……。彼は恐らく私が言っても辞退の撤回には応じませんでしょうし……」
「分かった。では考え方を変えよう。マーズ主任殿と同じように扱えばいいのだ」
「えっ……?マーズ殿と……ですか?」
「うむ。ベルガ・オーガスを、憲兵大尉に進級させ……現在の士官学校憲兵士官として引き続き勤務させる。但しこれは『オーガス大尉が現職に留まる限り』とする」
「なっ!?つ、つまり……現職の適正階級はそのままにして『特例』と言う事にするのですか?」
「特例では無い。オーガス大尉を憲兵主任と士官学校憲兵士官の『兼任』とするのだ」
「えっ……?」
「今回の除目……恐らくは相当な数で『空席』が発生する。処分された者の数が多過ぎるのだ。私もカノン閣下と色々話し合ったが、局長職ですら空位が出るそうだ。次長以下の役職だって言わずもがなだ。そこで、憲兵主任も1席を空けて、そこをオーガス大尉に兼任させるのだ。まぁ、その『逆』でも良い。オーガス憲兵主任を士官学校憲兵士官と兼任……という形にしても良い」
「なっ……なるほど」
「しかし、恐らくオーガス大尉は士官学校への常駐を希望しているだろうし、何より……『あの方々』が我らに対して何かと連絡の必要が生じた場合、オーガス大尉が構内に居なければ不便だろう。だから主任職のままで士官学校内で勤務して貰う。そういう事だ」
「し、しかしそれでは……もう1人の現任者であるロワナ主任に過大な負担が掛かりませんか?」
オクス新係長も、ロワナ主任も女性士官である。特にロワナ主任は、まだ子供が小さい。勤務負担を増やすのは宜しくない……というのがエラ課長の考えである。
「ふむ。ならばその主任業務の一部を係長に引き継がせ、係長の業務の一部を課長へと回せば良かろう。そして課長の業務の一部を貴官が……」
ロウ次長は皆まで言わず、最後は苦笑しながら言葉を暈した。
「なっ……!?小官がですか……?」
これはとんだ藪蛇である。
「しかし……こうでもしないとオーガス中尉を士官学校に残したまま昇進を叶える事は……難しいのでは?」
ロウ次長の言い様はまるで、自分はとりあえず……
『みんなが少しずつ我慢する「やり方」を提示したので、後は貴官が選択せよ』
と言わんばかりである。これは新人事部長として、かなり譲歩した内容とも言え、憲兵課長の「小役人根性」を微妙にくすぐるラインの「妥協案」であろう。
(くっ……上の職位になって随分と楽になると思ったのだが……これでは……これまでと変わらんではないか……)
エラ課長は何やら……「自分は軍務卿と法務官達に騙されたのではないか?」という疑念が一瞬頭を過ったが、当然ながらそのような事は表情に出す事もせずに
「なるほど……次長殿の妙案……。感謝致します。そのお考えを実行させて頂きます」
「但し……貴官への負担を我らの『都合』だけで増やすわけには行かないので……『法務官』としての勤務負担を減らすようにしよう」
「そ、それは……大丈夫なのですか?」
「実は……イルエス中佐より貴官と同様に新法務官候補となる人材の推薦がされていてな……その者の面談を今月の末に実施する予定なんだ」
「おぉ……!小官以外にも法務官の補充を実施されるのですな?」
「うむ。施設局設計部のナイテル課長だ。上司であるトカラ閣下に依頼して、既に本人には通知済みであるので……面談の結果で来月中旬の叙任式前後には勅任上奏に漕ぎ着けると思う。なので貴官の負担をそれなりに減らせるはずだ」
「なるほど。承知しました。それでは本人には小官が改めて言い聞かせますので、彼の昇進手続きを……お願い致します」
こうして、その日のうちにベルガは再び憲兵本部に呼び出され、昇進の内示と士官学校憲兵士官としての残留を言い渡された。
「お聞き届け頂き感謝致します。ロワナ主任になるべくご負担をお掛けせぬよう……精一杯やらせて頂きますので……」
(何を調子の良い事を言っているんだ……)
エラ課長……後の本部長は苦虫を嚙み潰したような顔で、ベルガの士官学校残留を認める事となった。
****
「今後は毎朝、本部の方に出勤した上で……午前中は主にロワナ主任の補佐をさせて頂きますので……」
話は現在に戻り……ベルガが新憲兵主任としての業務計画を本部長に示すと
「そうか。ロワナ君は、ああ見えて貴官の『経歴』に一目置いているからな。貴官への『押し』が弱いのが不安なのだが……貴官はそれに甘える事無く彼女の補佐に励んでくれ給えよ」
「はっ!」
ベルガが姿勢を改めて挙手礼を施し……思い出したかのように
「あっ……そうでした。本日は旬例報告の他に……連絡事項がございまして」
「連絡……?何かね?マーズ主任教官殿からか?」
「はい。主任教官と言うよりも……ヘンリッシュ殿からの言伝になります」
「何っ!?あの学生からか?」
マルクスの名を聞いた本部長は途端に緊張した表情となった。
「はい。マーズ主任教官殿を経由されたものとなりますが……ヘンリッシュ殿は前軍務卿閣下とのご会談を承諾されたようです。閣下の側で日程をお決め頂きたいとの事でした」
「おおっ!……ついにご承諾頂けたのか!」
本部長の言い様が、一士官学生に対するものとは思えない程に驚いているのでベルガは笑い出しそうになってしまった。
「お手数ではございますが、本部長殿からお伝え頂けませんでしょうか。閣下の側で日程をお決め頂けましたら小官が再びお伝え致しますので……」
「そうか。分かった。ご苦労だったな」
「では失礼致しますっ!」
先程までとは打って変わって上機嫌になり、完全に引っ越し作業の手が止まっている本部長に対して、ベルガは改めて挙手礼を施し、まだまだ作業が終わりそうのない憲兵課長室から退散した。このままボンヤリしてたら「わがままの代償」を深夜まで払わされる恐れもあったので、本部長が引っ越しを忘れて「前軍務卿と士官学生の会談実現」に興奮しているうちに立ち去る事にしたのだ。
(やれやれ……。それほどまでに喜ぶ事なのかね……。ヘンリッシュ殿の、あの態度を見るに相手が軍務卿閣下でも……)
帰宅の途に就きながら、ベルガは背中に悪寒が走って身震いした。
****
「ヘンリッシュ殿でございますか?」
「王国士官学校一年一組所属のマルクス・ヘンリッシュでございます」
軍務省庁舎の玄関にゆったりとした歩様で入って来て、周囲に居た他の職員達も目を瞠る程に優雅な所作で完璧な挙手礼を実施した金髪で長身の士官学生に、案内の為に庁舎の受付前で待っていたウェイン中佐は落ち着かなくなった。
(こっ、この士官学校の制服を着た若者が……)
自身は今年33歳で、家には6歳になる娘が居るにも関わらず……年齢が半分にも満たない、昨年入学したばかりであるはずの士官学生に、いきなり雰囲気で圧倒され掛かっている自分に気付いて心中で驚愕しているのだ。
「ほっ……本日はよくいらして下さいました。シエルグ卿は……既に3階の応接室にてお待ちしております。ご案内させて頂きます」
「はい。お手数をお掛け致します」
まるで恐縮していないような態度で士官学生は無表情の視線を軍務卿首席秘書官に向けた。ウェイン少佐も、今もそうだが若い頃は省内……軍務卿官房室でも人目を惹く美人であり、今でも受付周辺の職員から注目を浴びているが……この士官学生の視線には「美しい女性を見ている」という感情がまるで感じられず……ただ単に「早く案内しろ」という温度を感じさせない圧力を感じさせるだけであるので、中佐はやや慌てた素振りで東階段へと向きを変えて「ではどうぞこちらへ……」と歩き始めた。
士官学生はその後ろを先程とは一転して、音も発てず……気配すら感じさせずに付いて歩く。階段を上る際や踊り場で折り返す度に中佐が気になって確認すると……彼は確かに無言、無表情で付いて来ている。
中佐は何度も後ろを気にしながら3階まで上り、応接室のある西廊下……今上って来た東階段とは庁舎の反対側となる道のりを、軍務卿執務室のある南廊下側を通って……再び何度も後ろを気にしながら歩き続け、漸く緊張に満ちた来客案内を終えて西廊下側に3部屋ある応接室の真ん中の部屋の扉をノックし、中で待っていた前軍務卿に……来客の到着を告げた。
マルクスが応接室に入った時……シエルグ卿は応接椅子から立ち上がり
「おぉ……!おおっ!よく来てくれた……!よく……」
と、何度も小さく言葉を繰り返していたが……士官学生の側はこれまで通り、全く表情を崩す事も無く……特に感情の動きすら見せる事無く
「失礼します」
と、尋常な声音で応じただけであった。ウェイン中佐は、この巨躯の軍務卿に仕えていた頃……何度となく軍務卿執務室を初めて訪れる者が緊張に表情を強張らせている様子を目にしていたが、この士官学生の表情や仕草は、中佐も全く見た事の無いものであった。中佐は内心の驚きを辛うじて面に出さずに
「それでは……そちらにお掛け下さい」
と、シエルグ卿の向かい側の椅子を案内して「失礼致します」と頭を軽く下げてから一旦廊下に退出して行った。
「漸くだ……漸く君とこうして面と向かって会う事が出来た……」
シエルグ卿は何か感情が揺さぶられたかのように言葉を継ぐ事が出来ず、その場に立ったままであったので、マルクスも椅子に腰を下ろす事をせずにそのまま巨躯の老人と机を挟んで相対するように立ったままである。
マルクスはシエルグ卿の目を、その鳶色の瞳でじっと見つめたまま……「目上」の者に対して礼を失しているのでは?と言わんばかりに無表情のままでいる。そもそも彼は、相手の老人を既に現役から退いている……高位の爵位を持っているが「民間人」であると見ているのか、この部屋に入った時から敬礼動作を全く行っていない。
やがて2人の間に流れている「時間が止まったか」のような錯覚は、ウェイン中佐が盆に来客用と、部屋で待っていたシエルグ卿の分を交換する為の茶を持って入室して来た事で破られた。
彼女は入室すると、2人がまだ椅子に座らずに立ったままでお互い向かい合って目を合わせたままとなっていたので、それを訝しんだが……流石にそこは首席秘書官としての長年の経験の賜物だろうか……。表情には一切出さずに机に茶を置いて、軽く会釈だけをして部屋から立ち去った。彼女も最早、その地位を離れた前軍務卿への敬礼動作は却って失礼だと判断しているようだ。
「まぁ……とにかく座ってくれ給え。私はとにかく……『君』と話をしたかった。出来る事ならば軍務卿という地位に留まっている間に会っておきたかったが……いや、今は『一人の人間』として会えただけでもな……うむ……」
シエルグ卿の顔には、彼の現役中に部下に対して常に見せていた厳しいものとは違う……軍から引退したせいか、喜びのような感情が浮かんでいる。これは……先日の「北部軍の鬼公子」との会談の時でさえ見せていなかったもので、先程退出して行ったウェイン中佐が、今の彼の表情を見たら……驚愕するに違いない。
しかし……目の前の「相手」である若者は、そのような前軍務卿の表情を見ても……相変わらず無表情のままであり、もっと言ってしまえば……その視線には「冷たさ」すら感じる程である。
ともすれば笑顔すら浮かべていたシエルグ卿は、この相手の様子を見て……その表情を引き攣らせた。自分に対してこのような反応を示す者は、彼にとって憶えている範囲でも初めての事であったからだ。若者の表情は明らかに自分に対して「好感」を抱いていない……そう直感したシエルグ卿の笑顔は、逆に困惑したものへと変わり始めた。
不意にその若者が静かに口を開いた。
「して……本日は、私のような『一士官学生』に対して何用でしょうか。何故か従前より私との会談を望まれていたようですが」
その表情は相変わらず無表情だ。「緊張して固い表情になっている」というようなものでは無い。言葉の発し様も尋常そのもので落ち着いた雰囲気であるし、何より相対している巨躯の老人には……この若者から一切の「感情」を感じ取る事が出来ないのである。
シエルグ卿は段々と自分が落ち着かない気分になって来ているのを感じていた。会談を望んでいたのは自分の方であり、こちらからの一方的な会談要求に対して……この若者は「仕方無く」腰を上げた……そのような雰囲気が漂っているのだ。
「その……君も随分と忙しいとは思うがな……。『今回の件』で官僚達から君について色々と聞かされていたのだ……。聞けば士官学校の戦技授業において『その様式』を最初の授業で否定したとか……」
「否定……?私は特段、現代の戦技授業を『否定』したつもりはございません。ただ、あのような『遊び』は古来行われていた士官戦技教育とは全く異なるものだと……そのように指摘させて頂いただけです。現代の王国軍士官があのような遊びを授業で習わされ、卒業後に戦場で生命を落とそうが、それは私の関知するところではございませんからな」
「なっ……遊び……だと……」
「ええ。ただあれを『士官戦技』だと称し、授業科目として学ばせるのは流石に北方や西方、それに海上で生命を懸けて国を護っている方々に対して失礼であるとは思っておりますがね。なので私はあれらの授業を真面目に受ける気はございません。あれは私の認識している『士官戦技』ではありませんので、授業として受ける必要を感じないからです」
無表情で感情の動きを感じられなかった若者の口から、突然既存の「白兵戦技授業」に対する批判が飛び出したので、流石に「白兵戦技教官経験者」であるシエルグ卿は鼻白んだ。この若者は恐らく……自分が嘗て士官学校で白兵戦技……「槍技」を教えていた経歴を知っているはずである。その上で、その事実に対して何も遠慮する素振りも見せずに直截的な表現で「遊び」と言い切って来た。
先日会談した公爵家の御曹司ですら、自分に遠慮してか……それを口にする際には口籠るような様子を見せた……にも関わらずだ。
(この若者は……私が怖くないのか……?まるで私に対して萎縮している様子も無い。寧ろこれは……私を蔑んで……いや、少なくとも見下しているように見える……)
自分に対して……少なくとも王都防衛軍内で将官に進級してから、このような態度を見せる者は居なかった。連隊長当時の上官……師団長や方面軍司令官ですら、自分に対して面と向かっては何か遠慮気味な態度を見せていた。自分に対して何の恐れ気も無く接していたのは、当時も今も……あの国王陛下だけであっただろう。その陛下ですら……自分をこのように「見下す」ようには御覧になられなかった。
「なっ、なるほど……否定はしていない……か。しかし『これは違う』と言う指摘はしたのだろう?」
「ええ。違いますからな。あのような戦場ではまるで通用するはずもない『遊び』を、戦場で真っ先に『敵』から狙われ続ける将来の士官候補生達に『これが白兵戦技だ』と教える事は間違いであると……認識はしております。まぁ、私は軍人になるつもりはありませんので、先程もお話申し上げましたが、あのような出鱈目な授業内容を3年も受けさせられた挙句に『本物の戦場』で級友達が嬲り殺しに遭うのも不憫ではあるな……と思ってはおりますが」
「な……何だと……?」
「今も申し上げた通り……私は軍人になるつもりは毛頭ございませんが、どうやら級友達の大半は卒業後に軍士官として任官を希望しているようです。その中から何人が、戦闘の発生する地域……特に陸軍士官として戦闘地域を管轄する部隊に配属されるのかは分かりませんが、その中の何人かは……まず生きて還って来れないでしょうなぁ」
若者の言い様は完全に「他人事」である。士官学校の程度の低い授業を受けさせられ、それが「戦場で役立つ」と信じ……卒業後に北や西の部隊に配属され、時を置かず実戦で命を落とす……。嘗ての自分が教えた若者達と同じ運命を辿るのではないか……。シエルグ卿は未だ彼の心を苛んでいる「最近知った事実」が頭に浮かんで来て、その表情を歪めた。
「き、君も……最早承知とは思うが……私はその昔、若手士官だった頃に士官学校で槍術を教えていた……」
「『槍術』……ですか。そんなもの……何時からそんな分類がなされたのでしょうかねぇ。槍術……槍を使う戦い方?とでも言うつもりなんでしょうか」
ここで初めて若者は表情を変えた。しかしその表情に浮かんだのは……何か呆れたような苦笑いであった。
「戦場で槍を振り回すのですか?あの集団戦の中で?騎兵であればともかく、歩兵士官が本当にそんな『戦い方』を実践して……まともに生き残れるんですか……?というか……何も知らない生徒達に授業を施している『実戦知らずの教官方』は思っていらっしゃるのですかね……くくく……あははは!」
驚いた事に若者は突然声を上げて笑い始めた。そして……それと同時に……何か……何かが変わった。シエルグ卿は驚くと同時に、周辺の「何か」が変化した気配を感じた。
若者は笑い続けている。しかしその目は……眼鏡の奥のその目は……全く笑っていなかった。
「なっ……君は……何を……」
シエルグ卿は、その若者の様子に言葉が上手く出て来なくなっている。口の中が渇き……舌も満足に動かす事も儘ならない。この感触……彼の人生において、このような「気配」を感じた事は無かった。
漸く笑いを収めた若者の目が細められた。そして……
「ヨハン・シエルグ。お前の犯した罪は2つある」
マルクスの口調と声色が突然変わった。これまでは見下し混じりにも、一応は「敬語」で話していたのだ。彼は少なくとも……士官学校でも上官たる教官や校長閣下には丁寧な話し方を欠かさなかったし、軍務省の官僚達にも当初は「慇懃無礼」な態度すら見せなかった。今の彼は……「あの時」に、法務官……ジェック・アラム大佐に対した時のように……相手に対して全く尊敬を感じさせない口調に変わっていた。
「なっ……?」
シエルグ卿は突然、若者から「罪が2つある」と指摘されて動揺した。その喋り口調もそうだが、若者の全身から発せられる何か見えない「迫力」に圧倒され掛かっているのである。
「お前は『それとは知らなかった』とは言え、今から41年前に6年もの間……士官学校において延べ509名の士官学校生徒に『槍技』などという『馬鹿げた遊び』を教授し、その内9名が卒業後の新任官1年以内に戦死し……2名を不具にした。この期間の卒業生は任官1年以内で13人が戦死しているが、お前に習わされた『槍』を戦場に持ち込んで討たれた新任士官は9人居る」
「えっ……なっ、何故そっ、そのような数字が……!」
「お前は少なくとも9名の新任官少尉の戦死と2名の負傷退役に関係している。集団戦術でも無い……士官個人が槍を実戦の場でいきなり使う……そのような馬鹿げた選択をした結果だ」
「そして2つ目の『罪』は更に重大だ」
今やマルクスの眼差しは完全に冷え切っている。殺気では無い何か「圧倒的な力」によって巨躯の老人は完全に動けなくなっており……しかしその視線は、その鳶色の瞳に吸い込まれそうになって逸らす事が出来ない。
「お前が犯した『怠慢』。それは軍務省の人事を『素通し』にした事だ。お前の怠慢が原因でゴミのような無能どもが省の上層を占める事になり……結果として軍部全体の統制を棄損せしめた事にある」
「この『腐った王国』はお前のような無能で怠惰な者によって何時の世も内側から壊されて行く……。先人が『その間違い』を二度と犯す事が無いように定めた『決まり』すら……お前達のような無能が腐らせて行くのだ」
「くっ、腐った……この国が腐っていると……?」
「そうだ。今の……この国は腐っている。お前ら政府の指導者も……国王ですら無能ではないか」
「なっ!おっ、陛下までもが無能だと……貴様は申すかっ!」
それまで若者に圧倒されていたシエルグ卿は、それでもその口から畏れ多くも国王陛下への誹謗が飛び出した為に、気力を振り絞って……その無礼を一喝した。
しかし若者はその怒声に全く怯む事も無く
「無能だろう。それどころか……この国は450年前に北東地方を放棄した愚かなるケイノクス王を『中興の祖』などと賞賛し、軍の教育を変質させ……その事にまるで気付かない。そして本来であれば世襲出来るはずもない『侯爵』位を名乗っている諸卿でも無い家が存在している事に何の疑問も持たない……。これが『無能』と言わずして何だと言うのだ?」
「なっ……そっ、それは……!」
「この国は700年前に『最後の矯正』を受けてから、それでもまた腐り始め……ついには自らの『汚れた部分』を切り取って捨てた。それで自分は『綺麗』になったとでも思っているのか。それが『王国の中興』とでも言うのか!」
若者は立ち上がった。その表情は何時の間にか「怒り」に変わっていた。口調も激しさを増し……まるで目の前にいる諸卿から身を退いた老人を「腐り果てた国そのもの」に見立てるかのように……
「お前のような無能どもが……この国を腐らせて行くのだ。若い頃に誤った『槍術』なる遊びを教え込んだ若者を戦場で無駄死にさせた事も確かにお前の罪だが……国を腐らせ朽ちさせる事はもっと重い罪だ!」
「お前らのようなクズどもに……あのような愚かな王に……この国は壊されて行くのか……最早お前達を『正す者』は……現れないと言うのに……この国からはもう……『血脈』が失われて行くのに……」
「現れない……?『正す者』……?い、一体貴様は……何を言っているのだ……」
シエルグ卿は、目の前の若者が……途中から自分の理解出来ない言葉を吐き始めたので唖然としている。国王を畏れず、自分を恐れず……この国が「腐っている」と、何の恐れも無く言い切るこの若者の様子は尋常なものでは無い……そう感じている。
「きっ、貴様は一体……一体何者なのだっ!畏れ多くも国王陛下に対しての雑言!そして我が仕える王国への雑言!許すわけには行かんぞっ!」
老人は遂に立ち上がった。その巨躯は、長身である若者よりも更に頭半分程高く、その目は我が国王と我が王国を侮辱され、怒りに燃えている。今すぐ目の前の若者を張り飛ばし、その首根っこを押さえ付けてへし折ろうかと……力を溜めるかのように震えている……ように見える。しかしその震えは……本当に怒りによるものなのか。それとも……。
「俺が何者なのかだと?俺が……何者……なのか……お前は知りたいと望むのか?」
この応接室には既に、マルクス……ルゥテウスによって結界が張られている。先程からの若者の、上をも畏れぬ発言も、そして巨躯の老人の怒鳴り声も……扉の向こう側の廊下には全く漏れ出ていない。そんな結界の中で……
「いいだろう……お前の望むように……お前のような無能にも分かるように……教えてやろう」
その瞬間……若者は確かに微笑んだ。そして……彼の顔を飾っていた銀縁の眼鏡が消え失せ……
「なっ……あ……あっ……あ……!」
シエルグ卿は今度こそ本当に……言葉を失った。
目の前には……髪も瞳も、全てを飲み込むかのように真っ黒な……「神話」に出て来る「あの御方」が立っていた。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。
面倒な事が嫌いで、不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。
タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技」の責任を教育族に取らす決意を固め、彼らの放逐に成功する代償として自らも軍務卿を辞する事になった。
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ベルガ・オーガス
30歳。軍務省憲兵本部所属の王都第三憲兵隊長。陸軍中尉。独身。
タレンの元部下で北部方面軍第一師団第二騎兵大隊第一中隊第三小隊長を務めていたが戦闘中の事故で右足に重傷を負い憲兵隊に転属。
主人公によって右足を完治した後は士官学校常駐士官に就任。
サムス・エラ
45歳。軍務省憲兵本部本部長。陸軍大佐。法務官。元内務省警保局警務部所属。
王都において実質的に憲兵の実働を采配する軍務官僚でベルガの直接の上司に当たる。何かと小役人気質を見せるが職務に忠実。
軍務卿側に立って法務官達と協力して教育族を放逐した功により非常設職である憲兵本部長へと昇進する。
ゼダス・ロウ
54歳。軍務省人事局人事部長。陸軍少将。法務官。男爵。
軍務省に所属する法務官。武芸に対して造詣が深いが、自らの腕前はそれ程でもない。
軍務卿や同僚法務官達と協力して「教育族」の放逐に力を貸す。
教育族失脚後は順送りで、実に15年ぶりに昇進を果たす。
タレンに対して、一人の武人として尊敬すると同時に、彼に対する人事部の怠慢に心を痛めている。