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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
117/129

改革実現へ

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 2月16日……3049年冬の除目当日。士官学校では2月期の考査最終日でもある。この年最初の考査が終わり、士官学校内ではあちらこちらで試験からの解放感でザワついていたが……本校舎2階の大職員室では緊張が走っていた。


「士官学校教頭ハイネル・アガサの職を解き、人事局教育部次長ハンナ・フォレイトを兼任とする」


という辞令をフォレイト()()本人が持参して来たのである。フォレイト大佐は今回の除目で同じ人事局の人事部人事課長からの昇進で着任しており、前職である人事課長から5年で部署は違えど次長職へと昇進した事になる。但し、本来であれば退任後に昇進を伴う士官学校教頭職を中途任期で、しかも兼任扱いでの就任となるので……所謂「前昇進」という形で教育部次長への昇進が行われたと思われる。


尤も……除目では「職位」への任命、つまり「昇格・昇進」だけが言い渡される。『階級の進級』については、正式に毎年4月と10月にそれぞれ除目の結果を踏まえて実施されるものであり……この事を厳密に適用するのであれば、フォレイト新教育部次長の階級は、この時点でまだ「中佐」である。


 上から下まで役職者の多くが一度に軍から逐われた形となった教育部では、除目に後任者の選定が間に合わなかった役職も多く……特に粛清の理由が「軍務省自体を揺るがした」内容であるだけに、新たに教育部に赴任する者達は、人事局の新副局長の部屋に呼び出されて厳しい訓示を受けたようで


「教頭代行となりましたフォレイトです。前任のアガサ大佐は一身上の都合により……任期半ばで退任となりましたが、その穴を埋めるべく精一杯頑張りますので、皆さんどうか宜しくお願い致します」


教職員一同を大職員室に集めて就任の挨拶を述べた教頭代行は、まだ見た目が50歳前の穏やかな女性士官である。


 この広い大職員室が教職員で一杯になったのは昨年の入学式直前以来の事であったので、前教頭の「退任」を聞いてザワつく職員室の一番奥の机でこの様子を眺めていたタレンは


(ふむ……結局アガサ教頭は()()()()免職処分となったか。軍籍はどうなのだろうか。大佐階級の者から軍籍を剥奪するのであれば、やはり本省玄関の()()掲示板に公示が出ているかな……?いや、今日から暫くの間は除目で異動となった高級幹部の公示が貼り出されるから、免職処分になった大佐の行く末など……二の次にされそうだな……。もし、軍籍剥奪までとはならなかったとしても……どこかの地方部隊に飛ばされるのかな……「島流し」ってやつか)


自業自得ではあるが……哀れな前教頭の境遇を思ってタレンが苦笑いを浮かべていると、教頭代行がこちらに向かって歩いて来る。タレンは慌てて表情を消した上で挙手礼を実施しながら


「三回生主任教官を拝命しておりますタレン・マーズ少佐であります。何かと至らない部分もございますが、宜しくお願い申し上げます」


と、教頭代行に挨拶をした。彼女は丁寧に返礼をしながら


「マーズ主任。お話は本省にてロウ()()()()から伺っております。前教頭、及び教育部の者達の無礼の段……お許し下さい。私は短い代行期間ではございますが……主任殿の『取り組み』に対して最大限の協力を惜しまないつもりでございます。ただ……私も最前申し上げております通り、()()代行職も本省の役職との『兼任』でございます。よってこちらを不在にしている事も多々あると思いますので、その際は私に変わって宜しくお願い致しますね」


「はっ。承知致しました」


 フォレイト教頭代行は随分と物腰が柔らかそうである。そして前職の上司であったロウ()()と、新たに人事副局長に就任したトカラ()()から、前教育部が……この目の前に立つ北部方面軍出身の主任教官や校長閣下に対して、どれ程の無礼を働いのたか()()()()を聞かされて来ているようだ。


言葉選びもかなり慎重な様子であるし、代行職だけに士官学校側で勤務する時間の割合も少ないようである。恐らくは1旬の中で1日2日程度やって来て、緊急を要する事以外の業務を纏めて処理する形になるのではないかと思われる。なので彼女が不在の際には最先任である三回生主任教官であるタレンが、その業務判断を代行する形になるのだろう。


「では……私は校長閣下へのご挨拶をさせて頂きますので……」


そう言って教頭代行はタレンの席の後ろにある学校長室の扉をノックし、中からの返事を聞いてから「失礼致します」と部屋の中に入って行った。


(まぁ……代行とは言え、本省の教育部の幹部でもあるから……多少は風通しが良くなるのかな。それに校長閣下は、この前の話だと「次期軍務卿」という事だから……流石に本省の官僚達も無茶な事をするわけにもいかんだろうしな……)


 フォレイト教頭代行の上司となる新教育部長は参謀本部所属の前王都方面軍第六師団の首席参謀を務めていたオルン・レフレアー少将が就任したらしい。二回生主任教官のアーバイン大尉は、前任地で彼の部下だったらしく、その人柄を良く知っていた。


「レフレアー大佐……いえ、閣下はお若い頃にこの学校で戦術科の教官をされていたそうです……つまり経歴では私の先輩に当たる方でして……私が教官職としてこの学校に転任となる際に色々と助言(アドバイス)を頂きました」


「ほぅ……新しい教育部長殿は教官職をご経験されていらっしゃるのですか」


「はい。『自分は2年浪人した』と言うのが口癖の方でして……」


「ははは……私と同じですな」


「そっ、そう言えばマーズ主任もご浪人されたとか……」


「そうです。なるほど……2年浪人されても教育部長にまで出世出来るのですなぁ。私も希望が湧いて来ましたよ」


タレンの冗談ともつかない言葉を聞いて、アーバーイン主任とシーガ主任は可笑しさに吹き出した。なるほど。この国の官僚機構は色々と融通が利かなそうでいて、受験に失敗した事のある浪人経験者でも平等に昇進機会は与えられるようだ。


「まぁ……代行とは言え、新たな教頭殿がいらしてくれて良かった。それに人柄も非常に良さそうな方で安心しました」


「そ、そうですね……。アガサ教頭殿はどうなされたのでしょうか……」


「さぁ……?何しろ無届の欠勤が続いておりましたからな……。服務規定に沿えば……恐らくは……」


タレンは少し言葉を濁して答えたが、やがて何か思い出したかのように……「ちょっと失礼」という言葉を残して、この場にまだ残っていた普段は構内各校舎の補助職員室(職員準備室)に散っている他の学年の教官達の方に歩いて行き、その中から()()()教官に声を掛けて、北側通路を通って職員室と隣接している10番面談室に入った。


 声を掛けられたのは……一回生の諸法科担当のオレスト・バーギッシュ中尉、二回生の情報科担当のルニル・アジェク中尉、そして三回生の地理科担当のルーク・ネヴィル中尉であった。タレンは彼らを立たせたまま、自分は椅子に腰を下ろし


「さて。君達が何故……私に声を掛けられて、この場に居るか解るよな?」


3人はお互いの顔を見合わせながら青褪めている。自分達が集められた「理由」に心当たりがあるのだろう。


「今回……君達に色々と『指示を送っていた人物』が()()()()()側の方々は悉く軍を逐われたようだな。まぁ、ご自身もどうやら似たような境遇に陥ってしまったようだが」


 タレンは……彼にしては随分と厳しい表情になっていた。普段のタレン・マーズ三回生主任は穏やかな物腰で、このような顔をする人物では無い。そして……先月の観覧式で見せた「鬼公子」としての凄まじい「武人の姿」は、()()を至近距離で目撃したヨーグ剣技教官によって職員室中に喧伝されており、あの国王陛下からも激賞されたと言う……。


「君達の()は、随分前から解っていた。どうやら君達は気付いていなかったようだがな。まぁ、どういう経緯で()の手伝いをしていたのかまでは知らんが」


「あっ、あ、あの……わっ、我々は……」


ネヴィル教官がタレンの強い視線を受け、震えるように口を開いた。


「いや、もう何も言わなくてもいい。ただ……私から君達に言っておく事がある」


タレンは立ち上がって


「『彼ら』のようになりたくなければ、残りの任期の間……精々大人しくしていろ。もう『余計な事』には関わらない方がいいぞ。いいか、警告しておく。私はどうでもいいが……学校長閣下の手を、これ以上煩わせるな。閣下はこれから更に忙しくなるのだ。閣下にはもう……()()()()()時間が残されていないのだ……閣下の成される事に邪魔立てするならば……私が許さん」


「鬼公子」は戦場の馬上で見せる殺気を全身から漂わせて3人を睨み付けた。第一師団の猛者達すら恐れたその姿に……3人は完全に震え上がって返事も満足に発せられなくなっていた。


「以上だ」


短い言葉と共にタレンはそのまま振り返って、北側の扉から職員室へと去って行った。残された3人は余りの恐怖に暫く動く事も出来ずその場に留まったが……やがてお互い無言で南側の扉から廊下に出た。アジェク教官とネヴィル教官は、そのまま大職員室には戻らずに、自分が普段使っている東校舎と北校舎の補助職員室に戻ったが、バーギッシュ教官は一回生担当なので、そのままノロノロとした動きで大職員室に入り、自分の机に戻って椅子に腰を下ろして小さくなっていた。


彼の担当している諸法科は、今回の考査で対象科目となっていたので……彼の机には今旬4日間で実施された一回生の答案用紙が集められており、彼は本日から採点作業に入らなければならなかったのだが……手の震えが止まらず、ペンが持てなくなっていた。


 その様子を主任教官席から見ていたシーガ主任は


(あらあら……マーズ殿に()()()()とやられたのかしらねぇ……ちゃんと採点期限に間に合ってくれればいいけど)


と、苦笑いしていた。


****


「教育部長殿から閣下へ……くれぐれも宜しく願いますと、お言付けをお預かりしております」


「そうか。まぁ、こちらこそ宜しく頼む。前任者は……ちょっとな」


 校長閣下は失笑混じりで教頭代行の挨拶に答えた。本日、新教育部次長へと任命され……次長職は親補職では無いので王宮での親補式を経る必要は無いのだが、実際には来旬一杯までに新しい任地、つまりは教育部次長室に引き移らなければならず……色々と忙しいのではあるが、前の職場で直接の上司であったロウ大佐……改め少将から、副局長の部屋へ行くように命じられると……そこには既に自身の新しい上司となる新教育部長も呼ばれており、彼女も揃ったところで……新人事副局長からの訓示が始まった。


「軍務省内における教育部の立場は失墜しております。あなた達も当然知っていると思いますが、管理職は軒並み軍から逐われました。私の前任者も同様です。教育部によって人事局すらも省内外から厳しい目で見られているのです」


トカラ新副局長は厳しい表情で、こちらも新任の教育部幹部2人へ訓示を続けた。彼女の言う「省内外」の()とは王宮の事を指している。


「実は……あなた達だけには知っておいて貰いたい『事実』があります。()()に目を通しなさい」


副局長から2人に渡されたのは()()数字の書かれた文書であった。副局長は、2人に文書の内容へ目を通させた上で……その文書の内容を説明したのである。


 文書の内容の……()()数字の意味を知った2人は息を呑んだ。そして……今回の除目の直前になって……何故教育部、そして一番忙しいはずの人事部の上層幹部に対して()軍務卿閣下から厳しい処分が下ったのか。「著しい職務怠慢」という罷免理由……その真相を知らされたのである。


「いいですか?その数字を……()()を表沙汰にするわけには参りません。()()の意味が……軍務省内外を問わず漏れ出した場合……教育行政に携わった者達は、『その数字』と同じだけ存在している遺族の方々からの激しい恨みを向けられます。因みに……その数字の中には私の息子も……含まれております。私もその『遺族』の一人なのです」


「なっ……!?」

「かっ、閣下の……まさか……ご子息も……」


「前軍務卿閣下は……恐らく……『私自身の()()』を軍務省に向けさせない為に……この『当事者』の職位(ポスト)に私を任じたのでしょう……」


2人が見たアミ・トカラ副局長の表情からは感情が消えていた。


「私は……これまでの教育行政官僚達の『怠慢』を許す事が出来ません。そして……今こうして当事者の職位に就いてしまったからには……最早これ以上の怠慢は許しません。お解りですね?」


 小柄な女性副局長の体から、何時の間にか殺気にも似た凄まじい雰囲気が漂っている事に2人は気付き、戦慄を覚えた。


「但し、あなた達には幸運な事に……現在の士官学校には『過ちを正そう』として下さる()()がいらっしゃいます。あなた達2人の仕事は……『彼ら』に最大限協力する事。いいですか?これは命令です」


「はっ!」


「今聞いた事……特に()()数字については他言無用です。そしてもう一つ。あなた達だけにお話しておきます」


 これまでの話で十分に胆が冷えている2人の新教育官僚は(まだ何かあるのか……)と、副局長が話そうとしている言葉に真剣な表情で耳を傾けた。


「士官学校長、ロデール・エイチ提督は1年半後の任期終了と同時に『次期』軍務卿へと就任することが、国王陛下の御意向によって内定しております」


「えっ!?」


「前の教育部長は……エイチ提督に対して多大なる無礼な振舞いがありました。もう一度言います。我が軍務省は『次期軍務卿閣下』に対して大きな『負債』を抱えております。その事を肝に命じて……職務に励みなさい。私から、あなた達に申し伝える事は以上です」


 トカラ副局長が立ち上がったので2人は慌てて挙手礼をした。副局長からの返礼を確認してから回れ右をして副局長室から廊下に出た途端に、新教育部長がまだ青い顔をしながら


「なるほど……ヘルナー閣下からお伺いした通りだ……。これは……昇進に浮かれている場合では無くなったなぁ……」


ボヤくように呟き、それを聞いた新教育部次長も


「そ、そうですね……。と、とにかく小官は……教頭職の代行も任じられておりますので……学校長閣下にこれ以上……教育部が睨まれないように……心掛けます」


「うむ……頼む……。私も最大限協力する。何か士官学校関連で困った事があったら遠慮なく言ってくれ」


皮肉な事に士官学校への緊張感が、却って2人の教育部幹部の連帯感を強めたようである。


 ……このような事が昼間にあったので、教頭代理は学校長に対して相当に緊張した表情で挨拶を行う破目になっていた。


「その節は……本省の者が閣下に対して大変なご無礼を仕りました。改めてお詫び申し上げます」


教頭代行が深々と頭を下げたので校長閣下は苦笑しながら


「いやいや。貴官が謝る必要は無い。謝罪なら前の軍務卿閣下を含め散々に頂いておるでな」


「はっ。恐れ入ります」


「ふむ。貴官は本省の教育部次長が本職なのじゃな?」


「はい。兼任とは言え、教頭職も精一杯務めさせて頂きます」


「うむ。まぁ、それについては宜しく頼む。ではこれをな……」


 校長閣下は机の抽斗から、黒いカバーのファイルを取り出して教頭代行の前に置いた。


「これは貴官の前任者にマーズ主任教官から一度提出されたものだ。おっと。前任者とは本省の方では無くて、貴官が代行している方の前任者だ」


校長閣下は笑いながら説明し


()はどうやら保身の為なのか、後生大事にそれを棚の奥に保管しておったようじゃな」


「拝見しても宜しいでしょうか?」


「ああ、構わん。実はな……それと全く同じものを儂は去年……教育部に持参して当時の教育部長殿()に渡したのじゃがな。どうやら教育部長閣下はそれを()()()にやってしまったらしいからの」


「さっ、左様でございましたか……そっ、それは大変にその……失礼致しました……」


「いやいや。貴官に対して儂は別に文句を言おうとは思っておらん。とにかく、そのファイルの内容を教育部に持ち帰って()()殿()と検討して貰えないじゃろうか。前任者殿は『精査する』と言ったきり……何の返答もしてくれなかったのでな」


「はっ!大至急持ち戻りまして……上司と拝見させて頂きます。内容を確認次第、ご相談にお伺い致しますので……」


前任者の時は面談申込から4日も待たされた上に「精査する」と言われてから3カ月も音沙汰が無かった事に比べると驚く程に対応が変わったな……と、校長閣下は内心で笑いながら


「では頼んだぞ……。儂はな……もうこの学校の『程度の低い教育内容』にウンザリしとるんじゃ。儂もそうじゃがマーズ君もな……。貴官らも知っている通り……()は『北』で10年以上に渡って苦労しておるしの……」


 剛毅剛直な校長閣下の目付きが変わり……か弱き教頭代行は、本日何度目かの底冷えのする悪寒に襲われた。副局長が言っていた「過ちを正そうとしてくれる方々」……前第四艦隊司令官にして、次期軍務卿である学校長と……数百年間荒れに荒れていた北の三叉境界地帯の無法者を一掃した「北部軍の鬼公子」の異名を持つ三回生主任教官。


本日付けで人事部長に昇進したロウ少将が先日話していた「人事部の()()」によって、信賞必罰の報いから取り残されている公爵家の御曹司……。そして国王陛下の「勅令」によって北の戦場から王都にやって来た驍将。軍務省が学校長閣下に対して「大きな負債」を抱えているのと同様に、人事部も「鬼公子」に対して大きな負債を抱えているのだ。


その2人の間に挟まれる恰好の職位を代行する事になった、前人事課長の女性士官は……僅か5年で昇進を遂げた事を喜んでいた午前中の自分を呪ってやりたい気分になっていた。


****


 前軍務卿、ヨハン・シエルグは「教育族幹部4人」に直接罷免を言い渡した他にも、予てより調査していた前軍務次官のポール・エルダイスが人事権を濫用して配置していた各局長、副局長級の上級幹部を始めとして部長級、次長級、課長級に至る高級幹部までが……一人ずつ個別に軍務卿執務室に直接呼び出され、数々の調査結果を突き付けられた挙句に「罷免か、辞職か」を迫られた。


つまり……「大人しく辞表を提出して『辞職』を選択しなければ……罷免の上、軍籍剥奪」というわけである。罷免では無く「退職」という扱いであれば、退役後にも「将官恩給」と「勲爵士としての貴族年金」が「死ぬまで」支給されるので、老後の生活にも不安が無い。


次長級や課長級、つまり大佐や中佐階級の者には上記の将官年金は支給されないが、年齢的には40代前半から50代前半の年齢の者が多い為、「元軍務省幹部」という肩書であれば再就職もそれほど困難では無いし……そもそも士官学校授業料の償還免除期間条件を満たす、「軍への服務6年目」から、勤続年数に応じて「服務功労金」……つまりは「退職金」の支給対象となるので勤続年数が概ね20年を超えるような課長級以上ともなれば、退役時に一応は「纏まった現金」が手に入る。


 しかし往生際悪く辞表提出を拒否した場合は「罷免の上で軍籍剥奪」という処分となるので、これらの「身入り」が一切失くなるのだ。更には自らの経歴に「罷免」という汚点が一度付いてしまった場合、他省庁は当然として地方公務員への再雇用の道も閉ざされ、民間企業への再就職すら難しくなってしまう。


「前軍務次官から便宜を図られていた」という者達は……軍務省内だけで「教育族」以外にも7名居り、それら全ての者が「辞職」を選択したのである。この中には自局内で「総好かん」の状態に陥っていた、情報局長ヘルン・カンタス大将も含まれていた。


彼は「最も分かりやすい形」で前次官に与していた事が発覚していたので、自身がどのような処分を受けるのか夜も眠れぬ程に怯えていたせいか……この「辞職でコトを収める」という「温情」に感謝し、退役後の生活が保証されたことを……むしろ安堵しながら2月14日付で軍務省を去って行った。


 このように、「3049年冬の除目」を目前にして発生した「軍務省の変」は本省内の幹部官僚だけで罷免者8名、辞職者7名を出し……特に除書作成の担当部局であった人事局を中心に、大穴を空けたせいか……その後の「穴埋め人事」で、教育族に変わって「7人の法務官」が大きな論功人事を受けたのだが、全体的な粛清規模があまりにも大きかったので、彼らに対する


『教育族の地位を法務官が取って変わっただけではないか』


と言う批判は全く発生しなかった。


 人事局は、この事件の前にも「ネル家騒動」で局内から6人の免職者を出しているので……この3カ月で13名もの中高級幹部が姿を消した事になる。トカラ新副局長が「人事局は省内外から厳しい目で見られている」と言及するのも当然であろう。


世代別に見ても、「花の3008年度士官学校卒業組」と呼ばれる……軍部の上層を占めていた者達の中で明暗を分けた。局長級では、ヘルナー前参謀総長が軍務卿として勅任され、キレアス前法務局長が軍務次官に昇格。カノン法務副局長が人事局長に昇格して、定年までの1年間で最後の昇級を叶えた。兵器局の副局長であったハラム中将も順送りだが兵器局長へと昇級している。


それとは逆にオランド前人事局長は「教育族の構成員」と見做されて罷免、カンタス前情報局長とサボン兵器局長は辞職に追い込まれた。


彼ら「今年で定年組」は、今回の件が無くても来年の今頃は「全員居なくなっている」のだが、それが1年前倒しされただけで、この世代のトップエリート達の去就が一気に動いたので、軍務省の中に()()()()()覆われていた「蓋」のようなものが一気に外れて停滞気味であった人事移動が一気に起こり……教育族を含む「エルダイス派閥」によって不自然に長い期間、()()地位に留まっていた者達が、漸く本来の能力と功績に見合った進級昇進を果たす事になった。


前人事部長のオトネルや前法務部長のホレスは「3008年組」の1年後輩に当たるのだが、入省直後の新考期間中から両者は「理系の逸材」と呼ばれて、ホレスは施設局、オトネルは兵器局で同期を引き離す出世速度で昇進を重ねた。


元々、士官学校時代は諸法科の成績も抜群に良く、軍務科首席だったホレスは後に施設局の設計部王都方面課長時代に前々任者で当時は法務副局長へと昇進が内定した、キレアス法務部長からの推薦を受けて法務官に任じられ、法務部次長へと昇進、1年遅れてオトネルが設計部次長に昇進した。この当時、両者はまだ42歳であり……彼らの同期は地方部隊でもまだ中佐階級であったので、本省で大佐進級を果たした2人は同期を圧倒していた事になる。


 この時点で「どちらかが将来は次官だろう」とまで言われていたトップエリート2人であったが、彼らの不幸は同じ時期既に「派閥作り」を始めていたエルダイス情報部次長が、教育部長へ先任者を追い越して昇進転出した事であった。エルダイスも41歳で情報部次長に昇進しており、これも当時としては異例とも言える昇進速度とされた。


ホレスはそのエルダイスと同じ41歳で法務官となって法務部次長に転出したので、「エルダイスの再来」などと言われたが、あいにく彼はエルダイスの「子飼い」にはならなかった。元から技術系官僚として経歴を重ねて来たホレスやオトネルは、エルダイスと「上司と部下」になる機会が全く無かったのである。


結局、エルダイスは教育部長就任5年で人事副局長、更に5年で人事局長、そして2年で前任者の定年によって軍務次官に上り詰めた。驚異的な出世速度と強運である。


 そしてそのエルダイスが作り上げた「派閥」に属していなかったホレスは……次長職に10年、部長職に7年も「足止め」を食らった。ホレスの場合は上司であるカノンがエルダイスの恣意的人事の煽りを受けた事によって足止めを食らった影響で……そしてオトネルに至っては更に悲惨で、兵器局から転出した人事部長に昇進した時点で人事局内ではエルダイス「人事副局長」以下の最先任だったにも関わらず、一時は「追い抜き」になっていたオランドと……自分よりも年下であるアミンが捻じ込まれた為に足止めを受けて、人事部長のまま12年もその職位に留まった。


因みに……このオトネルの「足止め」の影響を受けて彼の人事部長転入就任時、既に人事部次長となっていたロウも巻き込まれ、彼は結局人事部次長の職位に15年も留まる事となった。ロウも次長昇進時点で2階級の差を付けていた、やはり「エルダイスの子飼い」であった同期のデヴォンに逆転されるという苦汁を飲まされている。


 今回の除目によって、法務局長と副局長が同時に異動となったので……法務局長は空席となった。後任として、その穴を埋めるはずである副局長級の人材の中に「法務経験者」が居なかったのである。よって、異例ではあるが法務部長から「順送り」になったホレスが新法務副局長として「局長代行」も務める事となり、彼は事実上の法務局トップとなった。


オトネルの方は「古巣」の兵器局に戻る形となった。彼は元々、王国軍の装備品を改良する設計者としての経歴を積んで来た者であったが、いくつもの設計チームを束ねる管理能力を買われて設計部の次長から人事部長という「畑違い」の役職へと、当時は「追い越し人事」によって転出した過去があった。今後の定年まで残された任期で再び技術管理官僚(テクノクラート)として辣腕を振るうのだろうか。


 しかしそもそもが、この王国の官僚機構において……局長や副局長クラスの上級幹部と言うのは「総合管理職」と言う意味合いが強く、もっと直截的に言ってしまえば「名誉職」に近い。実際の省内現場を差配して動かしているのは、その下に居る「部長級」の者達であり……各世代で激しい出世競争が起きているのはこの部長職までという認識が強い。


新人事副局長となったトカラ中将のように、教育部に対して自らが厳しく管掌下に置くというケースはむしろ異例とも言える。


 各局の「副局長」という地位にまで上れるのは「出世競争の勝者」であり、競争としてのゴールはこの副局長であると認識している官僚が大半であろう。彼ら局長、副局長は「直接の業務を動かす部下」を持っておらず、各部の部長から上がって来る様々な決裁承認や懸案事項を「更に上」に取り次ぐような業務が主である。


ここの部分は「直接の兵力を持っていない」参謀総長と各司令官との関係に似ており、その着任年齢も平均で57~8歳。局長職に至っては58~9歳である。正に定年まで「残り3年以内での最後の()付け」でその地位に就く者が多いのだ。


なので58歳と言う年齢になるまで部長級の職位に足止めを食らったホレスとオトネルは逆の見方をすれば「その年齢まで現場トップの地位でバリバリにやっていた」とも言える。この事実を本人が「誇り」と取るか「恥」と取るかは様々な意見があるだろう。()()()それまでの出世速度が異常であった為に、「長い期間足止めを受けた」というような印象を本人達は感じていたのである。


 2人はお互いを「学校以来の戦友」と思っており、同期の中では仲が良い間柄であった。これは1期上のキレアスとカノンの関係に似ている。これまで十数年間、人事部と法務部は同じ庁舎2階に部屋があり、その中でも更に人事部長室と法務部長室は同じ南廊下側にあったので、今回の異動によって兵器局のある1階に階を跨いだ引っ越しとなるオトネルが、これも自室(部長室)から同じ廊下の軍事法廷室を挟んだ反対側(東側)にある副局長室までの引っ越しを法務部の職員に手伝われながら行っていたホレスを訪ねてきた。


エイブ(エイビル)、やってるな」


テッド(テュール)か。お前も下の階に移るんだろう?いいのか?こんな所に寄ってる場合じゃあるまい」


「まぁ、そうなんだがな。一応挨拶だけはしておこうかと思ったのよ」


「はは。そうか。確か……お前の『新しい部屋』は私の()()の真下になるな」


「あ、そうだな。多分そうだな。しかし階段が近いわけでも無いからな。今後はお互いに会える機会も少なかろう。食堂で会うくらいか」


「まぁ、そうだな……しかし私もこれで漸く『法曹官』から()()だ。毎旬末から翌旬初めにかけてバタバタせずに済む」


「しかしお前の()()()(局長)が空席だろ?代行で忙しくなるんじゃないのか?」


「どうだろうなぁ。先程()()()の部屋で我々と同じように引っ越しの指揮をされていたカノン閣下のお話では……現役の法曹官程には忙しく無いと仰せになられていたが……」


「そうか。まぁお互い……10年以上も忙しかったんだ……。あと2年……もう2年しか残っていないが気楽にやろう」


「そうだな……。テッド……。今回の件、協力に感謝する。お前の助力が無ければ()()()()危なかった」


「よせよせ。『奴ら』に腹が立ってたのは私も同じだ。ここ(軍務省)はもう10年以上も『理不尽』が蔓延っていたんだ。軍務卿閣下が職を賭してそれを蹴り飛ばしてくれた事……感謝せねばなるまい」


「そうだな。そして()()切っ掛けとなった……あの『御曹司』にもな」


「うむ……」


2人は忙しく立ち働く法務部の職員達を眺めながら、昨日付で軍務省を去った……あの巨躯の老人に思いを馳せた。


****


「先旬の終わりにな……シエルグ卿と話をしてきたよ」


「ほう……そう言えば、()()お方は昨日で任期が終わったのでしたな」


つい2時間程前に、「前教頭」の()()となっていた3名の教官に「ご注意」を与えた10番面談室にてタレンはマルクスと会っていた。考査も今日で終わったので生徒との接触も構わないだろうと言う判断もあったし、()()教頭も居なくなったので、彼と校外で忍んで会う必要も無くなったのだ。


「まぁ……何と言うかな。私が思っていた人物像とは少し違っていたな」


「そうですか」


「君はやはり、かのお方についてはまだ批判的なのかい?」


「批判的とは心外ですな。私は『お会いする必要は無い』と申し上げただけですが」


首席生徒は相変わらず無表情だが、声に少しだけ抗議するような色が加わった。


「いやいやすまん。私にはそう見えただけだ。忘れてくれ」


タレンは苦笑しながら詫びを入れ


「ところで……君はあの時、『要求が達成されない限り、会うつもりは無い』と言っていたが……軍務卿は『彼ら』を放逐したぞ。それでもまだ会うつもりは無いのかい?」


()軍務卿ですな。会うと言われましても……最早現職では無いシエルグ卿と会ったところで何を話すのですか?」


「閣下は君と『一人の人間』として会ってみたいと、仰られていた。軍務卿では無く、シエルグ卿個人として君と言葉を交わしたいそうだ」


タレンが真剣な表情で語るのとは逆に、マルクスは困惑を交えた苦笑いを浮かべる表情となり


「あの御仁は……何故そこまでして私と会いたがるのでしょうかね……率直に申し上げて、私にとっては未だに……現役の軍務卿閣下であった頃からお話する事など無いのですがね」


「いや、それは私だって同じだったよ。こんな士官学校の一教官に対して何を話すのか?とね。しかしまぁ……会ってみると、()()()()に話す事はあったさ。私自身が彼を誤解していた部分もあったしね」


相変わらず、この士官学生はタレンと軍務卿との会談内容についてはまるで興味を持っていない様子で……それ以前に自らと前軍務卿との会談に対しても全く興味を示していなかった。タレンは仕方無く……


「まぁ……あれだ。君は興味が無いかもしれんが、私もシエルグ卿に頼まれてしまってな。君にとって差し障りが無ければ、前軍務卿閣下と()()()()()()くれないかな?」


笑いながら「依頼」して来た。彼にしても本来であれば「この」士官学生を既に()()地位から離れているとは言え、「あの巨躯の老人」と会わせるのは気が進まない。何しろこの若者は相手が誰であろうと反論も出来ない程の正論を吐き出す事が目に見えているからだ。


なので、自他共に「怠慢があった」と認めている「あの老人」に対して何を言い出すのか分からない。そこの部分だけに一抹の不安が残るのだ。既に責任を取って「教育族」と刺し違えたあの老人に対して、それでもこの若者は苛烈な批判を加える……その可能性は否定出来ないし、それを「言わないでくれ」とはもちろん自分から頼む事も出来ない。


「まぁ……そうですか。主任教官殿がそこまで仰るのであれば……」


マルクスは「やれやれ……」とでも言いたげな態度で……ついにシエルグ卿との会談を承諾した。


「おお。そうか。まぁ……今更私が頼める事ではないが……。程々に頼むよ」


タレンは笑いながら立ち上がり


「ではベルガに伝えて貰おう。もう本省にシエルグ卿はいらっしゃらないだろうが……彼なら何とか繋いでくれるだろうからな。日時で希望はあるかい?あるなら一応は伝えておくが」


「いや……私如きの立場でそのような事は言えませんよ。主任教官殿もそうだったのでは?」


「まぁ……君の言う通りだな。では、一応は常識的な日取りでお願いするように伝えてこよう」


「宜しくお願いします」


マルクスも立ち上がって挙手礼をした。タレンも返礼してから北側の扉から通路に出て行き、それを見送った後にマルクスも廊下に出た。


(やれやれ……あの()()と今更何を話すんだ。()も結局はこの王国を腐らせた元凶の一人なんだがな……)


所詮は「一人の軍人に過ぎない」タレンとは、「ヨハン・シエルグの怠慢」に対して別の見解を持つマルクス……ルゥテウスは一瞬険しい顔となって2階の廊下を昇降階段に向かって歩いて行った。


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 毎年2月と8月には除書……つまり王国の「諸役」へ新たに任官した者達の名が記載された帳簿が公表される「除目」が実施されるが、3月と9月には貴族……つまり爵界における叙爵が行われる。更に軍部に限っては4月と10月に進級が実施され、2月と8月の除目で軍部内各職位に昇進任官した者は2カ月遅れで、初めてその適正階級へと進級を果たす事になる。


これは何故かと言えば、除書に記載されるのは当然ながら軍部内の地位変動だけで無く、王国政府における全ての省庁がその対象となるので、人数が多過ぎるのである。更には、その地位変動に伴って毎年大量の叙爵対象者も出るので、その任命作業に1カ月、そしてそれが終わると漸く軍部にだけ存在する「階級」に対する変動手続き……つまりは「進級人事」が実施されるのである。


「進級人事」と書いたが、実際は僅かながらに「降級」となる者も居る。士官クラスでは滅多に発生しないが、兵曹レベルでは「上官への反抗」だの「軽度の暴力沙汰」など、些細な事で1階級降格……と言う事態が発生するのである。これが士官の場合は逆に処分が重くなるケースが多くなり、「降格降級」となる前に今回の騒動のような「罷免」や「軍籍剥奪」に発展するのが王国軍における「信賞必罰」の「罰」の部分である。


 尚、王国軍に関しては歴代国王による「王の徴兵」が建国以来一度も発布されていないので、建軍以来……兵員確保は全ての時代で志願制が採用されており、志願可能年齢は15歳以上……つまりは士官学校入学資格年齢と同じである。志願兵は任期を3年で「1期」とされ、1期終了ごとに「満了金」が給料とは別に支給され、次の3年を継続するか選択出来る。


「2期目」に入るには本人の希望の他、上官の推薦も必要とする為に……服務中の素行や態度に問題があれば「兵役の更新」を許可されない場合もある。兵役希望者は30歳までは志願または更新が可能だが、30歳を過ぎた時点で兵卒から下士官である伍長に進級していない場合は任期満了と同時に「定年除隊」となる。


しかし伍長となって下士官になっても、彼らの定年もまた50歳とされているので、王国軍における「満定年」である60歳まで(職業)軍人として服務したければ、50歳を迎えるまでに士官扱いとなる「准尉」にまで進級する必要がある。下士官は伍長を最低級として軍曹、曹長と階級が上がり、特に戦闘が生じない地域の軍であれば、大抵はここで定年である50歳を迎える。


「准尉」という階級はそれまでの兵曹とは違って、主に戦場における「分隊指揮官」……軍における最小集団単位である少尉率いる「小隊」を更に作戦任務に応じて分割する際に用いられる非常設の集団単位で、この「分隊」を小隊長に変わって率いるのが「准尉」である。なので通常は戦闘が発生する地域を管轄している師団でしか任命されない。


要するに、士官学校を経ていない一般の志願兵からの「叩き上げ」で50歳以降も軍に残りたければ、()()()()手段によって「戦闘が発生する師団または部隊」に所属しなければならない。「何らかの手段」とは色々なケースがあるが、一番簡単なのは戦闘が発生する「北部方面軍本部」のあるドレフェスか、「西部方面軍本部」のあるサイデルで志願手続きを取るのが手っ取り早い。


 しかし……北部方面軍や西部方面軍にも戦闘がある師団と無い師団は存在するし、仮に戦闘がある第一や第三師団に配属されても、そこから更に戦闘部隊に配置されなければ「分隊指揮官」に任命される機会(チャンス)は限りなく少ない。


戦闘機会で言うならば、海軍の方がよっぽど確率が高いのだが……意外にも海軍は「艦船単位」による編成となるので、航海任務において「分隊」が設置される機会は殆ど発生しない。あるとすれば……上陸作戦などで海兵隊の中から分隊行動が求められる時……くらいだろうか。しかし建軍以来、海軍において「上陸作戦」が実施された回数は両手で数える程度しか存在していない。それも精々……集められた情報を基に王国の領海、或いはその接続海域において海賊や海上犯罪組織、海棲魔物の巣窟を急襲した程度である。


そういうわけで、他国同様に王国内における「職業軍人」とは、主に下士官以上を指す言葉であり……一応は広義の意味で「2期以上の兵役」を務めた者を指す事もあるが、大抵は伍長以上の階級の者を指すようだ。


また、王国軍では士官……この場合は「准尉」を含まない「少尉」以上の「将校」と呼ばれる者達については、「士爵」という爵位が与えれる。士爵は爵位としては最下級のもので、年金支給の対象にはならない。


ではなぜ「士爵」に叙されるのか言うと、王城内にある王宮に立ち入る際には……特別に認められた「王宮使用人」以外は爵位が必要であり、これは近衛兵においても同様である。


なので、王室近衛兵及び儀仗兵以外に少尉に任官した者は必ず士爵に叙任される規則があり、士官学校卒業生で既に貴族として爵位を受けている者でなければ、王国陸海軍及び沿岸警備隊に任官する際には新考期間……新任官考査期間を過ぎて正式任官となる際に必ず王宮に参内して士爵に叙任される。


 この「新任官叙爵」は毎年3月と9月の叙任式のうち、9月に行われるのが普通である。


しかし士爵位は結局のところ「王国軍士官が()()()の事情で王宮に立ち入る」為に便宜上必要であるだけのものなので、これを以って「自分も貴族の仲間入りだ!」とはならない。


一応は身分上、この士爵位を持つ者は一般国民からは「騎士様」などと呼ばれる事もあるが、大抵の場合は()()呼ぶ側も「あてこすり」で呼ぶ場合が多いようである。


もちろん、将来のマルクスのように士官学校卒業後の任官を希望していない者には士爵位は与えられないのは言うまでも無い。


 ヨハン・シエルグは2月15日の軍務卿退任の時点で諸卿の「証」たる侯爵位の資格を喪失しているのだが、前述の通り……毎年の「春の叙任」は3月なので、それまで公式には「ヨハン・シエルグ侯爵」のままである。彼は3月の叙任で男爵へと再叙爵される予定であるが、今回の退任に当たってその「男爵位」の辞退を14日の諸卿閣議の席上で門下省のレンギル卿に申し出ていた。


門下省とは建国法に記された正式名称であるが、一般的には別名である「貴族省」の呼び方が有名であり、貴族社会全般の行政と司法の一部を司っている。但し貴族社会に対する監視及び取り締まりは内務省貴族局の管轄で、《青の子》に傀儡とされているナトス・シアロンがこの貴族局の中にある私領調査部の次長であることでお馴染みの部署である。


シエルグ卿からの再叙任辞退の申し出を受けた門下卿と、その閣議の場に居合わせた宰相エテルナ卿は一旦その場で申し出を引き取り、すぐさま国王陛下にこの件を上奏した。


 現在この件は国王陛下からの待命状態となっており、シエルグ卿の申し出が認められるのかどうかは不透明である。「留任1年で辞任」自体が、既に国王陛下の任命権威を揺るがす事態であった為……本来であれば陛下の心象を悪くするものであるのだが、軍務卿辞任の件そのものは既に勅許を得ている。この上で再叙任辞退は臣下の礼にとって如何なものなのか……というのが諸卿の中の「貴族派」の意見である。


王国政府、厳密には国王の親政を支える宰相を除く8人の諸卿……即ち財務卿、内務卿、外務卿、文教卿、門下卿、交通卿、宮内卿、そして軍務卿のうち……元から貴族階級の者が務めている財務卿、内務卿、宮内卿の3人は「貴族派」として残りの平民出身者が務める5人の諸卿に対して何かと対抗意識を持っている。


 ちなみに、先程も名前が出た「貴族世界の統制省庁」である門下省を監督する門下卿が「平民出身」となったのは現国王が即位してからの話であり、「貴族が貴族を治めると手(ぬる)くなる」という考えの下に「平民出身者が貴族の統治を視る」という状態が続いている。このような考えに至る国王は歴代にも何人か居て、特に「黒い公爵さま」が出現して王国社会を監視している時代や、その没後も数十年程度は「この状態」になる事が多いようだ。


また、ヴァルフェリウス公爵家の当主の中には()()何人か諸卿を経験しているが、彼らは諸卿に就いても……不思議とその時代の「貴族派」には加担しないようである。


 今回のシエルグ卿の件にしても、仮に門下卿が貴族派の者であれば宰相や国王に上奏する事無く、その場で申し出を受諾していたかもしれない。それだけ貴族派の諸卿は「平民派」に対して憎悪に近い感情を持っているのだ。


彼らにしてみれば、建国法に記される諸卿制度……つまりは「参議制」における表文にこそ書かれていないが、発案者である46代コベルタ王の発案には


『王室の藩屏たる貴族を以って、諸省を監督させる』


と勅諭された……と、当時の文献に記載されているので、「何故平民が諸卿に就いているのか!」と憤慨するのも無理は無い。


しかし、今日(こんにち)の王国政府における参議制が「このような形」になった原因は、毎度腐敗を進行させてた挙句に、出現した「黒い公爵さま」によって粛清を受ける貴族側にも問題があるのだ。現に、どういうわけか貴族派の2卿……財務卿と内務卿は、特定の貴族家によって壟断されており……その貴族家も本来であれば現役の諸卿しか叙される事の無いはずの「侯爵」位にあるのだ。


 これまで何度も述べられているが、もし()()時代に「黒い侯爵さま」が出現した場合、真っ先にこの2つの貴族家は九族全てが族滅の対象となるのは必定である。過去にもそのような粛清を受けた家が何家も存在し、当然ながらその出来事は文献にも遺されているのだが、いつの時代も腐敗している貴族家自身は


『黒い公爵さまなんぞ……もう何百年も現れておらんではないか』


という嘲りにも似た開き直りの態度を採っている。特に現代における「その家」の一角であるノルト伯爵家は、当主の次女を公爵家に輿入れさせており、既に2人の男子を産ませて「外戚」にまでなっているので、その「安心感」たるや、過去の専横貴族の比では無いのだろう。


とにかく、ヨハン・シエルグ卿の爵位返上問題は国王の下で保留とされており、この問題の決着は来月に持ち越される見通しである。


そのシエルグ卿はいよいよ……「あの士官学生」との対面に臨む事となり、これを知る関係者達の興味を一片ならず惹く事となった。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


ルゥテウス・ランド(マルクス・ヘンリッシュ)

主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。

王立士官学校入学に際し変名を使う。1年1組所属で一回生首席。

面倒な事が嫌いで、不本意ながらも「士官学校白兵戦技改革派」に力を貸す事となる。


タレン・マーズ

35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。

ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。

主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。


ロデール・エイチ

61歳。前第四艦隊司令官。海軍大将。第534代王立士官学校長。勲爵士。

剛毅な性格として有名。タレンの戦技授業改革に賛同して協力者となる。

シエルグ卿に次期軍務卿へと指名されるが、自らの手で改革の実現を期する為に辞退する。

姿勢の良い歩き方が特徴。


ヨハン・シエルグ

65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。

軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。

タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技」の責任を教育族に取らす決意を固め、彼らの放逐に成功する代償として自らも軍務卿を辞する事になった。


ハンナ・フォレイト

50歳。軍務省人事局教育部次長(王立士官学校教頭代行兼任)。陸軍大佐。

前教頭の免職を受けて代行職に就任した女性士官。前職は人事部の人事課長でロウ大佐の部下であった。

人事部長に昇進したロウ少将、更には人事局副局長に就任したトカラ中将から訓戒を受けて、学校長やタレンの推進する「白兵戦技改革」に協力するよう特命を受ける。

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