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黒き賢者の血脈  作者: うずめ
第四章 戦乱の大陸
116/129

暗闘の果てに

【作中の表記につきまして】


アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。


士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。


物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。

・距離や長さの表現はメートル法

・重量はキログラム(メートル)法


また、時間の長さも現実世界のものとしております。

・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日 


但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。

・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年

・4年に1回、閏年として12月31日を導入


作中世界で出回っている貨幣は三種類で

・主要通貨は銀貨

・補助貨幣として金貨と銅貨が存在

・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚


平均的な物価の指標としては

・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。

・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。


以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。

 2月11日。この日はヨハン・シエルグ氏にとって朝から何かと忙しい日であった。……と言っても、彼にとっては先月末からの省内騒動で自身がその「火付け役」になっていた関係もあって……自らも含めた周囲の慌しさが続いており、この2旬の間にそれまでの6年近い任期間と同じくらいの人数と面談している。これまでずっと……執務室に引き籠って、余程必要な時にしか階下の官僚達とは顔を合わせなかった彼が、退任を目前にして……その「後始末」の為に6年分の対人業務に追われている状況になってしまった。


そのような忙しい日々の中……自らの任期が残り1旬となったこの日の午前に、彼は庁舎3階の2号会議室に何人かの官僚を集めて「本日最初の会議」に臨んだ。この時集められたのは彼を(たすけ)て……「省内の暗闘」に勝利する為に動いた、彼にとって「初めて信頼出来た官僚達」とも言える7人の法務官と、彼らに協力した憲兵課長である。憲兵課長は


(このような席に自分が呼ばれるのは「場違い」なのではないか……)


と、不安げな顔で落ち着き無く円卓の大きな椅子に縮こまって座っていた。


「今日は忙しい中、よく集まってくれた。諸君ら一同と会するのは……今回が初めてであるな。そして……最後になるだろう」


 円卓を囲む9人の中で主座に着いた軍務卿から、最初に挨拶を受け……8人は立ち上がった。代表としてキレアス法務局長が


「閣下。色々とございましたが、漸くこの騒動も収まりつつあります。ただ……我ら法務官にとって、閣下が今回の騒動における責任をお感じなり職を辞されるという事態にまで及んでしまった事は大変残念に思います……」


この言葉を発した法務局長も、他の7人も表情を暗くして俯いた。実際……彼らにとって軍務卿自身が1月29日の高官会議における席上では無く、その前日……4人の教育族将官に罷免を言い渡した日の午後に国王陛下への上奏の席で辞意を表明した事を、帰省後に伝えられた時は少なからず慌てたのも事実である。


 特に……「あの士官学生」から最初に「恫喝まがい」の申し入れを受けたジェック・アラム法務部次長は、「軍務卿を巻き込んだ」という意識があったので


『教育族放逐の為とは言え、軍務卿の力を借りる事で()を当事者としてしまった』


という悔悟の念が生じていたのだ。


「閣下……申し訳ございません……。あの日……あの夕刻の一時……。小官が閣下のお部屋に押し掛けていなければ……閣下にこのような責任を押し付けてしまい……」


 アラム法務官は俯いたまま小刻みに震えていた。彼は元々……この法務官仲間や所属する法務部だけでなく、省内数多の者達から「軍務省の良心」と呼ばれる程に物腰穏やかで、目下の者への当たりも柔らかい人物であり、あの時は……小僧のような年齢の士官学生に、それまでの人生でも体験した事のない「恐怖」を感じ、彼から言われるがままに軍務卿執務室に駆け込んでしまった事に対して


()()若者の言い分に従ってしまった事は本当に正しかったのか……。軍務卿閣下に泣き付く事をせずに自分だけで消化出来なかったのか)


と、自分自身へ何度も反問するようになっていた。今、その事を思いながら忸怩たる思いで震えている彼に


「アラム君。貴官がそのように思い苦しむ事は無い。今回の事は『私の戦い』だったのだ。私は自分の過去の為に……自分への()()()の為に、『我が身』を差し出したのだ。これは()()()()出来ない真似だったのだ。だから……貴官が気に病む事は無い。私はこの後の人生……恐らくは老い先短い時間だろうが、自分の手によって戦場へと送り出していった若者達へ……その魂に祈りを捧げる事に費やそうと思う」


自分の名を呼ばれ、ハッと顔を上げたアラム法務官の目に映った軍務卿の表情は……これまでに見た事の無い程に穏やかなものだった。


過去を振り返ってみると、彼の中に残っているシエルグ卿の表情は「険しい」か「厳しい」ものばかりであり、軍務官僚に対して決して心を許さなかった彼が、このような穏やかな顔を見せるのは……これまでに唯一、タレン・マーズ少佐の話題になった時だけであった。


「閣下……」


アラム法務官はそれ以上の言葉が出て来ず……再び項垂れてその場に立ち尽くした。


「さて。本日このように集まって貰ったのは……『今後の事』についてだ。私の任期は残り1旬……。15日までとなった。私自身の後任については既に諸君らにも話した通りである。しかし……あの『教育族』の連中の後任はまだ決めておらん。今回の件で私を輔てくれた諸君らに報いる為にも……」


 ここで一旦言葉を切った軍務卿は、この場に持参していた書面を取り出し、読み上げた。


「諸君らを以下の職位に推薦し、昇級とする」


「法務局長ドレン・キレアス大将を軍務次官に推薦する」


「法務副局長アレイテス・カノン中将を大将へと進級させ、人事局長に推薦する」


「法務局法務部長エイビル・ホレス少将を中将へと進級させ、法務副局長に推薦する」


「施設局施設整備部長アミ・トカラ少将を中将へと進級させ、人事副局長に推薦する」


「人事局人事部次長ゼダス・ロウ大佐を少将へと進級させ、人事部長に推薦する」


「法務局法務部次長ジェック・アラム大佐を少将へと進級させ、法務部長に推薦する」


「兵器局生産部工廠整備課長オリク・イルエス中佐を大佐へと進級させ、法務部次長に推薦する」


ここまで一気に法務官7人に対して論功行賞とも言える昇進人事を発表し、それまで何も聞いていなかった彼らを驚かせた。


 そもそも、今回の件に対して7人の法務官達が「教育族」との対決を決意したきっかけは、彼らが長年に渡って行っていた高級幹部の人事独占であり、処分を受けた4人の将官の他にも前次官は局長及び副局長級に自分の息が掛かった者達を配置していた事は、その後の調べで判明している。


その中でも、今回の件で露骨に前次官側に付いた情報局長については更迭には至っていないが、辞任の上で退役を促す措置を採っている。何より、彼の配下である情報部が完全に局長に対して不服従の姿勢を鮮明にしており、現在は今回の騒動で「蚊帳の外」に居た副局長が彼らの間に入って何とか「本庁舎地下」の秩序が保たれている状況である。


他にも表面には出していないが、前次官に(おもね)っていた者達の名前が何人か挙がっており……彼らは4人の更迭劇に接して恐々としているはずである。


そのような状況で、法務官達としては「憎むべきは次官一派による人事的停滞」という認識で一致していたが、それは決して「彼らに取って代わる」というものでは無く、今回のような論功人事になるとは思っていなかった。


そもそも、法務局長を始めとして……定年まで2年を切っている者が3名居り、彼らは自身の栄達よりも残される後輩達の為に「風通しを良くしたい」という思いで動いていただけに……定年までの残り少ない時間で「最後の昇級」を果たした事に本気で驚きを隠せないようだ。


 そして……軍務卿の読み上げはまだ終わっていなかった。


「憲兵本部憲兵課長サムス・エラを大佐へと進級させ、憲兵本部長に推薦する」


「なっ……!?」


驚いて顔を上げた憲兵課長に構わず軍務卿は続けて


「並びに……この席においてサムス・エラに対する法務官資格推薦を諸君らに要請するものとする」


「なんと……」


法務局長も驚きの声を上げる。


「諸君らも聞いただろう。今読み上げた人事の移動が実現した場合、法曹官資格を有する者が5名から3名に減少する。この事態を埋めるべく、エラ中佐を昇進と同時に法務官の列に加える事を提案する。諸君らの意見を聞きたい」


「おっ、お待ち下さい……!しょ、小官はとてもそのような……本部長などと……それに法務官とは……とても……とても務まるとは思えません」


憲兵課長が慌てて辞退する構えを見せる。彼は、この席に連なる者達の中で……7人の法務官達とは一線を画す「思想」で動いていた人物である。


 彼は元々、士官学校すら卒業していない「外部」から転籍して来た者であり、他の高級官僚達のような「教育族」による人事停滞に対して、それ程隔意を抱いていたわけでも無い。今回彼が「軍務卿側」に参加したのは、(ひとえ)にアラム法務官から要請を受けただけの事であり、今回も特に論功に浴するとは思っていなかった。


「そのような事は無い。今回の件……貴官の働きには我らも大分に助けられた。貴官の『見えざる働き』によって私も『奴ら』の放逐に踏み出せたのだ。改めて礼を言う。そして今後は『一つ上の立場』から、新しい軍務省を支えてやって欲しい」


 憲兵本部は、軍務省内の1部局ではあるが……その立場は他の6部局よりも一段低い組織であると見做されている。その組織幹部も本省で言うところの「局長級」である憲兵総監を頂点として、上級幹部に「部長級」の憲兵副総監、更には「課長級」である憲兵課長だけが配置されており、今回軍務卿がエラ中佐の昇格に言及した「憲兵本部長」という役職は常設職では無い。


憲兵課長は王都内における憲兵の実質的な「現場トップ」の役職で、全ての憲兵の実働部隊をその管掌下に置いているのだが、何しろ総勢で1200名もの憲兵を管理しなければならない憲兵課長は軍務省内でも有数の激務職として有名であり、余程能力を持った者でないと業務そのものが滞ってしまう。


その激務の中でエラ中佐は、アラム法務官の要請に応じてくれた事に対して……軍務卿はそれに報いる形で非常設の「憲兵本部長」の職位を用意して、エラ中佐を大佐に進級させた上で就任させる事にしたのだ。


これによって憲兵課長を越える権限を持ったままに、後任の課長職と業務を分散させる事で「エラ大佐」の激務を軽減させる他に、法務官に任命する事で司法権限を強化させようと考えたようだ。


「どうかな?陛下より法務官を新たに御勅任頂くには現役の法務官5名の推薦が必要だと聞いている。諸君らの推薦でエラ君を後継法務官に充てる事は出来ないだろうか」


この軍務卿の申し出に対して、真っ先に立ち上がったのはアラム法務官である。


「私はエラ中佐を法務官として推薦する事に同意致します。彼にはそれだけの資格がございます。閣下の仰られるように、今後も我が省を支えて頂きたいと思う次第です」


トカラ法務官も立ち上がった。


「私も同意致します」


その後も他の5名の法務官が次々と立ち上がり、結局7名全員がサムス・エラ中佐の法務官推薦に同意した。


「それでは我ら7名、連名の上でサムス・エラ中佐を法務官に推薦致します。閣下におかれましてはお手数ですが国王陛下への上奏をお願い出来ますでしょうか」


そう言ってキレアス法務官が頭を下げた。他の6人もそれに従う。この光景を見たエラ課長は目を潤ませて


「そ、そんな……小官如きに皆様が……そこまで……忝い事でございます」


この仕事一筋の男が……その場で立ち尽くして俯いたまま震えている。よもや今回、普段何かと世話になっている法務官の面々に対して激務の合間に協力した事で、このような「報われ方」をした事に対して驚くと同時に感動すらしている。


 サムス・エラは、これまで何度も言及されている通り……元より士官学校を卒業して軍士官を志望していたわけでは無い。彼は官僚学校を卒業し、しかも席次3位という好成績で「指輪組」として内務官僚の経歴(キャリア)をスタートさせた。


内務省時代は警保局という王国内の公務員全体を勤怠面で査定する部署で昇進を重ねていたが……その過程で、よりによって自らが属していた内務省内で「特定の貴族家による専横」の現実に遭遇してしまい、それが原因で「反アルフォード」とも言える「シアロン派」……つまりルゥテウスによって《青の子》の傀儡となったナトス・シアロン率いる「反体制派」に身を投じる事となった。


 しかし、有能過ぎた故にシアロン派の中でも人一倍アルフォード家の専横に対する反感を強くして活動に臨んだ結果、当時の内務卿ロビン・アルフォード侯爵自身に()を付けられてしまい、省内に残る事も難しくなってしまった。


結局、彼は年下の領袖であったナトスからの勧めに従って省外に出る決意をし、ナトス達の協力もあって当時の軍務省と「渡り」を付ける事に成功し、憲兵本部へと中途採用で再就職を果たせた。


 今回の件では、前述のように普段から何かと業務上で関わりが深く、色々と世話になっていた法務官達を援けようと、軍務卿側に参加したのだが……実際は内務省時代にも抱いていた「専横に対する嫌悪」が今回も「教育族」に向かって働いたのかもしれない。


彼は「外様」という身で、普段から自らが蒙る責任問題には非常に敏感な「小役人気質」を持つ者であるが、その芯の部分では本人も意識していない彼なりの「正義感」を意外にも強く持っている……のかもしれない。軍務卿は、()()部分を見抜いて、彼への厚遇を示したとも言える。


「それでは諸君らの今後の処遇については以上だ。かなり慌しくなるが、残りの職位(ポスト)についてはキレアス新次官が中心となってカノン新人事局長が補佐して人事案を纏めるように。除書の公開……即ち除目まで残り5日だ。拙速を求める必要は無い。空位の職位が出るのであれば現在のように代行者を立てて次の除目で後任を充てるように。これは私自身の後任となるヘルナーにも申し伝えておく」


「はっ!」


軍務卿の申し渡しに対して8人は一斉に敬礼で応じた。


「恐らくこれで諸君らと集まる機会は最後になるだろう。改めて今回の件……礼を言う。ありがとう……」


 自らも立ち上がった軍務卿は、その巨躯を折り曲げて深々と頭を下げた。そして顔を上げた彼は


「トカラ君。これが……私なりの()()()だ。貴官のご子息への……手向けとさせてくれ。ご子息の魂が安らかなる事を願う」


これを聞いたトカラ法務官は、涙声になって大粒の涙を零しながら


「とっ、とんでもございません。我が息子……ヴェルは……ヴェルは……忝のうございます。閣下……。私は退官までの短い期間ではありますが……『あの日』に見せて頂いた……あの『授業』の復活に力を尽くす事を、改めて誓わせて頂きます……。ヴェルのような若者が……もうこれ以上……うぅぅ……」


この場で泣き崩れたトカラ「新人事副局長」は教育部長の上官として今後は『本来の白兵戦技授業の復活』を強力に後押しする事だろう。愛する息子の「死」と、それに伴って破綻してしまった自らの家庭という「境遇」がこの「教育行政の怠慢」に端を発していた事を知った「母」は……教育改革に対して教育部を叱咤しつつ全力で取り組む事だろう。


「では諸君。この席はこれにて解散だ。諸君らの今後の健闘を心から祈っているぞ」


最早軍属では無い軍務卿は背筋を伸ばして挙手礼を行った。その巨躯による圧倒的な軍礼所作を見た8名の軍官僚達は弾けるように一斉に、改めて挙手礼を行って……この会議は散会となったのである。


****


「今日は軍務卿閣下との会談の日であったな」


「はい。18時からですから、まだ時間はございます」


 校長室にてタレンは校長閣下からの下問に答えていた。


「ふむ。して……君からは何か閣下に対して話す事はあるのかね?」


「さぁ……率直に申しまして、そもそもが何故小官『如き』と軍務卿閣下が会談を望まれていらっしゃるのか……。まずはその部分が皆目見当も付きませんので……」


タレンは苦笑した。


「なるほどの。儂も先日、閣下と会談したが……君やヘンリッシュ君との会談を強く望まれておいでのご様子である事は察したが、(つい)ぞその『理由』については聞かせてもらえなんだ」


「左様ですか……小官が愚考しますに、今更この時期になって授業改革に対して掣肘を加えて来るとは思えません。『元白兵戦技教官』というご経歴をお持ちの閣下が、()()授業内容を否定する我らに対して何か……苦言の一つでも仰られる……とも思えません」


「そうじゃな。私もあの御仁と言葉を交わした限りでは、そのような『料簡が狭い』事を仰るような方では無さそうじゃ」


「なるほど。私に対してはまだしも……()()ヘンリッシュとも会談を望まれているとなると……」


「うむ。儂は先日の会談で随分と胆を冷やされたわい。軍務卿閣下との話の内容を、()()若者は悉く的中させよった。あそこまで状況を読み切るとは……。彼を直接、軍務卿と目見(まみ)えさせてもいいのじゃろうかな……そこは確かに不安を感じるの」


 言葉に反して校長閣下は笑っている。最早彼にとって「あの士官学生」は自らの見識を超えた存在になりつつある。「一体何者なのか?」という考えすら起きない。


あの若者は少なくとも「自分の敵では無い」という事実だけで十分なのだ。


「しかしあれだな。君との会談の中で『彼に会わせろ』と要求されたら……どうするつもりだ?」


校長閣下は少し意地の悪い顔付きで尋ねた。


「いやぁ……私の一存ではとても回答する事は出来ません。それに閣下の任期は、私の知るところによると除目の前日……15日までとなっていますから、最早『軍務卿』としてのシエルグ卿とはお会い出来ないのではないでしょうか」


「確かにな。軍務卿の職から離れた後に()と面談して、何が得られるのか……そこは益々解らんの」


「はい。それは私自身にも言える事です。私は所詮……士官学校の主任教官職を拝命している身でございますので余計な事を申し上げず……余計な言質を与えず……。この心構えで臨もうかと」


「はっはっはっ。なるほどの。まぁ、こういう時に()に会えないのはつくづく残念じゃ。彼なら会談内容を、いつものように読み切ってくれたじゃろうにな」


「た、確かに」


2人共笑い出してしまった。そうなのだ。彼らが最早その智謀を疑わない()()若者は、この学校に昨年入学したばかりの一回生なのである。よって席次考査期間中は彼との接触は叶わない。何故なら……ここで笑う2人も士官学校長と主任教官と言う……士官学校における「トップ」と「ナンバー3」という地位にあるからだ。


 最近、タレンはその「主任教官」という立場であるにも関わらず


(彼に対して、今更席次考査を実施する必要があるのか……?結果なんぞ判り切っているではないか)


と、身も蓋もない事を考えてしまうのだ。


****


「お待ちしておりました。マーズ少佐。ご案内致します」


 ぎこちない所作で挙手礼を実施してきたのは軍務卿秘書官のシェビー・ロウ中尉だ。彼女も最近、軍務卿の下を訪れる様々な人物の応対に忙しいのだが、本日の「来客」はその中でも格別の人物であり、彼女自身も先日案内をした前第四艦隊司令官である現士官学校長と並ぶ「有名人」であるせいか、かなり緊張している。


何しろ相手は王宮にまでその雷名が轟いている「北部軍の鬼公子」であり、()()を抜きにしても公爵家の御曹司なのである。本人の物腰は至極穏やかではあるが、その所作には全く隙が見られない。本日、出勤の際に家を出る際にも……家の主であり同じくこの軍務省で奉職している伯父から「くれぐれも失礼の無いように」と、真顔で釘を刺されている。


「わざわざお出迎え頂き恐縮です」


相手は自分よりも階級が2つ上にも関わらず丁寧な態度で返礼し、謝辞を述べて来た。それを受けたロウ中尉は慌て気味に


「でっ、ではこちらへ……」


と、受付の最寄りにある東階段へと来客を促した。


 先日の士官学校長の時とは違い、本日の来客は周囲の者達と変わらない陸軍士官の制服姿であり、当人も特に何か威勢を発しているわけでも無いので、退勤時間を過ぎた庁舎内の職員達はそれ程彼に対して敬礼動作を行うような事も無い。この時期……残業する程に忙しいのは冬の除目と士官学校の考査が重なる人事局と、旬明けに軍法会議が開廷される法務局くらいなので、道中特に人混みに遭遇する事も変わった事も無く2人は東階段を3階まで上り、東廊下から南廊下へと曲がって軍務卿執務室に辿り着いた。


「どうぞ。こちらです」


ロウ中尉に続いてタレンが執務室の前室に入ると、左側に並べられた机で何やら業務を行っていた2人の秘書官が一斉に立ち上がって敬礼をしてきた。時刻は既に18時になろうとしている。本来であればとっくに退勤時間を過ぎており、彼女たちはどうやら()()事の為だけにこの時間まで残っているのだろうか。


実際、案内を務めたロウ中尉を含めた秘書官3名は「()()北部軍の鬼公子」が本日18時から、この奥の部屋で軍務卿との会談に臨まれると聞いてこの場に残っていたのだ。部屋の主からは「諸君らは退勤して構わん」と言われていたのにも関わらず……である。


 タレンは多少面喰いながら……それでも一番奥側の席で立つ首席秘書官は彼よりも階級の高いウェイン中佐であったので、立ち止まって挙手礼を行った。その間にロウ中尉はいつもの如く奥室の扉をノックして来客を告げ、部屋の主から許可を貰ったのか「どうぞお入りください」と、タレンに奥室へ入るように促す。


「失礼致します」


と、タレンが奥室の扉から中に入ると……「噂」に聞いていた巨躯の軍務卿閣下は椅子から立ち上がってこちらに歩み寄って来た。


噂に違わぬ巨躯を初めて目撃したタレンは、一瞬驚いたが……それを努めて面には出さずに


「士官学校主任教官を拝命致しております、タレン・マーズ少佐であります。閣下からの()()()を賜り……出頭致しました」


と、扉から入ったすぐの場所で背筋を伸ばして挙手礼を実施した。「お招き」により「出頭した」というのは多少不自然な言葉遣いであったが、彼の心情をよく現しており……思わず口から出てしまったのだろう。


 軍務卿閣下は()()には気にする様子も見せず応接椅子(ソファー)を勧めて


「よくぞいらしてくれた。こちらへ」


「たかが」士官学校主任教官に対して、不自然なまでに丁寧な言葉遣いで応じて来た。


「それでは失礼致します」


 部屋の主が先に向かい側の長椅子に腰を下ろしたのを見てからタレンも漸く勧められた応接椅子に腰を下ろす。そしてこれもいつもの事だが、このタイミングでロウ中尉が茶を運んで来て、2人を隔てる机にそれぞれカップを置いてから盆を抱えて敬礼し、扉から外に出て行った。その動作は驚く程に音が発てられておらず、「本当に退出したのか?」と逆に背後へ気が向く程であった。


「漸く……漸くだ。貴殿とこうして対面が叶った。よく来てくれた。礼を言う」


軍部の頂点……国王陛下(最高司令官)の代理人である軍務卿から、このように丁寧な挨拶を受けるとは思っていなかったタレンは面喰った。


「こっ、これは……私如き一士官に過分なご挨拶を賜りまして……」


「いやいや。貴殿との会談は最早任期も残り少ない私にとって最後に残された念願であった。本日午前までに軍務卿としての雑務も全て終わらせた。後任者への引継ぎについても同様だ。残るは14日に実施される……除目を前にした諸卿閣議だけだが……私の任期は()()翌日までなのでな。もう何も……何も残っておらんのだ。貴殿とこうして会談を実施する以外はな……」


「左様でございましたか……過日も面談のお誘いを賜り、しかもそれを辞退してしまった事をお詫び申し上げます」


タレンは立ち上がって頭を下げた。先日のロウ大佐との思いがけない会談で「面談を拒否した」件をそれとなく咎められた……気がしたので、今回は相手の機先を制して先に謝罪してしまおうと思ったのだ。随分と理不尽な話ではあるが……相手はまだ現役の軍務卿であるので、一軍人であるタレンとしては甘んじて受け入れるしかない。


「顔を上げられよ。私は気にしておらん。貴殿とはこうして会えたのだ。もう()()事は気にしないで欲しい」


「はっ……。お心遣い、感謝致します」


 タレンは当初考えていた通り、「この会談においては無駄口を一切開かない」という考えで臨んでいる。最初に謝罪だけして、後はひたすら押し黙り……聞かれた事だけを「当たり障り無く」答えようと思っていた。


しかしその直後に軍務卿の採った行動は……彼の意表を突くには十分過ぎるものであった。


「マーズ卿。こちらこそ謝罪させて欲しい。私は貴殿に対してずっと謝罪したかったのだ。この通りだ……」


今度は軍務卿が立ち上がって、深々と頭を下げたのである。先日のロウ大佐との会談の時のようにタレンは慌てて立ち上がり


「なっ!どっ、どういう事でしょうか!?小官には閣下にこのような事をされる覚えはございません!お願いでございます。どうかお顔をお上げ下さいっ!」


これは彼にとってあまりにも思い掛けない事であり……相手が目を瞠る巨躯の大男であるだけに、その光景は一層異様に映った。軍務卿はロウ大佐と同様、頭を下げたまま言葉を続けた。


「いや、私は貴殿にこうして詫びねばならんのだっ!貴殿が王都に戻り、士官学校に職を得て、そして……今の白兵戦技授業を『紛い物』であるとして立ち上がってくれた……。貴殿は私に……私に『自らの過ち』を教えてくれたのだっ!貴殿が立ち上がってくれなんだら……私は()()()()若者達……北や西に送り込んだ若者達の『悲劇』を知る事無く……一生を終えるところであった……。申し訳ないっ!ヴァルフェリウスの御曹司よっ!我が謝罪を受け入れ給えっ!」


「とっ、とにかくお顔をお上げになって下さいっ!これでは何も……何も分からぬまま閣下の『謝罪』の意味するところが解らず……」


 タレンの必死の説得によって、軍務卿は漸く頭を上げた……。その顔は涙で濡れており、タレンは再び驚いた。


(ど、どういう事だ……何故……何故に軍務卿閣下は私に謝罪など……「あの頃の若者達」だって……?)


「こっ、このような申し様……無礼な申し様をどうかお許し下さい。小官は先日……閣下が教育行政経験者の皆様を本省から追放(パージ)された()()時まで……閣下は『我ら』にとって『向こう側のお方』だと考えておりました。先日来……その……閣下より『面談のお誘いがある』とのお話を頂きました時も……直接小官に対して活動を中止するよう『圧力』を掛けて来るのではないかと……そのように愚考しておりました」


両者共、どちらからとも無く再び椅子に腰を下ろし、先程までとは打って変わって……静かに話し始めていた。


「なっ……そうか……なるほど……やはり私はそのように……貴殿()に見られていたか……。そうだろうな。私の『怠慢』……あの小癪な『教育族』どもの人事に対する我が怠慢が原因であろう……」


涙を手巾で拭った軍務卿は一転して苦笑した。


「怠慢……ですか……?」


「そうだ。我が怠慢だ。私は陛下からのお声掛けによって()()()()に就いてから……人事について自らの意志で権限を行使したのは2度だけ……他は全て『下から』の書類を『右から左へ』流しているだけの()()な男だったのよ……」


「そっ、それでは……その……次官閣下や教育部長殿に対しても……でしょうか?」


「そうだ。丁度毎年今くらいの季節だわな。()()連中が何やら好き放題に人事の案を組み上げて、その書類を私の下に持ち込んで来た際に……私はその書類には全く目を通す事無く署名だけを行い、諸卿の閣議に上げていたのだ。思えば随分と愚かな事をしたものだ……それだけでも……それだけでも私は万死に値する……」


話ながらまたもや軍務卿閣下の顔付きが険しくなってきた。自らの愚行を思い出して悔恨の念が襲って来ているのだろう。


「わっ、私は『北部の田舎』の部隊にずっと居りましたので……閣下と『教育行政の皆様』との間で、そのような事が行われていた事につきましては……人伝(ひとづて)にお伺いしただけですが……何やら僅か2年で()()を再び進級させたと言う……」


「そうだ。それも同様に……昇進推薦の内容も碌に確認もせず、今も言ったが右から左へな……よもやこのような弊害が起きている事など……当時の私は考えもしておらなんだ。あのアナキツネのような狡猾さを持ったエルダイス……奴が自らの地位を利用して子飼いの者達でこの軍務省の上層部を固めていようとはな……」


「左様でございましたか……」


 タレンは軍務卿自身の口から、その「人事的怠慢」について告白を受け……自分達が「軍務卿は教育族に与している」という認識が誤っていた事に納得しかけたが……それと同時に、「あの士官学生」の顔が頭に浮かんだ。


『あの軍務卿と会談する必要は無い。いや、価値は無い』


本人の口からはっきりと聞いたわけでは無かったが……あの士官学生は、目の前に居る巨躯の軍務卿を「無能である」と断じていた……ような気がした。マルクス・ヘンリッシュは、何を以ってこのシエルグ卿を「無能」と評価していたのだろうか。


()()マルクス・ヘンリッシュが、徒や疎かに他人に「無能」の烙印を押すとは思えない。今、目の前で悔い言を述べている巨躯の老人は、軍人として無能であるとは思えない。確かに彼が()()()今、自ら告白した「人事案を右から左に流していた」という行為は国王の代理人たる諸卿として如何なものか……とは思うが、結果的に彼は自分の犯した「怠慢」については教育族を放逐し、自らの出処進退も綺麗にしている。彼は一時、確かに「職務怠慢」を犯したかもしれないがその「罪」を自ら贖ったとも言えるのだ。


今は考査期間中なので、あの若者の意見を聞く事は出来無いが……彼は今も軍務卿に対して隔意を抱いたままなのだろうか……そのような事を考えながらタレンは押し黙ったまま相手の言葉を聞いていた。


「貴殿らからの要求を聞いた事が一つの契機となって……私は自らが犯していた怠慢によって起きていた、軍務省の『人事的問題』に気付く事が出来た。そして……嘗て私も奉職していた士官学校で教えていた白兵戦技が……」


ここでまた言葉を詰まらせた軍務卿だが、すぐに気を取り直したのか


「とにかく……貴殿らのお陰で私は『重大な過ち』に気付き、()()にケジメをつけた上で……今はこうして晴れ晴れした気持ちで軍歴を終える事が出来る。改めて礼を言わせて貰う。御曹司よ……ありがとう」


今度は立ち上がる事こそしなかったが、それでも軍務卿はタレンに対して頭を下げた。


「い……いえいえ。小官は閣下からそのように仰って頂くような事は致しておりません。小官は僭越ながら士官学校で実施されている白兵戦技教育が、あまりにも……その……」


「『役に立たない』ということだろう?」


「い、いや……その……まぁ……」


タレンは口籠った。戦技教育に対する批判を行おうとした時……目の前の老人も嘗ては「その戦技授業の教官職を経験していた」というベルガの話を思い出したのだ。


「その様子だと……貴殿も私の『過去』を存じているようだな。そうだ……私も嘗ては士官学校で前途ある若者達に槍術を教えていた。貴殿らからすれば『貴族のちゃんばら遊び』だったか。そう思えるだろうがな……」


「い、いえいえ……とてもそんな……」


タレンは一応否定して見せたが、彼の本心は当然別である。そもそも彼自身は


『個人の武勇によって振るわれる歩兵槍術は集団戦では全く役立たない』


と思っている。彼はむしろ余計な武術的要素を伴わない「集団戦に特化した」槍術を尊重しており、


『一人の豪傑が戦場において隙の多い槍を振り回したところで、自ずと限界がある』


という見解を持っている。それは正しく集団戦に特化させた騎兵戦術において、自らが先頭となって敵勢に突撃する彼ならではの思想であり、また……彼自身の初陣の際の原体験が基となっている。あの時は、歩兵槍よりも取り回しの利く馬上槍を以ってしても「たかが匪賊のゴロツキ」に包囲されて嬲り殺しに遭いそうになったのだ。


彼はそれ以来、個々の武勇に頼った歩兵槍術に対して否定的となり……13年前に、最初の士官学校教官時代にも、陸軍歩兵科の白兵戦技教官……特に槍術教官らに対して、その「授業内容の無意味」さを説いたのだが、彼らの反応は一様に冷ややかなものであった。相手は公爵家の御曹司故に強い反発は示さなかったが、正しく聞き耳を持たれず……「騎兵戦技教官が余計な口を挟むな」と言った態度で、当時の軍中央から選抜された、実戦経験も無い「戦技教官」達はタレンの説得を拒んだのだ。


そのような体験を経て、今度は主任教官として再度士官学校に赴任して当初は「前回」の事もあり


『戦場を知らない、自尊心(プライド)だけは人一倍高い「軍中央」出身の連中に何を言っても無駄だ』


という無力感から来る……「諦め」にも似た感情を持っていた。これは「戦知らずの穀潰しども」に対して諦観していた前第四艦隊司令官の学校長も似たような心持ちだったのだろう。


 しかし、そんなタレンの……目を覚ますような出来事が起こった。1年1組の担任教官でやはり「軍中央出」の剣技教官が自分の下にやって来て


『今年入学した新入生の中に……()()()()()()強い若者が居る。自分は何をされたか判らず完敗した』


と言い、更にその場において()()若者は恐れる事も無く


『今の士官学校でやっている授業は、()()()士官戦技授業では無い』


そのように言い放ったと言うのだ。その若者は……自分の実家の領地の西の外れにある港町で育った「レストランの息子」で……後に聞いた話では、隣の大陸から逃げて来た「戦時難民」にその「業」を習ったと言う……。


その戦技教官は、()から受けた「圧倒的な業による説得力」によって「本来の戦技教育」に興味を持ち……その事で「実戦経験を持つ」自分に対して教えを乞うて来た。嘗て……前回の赴任時には聞く耳すら持たれ無かった「実戦で通用する為の戦技授業」をだ。


 今、目の前に居る巨躯の老人……軍務卿は「貴殿が立ち上がってくれたからこそ」と言っていた。そうでは無いのだ。自分もあの時……士官学校教育には見切りを付けていたのだ……。


そんな自分を蘇生してくれたのは……「あの」若者の……あまりにも圧倒的な戦闘能力。そして……その実戦的な考え方……。時を置かず自分の目で見た()の力は……本物であった。いや……自分ですら見た事の無いあの能力。人は……あそこまでの「業」を宿せるのか……。タレンはマルクス・ヘンリッシュの「業」をその目にした事で、若い頃に抱いていた「本物の白兵戦技」に対する情熱を思い出したのだ。


「閣下……小官では無いのです……。小官は……やはり若い頃にも一度、教官職を拝命し……その時には諦めたのです……。『変えられない。自分の力では変えられっこない』と……」


そして項垂れるように顔を伏せて


「小官は初陣で生命を落としかけました。その直前まで習い覚えていた白兵戦技がまるで通用しない事に気付くと同時に『死』が覆い被さって来たのです……」


 タレンは「あの時」の事を思い起こして震えながら語り始めた。軍務卿はそんな彼を見て、その話を遮らないようにする為か、目を閉じ耳を傾けている。本来であればそれは……自らがその昔、槍技戦技教官として戦場に送り出した若者達の「リアルな結末」であり、彼はそれを聞いて叫び出しそうな衝動を必死に堪えているのだ。


「最早視界も暗くなり……残された体力で闇雲に槍を振り回す小官に限界が訪れた頃……配下に付けられていた者達が身体を張って救い出してくれたのです。10人の騎兵隊員が小官を救う為に馬を下り……自分達の馬を盾にするようにして……」


「結局……後続の部隊によって我らは救い出されましたが……小官を庇って2人の部下……歴戦の騎兵隊員が生命を落としたのです……。ロメルとべラルド……と言う若者でした。特にべラルドは……小官の実家がある公爵領の出身でした。15歳で騎兵隊に入り、独学で腕を上げて……当時の小官と同じ歳の……20歳の若者でした……」


「べラルドは……小官が『領主の息子』であると理由だけで、当時未熟な新任士官であった小官を慕ってくれまして……あの時……もう駄目だと……目の前が暗くなり……敵の……あのゴロツキが……持っていた剣を振り被って……それが落ちて来た時……べラルドが……べラルドが飛び込んで来て……ううぅ……」


 タレンは両手で頭を抱えて首を激しく振った。新考期間中という「見習い」であった自分とすぐに仲良くなってくれた若者。背格好はずんぐりとしていたが、自分と同じ年齢なのにもう5年も戦場で過ごしていて……「領主さまのご子息」だからと分隊に志願してくれたあの若者……。


『若様……お逃げ……下さい……ここは俺が……俺が……』


あの顔……領主の息子としてでは無く、「指揮官の身代わりとなった」という誇らし気な……何か満たされた顔で斃れて行った若者……。あの「最期の顔」は今でもタレンの夢に現れる。そして既に自らの力で動く事の出来なくなっていた自分を背負って走り出したロメル……。自分の乗っていた馬の鞍に上官を担ぎ上げ……背後から追って来たゴロツキどもに嬲られながら最期の力を振り絞って上官だけを乗せた馬に鞭を呉れてくれた若者……まだ分隊となって日が浅いせいか、普段は無言だったが酒を飲んだ時に一度だけ……故郷の話をしてくれた若者……。


「小官は……小官はあの日……あの若者達に生命を拾われ……生き延びた時に……誓ったのです。自分は決して死なない。部下の足を引くような……自分の未熟さで部下を死なせない……と。彼らに報いる。部下に護られるのでは無く……自分が彼らを護ると……」


 タレンは震えながら歯を食いしばり、話を続ける。軍務卿は、その彼の身体が自分よりも大きくなったような錯覚を受けた。「北部軍の鬼公子」が凄まじい「怒り」とも言える感情が見えざる大波のように、その身体から発せらせている。何に対して怒っているのか。当時の未熟な自分に対してか。指揮官だけを執拗に狙って来るゴロツキ達にか。それとも……そんな彼の言葉を聞かなかった「軍中央出身」の戦技教官達にだろうか。


今や「王都の巨人」は鬼公子に圧倒されていた。その姿は何倍にも大きく見え、怒りが吹き出し……そして震えているのだ。とてもじゃないが話し掛けられる状態では無い。


「最初の士官学校教官として王都に赴任した時……小官は自らの経験を基にして、()()戦技授業を変革してみようと試みました。しかし小官のような地方部隊から転入してきた若僧の話など……軍中央出身の教官方には通じませんでした。結局小官は、師団長閣下の要請を受ける形で3年も経たずに『北の戦場』に戻ったのです。あの時は……無力感で一杯でしたが……」


「そっ、そうであったか……。そうか……。貴殿は若い頃にそのような経験を……」


軍務卿はそこまで言うので精一杯であった。嘗ては自らもその「話が通じなかった軍中央出身の戦技教官」の一人であり、確かにあの頃は自らの武技の腕前に対して自信に満ち溢れ、よもや自分の教授している白兵戦技が「紛い物」だとは露とも思っていなかったのだ。


(これは……これでは()()に軽蔑されても仕方無い……。私は……身の程知らずにも、このような()()に対して……厚かましくも会談を申し込んでいたのか……。「誤った武技」を若者達に教え、今また自らの怠慢で「教育族の馬鹿ども」を軍務省に蔓延らせ……彼らの意見具申を突っ撥ねさせて……)


今……目の前で震えている「北部軍の鬼公子」も、先日会談した前第四艦隊司令官も……軍中央で軍歴を重ねて来た自分の知らない「死線」を潜り抜け……士官教育の現場にやって来たのだ。そして相変わらず「クソの役にも立たない戦技授業」を目の当たりにして、呆れ果て……それでも「それを改革しよう」と立ち上がった。


『自分達のような「思い」をこれ以上……今の若者に味あわせたくない』


その一念で立ち上がり……色々と曲折を経て、今漸くその開始地点(スタートライン)に立ちつつある。


(そうか……提督が我が後任(次期軍務卿)となるよりも自身の引退を懸けてまでして「学校長の残り任期」に拘ったのは……こう言う事なのだな……)


「マーズ殿……。貴殿のお気持ちはよく解り申した。()()()()……万難を排してやって下され。我が軍を……救って下され。宜しく頼み申す」


軍務卿は再び頭を下げた。そして


「願わくば……私も貴殿を再び『その気』にさせたと言う……()()若者と話がしたい。貴殿や学校長殿……そして今上陛下すら御賞賛を惜しまない、()()士官学生と話がしてみたいのだ……。どうだろうか……。厚かましい頼みである事は解っている。しかしそれでも……貴殿から彼に渡りを付けてくれないだろうか……?」


怯む事無くタレンの目を見て頼み込んで来た。会いたい……会ってみたい。虚心にそう思い、彼は頼んだ。タレンはそんな軍務卿の顔を見て、やや困惑したが……やがて何か吹っ切れたように苦笑しながら


「承知致しました。閣下のご意向に沿えるよう……小官も力を尽くしてみましょう。小官如きの言を()が聞き入れてくれるといいのですが……」


「お願い致す……。今はどうやら席次考査で彼も色々と忙しいだろう。そしてその時期は私の残り任期中では間に合わないと思う。しかし……私は『軍務卿として』ではなく、一人の『人間』として……彼の話を聞いてみたい。宜しく……お願い申す」


 ヨハン・シエルグはこれまでの経緯や、様々な人々……その中には国王陛下までもが含まれている……の話を聞き、「マルクス・ヘンリッシュと言葉を交わしてみたい」と切実に願うようになっていた。


今日は念願叶って、タレン・マーズ……「北部軍の鬼公子」と呼ばれた公爵家の御曹司と言葉を交わし……その考えを聞き、当初思っていた以上の「充足感」を得る事が出来た。これは軍務卿としてでは無く、「ヨハン・シエルグ」という一人の武人として……皮肉な事に軍を退いてからとなってしまったが、確かに彼は「何かに満たされた」のだ。


「今日は貴殿と話が出来て……本当に良かった。よもやこの職を辞する……軍との関わりから離れる寸前になって、貴殿のような人物と言葉を交わす幸運に浴せるとは……感謝致す」


軍官僚達……秘書官にすら殆ど見せる事の無い穏やかな表情で軍務卿は語り掛け……最後に


「私が今回の騒動以前に、自らの意向において……その権限を行使した人事は、我が腹心たるヘルナーの参謀総長就任と……貴殿の王都への転籍……。この2度だけであった……」


「えっ……!?」


 タレンは突然、軍務卿から「自分の王都への転任」について語られて驚いた。


「あれは……昨年の今頃だった……。王宮に召喚され、現職(軍務卿)の留任を陛下(おかみ)から直接賜った際に……御命じ頂いたのだ」


「へっ、陛下に……でございますか……?」


「公爵閣下のご子息が……北の戦場で生命を賭けて王国を守護している。もう10年以上も……公爵閣下はその話を全く陛下にお聞かせする事も無く……今もご子息は戦場でその身を危険に晒されていると」


「陛下は御憂慮されたのだ。貴殿を戦場で喪っては……公爵閣下に申し訳が立たないと……。王国は()()ヴァルフェリウスに生命を差し出させるのかと……陛下は本気で御心配なされていた」


 王位を代々継ぐ者達の中には、3000年に渡る王国の歴史を人並以上に学ぶ者が結構居て、現国王であるロムロスもその一人であった。


確かに、残された歴史記録の中では王室の藩屏たる貴族の中でも、その筆頭であるヴァルフェリウス家が払って来た「血の代償」は他家を圧倒しており、この公爵家が史上唯一の世襲、そして広大な領地を賜り……3000年の時を経ても未だに筆頭貴族として国内のあらゆる層から尊敬を受けているのは当然とも言えた。


古くは建国時……大王に代わって建軍間もない王国軍を率いて北方の平定を成し得た後に、その名誉と功績を全て捨て去り、忽然と姿を消した家祖の「黒き福音」が余りにも有名ではあるが、その後も北東地域で大乱が発生する度に、()()と領地が隣接する公爵家の歴代当主は文字通り「北の防壁」となって反乱鎮圧に力を尽くし、時には当主自身が生命を落とした。


 そして450年前の大北東地域の放棄以降……その「北の境界線」を守備している北部方面軍と同様に、公爵家もまた……「東の境界線」を護っているのである。


現代まで続く107人の公爵家当主のうち、実に14人が戦場で生命を落とし……それと引き換えに王国は幾多の内戦に勝利して来た。レインズ王国は公爵家が時折輩出する「黒い公爵さま」によって苛烈とも言える社会粛清を受けて来たが、それと同時に公爵家は正しく「生命を懸けて」王国を守護して来たのである。


「私は陛下からの勅命によって、貴殿を北部方面軍から引き抜いて王都勤務へと転出させたのだ。確か……士官学校の面接試験官だったか……」


「そっ……ま、まさか……私の転勤が……。陛下が……」


タレンは呆然としている。観覧式の際、救護室にて初めて(まみ)えた際に掛けられた御言葉……。陛下は自分の事を知っていた。自分は好きになれない「北部軍の鬼公子」という異名まで知っていた。そして自分が北の境界線で戦場に居た事も……。


「陛下の御慧眼が結果的に軍部を救うのだ。『勅令』という方法で貴殿を士官学校に再び迎える事が出来た事……これは私にとっても、王国軍にとっても幸運な出来事であった……」


「いや……あの……」


「とにかく……貴殿の今後の『働き』に対して陛下も御期待されていらっしゃる……この事を覚えておいて頂きたい……。では……本日はこのような遅い時間まで私に付き合って頂き……改めて感謝致す」


 タレンにまだ多少の混乱が残っている状況であったが、軍務卿は「これでこの会談は終わり」とでも言うかのように立ち上がった。タレンはそれでも慌てて立ち上がり


「こちらこそ……お忙しい時分にお招き頂き……感謝致します」


と、表面上は落ち着きを取り戻した様子で挙手礼を行った。軍務卿もこれに返礼し、昨年来の懸案となっていた「軍務卿と鬼公子の会談」は幕を閉じたのであった。


 来旬末には任期を終えて退任するシエルグ卿とは、もう恐らく顔を合わす事も無いだろう……。タレンはそう思いながら振り向いて、執務室の出口へと向かった。扉を開けると、前室にはまだ3人の秘書官が残っており……壁に掛かっている時計を見ると時刻は既に20時になろうとしていた。タレン自身にはそれ程時間の経過を感じなかったのだが……この部屋で2時間も、あの巨躯の老人と相対していた事になる。


「少佐殿()、お疲れ様でございました」


階級では1つ上であるはずの首席秘書官から挙手礼を受け、タレンは慌ててその場で返礼した。通常、軍礼上では階級の低い者から敬礼は行うものであり、今のように階級が高い者から敬礼動作を行うのは異例の事である。また、返礼動作においても階級が低い者に対する返礼に関しては特にその場で立ち止まる必要も無い。しかしこれも異例ながら階級が上の者から敬礼を受けた際には、必ず立ち止まって姿勢を正した上で返礼動作をする必要がある。


タレンにとっても「階級が上の士官から挙手礼を受ける」という事が非常に珍しかったらしく、この部屋へ最初に訪れた時もそうだったが、返礼動作に慌てさせられる事となった。同じ年に士官学校を卒業し……階級では1つ上だが、年齢は2歳下であるウェイン中佐は、そんな「鬼公子殿」を見てクスリと笑い、それも一瞬だけですぐに真面目な顔に戻った。


「それでは失礼します……」


 タレンは落ち着かなげな素振りで彼女達の机の前を通って南廊下に出た。そして扉を閉めると、その前で一度大きく息を吐き出して


(いやはや……思っていた以上に大変だった……。そうか……あの軍務卿が……来旬の終わりには()()を去るのか……)


と、改めて思案しながら……照明が半分落とされて薄暗くなった3階の廊下を東階段に向かって歩き始めた。

【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ


タレン・マーズ

35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。

ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。

主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。


ヨハン・シエルグ

65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。

軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。

タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技」の責任を教育族に取らす決意を固める。

若い頃に士官学校の白兵戦技(歩兵槍技)教官の経験があり、その頃から生徒に恐れられていた。


ドレン・キレアス

59歳。軍務省法務局長。陸軍大将。勲爵士。法務官。

「教育族」の人事的暗躍によって本来であればほぼ前例の無かった法務局内でも順送り人事で局長にまで棚上げされてしまった。


アレイテス・カノン

59歳。軍務省法務局副局長。陸軍中将。勲爵士。法務官。

同期であるキレアス法務局長と共に、本来では考えられない法務局内での順送り人事によってこれ以上の昇進を断たれた形になっている。


エイビル・ホレス

58歳。軍務省法務局法務部長。陸軍少将。勲爵士。法務官。

ジェック・アラム法務官の直接の上司。「教育族」の本省内上層人事独占の弊害を受けて人事の停滞によって部長職に留まっている。


アミ・トカラ

56歳。軍務省施設局施設整備部長。陸軍少将。法務官。

王国陸海軍の中では最上位の女性軍人であり法務官。本職が激務である為に法務官としての公務機会が少ない。

北部方面軍の新任仕官であった次男を匪賊討伐の実戦で喪くしている。


ゼダス・ロウ

54歳。軍務省人事局人事部次長。陸軍大佐。法務官。男爵。

軍務省に所属する法務官。武芸に対して造詣が深いが、自らの腕前はそれ程でもない。

軍務卿や同僚法務官達と協力して「教育族」の放逐に力を貸す


ジェック・アラム

51歳。軍務省(法務局)法務部次長。陸軍大佐。法務官。

軍務省に所属する勅任法務官の一人で、主人公から、ネル家騒動の和解約定違反を問われる。

新任士官による悲劇の歴史を知り、軍務卿に協力して「教育族」一掃を目指す。


オリク・イルエス

48歳。軍務省兵器局生産部工廠整備課長。陸軍中佐。法務官。

軍務省に所属する法務官のうちの一人で、本省内で最年少の法務官。


サムス・エラ

45歳。軍務省憲兵本部憲兵課長。陸軍中佐。元内務省警保局警務部所属。

王都において実質的に憲兵の実働を采配する軍務官僚でベルガの直接の上司に当たる。何かと小役人気質を見せるが職務に忠実。

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