タレンの決断
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
軍務省で起こった1月末の人事的大混乱も2月に入ると、多少は落ち着きを取り戻し……省としての機能も大分に回復してきた。これは軍務卿の命令一下……更迭された幹部の代理を務める者が速やかに命じられて、その業務を代行せしめたのが大きい。軍務卿と、それを輔けた7人の法務官達によって周到に計画した更迭劇であった為、その空席を埋める策も……次の除目までの短期間だけとあって、ほぼ「順送り」のような人選にしたからだ。
変に階級の釣り合いなどに拘ってしまう事で、短期間とは言え……業務経験が全く無い部署の……それも管理者や責任者として代行させるのは、新たな「事故」の原因となりそうなので軍務卿もその辺はしっかりと考慮したと言える。
特に人事局長と人事副局長が同時に更迭されるという軍務省史においても稀に見る事態に対して、他部局の局長や副局長級の者に人事局長の代行をさせるよりは、「二階級越え」となるが人事部長に代行をさせた方が「勝手も分かるだろう」という判断がされ、この時期においては親補職の推薦書に対する副署程度の業務しか無い人事副局長に関しては代行者も置かずに「空席」のままにされた。
そしてトップ3人と……更には係長級まで2人が一気に居なくなった教育部は、流石に残っている課長職の者を教育部長代行に充てるわけにもいかず、人事部次長を教育部長代行としたのである。人事部が冬の除目を前にして多忙を極めるのは当然ではあるが、忘れてならないのは除目と同時期に士官学校においても「席次考査」が実施されるのである。
今回の件はそもそもが歴代教育部関係者の「職務怠慢」に端を発した「士官学校卒業生の悲劇」が原因となっている上に、席次考査に支障を来して現役学生にまで迷惑を掛けては……またぞろ「あの士官学生」……しかも首席生徒から怒りを買うのではないか……という何とも情けない感情が法務官達にもあった事は否めない。
「教育部長代行に人事部次長ゼダス・ロウ大佐を、教育課長代行に教育部施設課長エイラン・マレー中佐を、考査統括係長代行に教職員係長スザナ・ダイヤン少佐をそれぞれ充てる事とする」
この公示が庁舎受付横の大掲示板に貼り出されたのは、更迭劇3日後となる月明けの2月1日朝であった。士官学校側では1月25日の段階で2月の席次考査における、試験科目決定の「籤引き」が各学年主任教官の手によって実施済みであり、最終的にこの結果を軍務省側が「承認」する必要がある。承認書類には教育部長だけでなく……教育課長と考査統括係長の副署が必要であった為に、教育部内の混乱と繁雑の程が窺い知れる。
士官学校側は、この「教育部の大混乱」を概ね冷ややかな目で見ており……特に籤引きを行った3人の内、一回生と三回生の主任教官は顔には出さなかったが……内心では大いに失笑しながら変事の経過を見守っていたのである。
「科目選出承認が実施されませんと、試験問題の作成が始められませんね」
アーバイン二回生主任教官がタレンに対してボヤいている。
「それもそうですが……そもそも教頭殿の署名が無い『科目選出届』が法的に有効になるのかが気になりますなぁ」
「あぁ……!そうですね。どうなるのでしょう」
「うーん。ちょっと私にも見当が付きませんよ。私は元々……北部で馬を乗り回していた身ですから……」
苦笑するタレンに、アーバイン主任は困惑した顔で
「それを言うなら……私も3年前まで第六師団で演習計画を作っていた身ですし……」
「お互い全くの『畑違い』だったわけですね……」
「結局、この中ではシーガ主任が一番長く教官職に就かれているわけですね」
「いえいえ……私も元は補助戦技の担当です。そもそもこの大職員室に詰めるのは、主任職になってから初めてですから……勝手が良く判らないのは同じですわ」
「うーん。どうなるんですかね……」
主任教官ですらこの調子である。ましてや学校の経営を実質的に執り仕切っていた教頭が、既に無断欠勤となって3日目である。本日中に責任者……つまり学校長に対して何らかの連絡が無ければ懲罰……恐らくは免職処分になると思われ、これはこれで校内の教職員の間で大きな話題となっていた。
建前上はこの……「考査を控えた時期に生徒達に無用の動揺を与えてはいけない」と言う理由で教職員の間に緘口令が布かれていたが、そんなものは有効に作用するはずもなく……生徒達の間にも「教頭が無断欠勤を続けていてクビになりそうだ」という話は広まり切っていたのである。
主任教官3人が皆困惑気味に考査実施への不安を話し合っていると、タレンの席の後方にある扉が開いて中から部屋の主が現れた。
校長閣下は目の前の三回生主任教官に対して
「マーズ君。これを本省の教育部へ届けるように伝令を頼む」
「はっ……これは……」
「考査科目の選出届だ。隣の奴が現れないもんでな。仕方無いが儂が代署しておいた」
「ああ……やはり閣下のお手を煩わせる事に……申し訳ございません」
「君が謝る事では無かろう。では頼むぞ」
「はっ。承知致しました」
校長閣下は苦笑いしながら再び部屋の中に消えた。タレンは立ち上がって
「ちょっと私が自分で届けて来る」
そう言って職員室の出口に向かって歩き始めた。これを機に、本省の教育部の様子を自分の目で確認してみたかったのだ。ベルガからは色々と庁舎の様子を聞いてはいるが、彼が見て回れる範囲にも限界がある。今回の騒動の渦中にある教育部の雰囲気を自身で確認出来るのであればそれに越した事は無い。
警衛の生徒に見送られて、士官学校の校門を出たタレンは……ケイノクス通りを挟んだ軍務省の正門をくぐり……本庁舎の玄関から庁舎の中に入った。
彼が玄関から入ると、丁度右側にある掲示板に前述の教育部内の代行人事に関する公示の掲出作業が終わるところで、彼は幸運にも……その内容を誰よりも早く知る事が出来たのである。
(うわ……考査関連の担当者がゴッソリ入れ替わっているな……。これはやはり……本省側も士官学校に対してよっぽど気を遣っているのだろう……)
その「気を遣われている当事者の一人」であることを全く自覚していない男は、掲示板の反対側にある受付に寄って
「済まんが、教育部に用事があるのだ。教育部の場所を知りたいのだが」
と、受付を担当していた士官に尋ねた。少尉の階級章を付けたその士官は、相手が少佐階級の者であると見て態度を改め
「はっ。お約束はされていらっしゃいますでしょうか」
一応は規則通りに来省目的を聞くようだ。
「いや。私はそこの士官学校で主任教官を拝命している、マーズ少佐だ。士官学校の席次考査に関する書類を教育部にお持ちしたのだが……滅多にここには来ないのでな。場所が分からんのだ」
タレンが苦笑しながら事情を話すと
「マーズ少佐でございますね……少々お待ち下さい……」
受付士官は来客名簿らしき紙面にタレンの名を書き記してから後方へと振り返り、控えていた伝令の一等兵に対して指示を出した。
「マーズ少佐殿を教育部の受付にご案内して差し上げろ」
「はっ!」
伝令兵が受付から出て来て「ご案内しますっ!」と敬礼をしてから西階段側に向かって歩き始めたので
「済まんな。面倒を掛ける」
と……タレンもそれに続いて歩き始めた。教育部を含む人事局は庁舎北区画の1階と2階に分かれて位置しており、教育部と人事部は2階に……他の恩給部や厚生部、それと総務部は1階に……という配置である。しかし、人事局自体は軍務省の本庁舎内に入居している、憲兵本部を除く6部局の中でも5番目の規模なので庁舎全体における部室の占有割合も微々たるものであり……庁舎1階で尤も場所を占めているのが兵器局、そして2階は施設局である。
部局の規模が一番小さい法務局は、法廷関連施設を2階南区画に持つので案外に占有割合が大きく、その逆に所属人員が憲兵本部に次いで多い参謀本部はその大半が国内各地の軍拠点に出向している為に、1階の北区画の一部を占めているに過ぎない。階を跨いで置かれているのは人事局だけである。
タレンが伝令兵に連れられて、玄関から程近い東階段を上って2階北区画の教育部の部室に入ると、今回の騒動の震源地とも言えるこの部室の中では未だに慌しい雰囲気が残っており、本来であれば受付応対を兼ねた出入口に一番近い机に居るはずの職員も不在であった。
タレンを連れて来た伝令の一等兵は、暫く受付職員を目で探していたようだが、諦めたらしく……声を張って
「失礼しますっ!士官学校主任教官、マーズ少佐をお連れしましたっ!」
と、大声で来客を告げると……入口周辺に居た教育部の職員達が、一斉にこちらを向いたので、声を発した伝令兵は(声が大き過ぎたか?)と落ち着かな気な態度になった。
「マーズ少佐……マーズ少佐……ああっ!」
どうやら教育部の下級官僚には、今回の騒動の「あらまし」が何となく噂のように広まっており、その中心人物にして「実戦経験を持つ士官学校の主任教官」の名前も知れ渡っていた。
「マーズ少佐っ!ほっ、北部軍の……鬼公子っ!」
驚いて上がった声に反応した周囲の者達も
「えっ!?」
「本物!?」
「こっ、公爵閣下の……!」
管理職の一斉更迭と士官学校席次考査によって慌しく動いていた教育部の中が、この「有名人」の突然の来訪に、蜂の巣を突いたような騒ぎが被さり……まるで先旬末の4人の管理職が人事副部長に軍籍剥奪を言い渡された直後のような状況に変わった。
最初に来訪を大声で告げた伝令職員も、自分が連れて来た人物が「思わぬ有名人」だった事を知って「えええっ!?」と、奇声を発しながら振り向いた。
一方、自分ではあまり好ましいと思っていない「戦場での異名」を公衆の面前で呼ばれた本人は
(おいおい……なぜその呼び名が出て来るんだ……)
明らかに困惑の表情を浮かべながらも
「士官学校主任教官のマーズ少佐です。こちらの書類をお持ちしたので担当官にお渡し願えませんか」
持参した学校長の署名入りの「科目選出届」が入った大封筒を近くの職員に差し出した。
「しょ、少々お待ちくださいっ!」
差し出された職員は、一応それを受け取ったが……それを持ったまま大急ぎで部屋の奥に走って行ってしまった。恐らくは代行となっている考査統括係長に届けに行ったのだろう。
それに待たされている間にも、「北部軍の鬼公子がここに来ている」という話は嵐の波濤のように奥の席にまで広がって行き……「陸軍随一の驍将にして公爵家次男」見たさの職員達が次々と集まって来て、教育部室の入口付近はちょっとした人垣が出来ている。
暫くすると奥から教職員係長のままで考査統括係長代行の兼任を命じられたダイヤン少佐が慌てた様子でやって来て、人垣を掻き分けながら主任教官の前に現れた。どうやら教育課長代行も話を聞いてやって来ているようだが、人垣が邪魔で近寄る事が出来ず、「ちょっとっ!用の無い人は自席に戻って仕事を続けなさいっ!」と大声で喚いている。
実は今回……考査統括係長に兼任で任じられた教職員係長は、タレンよりも年齢が2つ下だが士官学校では同期だった人物だったので、タレンの顔を見るなり
「ヴァルフェリウス殿……お元気そうで……」と、学生時代当時の呼び名を使ったので、いよいよ周囲の者達は
(やはり……この方がヴァルフェリウス殿……北部軍の鬼公子……)
と、更にざわつき始めた。タレンは同期だったと言う女性士官の顔を改めて見たが……既に卒業して15年余り。その間に一時的に士官学校教官職を務めた他はほぼ北部の前線に出ずっぱりだったので、どうしても思い出す事が出来なかった。そもそも自分は陸軍騎兵科出身。相手は軍務科出身だろうから、印象が薄くなるのはどうしようもない。
「申し訳ない……同期の方とは気付かず、失礼しました」
本来であれば相手は少佐階級である本省係長の官僚士官であり、それに対して士官学校主任教官職は大尉階級が適正であるので士官学校主任教官<本省係長という関係であるはずだが、今のタレンは同階級であるので……それ程畏まった物言いをせずに済んでいるが、やはり礼を失した意識があったのか、頭を下げた。
「いえいえ。貴官は北の戦場でご苦労をされていたのです……。お会いするのも10年ぶりです。お忘れになられていても仕方ありません」
実はダイヤン少佐……タレンとは一回生、二回生共に同じクラスであった。そして彼が若い頃に一度、士官学校教官職を務めた際には、彼女も既に教育部の教職員係の新人士官として教職員の人事移動手続きに携わっていたので、タレンが北部方面軍に再度転出する際の手続きを執った時に顔を会わせていたのだが……やはり失念していたようだ。
元同級生同士が挨拶を交わしている間に、隣の人事部の部室から教育部長の代行に任じられた人事部次長のゼダス・ロウ大佐がこちらも慌てた様子でやって来た。教育部長代行の姿を見た教育部の職員達は皆一斉に敬礼を行う。タレンも挙手礼を実施してから
「お忙しい中、大変失礼致しました。それでは失礼します」
と、急いで退散しようとダイヤン少佐に向き直り……再度敬礼をしかけたところでロウ大佐が
「いやいや、マーズ殿……。少々お時間を頂いて宜しいでしょうか?」
と、二階級も下のタレンに対して何故か敬語で言葉を掛けて来た。
「は……?小官に何か……?」
タレンは態度こそ表に出さず……しかし内心やや警戒しながら応えたが、それに対して教育部長代行は
「いやぁ、まさか貴官がいらっしゃるとは思っていなかったが……この機会だから少々話を聞いて欲しいのです」
4日前……この部屋をいきなり訪れて、前管理職の4人に処分を言い渡した際のロウ人事部副部長の表情は非常に厳しいものであり、その後に部長代行となった今も教育部職員一同はこの法務官に対してかなり畏れている部分があるのだが、今のタレンに対するロウ大佐の物腰は非常に柔らかい印象で、「北部の英雄」に対してかなり気遣うような態度になっている……そのように職員達は感じる程であった。
「お話とは……」
「ひとまずこちらへどうぞ。……諸君らは何故ここに集まっているのだ?今はそんな悠長にしている時期ではあるまい?」
部長代行の叱責を浴びて、職員達は慌てて自席に戻って行った。
「では、こちらの書類を確かに受領致しました。部長殿。後程こちらにご署名を頂きにお伺い致しますので宜しくお願い致します」
「うん……?何かね?それは」
「はっ。こちらは只今……マーズ少佐がお持ち下された次回の席次考査における科目選出届であります。小官含めて担当職の署名が必要でございます。最終的に部長殿のご署名が頂けませんと、考査科目が有効とならず……設問委員会を設置出来ませんので……」
ダイヤン少佐は手短に部長代行に説明を行った。
「そうか。了解した。済まんな……同じ人事局内でも私は教育行政に関してはまだ知識が浅いのでな」
ロウ大佐は苦笑しつつ礼を言うと、ダイヤン少佐と……その場に漸く行き付いた教育課長代理も慌てて敬礼をして自席に戻って行った。女性士官2人は歩きながら「課長にも後程ご署名願います」「わかりました」と、会話を交わしているので、慣れない教育課長代行もあの書類には署名が必要らしい。
タレンはその様子を見て……(教頭の署名が無いが大丈夫なのか……?)と不安になったが、すぐ横に居る教育部長代行が
「ではこちらの部長室で話しましょう。まだ多少……『前任者』の私物が残っているようですが。……こちらにどうぞ」
と、先に歩き始めてしまったので……何とか口実を設けて断ろうと思っていたタレンは内心で困惑しながら後に続いた。この教育部長代行と話しているうちに、先程玄関で見た「公示」の内容を思い出し、そして彼が「人事部次長」である事を思い出したのだ。
(人事部次長……確か法務官だったよな……。もしかすると……ヘンリッシュが言ってた「軍務卿に与していた人々」じゃないのか……?何の話をするつもりだ……)
更なる警戒感を決して面に出さずに、表情を消した状態でタレンはロウ大佐の後を教育部室の奥に向かって歩いて行った。
****
「まずは教育部長職を代行する者として、今回の件に対し謝罪させて頂きます」
部長室に入ってタレンにソファーを勧めたロウ大佐は自身は腰を下ろさず、その場で二階級下の士官に対して深々と頭を下げた。
「なっ!?い、いや……部長殿!頭をお上げ下さい。そのような事をされては却って困ります」
タレンが慌てて立ち上がる。
「いえ……マーズ殿。私は今回の件……軍務卿閣下と共に行動させて頂き……その過程で『色々と』状況を弁えているつもりです。歴代の教育部の者達が犯して来た、とても看過出来ない失態を……貴殿が救ってくれたのです。軍務省に属する者として、まずは謝罪させて頂き……重ねて御礼申し上げます」
ロウ大佐は頭を下げたまま、今度は礼まで述べた。恐縮したタレンが、いくら頭を上げるように言っても姿勢を戻す気配すら無い。
彼はこの……目の前で困惑している「公爵家の御曹司にして北部の英雄」が、国王陛下の勅命によって士官学校の主任教官職に転入した事実を知っており、更に昨年末に軍務卿の「非公式観覧」に随行して「本来の白兵戦技授業」を目にしている。そこで見た「あの士官学生」の圧倒的な武術に感動すら覚え……その後、盟友のアラム法務官から「又聞き」で聞いた
『国王陛下が今年の観覧式であの士官学生と「鬼公子」による壮絶な一騎打ちを御覧になって激賞していた』
という話も聞いている。その事だけでも……この目の前の男は彼にとって尊敬に値する人物なのである。そして……ロウ大佐は「人事部次長」として……人事部関係者として他の法務官達は知らない「ある事情」についても苦慮していた。それは……
『タレン・ヴァルフェリウスは、「大隊長就任」を一度辞退している為に……その抜群の功績にも関わらず昇進が大幅に遅れている』
という事実なのである。「前線戦闘指揮官として留まりたい」という気持ちで大隊長昇進を辞退したタレンであるが、本来……彼自身が北部の治安回復任務において、指揮官として抜群の功績を上げているだけに、35歳……軍歴にして15年ではあるが、もう1階級上の中佐であってもおかしくなく、「公爵家への忖度」を抜きにしても、順当に昇進していれば今頃は連隊長クラスになっている可能性すらある。
ちなみに、「連隊長」は適正階級の幅が広く……連隊に組み込む大隊数にもよるが「少佐から少将まで」がその対象になる。少佐クラスが率いる連隊は「単兵科」で構成される事が多いが、少将クラスが率いる連隊となると騎兵や歩兵、弓兵まで組み込む「複数兵科」である場合が多く、それだけで師団規模の作戦行動も可能であるとされる。少将を長とする連隊は場合によっては「旅団」と称する事もあり、概ね兵力が師団の半数程度……半個師団がこれに相当するようだ。
つまり……今回、タレンを始めとする「士官学校白兵戦技授業改革派」によって本省教育部の「怠慢」が大々的に暴かれたわけだが、それとは別に……タレン・マーズ本人への「人事査定に対する人事部の怠慢」も存在するのだ。
『一度昇進を辞退した者は、その後の昇進査定対象から外す』
という不合理な慣例によって、「優れた戦闘指導者を更に上の軍指導者に引き上げる機会」を疎かにして来た軍務省人事局人事部の怠慢である……ロウ大佐はそのように感じているのだ。
タレン本人の昇進辞退に端を発しているだけに、これは一概に人事部側だけに責任があるとは言えないが……この「公爵家の御曹司」の昇進査定を人事部が怠っていた事実を「あの陛下」に知られていたら……ロウ大佐の「首筋」が寒くなるのは当然である。
何百年にも渡り王国軍の懸案になっていた「ラーナン砦周辺を含む北部三叉国境地帯の治安回復」は北部方面軍だけでなく軍務省においても歴史に残る大功績であり、その「立役者」とされるタレン・マーズが「35歳で大尉」という事実は、見る者が見れば疑義が生じてもおかしくないのである。
(陛下は……マーズ卿が「大尉階級」に留まっておられた事に対して……疑問を持たれなかったのだろうか)
先日の法務官会合で「マーズ卿の士官学校への転任は『勅命』によるもの」という話を聞いた時、ロウ大佐はまずそれを考えた。
入省以来、人事部一筋で経歴を重ねて来たロウ大佐の「人事脳」からすれば、まずそこに目が向くのだ。これは職業柄仕方の無い事なのであるが……。
国王陛下がタレンの階級に対して殆ど関心を示さなかったのは、彼が士官学校ではなく官僚学校出身であった為に軍階級と職位における「軍人の持つ一般認識」に欠けていた……普段軍務卿を始めとする軍官僚達が恐れる
『国王陛下は軍部に対して疎遠な所感を御持ちであらせられる』
という状況が今回だけはプラスの方向に作用したようである。
なので……「7人の法務官」の中でも、ロウ大佐は特にタレン・マーズに対して「精神的な引け目」があったのだろう。
漸く頭を上げたロウ大佐は
「マーズ殿、失礼しました。お座り下さい」
「はっ。失礼します」
これで両者はソファーに腰を下ろして会談を始められる状況になった。
「軍務卿閣下のご進退についてはお聞きになられましたでしょうか?」
「はい。驚きました。まさか閣下が職を辞されるとは。私どもが余計な騒動を起こしてしまったばかりに閣下のご進退にまで発展したかと思うと……慙愧に堪えません」
あの首席生徒の言い様であれば
『自分が白兵戦技授業に対して疑義が生じた為に改革を思い付いてヘンリッシュに協力を求めた』
時点で軍務卿は「どう転んでも」辞任する道しか無かった……。それを聞いているだけに、タレンは何とも言えない気分になった。しかし当然ながら、そのような心情を目の前の法務官に話すわけにはいかない。
「いえ。そのようにお考えになられてはいけません。『あの数字』は動かせない事実なのです。あのような恐ろしい事実が……何百年にも渡って平然と続いていた。その事実に気付いた貴殿や学校長閣下のご意見を、前教育部長は無下に退けたのです。軍務卿閣下は……ご自身が嘗て士官学校における白兵戦技教官をご経験なさっておいででした。その過去に……あのお方なりの『けじめ』をお付けになられたのでしょう」
「はい。そのお話はお伺いしております。よもや軍務卿閣下が戦技教官をご経験されていたとは思わず……身の程知らずな行動を起こしてしまったと……自省しているところです」
「私は閣下が教官……槍技教官をされていた頃に、その授業を受けておりましてな。今でも憶えております。非常に厳しい、怖い教官殿でありました」
「左様でしたか……。小官の教官職としての専門は騎兵馬術でしたので……白兵戦技を担当されている教官方のお気持ちはなかなか理解するのが難しいものでして……」
「しかし貴官は実戦の初陣で今の戦技授業がまるで役に立たない事を身を以って経験されたと……」
「まぁ……はい……」
タレンとしては、「白兵戦技授業」の不備を指摘するきっかけとなった重大な体験ではあるが、同時に今でも夢に出て来る心の傷でもある。タレンはこの体験をきっかけに自らの身体生命を護る……「部下の足を引っ張らない為の」個人戦闘技術を、士官学校時代に習っていたもの全てを捨てた上で、一から作り上げた。
以後、タレンが率いる騎兵小隊は「指揮官自らが先頭に立って突入して行くスタイル」となり、自ら作り上げ……そして完成された特殊長兵器「長鉄鞭」を自在に取り回して敵を薙ぎ払う公爵家の御曹司は「北部軍の鬼公子」という異名を奉られて三叉境界地帯に巣食う無法者達の間では「恐怖の代名詞」になった。
3つの異なる管轄……王国領、公爵領、そして北東地域(帝国領)の境界線を巧みに利用して官憲の追及を逃れる事が出来る「無法者安住の地」は……
『いつ鬼公子率いる騎兵隊があらぬ方角から突っ込んで来るか判らない恐怖の地』
へと変貌したのである。
初陣で部下2人の生命と引き換えに辛うじて生き延びた「御曹司」は、「鬼公子」となって自分自身だけで無く……部下の生命も護る存在となった。自らの生命を投げ出して自分を救った者達に報いる……この一心で鬼公子は、その二つ名の如く「戦場の鬼」となったのだ。
その軍歴15年の内、延べ12年に渡って北部の前線で騎兵隊を率いた鬼公子が喪った部下の数は初陣の2人の他、僅か14名であった。他の中隊では毎回の討伐戦で一般の兵や新任士官が次々と殉職していく中で、第一師団第二騎兵大隊の第一中隊だけは圧倒的な攻撃力の高さと損耗率の低さで、異質の強さを誇った。
その戦果と戦績が考慮されたのか、「昇格を拒んだ中隊長殿」は大尉に進級後も中隊長に留まることが許され……ラーナン砦を拠点とする「最強の第一中隊」から転出する者は他部隊から引く手数多の存在となった。逆に、第一中隊へ任官希望を出す「新考士官」が後を絶たない状況にもなり……彼らは生き延びて他部隊に転出してから昇進を重ねた現在でも「中隊長殿」への敬慕は全く薄れていないと言う……。
その圧倒的な戦果に比べ、驚く程に麾下の損耗率が低く……その特殊な地勢によって数百年間も「無法者安住の地」と呼ばれ続けた、三叉境界地帯から、その住民を四散させた功績によって……正しく国史に登場する伝説の「ジューダス公の再来」とも称された、タレン・ヴァルフェリウスの驍名は後に王都の軍中央や王宮にまで届く事になった。
今日のこの日……ロウ大佐は、この「北部軍の鬼公子」と直接言葉を交わす事が出来て感動すると共に、この勇者に対して我が軍務省……とりわけ人事局がどれだけの仕打ちを加えて来たのか……それを考えると、頭を下げても下げ足りない気持ちで一杯になるのだ。
それなのに、この鬼公子殿は……穏やかな表情でこちらを見ている。自らにけじめを付けて職を辞した軍務卿に対して恐縮の態度すら見せている。その穏やかな顔の裏では……我ら軍務官僚はもちろん、軍務卿閣下……いや、軍中央の陸軍軍人全てに対して軽蔑の目を向けているのか……。自分達は彼に軽蔑されても仕方の無い失態をこれまで犯し続けて来ているのだ。
「その……マーズ殿……。軍務卿閣下が、貴殿とお会いして是非にお話をされたいと……ご希望されている事はご存知かとお思いですが……」
ロウ大佐が慎重な言葉遣いで、申し出ると
「はい。過日そのようにお伺い致しました」
「貴殿はそれを拒否されたと……」
「いえいえ。決してそのような『拒否』するなどとは……」
タレンが困惑した顔で応える。
「閣下は貴殿と……ヘンリッシュ殿からも会見を拒まれて、一時かなり消沈したご様子でした」
「左様でございましたか……。その節は大変なご無礼をしてしまったと反省しております」
「その……貴殿が我らをご信頼頂けないお気持ちは理解しているつもりです。閣下も恐らく同じように思われておいでかと思われます」
「そのような……とんでもございません。小官は決してそのような……感情は抱いておりません」
(うーん……これはどうやら「根」に持たれているな……。確かに信用してはいなかったが……そこを咎めて来られたら、穏便に申し開きするのは難しいな)
タレンに対して、却って問い詰めるような形になってしまったロウ大佐は慌てて
「これは……失礼しました。貴殿を責めるような意図は当方にはございません」
この弁明するような物言いに対してタレンは押し黙ってしまった。「大佐と少佐」という両者の関係であるだけに、タレンとしては言葉を選ばなければならないという状況で迂闊な事は口に出来ない。最早自分の方から「話しを振る」という考えは無くなっている。この場は適当に言葉を濁して早くこの場から去りたい……そういう気持ちになってきた。
(こんな事なら別の者に頼めば良かったな……。何で自分で届けようと思ったのか……)
恐らく彼は……無意識に「教育部の様子を自分の目で確かめたい」という気持ちが働いてしまったのでは無いだろうか。いくら「白兵戦技授業改革」に対して無理解な教育官僚が一掃され、その連中を「支持していた」と思われていた軍務卿まで職を辞したとは言え、それで即……「改革がどんどん進められる」などと甘い考えは持てない。自分はそもそも半年前までは北部方面軍に所属していた「余所者」なのである。
この士官学校は「誤った戦技教育」を400年以上に渡って続けて来た。その「400年」という歴史と伝統のようになってしまっている状況を、「自分が言い出しっぺ」になってひっくり返そうとしているのだ。
「あの士官学生」に言われた言葉も彼の心理に影響していた。
『この改革は……あなたが士官学校に赴任してきたから動き出した』
という彼の言葉を……同志の皆が肯定した。学校長閣下も、シーガ主任も……そして退役された師団長閣下までもが……。
自分は恐らく軍務卿にも……彼に与した者達にも、「軍務省の方針に楯突いた首魁」と見做されている。本来であれば処分を受けたのは自分の方だったかもしれないのだ。そのような心理になっているところに
『軍務卿閣下からの会談申し入れすら拒否されて、閣下は甚く消沈されて』
などと言われたら、返す言葉も無くなってしまう。彼はつくづく……このような時期に不用意に本省を訪れてしまったことを猛烈に後悔し始めていた。
ロウ大佐は内心かなり焦り出していた。「軍務卿の会談申し入れを拒否した」という話を持ち出した途端に相手の表情や態度が明らかに変わったからだ。
本来であれば、この好機を利用して軍務卿とマーズ少佐、それと件の士官学生による会談を再度申し入れようと思ったのだが、これ以上……「この話題」を出すのも躊躇われるような雰囲気となってしまい
「と、とにかく……貴殿に対して当方に『他意』は無い事だけは……どうかご承知置き願いたい。私は昨年末に非公式ではありますが、軍務卿閣下と士官学校におけるヘンリッシュ殿の『業』を拝見させて頂いております。あのような……あれが貴殿方がご主張されている『本来の白兵戦技授業』かと、感動した次第です」
「これだけはどうか……我らは……そう、軍務卿閣下も含め……貴殿方による『白兵戦技の授業復活』を心からご支持申し上げております。これだけはどうか……お心に留め置き頂けますでしょうか」
「自分達は『教育族』とは違う」という考えだけははっきりと表明する必要があると感じたロウ大佐は、「せめてこれだけは分かってくれ」と言わんばかりの必死さで、二階級下の主任教官に訴えかけたので、タレンも漸く眼差しを緩めて
「そのお言葉だけで十分でございます。学校長閣下を始めとして、私自身も残された任期の中で……どこまでそれが許されるのかは判りませんが、精一杯取り組むつもりです」
「我らも皆様のご活躍に期待致します。お忙しい中、貴重な時間を頂いてお話を聞いて下さり感謝します」
両者はお互い……これ以上会話を深入りさせる事を避けるかのような雰囲気の中、タレンは立ち上がって
「小官も考査に先立つ業務が多忙故……この辺にて失礼致します」
「おお。そうでしたな。これはお忙しい中……足を止めさせてしまい申し訳ございませんでした」
タレンの挙手礼に対してロウ大佐も返礼をすると、踵を返して教育部長の執務室を後にした。タレンは努めて表情を消しながら教育部室を突っ切り、出口で軽く振り向いて会釈をすると……早足で廊下に飛び出して、そのまま急ぎ足で庁舎の出口へと向かう。
(やれやれ……どうも掌を返したという様子では無さそうだが……。ただ、教育族の連中を「悪者」にし過ぎている気がするな)
色々と考え込みながら、軍務省の正門を出て士官学校に戻った。結局……この面談はタレン側に何とも言えない「もやもや感」を残す形で終わった。
軍務卿と7人の法務官側にとって、間が悪かったのは……この時期、士官学校では2月の席次考査期間中であった為に、誰も「あの士官学生」と連絡が取れず、冬の除書が発表される除目の当日である2月16日ですら考査最終日と重なる為に……シエルグ卿が軍務卿として在任している間に「会談」の実現が非常に難しくなってしまった事である。
今回の「軍務卿」というポストの交代を「辞任」と見るか「更迭」と見るかで言えば、もちろん前者ではあるが……「責任を取っての辞任」という立場において、退任後のヨハン・シエルグ個人の処遇がどうなるのかは不透明である。
先日、一斉に更迭された4人の将官は軍籍そのものを剥奪されるので、本来であれば退任後も支給されるはずの「将官年金(恩給)」資格停止は既に決定されている。
そしてデヴォン男爵以外の3人が将官昇進に伴って叙任された「勲爵士」の地位についても除爵される可能性が高く、そうなれば彼らは老後を「元軍人の一般市民」として過ごす事になる。手に職能技術を持っているわけでも無い彼らは経済的にも非常に苦しくなり……情報局長がその境遇を想像して怯えるのも無理は無い。デヴォンの男爵位すら怪しいのだ。
ではシエルグ卿はどうなるのか。本来であれば諸卿退任後は現在の「侯爵」として爵位は返上するが、それと引き換えに「男爵」へと再叙任されるのが慣例なので身分は保証されているはずである。
しかし今回のように自らには何の瑕疵も無いが、軍務省自体の不祥事に対する責任を取る……これが退任後の彼の処遇にどれだけ影響を及ぼすのか……更迭された4人と同様に爵位剥奪の懸念もある。いや、むしろシエルグ卿自身は自らそれを返上するかもしれない。
(どうだろうな……。私はヘンリッシュの言葉を聞き過ぎてしまっているのかもしれない。今一度……「公正な視点」を持って、軍務卿閣下という人物を見なければいかんな)
士官学校の校門をくぐり、本校舎への通路を歩きながらタレンは苦笑いを浮かべた。冬の除目まであと半月。その間……「軍務卿」としての地位から下りる「ヨハン・シエルグ」という老人として、個人的に面談するのも悪くないと感じるようになっていた。
……それから3日後。2月の1旬目……5の日に再びベルガと警衛本部で昼食を共にしたタレンは相手に対して尋ねた。
「君は今日、本部に行くのだろう?」
「ええ。仰る通り、旬末の報告の為に課長の下へ行きます」
「ではその時でいいので伝えて欲しい事があるのだが、いいかな?」
「課長殿へですか?主任殿から?」
「うん。君が以前に持って来た話だよ。軍務卿閣下との会談の件だ」
「ああ……なるほど。して……どのような伝言を?」
「うむ。これは私の一存だが……私は閣下との会談に応じてもいい」
「えっ!?軍務卿閣下にお会い頂けるのですか?」
「うん。あくまでも『私だけ』だがな。ヘンリッシュとは……考査が近いから全く話せていない。彼の所感はまた別だとは思うが、私個人に関して言えば……残り任期も少ない閣下とお会いするのも吝かでは無いな」
「左様でございますか……小官と致しましては、主任殿にご決断頂けた事で肩の荷が下りました」
ベルガは笑い出した。彼もどうやら、毎旬の報告へ行くたびに上司から「そこはかとないプレッシャー」を感じていたらしい。彼自身は元々、軍務卿に対してマルクスやタレン程の不信感を抱いていたわけでも無いので、この元上官の決断に対して歓迎したい気持ちになった。
「それでは主任殿のご意向を本日の報告時に課長殿へお伝えします。どうされますか?ご希望の日時などはございますか?」
「いやいや……。流石に軍務卿閣下に対して私の方から日時の希望を申し上げるわけにはいくまい。閣下のご都合に合せるつもりだ。それもお伝えしてくれ」
「なるほど。承知しました」
それから更に3日後……。2月8日になって軍務省から憲兵本部を経由してベルガに伝令が訪れた。その日の昼食時……再び席を共にした元上官に対してベルガは伝令から受け取った書簡を差し出した。
タレンが封を切って中の書面を取り出すと
「来たる2月11日18時。場所は当方執務室にて。異存無き場合は返答無用の由」
とだけ書かれていた。3日後の旬末、勤務終了後に設定したようだ。
「そうか。まぁ、こちらとしては特に希望も無いのでお受けしよう。返答は不要のようだな」
書簡の内容を知らないベルガに内容を説明した上で、タレンは特に何の気負いも見せずに軍務卿の指定した日時での会談を承諾した。
「しかし……相手は軍務卿閣下ですが……。よくもそれだけ落ち着いていられますね」
「ここまで来れば、今更どう足掻いても無駄だろう。彼も次の除目での辞任が決まっているし、それ程無茶な事は言って来ないんじゃないかな」
「それにしても……主任殿はお一人で閣下と会われるのですよね?」
「まぁ、そうだな。時期的に間が悪かったと言うか……ヘンリッシュと一緒に行けず、一人で会わなきゃならんのがアレなんだがな……」
タレンは苦笑した。「あの士官学生」が同席してくれれば彼としては随分と心強いのだが……今は考査期間中である。2月の考査は13日……つまり先程の書簡に記載されていた指定日の2日後、旬明けから実施される。学生側からすれば考査に向けて「最後の追い込み」を図りたい旬末であるはずだ。
(まぁ、あのヘンリッシュであれば……最早考査に向けて追い込みを必要とする事も無いのだろうがな……)
何しろ彼は、この士官学校創立以来……記録にも残っていない「考査で満点」を2期続けている。過去に現役学生として……更には騎兵戦術教官として、この士官学校の席次考査に関わって来たタレンとしても、よもや「考査で満点が出る」などとは夢にも思っていなかった。あの「金時計授受」の栄誉に浴した学校長閣下ですら想像の域外であったらしい。
そんな彼が……試験直前の旬末2日間であたふたする姿はどうしても想像出来ないのである。
しかし、それでも自分は士官学校の教官職を拝命し、しかも教官職としては教頭に次ぐ地位である三回生主任教官という身で、考査を迎える士官学生の周辺を騒がす事は出来ない。……なので「今回の決断」も、彼一人の考えで臨んでいるのだ。
「では頼むよ」
空になった食器を持ってタレンは立ち上がり……「一緒に片付けますよ」というベルガの申し出を謝絶して廊下に出た。隣の部屋の大食堂に入り、返却口で食器を渡しながら……彼はふと、食堂の一番奥の窓側を見た。
件の若者は、既に食べ終えて退室してしまったのか。「その席」は空いており、周囲で彼の級友達が必死になって軍隊飯を胃袋に詰め込んでいる様子が見えた。彼らは今日も放課後に同じ場所に集まって勉強会を開くのであろうか。今年度の1年1組の総合成績は他の学級を圧倒しており、残り半年間……今回も含めて3回の考査で「席次上位者」の大半を、彼ら1組の生徒で占められるのではないか……と職員室でも話題になっている。
タレンは再び廊下に出て、職員室に向かって歩きながら……
(校長閣下の退任まで1年半……そしてあの生徒も、彼の希望が通れば三回生になれば分校に行ってしまう。つまり「この1年半」が勝負だ。「次の」学校長は陸軍出身者……正直アテには出来ん……)
そのような思案に暮れていた。
……よもやその「次の学校長」が思いも寄らない人物になるなど……彼はこの時、想像すらしていなかった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
タレン・マーズ
35歳。王立士官学校三回生主任教官。陸軍少佐。
ヴァルフェリウス家の次男。母はエルダ。士官学校卒業後、マーズ子爵家の一人娘と結婚して子爵家に婿入りし、家督を相続して子爵となる。
主人公によって「本来の白兵戦技」を知り、白兵戦技授業の改革に乗り出す。
ゼダス・ロウ
54歳。軍務省人事局人事部次長。陸軍大佐。法務官。男爵。
軍務省に所属する法務官。武芸に対して造詣が深いが、自らの腕前はそれ程でもない。
軍務卿や同僚法務官達と協力して「教育族」の放逐に力を貸す。
ベルガ・オーガス
30歳。軍務省憲兵本部所属の王都第三憲兵隊長。陸軍中尉。独身。
タレンの元部下で北部方面軍第一師団第二騎兵大隊第一中隊第三小隊長を務めていたが戦闘中の事故で右足に重傷を負い憲兵隊に転属。
主人公によって右足を完治した後は士官学校常駐憲兵士官に就任。