南方の事情
「あらすじ」の部分にも書きましたが、この話の表題に付いていたサブタイトルを削除しました。恐らくこれからも「ものぐさ」な性格をしたキャラクターが出て来ると思います。今後とも宜しくお願いします。
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
ルゥテウスが藍玉堂に帰ってくると、1階の作業場にはノンと三人娘だけが居て、娘達はいつものように回復薬を作っていた。
ルゥテウスが士官学校から藍玉堂に帰ってくる場合、ネイラー通りと4号道路の交差点に建つ菓子屋の転送陣を使って藍玉堂の地下に移動する方法の他に、彼が一応「学生としての住まい」として借りている、アリストス通りから程近い、最近「空き巣未遂」に遭った南地区6層目の古アパートに帰るフリをしつつ自らの魔導で直接帰る方法があり、自力で瞬間移動を使用した場合は転送先を地下の転送陣にする場合もあるし、直接2階に飛ぶ事もある。
学校から真っ直ぐ帰る日は、まだ1階の作業場でノンや三人娘が作業をしている時間帯であるので、彼女たちを驚かせないよう……1階を「移動先」とする事は控えているが、2階に飛ぶことはままあるので、1階で作業をしている彼女達からすると、帰宅した主が地下から上がって来る場合と2階から下りて来る場合と2パターンあり、それだけで十分に驚かされる事になる。
今日は菓子屋から地下に移動しており、これは彼が「通常の下校時間」に1人で帰宅する時のパターンである。
実は、タレンが暮らす「マーズ子爵邸」は菓子屋から程近い南地区4層目の中にあり、前日のように北地区5層目にあるフレッチャー邸で会合が行われると、ルゥテウス……マルクスは同じ南地区方向に帰宅するタレンと王城の大聖堂側(東側)を回って途中まで一緒に帰宅の途につく事が多い。その場合は一応アリストス通りと4号道路の交差点でタレンと別れてから「自宅」に向かって「歩くフリ」をするので、直接移動で藍玉堂へと帰るパターンが多くなる。
「双子とサナは錬金部屋に居るようだな」
「はい。多分そうだと思います」
「今、地下の廊下で感じたが……アトも少しずつだが、炭を作れるようになっているな」
「そのようですね。サナちゃんが驚いてました」
「やはりあの双子はスジが良いようだな。チラもかなり上手く『風を吹かせている』ように感じる」
「そうなのですか?」
「まぁ、あくまでも今……地下の廊下で感じただけの感想だがな」
「直接ご覧になっていなくても判るのですか?」
「まぁ、ある程度はな。但し、奴らの『制御動作』は見てないから、例えばどんな詠唱をしているのか……とか、何か棒を振っているのか、なんていうものまでは知らんけどな」
主が笑い出した。ノンが知る限り……姉の方はなにやらモニョモニョと《マナ》に話し掛けるような詠唱を行っているのをよく見るし、弟の方はほぼ無言だが……ミスリル銀製の棒を色々と細かく振っている様子だ。
この棒は数年前に店主から、「ミスリル銀は酸にもアルカリにも冒されない」と教わったノンが製薬時に液体を攪拌する為に作ったもので、本人はそれなりに愛用していたのだが……それを一目見たアトが「欲しい」とせがんだので与えたのだ。
一応はミスリル銀製なので、「攪拌棒」としてはともかく「ミスリル純銀」としての価値を知る者にとって、その価値は非常に高い。現在の持ち主であるアトや、作ったノンでさえ……その価値が分かっていないが、知ったら腰を抜かす事になるだろう。
「まぁ……アトはあの調子なら半年もすれば相当に高品質の炭が作れるようになるだろうし、チラの方も《変圧》以外の『空属性』の魔術を覚えられそうだな」
「へんあつ……ですか?」
「この前話しただろう?『風が吹く仕組み』だ」
「ああ……はい。確か……空気が多い場所から少ない場所に動く……でしたよね?」
「そうだ。まぁ、厳密に言えば『気圧の高い場所』から『気圧の低い場所』に空気が流れる。これが風の正体だな」
「気圧……なるほど。空気の圧力ですね。昔……キッタさんに説明されていた話ですよね?」
「お前……よくそんな話を憶えていたな」
珍しく主が驚くと、ノンはちょっと照れながら
「はい……。目の前でお湯を沸かしていたのを憶えていました」
ルゥテウスは5年程前に、キッタに対して「蒸気機関の原理」を蓋をした鍋に水を入れて加熱しながら説明していた。ノンはその時に主の隣でその話を聞いていたのである。湯が沸いて蓋をカタカタ鳴らしながら湯気が漏れて来る様子を見せながら、主は「湯気が蓋を動かす仕組み」を説明していたのだ。
「その気圧を任意の場所で高くしたり低くしたりするのが《変圧》だ。空属性の基本となる魔法だな」
「え……?ではチラちゃんは気圧を操っているのですか?」
「あいつは気付いていないっぽいが、実際はそうなる。あいつは俺の言い付けを守って毎日ずっと『左から右に向かって風を吹かす』という鍛錬を繰り返しているのだが……それは左側の一点で気圧を上げて、右側の一点で気圧を下げるという現象を魔術で起こしているわけだ」
「何だか難しそうですね……」
「まぁ、俺が今説明した内容をそのままイメージしてやると、子供であるチラには難しいだろうな。だから俺は単純に『左から右に風を吹かせ』と言っているんだ。最初は操れる気圧の値が低かったから、動く空気の量も速度も少なかったが……今は気圧の値が増えて来ているから、空気も強めに動く……つまり風が強くなってきているわけだな」
「あぁ……なるほど。『気圧が高い場所』と『気圧の低い場所』の気圧の差が大きくなれば風も強くなると?」
「そうだ。何だ。お前も意外によく分かっているじゃないか。ははは」
理系女子のノンは、意外にも理系の話になると飲み込みが早い。未だにサクロ市内の地理を覚えられずに怖くて独り歩き出来ないようだが、不思議と薬材の名前や処理の仕方、それに薬効についてはソンマやサナも驚く程に記憶している。主が「お前の能力は一部が尖り過ぎている」と評価する所以である。
「気圧の値が高くなっていると言う事は、それだけマナの制御が熟達して来ている証拠だ。もう暫く練習させつつ、複雑な風を吹かせるようになれば……次の段階に進めるな」
「次の段階……ですか?」
「まぁ、段階……と言っても、選ぶのは彼女次第だ。そのまま風を吹かせる方向で究めて行くのか、他の属性にも手を拡げるのか。何しろまだ9歳だからな。1年くらいは空属性だけを鍛錬するくらいで丁度いいかもしれん」
「そうなのですね」
「まぁ、そこからは本人の資質の種類にもよるが……空属性の熟練度を上げてから、隣り合う水属性や地属性を鍛える前に、《飛翔》の練習をしてみるとか……まぁ、《飛翔》をやるなら先に《身体強化》が先かもな」
「修行の順番は決まっていないのですか?」
「うーん……多分、本人の資質によるんじゃないか?俺の先祖はどうやらそれを重視していたようだな」
「ルゥテウス様のご先祖様……ですか」
「まぁ、これは俺も含めてなんだが……俺の先祖で魔術師を育てた奴らってのは、一般的に魔法ギルドで行われている上級魔術師による育成方法とは、ちょっと『やり方』が違っていたようだな」
「魔法ギルド……えっと『魔術師の方が魔術師を育てる』……という場合の話ですね?」
「そうだな。恐らくこの世界で活動している魔術師……現代の魔術師は皆、師匠も魔術師であるはずだ」
「なるほど……。魔術師の方も弟子入りするのですね……」
主の話をノンは「薬剤師修行」に置き換えて理解しようとした。現在の彼女自身も弟子を3人抱えているので、そのような「徒弟制度」として考えれば、彼女にとっても意外と身近なものに感じられるのかもしれない。
「まぁ、そういう理解で問題無かろう……ところで、魔法ギルドには現在、魔導師が2人居るってのはお前も知ってるよな?」
「はい。えっと……総帥の人と……『なんとか長』をされている人ですよね?」
「『導師長』だ……。まぁ、俺も魔法ギルドにそんな役職があるなんて知らなかったけどな……昔店長が説明してくれたように、ギルドに魔導師が2人在籍しているから臨時で設けられたんだろうな」
「なるほど……」
「それで……俺が思うに、今の世の中で生きている魔導師は俺や俺の先祖と違って『魔術師を育てる』というのを苦手にしていると思うのだ」
「ああ、この前もそうお話されてましたね。でも……弟子を取るくらいに偉い魔術師の方よりも魔導師様の方が力は強いのですよね……?」
「そうだな。それはお前の言う通りなのだが……魔導師という奴らは自分の感覚で魔導を操るから、『どうやったらマナを投影させるのか』という内容を……他人に言葉を使って説明するのが難しいようだ。つまり、自分の持つ力を理論的に説明するのが苦手な奴ら……なんだと思う」
「言葉で説明……あぁ、私も何となく分かります。難しそうですものね」
「俺だって、本来ならば奴らと同じなんだ。何しろ俺の場合は魔素やマナの制御に『詠唱』すら使わないからな。お前だってそうだろう?まぁ……お前の場合は俺とは更に違うみたいだが……」
笑い出した主を余所に、ノンはまだ「私ならどう説明しようか」と考え込んでいるようだ。
「俺の場合は、『先祖の記憶』……つまり『ショテルのやり方』を手本にしてチラに教えられるけど、ギルドに居る魔導師2人はそれが出来ない。だから魔術師の育成は、ギルドに居る高位の魔術師が教師となって教える事になる」
「なるほど。上級の魔術師の方に弟子入りするわけですね?」
「うん。そうだな。そう考える方が解りやすいな。しかしさっきの話に戻ると、その魔術師だって『これ』という育て方を自分なりに確立しているわけじゃない。まぁ、『学派』を創設するくらいに才能がある奴とか……『その道』を何十年とやって、何人も弟子を育てた奴なら話は別だがな。いくら上級魔術師と言えども、皆が皆……そこまで魔術を理論的に説明出来る奴なんて居ないのさ」
「難しいのですね……。確かに……私も、自分でやってる事を『口で説明しろ』と言われても難しいと思います……」
それを考える事を諦めたノンが「自分なりの結論」を口にする。
「そうだろうな。特にお前の場合はな……。何しろ俺ですら理解出来ないからな。ははは」
店主は笑っているが、笑われた本人は困惑の表情を浮かべるしかない。
「いやぁ。済まん済まん。魔術師でも、自分で覚えた魔術を自分なりの理論だけで弟子を育てるのは大変なわけだ。だから、ショテルの遺した『テキスト』を使うのだろう」
「ああ、この前仰っていた教科書……ですね?」
「そうだ。教える方の魔術師自身の代わりに、教科書の内容が理論を説明してくれるんだ。だから教科書を使う事で『均一な教育』が可能だよな?まぁ、失敗もそうそう起きないやり方だとは思う」
「確かに。そうですね。皆さんが同じ教科書で学べば、同じように覚えられる……はずですね」
「しかし、俺が思うにだな……魔術や錬金術の『素養』を持っている奴ってのは、その中身までが必ずしも同じとは限らないと思うんだ。だから本来であれば『均一な教育』は却って宜しくない気がする」
「どういう事です?」
「そうだな……例えば、店長とサナ……あの師弟と言うか、夫婦を例にしてみようか」
「え……あ、はい」
「あいつらは2人とも錬金術師だよな。店長が師匠でサナが弟子だ。俺から見て……まぁ、やはり店長の方が錬金術師としての『総合力』は上だろう」
「まぁ、そうでしょうね。店長さんは師匠ですし……」
「師匠でもあるが……店長自体が、恐らくは既にこの世界でも最高峰の錬金術師と言えるだろう。奴はもう『その領域』に達している」
「えっ!?そ、そうなのですか?」
「うむ。まぁ、錬金術師は魔術師と違ってギルドから独立している奴が多いから世界中に散っているんだが、その中でも店長の錬金術師としての技量は破格だろう。魔法ギルドに残っている錬金術師の指導者クラスの奴や序列トップの奴がどれくらいの実力なのかは知らんが……《物質転換》系の分野では最早店長に匹敵する者は居ないと思う。そもそも奴の投射力の少なさは俺の記憶の中にある『各時代』に居た優秀とされる錬金術師の中でも屈指のものだからな」
「な……なるほど。それ程凄いのですね……」
「但し……敢えて奴の難点を挙げるとすれば、研鑽分野が非常に『偏っている』事だ。まぁ、これは別に弱点……にはならないけどな」
「偏っている……?えっと、店長さんの錬金術の分野が……と言う事がですか?」
「俺と出会う前の……ギルドから独立してから領都に工房を構えて独りで活動していた頃のあいつは、多分……自分の生活の為でもあっただろうが、『広く浅く』という研鑽をしていたみたいなんだ。元々好きだった『物質転換』以外にも、『経営的に一番儲けやすい』とされている『薬品調合』だってやっていた。ギルドでは一応錬金術師を育てる過程で必ず製薬術の基本を教えるからな。高貴薬調合には製薬の基礎を知っていないと色々危ないんだ」
「なるほど。『高貴薬』は高い値段で売れるんでしたよね?」
「その通りだ。奴も当時は生きて行く為に金を稼ぐ必要があったからな。興味の有る無しに拘ってる場合じゃ無かったんだろうよ。独立したての新人だったしな」
「世の中の錬金術師さんも大変なんですね……」
「そう。そこだ。錬金術師って奴らは、まぁ人にもよるが……独立すると、結構自分の生まれ故郷に帰って工房を開く奴が多い。『ギルドで錬金術を修めた』となれば……生まれた家はショボくても、本人の資質や地域への貢献次第で『地域の名士』にだってなれるわけだ」
主はまた笑い出した。この世界に住む「普通の人達」というのは身分の貴賤に関係無く、魔法世界の住人に対して尊敬や畏敬の目を向けがちである。特に田舎ではそれが顕著に現れるので……「おらが故郷」に錬金術を修めて帰れば、たちまち住民からは尊敬の目で見られる事請け合いである。
しかし……物心ついた頃からそういう者達とは無縁の「難民キャンプ」で育ったノンには、あまり理解出来ない話かもしれない。何しろ彼女は、「初級錬金術師ソンマ・リジ」がキャンプに「帰って来る」前に、「史上最強の賢者様」と出会ってしまっている。この……目の前で笑いながら話す自分の主の前では、例え魔法ギルドの総帥様でも「ちょっと魔法が使える人」くらいにしか見えないかもしれない。
特に、自分自身が「錬金魔導」などという、訳の分からない能力を身に付けてしまっている現在は、自分の能力を把握する事にアタフタしているので、主以外の知識層に対する見識が他の人間と大幅にズレてしまっているのだ。
彼女は既に自分が「普通の人」では無い事を全く自覚していないのも問題である。店主はそんな彼女を面白がって見ているが、これは彼女が「藍玉堂」という特殊な場所に引き籠っているから目に見える問題が起きていないだけで……この根本的な気質が「暢気で世間知らず」な彼女が独りで王都や領都で暮らしていたら、早晩大きなトラブルに巻き込まれそうだ……と言うのは店主の次に彼女との付き合いが長いサナの考えである。
「そういう店長とサナは師弟という関係でありながら、得意とする『錬金分野』が違うだろう?」
強引に話を戻して来た店主に対して、ノンも頷きながら
「そうですね。サナちゃんは薬……薬品調合でしたっけ?そっちが好きみたいですよね。他にも色々やっていますけど」
「そうだな。あいつは薬品調合系の錬金術に長けている。それに夫の手伝いをしているせいか、他の分野の錬成に対する経験も最近は積んで来ている。サナは俺の知る本来の『錬金術師』だな。決して『浅く』は無いが、それなりに『手広く』経験を積んでいる。魔法ギルドに居たら序列が高くなりそうなタイプだ」
「魔法ギルドでは出世する……という感じですか?」
「はははっ。そうだな。サナは出世するタイプだ。それに対して夫は『物質転換』の分野だけが突き抜け過ぎている。最早あいつは錬金術師としては『手広くやれない』タイプになってしまった。まぁ、別に今は生活維持に追われているわけではないから、それが問題にはならんけどな」
「な、なるほど……店長さんは、もう『食べて行く為』に錬金術を使う必要が無いから『好きな事』だけをやれているのですね」
意外にもノンは「話の本質」を掴んでいるようだ。店主はそれを聞いて笑いながら話を続ける。
「この2人、さっきからの繰り返しになるが……それぞれ得意な分野が違うよな。つまり、そういう『特性』を予め把握した上で、早い段階からそれに『特化』した修行をさせれば……どうなる?」
「あ、そういう事ですか。多分ですが……錬金術師としての上達は早まりそうですよね?店長さんみたいに『得意な部分』を伸ばすわけですから」
「そう言う事だ。先に得意な分野を伸ばしてしまう。得意な分野とは言え、術師としての経験を積むわけだから、全体的な『底上げ』にはなっているんだ。だから、その後に別の分野の習得に入っても上達速度は早くなる。そういう事さ」
「なるほど。でも……今ルゥテウス様が仰られたやり方を魔法ギルドではやっていないわけですよね?皆さん同じ教科書を使って同じような修行をしているわけですから」
「そうだ。良く理解しているじゃないか。魔法ギルドのやり方は、確かに安定した術師の養成には資するかもしれんが……店長のような『尖った才能』を殺してしまうかもしれない恐れがあるんだ」
「え……。あ、でもそうですよね……」
「実際、領都で独り工房を経営していた頃の店長はそれ程目立った能力を持った錬金術師では無かった。奴の能力が急激に伸びたのはキャンプに藍玉堂が完成して、地下の錬金部屋で触媒の残量を気にせず、体力の続く限りどんどんやりたい事をやり始めてからだ」
「サナちゃんを弟子にした頃ですよね?」
「そうだ。領都で工房をやってた頃は『掟』を重視する魔法ギルドからの監視もあったし、何よりも生活が懸かっていたから好き勝手に錬金術を使う事が出来なかったんだ。まぁ、そこが魔法ギルドによる『均質な修行』の弊害かもしれんな。奴はそこから抜け出して、あの年齢で『第二の修行人生』を始める事が出来たから……今の特級錬金術師にまで到達出来たのだろうな」
「それはサナも同様だ。あいつも生活の事など考える事無く……修行の開始年齢は遅かったのに、あそこまで成長したんだ。早めに資質を見極めた上で、それに見合った修行生活を送れた賜物だろうな」
「なるほど……つまりルゥテウス様はチラちゃんとアトちゃんにも同じように修行させると?」
「そうだな。それが理想だ。あの双子はサナとは逆に普通よりも早い年齢で素養が見出された。これは思った以上に有利な事だと思う」
店主とノンが「術師の修行談義」を続けている間に、回復薬の瓶詰は終わったようで……三人娘は瓶を詰めた木箱を積み重ねながら、作業机の上を片付け始めていた。最近……特に年が明けてからの三人は、相変わらずギャアギャア喧しいが、それなりに「自覚」のようなものが出てきたようで、師に色々と命じられなくても日課の薬作りやその日に採取してきた薬材の処理を分担しながらテキパキとこなすようになっていた。
パテルが作業机の上を綺麗に拭き取ったのを見て、ノンが
「ではそろそろ……『いつものアレ』を作りますね……。パテル、お鍋を用意してちょうだい」
「はーいっ!先生っ!」
他の2人はまだ器具を流しで洗っているので、手の空いているパテルが机の下に重ねて収納されている直径60センチ程の大鍋をどんどん机の上に並べ始めた。
ノンはこれから……すっかり彼女自身の日課になってしまった「色水作り」を始めるのだ。時刻は16時を少し過ぎている。そろそろサクロから、彼女の作った大鍋一杯の「色水」を引取りに工兵隊員が何人かやって来るのだ。既に昼勤者の「夕食時に支給する分」は、こちらの時間で昼過ぎに運ばれており、これから製作するのはあちらの時間で夜勤者達が夜食時に支給される分である。
ルゥテウスの検証によって、ノンが作り出す「色水」には「時間経過に伴う効能劣化」が起こる事が確認されている。温度変化に対しては特にそのような特性は見られないのだが、作ってから数時間が経過すると徐々に「ピンク色」が薄れて行き……それに伴って効果も薄れて行くようなのである。
それでも作成から5時間程度は同様の効果は維持されるようなので、トーンズ側で続いている3交代制の鉄道敷設工事に従事している作業員への提供は続けられている。
現在の鉄道敷設は「二期工事」が始まったばかりで、サクロ市内の中央大通り……「ランド通り」の下を垂直に交差させる為の掘削工事が続いている。工兵1000人を含む3交代2000人体制は維持されており、通りを挟んだ両側からの掘削と、サクロ中央駅から西側工業地帯に至る平坦部分に対する線路敷設が同時進行で行われている状況だ。
この時代の、先進国においてもその施工速度は驚異的であり……恐らくそれを支えているのはこの「色水」による作業員の疲労回復だろう……と、先日飛行船の中でその効能を実際に体験した老市長は考えているようだ。
パテルによって作業机の上に大鍋が6つ並べられると、ノンはその場に《領域》を展開した。そして……片っ端から大鍋に「色水」を満たして行く。最初の頃とは違い、彼女は大鍋の縁を直接掴むようにしてその「原料」である水すらも、何も無い空間から作り出しているようなのだ。
錬金術において「水を作る」という行為は、魔術における「水属性」の初歩術である《凝縮》と似たような結果を生じさせる。両者は等しく「そこに水を作る」行為なのだが、術行使に必要な「触媒」が異なるので実際には「似て非なる術」である。錬金術における「水を作る」はあくまでも《物質転換》の結果なので、「水が作られる」というのは「異なる物質から水が生成された」という錬成結果の1つに過ぎない。
飛行船建造と並行して、ソンマが水からヘリウムを生成していた行為が良い例である。しかし魔術……「水属性魔術」における《凝縮》は、
『大気中の水蒸気を凝縮させて液体に変えている』
という「魔術」なのである。
つまり、魔術の《凝縮》は実行する場所における大気中の水分量によってその効率や結果にブレが生じるが、錬金術における《物質転換》にはそれが起こらない。何故なら……《物質転換》は大気中の水蒸気を液体に変化させているのでは無く、大気成分そのものの組成を変えて「水を作り出している」からである。
なので、技術としては当然だが後者の方が圧倒的に高い。《凝縮》は水属性への親和性さえ高ければ、魔術の修行を始めて間も無い「見習い魔術師」でも使えるが、修行を始めたばかりの錬金術師が……《物質転換》によって全く異なる物質から水を作り出すには相当な修行が必要となるだろう。
そもそも《物質転換》自体が、「上級錬金術」と言われる難易度の高い技術なので……「水を作り出す」などと言う結果を得る為に、触媒の消費リスクもあり得る《物質転換》を、わざわざ使用する術師は殆ど居ないだろう。精々……何らかの必要に迫られて大量の「純水」を作り出す時に、その場所の気温や飽和水蒸気量に左右されない《物質転換》を選択するくらいしかそのような機会は訪れないと思われる。
そして本来であれば世の中に居る錬金術師達はソンマやサナのように「投射力が限り無く少ない」という素質を持っている方が珍しいので、「水を作る」必要が生じれば大抵は不慣れだが《凝縮》の魔術を使う。《凝縮》程度の初歩魔術であれば、彼らの持つ「並以下の投射力」でも十分実用に耐えるからだ。
魔法ギルドで錬金術を学んだ者達は、自分達が「錬金術師向き」であるとの判定を受けるまでは、魔術師志望の者達と一緒に初歩魔術を学ぶ事が多いので、《凝縮》程度であれば普通に使用する事が出来るのである。
ノンが大鍋の中に、水を作り出せているのは「主がそれをやっている」のを見たからである。彼女の主は、彼女以上にそのような「術の難度」に頓着しない人間なので、「何もないところから水を作り出す」という行為を平然とやっているが、これは本来非常に高度な技術……と言える。
尤も、主がノンの目の前でビーカーに水を満たして見せた時は《凝縮》の魔導を使用していたので、ある意味でノンの行為は「勘違い」なのだが、彼女がその行為を「大気中の水蒸気を液体に凝縮している」とは考えずに、単に「何も無い所から水を作っている」と誤解して覚えてしまったので、それを実現させる行為が結果として無意識の《物質転換》となってしまっているのだ。
色々と世の錬金術師様達が抱えているジレンマを吹っ飛ばす能力を持ったノンが、あっと言う間に6つ大鍋に「ピンクの色水」を満たし、《領域》を解いた直後に「それを計っていたかのような」タイミングで
「失礼致しますっ!『お薬』を頂きにき、来ましたっ!」
「失礼しまっす!」
「こ、こんにちはっ!」
などと声を発しながら地下からゾロゾロと男達が階段を上がって来た。ノンはさも簡単そうにホイホイと水を満たした上に「色」を付けていた大鍋も、1つで120人分……重量も30キロはありそうな代物である。大の男が一人で持ち運ぶのも大変であるし、増してや並々とした液体が入った鍋を「中身を零さずに地下の転送陣を通って……」となると、やはりどうしても2人で運ぶのが無難である。
どうやら毎日の運搬を担っている者達も、この辺はとっくに弁えているようで……この時、地下から上がって来たトーンズ軍の工兵の作業着姿の男達は総勢で12名……いや、最後尾に「もう1人」、今日は付いて来たようだ。
「あれっ?父ちゃん?」
最後に階段を上がって来たのは三人娘のエムの父であるロムであった。それほど広くもない藍玉堂1階の作業部屋に、突然13人もの男達が押し掛けて来て一気に狭くなったが、男達は目の前に座る藍玉堂店主に対して緊張しているのか、無駄口を叩かずに壁際に並んでいる。
「ロムか。どうした」
店主からのご下問に、ロムは緊張気味に
「は、はい……いつも我ら……娘までもがお世話になっておりますので、ノン様にご挨拶をしようかと……」
そう言ってノンに向かって頭を下げた。
「いつもウチの娘がお世話に……ご迷惑をお掛けしていなければいいのですが……」
「なっ!?ちょっとぉ!何言ってるのよっ!私は先生に迷惑なんて掛けてませんっ!」
娘が慌てて父に食って掛かるが、明らかに狼狽えている様子だ。
「私は迷惑なんて掛けてませんよねっ?ねっ!」
エムは必死な形相で師に訴え掛けた。訴えられた側は困惑の表情になって応える。
「そ……そうね……」
師から捗々しい応えを得られなかった彼女は、振り向いて
「てっ、店主様っ!店主様だってそう思ってますよねっ!」
「ばっ、バカっ!よせっ!店主様に失礼だろうがっ!」
父が慌てて止めたが、娘には聞こえないのか、相変わらず必死な様子で店主に迫る。
「あっ、ああ……そうだな……」
普段から可能な限り三人娘には省エネ対応の店主も苦笑するしかない。
「とっ、とにかく……早くこれ持って行ってっ!帰ってっ!」
娘は父を地下への階段に押し込めるようにしながら、身振り手振りで工兵達に鍋を運搬するように命じた。困惑した工兵達は「小娘」の言い付けを聞きながら「おい。そっち持て」「零すなよぉ」などと言いながら……6つの鍋に持参して来た「専用の蓋」を被せた上で、予め「2人で持てるような」形状で作られている取っ手をそれぞれ2人で持ち、声を掛け合いながら「失礼しますっ!」と店主とノンに挨拶をして階段に引き上げて行った。
最後にまたロムが階段から上半身だけを見せて
「それでは……ご挨拶もしっかり出来ずに申し訳ございませんが……迷惑ばかりお掛けしております娘をお見捨て無きよう、宜しくお願い致します……」
と、これも店主とノンに頭を下げてから階段を下りて行った。
「まったくもうっ!出鱈目ばかり言って!」
「律儀なお父上であります!エヌのような不肖の娘には勿体ない程に立派であります!」
その煽りにカチンと来たのか、エヌがモニに飛び掛かった。2人がもう夕方なのにも関わらず取っ組み合いを始めたので
「やめろやめろ……早速先生に迷惑を掛けているじゃねぇか」
店主に頭を掴まれて引き離された2人はギャアギャア喚いている。またしても収拾のつかなくなりそうな状況になりかけたところへ、ロム達と入れ違うようにイバンが階段を上がって来た。
「店主様。失礼致します。この時間であればお帰りになっていらっしゃると思いまして……」
苦痛に呻く娘2人の頭を掴みながら店主は振り向いて
「ん……?何だ。イバンか。何か用か?」
「はい。実は店主様にご相談したい事がございまして……」
「そうか。では2階で聞こう。……お前ら、これ以上騒ぐんじゃねぇぞ」
そう言って店主は2人を解放した。毎度の事ながら2人は掴まれた所を両手でさすりながら
「すみません……」
「面目次第もござらん……」
一応、反省の色は見せている。
「俺はイバンと2階で話しているからな」
「わかりました」
店主は苦笑しているノンにそう言ってイバンと共に2階に上がって行った。
****
「で……?相談とは何だ」
2階の大机の席に座った店主は、同じく椅子に腰を下ろしたイバンに、来訪目的を改めて尋ねた。
「実は先日の件です。『南の事情』についてです」
「おお。テラキアの事か?もう調べたのか?」
あの夜間偵察から2日しか経っていない。両地域の時差で考えれば実質的に1日半である。あまりの早さに店主も意外そうな顔をしている。
「はい。改めてあちらの都であるケインズの町に潜行させております者達に、王族周辺の事情を探るように命じましたところ……意外にもあっさりと事情が知れました。これは私もちょっと意外でして……」
イバンは苦笑いを浮かべた。どうやら先日の偵察行の際に店主が推測した「テラキア内部の問題」について有力な手掛かりを余りにも簡単に得られたので拍子抜けしているようにも見える。
「ほう。つまりあれか?「向こう」の都では、特に隠し立てされているような事では無く、住民なら誰でも知っているようなレベルの話なのか?」
「ええ。そうですね。そう言ってしまっても差し支えないと思います。というか……実際は防諜体制がザルのようなのか、王宮の中の事情が外部に筒抜けなのでしょうね……。そして、その『事情』に対して王族だけじゃなく周囲の家臣……いや、どうやら国民にまで対立が生じているようです」
「対立……?対立が起きているのか?『国民にまで』ってことは……かなり『あからさま』な話だな」
店主は笑い出した。「王室の揉め事や恥は隠す」という文化が無いのか、隠そうとしてもバレてしまうのか……いずれにしろ、やはり文化の違いというか成熟度の違いなのか……。
「で……?どういう対立なんだ?」
「はい。店主様はテラキア王族については……どれ程ご存知ですか?」
「どれ程って……確か国を治めているのは女王だろ?歳は20代前半だったっけか?それくらいしか知らんぞ。それもこの前……お前が教えてくれた事だったよな?」
「ええ。そうです。国を治めているのはインクリット女王……現在22歳だそうです。テラキアの『統一的な』支配者としては10人目……つまり10代国王という事になりますかね」
「統一的……?どういう事だ?」
「テラキアと言う国自体が220年くらい前まで小さな国だったそうで、『とても昔から』……周辺の同じような大きさの国々と緩やかな連合国家のような体制を採って更に外側の国々と対立していたそうです」
「ふぅん……。『とても昔から』と言うのは具体的な年代も特定出来ないくらいに昔って事だな?」
「どうやらそのようです。一応、その辺の事情は以前から我らも掴んでおりまして……220年程前にテラキアから出たリゲイルという者が連合王国を統一して、現代のテラキア王国が誕生……王室が形成されたようですね」
「つまり……テラキア王国は建国して220年が経っているわけだな?」
「はい。仰る通りです。そしてその前の時代……連合国家だった頃の記録の大半は、今の王室の手によって抹消されているそうで、それによって前史が殆ど残っておらず『とても昔から』という表現になってしまっているそうでして……」
「なるほど。そう言う事か。何やら後ろ暗い事でもして統一したのかな?」
店主が笑いながら指摘すると、イバンも失笑を浮かべながら
「この辺りの事情は我々も結構調べを進めておりまして……一応判明している部分だけご説明申し上げます」
「何だよ……ちゃんと調べているのか。お前らも結構しっかりやってるんだなぁ」
尚も店主が笑いながら《青の子》の周到さを褒める。イバンは照れながら
「恐れ入ります……。一応テラキアという国に対しては3年程前から調査を始めておりましたが、何分にも調査のメインは南から逃げて来た避難民の中に居る古老から聞かせて貰った事なので……。都を含めた王国全土を対象に諜報員を潜行させ始めたのは、ここ半年程でございます」
「そういう事なのか。しかし逃げて来た年寄りなんかは結構事情を知っているもんだな。案外、国民の識字率が低いと口承による『言い伝え』が文化として発達するから、そういう『生き字引』みたいな老人が結構居るもんなんだよな」
「あっ、なるほど……。字の読み書きが出来ないから、代々言い伝えを残すというわけですか……仰る通りだと思います。テラキアだけで無く、他の地域からの避難民にも似たような特徴が見られまして……老人の皆さんはやたらと『昔話』を知っているんですよ。今、店主様からご指摘頂いて……漸く私も得心出来ました。ははは」
イバンが笑い出したので店主も一緒に笑いながら
「俺達はなまじっか、ガキの頃からちゃんと文字を習っているから、意外にそう言う事に気付けないもんなんだよ。実は俺もな……これは監督から教わったんだ」
「えっ!?監督からですか……?私は今までそのような『教え』は受けておりませんでしたが……」
イバンが笑いを引っ込めて驚きを見せると
「いや、俺も監督と雑談してて聞いた事だからな。監督や親方はそういうちょっとした『知恵』みたいなのを、ちょくちょく聞かせてくれるんだ」
「そうなのですか……」
上司や伯父の意外な一面を知ったイバンの声に、少し羨ましそうな響きがあった。
「で、老人の話で統一前の事が少し解ったんだろ?」
「あっ、はい。そうでした。話が逸れてしまいすみません。どうやらテラキア自体は統一の『かなり前』から色々と暗躍したようでして……」
「ほう……つまり随分と前から『野心』は持っていたと言う事だな?」
「はい。但し、周辺の国も結局似たような事を考えていたようでして……婚姻関係を結んだり、飢饉の際に物資を回してやったりと、色々な事で『貸し借り』のようなものを作って、ある国が『代替わり』をする時に『継承権』を主張したりしながら……まぁ、他の蛮族国家のように国境で殴り合ったりするような事はせずに、外交や謀略で勢力を拡げ合うような事をしていたようです」
「なるほど。その果てに成立したのが『統一テラキア王国』というわけだな。だから統一後も荒っぽい統治はせずに『理知的』な国家運営を続けてたのか」
「ええ。ただ……店主様は『理知的』と仰っておりましたが、民を酷使する分には余程周辺の蛮族国家と変わらなかったと思いますよ。現に今でも我が国に流れてくる逃散民は後を絶ちませんから」
「まぁ……前時代的な統治を受けている奴らから見れば、トーンズ……と言うか、今のテトの姿を見ただけでも違いが分かってしまうだろうし、巡回隊商の奴らはそれをあちこちで言い触らすだろうしな」
「結局、先程もお話致しましたが……今から220年程前の、リゲイル族長の代になって連合内の国々をテラキア一国で圧倒するようになりまして、最終的にはリゲイルを『統一王』に戴いて、テラキア王国が誕生したようです」
「ふぅん……で、あれか?他の族長達がそのまま『貴族階級』になったわけだな?」
「ご明察の通りです。連合国家を形成していた国々の族長……建国当初は14人居たそうです。その族長達が貴族化して、それまで世襲でその部族が支配していた国の『都』に中る町だけを『領地』として認められて、代々治めているそうです。この前の偵察の際にも出てきましたホーロの町もそんな世襲支配の町だったそうですが……100年程前に、その一族が途絶えてしまったので王室に接収されて、今では王族の直轄地となっているそうです」
「なるほどな。さっきの14人だっけ?今ではそういう貴族は何家くらい残っているんだ?」
「はい。潜行隊の報告を総合しますと9家は確認出来ているようでして、少なくとも3家は廃絶しているそうです」
「うーん。問題はそこだな」
「は……?と言いますと?」
「220年掛けてテラキア王家が、貴族側をじわじわ浸食しているように見えているが、それが王族側の故意なのか、それともたまたま絶家が出て王室が接収する形になってしまっているのか。つまりは、現在のテラキア王国内の勢力として王族と貴族、どちらの力が強いんだ?」
店主の指摘は、イバンが今回最終的に説明しようとしていた部分の「核心」をズバリと突いて来たので彼は少し驚いて
「や、やはりそこが気になりますか……?」
「そうだな。昔から、どこの王国でも……国内で揉める時には対立軸が二元的になる事が多い。すなわち『王族対王族』と『王室対貴族』だ。これが『王族対国民』となると、モロヤのような国家の転覆……まぁ、古の時代風に言えば『革命』に発展する……と言う事さ」
「かくめい……ですか。では今回の件、その革命?という性質のものでは無さそうですね」
「ふむ。虐げられた国民がブチ切れてモロヤのように上流階級に反旗を翻すような事では無いわけだな?」
「はい。今回の件は早い話……『王族対王族』という内容になります」
「なんだ……王族同士の争いかよ。お互いにそれぞれ貴族が与しているような感じか。『王族対王族』に『貴族対貴族』も混ざっているような」
「はい。正しく……店主様の仰る通りです。王族同士の争いに、それぞれの陣営に貴族も同じくらいくっ付いてまして……但し表面的な争いにはなっておらず、あくまでも『水面下の暗闘』のような形になっているようですね。あからさまに対立しているというわけでは無いようです」
「なるほど。でもその『水面下の暗闘』ってのは、もう都では『公然の秘密』みたいな扱いなわけなんだろ?」
「その通りです。女王インクリットには双子の兄が居りまして……ロメイエスという人物だそうです」
「ん……?では兄を差し置いて妹が今の国王に即位したのか?意外と珍しい話だな」
「そう……ですね。ただ、テラキア王室と言うのは統一王リゲイルよりも前から……女系中心の一族なんだそうです。なのでこれまで王位に就いた10人のうち、現女王も含めて7人が女性でして」
「へぇ……そうなんだ。なるほど。ならば妹が王位に就くのもあながちおかしい話じゃ無いわな」
「はい。それに兄ロメイエスは妹と違って生まれつき病弱なんだとか。なので『王兄』という身分でありながら、町1つの領地だけ与えられて……それも西の外れにある接収した『元貴族家』の町だそうです。そこで見かけ上は逼塞した暮らしをしているのだとか。それに比べて妹である女王はテラキア王室の代々に渡る女系一族の象徴のような闊達な性格らしく、即位前の王女時代には母王を説得して国内が荒れて無秩序になったモロヤの併合を進言して実現させたとか」
「ああ、なるほど。あの国は最近になって南方の国々もどんどん吞み込んでいるんだったか。ではそれも、そのイケイケな女王陛下が先頭に立って進めているって事か」
「はい。仰る通りです。言うならばテラキア王国は200年以上にも渡った、『理知的な統治』による平穏だった時代からインクリット女王即位によって急速な膨張政策を採っている……そういう状況かと思われます」
「面倒臭い女がトップに立ったせいで、近隣が迷惑を蒙っているのか。しかも国民を更に酷使して……」
店主は顔を顰めて腕組みをした。
「店主様のご指摘通り、現女王即位後……征服した旧モロヤや南方地域も含めて、逃散する国民が急増しているそうで、国情は徐々に悪化しているようです。そのような状況を『憂えている』傍系の王族や貴族階級の者達が居るようでして……」
「なるほど。そいつらが密かに『女王降ろし』を画策しているのか。そんでもって、自分達の『旗頭』に地方で逼塞している女王の兄貴を担ごうとしていると……」
店主が一気に推理を跳躍させたのでイバンが驚きながら
「は、はい。その通りです。『女王対王兄』という図式の下に……女王の膨張政策を支持している者達と、それを止めさせて、昔の理知的統治の時代に戻し……国を建て直そうと考える『王兄を担ぐ者達』の対立……いや『暗闘』が続いている……。これが現在のテラキア王国の実状のようですね」
「ふぅん……随分と面倒臭ぇな……どっちにしろ、弱い者達が虐げられているのは変わらんではないか」
「ええ……そもそも、今の女王になる前の時代においても……我々の側から見れば十分に『圧政を敷いている』事には変わらないようでしたし。古老の皆さんのお話しによれば……」
「で……?お前はその話を俺に聞かせた上で……何を相談しようと言うのだ?」
苦笑する店主がイバンに問い掛ける。イバンは居住まいを正して
「我々は今後、どのような方策を採るべきなのでしょうか?」
「どのような……とは?」
「はい。現状、我が国はテラキア王国の『内輪揉め』のとばっちりを受けるような形で頻繁なテト侵攻を受けております。それに弱い者達への圧政も見逃せません。これらの『状況を変える』には、その争いへの介入しか無さそうに思えます」
「まぁ……そうだろうな。少なくとも、『南の奴ら』がやっている『バカな争い』を止めさせる必要はあるな。そうなると、何らかの『介入』は必至だろう。何しろ放っておけば何時までも続くだろうし」
「ええ。しかしその場合……我らはどちらに付くべきなのでしょうか?」
「どっちって……あぁ、そう言う事か……」
店主は少し考えて、イバンの言おうとしている事を理解した。
話を聞いていると、即位前からの膨張主義によって周辺諸国に迷惑をばら撒いている「現女王」が悪いように思える。しかし……近年のテトに対する頻繁な攻撃の原因となっているのは、どうやら「王兄側」の「作敵策」によるものである可能性が高い。トーンズ国に対して「より迷惑を掛けている」のは王兄側なのである。
しかし……だからと言って、王兄側の陰謀を暴いたところで……既にテトは繰り返し攻撃を受けてしまっているのである。南から逃げて来る難民達の事もあり、トーンズ側による「対テラキア感情」は最悪な水準まで落ち込んでいる。仮に王兄側を叩き潰しても、残った女王側の「膨張主義」を改めさせなければ、いずれまたテト……いやトーンズ全体に対して「ちょっかい」を出してくる可能性が残されてしまう。
イバンやラロカまでもが頭を痛めているのは、この「南側で長い国境を接している」南の大国が、将来にそのような「含み」を残した状態にしておくと、いずれテト側では無く、東西に長く伸びた低木森林地帯側の国境を超えてトーンズ側に侵攻してくる可能性が生じる……と言う事なのだ。
現に先日の偵察によって、国境森林地帯を越えてくる恐れのある部隊を発見した事で、現在その侵攻予想ポイントに向けて機動弩兵を急行させて迎撃準備を整えている最中だ。ホーロから出兵していると思われるその1000名程度の部隊は、その後の偵察でも未だ北上中との報告が入っており……どうやら数日のうちに国境森林地帯を突破して来る可能性が濃厚になっている。
今後もこのような「長い国境地帯」に頻繁な侵攻を試みて来る可能性があると……現在、国土の東側に人口重心が著しく偏っているトーンズ国が、西に向かって居住地域を拡大させようとする際の「脅威」になってしまう為、西方への進出の妨げになってしまう恐れがあるのだ。
イバンはこのような情勢を鑑みて、今後の戦略をどのように定めるのか……それで店主様の「お知恵」をお借りしたく……キャンプへやって来たのである。
「ロダルはテトで防戦中か?」
「はい。例の……都から出て来ていると思われる2500程の部隊が、既にテトの南東40キロの地点にまで迫っているそうです。明日の朝にはサクロからの増援1000名がテトに到着しますので、何とかギリギリですが防衛体制が整えられるようです」
「うーん。今後もこのような状況が続くと……テトに鉄道を通すのも面倒臭くなって来るな。まぁ、鉄道が通ってしまえば、人員や物資の輸送が格段に効率的になるからテトの護り自体は楽になるが……問題は『鉄道』という存在がテラキア側にバレる可能性が出て来る」
「あっ……なるほど。そうなると鉄道の破壊を狙ってくる可能性すら生まれますね。それからの防衛にも手を分けなければならなくなります……」
「親方は何て言ってるんだ?」
「はい。私に『店主様に相談してこい』と命じたのは伯父上なのです」
イバンが苦笑すると、店主も「やれやれ……」と首を振りながら
「しょうがねぇなぁ……。そもそも、その『王兄』という奴は『自分が担がれてる』と認識しているのか?」
「えーっと……ロメイエスですか?青の子の諜報員が現在、彼の治めている『タシバ』という町で調査中です。どうやら滅多に人前には出て来ないそうです。『子供の頃から病弱である』という話は都で聞いた話なので……本当にそうなのかと言うところも含めて行動中です」
「そうか……。そうなると、その王兄じゃない『誰か』が首謀者である可能性もあるわけだな?」
「はい。しかし先程も申し上げましたが、この『対立』自体の存在は結構広く知られているようなのですが、具体的に……その対立軸に挙げられる『貴族の存在』が中々掴みにくい状況です。はっきりと『女王側』であると判るのが、南方諸国併呑の為に兵を出した2人の貴族だけでして……」
「そうか。分かった。とりあえずは現在こちらに仕掛けてこようとしている2つの敵部隊の迎撃をしっかりやれ。『その先』についてはちょっと考えておく」
「はっ。こちらの大陸でもお忙しいところ……お手を煩わせてしまいまして申し訳ありません……」
「お前が謝る事じゃないだろ。悪いのは南の蛮族どもじゃないか。気にするな。本当に面倒臭くなったら、俺の手で『一人残らず』皆殺しにしてやる」
最後はちょっと怖い顔になった店主の言葉を聞いたイバンは俄かに凄まじい恐怖が全身を駆け巡って震え出した。以前に伯父から聞いた事があるのだ。
『あの方を怒らせるな。お前も知っている……あの方がまだ幼かった頃……、我々は一度あの方を怒らせてしまってな……お前の『先輩』が一瞬のうちに何人かこの世から消されたんだ』
その事を思い出し……イバンの震えは止まらなくなった。
「おいおい。そんなに怖がるなよ。冗談だ。冗談」
最後は笑い出す店主の顔を見て
(こ、この方を……本気で怒らせては……あの国が消滅してしまうかもしれない……)
若き諜報部隊指導者は額から流れ落ちた冷や汗を手巾で拭った。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ルゥテウス・ランド
主人公。15歳。黒き賢者の血脈を完全発現させた賢者。
戦時難民の国「トーンズ」の発展に力を尽くすことになる。
難民幹部からは《店主》と呼ばれ、シニョルには《青の子》とも呼ばれる。
ノン
25歳。キャンプに残った《藍玉堂》の女主人を務め、主人公の偽装上の姉となる美貌の女性。
主人公から薬学を学び極め、現在では自分の弟子にその技術を教える。
肉眼で魔素を目視する事が出来、魔導による錬成を可能とする「錬金魔導」という才能を開花させる。
イバン
27歳。ラロカの甥でトーンズ国諜報部隊《青の子》所属。
ドロスの右腕としてエスター大陸側の諜報活動を指揮する。
シュンの妹であるアイを妻としている為、シュンの夫ロダルとは義兄弟の間柄でもある。
パテル
14歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。同じくノンの弟子となったエヌ、モニよりも一年早く弟子入りした、言わば一番弟子のような存在。
しかし精神年齢は他の二人と変わらず、三人集まるとやかましい。
エヌ
13歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。パテルが弟子入りした次の年にモニと共にノンの弟子入りをした。ノンの事を両親よりも尊敬しているが、やはり他の二人と一緒になるとやかましい。
将来は祖母の名が付けられた駅の近くで薬屋を営む事を目指している。
モニ
13歳。ノンの下で薬学について学ぶ少女。エヌと同じ年にノンに弟子入りした。
サクロにある藍玉堂本店への遣いを命じられる事が多く、そこを訪れる患者に影響されてしまい、珍妙な言葉遣いを覚える。
ロム
41歳。ラロカが率いる建築部隊で指揮を執っている大工。エヌやバドの父。主人公に命を救われた事があり、それ以来彼を生き神のように崇める。