対決の時
【作中の表記につきまして】
アラビア数字と漢数字の表記揺れについて……今後は可能な限りアラビア数字による表記を優先します。但し四字熟語等に含まれる漢数字表記についてはその限りではありません。
士官学校のパートでは、主人公の表記を変名「マルクス・ヘンリッシュ」で統一します。
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム(メートル)法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
作中世界で出回っている貨幣は三種類で
・主要通貨は銀貨
・補助貨幣として金貨と銅貨が存在
・銅貨1000枚=銀貨10枚=金貨1枚
平均的な物価の指標としては
・一般的な労働者階級の日収が銀貨2枚程度。年収換算で金貨60枚前後。
・平均的な外食での一人前の価格が銅貨20枚。屋台の売り物が銅貨10枚前後。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくお願いします。
1月28日……レインズ王国の王都レイドスの中心部に建つ軍務省庁舎のとある一画では、朝から言い様の無い緊張に包まれていた。前日の27日に……軍務省次官であるポール・エルダイス大将を始めとして、人事局長イエイジ・オランド大将、更には同副局長のゲイリー・アミン中将、人事局教育部長のモンテ・デヴォン少将が揃って翌28日の10時に本庁舎3階の南区画にある軍務卿執務室へ出頭する旨で伝令が走った。「呼び出された」……と言うよりは「召喚された」と言う方が正しいかもしれない。
「1月28日10時、如何なる職務を置いても我の部屋に出頭する事」
という短文の伝令は却って、それを発した側の強い意志が込められており、それを受けた側に少なからず緊張をもたらした。
特に同じ本庁舎3階で、軍務卿執務室とは逆側の北区画に執務室を持つ軍務次官が受けた緊張は並々ならぬものがあり、普段冷徹な彼をして
(まさか……こんなに早く来るとは……)
という思いだったに違いない。この時点で彼は、「出頭命令を受けたのは自分だけ」という認識であったが、前述のように所謂「教育族」という紐帯と見做された彼の部下達にも同様の伝令が届いていたのだ。
軍務卿と軍務次官はそれでも毎月1度は必ず顔を会わせている。それはすなわち毎月末……勤務最終日である29日に、これも同じく本庁舎3階東側にある「1号会議室」にて開かれる高官会議に両者は必ず出席するからだ。
軍部において「最高幹部」と目されているのは、最高司令官たる国王の「代理人」である軍務卿、「官僚トップ」の軍務次官、そして「制服組トップ」である参謀総長の3人である。高官会議の主宰者は軍務卿であり、形式上は彼が議長を務める慣わしであるが、それを補佐する役目として事務方(官僚)のトップと現場方(制服組)トップの役割も大きいからだ。
ちなみに余談だが、レインズ王国軍における「制服組」の「制服」とは、「軍服」を指しているわけでは無い。なぜなら、軍務省本庁舎で働く軍官僚達も等しく「軍服」の着用を義務付けられているからだ。
彼ら軍部内における「制服」とは「戦闘服」もしくは「戦闘用装束」の事を指しており、ここから転じて「軍令に服して王国防衛に実働せしむ者、或いは戦闘武官」を「制服組」と呼称している。なので主に軍務省の内部部局に所属している「事務官僚」を「制服組」には含めない。
制服組と事務官僚との「線引き」自体は特に法律による規定が無く曖昧なのだが……制服組側は事務官僚達を「文官」と見做している。事実……両者に対する教育養成には一定の線引きがされており、原則として軍務官僚への新任官採用は数百年どころか千年以上に渡って士官学校軍務科出身者だけを対象としている。
上記に対する「いくつかの例外」としては、一度「制服組」として任官後にその素養を認められて士官学校教官に採用される者、そして士官学校の責任者たる学校長が挙げられる。また軍士官学校卒の者で無くとも、その能力が認めれれて外部の省庁からの「引き抜き」も行われるが、これは中途任官扱いであるので上記の「新任官採用」には該当しない。
王都憲兵隊を始めとする各方面軍所属の憲兵も本来であれば軍務省直属の実力組織である為に「制服組」からは外れるので、バリバリの「北部方面軍騎兵隊士官」という経歴を持ちながら……師団長からの推薦があったとは言え、憲兵士官へと転籍を果たし……更に王都憲兵隊本部に転属までしたベルガ・オーガス憲兵中尉は非常に稀有な存在であろう。
そして参謀本部は軍務省の内部部局の1つではあるが、彼らは官僚とは見做されておらず「制服組」とされており、そのトップである参謀総長は「制服組トップ」と認知されているのだ。
高官会議に話を戻すと……他の出席者は一応、本省内の残り6つの部局の長であり、会議の内容はその月の特別重要と判断された事象報告や個々に発生した局長レベルで判断出来ない内容の案件に対する稟議が主たるもので、これらに対して軍務卿が最終的に承認を下す場合がある。
第377代の軍務卿は、就任以来……毎月この軍部における最高会議への出席を欠かした事こそ無いが、その会議での自らの権限判断の大半を「2人の補佐役」に任せてきた。
このような事情もあってか、内外の関係者の目から見て……軍務卿と軍務次官の関係はそれなりに「良好」と見られていた。しかし年が明けて3049年に入ってからは両者の間で水面下の「探り合い」が続いており、急速に先鋭化していた事にどれだけの者が気付いたであろうか。
エルダイス次官が自らの執務室を出て、3階の北廊下から西廊下を通って軍務卿執務室のある南廊下に向かって入ったところで、西階段の踊り場から現れたオランド人事局長とアミン副局長に遭遇した。彼らの所属する人事局は1階に位置している為、西階段を上って来たのである。
「こっ、これは……次官閣下……ど、どうしてここに……?」
人事局長が西側から歩いて来る次官を見付けて驚き混じりで声を掛けて来た。彼らからしてみれば軍務次官がこの「3階の南廊下を歩いている」という光景は奇異に映るからだ。普段は次官執務室がある北区画から精々、会議室のある東廊下中央部辺りまでしかやって来ない軍務次官が、西階段前……軍務卿執務室のすぐ近くまで来ているのだ。
「貴官らこそどうしたんだ?『会議』は明日だろう?」
まさか自分以外に今日この時間に軍務卿からの「お呼び出し」を受けている者が居ると思っていない次官は……それでもうすうすこの状況を察しながら、人事局長に問い返した。
「わ、我々は……軍務卿閣下からの出頭命令を受けておりまして……まぁ、アミンも同様の命令を受けているとは思ってもみませんでしたが……」
人事局長は困惑した顔で次官に事情を説明した。彼の後ろで副局長も頷いている。
「そうか……なるほどな。実は私も貴官らと同様に閣下から呼び出されているのだ。……どうもこれは……、何かありそうだな」
次官は軍務卿執務室のある方向を睨みながら言葉を吐き出した。
(オランドやアミン……私も含めて、彼らが「教育族」と呼んでいる顔ぶれを一斉に呼び出すとは……シエルグ侯は何をする気だ……)
エルダイス次官は軍務卿が自分達を「軍務省……いや軍部から放逐しようとしている」事を知っている。しかしその理由には心当たりが無いし、更に言えば軍務卿がその期限を「来月中旬の除目」としている事にも気付いていない。
彼は……「この『暗闘』はまだ何年も掛かる」と見定めており、何れは「軍務卿と雌雄を決する」と思わなくも無いが、いくら自他共に認める「切れ者」であろうと……軍務卿側がここまで「決着を急いでいる」とは現時点で夢にも思っていなかったのだ。
その軍務卿が昨日いきなり「自分の部屋に来い」と呼び出しを掛け、それに応じて来てみれば……自分の腹心の部下2人までもが一緒に出頭を命じられている。これはいかん……。と、次官の胸が俄かに騒ぎ始めた。
「しかしもう……軍務卿閣下の命令を拒める事も出来まい……ここはまず、閣下にお会いして話を聞かずばなるまい」
次官は覚悟を決めたかのように、2人を連れて軍務卿執務室の扉をノックして室内に入った。
****
秘書官からの案内で執務室に入った次官の目に映ったのは……奥の軍務卿の執務机の前に椅子が4脚……正面に1脚、その後ろに3脚並べられて置かれており、後列の末席には既に人が座っていた。
その人物が振り向き、次官一同の顔を見て紙のように白くなった顔に驚愕の表情を浮かべている。
「デヴォン少将……貴官も……」
そう呟いた次官の声を掻き消すかのように
「3人一緒に来たか。宜しい。そこに座れ」
と、この部屋の主……軍務卿ヨハン・シエルグ侯爵が、彼特有の低いがよく通る声で3人の高級幹部に命じた。
「閣下。お早うございます。昨日承りましたご命令に従い出頭致しました。このような形でお呼び立て頂くとは異例の事と存じます。何ぞ異変でもございましたでしょうか」
用意された……前列に1脚だけ置かれた椅子に腰を下ろしたエルダイス次官は努めて表情を押し殺し、何事も存じぬ素振りで本日の出頭命令の真意を伺った。
巨大な執務机の向こう側に座るこの部屋の主は、豪華な椅子に深く腰を下ろしたまま目を閉じて瞑目し……やがて何かを決心したかのように大きく目を見開いて
「いいだろう。それでは率直に申し渡す。貴官ら4名……今上陛下より勿体無くも親補せられし事ではあるが、本日を以ってその職を解き、軍籍をも剥奪とする。係る件については本日この後、我自ら宮中に参内した上で最高司令官たる今上陛下へと上奏致すものとする」
このように言い渡した。
「なっ……!?」
「何故……!」
これを聞いた4人は様々な反応を示したが、声に出して驚いたのは後席の2人……人事局長と副局長だけであり、教育部長は既に前以って「何やら予感がしていた」のか、俯いたまま無言で震えるだけであり、前列に唯一人座っている次官は無表情のままで聞いていた。
デヴォン教育部長は、上司である3名には「守秘義務」もあって打ち明けては居なかったが、この3日前に階下の軍事法廷室において開廷された「情報課長の服務規定違反」を裁く軍法会議において検察側の証人として召喚、出廷した際……傍聴席に唯一人座っていた軍務卿と顔を会わせている。
そしてその裁判において、自身を証人として出廷させた検察官……法務官であるアラム大佐の常軌を逸したような証人尋問と、その際の法廷全体の雰囲気によって自らが何やら「宜しくない状況」に置かれている事を察し、更にその際に検察官からの誘導に引っ張られたかのように何やら「口にしては拙そうな事」を言ってしまったという自覚もある。
あの法廷から解放されて2日……殆ど仕事が手に着かないままに過ごして居たが、昨日改めて「軍務卿執務室へ出頭せよ」という伝令が届き、ここ数日同様に夜も満足に眠れなかったのである。
そして指定された時間よりも敢えて早めに軍務卿の執務室へ出頭してみると……執務机と向かい合わせるかのように椅子が4脚置かれており、彼はその末席に座って一人軍務卿と相対していたのだが、その後入室してきた上司3名の姿を見て……「これは容易ならざる事態だ」という事を確信したのである。
「閣下。理由をお聞かせ願えますでしょうか。閣下もご承知かとは存じますが、我ら4名……仰られた通り、今上陛下より御親補頂いた職責を持つ者達でございます。そんな我らを4人も同時に職を解いた上、更に軍籍から除くと……これは自分の事ながらこれまでの前例には該当せぬ事態かと心得ます。いくら閣下の仰せとは言え……小官と致しましては素直に承服出来る事ではございません」
平素より「冷徹なる切れ者」と名高い軍務次官の口調には些かの乱れも無い。軍務卿はこの様子を見て
(なるほど。さすがは「軍務官僚きっての遣り手」などと言われているだけの事はあるな……。まるで動じている様子が無い)
と、逆に感心してしまったが……改めて気を入れ直すと努めて平静な態度で口を開いた。
「では次官。貴官は教育部の出身であるな?」
「はい……。小官は『生え抜き』と呼ばれるような者では無く、教育部長への転入からとなりますが……確かに教育部における責任者としての役職を得ておりました」
「他の……まぁ、そこの現職である教育部長は別として、後列の2人も同様に教育部における責任者としての経歴を有しておるな?」
「は……はい」
問われたオランド人事局長がその問いに対して肯定する。その隣の副局長に至ってはまだ言葉を返す余裕を取り戻していない様子だ。
「先日……いや、もうこれは昨年の話だったな。今から3カ月近く前の話だ。そこの……教育部長に対して現士官学校長殿が意見の具申に来省された件は存じているか?」
「はい……。私もその件についてはつい最近ですが、教育部長本人より報告を受けました」
「ならば話は早い。その学校長殿が意見の具申をされた際に、現在の士官学校にて実施されている『戦技授業』に対して、疑義を申し述べられた事についてはどうだ。聞いたか?」
「はい。学校長殿は何やらそのような事を仰られたと……伺っております」
「ふむ。つまりはそれだ。その疑義の内容について、貴官ら『教育部出身者』の責任を問わせて貰う……と言うのが貴官が問うている事への回答だ」
「恐れ入りますが、当方よりお尋ね致します。その学校長殿が申し出られたと言う……士官学校における『戦技教育』についての何が我らの責任問題となっているのでしょうか?私は先日、この教育部長より事情を聞き取ろうと致しましたが、要を得られておりません。一体……何が閣下のご不満に触れたのでしょうか」
「聞いておらんと?」
「はい。お恥ずかしながら小官は閣下が仰られている『戦技教育の問題』とやらが、我ら教育部出身者の処分に発展していると言う……その正当な理由であると、どうしても納得出来ないのです。こう申しては何ですが……『たかが』士官学校の授業の事で……」
「聞いていないと申すかぁっ!」
突然、次官の言葉を遮るように軍務卿が声を荒げた。これまで努めて表情を変えないようにしていたようだが、次官の表情……見方によれば余裕さえ見受けられるような「お前なぞ簡単に言い包められるぞ」と言わんばかりのしたり顔を見て、感情が爆発したようだ。
「あれからもう三月が経つと申しただろうっ!そこの教育部長は『精査の上で回答する』とその場で約したそうではないかっ!にも関わらず未だ学校長殿には返答すらしておらん!『精査する』と言うのであれば、今回の件に対して貴様らの職責としての責任が発生し得る事が理解出来るではないかっ!それとも何か!?貴様は……『精査』すらしておらんのかあっ!?」
途中から巨躯の軍務卿が椅子から立ち上って、凄まじい形相で教育部長に指を突き付けながら怒鳴り散らす。その怒りを向けられた教育部長は椅子から飛び上がった。
「どうだっ!何とか申してみよっ!貴様は……『精査』の内容を次官に報告しておらんのかっ!」
「そっ……それは……その……。がっ、学校長殿のお話によりますと……」
教育部長は椅子から立ち上ったまま、ブルブルと震えてしまい……しどろもどろの口調になっている。
「言えぬのか?ならば私が代わりに言ってやろう。学校長殿……エイチ前第四艦隊司令官殿は、職務上の部下である主任教官のマーズ少佐から『現在の士官学校で実施されている戦技教育の無意味さ』を説かれた。そしてそれを改革すべく本省の教育部……つまり貴様だっ!貴様に対してエイチ提督は意見具申に見えられた」
「人事局長っ!貴様は知っておるわな。そのマーズ少佐……いやヴァルフェリウス公爵家次男であらせられるタレン・マーズ殿は『北部軍の鬼公子』と呼ばれる驍将ながら、そのご活躍が今上陛下の御耳に達した事で、陛下がいたく御心配あそばされ……勅令によって最前線である北部方面軍から、最初は……昨年の士官学校入学考査の面接試験官として転籍を行い……その後は貴様の手配で、そのまま士官学校の主任教官へと赴任させたのだったな?」
やや昂奮が収まった軍務卿が突然、自分の方に向き直って尋ねて来たので、教育部長の隣に座っていたオランド人事局長は「はっ!ははっ!」と慌てて立ち上がり直立不動となった。
「お、仰る通りでございますっ!閣下からの内々によるご命令を受け……小官自らが手配致しました。陛下からの『御声掛かり』によってタレン・ヴァルフェリウス大尉を王都へ……当初はご父君であらせられるヴァルフェリウス公爵閣下の麾下である王都方面軍への赴任を考えておりましたが、時期が時期故に難しく……丁度空いていた士官学校の面接試験官へと転任させました……」
「なっ!?」
「えっ!?」
後列中央の席で直立している人事局長の方へ、その前に座っていた次官と右側で同じく立ち上がったままの教育部長が一斉に振り向いた。両者からしてみれば「タレン・マーズが勅令によって北部方面軍から王都勤務へと配転された」という事実は初耳であった。これは軍務卿が人事局長に命じた際に
「この事、決して他言無用である。『公爵閣下のご次男だから後方勤務に転入となった』と言われてしまうと、ご本人はもちろん……ご父君である公爵閣下の威名にも傷が付きかねんからな……なので異動手続きは全て貴官自身で行い、他人任せにするな」
と、釘を刺したからである。この事実を軍務卿の口から初めて聞いた次官と教育部長の両名は驚いたが、特に教育部長が受けた衝撃は大きく……先日の観覧式における「北部軍の鬼公子の本気」を、よりによって国王陛下の真横で見せ付けられた際に感じた「疑問」が一気に氷解すると共に
(そ、そう言う事情があったのか……へっ、陛下からの勅令で……ならば、あれだけの武勇を誇る驍将が最前線から引き抜かれたとしても……)
「勅令」という単語が頭の中で弾け飛んだような感覚に襲われて、その場で呆然となり……フラフラと腰が砕けて椅子に座り込んでしまった。
彼は観覧式の際に見て……そして聞いた「北部軍の鬼公子」の苦悩……国王陛下に対して……いや、陛下の体を突き抜けて彼自身に注がれたように錯覚したあの「強い目線」を思い出して身震いした。
「マーズ殿は……士官学校で受けた『戦技授業』がまるで役に立たないものであった為に、新任士官として北部方面軍に配属後……初陣で命を落とし掛けた……。実戦では全く役に立たない……士官学校の授業によって……」
軍務卿の声が急に小さくなった。彼自身もその昔……槍技教官として士官学校で多くの若者を教え、そしてその中から当然北部方面軍や西部方面軍に巣立って行った卒業生も居たはずである。
それらの若者が……初めて体験する実戦の場に立たされた時……士官学校で習い覚えさせられた戦技が「クソの役にも立たない」事に気付き、それに驚きながら生命を散らして行った……。その事が脳裏に浮かび、その悲しい事実が軍務卿閣下を苛んでいるのである。丁度タレン・マーズが初陣で同様に敵に囲まれて討ち取られる危機を、部下の「生命2つ」で免れ得た事が、今でも夢に出て来るかのように……。
「マーズ殿は……マーズ殿はその自らの経験によって『士官学校の戦技授業は実際の戦場では役に立たない』と断じ……上官である教頭に訴えたが……この愚かな教頭には理解されず……。止むを得ず学校長へと直訴するかのように意見具申を行ったのだ……」
「エイチ学校長殿は自ら第四艦隊を率いて数々の魔物や『海の無法者』との戦いに勝利して来た歴戦の名提督だ。彼は愚かな教頭とは違い……実戦をその身で知る者としてマーズ少佐の意見具申を受け入れ、自ら軍務省に赴いて貴様に対して『戦技教育の誤り』を訴えたのだ。それを貴様は……」
昨年末に面談を拒絶されてからと言うもの……「あの3人から『教育族に加担している無能』と……軽蔑の眼差しを向けられているのではないか」と言う疑念が脳裏から離れず……またしても軍務卿閣下の全身に「怒りの炎」が上がり始めた。随分と白髪の混じるようになっている彼の頭髪が、それこそ「天を衝かんばかりに」逆立っているようにも見え、怒りで歯を食いしばるかのような凄まじい形相で教育部長を睨み据えた。
先日、自身が証人として出廷した際に見た時よりも……更に凄まじい負の感情が込められた軍務卿閣下の目が向けられた教育部長は「あっ……あわわわっ……」と、言葉にならない程の恐怖を感じその場で失禁しそうなくらいに震えている。腰が完全に抜けてしまっていて、肥った身体を立ち上がらせる事すら儘ならないのだ。
「士官学校での授業によって……若い士官が……死に掛けている……」
「『死に掛けている』のでは無いっ!『死んでいる』んだぁっ!」
またしても次官の言葉は軍務卿の怒声によって掻き消されて訂正を受けた。流石に次官も冷静さを保てなくなっている。
「死んでいる……士官学校教育によって……ですか?それは本当に……士官学校の教育……。その……戦技授業が原因なのですか?」
「そうだっ!その戦技授業が……と言うよりも戦技授業で習うような……町の道場で行われているような『一対一』での形式による『武術』が原因で……そんな実戦では役に立たないもののせいで……若い者達が……」
「ではその……『誤った戦技授業』によって若い新任士官が戦場で死んでいる……その責任は教育部に帰すると……閣下はお考えなのですか?」
「そうだっ!漸く理解したかっ!このような『不幸な出来事』が……もう何百年も続いておるのだっ!その間、貴様ら歴代の教育官僚は何一つそれを是正する努力もせず……若者の命を磨り潰して……」
軍務卿閣下による再び声を荒げながらの説明……事実は彼らにとってはもちろん初耳である。しかし……今も末席で震えている教育部長だけは……それを士官学校長からも指摘されていたし、先日の観覧式の際にはその体験者であるマーズ主任教官からも聞いていた。しかも後者の時は目の前で今上陛下……最高司令官も一緒に聞いていたのだ。
「本来であれば既に退官している歴代の……死に損ないの教育官僚共にも責任を取らせたいが……既に軍属から離れている奴らに責任を問う法律がこの国には無いのだ。なので貴様ら『現役の者達』には処分を下さなければ……この軍務省は……我が省は上から下まで貴様ら教育部『以外の者達』にまで処分が広がってしまう……!」
次官だけでなく、この軍務卿の話を聞いていた局長や副局長は「現役で残っている者達だけでも処分を下す」という彼の言い分を拝聴していたが、等しく心中で理不尽さを感じた事だろう。言うなれば、過去数百年に渡る「引退した先輩方」の責任さえも彼らに背負わされる……と言う風に聞こえなくも無いからだ。
「その……『上から下まで』と言う閣下の仰り様が理解に苦しみます。『我が省の上から下まで』と言うのは、つまり……閣下も含めての事なのでしょうか?」
「貴様の言う通りだ。もう一度言ってやろう。貴様ら『教育族』を我らの手で処分出来ずば……私も含めて軍務省全体が処分されてしまうのだ。解るか?もっと分かりやすく言うならば……」
「貴様らは、最早どう転んでも処分を免れないのだっ!」
「何ですと!?」
ここで初めて……次官の声が高くなった。ここまで言われて、余裕を気取って構えている場合では無くなったのだろうか。
「貴様らに残された選択肢は……いや、貴様らに選択肢は無い。敢えて言うならば『軍を逐われるだけで済むか』、若しくは『それ以上の……処分を受けるか』という事だな。そして選択肢があるのはこちらだ。『私の手によって処分される』か若しくは……『今上陛下によって処分される』かのどちらかだと思えっ!」
まだ続いている軍務卿閣下の激した感情で吐き出される言葉に、次官は困惑した。彼にしてみれば相変わらず
(なぜそんな「言い掛かり」に近い理由で我らが処分されなければ……しかも数百年に渡る先輩の罪までを背負わされて軍を逐われなければならないのか……)
という感情にどうしても至ってしまうからだ。これはもちろん、彼の後ろで黙って聞いている2人の高級官僚達にとっても同様であった。末席の教育部長だけが……彼だけは自らは『現役の教育行政責任者』という自覚があるのか
(いかん……もう駄目だ……。この話は国王陛下も御存じであらせられる……)
と、半ば諦めに近い考えに至っていた。「軍を逐われる」のであればまだマシなのか……それとも「更に恐ろしい処分」が待っているのか……。彼はつい何日か前に国王陛下と共に「新任士官の苦難」について、その「体験者」から厳しい視線を浴びながら聞かされているのだ。
……自分の見識が甘かった。教育行政に対して専権を握っているという驕り……。そのくせ、その専権に伴う責任……。自分はまた、3日前の軍事法廷で証人として
「過去の教育行政上に起きた問題についての責任は当時の教育部関係者に帰する」
という内容の証言を、よりによってこの目の前に居る軍務卿閣下の前で行ってしまっている。ここに来て初めて……モンテ・デヴォン教育部長は「あの裁判における異様な流れ」の意味を悟って驚愕した。
(こ、この時の為に……あのような追及を……あの法務官……)
教育部長の目からみるみる生気が失われて行くように見え、顔色も益々悪くなっている。最早どうやっても言い逃れが出来ない事に、今日この場に呼び出された4人の中で真っ先に彼が気付いたのである。
「か、閣下……も、申し訳……申し訳ございませんでした……。小官は……処分を受け入れます……」
観念した教育部長は、すっかりと憔悴した表情で軍務卿閣下に「降参」を申し入れた。他の3人は驚いてそんな彼に視線を移した。
「デヴォン!何を言っておる!」
隣に座っていた人事部長がそんな彼に対して少々激した口調で声を掛ける。しかしそんな彼が見た部下の姿は……生気を失った人形のようであった。
「フン……。教育部長は貴様らよりも物分かりがいいようだな。私が今申した事……『どう足掻いても貴様らが処分を免れる事は出来ない』という言葉の意味を正確に理解出来たようだな」
「ど、どう足掻いても……ですと?」
「貴様らは今、私の言い分に対して『理不尽』だと思っているな?それこそが、貴様らの犯した怠慢である証拠なのだっ!ならば仕方が無い……本来ならば『これ』を貴様らに見せるつもりは無かったのだがな……」
軍務卿は立ったまま、目の前の執務机の抽斗を開け……中から何枚かの、クリップで綴じられた書類を取り出し……目の前の次官に向かって放り投げた。
「その内容を読んでみろ……。貴様ら教育官僚共の……数百年に渡る怠慢の証拠だ……。それが『軍務省全体を危地に陥れている』重大な……貴様らの怠慢による結果だっ!」
放り投げられた書類の束は、そのまま放物線を描く事も無く真っ直ぐに正面に座る次官の胸元へと飛んで行き……不意を突かれた次官であったが、何とかそれを抱き抱えるかのように受け取った。
「これは……?」
「予め言っておく。その書類に記された数字の数々は全て精密なものだ。貴様が『手足のように使っていた』と思い込んでいたであろう……情報部長がわざわざ地下の資料庫に自分自身で赴いて、残されている公的資料を参照して裏付けを取っている。それを理解した上で読むがいい」
そこまで言って、軍務卿は自席に腰を下ろした。目の前の相手が「その数字」を見て、「その意味」を理解するまで時間を与えるつもりだ。
「『新任官少尉が赴任初年度に戦死する統計』……と、『新任官少尉が赴任初年度で戦力外となる統計』……?」
本来であれば1枚の紙片に書かれていた「原稿」を基に、それを精査したマグダル・ヘダレス情報部長によって、数字全体を裏付ける「更なる数字」や注釈が大幅に加筆された為に、内容が数枚に渡るものになってしまった書類の最初から目を通しながら
「こっ、これを……情報部長が……?」
次官は驚いている。彼の認識では情報局長を通して情報部の者達は自身の意向に沿って目の前の軍務卿と「その腰巾着共」を監視していたはずだ。それが自分の知らないところで、このような書類を作成して「敵側」に提出していたとは……。
「情報部長だけでは無い。情報部全体がこちら側に立って動いていたのだ。情報部長は今回の件に対して、『その理由』を知った事で、貴様や上官である情報局長を見限ってこちら側に付いたのだ」
「な……!?」
「分かるか?『その理由』を知れば、情報部長ですら上官を切り捨てざるを得ない程に……今回の件は軍務省全体にとって重大事なのだ。とにかく読め。その上で反論があれば……聞こうではないか。貴様に『その数字』が理解出来る脳味噌があるならばな」
先程までの険しい表情から一変して軍務卿は皮肉っぽい笑みを浮かべた。まるで「切れ者」を自認している目の前の男を嘲笑うかのような表情だ。
挑発を受けた側は、そのような相手の態度を無視するかのように書類に目を通し始めた。後席の2人……まだ情報部長のように「諦める」事の出来ない者達は、後ろからそれを覗き込むような無作法をする事無く、それでいて落ち着かない様子で椅子に座り続けている。
書面を上から読み進めていた次官の顔が見る見るうちに険しくなり……その顔から血の気が引いて行くように顔色を悪くして行く。やがて5枚目の「精査考察」というヘダレス情報部長が執筆した、「本件の総括説明」の文を目にしながら、その紙面を持つ手がブルブルと震えて来た。
書類を静かに膝の上に置きながら……次官は全身を震わせている。このような次官の様子を、軍務卿は見た事無く……それどころか、彼との付き合いの長いはずである後席の3人も初めて見るような光景だった。
彼らの知っているポール・エルダイスとは、滅多な事では感情を面に出さない「冷淡」を絵に描いたような人物であり、普段は何をどう感じているのか判らないような表情や素振りだったのだが……今のエルダイス次官は後席からその表情は窺い知れないながらも……その背中には明らかな動揺を見せており、その内容を見ていない他の3人に更なる不安を与えた。
(次官閣下があれ程の狼狽を見せるとは……一体あの文書には何が書かれているのか……)
次官は心を落ち着かせようとするかのように目を閉じ……数秒の後に静かに瞼を開いた。
「こ、この……この数字は実のものなのでしょうか……何かの……何かの間違いでは無く……」
しかしその吐き出された言葉からは震えが伴っており……心中の波を鎮める事は出来なかったようだ。
「貴様は私の話を聞いておらなかったのか?その数字は全て「あるところ」から提出され、それを貴様も知っているであろう、情報部長が公的文書によって精査検証したものだ。間違えなどあるはずがなかろうよ」
「さ、左様でございますか……」
「さて。その『数字』を見て貴官はどう思った?それでもまだ『教育行政』に無謬を主張するのか?」
先程までは感情が込められた「険しい」表情をしていた軍務卿の表情が今では「厳しい」ものに変わっている。最早激した感情に任せて彼らを怒鳴りつける段階では無くなり、彼らの犯して来た罪……「怠慢」を弾劾するような口調となっている。
「これを……この資料を……閣下は公開されるおつもりですか……?」
「私はこの『数字』を初めて目にした時は……これは決して余人の目に触れさせてはならないと思った。特に陛下……今上陛下には断じてお知らせするわけにはいかないと……」
軍務卿はここでやや俯き加減になり
「貴官らも周知の通り……陛下は軍の大権をお持ちではあるが、士官学校で学ばれたわけでは無い。その御心底は私如きには到底計り知れないが……国軍という組織に対して、先王陛下程の御理解をお持ちで無いように思えた。そのような御気性を御持ちになられる陛下に、このような『恐ろしい数字』を御覧頂くわけには……」
「しかし、現在この軍務省が直面している状況は……そのような私の『憂慮』など関係無く危機的なのだ」
「危機的……?本省が危機的状況とは……どういう事なのでしょうか?」
「先程も申したな。この『数字』の出所だ。これが纏められた書面が我らに突き付けられたのが昨年の11月下旬、確か……25日だったか……」
軍務卿は「あの日」の事を思い出した……。思い出したくも無かった「悪夢の始まりの日」だ。彼はあの日……何事も無く、その前日までと同じように退勤の準備に取り掛かろうとしていた時に……今も前室に控えているウエイン中佐が珍しく慌てた様子で『来訪者』の取次ぎで入った来たのだ……。
そして突然聞かされた軍務省の危機……。それまで就任してから6年間、軍部の中で目立った事件も起きず……勿体なくも陛下から直々に職位の留任を賜り、次の5年間も恙無く過ごせるよう……「鼻につく官僚共」とは可能な限り距離を置きながら……。そう思っていた矢先に事案は発生した。
第四師団長の子息令嬢が起こしたという士官学校内の「事件」が、多少驚かされる事態に発展はしたが……それを全て担当官僚に丸投げして「過ぎた事」として忘れ掛けていた頃に……「あの出来事」が起きたのだった。
「その数字だがな。貴官ら『教育族』を次の除目……つまり半月後だ。それまでに貴官ら全員に対して処分を実施しなければ……その数字は国王陛下に侍従長殿を経由して奏上されてしまうのだ」
軍務卿からの言葉を受けた次官は動揺しながらも、その意味するところを理解し……
「なっ……!こ、この数字を……陛下に……」
最早この数字を見て、その意味するところを理解した上で平常心を保てる者はどこに居るだろうか。この数字を初めて持ち出した若者……あの士官学校の首席生徒唯一人を除いて……。
「そうだ。これで分かったか?私が貴官らをこの軍務省から放逐しなくても、来月の除目が過ぎれば『この数字』が今上陛下に奏上される事態となり……この数字の意味を御叡察された陛下から軍務省全体が御勅勘を蒙る事になるだろう。私を含め……『上から下まで』処分を受けるのか……貴官ら教育官僚だけが処分されるのか、いずれにしろ、貴官らは再三申す通り『どう転んでも』処分は免れないのだ」
「そっ……」
「私には軍務省を陛下より委任されている責任がある故……貴官らと共に処分を受ける事は吝かではない。しかし同時に処分に値する貴官ら以外の官僚職員に対しても責任があるのだ。戦技教育の変容……そして弊害を起こすようになったのは教育部の怠慢に端を発している。これに無関係の者達へ、陛下の御勅勘を受けさせるわけにはいかんのだ。だから今日……この場で貴官らに処分を与える。これが私の決断だ」
軍務卿の言葉を聞いた次官は無言で俯く。後列に座っている者達は次官の様子を見て、更に今の話を聞き
「どうやら軍務卿の『言い分』には正当な理由が存在し、しかもそれには今上陛下の叡慮も絡んでいる」
というような内容で何となく「自分達が処分を受けるのは最早逃れられないのではないか」と半分諦観の構えを見せているが、それでも……あのエルダイス次官すら「抜け殻」のようにさせた「数字」が一体どういう意味を持っているのか……それを知らぬままに処分を受けるのは、やはり納得が行かず……
「次官閣下……そ、その……宜しければ小官にもお見せ頂けませんでしょうか?」
人事局長から声を掛けられた次官は、書類を持った右腕をダラリと下げて……
「好きにしなさい……」
次官は生気を失ったかのような声で応じ、彼の真後ろに座っていた人事局長は「失礼します」と声を掛けてから、次官の右手が掴んでいた書類を受け取った。
既に「降参」の意志を示している教育部長はその様子を見ても全く反応を示さず、代わりに反対側に座っていたアミン副局長が「宜しいでしょうか……?」と言いながら遠慮がちに身を寄せて来た。
2人は暫くその書類を上から順に目を通し……最初は「何の事なのか?」とでも言いたげに首を傾げたりしていたが、やがて末文に記載されていた情報部長の考察文を読んだ人事局長が「えっ!?」と声を上げて慌てて再び最初の紙面から読み直す。
「まっ……まさか……こっ、こんな事が……」
と、震え始めた。それを横から覗き込んでいた副局長の方が……上司のようにそれを見返す必要無く書面の内容を理解したようで、既に呆然とした顔で自席に座り込んだ。
「どうだ。貴官らも納得したか?それが……貴官ら『教育官僚の罪』だ。数百年前……その末文の説明では400年余り前から続いていた『悲劇』だ。教育官僚共が『専権』などとほざいておきながら、無責任に放置していた『変質させた戦技教育』の結果だ。私は……その事に気付かず……『誤った戦技』を若者達に押し付けて……ぐぅぅ」
突然……軍務卿が両の拳で自らの執務机を叩きながら肩を落とし、頭を垂れ、小刻みに震え始めた。嘗て自らそれを「栄転の記憶」として誇っていた「士官学校戦技教官」としての経歴が
「多くの若者に誤った技術を身に付けさせてしまった結果、徒に戦場で散らせてしまった」
という「黒い経歴」に塗り替えられてしまった事を思い出したのだ。
「閣下……」
4人の中で、この目の前で悔悟の嘆きに浸る軍務卿が、嘗ては「士官学校で槍技戦技を教えていた」という経歴を持っている事を「当時の生徒」として知っている教育部長だけが、その「嘆く理由」をなんとなくだが……理解したようだ。
「もっ、申し訳ございませんっ!か、閣下の仰る通りでございますっ!」
突然、腰を抜かして立ち上がれ無くなっていたくらいに憔悴していた教育部長が滑り落ちるかのように手と頭を床に擦り付けて蹲った。所謂「土下座」である。
「しょ、小官はもっと……もっと自らの職責に対して真摯に取り組むべきでした……。教育行政の責任者として……『専権』という言葉の上に胡坐をかいておりました……」
3月になれば55歳となるデヴォン教育部長は、床に頭を伏せたままに嗚咽を漏らしている。彼は他の3人とは違い、「あの数字」を見ていない。しかし……自らも戦技教官としての経歴を持つ軍務卿が、その「輝かしい」はずである自らの経歴を呪うかのように「現代の戦技教育」を批判し、そして自らもそれに「加担」してしまった事を悔み、恥じるように……泣いているのだ。
「小官はあの日……もっと真摯に学校長殿のご意見に対して耳を傾けるべきだったのです……。いや、せめてそのご意見に対する『実情』を確かめる……あの時に誠意無き回答をしてしまった『精査』を……して……いれば……『その事実』に気付けたかもしれないのに……申し訳ございません……」
「もうよい……時は戻らないのだ。貴官らの責任は今更打ち消せるものではないし、このまま座していてもいずれ今上陛下に『この数字』を奏上されてしまうのだ。なので私は本日この場において諸君らの職を解き、軍籍を剥奪する。いいか……?陛下からの御勅勘を賜れば……これだけでは済まないかもしれないのだ。これは『我が温情』だと思え」
目の縁を赤くしながら軍務卿は立ち上がり……
「私から申し渡す事は以上である。私はこの後……本日午後には王宮に参内の上で陛下に……親補職である諸君ら4名の罷免を上奏する。既に公示の手配も済んでおる。諸君らの処分については本日中に省内に通知される事となっておる。1旬の猶予を与える故、速やかに身辺の整理を行うように。諸君らの代行者は今申した公示の際に併せて通知する。以上だ……退出せよ」
右手を払うような仕草で4人に執務室からの退出を言い渡した軍務卿は、立ったままの姿勢で4人を見下ろしていた。4人の中で、床に両手をついて蹲ったままであった教育部長……いや、たった今……職位も階級も、軍籍すらも失ったモンテ・デヴォン男爵の、その太った身体がノロノロとした動作で立ち上がり
「辞令……謹んでお受け致します。軍務卿閣下の『お心遣い』に感謝致します」
立ち上がりはしたが目を伏せたまま、消え入りそうな声で挨拶をしてから……彼にとっては恐らく「最後の挙手礼」を実施して回れ右をしてから、部屋の出口へと歩いて行った。上司であった3人の「元高級官僚」達には何も挨拶をする事無く去ったのである。
他の3人はなまじ「あの数字」を見せ付けられ、そして「その意味」を知ってしまった為に……未だ衝撃から立ち直れていないようでいて、更には「昔の職位」の責任を問われてこれ程の重い処分を受ける事にまだ心の整理が出来ていないのか、椅子から立ち上がれずにいた。
執務室の主と、処分を受けた3人が残っている室内は静寂に包まれた。軍務卿は相変わらず3人を見下ろすかのように立ち上がったままの姿勢で厳しい視線を浴びせている。
やがて……何分経ったのだろうか。それとも実際はそれ程時は進んでいなかったのか。
「なるほど……これは……どうやら小官の『負け』でございますな……ふふっ……」
たった今、その職責を解かれた「元」軍務次官、ポール・エルダイスは青褪めた顔だが口元に小さく笑みを……彼特有の「右側の口角を下げる」表情となり、小さく呟いた。
「貴方がこれほど『決着』を急いでおられたとは……これは大きな誤算でした。もう少し情報が集まっていれば……もう少し早めに『対応策』が採れたのですがね……」
軍務卿は無言で見下ろしている。彼は本日、漸く4人に処分を言い渡せたのだが、実際これはかなり「際どいタイミング」であったようだ。
エルダイスは今回の件について、「2つの手」を打っていた……いや、打とうとしていた。そして、漸くその「1つ目」を一昨日の夜に「布石だけ」だが打つ事が出来たのだ。
「この戦い」が年単位での話になるだろうと踏んでいたエルダイスは、自らが省外に持つ様々なコネクションを駆使して元内務卿であるロビン・アルフォード侯爵との接触に成功したのは一昨日の事であった。彼は現在でも内務省のみに留まらず……政府の内閣である「諸卿会議」に影響力を残している元内務卿に対して軍務卿への圧力を掛けてもらう算段をしていた。
アルフォード卿やノルト卿のような自家で押さえている省庁に対して絶大な影響力を持っている門閥貴族は、ヨハン・シエルグ卿のような「平民出身」である諸卿とは対立している部分が多く、普段から「目の敵」にしている嫌いがある。彼ら大貴族側からとしては
「本来であれば諸卿は貴族階級……それも伯爵以上の家が務めるものだ」
という意識が強い。つまり平民が諸卿に任じられる事は本来「祖法絶対主義」を継承している王国の規範からは、かけ離れている状況であり……王国の歴史からすれば異常事態なのである。
2000年近く前に、時の国王……コベルタ王が定めた「参議制」においては、「諸卿は爵界より任ずるもの」と定められており、《建国法》と呼ばれている「王国憲法」の20条にもそのように明記されているのである。
それが何時の間にか……2000年が経過した現代では、8人の諸卿のうち……過半数を超える5人が平民出身であると言う状況は、門閥貴族達にとっては「自らの縄張りを荒らされている」と思うのは当然であろう。
結局、それら5人の平民出身諸卿が管轄する省庁は「実力重視」の人事体系が執られた事で、「身分よりも能力優先」という思想が根付いたまま……長い時が流れてしまったのである。
エルダイスは、その門閥の代表格と言えるアルフォード侯爵を頼り、最終的にはシエルグ卿の失脚を省外から企図したのだが、軍務卿の方で設定していた「タイムリミット」は彼の想定を大きく超えていた……という事になる。
「2つ目の手」としては、法務局法務部次長のジェック・アラム大佐と接触し、彼に直接圧力を掛けるつもりだったようだ。いきなり「次官の名前」で彼を執務室に呼びつけても相手は警戒するだろうから、もう少し「自然な形」で接触出来るように情報局長へ手配をしていたのだが……結局はそれも間に合わなかったようだ。
(そうか……来月の……「冬の除目」までの決着を想定していたのか……この男は……。図体と声ばかりが大きい粗暴な男だと思っていたが……まさかこの私がしてやられるとはな……。時期を見誤ったわ……)
彼は漸く……ゆっくりと椅子から立ち上がり、畏れる気配も見せずに軍務卿の視線を跳ね返すかの如く目を細めながら
「ご処分……謹んでお受け致します。我らの過去の職責における『怠慢』が原因だと仰るのであれば……まぁ、その行動を現行の法律では裁けないでしょうが、我らの『怠慢』によって今上陛下からの御叱責を賜るのは私の本意ではございません。貴方は『話が分かる方』だと思ったのですがね……こちらが少々油断してしまったようです。では失礼」
「軍籍から離れた」自分にとって、最早目の前の「巨人」に対して敬意を払う必要は無い……とでも言うかのように、エルダイスは敬礼もせず振り向いた。そして彼の後ろでまだ座っている2人の「元」部下に対して
「さて。君達もいい加減に諦め給え。シエルグ卿も仰っていただろう?この御方による処分を受け入れなければ『陛下からの御勅勘』を蒙るのだぞ。我らの「老い先」もそれ程長くは無いだろうが……陛下からの御叱責を賜って残りの人生を過ごすよりは……平穏な老後を送りたいではないか。はははっ!」
最後は乾いた笑い声を立てて出口に向かって歩を進めて行った。その背中には先程まで見せていた「狼狽ぶり」は微塵も残っていなかった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ヨハン・シエルグ
65歳。第377代軍務卿(軍務卿就任に伴って侯爵叙任)。元陸軍大将。元王都防衛軍司令官。
軍務省の頂点に居る人物であるが、軍務省を動かしている軍官僚達を嫌悪している。
タレン一派の提唱する「白兵戦技授業改革」を耳にし、主人公の持つ技量を目にした事で「歪められてきた白兵戦技」の責任を教育族に取らす決意を固める。
若い頃に士官学校の白兵戦技(歩兵槍技)教官の経験があり、その頃から生徒に恐れられていた。
ポール・エルダイス
62歳。軍務省次官。陸軍大将。勲爵士。
軍務官僚のトップ。強大な政治力を発揮して現職まで上り詰め、同時に子飼いの部下をも高位に引き上げて軍務省上層部に「教育族」と呼ばれる派閥を形成している。
イエイジ・オランド
59歳。軍務省人事局人事局長。勲爵士。
エルダイス次官が嘗て情報部次長から教育部長に転出昇進した際に順送りを見送られたとされる当時の教育部次長。後に「教育族」の一員として懐柔人事を受ける。
軍務卿からの密命によってタレンを北部方面軍から士官学校入学考査の面接試験官へと抜擢し、そのまま一回生主任教官へと転入させる人事を行った。
ゲイリー・アミン
57歳。軍務省人事局副局長。陸軍中将。勲爵士。
デヴォンの前任者。「教育族」の一員。
オトネル人事部長を差し置き、「教育族人事」によって現職に昇進する。
モンテ・デヴォン
54歳。軍務省人事局教育部部長。陸軍少将。男爵。
王立士官学校を管轄する部署の責任者である軍務官僚。「教育族」の一員。
エイチ学校長による「士官学校戦技授業改革」を不誠実な態度で握り潰してしまった。