領都の闇
今回から物語が加速するので一話中で《一人称》と《三人称》の複数の視点で描かれるケースが増えます。ご注意下さい。
【作中の表記につきまして】
物語の内容を把握しやすくお読み頂けますように以下の単位を現代日本社会で採用されているものに準拠させて頂きました。
・距離や長さの表現はメートル法
・重量はキログラム法
また、時間の長さも現実世界のものとしております。
・60秒=1分 60分=1時間 24時間=1日
但し、作中の舞台となる惑星の公転は1年=360日弱という設定にさせて頂いておりますので、作中世界の暦は以下のようになります。
・6日=1旬 5旬=1ヶ月 12カ月=1年
・4年に1回、閏年として12月31日を導入
・「曜日」という概念は存在しておりません。
以上となります。また追加の設定が入ったら適宜追加させて頂きますので宜しくおねがいします。
今は亡きアリシア・ランドの父ローレンが、アリシアの遺児であるルゥテウスを連れてジヨーム・ヴァルフェリウス公爵の前に引き出された挙句にその場で追い返されてから十日が経った。
「して……その子供と言うのは使い物にならなかったと言う事かえ?」
「左様にございます……。詳しい状況を公爵様の近辺より探り出すのに少々お時間を頂いてしまいました。
何分、公爵様は今回の御対面に対し、周囲を自らの信頼出来る者のみで固めて進められていらしたものですから……」
「二人が御屋敷に到着次第、そのまま時を置かず直接公爵様との御対面に臨まれた由にございまして。我が手の者を応接の場に送り込む隙も暇もございませんでした。申し訳ございません」
「なるほどのぅ。6年前の事があるゆえ、『我ら』の力が介入するのを避けたのであろう。全く……気の小さい男じゃ」
「結局、あの子供は使い物にならないと言うよりも『使え無い』と言った方が正しいかもしれません」
「ほぅ……それはどう言う事じゃ?」
「我が手の者が全てを直接確認出来たわけではございませんが……子供はどうやらを障害を持っているようで」
「何……?障害とな?して……どのような障害じゃ?」
「はい。一つは右目でございます。右目が明らかに機能していない様子で、瞼が閉じられたままであったとの事。これにつきましては遠方からでも確認出来た事で、どうやら本当の由にございます」
「ほぅ……右目がな?では容姿にも多少の影響があると言う事なのか?」
「はい。その事でございますが……」
「何じゃ?言うてみろ」
「彼の子供を遠方からではございますが、直接確認出来た者の中に6年前のあの女を見知っている者がおりました」
「ふむ……で?」
「容姿はあの女に生き写しだったそうでございます。金色の髪と白い肌。顔立ちも非常によく似ていたと……しかし遠方からの確認故に目の色や声などは確認出来なかったとの事です」
「なんと……!あの女に生き写しなのか……」
「はい。少なくとも顔立ちには公爵様の面影は見受けられず、あの女を以前に見覚えていた部分だけが目に入ったのだそうでございます。
我が手の者はそれなりに感情抜きで物事を判断致しますので、この情報は間違い無いかと」
「そうか……あの女に似てはいるが右目だけが閉じられていると……して、障害はその右目だけなのか?お前の言い様では今少し何かあるような感じがしたぞ?」
「はい……。その事なのでございますが。御屋敷内にて二人を応接で確認しようと我が手の者が御対面が行われた近辺まで可能な限り近付いた者がおりまして。
その者の報告では、御対面は余人を排して公爵様ご自身と彼の子供、その祖父の三人のみで行われたと」
「何……?あのクルスも立ち会えずにいたのか?彼奴は護衛官であろう?最近などは妾と、あの男と二人だけで対面する事がある時でも必ず彼奴が同席して扉を守っておるではないか。
妾は彼奴のせいであの男ともう十年以上も二人きりになった事が無いぞ」
「はい。先程の我が手の者の話ではクルス殿も御対面の部屋の外で待機させられていたとか。その事を確認出来たところで部屋の中から公爵様の少々大きなお怒りの声が聞こえ、直後に子供と祖父が退出してきたとの事。我が手の者が子供の容姿を遠巻きながらに確認出来たのは、この時だったそうにございます」
「対面の場で何事かあった……と。して、その『何事』は確認出来たのかえ?」
「はい。これに関しましては公爵様ご自身が後のお食事の席で家宰のアントス殿に愚痴をこぼされていたのを確認致しました故」
「して……何と?」
「はい。どうやら子供は御対面中は終始呆けた様子で公爵様の呼び掛けにも応ぜず、まるで感情も無くしているといった状態であったようにございます」
「ほぅ……心を病んでいると?」
「いえ……そこまでは申し上げられませんが、少なくとも知能の発達が遅れているのでは無いかと」
「ふふん……なるほどのぅ。それでは幾ら何でも王室に押し付けるのには無理があるのぅ……ふふふ」
「公爵様はこの様子をご覧になられて失望された上で声を荒げて追い返したと……以上が私からの報告にございます」
「ふむ……ご苦労であった。全く……あれだけ大言壮語した割に何とも粗末な結果じゃな」
「左様でございますね」
ここはヴァルフェリウス公爵領の領都オーデルの中心にある公爵家屋敷の《奥館》である。
奥館とは公爵家当主の一家が住まう区画で、一般的には当主と配偶者、未成年の子女が「家庭生活」を送る場所である。
「公爵家屋敷」とは全体が公爵の住居ではなく、その大半は公爵の爵位領主としての執務に関する政府庁舎のようなもので、政務に利用される《公館》と住居区画である奥館が渡り廊下で繋がれており、守衛によって廊下は厳重に分画されている。
屋敷がこのような形状になっている為、名目上は「公私の別」が設けられているように見えるが、公爵自身は既に十年以上も奥館には立ち入ってはいない。正妻との夫婦仲が冷え込んで以来、公爵は公館側に自身の住居区画を設けて、そこで生活を送っているのだ。
先程の会話は奥館の主とその腹心が公館側に放っていた手の者の報告を受けてのやり取りであった。
主の名はエルダ・ノルト=ヴァルフェリウス。側近の名はシニョル・トーン。シニョルはエルダが実家であるノルト伯爵家から27年前に嫁いで来た時から付いてきた者で、現在の表向きの地位は女ながらに正妻専属の「執事」である。
執事として女主人に対し陰に日向にと働き、エルダが婚前から抱えている「厄介な」秘密をも共有している間柄だ。
エルダはこの怜悧な側近を使い、これまで自らの秘密と地位を守り続けてきた。その過程で多少の《荒事》も必要で、その全ての采配をシニョルに任せてきた。
7年前、公爵はエルダを伴っての領内視察で南西地域を訪れた際、南西地域の中心である港町ダイレムに滞在したが、その折り非常に美しい娘を見初めて数日後には強引に召し出してしまった。
公爵は娘を愛妾として公館側に住まわせ、篤い寵愛を与えた。既に二十年以上も夜の夫婦生活が絶え、ここ十年以上に渡って奥館にも帰って来なくなった夫が自分を奥館へと隔離した上で若く美しい女を自分の住居へと囲い、耽溺している事に大きな怒りを覚えたが自身が婚前から抱えていた「秘密」の事もあり、強く抗議する事は控えた。
しかし、公然の愛妾への寵愛から10ヵ月が過ぎた後に娘……アリシア・ランドが懐妊したと言う話を聞いて最早秘密を気にして躊躇している場合では無いと悟った。
このままアリシアの出産を許し、自分が産んだ二人の息子以外の子女が成長した時……果たして夫は自分の息子にそのまま地位を譲るかどうかは不透明であった。
なぜなら……エルダが産んだ息子二人は夫の面影を全く引き継いでいなかった。更に言うと、「他人の面影」を色濃く引き継いでしまっていたのだ。
もうこうなると笑い事では済まされない。自分の息子二人と、アリシアが産むであろう子女を見比べられた時、夫はどう思うだろうか。そして夫以外の者が見比べたらどう思われるか。それを考えた時に、エルダはこれを「強弁」で乗り切れる自信が無かった。
自分と夫の仲はもう周囲に認められる程に冷め切っており、住居すら別にされて十年以上が経つ。
このような自分の境遇で息子二人に対する強弁を貫いたところで認められるとは到底思えないのである。
認められないだけならまだしも、下手を打つと秘密が暴かれて自分は勿論、二人の息子の身柄も危なくなる。恐らく自分は死罪。息子は追放……ならマシか。
実家のノルト伯爵家も危なくなる可能性すらある。それ程にエルダの抱える「秘密の闇」は深いのだ。
しかしエルダはシニョルの報告から、自分の幸運がまだ尽きていない事を悟った。
なんと、自分の無能な夫はアリシアがやがて産むであろう子女に対しては一切興味を示して無いと言う。
信じられない事だが、あの無能な男は自分の子供が生まれてくると言う事よりも、アリシア自身が大切であり、もっと言ってしまうと懐妊から出産までの期間にアリシアへの耽溺が中断してしまう事にむしろ不満を抱いていると言う報告を受けた。
この衝撃的な報告の内容に、それを報告した側のシニョルも女主人の前で失笑を抑える事が出来なかった。
つまり、公爵はアリシア自身は別としてその腹の中の子には無関心であり、もっと言ってしまえば中絶さえ考えていると言う。
エルダはこの救いようもなく愚かな夫の隙を突く事を考えた。……この際、腹の子と一緒にアリシアも葬ってしまおうと。
自分に対して屈辱を与えた半分の歳にも満たない小娘に対して無言の制裁を加える事で夫に対しても強いメッセージが送れる。
「既に初老に入る年齢で馬鹿な真似は繰り返すな」
と言う第三者から見れば「自分の事は棚に上げた」メッセージではあるが。
エルダはシニョルへ、一刻も早くアリシアを葬ってしまうように指示した。アリシアの中絶が行われてしまえば、またぞろあの馬鹿夫は彼女に耽溺してしまう。自分にとってまたしても耐え難い屈辱の日々が始まってしまうのである。
シニョルの「問題に対処する」能力は非凡であった。何しろ21年もの間、いや事の発端から考えると女主人の秘密を婚前の頃であった25年以上前から「守護」しているのである。
シニョル・トーンとはどう言う人物なのか。彼女の一族は祖父母の代に南東の大陸から逃げ出してきた《戦時難民》の家であった。
元々が違う人種である上に彼女自身容姿もあまり優れず、幼い頃から「自分は容姿ではなく、才覚で生きていかなければいけない」と自覚していたようである。
乞食同然の戦時難民の家。容姿も悪く、体を売る商売においても「売れ残る」始末。そんな境遇を彼女は呪い、一時は救世主教に修道女として入ってしまおうかと思っていた矢先、家僕斡旋でたまたま「ノルト伯爵家の掃除婦」という仕事にありつけた。
彼女はこの機を逃さず、自らの才能を信じて磨き、伯爵家内の家僕として同僚から抜きん出てのし上がった。
三年もすると伯爵家の三男三女の次女、上から二番目の年長者であるエルダの御付きとなった。シニョルはエルダに誠心誠意仕え、その信頼を徐々に勝ち取って行った。
自分の醜い容姿に同情してくれたエルダはそのうち彼女を社交界のサロンへの伴を任せる事になった。エルダからしてみれば
「醜い者を近くに置いて自分の容姿を引き立たせる」
と言う極めて勝手な考えからの行動であったが。
やがてエルダは社交界の常連であったゲイル子爵家の次男、アーロス・ゲイルと出会い、関係を深めていく。
アーロス自身は何の事は無い子爵家の「穀潰し」の次男坊で家を継ぐ事も侭ならず、サロンに足繁く通って「入り婿」相手を探していた際にエルダが引っかかったのである。
お互いが次男、次女である事から二人は安直な肉体関係を重ねた。シニョルはこの二人の逢瀬を助ける為に奔走し、その有能さを益々認められると共に女主人との「秘密の共有」すら獲得した。
やがてエルダにとって巨大な幸運が訪れた。前財務卿で財務閥の重鎮であった父ニーレン・ノルト伯爵の運動によって自身が世襲公爵家と言う国内最高位の貴族家の嫡男、ジヨーム・ヴァルフェリウスの婚約者に内定したのだ。
伯爵家の次女と言う中途半端な境遇から一気に国内最高位の次期公爵夫人へと引き上げられたのである。
本来ならば自身の幸運を神に感謝してもし切れない程で、実家の伯爵家の人々も諸手を挙げて祝賀ムードになった。しかし彼女はこの時点でゲイル家の放蕩息子、アーロスの体が忘れられないようになってしまっていたのである……。
二人の関係はジヨームとの婚姻後も続き、その結果として「ただの火遊び」が「巨大な秘密の闇」にまで発展してしまった。
エルダはこの「闇」を25年近くに渡ってシニョルと共有し、これを守り抜く為に荒事を繰り返してきた。この秘密を守る為に、既に公爵家の家僕が数人命を奪われている。
いずれも女主人の秘密を知ったとか、その秘密の密会に付き合わされて口を封じられたなど「秘密の為なら簡単に軽輩の命を奪う」事に慣れてしまった女主従の犠牲者となってしまったのだ。
シニョルはその25年近い秘密の守護と言う役割において有能さを如何なく発揮していたが、その最たるものとして自らの生まれ故郷であった南東の大陸に古くから存在する《赤の民》と言う組織と接触し、その力を使う為に領都オーデルに地下支部を設置させる事に成功したのである。
赤の民とは元々彼女の故郷である南東のエスター大陸中部地域に暮らしていた赤に近い褐色の肌が特徴である遊牧系民族で、第三紀以降にレインズ王国建国の余波で周辺大陸にも波及した「建国ブーム」とも呼べる一大ムーブメントによって周辺部族に弾圧・吸収をされる際に一部山奥に逃げ延びた残党で形成された《暗殺組織》だ。
組織結成から2500年以上に渡り、南東のエスター大陸中部を中心に独自の発展を続け、大陸の興亡の裏で猛威を振るった。
鉄壁の組織化と「技術」としての《暗殺》を基にした彼らはやがて
「赤の民の肌は浴びて染み込んだ血の色」
と恐れられるようになり、歴代各国の首脳も彼らがあまりにも《有能すぎて》弾圧や討伐よりもそれを利用するようになった。こうして彼らは激動のエスター大陸で2500年以上も隠然たる勢力を張ってきた。
しかし、この赤の民には大きな弱点があった。何の事は無い、「赤褐色の肌」が他の大陸では目立ちすぎるのだ。
この世界には肌が黒い人種も居る。褐色の人種もいるし、その濃淡で黄色にも見える人種さえ居る。しかし《赤褐色》というのはちょっと珍しかった。
更に言うと、この赤褐色は色素としての優性遺伝子が強い為、他の肌色の人種と混血になっても非常に高い確率で遺伝した。
つまり「赤褐色は暗殺者の色」と言う非常に分かりやすい特徴をその雷名と共に帯びるようになってしまったのである。
赤褐色の民はその長い歴史の間に混血も増え、そういった者は時が経つにつれ広くエスター大陸に散って《暗殺業》などと言う剣呑な職業から距離を置き、穏やかな人生を選択するようになった為、現代においてはそれ程ひどい偏見は起きていない。
更に赤褐色の肌を持つ者から優れた政治家や軍事指導者等も出た為に、「赤褐色は全て暗殺者」などと言う無茶な風聞は鳴りを潜めている。これは「黒は悪魔の色」と言う無茶な教えを5000年かけて広めた挙句に異端として取り下げた救世主教と少し似ている。
しかしこれはあくまでもエスター大陸だけでの話で西にある南北サラドス大陸や東に海峡を隔てて横たわる最大のロッカ大陸においては今でも赤褐色は《恐怖》の対象にされているのだ。
シニョルはこの「赤の民の事情」に目を付けた。
シニョルがまず始めたのは、自身の《同胞》である戦時難民を主の許可を得て密かに保護し始めた事である。
難民は王都レイドスを中心に王国各地の大都市に分散して居住させられており、建国の王法で厳しく禁じられた《奴隷》と言う存在に代わり社会の最底辺の仕事をさせられながら、明日の希望も見出せないままに暮らしていた同胞たる彼らを各地から救出させ、自分の下で組織化させた。
この時点で彼女は女主人の《私兵》言うべき存在を持つようになり、これらの勢力を以って次の目的へと進んだ。
彼女の次の目的とは自身の生まれ故郷のエスター大陸に存在「している」とされている伝説の暗殺組織との接触である。その赤の民と言う存在についての話ならば幼少の頃におとぎ話代わりに散々聞かされた。そして戦乱が続く自分の国においても未だ暗躍している存在で、彼らによって敵味方共に「軍隊が動かない戦争」が続いているのだと言う。
そんな彼らにも弱点があり「おとぎ話」にもそれは描かれている。彼らの肌の色が特殊過ぎて活動範囲がこの大陸に限られてしまっている事。外の世界(大陸)ではその肌色のせいで生きていけない事。シニョルは自分の耳にタコが出来る程聞かされたこのおとぎ話を自身の計画を成就させる為に利用したのである。
自分が組織化した戦時難民の《長》として任命していた、イモール・セデスと言う忠誠心篤い男を生まれ故郷に派遣し、彼の才覚で赤の民関係者を探し出させて接触させた。そして
「肌の色が赤褐色では無い我ら戦時難民を『外の大陸の赤の民』とする」
と言う手段で彼らの外地進出を実現させようと提案させた。
彼ら赤の民との交渉は時に難航したが、イモールも自分達戦時難民が生き延びる為に必死で交渉に食らい付いた。
自分達はいつまでも主人である公爵夫人の「穀潰し」では居られない。何か貢献すると同時に、組織を恒久的に存続させて今後も戦禍を逃れてアデン海を渡ってくる同胞達の「受け皿」にならなければ、同胞はまたしても街の汚物処理をしながら這い回る暮らしに戻ってしまう。
そんな思いがイモールを支えた。そしてついに彼は赤の民の長老達との了解を取り付けたのである。イモールはこの報せを以ってシニョルの下に戻り、赤の民との交渉結果を伝えた。
・オーデルで組織化されている者の中から素質がありそうな者をエスター大陸に帰郷させて赤の民が引き取る。
・引き取った者を赤の民は訓練し、暗殺技術を伝授した上で指導者として領都オーデルに返す。
・オーデルでは赤の民の《支部》を設置させ、返した指導者を使って他の戦時難民を訓練させる。但し、暗殺技術に関しては技術の漏洩等を防ぐ為に伝授する者は厳選し、その者達は公爵夫人の配下ではなく赤の民の所属とする。暗殺技術を伝授させない者にも諜報術等の関連技術を学ばせる事で人材の活用を図りつつ党勢を拡大させる。
・「赤の民オーデル支部」は独立採算制を目指し、オーデルだけではなく北サラドス大陸全体に渡る浸透を目指す。その際に組織を特定の国家に帰属させてはならない。
・ヴァルフェリウス公爵夫人は共同出資者として組織利用における優先権を与えるが決して帰属させる事はなくあくまでも独立組織として扱わせる。
・上記の契約は公爵夫人の子息の代においても継承させる。
と言う契約内容をシニョルに提示し、エルダとシニョルによる諮問を経て、正式に契約を締結させた。
これによってイモール・セデスは《赤の民オーデル支部》を束ねる事になり、早速同胞の中から素質のありそうな者を選んで故郷へと修行の旅に出させた。
修行がモノになるまでに何年も待たなければならなかったが、先に諜報技術を修めた者が帰還し、まずは《諜報集団》として赤の民領都支部は活動を開始した。
諜報は各貴族家や大商人などにも需要があり、やがて支部に仕事と報酬が入り始めるとエルダも負担が続いていた援助が軽くなり、ようやく数年にも及ぶ自己勢力の完成に目途が付いた。
やがて帰還した暗殺技術を修めた者が指導者となり、戦時難民達は組織によって暮らしが楽になり《暗殺員》も増えていった。
シニョルが秘密の「後始末」を初めて組織を使って行ったのは、実に彼女が組織設立を思い付いて同胞を集め始めてから14年の月日が経った頃であった。
これによってエルダとシニョルは国内最強の暗殺組織を手駒として自由に使えると言う《権力》を手に入れたのである。
そして更に十数年の月日が流れ、シニョルはエルダの命により組織を使って「アリシアの抹殺」を謀ったのである。
ジヨームに対して制裁による効果を最大限に与える為に、懐妊発覚の当日夜にいきなり組織の暗殺者を投入した。
しかし……アリシアは信じられない幸運により、この「奇襲」を回避した。
これにはシニョルも、実働部隊を率いていたイモールも驚いたが、幸運はそう何度も続かないとばかりに何度も襲撃を試みた。しかし、アリシアはこれも全て回避してみせたのだ。
この際、シニョルやイモール、果てはエルダにとって不気味に思えたのが、襲撃が回避されるだけで襲撃者が撃退や捕縛される事無く全て生還し、失敗による被害を全く出さなかった事が、特にエルダの神経を逆に削る事になった。
何しろ彼女には時間による制限がある。失敗続きで「時間切れ」になれば中絶によって夫によるアリシアへの耽溺が再開され、中絶すら不可能になればアリシア出産へと繋がり、排除目標が増えるばかりかいらぬ警戒が増える恐れもある。
エルダはここに……《荒事》によるアリシア排除を断念したのであった。
ではどうするのか?このまま排除を諦めると言う選択肢は有り得無い。何故なら、アリシアが子を産んだ場合にその後の成り行きで30年近く守ってきた秘密の闇が露見する恐れがある。エルダにとっては、これは何としてでも避けねばならぬ事なのだ。
アリシア排除を目指してエルダとシニョル主従が次に考えた手段はエルダの実家経由でジヨームに圧力をかけると言う奇策である。
「ジヨーム・ヴァルフェリウス公爵はエルダと言う歴とした正妻がおり、既に子息を二人儲けて後継者としているにもかかわらず、結婚21年目の初老の域で何を血迷ったか若い娘に手を出し懐妊させるという将来に渡って公爵家の相続にあえて自らヒビを入れる愚挙を犯した。
将来の禍根を絶つ為にも騒動の元となっている娘を追放しろ」
と言う何とも強引な論法を用いてアリシア放逐の為の運動を起こした。自らの生存問題を将来における公爵家の内紛という問題にすり替えて王族や他の関係貴族をも巻き込んで藩屏の頂点に君臨するヴァルフェリウス公爵家に圧力をかけた。何とも思い切った事をする女主従である。
しかし、これら貴族社会に薄く広く展開させた運動が功を奏した。ジヨームはそもそもが無気力な質で、自分が名門公爵家として無能であると言う評価に反発するような気概も持た無い、本来ならば「無害」な人格を持った男である。いつのまにか広がっていた貴族社会からの一斉攻撃に彼は折れたのだ。
かくしてアリシアは公爵屋敷から追放された。但し、この件によって夫ジヨームの妻エルダに対する嫌悪は決定的となり、以後夫婦で毎年二度行っていた領地巡回も行われなくなった。
それどころか屋敷の公館と奥館の間の廊下の人員配備を増やして夫人とその手の者を公館側から締め出すような動きを採るようになった。公爵夫妻は法的な関係だけになったのである。
この公館内における情報収集力が低下したのも、後の騒ぎに影響した。エルダ側は、アリシア放逐という結果だけに満足してしまい、その後の彼女の動向に対する追跡が「おざなり」になってしまったのだ。やがて彼女達にもたらされたのは
「アリシアが出産で命を落とした」
と言うものであり、これを聞いたエルダは狂喜して安心してしまった。アリシアの死だけを聞いて出産の成否確認を失念してしまったのだ。
こうしてエルダの脳裏からアリシアと言う存在はいつしか忘れ去られてしまう。
本来ならばシニョルがアリシアの情報について最後まで詰めるべきだったのだが、彼女の放ったダイレムへの間諜は全てアリシアへの襲撃時のように「躱されて」しまったのだ。
結局、エルダとアリシア主従は「始祖さまの守護」と言う存在に最後まで気付く事なく《ルゥテウス》と言う存在を見逃してしまった。
そして月日は流れた。アリシアが命を落としてから2年後、公爵夫妻とは逆に、成婚当初から仲睦まじい事で知られ、子が産まれ無いにもかかわらず側室すら立てなかった国王と王妃の間に待望の一子が誕生した。
新生児は女子であったが、シーナと名付けられ慎重に育てられた。幸いにして体が弱いと言うわけでもなく無事に生後7ヵ月目で王室は女子出産を正式に発表し、国内は漸く国王の後継者を得た喜びに沸き、それに伴い貴族同士の蠢動が始まった。
実はマレーナ王妃は商人の家の出身であり、王太子時代の国王が「王立士官学校」に進まず「王立官僚学校」に進んだ際に官僚を目指していたマレーナと出会ったのである。王室にしては珍しい恋愛結婚で、これは国民、特に平民層から熱狂的に支持された。
通常、レインズ王国程の大国ともなると王太子は高等教育機関に進学する15歳になる頃までには婚約者が内定しているものなのだが、当時の貴族社会が足を引っ張り合ってお互いの王太子妃候補を蹴落とし合った結果、王太子が婚約者も決めぬままに進学してしまい、よもやの「商人出身」と言う伏兵にしてやられる事となった。
本来ならば、このような決定に対して父王や母王妃から多少なりとも掣肘が加えられてもおかしく無いのだが、先代国王夫妻も聡明な事で有名であり、学生としても極めて優秀であったマレーナと王太子の婚姻をあっさりと許可したのである。
一説では王太子妃候補擁立を巡って貴族同士の醜い争いを見てそれを忌避した王妃がマレーナとの婚礼を積極的に進めたとも言われている。
かくして、前回の轍は踏むまいと貴族達はシーナ王女が嬰児の期間を終えて健やかに育ち得ると判断出来た頃には早くも将来の王配候補の擁立に動いた。
何しろ王女はまだ3歳にも満たない嬰児である。余りにも早過ぎるのではないかと一部の者は思ったが、前回は「遅過ぎて」王太子を城内から出してしまった。
その過ちを繰り返してはならない。レインズ王国は男女の権利が別段意識する事なく平等で、王位はもちろん、臣下においても軍人や官僚に能力さえ適えば女性でも平民でも普通に重用される。
王都の二大高等教育機関である王立士官学校で男女比6対4、王立官僚学校は5対5と言う、入試至上主義、席次至上主義を採っていた。
「優秀な者ならば身分や性別に関係無く」と言う超が付く能力主義が徹底されているのだ。
なぜこのような制度が可能なのかと言うと、《貴族》と言う制度世界と《職制》と言う制度世界がきっちりと分けられており、官僚や軍人として平民や女性がいくら出世して長を極めても、それは貴族にとっては全く別世界の事であるし、建国時の王法が極めて厳格である為に官僚側が自分達の都合に合わせて法改正を行うという事が一切許されていなかったからだ。
いわば《祖法絶対主義》でもある。
普通ならば「よくもそんな硬直した社会で3000年も統治が続くな」と疑問に思われるのだが、実情は「まさにその通り」だ。
王国はその歴史において何度も崩壊の危機に瀕している。
にも関わらずこれまで続いているのはヴァルフェリウス公爵家の存在によるものが大きい。
王国の藩屏として頂点に存在するこの建国以来の大貴族家は数百年に一度、世の常識を覆すような圧倒的な力を持つ逸材を輩出する。
この出現した《黒い公爵さま》がそれまでに溜まりに溜まった貴族世界の、官僚世界の、軍人世界の汚物を全て押し流すのだ。
黒い公爵さまに隠し事は通用せず、腐敗貴族は最悪家ごと抹殺される。腐敗した軍政府は軍ごと粛清される。官僚も同様だ。
なぜこんな無茶が通用するかと言うと、黒い公爵さま自身は別段秩序を無視しているわけでは無い。
その理想とした建国の祖法に従って王国の掃除を国王すら抗え無い程の圧倒的な力によって実行するだけなのだ。全てを合法的に。
なのでこれに対して時の国王も掣肘を加える事は難しい。その気になれば黒い公爵さまの方が圧倒的に力は上なのだ。
彼の行動に同意出来無い「暗愚な王」ですら場合によっては排除の対象となる。
要するに「誰も黒い公爵さまを実力で止められない」のである。
数十年に渡って国内の澱と言う滓を洗い流した黒い公爵さまが「お隠れ」になり……次代の凡庸な公爵が後を継ぐ頃には社会の掃除は全て完了し、清冽な社会で公爵家に報復が加えられる事は一切無い。
こうしてレインズ王国は3000年もの間沈みかけては自己修復を繰り返す不思議な超大国として世界に存在し続けている。
しかし、この不思議なバランス国家には《穴》が存在する。それはつまり祖法絶対主義と言う国是は王室でもなく、暫くすると腐敗してしまう社会システムでもなく「たまに出て来る黒い公爵さま」と言う一臣下の存在で担保されている事だ。
これまで3000年間。どう言う法則で出現するのかは不明だが、国の土台がそこそこに傾いてくるとヴァルフェリウス家から黒い公爵さまが出現する。そして土台を築き直し、ついでに社会のゴミ掃除をして行く。
ではもし、ヴァルフェリウス公爵家から黒い公爵さまが出現しなくなったら……?
更には黒い公爵さまがいつも通りに王国を救ってくれずに見捨ててしまったら……?
この深刻な質問に答えられる人間は現在世界に《一人》しか居ない。
しかも、その人物は最早質問に答える気すら無いし、質問をさせるつもりも無い可能性がある。
なぜならば、その《回答者》にかつては一番近い存在であった当代のヴァルフェリウス公爵自身が自分の立てた陳腐な「王配計画」の失敗に憤慨し、愚かにも手中の玉に気付かず回答者を放り出してしまったからだ。
認知もせず追い出した女が産んだ男子の存在を思い出して、シーナ王女への王配として再利用しようなどと言う分を弁えない計画の破綻が、巡り巡って回答者の怒りを買った。
この一連の愚行がきっかけとなり結果として「唯一の庇護者」を失った回答者は現在、ヴァルフェリウス公爵家に対して著しく悪印象を抱いている。
しかし彼はまだ回答出来る力を薄皮一枚で封じられている為に事態はそこまで深刻では無い。
問題はこの「最後の薄皮」を敢えて剥がしに行こうとしている者が存在していたと言う事だ。
エルダは一年前、突然これまで長い間対面すらもしなくなっていた夫から対話の申し込みを受けた。彼女自身は過去に行ってきた後ろ暗い所業を弾劾されるのかと警戒したが、その内容は意外なものであった。
「シーナ王女が成長した暁には王配としてアリシアの産んだ男子を送り込みたい」
過去のアリシアへの遺恨を水に流してこれに協力して欲しいと言うのである。
「あの死んだアリシアが男子を産み残していた……!」
エルダは戦慄した。あれからもう5年も経過している。つまり残された男子は既に5歳になっているはずだ。5歳ともなれば両親からの遺伝的容姿が顕れ始めるには十分な年齢だ。
その子は父に似ているのか。母に似ているのか。どちらにしてもエルダにとっては拙い状況だ。
自分の息子は父親似どころではなく「他人似」なのだ。
男子が父親似であるなら自分に似たその子に愛着が湧く可能性があるし、アリシアに似ていればその愛着は一層大きくなるだろう。そこにあの二人の息子が比べられる事になったら……。
久々に顔を合わせた夫からの提案を一旦保留してエルダは考え込んだ。しかし側近のシニョルはこれに対して楽観論を述べた。
「奥方様、むしろ好機ではありませんでしょうか。その男子をそのまま王室に押し付けてしまえば公爵家とは縁が切れますでしょう」
なるほど。言われてみればその通りだ。王室入りすれば二人の息子の地位は安泰であるし、国の祖法によってヴァルフェリウス公爵家出身の配偶者に王位継承権は与えられない。つまり王配になっても形式的なもので公式の場で頭さえ下げていれば彼に実権は無いのである。
「いいでしょう。それではあの男の提案を飲みましょう」
かくして、エルダは公爵に対してアリシアの男子に対する認知を許した。
本来ならば、認知の是非など公爵家当主の専権事項だ。わざわざ正妻とは言え配偶者に相談する必要など無いのだが、公爵は気の小さいところがあり、未だに妻の実家に対して気を遣っている節がある。
しかも今回に関してはその実家の力も運動に使いたいとの申し入れである。エルダとしては自分の息子の為にも、夫と共に実家とその周辺を一緒になって説得する事に決めた。
公爵はエルダの承諾を取り付け、勇躍してエルダの実家とそれに連なる財務閥、更には宮内閥に頭を下げ回って自分の認知予定の男子をシーナ王女の将来の王配に据えるべく精力的に動き回っていた。
……それがどうだ。肝心の男子が障害児だったとは。エルダは夫の不首尾を嘲笑ったが、頭の回るシニョルは違った。
「奥方様。状況は一変致しました。つまりあの女の産んだ男子が未認知とは言え生存している事が判明しているのです」
「うぅむ。そうであるな……」
「この件に関しては私めに不手際がございました。もう少し徹底して遺児の存在を確認すべきでございました。謹んでお詫び申し上げます」
「ふん。もうよい……今更気にしたところで仕方なかろう?」
「此度の件、責任は私めにございますれば……今度こそ責任を以って男子の排除を私めが」
「よかろう。ならば確実にな。妾はもうあの女の事には疲れた。今後一切思い出したく無いゆえ、あの女に関係する者は全て始末せい」
「かしこまりました……奥方様がそのようにお望みとあらば……」
「ただし……良いな?あの愚かな男には始末した事は気取られるなよ?あくまでも……そうだ……勝手に消えていた……と言う事に……な?」
「かしこまりました……では最早この事はもうお忘れになられて頂いて結構でございます。私めも奥方様よりご下問がございません限りこの件につきましてはご報告致しますのは控えさせて頂きます」
「うむ……わかった。頼んだぞ」
こうして、世界に回答出来得る唯一の者の最後の薄皮一枚を剥がそうとする愚か者の蠢動が始まった。
【登場人物紹介】※作中で名前が判明している者のみ
ジヨーム・ヴァルフェリウス
第107代ヴァルフェリウス公爵。48歳。主人公の実父。《賢者の血脈》を継承しているが《発現》はしておらず凡庸な男。
エルダ・ノルト=ヴァルフェリウス
ジヨームの正妻。50歳。嘗て自らの危機感から主人公の母を屋敷から追放する。主人公とその一族の抹殺を企む。
シニョル・トーン
エルダ専属の女執事。ノルト伯爵家からエルダの婚姻に同行して以来の腹心。エルダの闇と秘密を守るために《実力行動》を指揮する。
イモール・セデス
暗殺ギルド《赤の民》の幹部。領都での活動を束ねる男。